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ギター文化館通り(2)

 以前ブログで、柴間のギター文化館と石岡医師会病院を結ぶ通りを「ギター文化館通り」と勝手に名前をつけたが、たまには宣伝しないと忘れられるので、ことば座公演に行く途中の景色を紹介しておきます。
石岡の街中の人にはほとんどなじみのない通りではないかと思います。
柿岡街道(林地区)と園部-部原-瓦会の通りの間の高台を通っています。
(もともとはこの通りは「宇都宮街道」と呼ばれた通りではないかと勝手に想像しています)

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途中の麦畑と向こうの山は「龍神山」です。こちらからみると大きく削られたのはあまり分かりません。
麦は今の時期に実るのですね。本当に秋のようです。
「麦秋」の季語教えていただき感謝。

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 大きくUPしてみると、麦の色はそれ程黄色くないのですが、まとまるとまるで黄金ですね。

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途中、竹を矢倉に組んだつる野菜が植えられていました。これは何の野菜でしょうか?
きぬさや?きゅうり? 良くわかりませんが、まるでこの竹の組み方は弓矢作りの天日干しと似ていて少し驚きでした。この時期には竹ばかりが目立つだけですが(笑)

向こうに見える建物はレストラン「ふらの」です。ここのパスタ、そば懐石美味しいですよ。
ここが北海道の富良野の風景に似ているとのことで名付けたようです。

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ギター文化館の庭から難台山、愛宕山、鐘転山方面を見たところです。
向こうの煙が見える部落は「山崎」または「部原(へばら):変わった読みですね」の方です。雨でけぶっていましたがここの景色もいいですね。

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やはりのんびり落ち着くのはいいですね。都会には無い真の田舎の良さです。
都会からこちらの方に移ってこられる人が結構多いのも頷けます。
ギター文化館はギターの殿堂として大切な建物ですが、一部の方しか知らないようでもあります。
一度この風景を見に来られるのも良いのではないかと思います。
 

街道その他 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/19 09:16

大矢橋(2)-佐竹義政の首塚

 本日2度目の投稿です。歴史ネタです。
 昨日、石岡・小美玉スマートインターチェンジを紹介したのですが、実はこのインターの場所がとても大事な場所だと最近気がついたのです。

インターを下りて石岡側に向かう信号の場所はすぐ近くを「園部川」が流れており、この川に架かる橋を「大矢橋」といいます。
そのために、ブログの題名を「大矢橋」としてこの紹介をしたいと思っています。

ここは鎌倉幕府が始まる前に、ある事件が起こったとても重要な場所です。日本の歴史にとっても、石岡の人にとっても大切にその歴史を残してほしい場所だと思います。
もう古い事件なので、あまり関心も持たれる方が少ないのですが、事件の概要は次のようなものです。

 源頼朝が伊豆で挙兵し、関東でのまず覇権をねらいます。千葉の上総介広常(平広常)などは平氏であったがすぐに頼朝の見方となります。
その頃常陸の国は佐竹氏が常陸太田の方面の奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。
そして、頼朝は広常が「関東での覇権を先に握るべきだ」との話に従い、常陸国府(石岡)までやってきました。
そして、佐竹氏に対し、国府(石岡)に来て自分に従うように使者を出します。
佐竹氏はやはり源氏の直系(新羅三郎の直系、甲斐武田氏も同じ)ですが、当主(2代目)は京の都にいって平家にゴマをすっており、二人の息子が留守を守っていました。

弟の佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城にたてこもりますが、兄義政は当時頼朝の見方となっていた上総介広常(姻戚関係にあった)の勧めで、頼朝と会見するために国府(石岡)にやってきました。
広常の一行はこの大矢橋の手前にて、佐竹義政がやってくるのを待ちました。
この時にもこの大矢橋が常陸国府(府中)の入口だったのだと思います。
そこに義政が家人と部下を連れてやってきます。

橋を挟んで話し合うこととなり、まずは佐竹義政と上総介広常はお互いに1対1で話し合うために、橋の中央まで進みます。

そして、あっという間に広常は佐竹義政に切りつけ、殺してしまいました。いってみればだまし討ちです。

驚いた佐竹側の家来や家人たちです。主人が殺され、あわてて逃げ帰ってしまいました。
この様子は「吾妻鏡」に書かれています。
卑怯なだまし討ちでしたが、そのまま書かれているので割合と本当のことが書かれているようです。(吾妻鏡は源氏を美化して書かれた書物ですが・・・)

その後、弟の佐竹秀義は頼朝軍に攻められ、自然の堅城と言われた金砂山に立て篭もっていたが、どんどんと後ろに敗走してしまいました。そして、頼朝に帰順せざるを得なくなります。
これで関東での頼朝の覇権が成功して、いよいよ京の平氏へ攻め上がるようになるのです。

源氏の頼朝が関東での主導権を握った大事な出来事です。事件は治承4年(1180年)11月4日でした。
(だまし討ちでも、当時は結果OKなら悪いとは思っていないようです)

この源氏が関東での覇権を握るきっかけとなった、大切な大矢橋の場所が、スマートインターの目の前にあるのです。

何故かインターの記事や案内板にはこの大矢橋は出てきませんね。
ほとんど知らないし、石岡は何故か平氏・平氏としか言いません。
平国香の墓が市内「平福寺」にあると思っています。
本当か嘘かはわかりませんし、わからない事はそれ以上興味もありませんし、嘘かも知れない事を自慢はしません。

この大矢橋に関して話題になりませんね。鎌倉時代前の首塚など不気味ですから、興味もないのかもしれません。

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写真の木の茂っているところが、佐竹義政の首塚。左側の橋が新しい(数年前建設の)大矢橋。

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首塚と説明看板。これによると胴塚も近く(小美玉市)にありそうですが、場所がわかりません。

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上の写真は3年ほど前の撮影で、新しい橋ができたばかりの時。向こうに見えるのが旧大矢橋です。
事件は830年も前ですので、当時の橋がどんなであったかはわかりません。
そんなに大きな橋ではなかったでしょう。
ただ、佐竹氏が府中にやってくるのに、こちらの笠間方面からやってきたのだけは確かですね。
前に紹介した道標の所へ出ます。当時はそんな道標は無かったので、棒杭(ぼっくい)でもあったのでしょうか。

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旧国道355号線に数年間使われずに残されていた「旧大矢橋」は取り外し工事の最中でした。工事の若いお兄ちゃんが話しかけてきました。

「元の橋は取り外してしまうけど、もうすぐ脇に歩道ができるから、あそこの塚の所へは行きやすくなりますよ。地元の人が、あの首塚の周りの下草を刈ってくれているみたいだ。そういえばあそこでやられたのは弟さんだったかな? 胴塚も向こうの小美玉にあるようだよ。」

見に来る人も珍しいのでしょうね。興味深げに話しかけてくれました。
胴塚はどこにある? 地図などでは載っていないが・・・どなたか知っていますか?

(補足)
この記事も1週間以上寝かせてしまいました。他の話題が増えてしまい、UPするのが遅くなってしました。
現在は旧橋の撤去や歩道の整備も終わっているかもしれません。
佐竹氏がこの後、戦国時代にはこの常陸の国を統一しますが、この辺りを制していた平氏一族をことごとくだまし討ちでやっつけてしまうのですから、あまりだまし討ちが悪いとは言えないでしょうね。
家康に、秋田へ飛ばされてしまったのも、どこか信用されていなかったのかもしれませんね。
   

石岡市内 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/06/19 15:50
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