茨城の県民性

 「常陽藝文」10月号が送られてきた。今月の特集は「助さん格さんの謎に迫る」となっているが、それよりも茨城の歴史と県民性という連載がのっている。
もう6回目であるので今までも載っていたはずだがあまり記憶がない。
その中にプレジデント別冊に全国の県民性を特集しており、茨城県については「徳川御三家である水戸藩の荒々しいDNAが根付く茨城県人。もとは、怒りっぽい、理屈っぽい、骨っぽいの水戸っぽと呼ばれた三ぽい。それがいつからか怒りっぽい、忘れっぽい、飽きっぽいの茨城の三ぽいに変化した。
いずれにせよ短気で冷静さに欠けるのは否めないところ。また口べたで、なまりがきついことも誤解を招きやすく他人と衝突する原因になりがち。県民自身が自覚する運転マナーの悪さにも三ぽい気質がよく表れている。・・・」またここでは県南地方は温和な県民が増加しているとも紹介されているとのこと。
この記事は茨城キリスト教大学名誉教授 志田諄一氏が連載している一部の紹介記事で、氏も「言いたい放題でいささかしゃくにさわる」と書いておられます。
しかし、私が茨城にやってきた頃、もう35年以上も前ですが、まったくこの三ぽい気質を感じていました。車の運転などがとても荒いし、ウインカーも出さずに急に曲がる車があったり、すぐに急加速をしたがる。運転事故の件数もいつもワースト上位だったように思います。
私もその頃から運転していたが、久しぶりに東京に戻ると、皆がおとなしい運転をしているのにビックリ。いつのまにかこちらも慣らされてしまっていたのかもしれないと反省したことを思い出しました。
それでも運転の荒さはわたしの経験では大阪の和泉ナンバーの泉州 河内地区が一番怖かった思いも・・・。路肩を平気で追い越して行った。しかしこれも30年も前のことで、今は大分変ったという。
まあ、海外にはもっと荒っぽいところは沢山あった。自分では運転はしていないが、三車線でも四~五列くらいで無理やりに入り込んでくるところなども結構あった。エジプトカイロなどもそうだった。
 昔常磐線に上野駅で列車待ちで並んで、列車が入ってきたときに、順番など関係なく、窓から荷物を座席に置いて席を横取りする乗客が結構いて驚いたこともあったが、さすがにそのような光景は見られなくなった。
茨城県は何処にあるの?東北でしょ。などとよく言われるが、意外に東京に近い関東なのである。
もう少しマナーも向上させなければ田舎っぺといわれるだけだ。県民性も他の県との交流や国際化が遅れているのでいつまでも昔のイメージから脱却できないのだと思う。
2-3日前に車にガソリンを給油してスタンドから通りの反対側車線に出ようとし、丁度近くの信号が赤となったので、連なっていた車も止まってこちらが出るために止まって、譲ってくれると思ったが、目の前に平気で車を止め、一切譲ろうとしない。良く見たらまだ若い女性。あ~あ、これも県民性なのか?
携帯電話をして平気で運転している。これは道交法違反ですよ。
この性格を変えていくにはどうすればよいのだろう。
この地方は他所者との交流が少なく、段々と劣化してしまったのだろうか。
タバコが値上げになりました。茨城の女性はタバコを吸う人が結構多い。
是非、この機会に禁煙が進んでくれると良いのだが、石岡はタバコ農家も、またJT関係者も多い。どうも本気で禁煙を呼びかけたりしているとは思えない。
税金が減るのは怖いのだ。困ったものだ。
県民性もこの土浦・つくばに比べ石岡から北はどうもこの昔からの三ぽい気質が強いように思う。
私は他所からきたので、勝手に良くない県民性を述べたが、そうはいってもどこか応援したいと思っているのである。こうして歴史などの紹介もしているのだから・・・。

地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/01 19:55

花火がきれいだった

今日は一日ノンビリ過ごしたが、家内は一日中忙しく出歩いていた。
まあこの年になれば一緒にいようがいまいが別段お互いにバラバラでも気になることはないが、少々お疲れ気味のようだったので、ひまわり館にある味味亭(あじみてい)にて一緒に食事をした。
ここは福祉レストランといっているが昨年本職の料理人を入れて味も良くなったとのこと。
店の女性オーナが家内の知り合いである。
「ホッケ定食」700円であったが、とても脂がのった美味しいホッケであった。
これはお得である。昼間ならスパゲッティなども美味しいので皆さんにも勧めておきたい。
今日はお店が暇そうなので、聞いてみたら土浦の花火で皆そちらに行ってこないとか。
そうだ、有名な土浦の花火師競技会だったのだ。
私の生れは新潟で母の実家が長岡の市内であり、8月初めに打ち上げられる長岡の花火は全国的に有名で、大きな日本一の三尺玉がメインである。
私も小学生の時は毎年夏休みに長岡に行き、よく見学したものだ。
信濃川の河川敷で打ち上げられるが、長岡の市内でも打ち上げのド~ンという音が腹に響く。
小さな子どもは怖がってしまうくらいだ。
それに比べると土浦は翌年の花火師の競技会で、形や色を競うのである。
我が家の子供が小さいうちはよく近くまで見に行ったが、大変な人出であった。
今年は土浦の市制70周年ということで、大々的に行われたという。
土浦が市になったのは石岡よりも14年も早かったのである。
見物客は約80万人というから、石岡のお祭りの2倍くらいだ。
こちらも、少し花火を見学にと思ったがこれからでは終わってしまうし、道も混んでダメだということで、急遽、かすみがうら市の中央青年の家の山に登ってみることにした。
山にはすでに車が30台程止まっていたが、それでも花火はきれいに見ることができた。
土浦の市外の明かりと、打ち上げられる花火が対照的で、上から見下ろすような感じに見て取れる。
しかし、花火の音は大分遅れて聞こえてくるので、近くで見る花火にはかなわない。
少し見ただけで引き揚げてきたが、今年も花火を見たということで満足することにしよう。

食事処 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/02 22:23

太田三楽という武将を知っていますか?

 今日は日曜日、午前中に応援している風の会の機関誌の印刷、製本の手伝いをしました。
もっとこれだけの内容の濃い会報を毎月出しているのはすごいことだと思うのですが、この地方で受け入れられることが乏しいのはもったいないことです。
さて、今日のタイトルに書いた太田三楽斎資正(すけまさ)という武将を聞いたことがありますか?
この石岡の地に墓もあるのだが地元ではほとんど話題に上ることがない。
それなのに全国には多くの熱狂的なファンがいる。まあ埋もれた人物であろうか。
太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主である戦国武将として名前が知れているが、石岡の片野城の城主として間もなく入道となり、三楽斎を名乗る。
また手這坂の戦いで小田氏治を破った人物であり、はじめて軍用犬を使ったことで知られる。
軍用犬は岩槻城に近い松山城の二か所に犬を飼いならし、片方の城が攻められたときにいち早く犬を放ってもう一方の城の味方に知らせたという。
しかし、自分の城を子供に奪われ、佐竹氏に乞われて府中城と小田城との要の位置の前線で活躍している。
府中城が佐竹氏に攻められた際には、応援の要請には応えず、手出しをしなかったようである。
これは府中の大掾氏とも姻戚関係を結んでもいたことも関係したであろう。
また、落城した後の城をこの太田三楽にあずける話もあったようである。
しかし、この三楽を語る時に岩槻がでてきても石岡や片野、柿岡などがほとんど語られないのは何故なのだろうか。
最後まで上杉謙信への忠臣を貫き、謙信の死後直江兼続も高く評価していた知将して知られ、晩年には豊臣秀吉からは天下一の名将が、一国をとれないのは不思議だと言わせたともいう。
孤独な生涯を送ったともいわれ、また最後まで岩槻を奪還する野心を捨てなかったといわれています。
しかし一度石岡の片野の地を訪れ、城跡とお墓を探してみてください。
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ひっそりと山の中に眠る墓は春には桜の花が舞い、ウグイスが鳴くのどかな場所にあります。
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戦国時代を戦い抜いた一人の武将も44歳の働き盛りからこの地で戦に明け暮れ、秀吉の天下統一の8年後に69歳でなくなるまでこの片野の地にいたのは確かなのです。最後は静かな境地になっていたのではないかと思わされたのです。
地元の方に聞いてもほとんど知られていないようです。しかし、全国的にもファンが多くいるのですから近いうちに見直される時が来るように感じています。
地元には「片野排禍ばやし」(三楽が地元の禍を取り除くために始めたとされる)を一度見てみませんか。
「片野排禍ばやし」は7月の第3または第4日曜日と10月の第3日曜に地元の八坂神社のお祭りとして行われています。

八郷地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2010/10/03 17:06

クツワムシは何処に行った?

 今日はシトシト雨が降ったが、夕方から天気になった。
日暮れに外を歩いていると、虫の声があちらこちらから聞こえてくる。
その多くはコウロギ、鈴虫やマツムシなどである。
昔聞いたクツワムシの声を何十年も前から聞いていない。
大きな虫で、ガチャガチャと鳴くので目立つ虫だった。
それがいなくなったのだ。
茨城に来てから35年も経つがこちらでは聞いた記憶がない。
もともと分布は関東より南側(西側)だというので、北の方にはいないらしい。
昭和30年代にはいたはずで、私は東京の郊外に住んでいたが、家の軒先や垣根で良く鳴いていた。
戦後マラリヤや虱の駆除にDDTという殺虫剤を散布して回っていた。
この殺虫剤が殺してしまったのだろうか。
DDTなどといって、もう若い人はわからないだろうが、昭和32~33年頃まで、車で住宅街などにも時々きて、排水路などのあるところに散布してまわった。真っ白の粉であった。
しかし、人には無害と言われていたが、やはり有害となって農薬としても禁止されたようである。
DDTはディクロルディフェニロールトリクロールエタンと高校生の頃には化学記号まで覚えた。
2つのCL(塩素)と2つのフェニル基(OHがついたベンゼン角)に3つのCL基がついたエタン(Cが2個)
などとくだらないことを覚えたが、これが不思議なことに何も必要もないのに40年以上経っても忘れない。
何故なのだろうか?円周率なども中学で30ケタくらい覚えた。
英語などの記憶力は何もよくないのに・・・。
まあ本当にどうでもよいことなので、話がそれてしまったが、このDDTなるもので虫も大分いなくなったのではないだろうか。
田んぼも農薬で昔のように虫がいない。水スマシやアメンボ、ゲンゴロウなどもあまりみなくなった。
クツワムシは葛の葉などを主に食べるという。
また、環境への適応性が弱く、一度その地方にいなくなると、環境が戻っても元には戻ってこないのだそうだ。
こんなことでも自然破壊がすすんでいるんだとつくづく感じてしまうだな~。
石岡にはまだホタルもいるところがある。
是非きれいな水と自然環境は壊さずに後世に残してあげなければならない。
少しくらい不便でも良いではないか。そんなホットする安らぎの里を残したい。
真夜中まで明かりを煌々と照らしている都会はそのうちに自然から大きなツケを回されるように思う。
テレビの24時間放送など見直すべきだが、高給取りばかりのテレビ局では話題にするのもタブー。
視聴率ばかり気にしている。そんなことを言ったら次から使ってもらえない??
そんな空気を感じているのは私だけでしょうか?

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/04 19:50

筑波には何の花が似合う?

今日は日中汗ばむくらいになったが、ようやくススキの穂が出てきた。
「富士には月見草がよく似合う」と太宰治は富嶽百景に書いている。
場所は河口湖から甲府へ向かう御坂峠の茶屋である。
今は峠の道はトンネルとなって通る人もほとんどいないため、太宰の碑はトンエルの入口にあったと思う。
しかし、この道は昔の国府(甲斐)に向かう街道であったはずである。
甲斐府中は一宮御坂インターの近くである。甲府に中心地を定めたのは大分後からで、本来の甲斐府中(甲府)は御坂あたりである。
御坂峠のすぐ近くに「三ツ峠山(1785m)があり、雪がある時を含め数度登った。
とにかく富士山の絶景ポイントなのである。また岩場などもあるので岩山登山の訓練場としても知られている。
また、多少足が丈夫であれば登山は安心して登ることができる山でもある。
月見草は夏の夕方に咲く花だ。また、一般にこのフレーズだけが有名になってしまって、太宰の文章をあまり読んだことのない人が多いように思う。少しだけ抜粋しよう。
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河口局から郵便物を受取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと座っていて、女車掌が、思い出したように、みなさん、きょうは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックしょった若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆって、口もとを大事にハンケチでおおいかくし、絹物まとった芸者風の女など、からだをねじ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがって、富士には一瞥も与えず、かえって富士と反対側の、山路に沿った断崖をじっと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないという、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやった。
老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草」
そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合う。
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 もし、この話を読んでいない方がいれば、今までロマンチックに、このフレーズから受けていた感じ方が変わったように思いませんか?それとも私もこの文章の老婆の年に近づいてきているからなのか?
私も今からでも遅くないので、もう少し小説にも触れていきたいと思う。
そうしないと、ブログといえども「文章がなってない!」なんてお叱りの声が聞こえてきそうでもある。

 さて、近くの筑波の霊峰には何の花が似合うのだろうか?

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/05 20:16

水道道路

前のブログで横浜の本牧で育ったと書いた。ここはアメリカ軍の施設と、昔からの浜っ子と呼ばれる人たちが入り乱れ、そこに横浜というモダンな港町とが不思議にミックスした町であった。
しかし横浜にいたのも小学1年生までで、その後東京都東村山市の萩山というところへ越した。
東村山は志村けんさんの「東村山音頭」で名前は後で有名になったが、東京のはずれの片田舎という雰囲気であった。
今で思えば、アニメ「トトロの森」に出てくるような場所であった。
所沢や村山というところに比べ、一般には「ああ村山ですか?」などと言われたが、あまり村山に近いという印象もなく、小平や国分寺に近い場所である。
萩山はその名前の通り萩の花がたくさん咲き乱れていた林や原を切り開いてできた町であった。
東村山市の中では一番都心寄りで、国分寺や多摩湖への連絡接続駅で小じんまりした町でもあった。
このため歴史的なものはあまりなく、団塊の世代で育った私のような子供たちが一杯いた。
越したばかりは、近くに学校はなく、一駅先の八坂にある小学校に通った。
一駅と言っても1~1.5kmくらいだから意外に近く、子供時代は遊びながら歩くにはちょうど良いくらいの距離だった。
この西武多摩湖線は線路沿いに「水道道路」と呼ばれる道が走っており、道路の下を大きな水道管(村山貯水池、狭山湖、多摩湖~東京都心)が埋設されていて、車の侵入は出来ず、しかもひたすら真っ直ぐに続く道で、歩くにはもってこいであった。
土手の脇には土筆やはこべ、よもぎ、野バラ、ボケ、スミレなど四季折々で楽しめた。
最近気になってホームページで検索してみると「サイクリングロード」として紹介されていた。
そういえば昔(昭和30年代)は自動車は言うに及ばず自転車も少なかったので自転車の道という思い出はない。
多摩湖は東京では桜の花の名所で花見によく訪れる場所として西武園遊園地と共に人気があった。
また中学や高校の頃には、学校で、この多摩湖一周(約7~10km)のマラソン大会に毎年参加した。
 さて、小学校の話に戻ると、なにせ団塊世代で子供の数が多く、それも急に2倍近くにも膨れ上がったので、学校建設も必要になり、小学5年になる時に萩山に小学校が建設され、こちらに移ることとなったが、まだ小学6年はなく、分校としてスタートした。
翌年こちらが6年生になる時に正式に小学校として開校された。
そのため、5年・6年と全校での最高学年を2回やった。
そして私たちの学年が記念すべき萩山小学校の第1回卒業生となったのである。
その小学校が開校50周年を迎えている。早いものである。
私は私立中学を受験して、中高一貫校のため、6年間国立(くにたち)に通った。
国立は中央線の国分寺と立川の中間に出来たためにこの名前となったが、その後武蔵野線が開通して西国分寺の駅も出来た。
団塊の世代で受験も大変であったが、学校もクラス数が一挙に増え、対応にてんやわんやであった。
確か1学年5クラスが8クラス位になったように思うが、今から考えると先生方もさぞ大変だったろうと思う。また1クラスは今のように30人などではなく40~50人くらいいたと思う。
大学受験なども団塊世代の前年度の人(2年前)は後ろが大勢いるから皆現役で入学しなければといってあせっていたが、団塊世代の真中の私たちはもうどうにもならなかったのであった。
今から思えば、勉強も競争も、懐かしい思い出である。
その団塊世代がこうして定年を迎え、「やれ年寄りが増えて大変だ」とか騒がれて邪魔者扱いはいくらなんでもないよね。
意外にこれからも日本の救世主になるやもしれませんよ。
皆、まだまだこれからだと思っているのです。
私だって新しいことにもチャレンジ中です。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/06 21:36

武蔵野の俤(おもかげ)

 子供の頃の話の続きです。
東村山市萩山町は武蔵野に残った雑木林の一部を切り開いてつくられました。
そのため、あちこちに雑木林が点在し武蔵野の俤(おもかげ)を色濃く残していました。
家から小学校までは5分位でしたが、途中に両側が雑木林でした。
林といっても、こちらのような薄暗いイメージはなく、子供でもその中に入っていくのは何も怖いイメージもありません。それよりも地面にはいろいろな野草やボケの赤い花、野バラの白い可憐な花などが咲いていてとても好きでした。
林の中には小道がいくつもあり、どれをたどっていってもどこか明るい原にでたり、人家のある畑にでたりすれば方角はすぐにわかります。
主に広葉樹で冬は葉は落ちてふっくらとした絨毯になります。
そこにドングリなどの木の実が落ちて目を出す。そんな繰り返しです。
昔読んだ国木田独歩の「武蔵野」にとても感動を覚え、ああこうだったな~などと思い出すのです。
自然主義などと言われますが、文体もそのころの私にはオシャレにも思えて少し真似て見たりもしたのです。
武蔵野の一部を抜粋して載せます。
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九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌(きら)めく、――」
九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日――「秋天拭(ぬぐ)うがごとし、木葉火のごとくかがやく」
十月十九日――「月明らかに林影黒し」
同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出(い)で野を歩み林を訪う」
同二十六日――「午後林を訪(おとな)う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
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まさにこの通りです。
私にも文才があれば、今の石岡も何か表現できるのかもわかりませんが、如何せん才能がないですね。
萩山小学校も創立50周年とのこと。学校の脇は西武所沢線が走り、その向こう側には都営「小平霊園」の敷地が広がります。昔はのどかでこの線路を渡って霊園に良く行きました。
夏はカブトムシやクワガタが良く採れました。秋は野生の栗の実が拾えるのです。
今は開けてきたのでこのようなことも段々出来なくなったと思います。
ところで、萩山は近隣の町に比べてあまり発展を遂げていない。石岡駅と同様に人によっては寂しい町だと思われるかもしれない。でもこの小さな萩山駅の乗降客数でも日に1万人以上です。
一方石岡駅の利用者は年々減って今では日に約5~6千人程度しかいません。
あんな小さな私鉄の駅に及ばないのである。一昔前には1万人程度の乗降客はいたと思うのだが・・・・。
これだけ銀行や郵便局の本局まであるのに、人を呼び込む魅力がない。
情けない話ですね。
ところで、石岡でも昔育った人に聞くと、総社の湧水(おみたらし)でザリガニをとったり、山王川であそんだりした自然豊かであったといいます。
まだモリコーの屋上に象さんの滑り台があった頃といいますから、そんな昔ではないですよね。
私が石岡にやってきた6年前にはもうモリコーの屋上もなく、コーキも西友も無くなっていましたので、昔がわかりませんが、昔は良かったというばかりではどうにもなりません。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/07 20:42

サッカーも勝って良かった。

大分秋らしくなってきました。まだ紅葉には早いが、気分はもう秋本番に近いです。
この間まであんなに暑かったのをもう忘れているのが不思議なくらいです。
人間は辛いことなども早く忘れるようにできているので、暑さや寒さも気温が変わればもう忘れてなかなか思い出せなくなるのですね。
 今日は日本のサッカーがアルゼンチンに記録的な勝利をおさめました。
昔は日本ではサッカーは人気がなかったのも嘘みたいです。
30年近く前にイタリアに行ったときに向こうはワールドカップの話題でいっぱいでした。
そして、今では日本人も多くがヨーロッパなどで活躍できるようになりました。
昔から思えば嘘のようです。
 ドイツのドルトムントの名前も本当に懐かしく聞きました。香川が活躍しなければ恐らく日本ではほとんど話も出てこない都市です。
もう20年くらい前に、この工業地帯にある企業に行ったことがあります。
その頃ドイツでは一般の店は午後6時頃に閉まってしまいます。
開いているのはレストランなどの飲食業くらいでした。今はどうでしょうか。
ドルトムントでは地方の町でもありそれ程開けた感じではありませんでしたが、あるレストランに入ると私たちを見た地元の年配の方が声をかけてきました。
「君たちは英語をはなすのか?」と英語で・・・。
この辺りはあまり英語を話さないようでした。
あまり英語も得意ではないが「少しだけ・・・」というような会話をし、こちらから何がおいしいのかを聞きました。ここのスープが美味しいとのことで、お勧めのスープを注文しました。
それは恐らく「オニオングラタンスープ」なのですが、これが美味しかったのです。
それから、日本でも時々思い出して食べて見るのですが、どれも違っていました。
ドイツでの思い出はこのスープとドイツビールですね。
今回の試合相手のアルゼンチンも行く予定でしたが、他の仕事でいけませんでしたが、ここのステーキは最高だと聞いています。食べたかったが残念ですね。
世界各国美味しいものがいっぱいあります。でもしばらく外国にいると日本の料理が恋しくなります。
ロシアにいた時もモスクワでは半分近くは日本食レストランに行きました。
すし店が高級食としてブームで、日本人にそっくりなカザフスタンの方の人が日本人のまねをしてやっていますがどこかおかしい格好です。
今回のサッカー日本選手の11人の先発メンバーの半分以上が海外組でした。
スポーツの世界の方は大分国際化が進んできたのに、こちらの地方はどうなんでしょうか・・・。
英語が喋れなくてもいいのです。海外にも目を向けましょう。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/08 22:21

三村地区「下ノ宮遺跡展」

 今日は一日冷たい雨になりました。
月曜日にイギリスに嫁いだ長女夫婦が帰ってくるので少しは家の中の片づけもしなければなどと思っていましたが、あまりはかどりません。まあ年に1度くらいでも帰ってきてくれるのでそれだけでいいです。
まあ日本食が好きなので日本食を食べに帰るのが目的のようです。
むこうで、来る前から何処に行って何を食べたいなどと計画しているようです。
さて、今日、私のブログにコメントをいただきました。
その中で、市役所で三村の下ノ宮遺跡遺跡のミニ展示会をしていると教えていただいたので早速行って見学してきました。(10/17まで休日も開催、無料)
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市役所の玄関を入った正面に小さなショーケースが三つの本当のミニ展示会です。
mimuraiseki2.jpg
縄文時代の土器など数点ですが、大変興味を持ちました。。
場所は常磐線を挟んで三村小学校の反対側です。三村常春公の眠る五輪塔の近くです。
この辺りには古墳もいくつかあり、高浜の堤防工事などに古墳も削られたと聞いています。
また、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州征伐にやってきて、正月を迎えたという「正月平」も近くです。
この辺りに5000年程前から人類が住んでいたのですね。
先日、美浦村の陸平(おかだいら)貝塚にいきましたが、霞ケ浦周辺にはまだまだ縄文の遺跡が眠っていることでしょう。発掘調査の方は本当に大変ですが頑張ってください。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/09 17:10

尾花散る師付の田井

 今日は朝かなり激しく雨が降ったが昼前から天気になった。
そこで思い出して万葉集に歌われた志筑にある「師付の田井」にいってみた。
ススキの穂があちらこちらで目立つようになったので「尾花散る」と詠われた場所がどのようになっているかを見て見たかったからである。
五百羅漢で知られる、かすみがうら市の志筑の長興寺の脇を通って木々の茂みの道を下ると一面に田んぼが広がる。ここが「師付の田井」です。
万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・
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以前来た時は看板のある場所まで道もなく、田んぼのあぜ道を危なっかしい足取りで歩いて行ったが、今はきれいな道が敷かれ、手前には5-6台止められる駐車場も完備されていました。
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左側にはきれいな水が絶えず流れ、昔から水の豊富な場所であった証しでもあります。
尾花(ススキ)はこの碑の廻りだけに植えられていたが、やはり尾花と一緒が良いですね。
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この場所から筑波の峰は見ることができない。上の写真では左側の木々に隠れているが、もっと先の方にいけば見ることができる。昔はこの上を雁が飛んでいたのでしょうか。
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この石碑の裏側にこんこんとわきだしている井戸があります。これは「鹿島やわら」といい、昔から水が湧き出しており底がなく鹿島神宮までつながっているとまでいわれています。
一度長興寺という一風変わったお寺の見物と兼ねて訪ねて見てほしいと思います。
私も、昔「長興寺」の看板を見た時には、「こんな所のお寺なんて」と少し馬鹿にしていたのですが行ってみて驚きました。
とてもユニークなお寺です。今でも鶴見さんという芸術家が石像を彫っています。
かすみがうら市の人にもほとんど知られていないのが残念です。

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/10 15:07
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