上曽峠と上曽宿

 石岡(府中)から柿岡の街を通り、真っ直ぐ真壁の町に続く県道7号線は、昔の主要な通りであった。
真壁側から石岡(府中)に行くにはこの上曽峠峠を越えていく必要があったのである。
その峠を越えた所にできた宿場町が上曽宿で、古い町並みが今でも残されており、旅籠の看板も2件そのまま残っている。
歴史を調べてみると、かなり古くから重要な街道であったという。
昔は霞ケ浦の高浜から柿岡までは恋瀬川を使って舟運が発達していたようで、柿岡から真壁・下館方面への荷物の運搬はこの柿岡まではこの上曽峠を越えて馬で運びました。
このため、この上曽宿には多くの旅籠があり、馬止もありました。
また山中に、鎌倉時代の猿壁(さっかべ)城跡があり、小田氏の子が上曽氏を名乗ったといいます。

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宿場から上曽峠に向かう。 ここから道がくねくねとした上りとなる。冬場は凍結して危ない。
現在この峠にトンネルを作る計画が進行しているが、筑波方面と結ぶ「朝日トンネル」は工事が大分すすんでいるが、こちらはまだ着工に至っていないようである。

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今でも立派な塀と門をを持った家が多くみられる。

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旅籠「えびすや」さんの看板をそのまま残している。

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「えびすや」の建物もそのまま残され、昔の宿場が思われる。

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昔の街道の面影が残る通りである。長屋門の立派な構えの屋敷です。

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上曽宿の中程に「一言稲荷神社」があり、赤い旗が目を引きます。
神社には「筑西市」や「下館市」などの奉納者のお名前が多い。こちらの方面の信仰の神社なのか?

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宿場の中に「足尾神社の鳥居」が残されています。写真の後ろの方に見えるのが「足尾山(万葉集では葦穂山)」です。
この鳥居の横の大きな石標は昔の道標で正面に「西まかべ道」右側には「あしを道」と書かれており、裏には「享和甲子歳三月」と書かれています。調べると享和4年(1804)3月に作られたものだそうです。かなり立派なものですね。
足尾神社は山頂に神社があり、足の病に効くと言われていおり、筑波山と加波山の中間に位置する神社だ。
この神社も天狗でも知られ、面白そうなのでまた別途調べてみたい。
 

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/01 19:29

小幡宿

 昨日が少し暖かかったが、やはり今日は寒くなってしまった。オーストラリアではハリケーンが猛威をふるいそうだ。穀物の価格が心配になる。気候変動は毎年異常さが増すようなので、今後どうなるのだろう。
ガソリン価格も急に上がってこの先もっと上がるような気がしている。
景気が上向いたような気は全然しない。
 さて、今日は「小幡宿」を紹介しましょう。小幡宿といっても旧水戸街道や中山道の宿ではない。八郷地区にある小幡である。
この集落は昨日紹介した隣り集落の上曽地区よりもかなりおおきな集落であったといいます。
ここが発達したのは、府中(石岡)の町から柿岡を通り、筑波神社への参拝の街道途中にあった町のためと、色々な産業が行なわれてきたためであろう。
筑波山に登ることはかなり昔から行われていたようだが、この道がもっとも古いようである。
筑波への参拝の街道については別途紹介するとして、この小幡にも古い家並みが残っています。

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1月の雪がまだ残っている時に写真を取ったので、この時はこの先の十三塚から筑波への道は急坂で少し狭いので凍結しているので危険と思ったのでいかなかった。

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ここも宿場として宿屋もあったと思うが、現在その形をそのまま残しているところは少ない。
石蔵もあり、大きな家も多い。この先の十三塚は果樹団地といわれ、八郷地区一番の果樹栽培地である。
また右に曲がれば湯袋峠を越えて真壁の町に出られる。

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 長屋門であろうか、昔はこの門には門番用の用人の住む部屋や馬の納屋もある門だったのだろう。

昔ながらの家並みが残っていると、とても懐かしくホッとするのは何故なのだろう。
日本の各地に知られざる家並みが多く残っている。
そこには、そこの生活や歴史が詰まっている。
そんなところにスポットを当ててみたいと数年前から考えてもいるが未だに実現していない。
身近にも多くの家並みが壊されずに残っているとうれしいですね。

石岡の特産品として水車製法でつくる「杉線香」や「弓の矢」の製造など昔からの伝統を受け継いでいるところもこの小幡地区である。またの機会に紹介したいと思います。

 明日はまた仕事で銚子に行く予定です。
 
 

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/02 19:42

古渡(ふっと)

 今日は銚子にまた出かけてきました。また港の食堂で金目のさしみ・フライ・づけなどのセットを食べてきました。本当に美味しいですね。一番脂がのるのは3月~4月頃といいますので、またその頃に来れたら食べてみたいですね。場所は前回と同じ「久六」さんです。
12月に来たことを覚えてくれていました。うれしいですね。

 さて、今日は途中にみつけた地名「古渡」をFUTTOと道路標識に付けられています。「ふっと」です。
読み方が難しいですね。こういう時にはなにかあるということです。
一緒に行った友人が北海道出身なのですが、この地名をみて「この漢字は当て字だな」というのです。
「北海道にはたくさんこのような地名があり、大体見当がつく」と言います。
そこで、帰ってきて少し調べ始めたら、これもまたおもしろいのです。
場所は先日紹介した大杉神社(阿波アバ、あんば様)の少し手前、稲敷市です。美浦村の少し先になります。
 ここは昔「古渡村」といい、霞ヶ浦の水運で江戸時代までは、非常に栄えていたところだといいます。
また、この古渡には昔からの「祇園祭り」があり、夜8時頃になって神輿が霞ケ浦に入る湖渡御が行なわれる行事が行われていたといいます。しかし最近は夜に湖に入るのは危険なため、湖には入らずに水をかけあう行事に変わったといいます。

 歴史をたどると「古渡城」なるものがあったようで、北条氏滅亡後、戦国時代末期に徳川家康が家臣の「山岡景久」に古渡1万石を与え、この景久が築城したといいます。その後、織田信長の家臣の丹羽長秀の子・長重が西軍に味方して所領を没収されていたが、1603年にここ古渡(ふっと)1万石で入ります。
しかし、この丹羽氏は1622年に棚倉藩(福島県)に5万石で移ったため、古渡城は廃城となったといいます。
今、この城の遺構はほとんど残っていないようです。

 さて、先ほどの地名の由来ははっきりとはわかりません。しかし、この地は縄文人の住んでいた地であり、必ずこのような地名は縄文語(アイヌ語)が係っていると思われます。

調べてみると「古渡」(ふっと)は、アイヌ語で「プット(putu)」に由来し、出口を指す言葉ではないかという考え方が載っていました。
地形をみてみると、小野川が霞ヶ浦に注いでいる場所です。流れの出口となっています。
また「信太古渡(しだふっと)」と書かれた地名もあります。昔のこの地は信太郡です。

現在も、古渡の入り江は水路のように長く、景観がとても美しい場所で、霞ケ浦湖岸でも一二を争うくらい美しい場所だそうです。茨城百景に「古渡の湖畔」が選ばれています。
今度はこの湖畔を散策してみたいと思います。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/03 21:56

匝瑳(そうさ)

今日は立春だが、最近のテレビなどはあまりこの行事を言わなくなった。節分も豆まきよりも恵方巻などとよくわからない行事がいつの間にか行なわれるようになった。
今日のニュースもほとんどバレンタインデーの話題(逆チョコだの友達チョコなど)だ。寂しいですね。

 さて、今日も昨日の続きです。
銚子の駅の近くの交差点の道路標識に「匝瑳」と言う地名が書かれていました。何て読むのだろうと興味がわき調べてみました。匝瑳(そうさ)と読むそうです。「瑳」は切磋琢磨の瑳(サ)ですから磨くと同じような意味でしょう。
では「匝」(ソウ)とは何を意味するのでしょうか?そんなことを考えてこの匝瑳市のホ-ムページを見てみました。
この市は、平成18年1月23日に八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併した時に、名前を住民投票で選んだのだといいます。難しい字を選んだものですね。
ホームページにはこの地名の歴史が紹介されていました。下記の抜粋させていただきます。
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匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良東大寺正倉院に伝わる庸調(「ようちょう」朝廷に納めた特産物)に見られる天平13年(741年)の記録が最も古いとされています。
匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内の豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(さふさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。

匝瑳の語源については、諸説あって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。
 なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで“匝(めぐ)る”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで“瑳(あざ)やか”あるいは“瑳(みが)く”と読み、あざやかで美しいという意味があります。
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 さて、何が面白いのかと言われそうですが、とても面白いです。この漢字も当て字ですね。
布佐、総、麻、阿波、粟などどう見ても忌部氏などとの関係をおもわせるのですが、物部氏がでてきました。日本(やまと)の国を治めていた? 藤原家により記録もどこかに消された?謎に包まれた物部氏です・・・。

また、同じホームページの中に面白い記事を見つけました。
「曾我兄弟」の墓がこの匝瑳市にあると書かれています。何故?? と思いますよね。
富士の裾野での仇討事件は伊豆の源頼朝の周辺の話だと思っていたのです。

書かれていた内容を概略下記に転載させていただきます。
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源義朝が平治の乱に敗れ、その家臣である鬼王七郎左衛門も東国に落ち、今の匝瑳市山桑に逃れた。
七郎左衛門には鬼王丸・団三郎の二子があり、共に父の遺命で伊豆の河津祐泰(ひろやす)に仕えた。祐泰には十郎・五郎の二子があり鬼王丸は五郎を、団三郎は十郎をお守りした。

 安元二年(1176)祐泰は、伊豆の狩り場で工藤祐経に殺された。十郎・五郎兄弟の母親は、後に曽我祐信に嫁ぎ、曽我の姓を名乗ったあとも、鬼王丸・団三郎兄弟は引続き曽我兄弟に仕えていた。

 建久四年(1193)、富士の裾野の巻狩りで工藤祐経を殺し、父の仇を討ったが、十郎は討たれ、五郎は捕われた後に殺された。鬼王丸・団三郎兄弟は、十郎・五郎の遺骨を携えて山桑に帰り、ねんごろに葬ったという。現在でも鬼王家の墓地には曽我兄弟の墓がある。

 なお、曽我物語で、十郎の妾として登場する大磯の虎御前が、この山桑を訪れ鬼王家に七年間も滞在し、曽我兄弟の冥福を祈ったといわれている。万町の福善寺には、虎御前が用いたうちかけがあるという。
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さあ、どこまで信用できますか?ここには虎御前も出てきます。
よっぽど有名だったのですね。

ひたちなか市の「虎塚古墳」に「十五郎穴」にも曾我兄弟の話がもっともらしく語られる程、この仇討事件が有名になっていたのでしょうね。
それにしても知らないことがこんなにも多いとはインターネットの威力はすごいですね。
 
 今度の日曜日には美浦村の陸平(おかだいら)文化センターで「石岡」のことば座の朗読舞い(白井さん、小林さん)と美浦村のモダンバレー(柏木さん)に行方市のオカリナ奏者(野口さん)のコラボレーション公演が行われる。皆その地方を大切にし、活躍をしている人たちだ。本当に楽しみです。

午後2時からです。入場無料ですので皆さん一度見て、聞いてくださいね。(^_^)~


  

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/04 20:56

水車杉線香

 明日は午後2時から美浦村の陸平(おかだいら)文化センターで「陸平をよいしょする会」主催の「縄文の森コンサート」が開かれる。ここに石岡で生まれた芸術「朗読舞い」の「ことば座」が招かれて公演する。見に行く予定だ。入場無料だし一度皆さんにも見てほしいですね。
 
 さて、今日は石岡の伝統産業「杉線香」を紹介します。
 
 石岡市小幡は先日紹介した筑波山(神社)へのもっとも古くからある登山道へつながる道にある。
ここ小幡は比較的大きな村であったようだ。
明治の初めの頃にあった小幡村は、明治22年の町村合併で、それまでの小幡村を含む近隣の6つの村が合併してできた。
さらに昭和30年に小幡村を含む8つの町や村が合併して八郷町となり、2005年に石岡市と合併した。

この昔からの小幡村は、かなり古く江戸後期にすでに線香などの産業が始まったといわれている。

 線香作りが始まったのは150年ほど前の江戸末期といわれ、日光で始まった杉線香作りが、日光の工房が火災(2軒)になり、新たな製造場所を求めてこの地に移り住んで始めたといわれています。

記録によれば、明治から大正時代にかけて、10軒以上の水車小屋があったという。
水車は流れの急な水流を利用して動力とするものだが、線香以外にもそば粉を挽いたりする業者が集まっていた。
しかし、現在では線香を製造するところはニックン紫山堂さんと駒村清明堂さんの二軒のみとなった。

また今でも水車を動力としているところは「駒村清明堂」さん1軒だけである。
創業は明治時代で、100年以上同じ製法で線香作りを続けている。

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地元の杉の葉を良く乾燥させたものを使います。樹齢50年以上の杉が良いそうですが、この辺りも年々材料の調達も苦労されているように感じます。
材料の調達は秋から冬に1年分を確保するようです。それを冬場にこのように蓄えて、乾燥させると茶色くなってきますね。

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すぐ裏手には恋瀬川の源流から引きこんだ清らかな水が勢いよく流れています。とてもきれいな冷たい水です。

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この水を直径4.3mの水車の上から勢いよく流してゆっくりと回します。
水車の周りには氷がついていました。また少し前に降った雪も残っています。

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この水車は丈夫なマツ材を使っているということです。全て自然に優しい材料ですね。
小屋の中は今回見れませんでしたが、水車で杵を動かし、丁寧に時間をかけて(1.5日~2日)杉の葉を細かくついて行きます。水車でゆっくりと砕いていくことで、香りが逃げないとのこと。
その細かく砕いた杉の粉をお湯を加えて練ると自然に固まるため、糊などを使わないそうです。

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線香の色は自然の杉の色。乾燥させた杉は茶色です。緑色の線香は着色したもののようです。
このような伝統的な技法で作り続けていくことは大変なことですが、是非頑張っていってほしいものです。
 

民芸品 | コメント(14) | トラックバック(0) | 2011/02/05 18:52

縄文の森コンサート

 今日は美浦村の陸平(おかだいら)文化センターで石岡の「ことば座」の公演に行ってきた。
素晴らしい公演でした。
 
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美浦村で始まったこの縄文の森コンサートも今年で13回目だそうです。
70~80人位の方が来られました。村全体で文化を大切にする気持ちがあふれていました。
石岡にもこのような温かなぬくもりがほしいです。

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最初はことば座の「ふるさとの風にふかれて」。ふるさとにふく風を感じながら小林さんの手話舞いです。

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 白井さんの朗読にちびっこバレリーナが舞います。白井さんも少し勝手が違っていますが、少し若返ってでしょうか?

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今回は美浦村在住のモダンバレーダンサー柏木さんの舞いとのコラボレーションが実現。

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小林さんの手話舞いと柏木さんのモダンバレーで「縄文の舞い」を表現します。
それにしても柏木さんのモダンバレーで縄文の舞いを表現しています。すごい迫力です。
私は圧倒されてしまいました。

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最後は行方市に住む野口夫妻のオカリナとパーカッションでした。何時聞いてもオカリナの音色は素晴らしいです。四国沖の海底4000mの土から焼いたオカリナ、ここ陸平の土で作った土笛などの音色も本当に楽しいです。
上の写真は陸平貝塚の貝殻で波の音を表現してオカリナと合わせています。縄文の森にふさわしいですね。

 最後に皆で野口さんの作られた「山百合の里」をオカリナ演奏に小林さんの手話をつけて皆で合唱です。
こられている多くの方が手話でカエルやホタルの手話をする姿は楽しかったです。
今度は3月6日(日)に石岡のギター文化館で公演があります。
 

ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/06 19:08

弓矢(矢竹)

 先日水車の杉線香を紹介しましたが、今日はまた伝統を受け継ぐ「矢羽根」の製作を紹介します。
場所は先日紹介した小幡地区です。昔の筑波神社への参詣道「府中街道」につながる道の途中にあります。

 フルーツラインを小幡の信号で山の方に入るとそこが小幡宿で、真っ直ぐ進むと十三塚を経由して筑波山の風返し峠へいけますが、冬場は一度雪が降ったりするとほとんど通行止めとなります。
途中から右に「ゆりの里」方面に曲がる道があり、この道は先の方で湯袋峠を越えて真壁へいく道と左に曲がって先ほどの「風返し峠」に続く道に分かれます。こちらは比較的なだらかなので通行は大丈夫です。

 さて、今日紹介するのは小幡宿の「ゆりの里」方面に曲がるすぐ手前にある家と、曲がった先の白鳥神社の裏手の2件の家で作られていました。
石岡市のHPの紹介によると「小池貢」(五代目義行)さんと「助川弘喜」さんの2人の方だそうです。

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 竹を独特の形に束ねて、半年ほど天日で乾燥させます。矢を作るのはさらに半年ほど寝かせたものを使います。

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弓の矢作りは県内でもここだけだそうで、この地区は日本でも最高の矢竹の産地といわれており、その品質は定評があるといわれています。

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矢竹を良く乾燥させ、長さ・重さ調整する技術は大変なもので、熱して真っ直ぐにする作業だけでも本当に熟練の技だといわれています。

この地区で矢竹の生産が始まったのは、笠間藩士の小池半之丞義高の子、義行(嘉永元年生れ)が、明治になって禄を離れて糧を補うためこの地で始めたものだといいます。
義行が笠間藩の江戸屋敷の家老をしていた時に知り合った、徳川公の弓矢職人である大森政長をこの地に呼んで手ほどきを受けたことにより始められたとのことです。
 
 素晴らしい職人の技を残していかなければならないのですが、石岡の町ではあまり知られていません。
すこしでも知っていただければいいですね。
  

民芸品 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/07 18:19

筑波古道-府中街道(東山地区)

 筑波山登山の古道はいくつかあった。
現在北条から神社へ真っ直ぐに登る「つくば道」が「日本の道百選」に選ばれ脚光を浴びているが、これはまた後に紹介するとして、今回はもっとも古くからあったという「府中街道」を紹介したい。
 常陸の国府石岡(旧府中)の町から筑波山に登るもっとも近い道で、万葉の頃から通っていた道であった。
これは、石岡(府中)から柿岡宿→小幡宿→十三塚→風返し峠→東山→筑波神社のルートであった。
現在パープルラインができ、この道の筑波山側は道を辿ることも難しく、今では東山地区に僅かな面影を残すばかりである。
下の地図で東大地震研究所前からパープルラインへ行く道は現在なさそうだ。またパープルラインを横切って風返し峠までの道は途中に白滝神社があり一部は辿ることもできそうだが私にはその根気はなかった。

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神社の正面から東側の日枝神社へまわりその横の石段を東に下りるとそこが東山地区である。
昔この地区はこの府中街道があった時までは筑波神社参拝者でにぎわったという。
府中街道は天狗党が筑波で挙兵した時に藤田小四郎などが府中(石岡)からこの道を通ってきたというので、明治の初めまでは結構人が通っていたのであろう。

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上の写真が神社から見た府中街道入口である。左に行けば筑波山(女体山)山頂に行ける(白雲橋コース)。

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入口部の道しるべ

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この「女体山」の石標が入口部に残してあった。

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東山地区は道は狭いが石畳のきれいな道が続く。

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昔の面影を残す家並みも多い。

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梅の木などもあり、一度散策されるのも良いと思う。しかし、道が狭く車でくると置くところに苦労しそうである。
また、この先は段々と山道に入る。また東大の地震研究所の観測所が近くにあるが、何の標識もなく現在観測が行なわれているのかもよくわからない。
途中に興味のあるスポットもあったので、また明日に続きを書きます。
 

筑波古道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/08 19:27

筑波古道 - 府中街道(2)

 今日は朝からまた寒くなりました。雪はそれ程でもないのですが、それでも筑波山は登山には向かない日です。
今、会社へ実習に来ている外人さん数人が、今度の休みに筑波山に下から歩いて登りたいといっていましたが、止めたほうがよさそうですね。

さて、昨日は筑波府中街道の東山地区の街並みをお伝えしましたが、この道を歩いてみると今まで筑波神社に来た時とは違った景色が見えてきました。
今日はこのことを中心に少し紹介します。

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東山集落の先を行くと東大地震研究所筑波観測所のところに出る。この観測所は看板も消えて読めない。
石段が山の方に続いているが、鎖で通行止めとなっている。
この入口の横に石碑が置かれている。

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ここ東山出身の方がこの府中街道の記憶を残す目的で建立したようで、その経緯などが書かれている。

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街道の途中に「筑波六井」である「香の井」があった。今は井戸を残すために屋根が付けられ、扉が付けられていた。

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扉をあけると中に井戸があり、きれいな水がたたえられていた。
しかし、その説明板には、水を飲料とするには煮沸することを勧めていた。

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石碑の先を少し行くと「稲荷大明神神社(稲荷宮)」がありました。入口にはたくさんの鳥居が並んでいます。きっと、願いがかなったことを感謝して鳥居を寄進したのでしょう。 

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稲荷神社は大きな石の上に鎮座し、手前には狐の石像が両脇にあります。

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また、鳥居の入口にもかわいらしい狐と二十三夜尊が置かれていました。

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鳥居は古くなると根元が腐ってくるのでこれを切って短くしたり、また新しくしたり、多くの鳥居の柱の残骸が置かれていました。

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この神社の先の府中街道は山道に入り、山の中腹まで続いています。
ここで引きかえしました。
 

筑波古道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/09 19:12

筑波古道 - つくば道 -

筑波神社への参拝の古道として江戸時代はこの道がメインであったという。
つくばエキスプレスの開通で筑波山も急に注目が集まるようになり、今では土日を問わずかなりの観光客が集まっている。
その中でこの徳川家光によって筑波山参詣の道として解放された「つくば道」がある。

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北条の辻に大きな追分石が置かれていた。「ここよりつくば道」である。

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道は「北条」から「神部」を通り「白井」を抜けて神社に真っ直ぐに向かっている。

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「右(東)つちうら、きよたき、加し満(鹿島)」。「にし(西)おふそね(大曽根)いちのや(一ノ矢)江戸」裏を見ると、この追分は正徳五年(1715)五月十七日に建てられ寛政十年(1798)に再建されたものとなっています。

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途中にある 真言宗「普門寺」。この寺は鎌倉時代末に建てられ、つくばで大勢力を持った小田氏の祈願寺として栄えたという。山門の佇まいも筑波山の景色にマッチして美しい。

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そのまま進むと、住宅街の向こうに大きな筑波山と中腹の筑波山神社の大きな赤い鳥居が良く見える。

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白井地区に「一の鳥居」が立つ。ここから先はは神社の神域になる。
この鳥居は宝暦九年(1759年)に造立され、昔は、嵯峨大覚寺門跡寛深法親王御筆「天地開闇 筑波神社」の額がかかっていたという。

ここからは急坂で車はすれ違うことのできないような道である。迷惑でもあるので、私はここで右に曲がって、筑波温泉ホテルのところへ出た。
筑波の神社周辺の江戸屋などでも十年ほど前に温泉を千メートル以上掘って掘りあて、数件で共同で使っているが、この筑波温泉ホテルはそのずっと前に同じように千メートル以上掘って当時は唯一の温泉ホテルであった。昔、神社横の江戸屋(もっとも古い老舗)さんにも温泉が掘られる前に泊まったが、この筑波温泉ホテルにも泊まったことがある。やはり本物の温泉はいいですね。
最近は日帰り温泉ばかり。温泉はタオル付きで1000円だったかな? しばらく行っていないが・・・。
  

筑波古道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/10 19:24
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