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霞ケ浦水運(高浜ルート)

 明治28年に友部-土浦間に鉄道が開通し、翌明治29年12月に東京田端まで今の常磐線が開通した。
鉄道開通までは、高浜から東京までの汽船が使われ、物資の輸送もほとんどがこの水上交通であったといiいます。
当時の物流の流れを知らないと、今の国道や、鉄道の状況でしかものが見えなくなってしまう。
この水上輸送の状況を想像すらできないというのは困ったものである。
歴史への興味はきっと身近なものが過去と綿々とつながっていることがわかって初めて興味を覚えるものだと思う。
歴史をただ単なる暗記科目にしてしまったために、私のような歴史音痴な人間ができ、今頃になってやっと、昔のことなどに興味を覚え、調べたりし始めているのである。
本当に「なんてこった」である。

 高浜を調べるうちに、江戸時代から明治にかけてこの地に発達したという船の航行した水運について、ほとんど知識がないことがわかった。
もっとも利根川が江戸時代に流れ銚子の方に東遷したことすら昔は知らなかった。
学生時代に習っていたのかどうかとても記憶にないのである。
こんな調子であるから、昔の船が何処を通っていたかなど知る由もないのである。

江戸に船でものを運ぶルートはいくつかあったようなのだが、昔は日本海側は北前船が若狭湾から対馬海流にのって北海道まで物資の運搬をしていたのであるが、太平洋側の東北方面や関東から江戸までのルートは一体どうなっていたのだろうか?

これを知らないと、高浜の歴史など知ったことにならない。

船運

これは、調べた結果を地図に書きこんだものだが、「高浜」に集められたいろいろ品物は「高瀬舟」(船底の平らな小型の木造船)に荷を積んで、銚子の方に向かい、途中で利根川に入って上流に進みます。
利根川と江戸川の合流地点「関宿(せきやど)」で江戸川に入り、江戸に川を下って行ったのです。
この関宿は上の地図では川の合流点に書いたが、実際は野田市の北部で利根川と江戸川に挟まれた一帯にありました。宿場として栄えたのですが、明治の鉄道の普及でやはり廃れて行きました。

しかし、地図でもわかる通り、利根川を江戸川との合流点まで遡ることは距離も結構長く時間もかかってしまいます。
そのため、途中で陸路として川をバイパスしたりもしていたようです。

その一つが、前に書いた「なま(鮮魚)街道」です。
銚子で水揚げされた魚を新鮮なうちに江戸に運ぶため、夕方銚子を船で利根川の布佐まで運び、翌朝陸路を馬で松戸までこの「なま街道」で運び江戸川で再び船で江戸に運びました。次の朝のセリに間に合わせたといいますので約1日半の行程でした。

一方、野田の手前で流山の方に2つの川を繋ぐ運河(利根運河)が計画されました。
これは、明治12年に計画が持ち上がり、結局完成したのは明治23年になってからでした。

しかし、明治23年というと各地で鉄道が建設されていた時です。
上野-青森間の鉄道が全通したのは明治24年のことです。

この時には物流は急速に鉄道にとって代わっていったのです。


霞ケ浦水運 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2011/07/01 15:50

笑魚堂-おまつりストラップ(1)

7月1日 今日2回目の記事です。
ジメジメして暑いですね。今日は土日出勤のための振り替え休日。
たまに普段の日が休みなのもいいですね。

今日、会報やちらしなどを印刷するために持っている印刷機が故障して、修理をたのんだ。
もうこの型式は新規ではなくなり、部品も段々なくなるそうだ。
機械に組み込まれている一部の部品が壊れたということで交換してもらった。
なんとか修理の出張費と手間賃は安くしてもらったが部品がものすごく高い。

もう大分活躍している機械だからある程度しょうがないが・・・。
気分を直すために、帰りに金丸通りにある釣り具店「笑魚堂」(池田釣り具店)さんに立ち寄った。

ここの娘さんが作っておられる「石岡のおまつり」をイメージしている携帯ストラップを見たかったのである。

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ひょっとこ、提灯など

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おかめの顔も一つづつ手作りのため、皆違っています。

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きつねや獅子舞いの獅子頭もいいですね。

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今一生懸命作っているとのことですが、この時期は湿度が高く、粘土が乾くのが遅いと嘆いておられました。
それにしてもお顔も一つづつ粘土で形作って、お顔を書きいれて・・・。大変です。
でもいいですね。玄関用の飾りもあります。
お祭りの時に皆売れてしまうそうです。

こんなものを見るだけでいい気分になる。続きはまた明日。
 

民芸品 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/01 17:54

笑魚堂-おまつりストラップ(2)

 今日は昨日に続いて笑魚堂(池田釣り具店)さんの「おまつりストラップです、

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キツネに太鼓、それとひょとこ?
どれがいいでしょう。迷ってしまいます。

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それにしても、この表情。少し怖いですね。食われてしまいそうです(笑)。

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迷ったあげくに、おかめとひょっとのストラップを購入しました。
2本で1800円。

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そういえば、このひょっとこワシに似てるような・・・
ということはこのおかめは・・・・。
  

民芸品 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/02 07:37

笑魚堂(3)

 金丸通りの笑魚堂さんの3回目です。
ここは釣りをやる方にとってはメッカ的なお店で、霞ケ浦周辺では知られたお店のようです。
店内には釣り道具、それもかなり趣味のある方にはたまらない商品がそっと置かれています。
釣りが趣味の方は一度行って見られることをお勧めします。

実はここのご主人は居合道日本一に輝いたことがある池田忠男さんですが、昨年3月にお亡くなりになってしまいました。
今回奥さまにお話をおうかがいできましたが、病院に入院していて、娘さんがそばについていたそうですが、亡くなる少し前に病院から奥さまに電話があったといいます。
「お店は何とかやっていけると思うのでなんとか頼む」というような感じの話をしたのが夕方4時頃だそうです。
それからそんなに経たないで亡くなったのを聞いたのだと。
そのため、お店を閉めずにやっておられるのだとお話になっておられました。

いまは、常連さんと娘さんのやっている「おまつりストラップ」でなんとか切り盛りされているようです。
皆さん、おまつりストラップはお祭りが始まれば、みんな売れてしまうらしいので、欲しい方はお店の方にお出かけください。

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ギター館で行なわれた「ことば座公演」で池田さんがゲスト出演をしていただいた時の写真です。
日本刀は本物ですので、真剣さが伝わってきてピーンとした空気が漂いました。

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お店に飾ってあった石岡の獅子頭です。このお顔いいですね。

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店内は釣り具でいっぱいです。
それもちょっと探し物がある人は行って見られると掘り出し物もありそうです。
私にはわかりませんが・・・。

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入り口に「笑魚堂」の張り紙が・・・

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お店の構えです。

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兼平さん。 2007年に書かれた絵を大事にしておられましたよ。
出して見せてくれました。「ギター館にも行ってみたいのだけど車が運転できないので・・」とおっしゃっておられました。


 

民芸品 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/02 18:30

霞ケ浦水運(2)-江戸川から江戸へ

 江戸時代に高浜に近隣から多くの荷が集められました。
江戸時代の初めにすでに府中領の年貢米を江戸に船で運んでいた記録があるといいます。
そして江戸中期以降になると河岸問屋の数も増えてきました。
大きな問屋としては「笹目八郎兵衛」「今泉吉兵衛」などがいたといいます。
取り扱いの荷物は
 ・年貢米:府中松平藩、笠間藩牧野家や旗本など
 ・穀類、薪炭(主に恋瀬川の流域から)
また、荷揚されたものは
 ・赤穂塩(醤油の原料)
 ・九十九里の干鰯(イワシ)
 ・江戸からの衣類、日常品
などであったようです。時代によってもいろいろ違っていたのでしょうね。

高浜入り江では、高浜以外にも石川河岸、高崎河岸(玉里)に問屋があり、にぎわったといいます。
もちろんこのほか、土浦や鉾田の方にもいろいろな水運が発達しています。

さて、先日水運(1)で利根川から関宿(せきやど)まで川を登って、江戸川に入り江戸へ運んでいたことを書きましたが、今日はこの江戸川から江戸の中心部への流れを少し書いてみたいと思います。

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この地図を見てください。 旧江戸川が千葉県の行徳の先から現在の新川へ入ります。そして船堀で中川に合流し、そこから小名木川を通って江戸の中心部を流れている隅田川へ物資を運んでいたのです。

新川は江戸時代には三代将軍家光の時代にはかなり整備され、掘削が進められた人口の水路で、もともとは船堀川があったものを拡張、新たに船運のために掘削したものです。
そのため、江戸時代は船堀川とか行徳川と呼ばれ、江戸水運の大動脈になったそうです。

これは行徳の塩田でとれる塩を江戸に運ぶためでもあり、この新川沿いにさまざまな問屋などができて賑やかであったといいます。
このため、現在川沿いに桜の木を1000本植えたり、木橋や石の護岸整備などをして昔の風情を取り戻す整備が行なわれているといいます。

参考:歌川広重「江戸百景:中川口」

 さて、この小名木川は江戸の今の箱崎あたりまで続いていますが、ここに「清澄庭園(東側)、清澄公園(西側)」があります。この場所はかって豪商「紀伊國屋文左衛門」の屋敷があったところといわれ、明治になって三菱の創始者「岩崎弥太郎」がここを買い取り庭園として整備したといいます。
その後、関東大震災で避難所として活躍したため、東側の庭園部分を東京都に寄贈し、昭和48年になって残りの西半分を都が買い取って公園にしたそうです。

何にも知らなかったのに、いろいろなことがつながってくるのでおもしろいですね。
もう少し先を調べてみたいと思います。
 

霞ケ浦水運 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/03 08:04

霞ケ浦水運(3)-行徳船

 水運(2)では江戸川から隅田川までの船の流れを紹介しましたが、隅田川と小名木川の合流点近くに芭蕉の「芭蕉庵」がありました。現在は「芭蕉記念館、芭蕉稲荷神社」になっているところです。
芭蕉が奥の細道への旅立ちは元禄2年3月27日で、その前にこの芭蕉庵を引き払い、前回紹介した「清澄庭園」のすぐ南側(深川)の「採荼庵」へ越しており、ここからの出発となりました。

・草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家・・・芭蕉庵を引き払って子供のいる別な家庭がそこに見えますね。
  (雛まつりの3月3日にはすでに別な家庭が住んでいたのですね)

さて、3月27日に旅立ちますが、ルートはというと船で隅田川を千住まで行き、千住宿から日光街道を進みました。千住で詠んだ歌が

・行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

やはり、当時に風景が浮かんできますね。
この旅は8月に大垣で終わりますが、かなりの大行程を短期間で歩いたものですね。
しかし、芭蕉は霞ケ浦へのルートではなく千住から日光への道をとりました。

では、まだこちらの水運が発達していなかったのかというとそうではありません。
元禄2年にはすでに、小名木川から新川(船堀川)を通り、利根川へのルートは完成しており、その50年程前に、日本橋小網町から本行徳まで貨物(客)船「行徳船」が就航しており、当時はすでに50隻以上の船が往来していたといいます。想像するだけでも楽しいですね。

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行徳船を調べてみると、芭蕉の時代はどのような船かはわかりませんが、江戸後期には朝6時から夜6時まで江戸-行徳間を往復したといいます。
船頭1人に24人の客を乗せることができ、行徳の塩田の塩や野菜魚介類を江戸に運び、江戸からは日用品や成田などへの参拝客を運んでいたようです。
 
明治になりしばらくしてから蒸気船が東京-銚子間に就航します。これは内外通運会社の「通運丸」や「利根川丸」で1日2往復で18時間(1泊2日)かかったといいます。
内外通運会社は後の日本通運であり、民営化されたのは昭和25年でした。

鉄道が開通すると、18時間→2時間 となったため、船は急速にその役割を減らしてしまったのです。

さて、行徳(市川市)の塩田は江戸の初期には家康の保護もあり、江戸には無くてはならない塩の一大供給地域でした。しかし、中期以降には赤穂などの良質の塩が供給され始め、製法が天日干しによる比較的小さな業者が多かったこともあり、天候にも左右され一時の1/4以下に減ってしまったようです。

行徳の船着き場は本行徳村にあったようで、現在「常夜燈」がある辺りではないでしょうか。
この行徳から新川河岸が整備され、昔の面影を取り戻してくれたら行ってみたいですね。
 

霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/03 14:03

霞ケ浦水運(4)-那珂湊内海まわり

 霞ケ浦の水運を調べるのに、高浜からは米、清酒、醤油それに材木、炭などであり、米は高浜相場なるものまであったといいます。また土浦からも同じように醤油などを中心に運ばれたといいます。
これは陸路だと馬の背に乗せて(米なら左右に2俵)馬子が一人必要で、これが駄賃の言葉を生んだのですが、船なら高瀬船で船頭1人で何十倍も一度に運べたのです。
これなら馬で運ぶ駄賃の1/5~1/10くらいで済んだといいます。

では霞ケ浦水運として、別なルートがどのような状況であったのかを知らなければなりません。
そこで、北浦を航行していた船がどのようなルートで物資を運んでいたのかを調べてみました。

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これは那珂湊内海ルートと呼ばれていたものらしいのですが、那珂湊まで仙台や石巻など東北方面から外洋を船で運び、那珂湊からそのまま川をたどって涸沼に入ります。
涸沼から陸路を「鉾田」へ運び、北浦を通って佐原から利根川を遡ります。
または涸沼から小川へでて、高浜ルートで佐原から利根川です。

これは鹿島灘の航海や、銚子から先の外洋ルートは度々事故もあり危険だったからのようです。
このため、このルートも大いに発達を遂げたようです。
しかし、涸沼から陸路を使うために、荷物を乗せ換える手間などが発生し、次第に廃れて行ったようです。
また、北浦に蒸気船が明治21年に就航します。
鉄道は石岡-小川-玉造間に「鹿島参宮鉄道」(その後の鹿島鉄道、現在廃線)が、できたのは大正11年です。
鉄道の普及で物資も鉄道で運べば時間が1/10くらいになるのですから、やはりどうしても廃れてしまうのは仕方がないでしょうね。

それにしても「涸沼のしじみ」は今でも大粒で大変美味しいですね。茨城名産品の一つでしょう。
 

霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/04 06:52

霞ケ浦水運(5)-高浜の街並み

 昔、高浜の湊から、親鸞聖人が鹿島神宮に書物を調べ(?)に舟でよく行き来をしていた時(鎌倉時代初め頃)、この村に腫れ物で苦しんでいる男がおりました。
可哀そうに思った親鸞は、この男の所へ行って介抱するとたちまち治って動けるようになりました。
男は驚いて、今度は心の病も救ってくださいと頼みます。
すると親鸞はその男に「庭の石に阿弥陀如来が宿っているのでそれを信心して拝むが良い。」と立ち去りました。
男が庭の石を見てみると、爪で書いたような阿弥陀如来の像が浮き出していたのです。
この石を大切にして拝んできたのです。これが高浜にある「爪書阿弥陀」なのです。

このような伝説は各地に残されていますが、親鸞そのものの存在まで疑われた時もあったのですから、この話の信憑性はわかりません。
しかし、この地に親鸞がよく通ったことは確かなようです。

さて、今日は、親鸞の話がメインではなく、この爪書阿弥陀堂の裏山からの高浜の街並みが見事にながめることができるのを伝えたかったのです。

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これが、爪書阿弥陀堂です。お堂の右手後ろに階段が見えます。この階段を上りましょう。

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この上はお墓の墓地ですが、ここからの眺めはとても素晴らしいです。霞ケ浦のここ高浜の入り江が一望できます。

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真中の橋が「愛郷橋」、右側の少し木がこんもり茂っているところが「高浜神社」です。

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この煙突は、白菊酒造さんの工場です。

今日はいつもより帰りが遅くなってしまいました。高浜の眺めを楽しむだけで終わりましょう。
 

霞ケ浦水運 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/04 20:39

霞ケ浦水運(6)-高瀬舟

 利根川の東遷事業により霞ケ浦から利根川、江戸川を通って安全に江戸に物資を運ぶことができるようになりました。

江戸時代前から川で主に荷物を運搬するために、舟の底を平らにした高瀬舟(高瀬=浅瀬)が全国各地の川で使われました。高瀬舟ってどんなものだったのでしょう。

森鴎外の「高瀬舟」は京都から大阪へ流れる高瀬川を行き来する小舟であり、こちらの荷物運搬も同じような小舟が多かったのでしょう。
この罪人を運んだという京都から大阪の高瀬川の舟は再現されています。<写真はこちら

あまり大きなものではなく、米なら20~30俵くらい運んだのでしょう。
これには帆がありませんが、霞ケ浦で使われていた高瀬舟はどんなものだったのでしょう。

小舟にとっては潮の流れがなく、風があれば帆をはり、なければ櫓をこぎ。または川の沿岸からロープで曳き舟などもあったようです。

実は慶応4年に高浜神社に奉納された1枚の額絵があります。

この高浜神社は大変古く、天候が悪く鹿島神宮にお参りの舟が出せない時など、この地で鹿島神宮に向かって祈りをささげた「青屋神社」がスタートでした。
高浜に来れば必ず立ち寄られるところだと思います。

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神社の境内にこのような説明が置かれています。写真左の上は山岡鉄舟の書いた「高浜神社」の奉納額。下が慶応4年に書かれたこの高浜の風景を描いた奉納額です。

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しかし、この高浜神社の説明には、常陸風土記に歌われた時の高浜の様子が説明されているだけです。
では、この絵の説明はと探すと、この神社ではなく「高浜公民館」(先日書いた「いづみ荘」の近くです)にありました。

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これによると、江戸に運んだものは「米・麦・大豆・小豆・薪炭・醤油・木材など」で江戸から運ばれたものは「塩・干鰯・砂糖・ロウソク、呉服・荒物・小間物など」と書かれています。
この中では塩がとても気になりますが、これは醤油の材料として「赤穂塩」が使われたようです。

京都の方の高瀬舟は川幅もせまく、場所によっては、陸からロープで曳き舟などしたりもしたようですが、霞ケ浦は広く潮の流れもあまりないので、風があれば帆をはり、なければ櫓をこぎなどしたものと思われます。

ここに書かれた絵も帆が見えますが、はっきりしませんので、「石岡の歴史」に掲載されている写真を拡大して見ましょう。

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この大きくそびえる山は富士山ではありません。筑波山です。きれいな形の山ですね。

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これは高浜神社です。湖側と反対側に大きな(石の?)鳥居が見えます。
また湖の岸辺には小さな鳥居があります。

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帆を張った舟と帆をおろしてマストのついた舟が数隻見えます。また町の真ん中に大きな梯子?階段?が見えますがこれは火の見櫓でしょうか? いや醤油工場の煙突かもしれません。

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この屋号はどこの舟でしょう。横幅は結構広く、2m以上あるように見えます。

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全部で舟は10隻以上描かれています。
かなり賑やかだったと思われます。この絵が奉納されたのは慶応4年の3月です。明治元年は同じ年の9月でした。
また、大政奉還は前年の慶応3年。戊辰戦争がはじまったのは、この慶応4年です。

こののどかな景色・風景と当時の動きとがうまく頭の中で整理できません。
山岡鉄舟の活躍した時代と同じなのですから。

ところで、この山岡鉄舟の兄(小野古風)は、高浜小学校(私塾からスタート)の創始者で、初代校長でした。
 

霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/05 19:51

霞ケ浦水運(7)-蒸気船

 さて、昨日霞ケ浦の高瀬舟のことを書いたのですが、その後調べてみるとかなり大きなものが多く就航していたようです。
「いしおか100物語」によると、その積載量の規模は
<高瀬船>
・霞ケ浦  900~1200俵 (利根川下流域まで:1船に船頭と水主5-6人。北浦も含む)
・中利根川 300~550俵
・鬼怒川  250~500俵
・那珂川  500~600俵
<平田船>  300~500俵
<茶船>   60~100俵
<川下小船> 25俵

また、明治期には外輪蒸気船が就航します。まさに人と荷物を運ぶ足として、霞ケ浦周辺の町を結ぶ航路として運行されていたのです。

この外輪蒸気船「通運丸」の画像(ポスター)がTeaCupにアップされていました。 →こちら
煙突から煙を吐きながら霞ケ浦を行ったり来たりしていた様子が目に浮かぶようです。

これは戦前まで運行されていたようですので、お年寄りの方は見ておられる人も多いと思います。

また、参考までにこの航路が今泉さんのブログに昨年12月乗っていました。→こちらです。

大変参考になりました。
さて、これによるとたくさんの船着き場があったようです。高浜・小川・羽生・玉造・柏崎・田伏・井上・五反田・今宿・麻生・牛堀・佐原・・・ いろいろなルートがあったようですね。

「霞ケ浦四十八津」という霞ケ浦の周りの漁師たちで作る自治組織のようなものが、江戸時代になる前からあったといいます。
江戸時代の初めに、下玉里村の大地主が自分が有している土地の前に広がる高浜入を水戸藩占有できる「御留川(おとめがわ)」の申し入れがなされ、これが認められてしまいました。

実は、この下玉里村の対岸は「井関」で、昔は水戸藩領だったのです。
従って、高浜の入り江の入口部分の漁業権が漁師になく、雇われた漁民が大網で大量に魚をとる事態になってしまいました。

これに反対していた「霞ケ浦四十八津」の漁師たちは、「御留川」以外での漁となりましたが、乱獲を防ぎ、自分たちの子孫にまで霞ケ浦の豊かな自然をまもるため、会議を毎年行ない、大量の捕獲法を認めず罰則も設けた八カ条を制定し、江戸末期まで続けてきたといいます。

 霞ケ浦の歴史も知らない事が多いですね。少しずつわかってくると見る楽しさもUPします。

それにしても、この高浜から霞ケ浦沿い東に行く道は鹿島鉄道が通っていた道ですね。
船がなく、鉄道がなくなり、お互いを有機的に結びつける強いきずながなくなってきています。
石岡の歴史を紐解いていますが、これも昔からの物や文化の流れがあってこそ成り立っています。

是非その流れを断ち切らないように、お互いがお互いの立場や歴史的な流れを知り、お互いの文化を大切にしていく交流が大切だと感じました。

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高浜に残る昔の河岸問屋の名残を残す建物。もうほとんど残っていませんね。
 
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この場所は石岡市高浜と小美玉市高崎の市境となっているところで、龍神山から柏原池を通り石岡駅で一旦地下にもぐって流れてきている山王川が霞ケ浦に注ぐところです。
とても穏やかな流れです。
行政区分上は別々の市ですが、昔の生活の流れはつながっています。
明日は、この先の高崎地区を少しだけ紹介します。
 
  

霞ケ浦水運 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/06 18:52
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