石岡小学校校歌

 風邪は治ったと思っていたが、どうもぶり返して昨日朝起きたら体温が37度位あった。
そこで会社の隣りにある診療所にいき、薬をもらってきた。
今日は1日休んで家でノンビリと過ごすことにした。
それにしても病院は皆元気のなさそうな年寄りが多い。
知り合いも多くいたが家にゴロゴロしていたらどこも悪くなくても悪くなってしまうかもしれない。
今は熱も下がって大丈夫そうだが「良く休め」といわれているようなものかもしれない。
昔から、夏休みの始まりや終わり頃に学校が休みの時に扁桃腺炎でよく熱を出して休んだことがあった。
大きくなったら扁桃腺炎などはなくなったが、よく過労がたまると熱を出すことがあった。
身体の安全弁のようなものだと考えて、その時はできるだけノンビリ過ごすようにはしている。
今は昼間の温かいところでこのようにブログが書けるので心配はいらない。

 今日「藝文」12月号が送られてきた。「校歌の描く風景」特集号となっていた。
茨城県の22の小学校校歌とその中に歌われている景色の写真や解説が載っている。
石岡は「石岡小学校」1校である。
また芸文の紹介タイトルは「古代以来の歴史のまちに高まる郷土意識」である。

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この校歌が制定されたのは昭和26年(1951年)である。
しかし、その前に「石岡国民学校」とされた戦中の昭和18年に作られた校歌が載せられていた。

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戦中の校歌は時の文部省の認可を受けており、当時の事情を反映したもので、現代にはそぐわない。
これを現代に合わせて新しい校歌を作ったという。
作詞の大木惇夫は広島出身で東海林太郎の「国境の町」などを手掛け、作曲の細谷一郎は茨城県の出身で多くの校歌を作っているそうである。
芸文で紹介された内容では、旧校歌の戦時中は疎開児童を受け入れ3000人もの生徒がいたそうである。
今は365人というので、それ程は多くはない。
昔国衙が置かれ、府中城として使われた敷地も度重なる史跡調査で運動会にも苦労したそうで、良いような悪いような?
まあ、私の卒業した小学校は団塊の世代であり、急激に増えた生徒を受け入れるために新設され、
記念すべき第1回目の卒業生となった。これも良いのか悪いのか?

「疲れたら休めと野の花のいふ」
私も時々、脚本家、朗読舞創始者の白井啓治さんのこの一行文を思い出す。
私も休みながらいこう。
 

地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/01 17:25

笹竜胆

昨日は風邪で休んで家でノンビリ過ごした。
家に一人でいると電話がかかり、出たら「○○保険の××といいますが、73歳までの
保険のご案内をしています。資料をお送りしましたので・・・。ご主人様は何年
生まれでしょうか?」まったく不躾で失礼な電話だ。
話も聞かずに断ったが、電話番号を電話帳に登録しない人の気持ちもわかる。
断ると、何かこちらも後味の悪さが残るのである。困った世の中だ。

 さて、今日はタイトルに書いた「笹竜胆」についてである。
竜胆はリンドウのことで中国語のリュウタンがリンドウと聞こえたのでこのリンドウとなったという。
笹竜胆(ささりんどう)はリンドウの葉が笹の葉に似ており、リンドウの花と笹の葉をあしらった
家紋を「笹竜胆」というそうだ。

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家紋などに詳しいわけではないので良く分からないのだが、これが源氏の系統を示す紋だという。
私が、このことを知ったのはかすみがうら市の「胎安(たやす)神社」にいった時である。
神社の紋に使われており、このいきさつを紹介されていた。
そのホームページはなかなか詳しく歴史などを紹介しており、宮司の方のブログもあり、熱心さが
伝わってきます。そのホームページから一部を転載させていただきました。

「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。 
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」

源義家とは八幡太郎義家のことであり、奥州征伐は2度行きましたが、最初の「前九年の役」です。
この時はまだ源氏に従うものはそれ程多くはなく、大分苦労したようです。
この近くの正月平などの地名の由来などにもなりました。

胎安神社はこのように古くから伝わる神社ですが、あまり知られていません。
名前からわかるように「安産祈願」「子授け祈願」などが主体です。
石岡の誇る「総社宮」でも「はらおび」などはこちらのものがわたされているようです。

ホームページにもありますが、昔鎌倉街道がこの胎安神社と子安神社の間を通り、国分尼寺へ
続いていたと書かれています。
石岡(府中)のどこを通る道が鎌倉街道なのでしょうか。
現在国道6号線があるため、道が良くわかりません。
石岡は平家発祥の地だという。
しかし、昔は平氏と源氏が対立する関係にはなくお互いが仲間になったり敵対したりしていた時代です。
2度目の奥州征伐に源義家が兵を挙げてやってきた時(後三年の役)はかすみがうら市の
草原に四万騎の馬と兵が集まり「四万騎」の名前が地名となり、石岡に来た時は五万に増え
「五万掘」の名前が残ったといわれています。
 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/02 19:47

舟塚山古墳

 昨夜から今朝は大雨で大変であったが、昼から天気となった。
しかし気温が生温かく何か変な陽気である。
茨城には竜巻注意報がでたとか。今も風が結構強く吹いている。
今日は石岡が誇る「舟塚山古墳」について、少し書いてみたい。
石岡の名所案内には必ず出てくる名前なのだが、私が隣町に長く住んでいた時には
一度も聞いたことがなかった。地元では有名でもそんなものなのだろう。
この古墳は東日本で2番目の大きさだとなっている。しかし1番目がどこか、また
日本でどのくらいの規模かは何処にも記載されていない。
ネットで調べてみると、東日本での1番目は群馬県太田市の太田天神山古墳で全長210m
で日本全体では27位。舟塚山古墳は全長186mで日本では46番目だという。
さすがに関西が多く、1位は仁徳天皇陵で486mなのでかなり規模は違います。
ただ、100mを超えた古墳は東日本ではそれ程なく、かなりの豪族のものと考えて良いでしょう。
また5世紀後半のものと推定され、仁徳天皇御陵などと似た特徴があるという。

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<舟塚山古墳は霞ケ浦に漕ぎだすような形から「入船」と呼ばれ、上からは筑波山が良く見える>

さて、この時代にこの地を支配していた豪族が大和朝廷とつながっていた??
これを裏付けるためには、内部を発掘すべきですが、現地に書かれた案内板には気になる記述があります。

「舟塚山の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。」

一体どういうこと??
この舟塚山古墳の周りには沢山の古墳があり、古墳群となっています。
昭和47年に周辺の確認調査が行われ、円筒埴輪や、木棺、短甲、直刀、盾などが出土し
これらは風土記の丘の有料資料館の中に展示されています。

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舟塚山古墳本体の発掘調査はどうやら出来ないでいるようですね。
やっても、もう何も出ないことがわかっているのでしょう。
実は盗掘も穴が見つかったりしているそうです。
また、地元も人に掘らせて、酒を与えて蓄えこんでいる人がいるのでは?
などという噂も聞こえてきます。
歴史的にこの地がどのような豪族が住んでいたのかを知るとても貴重な国民の財産です。
噂だけなら良いのですが・・・・。
地元の歴史ボランティアの方などに伺っても、あまりはっきりした回答はありません。
しかし、古墳に詳しい人に聞けば、全国で盗掘の被害がない古墳は少ないらしいです。
中世に掘られ、装飾品や刀などは売り飛ばされたり、溶かして再利用され無くなった
場合も多いとも聞きます。
さて、残念ながら舟塚山も被害にあっていると考える方が一般的な考えでしょう。
今、この古墳近くを国道のバイパスが通るための工事が進められています。
昔舟塚山の上は松林だったといいます。松くい虫でやられ、すべて切り倒されて
今のような芝生で覆い、筑波山や霞ケ浦が眺められるようになっています。
一度登って昔をいろいろと想像してみてください。
昔は霞ケ浦は海だったのですよ。海水が入ってきていたはずです。
イルカやサメ、クジラもいたかもしれませんね???
白井啓治さんの「霞ケ浦の紅い鯨」(クリックするとpdfが開きます)を読んでみてください。
 

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/03 19:04

親鸞750回忌

 来年は親鸞聖人の750回忌にあたり、東本願寺、西本願寺のそれぞれの会派で、記念の
法要行事が始まっている。
また各地で親鸞展などが企画され一大イベントが行われようとしている。
親鸞聖人の関東での布教についてはまだ未知なことも多く、知られていない事も多い。
石岡にも親鸞聖人ゆかりの史跡や寺が多くある。
私もこの地に来るまで、親鸞の関東での布教活動などについて何も知らなかった。
もう少し声を大にしていろいろなところで宣伝がなされても良いように思う。

市としても親鸞展や旧跡を回る企画ツアーなどを是非やってほしいものだと
今年の春に市長さんあてのメールで提案したが、お返事すらいただけていない。
正岡子規の万屋跡の碑も提案して7カ月以上経ってしまった。
そしてとうとうNHKの「坂の上の雲」は2年目の幕が上がってしまった。
子規は病気で死んでしまう(1902年)ので時間がない。
日露戦争は1904年だから、この話は子規が無くなった後も続く。
来年も続くが子規はもういない。虚しさのみがこみ上げてくる。

大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の看板はいいですね。

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この看板のおかげで、その内容を調べてさらに興味が深まります。
しかし、一般に観光客はお寺と、そこの京都桂離宮を模した庭園「裏見なしの庭」を巡って帰っていきます。
親鸞の時代は鎌倉幕府の始まりの頃です。
一時親鸞は架空の人物ではないかとの学会論争が起こったといいます。
それ程直筆の書物などが残っていないようです。

大覚寺のすぐ横の「弁円懺悔の地」や板敷峠の「弁円護摩壇跡」などを訪れる人はほとんどいないというのも不思議な気もします。
史跡としての整備がなされていないためかもしれません。
またこの「法難の遺跡」の看板だけでは人が理解できていないのかもしれませんね。
続きはまた明日とします。
今日は東京でまた大学時代の仲間と飲み会です。
仲間は6人程ですが、大会社の副社長や役員、また大学の教授などおり、私は全くの落ちこぼれ組。
でも必ず毎年参加しています。
これからの第2、第3の人生をどう生きるのかを少しですが考えていければ充実した日々が送れる
と思っています。
 

親鸞と茨城 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2010/12/04 15:30

親鸞750回忌(2)

 昨日は大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の立て札について書きだしたので、今日はその続きです。
親鸞は師法然と共に都での布教が危険とみなされ都を追放となり、法然は四国、親鸞は越後で流人生活をおくり、やっと都へ戻ることが許されたのですが、親鸞はすぐには戻らず、関東での布教活動を行いました。
その拠点となったのが稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。

 しかしこの地方には山にこもって修業をして信者を集めていた山伏達がいたのです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて呪い殺そうとします。そして、この峠を越えて府中(石岡)から鹿島神宮の方によく親鸞が通っていたのを待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけました。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。この事件が法難です。

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大覚寺の門をくぐると右側に大きな石岡市指定保存樹「ヤブツバキ」と説明看板があります。
そのすぐ左に石で組まれた囲いとすぐ近くに古木が天板を置いた状態で保存されています。
そこには「親鸞聖人説法石、天蓋樹」の石碑が置かれています。
親鸞上人はこの石に腰かけて、辻説法などをしていたのでしょうか。説明はなにもありません。

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ここ大覚寺を過ぎて車の通る街道を少し登ったところに「史跡板敷山」の看板です。この看板は茨城県教育長の銘が入っています。
この看板のある手前を右に山へ入る道があります。
これが昔の板敷峠を越える道でした。しかし、この道は整備が不備で藪を漕がねば進めません。
しかし入口の横から左の山の中に入れば道は比較的整備され、板敷山の頂上へ続いています。

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先ほどの旧道を少し進むと1分ほどで開けた広場のようなところにでます。
この広場には「山伏弁円懺悔の地」の石碑が建っています。

歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」

これは弁円が親鸞の弟子となり、各地を布教して歩いていて、この場所を通った時、昔ここで師と仰ぐ親鸞に危害を加えようとしたことを悔い、懺悔をしたといわれています。

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板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
ここには下から登ることもできますが、現国道の峠を越えた所から右側に山へ上る道があります。
車も入ることができますので一度訪れてみてください。旧道には大きな「板敷峠」の碑もあり、わかりやすいと思います。またそこから山の尾根へ続く道にでれますので登ると八郷の町や加波山の山並みなどが素晴らしい景色が広がります。
この道はハングライダーの車が結構とおりますので、ライダーの人だけに景色を占領されるのももったいないほどです。

親鸞と茨城 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/12/05 18:24

親鸞750回忌(3)

 さて、今日は昨日の山伏弁円についてもう少し調べてみました。
弁円についても生まれなどはいくつかの説があるようです。
幼い時に三井寺(滋賀県大津市)にはいり播磨坊弁円と称したとされ、平清盛の孫で平家滅亡の時に四国伊予に落ち延びてとする説があるといいます。
はっきりしたことは不明ですが、この播磨坊弁円を常陸太田に居を構えていた佐竹秀義が招き、塔の尾(現在の常陸大宮市東野)に祈願所法徳院を構え、山伏など修験者約800人が集まっていたというからかなり大きな道場があったとされます。
弁円が親鸞を襲ったのは親鸞49歳、弁円42歳の時です。
 弁円は親鸞の弟子となり「明法房」の名前をもらいます。
親鸞には24人の弟子がおり、24輩と呼ばれています。明法房は19番です。
嘉禄二年(1226)明法房は楢原山法徳院法専寺を創建し、建長三年(1251)73歳で往生して旧法徳院跡地に葬られました。現地には「明法房の塚」として碑が建っています。

明法房が読んだ歌として、昨日の懺悔の時の歌ともう一つが知られていますので載せておきます。
  
   あだとなりし 弓矢も今は 引きかえて 西に入るさの 山の端の月

さて、明法房が創建した寺(第19番)は額田の上宮寺とされています。
上宮寺は明法房が69歳の時に建てたが、これを明教房に譲り、思い出の石岡の真家村に一宇を建て、明法房の明と弁円の円の字をとって「明円寺」としたとされる。

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この明円寺は弁円の寺であるが、他の2つの寺に比べあまり知られていない。
市でももう少しPRした方が良いと思う。

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真家のお盆祭りである「みたまおどり」は平安時代から伝わるもとして知られるようになってきたが、現在は8月15日の朝、この明円寺から始まる。
現在の明円寺は昔はもっと山の上の方にあったが、津波に流されて下の方に建て直され、また火災にもあったとされます。

また明法房が亡くなったことを聞いた親鸞は「かえすがえすもうれしそうろう」と手紙に残されたという。
親鸞の教えが少しわかるようなエピソードです。
 

親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/06 21:45

親鸞750回忌(4)

 さて、来年が親鸞の750回忌ということで、本願寺派などでは大々的な行事が行われようとしている。
今春(5~6月)に五木寛之氏の「親鸞(上巻)」が電子書籍として無料公開された。
電子書籍元年といわれるように話題もあってかなりのアクセスがあったという。
私も試してみた。上巻のみの公開であったので、比叡山を下りる時までを描いており、それなりに面白かった。
しかし、下巻は買わねばならず読んでいない。
上巻の流れは面白かったが、何か読んでいて物足りなかった。
親鸞を人間くさく描くとこうなってしまうのかもしれない。

 今日は昨日の続きということで、親鸞のかかわったとされる話を2つ紹介します。
一つは石岡市高浜にある「爪書阿弥陀堂」である。

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話は、親鸞が高浜の岸から霞ケ浦を舟に乗り、鹿島神宮へよく通っていた時の話です。
この地に「腫れもの」で悩む一人の男がおり、親鸞が介抱すると腫れものもなくなり、痛みも無くなってしまった。
感激した男が、親鸞に未来の禍いも取り除いてほしいと懇願すると、「庭の石には阿弥陀如来が宿っているので、それを信心するが良い」と言って去って行った。

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男が庭石を調べてみると、うっすらと爪で書かれた阿弥陀如来の姿が浮き彫りになっていた。
これを、阿弥陀堂を建立して代々守ってきたというのである。

もう一つは小美玉市にある「喜八阿弥陀」と「経塚」である。

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さて、こちらの話は与沢地区に住む豪族の長島喜八の妻が三人目の子をみごもった時、難産のために亡くなってしまったのです。
そしてその妻が夜な夜な枕元に現れ夜も寝れれなくなったという。
この時に近くを通りかかった親鸞上人をお招きして、亡き妻の霊を静めてもらった。
妻の霊を静めた場所が経塚として残され、長嶋家には親鸞の書いたとされる絵画が三幅残されている。

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この絵画は県指定の有形文化財とされ、今でも長嶋家個人の所有となっている。
さて、真贋の程ははかりかねるのだが、ほんとうであれば、個人の所有は如何なものかと思いますね。

二つの話は似ているようだがかなり違う。高浜は「腫れもの」であり、キリスト教などにも出てくるライ病を連想させる。
腫れ物と言えば、小町伝説で、石岡の北向観音にお参りした時の病も腫れ物だったように思う。
一方喜八の方は妻の亡霊である。これは親鸞が幽霊を静めるのに長い間通い詰めたとされる鉾田市にある「無量寿寺」とも関係があるのかもしれない。
この寺には「幽霊図」があるという。
しかし、長嶋家はこの地の豪族であるというのも何か解せない。

ともかく、与沢は石岡と鹿島方面の海とを結ぶ街道の拠点であった。
塩が運ばれた道でもあったという。
このような見方をしてふるさとも見てみると違って見えてきます。
また参考までに脚本家白井啓治氏の「塩の道余話」を読んでみてください。
とても面白いです。ふるさとを見直してみたいですね。
この話に出てくる倉数の「潮宮神社」は与沢から少し行ったところにあります。
古木が根をむき出しにし、傾きながら聳えている姿はとても不思議な景色です。
一度見てみてください。このような場所を私は他には知りません。

 

親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/07 20:19

親鸞750回忌(5)

 さあ、親鸞聖人の750回忌が来年に迫っている。
これだけ続けて関連事を書けば少しは記憶の残るかもしれない。
関東には24輩という弟子が建てた寺があるが、天台宗などに比べどこも派手さはない。
今日は、このテーマを最後にするが、石岡にこの24輩の第四番 乗然房領海の建てた「如来寺」がある。
場所は柿岡の市内中心部に近い。

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写真で見たとおり古ぼけた山門が残されている。
この如来寺には聖徳太子の浮足の像という木像が残されていて、親鸞は師としては法然と聖徳太子を崇拝していたという。
もともと自ら宗派を興すつもりもなかったというが、後に弟子たちが宗派を興し、またいろいろな会派が
できているという。

注目すべきは、この如来寺は元は霞ケ浦湖畔の美浦村木原にあったという。霞ケ浦からは光り輝く如来様などがみつかったという言い伝えなどがいくつか残されており、ここにも似た伝えがあるという。
美浦村木原は現在のテキサスインスツルメントがある場所に近い。
また、面白いことに石岡では「茨城」のなまえの起こりとなったとされる「黒坂命(くろさかのみこと)」が、北の方(十王町)まで攻めていき竪破山(たつわれさん)で亡くなり、黒前神社に祀られているが、「死んだら霞ケ浦の見える美浦の地へ葬ってほしい」と言い残していたため、遺体は「輪轜車」(霊柩車)で黒前山から美浦に運ばれたという。(美浦村に残された話)
葬送は赤や青などの旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見えたという。当時の人はその様子を「幡垂(はだしで)の国」と呼んだ。
後に美浦村の地を「信太(垂・しで)の国」というようになったというのである。
黒坂命の墓とされる古墳が大塚地区にあり、弁天塚古墳と呼ばれる。

木原-大塚-陸平(貝塚)などと続いており、古代が意外な形でつながっていますね。
信太小太郎伝説なども残されています。
これには平将門の子供がここで生まれたとする話などが残っているのも面白いですね。

さて、親鸞の草庵は小島と稲田が有名ですが、もう少し北の方(城里)に「大山草庵」があったという。
あまり訪れる人は少ないようですが「阿波山上神社」の入口に碑が建っています。
 
城里の地には手前に悪路王(アテルイ)の面(首)が残されているという鹿島神社もあります。
 

親鸞と茨城 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/12/08 20:06

銚子にまた行ってきました

 今日は友人の車で銚子のある会社へ行ってきました。
朝方は曇っていましたが、天気も良くなり気持ちの良い日になりました。
昼飯に美味しいものを探して、また銚子漁港に行き、前回は「常陸」という店に入りましたが
今回は地元の常連さんが入っていく姿が見えたので「久六」という店に入りました。
その店で一番高そうな「きんめ鯛刺・揚定食(刺身、づけ、フライの各品のセット)」2350円を
奮発(実は友人のおごりでしたが・・・)しました。
 味は大正解。刺身は脂がのってとてもとろけるようです。
お店の方に聞くと、きんめ鯛は年中あるが、今の時期くらいから美味しく、春先にはもっと脂がのってくるとか・・・・。
また是非食べたいです。今日はまた伺った会社の社長さんから、別にお魚をたくさんもらってきました。
しばらくは美味しい魚が食べられそうです。

 さて、銚子の駅前は石岡と同じく電線の地中化が行われてきれいですが、町を歩いているのはお年寄りがほんの少しだけです。
これは石岡と変わらない? いやもっと寂しいくらいです。
醤油と魚だけではあまり町の活気には結びつかないのかもしれません。
どこも町おこしは大変なのでしょうね。

ネットで調べてみると、先ほどの「久六」はゴールデンウィークなどでは行列ができる店だそうです。
今日は平日だからでしょうか。客は4組くらいでした。ラッキーだったのでしょうか?
年配の女性の方が食べ方なども親切丁寧に説明してくださり、人気のほども頷けました。

銚子は風が強く風力発電の風車があちらこちらに20本以上あるでしょうか。
近付くとやはり怖いくらいです。
低周波の振動やうなり音などの問題もあり、街中近くにあるとやはり異様な光景です。
帰りが遅くなりましたので、今日書こうと思っていた内容はまたあす以降にとっておきます。
 

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/09 20:31

頑張る「いすみ鉄道」

 千葉県を走る「いすみ鉄道」の話題がラジオなどで時々とりあげられる。
「なかなか頑張っているな」とその都度思う。
2~3日前にキハ52(125号車)というJR大糸線を走っていたジーゼル列車を譲り受け、それが到着したとのニュースであった。
もともと鉄道ファンなら良く知っているのであろうが、生憎私は何も知らないに等しい。
しかし、JR職員ともども第3セクタで受け継ぎ、社長を公募し、また運転手になりたい人を公募した。
給料が少ないだけではなく、訓練費用を自分で負担しなければならないというのに、ロマンを求めて何人かの応募があったという。
先日は、古くなった電車の車両を売りに出した。これも買い手が決まり、今はお色直し中という。

今度の日曜日(12/12)にこのキハ52の撮影会と記念のキップ発売が発売される。
菜の花畑を走るローカル列車というチャッチフレーズで、それが風景とマッチして絵になるのである。
第三セクター(地方自治体)が経営を引き継いだのは1987年(昭和62年)という。
しかし、毎年多額の赤字続き。もう後がないところまで追いやられた。
そこで、2007年暮れに社長を公募し、バス会社社長が社長に就任した。
しかし、1年後、吉田氏は千葉知事選に立候補を表明して辞任。また社長を公募した。
応募したのは123人という。これも話題になった。
「けむりまんじゅう」の発売。ムーミンをあしらった列車の運行。
こんどはキハ52や駅弁の販売などいろいろと話題を欠かない。
外資系航空会社の部長から社長に選ばれた鳥塚社長もブログでの情報発信をしている。
応援するスポンサーも増えてきているようだ。
これからも目が離せない。

それにしても、これを考えると鹿島鉄道の廃止は残念な思いが強くなってしまう。
 

地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/10 20:40
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