夏の日差しが傾く中で

はじめまして。企業を定年退職して2年が過ぎ、新しい挑戦にもチャレンジ中です。
常陸の旧国府である石岡市に越してきて6年が過ぎました。
歴史などに何の興味もなかった私が、この場所に来て何か古いものがとても懐かしく感じいろいろ場所を訪れるようになりました。
今は埋もれた古道を探索中です。
昨日、銚子に用事があっていってきましたが途中の大杉神社には「天狗のふるさと」の看板があり、阿波(あば)神社なども徳島阿波の関係を感じます。
また利根川の水門は朝方は海側は激しく波が渦巻いて鳴門の渦潮のようでしたが、反対側の川の流れはとても穏やかに流れ、穀倉地帯の稲も大分穂が実ってきていました。
とてものどかな風景でした。
利根川とともに常陸川の標識板がとても印象に残りました。
鹿嶋・香取に挟まれた水郷地帯はきっと昔は水運が盛んで多くの物資が運ばれたに違いありません。
成田線にある木下(きおろし)駅は昔材木を川に下ろす場所が名前の由来です。

URL:1300年の歴史の里石岡ロマン紀行

あいさつ | コメント(4) | トラックバック(0) | 2010/08/11 16:27

本牧メルヘン

今日は台風が日本海側を北上している影響で風が強く、暑さの点では助かっている。
韓国へ上陸したはずの台風が日本列島に戻ってきて大きなニュースになっている。
日本のニュースや天気予報も日本列島ばかりで隣国である韓国はニュースにならない。
もし、同じように報道していれば距離感なり我が国の立地と他国との関係などももう少し身近に感じられるに違いない。
ここ石岡も多くの百済人(要人)が自国が滅ぼされた時にやってきて土着したようである。意外に身近なところに大和民族や朝鮮半島人、アイヌ人や縄文人が住んでいたことに驚かされる。
ところで、先日NHKテレビの歌謡番組で鹿内孝が「本牧メルヘン」という歌を歌っていた。
私は生れは新潟県であるが幼い時から小学1年生までこの本牧(横浜市)に住んでいた。
1972年に発売されたこの歌はほどほどのヒットで記憶にある人は多くはないと思うが、変わった歌詞が私の小さかった時の思い出と共に蘇った。
 本牧で死んだ娘は鴎(カモメ)になったよ
 ペットのブルースに送られて  (ペット:トランペット)
 踊るのが大好きといってたあの娘が
 さびしさに耐えかねて死んだのさ
 ジョニーもスミスの泣くのを忘れて
 海鳴りに向かって歌っていたよ
 本牧で死んだ娘は鴎になったよ
 なぜかしら誰でもがそう思う
まったく寂しい歌である。作詞家の阿久悠が「あまり売れなかったが何故か愛しい歌」として選んでいる。
  URL:阿久悠「あんでぱんだん」
阿久悠はこの後大ヒットとなった「ジョニーへの伝言」を書き、ジョニーを再登場させているのである。
私が本牧で育った頃は、まだ戦後の貧しい生活があたりまえで、アメリカ兵の後についていけばチョケレートが貰えた。「ギブ・ミー・チョコレート」の英語を知らぬ間に使っていた。
アメリカ兵と付き合って派手な服装をしていた日本娘は「パンパン」などと呼んで蔑みのことばで呼ばれていた。
しかし、当時アメリカ人の屋敷が広大な敷地で一面の芝生の緑が目に焼き付いてもいる。
こちらは粗末な家に住んでいたが、うらやましいとは感じなかった。まだ家がなく海岸沿いの崖に掘られた洞穴や山の上にある御堂に住んでいた人もまだいたし、学校の同級生にもいたのである。
恐らく、ここ石岡では経験することはなかったと思う。阿久悠があえて国籍不明の(無国籍の)歌を作ったのも、またその象徴として本牧を選んだのも何か今となって感じるものがある。やはり阿久悠は天才なのであろう。
ここ石岡に来て、この町を見る感性がきっとこの頃からのものなのかもしれない。
本牧は昔海だったところは埋め立てられてはるか先に行かなければ海がない。昔は海苔などを採る漁師も大勢いたのだが・・・・・。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/12 10:24

映画「ひまわり」

台風が過ぎ今日もまた真夏の暑さが戻ってきた。
夏の花といえば「ひまわり」であるが、1970年に公開されたマルチェロマストロヤンニとソフィアローレン主演の映画「ひまわり」がある。この映画の冒頭に一面のひまわり畑がでてくる。そしてヘンリー・マンシーニの心にしみてくる音楽である。映画音楽がこんなにせつなくなるほど映像とマッチした作品を私は他に知らない。
最初に日本で上映された時にはあまり感動は少なかったが、仕事の関係でモスクワからウクライナへを回ったときにウクライナで一面に続くひまわり畑を目にしてもう一度見たくなってビデオを借りた。
そこに映し出された映像はまさにウクライナのヒマワリと同じであった。この映画は初めてロシアに西側のカメラが入ったことで話題となり、ひまわりの撮影場所ははっきりさせていない。モスクワ近郊で撮影されたと書かれたものも見ているが、まさにそれはウクライナの景色であった。モスクワでは地下鉄が川の上を渡るところやサッカースタジアムなどはまさにモスクワとわかったが、このひまわりはウクライナであると思う。しかし、旧共産圏ソ連連邦の一員から1991年に独立して、土地も住民に分け与えられ、その土地をまた大量に集めてひまわり畑にしていったと考えると、1970年当時に本当にウクライナが現在のようなひまわり畑があったのかはわからない。私の推測でしかない。映画ではこの延々と続くひまわり畑の下にイタリアやソ連などの多くの兵士が眠っているという。戦争の無残さを映像と音楽でこんなにも人々を圧倒できることに感動を覚えたのである。
独立したウクライナはロシアとヨーロッパとの間で行ったり来たり。政権により方針が定まらない。ロシア語が学校の教科書から消えたとも聞いたが、またロシア側寄りの政権ができたので今はわからない。しかしそれにしても首都キエフは美しい町だ。高台に緑の楽園が広がっているような町である。女性も多くのファッションモデルを輩出しているだけあり美しい人が多い。しかし、現実は西側の文化に憧れをもって生活しているのである。ヘソ出しルックにタトゥーなど、これも西側への憧れなのかも知れない。またチェルノブイリ原発事故の影響は北側のベラルーシ(旧白ロシア)とともに今も残っている。

海外 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/13 16:26

お盆風景

 昨日8月13日は旧盆を行っている多くの地方で、先祖のお墓を先祖のお迎えのために多くの人が訪れたと思う。ここ石岡も旧市内には多くのお寺があり、夕方から提灯を持った家族連れが歩いて市内のお墓を訪ねるため行列ができるほどであった。私のふるさとはどこになるのかはっきりしない。企業にいた時も新潟県生まれではあったが県人会には入っていない。しかし、今は東京に父が眠るお墓があり、1週間前にお墓参りをしてきた。お寺の住職に聞くと7月のお盆と8月のお盆の割合が丁度半々くらいだという。また、都会では歩いてお墓に行ける人は少なく、電車や車でいくことになる。そのため、逆にこちらのお盆の風景は私にとっては新鮮である。
お彼岸にもお墓を訪れる人は多く、茨城では、お盆と彼岸の時期が一番お花が売れるらしい。他県の倍くらい売れるようだ。こちらの特徴は、自分の先祖のお墓だけでなく、知り合いの墓にもお花を持っていくので、一人で何束も抱えている人を多く見かける。東京では聞いたことがほとんどない。また、市内にあるお寺やお墓の数もかなり多いと思う。ちょっと路地を入るとお墓がある。お盆には家を離れた家族が戻ってきて、楽しい話も多く語られるのであろう。良く言えば市内は家族的で、近所付き合いも良いが、悪く言えば、よそ者には排他的で近視眼的にしか物事を見ることができない。
街起こしをしたいと、よそから来たものが熱心であっても、なにか白々しさがあるように思うのはこちらの僻み根性かな?他所から来た者には感じられて、中に入っていて当たり前に思ってしまって感じられなくなっている部分がかなりありそうに思う。他所からの人を沢山受け入れていくか、自分たちが海外も含め、他所を見てくることが大切だ。ここで注意が必要なことは旅行者のパックツアーに行ってその土地を知ったことにならないことだ。今の中国人が多く日本に来て買い物をしていくが、これは一昔前の日本の姿でもあった。きっと現地の人の本音は見えていなかったのかもしれない。今のままでは茨城空港に降り立った外国人はこの街を素通りしていくのみであろう。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/14 15:19

真家のみたまおどり

 石岡の真家地区には平安時代から続く「みたまおどり」が伝承されている。毎年8月15日に行われる盆踊りです。朝8時に明円寺に集まり、最初の踊りを披露します。その後新盆の家をまわり、園部地区から全龍寺、最後にこの踊りが奈良の長谷寺から最初に伝えられたといわれる福寿院で午後3時頃まで続きます。今日は朝8時と時間が早いにもかかわらず、カメラマンが10名ほど集まり、ホーイ・ホイ、ホーイ・ホイの掛け声で始まりました。
みたま踊りは文化庁選定無形文化財の指定を受けており盆踊りの原型を探る上でも大変貴重なものです。地元保存会の方や子供たちが頑張って伝え残していってほしいものです。今日は朝から夏の天気で子供たちも大変です。今年は新盆3か所を含め、8か所で踊ります。30分/回くらいの結構長いものです。
この日の真家地区は献上柿の木々のまわりをオニヤンマが飛び回っていました。
みたま踊り

民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/15 11:16

代田のダイダラボッチ

 今日も1日中暑い日が続いた。例年高浜・三村地区の先にある井関地区代田の入口に藁に杉をつけてダイダラボッチを飾って無病息災を祈願する催しが行われており、今年も見に夕方出かけてきた。しかし今日はあまりの暑さで作業が遅れてしまったようで、夕方の5時前にはまだ藁人形しか完成していなかった。1年間飾られた人形は焼いているところで、これから杉を体に刺して大人形の形に作るのである。写真は昨日のものと、昔採ったほぼ完成した時のものを載せた。
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ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。

ダイダラボッチの里 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2010/08/16 18:49

丁子屋とかき氷

 石岡の中町通り(昔の水戸街道府中宿)には江戸末期の建築物である丁子屋(ちょうじや)がある。昭和4年の大火の難逃れた唯一の建物と言ってよい。昔は染物屋であったが、今は市の観光用の施設 まち蔵「藍」として使われている。今年の夏は特に暑く、店の前を通ると店の前に出した椅子とテーブルに子供たちが群がっていた。お目当ては「かき氷」で昔ながらの手でハンドルを回して氷を削っていました。なんでも100円という安さですから・・・・。今年の夏にはピッタリですね。また子供たちも私の昔の風情と変わらぬ昔風でした。まだ、石岡には駄菓子屋さんもあります。こんど紹介します。
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街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/17 19:39

製氷店

 お盆が終わったが、暑い日が続いている。今年はセミが少ないとも聞くが、我が家では多いと思う。先日は家の中にミンミンゼミが入ってきて飛び回った。また朝玄関を開けるとアブラゼミが飛んでいく。そのセミもようやくツクツクボウシの鳴き声が聞かれるようになり、秋も近ずいているように感じられる。
さて、石岡の中町商店街(旧水戸街道府中宿)入口の通りの両側に古い製氷店が2軒向かい合っており、何時商売しているのだろうと思って気になっていた。氷一貫目(3.75kg)の標準サイズで400円である。右手が「魚亀仕出し製氷店」という。名前の通り、魚店との取引で成り立っているのであろう。もう一つは藤枝製氷店(本当は酢屋氷店というようだ)は夏場以外は石岡名物の獅子頭の制作をおこなっており、店主藤枝さんはこの道の達人という。弟子も数十人いるようです。今日は店番をしながら居眠りをしていました。夏の一風景ですね。
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街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/18 19:12

笄崎(こうがいざき)地名について

 今日は曇っていたので比較的気温が上がらず、年寄りには助かりました。私も石岡の歴史に関することを少し調べたりしていますが、最近埋もれた古道について少し調べてみたいと思っています。石岡は古東海道の終点の都市と言われていますが、千葉県我孫子より石岡(常陸府中)への道がはっきりしません。終点とはいえ、石岡から水戸の先までは道がほぼ直線的につながっていてほぼわかっているようですが、昔は霞ケ浦は香取の海と呼ばれ、もっと湿地帯が多く、どこの道がメインルートであったのかが不明確です。
石岡のとなりのかすみがうら市に子安神社・胎安神社という古い神社があり、この横に鎌倉街道が通っていたと聞いてルートを追いかけた時この「笄崎」という地名にぶつかりました。笄(こうがい)とは昔の主に女性が髪を留めるのに使ったカンザシや櫛のようなものです。この場所は昔の地図でも内陸で霞ケ浦に面したところではありません。平安末期頃からその名がでてくる「江後田」部落への入口にあたります。
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上記の写真はここのバス停です。笄と聞いて思い出すのがヤマトタケル(倭武尊)が東京湾を渡ったときに海が荒れて、妻である弟橘姫(媛)が入水し波を静めた話です。この弟橘姫の笄が流れ着いたところが各地に笄崎と名前が付いているようなのです。行方市の羽生というところにも笄崎という地名があり、霞ケ浦に流れ着いた弟橘姫の笄が羽が生えて飛んで「橘郷造神社」に祭られるようになったといわれています。このかすみがうら市神立近くの「笄崎」を地図でよく見てみると、霞ケ浦の先端にある柏崎から菱木川というのがこの近くまで流れている。小学校や中学校ができこの近くの川は水路整備がされ、今は上にコンクリの蓋がかぶされ川とは気がつかないほどになっている。昔我が家の息子がこの川にサッカーボールを落としてしまった。これが柏崎の方が拾って電話をいただいたことがあります。ボールに名前と電話番号を書いていたおかげであるが、この水路があんな先まで途中で止まることなく流れて行ったことには驚かされたものだ。昔は舟でこのあたりまできていたのかもしれないなー。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/19 20:02

歴史に埋もれた悲劇(香勢堂)

 お盆明けの16日に代田のダイダラボッチを見に行った帰り道に偶然探していた場所を発見しました。私が歴史の里石岡ロマン紀行の中で「三村城秘話」で紹介して、その時に見つけられなかった「香勢堂」と六地蔵です。いつも近くは通っていたのにあまり立派な墓地となっていたので気がつかなかったようです。そこは高浜駅から石岡へ向かう上の道ではなく崖に沿った下の道です。昭和36年発行の「図説 石岡市史」に記載されていたので北根本を探したのにわからなかったものです。三村城は1573年に落城し、城主常春も落ち延びようとして城の近くで落馬し切腹し果てました。「南城実録・三村記」によれば三村城の危急を聞きつけ、府中城より軍勢300余が駆けつけたが、近くの中津川台に到着して三村城を望めばすでに城は真赤な炎をあげて燃えていました。義を重んじる軍兵206人はその場で切腹して果てたといいます。後にここに一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれて今に残ると記されています。その後、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に建てられた六地蔵が残るとなっています。高野勢堂は香勢堂とも書かれているが本来は「国府(こう)勢堂」であろうと紹介されていました。
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六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。
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上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。
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昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。
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この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/20 21:47
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