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筑波四面薬師(3) - 北面薬師(山寺)跡(その2)

今日は昨日の続きです。今日は雨ですが、山寺を訪れたのは先週の土曜日です。
まずは、周りの景色から・・・。
山寺入口の果樹園と梅の花。先に見えるのは小幡の街です。(下)

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梅もすっかり咲いて素晴らしい里山の風情です。

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十三塚地区も少し登っただけですが景色が素晴らしいです。十三塚から筑波への道は結構急坂となり、一気に視界が開けてくるので、楽しみたいのですが、冬は車は通行止めとなっています。

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さて、この北面薬師(山寺)が廃寺となっているというので何ももうなくなっているのかと思いましたが、違っていました。
この寺にあった薬師様は、現在、麓の小幡地区にある「薬王院」に安置されています。薬王院は小幡の街から、「ゆりの里」の方に右折するすぐ手前右側です。

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では、ここにあったお堂はどうしたのでしょうか?
実は府中(石岡)の街にあった国分寺が1908年に大火にあって焼けてしまいました。そこで、この山寺の山中薬師堂を1910年に移設したのです。意外に知られていないですね。

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 常陸国分寺跡に建てられた薬師堂(十三塚山寺から1910年に移設)。とても立派な薬師堂ですね。
国分寺ではお釈迦様の誕生日(4月8日)に花まつりが行なわれ、桜の満開の中で、この薬師堂の前も大変にぎわいます。こちらで大事にされているのです。

最後に、ここ十三塚の名前の謂れについて言い伝えとして残っている話を紹介します。
言い伝えの内容はいろいろとあっていくつもの話を読みましたが、その中で特に記憶に残った内容を紹介します。記憶をたどって書きますので、幾分違っているかもしれません。
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 昔、筑波山を越えて、この地に一人の旅の僧侶が下ってまいりました。辺りも大分暗くなってきましたので、僧侶は近くにいた里人に「この辺りで泊めてくれる寺などはないだろうか?」と尋ねました。
里人は、「寺はこの先にあるが、今は無住で荒れ果てているので、この先の小幡の街まですぐだからそちらに泊まった方が良い」と勧めたのでした。
しかし、旅の僧侶は「そのようなところこそ私が泊まるのに適しているところだ」と山の寺に泊まることにしました。
僧侶が寺で眠りにつくと、枕元に大きな猫が現れて、「この寺には化け物の大ネズミが住んでおります。このネズミが人を食い殺したり悪さをしており困っておりますが、私一匹ではとても敵いません。私もネズミの言うことをきかないと殺されてしまいそうです。どうかお坊様の力で、他に11匹の猫を集めてきていただきたいのです。12匹の猫でこの化けネズミを退治したいと思います。そして、お坊様の法力を12匹の猫にお授けください。」
と告げます。そこで坊主は翌日、近くから大きな猫を11匹集め、寺に連れて戻りました。そして次の夜を迎えました。
すると、夜中にものすごい大きなうなり声やドタンバタンの大音響が響き渡りました。
これがしばらく続いたのですがやがて辺りは静かになりました。
朝になって見てみると、お寺の中にそれはそれは大きな一匹のネズミと12匹の猫が死んでいました。
僧侶は12匹の猫と1匹のネズミを丁寧に葬って塚を築いたのでした。

このため十三塚と呼ばれるようになったといいます。
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私がこの話を読んだ時は、この寺がどこの寺かなどと言うことは考えもしませんでした。
また伝わる話としては寺ではなく納屋であったり、廃屋であったりします。
しかし、この北面薬師の山寺にまつわる話ではないかと考えるようになりました。
どこにも書かれたものはありません。しかし、この山寺がもっともこの話にふさわしいと感じます。
この寺が何時ごろ無住の寺になったのかは知りません。矛盾もあると思います。
でもお話ですから、そんなに厳密に考えてはつまりません。伝説を生む地にふさわしいと思っただけです。
皆さんも一度訪れてみませんか?
奈良・平安からの風が頬にやさしく吹いてきますよ。
 

筑波四面薬師 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/03/01 19:40

筑波四面薬師(4) - 東城寺(土浦)

徳一法師が筑波山のまわりに配置した四面薬師。石岡の薬師二か所を紹介してきましたが、残りの二か所は土浦市ぼ東城寺と桜川市の椎尾薬師(薬王院)です。

 今日は土浦市の朝望山東城寺を紹介します。先日東城寺の経塚を紹介しましたが、今日は筑波四面薬師としての東城寺です。
場所は現在トンネル工事中の朝日トンネルが開通すればすぐ近くになります。今は上の峠を越えるか、山を廻っていかねばなりません。
土浦市といいますが、昔の新治村です。小町の里からすぐに行けます。

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<朝望山東城寺の山門(仁王門)>

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山門をくぐって進むと、両脇の木々の根がむき出しとなって連なっていました。多くの人が歩いて道が沈んだ歴史が見えてきます。

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そのまま行くと、寺の境内に続く古い石段が続きます。今は脇に車が通れる道もついていますが、やはりこの石段を登らなければ趣がなくなってしまいますね。

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石段を登ると、すぐに寺の鐘楼が見えます。

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寺伝によれば、延暦15年(796年)に桓武天皇の勅願によって、最仙(最澄の高弟)が天台宗の寺として創建したといいます。
その後、鎌倉時代になり小田氏の庇護を受け、真言宗に改宗しました。
江戸時代に土浦藩の土屋氏の庇護を受けて、寺の名前を「東成寺」から「東城寺」に改めたといいます。

本殿は平成9年(1997年)に火災で焼失し、7年後に建て直されました。
平安時代中期の作といわれる薬師如来坐像と日光・月光菩薩(薬師三尊坐像)が県の指定文化財になっていたのですが、今はどこにも案内がありません。一緒に焼失してしまったのでしょう。とても残念ですね。
聞いてみるとどうやら放火による火災であったとも聞きました。

しかし、寺の本尊は今も薬師如来です。新しく造られたといいます。

寺には別に鎌倉時代の作と言われる「広智上人坐像」が寺を再興したとして祀られていました。

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 さて、筑波四面観音は徳一法師が配したものと考えていましたが、ここ東城寺は徳一法師の名前は出てきません。創建が796年です。
徳一法師の筑波山中禅寺を開いたのが782年ということでしたが、会津の恵日寺を建立した(弘仁五年(814)といわれる)後に常陸国にやってきたという説もあるので、もっと時代が遅かったのかもしれません。
また、この薬師についても、山の中腹に、小さな堂宇でも建てたのかもしれませんね。

この近くの古寺「清滝寺」は竜ヶ峰(中央青年の家へ上る桜並木のある場所)に徳一法師により創建され、後に古観音(山の中腹)に移され、戦国期に焼失したが、享保年間に今の場所(小町の里入口奥)にて再建されたといわれています。また後で写真なども紹介します。

それにしても徳一法師については謎が多いです。これは山岳信仰に基づいていることに関係があるのかもしれません。
 

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/02 19:41

こうのの大福

今日は3月3日のひな祭り。石岡のお祭り(雛巡り)も最終日だ。いろいろ工夫はしているようだがあまり人の集まりは良くなかったように思う。
まだまだ認知されるのには程遠い感じである。
先日真壁の町を通ったが、幹線道路の町の境界を越えたらすぐに横断幕や旗がやたらに目に付く。
石岡は残念ながら駅を降りた通りにも何もない。私が見ていないだけかもしれないが、知らずに通っても目立つくらいでなければ・・・。

今日は昨日の続きを書くつもりであったのですが、急遽また銚子に行って今帰ってきたところなので、筑波四面薬師の最終回は明日に延期します。

先日「古渡(ふっと)の湖畔」を紹介しましたが、その時に阿波の大杉神社に向かう途中に気になる店があったので、せっかくの機会なので寄ってみました。
「こうのの大福」(店の名前は鴻野菓子店)です。看板には水郷・桜川名物となっています。この店は125号沿いにあるのだが、駐車場が店の向かい側にあり、休みの日にはよくここで交通整理をしているのを見かけていたのです。
本日は交通整理のオジサンはいなかったが、私が中に入って買っている間にもう2~3台車で買いに来ていた。
結構人気店のようだ。

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店はそれ程大きくはなく、中も店員の方が二人おられ、売っているものも種類はそんなに多くはない。
それでも午後よく売り切れになるという。

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私が買ったのは絹大福(こしあん)・赤大福(つぶしあん)・草大福(よもぎ味)の3種類12個入りで1000円だ。
更にお土産にもう一箱買ったら1個おまけがついてきた。バラで買うと1個80円だという。
おまけの大福を、早速食べてみた。
丁度良い大きさに、甘さもよく餅の肌触りがなめらかで美味しい。

地元以外にも結構人気があるようなので、ここを通られたらお買い求めになることをお勧めします。
石岡にも美味しいお菓子もあるが、この場所でも立派にやっているのだから大いに売り方を見習うといい。
駐車場から車の良く通る通りを横切るのにあぶないからと、目立つハッピを着た整理員の方がいるだけでとても目立つ。
この逆手の発想は素晴らしいです。はじめての人でも寄ってみたいと思う。これでお客がまた一人増えたわけだから・・・。

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銚子に何度も行っているが、何時も行くたびに町の高台にたくさんの風力発電のファンが回っていることが気になっている。すぐ近くも通るのだが、今日は風もあったのでよく回っていたせいか、近くにじっと立っていると落ち着かない。
環境に優しいとはいえ、近所の方はやはり気になるだろう。

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今度の日曜日はギター文化館で詩の朗読とオカリナ・ギターのコンサートがある。
里山と風の声コンサート」である。わたしのブログのテーマもこの「ふる里の風」の想いがある。
少し友達や知り合いも連れて聞きに行くつもりだ。楽しみにしている。


食事処 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/03 20:23

筑波四面薬師(5) - 椎尾薬師(桜川市)

筑波四面薬師の最後は、桜川市の薬王院です。昨日UPする予定でしたが時間がなく今日になりました。

場所は(桜川市)真壁町の椎尾(しいお)です。名前の通り椎の木が生い茂る山です。
この椎尾山薬王院は桓武天皇の勅願所として、延暦元年(782年)最仙上人が天台宗の寺として創建したといわれています。
一昨日のブログで書いた土浦市の東城寺と同じ最仙上人ですが、こちら方が14年程前になります。
こちらも鎌倉時代に小田家の庇護を受けて真言宗に改宗しています。

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椎尾山薬王院の入口。ここから道は山へ、いくつものカーブを登っていきます。道は舗装されており車もすれ違えるので、比較的走りやすいです。

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この地は昔から椎の木が多かったようで、樹齢500年近いスタジイの樹叢は県の天然記念物に指定されています。現地の説明看板によると椎尾は昔「志いのを」といわれたといいます。どういう意味でしょうか?

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寺の入口部に建つ仁王門は、1687年に大工棟梁桜井瀬兵衛に完成したものです。立派な造りで見ごたえがあります。市指定文化財です。この門の両サイドには大きな履物が飾られていました。この寺に参拝する時に関係した履物?とも思いましたが、ここは先日ブログで紹介した足尾山の足尾神社と大いに関係があるのかもしれません。
また門の中央の頭上部分には、大きな龍の彫り物があります。

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この薬王院はこのスタジイの自然豊かな中に美しく聳える三重塔がやはりシンボルです。
本当に美しいと思います。
江戸時代 宝永元年(1704年)の建立で銅板葺で、高さは25mです。県の文化財に指定されています。

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本尊である薬師瑠璃光如来像(鋳造)は鎌倉時代の作で三重の塔と共に県の文化財に指定されています。

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本堂は1680年の建立で、市の文化財です。病気平癒、眼病平癒、子授けなどにご利益があるとされています。

この薬師も現地に行って徳一法師の名前は何処にもありません。しかし、関係があったとする伝聞もあるようです。なかなかわからないですね。
 
この椎尾山からは筑波山への登山道(男体山へ)があります。とても美しい寺だと思います。

 

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/04 19:13

筑波四面薬師(6) - 椎尾薬師(2)

 毎年花粉症で悩まされ、この時季がくると活動ができなくなるのは困ったものだ。
あと1カ月くらいはおとなしくして居るしかない。
今日は確定申告書を作成して電子申告をやっと済ますことができた。
去年からe-Taxを導入したが、その後パソコンを新しくしたのでソフトをダウンロードしたり、去年のデータを探したり半日以上かかってしまった。
また去年と今年で同じトラブルが起こった。データ送信でICカードの読み取りにエラーがでた。パソコンを立ち上げなおして、再送信したらうまくいった。何故か?
簡単なようで年に1回しか操作しないので覚えていられない。

 さて今日は、そのなことでいつもなら休みの日にデータを少し書きためているのだが、あまりストックもないので、昨日最後といって紹介した椎尾薬師の続きを書きます。
この薬師(薬王院)はその山門や三重塔も素晴らしいのですが、少しまわりに気になるところがありました。

まずは鐘楼です。写真のバックに見えるのが三重塔(きれいですね)、右手が本堂で瑠璃殿です。
この鐘楼について「土井晩翠」の漢詩の碑があります。
暁鳴鐘鼕鼕梵刹清 綈袍戀戀有故人意
(暁に打つ鐘の音はとうとうと響いて、寺が清らかである。その音色は故人の温情と恋慕う意がある。)

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本堂の手前の建て屋側に「ふどうの水」なる湧水があります。恐らく昔から清らかな水がわき出ていたのでしょう。不動明王を祀っています。(ひらがなでかかれていますが不動の水?でしょうか)

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さて、山門から下りずに脇の道から下りたら面白い碑が立っていました。

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原石(あらいし)を七曲り越え 不動越え 馬車で運んで 手造り仕上げ  要一

昭和十三年本堂東の軒下で要一がお寺の仕事をしていた頃、お寺の墓の上り口に七寸丸位の杉の木がありました。 それはいつも虫に食われやにを流している可哀そうな杉の木でした。 ところがそれから五十余年の歳月がたち、今では見事な大杉になりました。
私達はその杉の木を見るたびに少年の日を思い出し、杉の木様と呼びたくなります。  要一文
  (昭和十三年当時   石工要一 十七才)

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この寺をこよなく愛したという「平良兼公」の碑がありました。平良兼は上総の介としてやってきた平高望の次男です。高望の長男は国香です。また良兼は将門の伯父にあたります。
真壁町羽鳥にこの平良兼の城(館)があったといわれています。

平将門はこの伯父良兼の娘良子を掠奪し、それが将門の対立につながっていったなどとする話もあった。
海音寺潮五郎の将門を描いた小説「風と雲と虹と」にもこの辺りの話もでてきたような・・・。
また菅原道真の第三子である菅原景行がこの椎尾の里に住んでいたとか・・・・。
また菅原景行が父道真をひそかに羽鳥の地に埋葬した(天神塚古墳)とかいろいろと伝わっています。

明日はギター文化館に行きます。職場に来ているフィリピン人を一人誘っています。
どんな感想を持つか知りたいので・・・。本人は喜んでいたが、いい迷惑かな?
ことばの理解が少なくてもある程度感じるところがあると思っています。
 

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/05 17:24

正月平

今日はギター文化館のコンサートに行ってきた。友人とフィリピン人を一人連れて行った。
また会社の同僚の若夫婦が子供を連れてきてくれた。十分楽しめたようだ。
ギターのオカヤンもかなりよかった。うまく溶け込んでおり全体に厚みができていた。
帰り際に、鈴木牧場でヨーグルトとチーズを買って、友人たちを送って、今帰ってきたところである。

あまり新しい話も書くのは大変なので、今日はめでたい地名としてよく名前のあげられる「正月平(しょうがつだいら)」についてです。
もう知っておられる方にはつまらない話ですが、この名前の由来は八幡太郎(源)義家と父親の頼義親子が奥州安倍氏と争った前九年の役(1051年~)の時のことです。
陸奥守に任じられた源頼義とその子義家親子が奥州へ行く途中でこの場所で正月を迎えます。
村の人々は数少ない住民しかおりませんでしたが、温かく迎え接待をしたと伝えられています。
まだこの最初の奥州戦は人数も少なく、この親子にとっては大変苦労した戦いになりました。黄海の戦いで数百人の死者を出し戦に敗れ、安倍氏側の勝利となるかと思われたが、清原氏の助けを借りて安倍氏を滅ぼします。
この時朝廷側の兵はおよそ1万。頼義の兵は約3千と伝えられます。

その後東北地方は安倍氏に代わって清原氏が治めることになりますが、後三年の役では今度はこの清原氏との戦いになりこれを滅ぼします。その後奥州に勢力を伸ばしたのは藤原氏となるのです。
この戦に向かう八幡太郎義家には続々と味方が加わり、かすみがうら市の四万騎(しまき)ヶ原、石岡の五万掘、生板池(七万)などの地名が残されるようになります。
この正月平にも八幡太郎義家の「鞍掛けの松」があったといわれますが、今はどうなっているか??

さて、源頼義の三男新羅三郎義光が後三年の役(1083年~)で、兄を助けるために参戦を朝廷に願い出ますが許されず、官を辞して参戦します。
そして、戦いの後、源義光は常陸守に任じられて常陸国にやってきます。そして常陸平氏(吉田)から妻をめとり勢力を拡大していきました。
この源義光の子孫が常陸国を統一した佐竹氏であり、甲斐の武田氏となっていきます。
源氏も平家もないですね。甲斐国に行ったのは、義光が甲斐守に任じられたこともありますが、常陸平氏の勢力(鹿島氏など)との軋轢があるといわれています。

しかし、私にはこの新羅三郎義光が笙(しょう)(ふえ)の名人で、戦争に行って帰れないかもしれないため、追いかけてきた豊原時秋に足柄山においてこの秘曲を授けた逸話の方がとても興味を引きます。

今日の話題から段々それてしまっていますので、話題を戻して、この正月平地区を散策してみました。
場所は三村の少し南側の高台地区です。

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現在の正月平地区の通りです。大きな塀の家が多いですね。

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地区のはずれにある八幡神社です。

この近くのかすみがうら市の「子安神社」「胎安神社」などにこの八幡太郎の伝承が残されています。
石岡は古東海道の終点の都市でした。その東海道を通ってきたとすると昔の街道がこの辺りにあったことになります。
美浦村の牛込から霞ケ浦(香取の海)を舟で牛渡へ渡り、そのから旧出島村を通ってこの三村地区(正月平)へでて、中津川あたりで恋瀬川を渡って北根本へでて国府へ向かったのでしょう。
この川のあたりの地名に「かいつづみ」という場所があるといいます。
これは、湿地帯で歩行困難となった時に付近に群生する茅を刈り取って集めそれを踏みしめて何とか無事に進むことができたため「茅堤」と言う名が付いたものだそうです。これが訛ってかいつづみ(地元では「かえつづみ」と発音)となったものといいます。

平将門の国府攻めもほぼ似たようなルートではなかったかと思います。まっとも正上内などが将門に味方して四方から火を放ちながら攻め入ったようです。
西暦900年頃から鎌倉時代頃まではこちらの道がかなり使われていたのでしょう。
今からは想像するのみですが・・・。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/06 19:04

里山に風の声が響き、ふる里の色を染めた。

 今日は昨日の温かさが嘘のようだ。 比較的早くから雪となり一時はどうなるかと思ったが、だんだんと小降りになり幹線道路はほとんど雪がなくなった。まずはよかった。
寒さがぶり返したので、咲いた梅の花もこれでは凍えてしまっていることでしょう。

 今日は、昨日出かけてきたギター文化館の「里山と風の声」の公演時の写真を紹介します。

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白井啓治さんの常世の恋唄とOKAYANのギター伴奏。
どうやらギターは詩を聞きながら感じるところを即興で伴奏していたらしい・・・。

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野口さんのオカリナと矢野さんのパーカッションに今回はOKAYANのギターが加わりました。
音に厚みが加わってなかなかよかったです。
それにしてもオカリナはやさしい音色で素敵ですね。
野口さんは各地で公演活動をしていますが、その土地の土で焼いたオカリナでの演奏にこだわります。
また形も古代の化石や、土器などを再現して命を吹き込んでいます。
今回は5分でオカリナを実際に造って演奏する実演も・・・。

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今回のために、白井さんの詩を野口さんが作曲した曲を披露してくれました。

<なは愛しきもの>

名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです
名もない花の可愛さを
私が知らないだけなのです

 側溝にしがみついて咲く小花
 名は何とたずぬるも 応えの見えず

名もなき草はありません
あなたが知らないだけなのです
名もなき草のささやきを
私が聞けないだけなのです

・・・・・・・・・・・・・・・

この歌はとても良くできています。
この公演が終わって帰る人がこの曲を口ずさんでいました。
野口さんの「棚田の春」とはまた違った趣があります。

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アンコールには早春賦など・・・

白井さんの体調が万全でなく、声は100%ではなかったものの今後の楽しみが増えました。
  

ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/07 19:44

石岡府中のお稲荷様(七稲荷)

一昨日のギター文化館のコンサートの様子を昨日紹介しましたが、下記のブログでも紹介されていました。皆さん結構頑張っていますね。

1)okayan music雑記帳(ギター)
2)ギター文化館DIARY(木下館長さんブログ

 さて今日は、石岡市内のお宮様の話です。
ここ石岡(府中)の昔の地図が残されています。石岡の市史などでも紹介されているもので天保期(1830-1843年)に書かれた手書きの府中町絵図(鈴木彬夫氏所蔵)というものです。

この地図で特徴的なことは、今の旧355号線(水戸街道)が中町から香丸町を通って泉町の方に曲がる突き当りに千手院の大きな寺院があり、国分寺はその横に小さく描かれていることである。
今は、この通りは笠間の方に続いているが、当時はこの千手院を迂回していたようである。
今の国分寺の境内の中に、この千手院の山門が残されているだけで、いつの間にか千手院は無くなってしまった。

 さて、今日の話はこの地図に多くの稲荷神社が書かれていることなのです。
稲荷神社が10か所も府中の町の中にあったのです。

 稲荷神社は府中七稲荷といわれていた記録があり、この七稲荷のうち、仲之内町の福徳稲荷,金丸町の鈴宮稲荷をはじめ,青木町の青木稲荷,守木町の天之宮稲荷,守横町の宇迦魂稲荷は絵図に示された位置に現存しています。
inariaoki.jpg 青木稲荷

inarifukutoku.jpg 隅之宮福徳稲荷

inarisuzumiya.jpg 鈴宮(すずのみや)稲荷

inariugatama.jpg 宇迦魂(うがのみたま)稲荷


しかし,中町の稲荷は金刀比羅宮に合祀され,香丸町の稲荷は橋本旅館(ホテル橋本楼)の南端にあったそうですが総社宮に合祀されたといいます。

これらの稲荷の多くは「正一位」と称していますが、正一位は最高位で、正一位の伏見稲荷大社より勧請を受けた稲荷神社はほとんどがこの正一位を名乗っているといいます。

このように、石岡の稲荷神社は、400年ほどの歴史があり、石岡の旧町ごとに存在したのです。
これらは、各町住民の結束を図る働きをしたものと考えられます。
このようなこともお祭りの年番制などの結束にも影響を与えているのかもしれません。
しかし、あまりこれらを研究されているようには見えません。

昔、中町本陣の隣りにあったとされる「天王社」などの歴史や祭礼などと市民のかかわりなどをもう少し研究すべきではないかと思ったりしています。
 

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/08 20:18

平沢官衙 - 筑波郡衙跡

八郷辻のいちご団地から菖蒲沢方面へ入りそのまま進むと筑波山尾根にある「不動峠」にでる。
途中小町伝説の残る「北向観音」を通過する。
この峠を越えると(旧)筑波の街へいくが、山を下ったところに「北条大池」があります。

この大池の反対側に国指定史跡である「平沢官衙(かんが)」遺跡があるので休みの日に訪れてみました。
現在は広々とした公園となっており、昔の建物が3棟再現されて建っています。

一般にはここを紹介する時は、筑波の町側からのアクセスで紹介されますが、ここのサイトの中心は石岡ですから常陸国とのイメージをもっていただきたいと敢えて反対側から峠越えでの道で紹介しました。

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官衙(かんが)とは昔の役所があったところで、ここに奈良・平安時代の「常陸国筑波郡」の役所があったことがわかったのです。1980年に国の史跡として認定され、一般開放されたのは2003年です。

もちろん石岡には常陸国の国衙(こくが)があったことが知られています。現在の石岡小学校の敷地がそれですが、昨年(2010年)ようやく国の史跡に指定されました。しかし、昔の国レベルでの史跡指定は全国初なのです。指定された名称は「常陸国衙跡」ではなく、「常陸国府跡」となりました。国衙というのはあまり一般的でなく難しいからでしょうか?
石岡にはもうひとつとても重要な地下の正倉院ともいわれる「鹿の子C遺跡」がありますが、高速道路の下となって、現在は風土記の丘で、当時の武器製造小屋や住居などが再現され、展示されています。
この展示場所が有料ですので訪れる人が少ないのは問題ですね。あまり高くはないので是非一度見学してくださいね。今度このブログでも紹介しましょう。

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この写真のように、この敷地内には幾つもの木の杭が打ち込まれて、それをロープで囲って中に入ることを制限しています。この場所が建物のくいの跡などが見つかったところです。この中に80軒程の建物跡などが見つかっています。この3分の2は高床式の建物で、倉庫の跡だと見られています。
すなわち、税として徴収した穀物を保管した場所だと思われます。

この遺跡の全体の大きさは、発見された溝の大きさで160mx110m程です。

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上の写真は、二号建物で、最大級の建物(正倉)で、法倉と呼ばれるものだそうです。当時の倉を再現するのに奈良の法隆寺の倉を参考にして土壁の倉となったそうです。
また、屋根瓦があまり出土していないので茅葺ではなかったかと推察したものです。

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向かって右が一号建物:校倉、左が三号建物:掘立柱建物(板倉)です。
当時の建物を勉強するにはとても良い資料ですね。

常陸国は、大化改新(645年)により646年(大化2)に設置されました。そして、現在の石岡市に国府と国分寺が置かれたのです。
そののち新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれたとされます。
そのため、この筑波郡が何時制定されたものかははっきりは分かりません。

奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立したとされる「常陸風土記」によると、常陸国ができる前に、この地方にはまだ統一された国はなく、「ただ、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国があり、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されてゐた」(口訳・常陸風土記)となっています。
また、常陸国衙出来た後の11群のうち「新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂」の9郡の説明を古老の話などでまとめたものとなっています。
一度読んでみるのも良いでしょう。

 さて、石岡は茨城郡になるのですが、最初の郡衙は何処にあったかは諸説あります。
石岡では茨城廃寺のあった場所に近い外城(とじょう)(掛札神社のところ)ではないかと言われています。
しかし、どうやらここに郡衙ができる前に茨城と言う名前の地が存在していたといわれています。
その場所が笠間市小原です。ここが那珂郡編入されて、郡衙を石岡に移したというものです。
まあ諸説ありますので、歴史学者によって解釈も分かれているということは知っていて良いのではないでしょうか。絶対となる証拠はまだ見つかっていません。
茨城廃寺は国分寺などができるより前にあった寺で「茨木寺」「茨寺」などと言う墨書銘が見つかっており、茨城郡で国分寺よりも古い寺が見つかっているのはここだけだというのですが・・・。

邪馬台国が大和か北九州かなどというのもまだわかっていないのですから・・・。
私はずっと北九州説が有力だと感じていたのですが、徐々に大和説に傾き始めています。
でもわからずに考えることも楽しいことです。

ここ平沢官衙の入口の北条大池は桜がきれいだそうです。お花見がて見学して見ても良いのではないでしょうか?
せっかく見学するなら、何も知らずに行くよりも少しでも予備知識を持っていく方が得るものが多いようです。
 
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/09 19:12

万葉の森

万葉集には筑波山について非常に多くの歌が載っている。これはこの山が、昔からの信仰の山であり、富士山と同じような形の良い山で、比較的登りやすかったせいもあるとも思いますが、恋歌も多く、多くの種類の木々・草花も豊富な場所でした。

 全国に万葉植物園などと言われる施設ができており、何故この地には無いのだろうか?などと考えたこともありました。
しかし、旧八郷地区に「万葉の森」という公園ができていることを知りませんでした。
先日筑波山の風返峠から国民宿舎「つくばね」の方に下ったところに見つけました。

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この公園は八郷ライオンズクラブが造ったもので、「ライオン広場」などと書かれています。
広場に色々な木々を植え、万葉集の歌の立札がそれぞれつけられています。

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まだ先日降った雪が残っている時でしたので、多くの木には葉や花がない寂しい時でした。
このためか、一人も来ている人はいません。
今度は、花や木々が美しい時にまた来て見ようと思います。

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石岡のこの場所は筑波山に車で登るには比較的緩やかで走りやすいのですが、あまり車は通りません。
そのため、なかなか知られないのかもしれませんね。
きれいに整備されていますので、近くを通られる時には寄ってみてください。「つくばね」の少し上です。
記念のコンサートなども開かれたようです。写真の石碑が置かれていました。

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 東京の国分寺の境内には「万葉植物園」という公園がひっそりとあります。
昔近くに住んでいたので何回か訪れたことがあります。
こちらの公園には水草や、シダ類なども多く、変わった草花が多いので、短歌をされる方などが良く訪れるようです。
ご住職が13年間かかって全国から集めたり、栽培して植物園としてを解放したといいます。
  

石岡市内の風景 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/03/10 19:02
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