旧土浦中学校本館(国重要文化財)
今やっているNHKの朝の連続テレビ小説「おひさま」の撮影場所にもなった国の重要文化財「旧土浦中学校校舎」を見てきた。
現在の県立土浦第一高等学校の敷地内に保存されている。
高校は何度かお邪魔したことがあるが裏の方の古い校舎は見ていなかった。
明治の建築だが、とてもモダンな西洋建築をふんだんに取り入れとても素晴らしいものだった。
明治37年の施行だが、設計者駒杵勤治は当時わずか25歳で東京帝国大学を卒業して日も浅い青年であったといいます。
驚嘆の出来栄えですね。
同じ設計者が常陸太田の太田中学(現太田一校)も手掛けており、その講堂が保存されている。こちらも同時に国の重要文化財に登録された。
内部の公開は月1度程度のようですので、確認してからお出かけください。
この日は扉は閉まっていました。
さて、この学校も県内屈指の進学校として有名で、卒業生もたくさんおられると思うが学生時代を振りかえって、
「そんな素敵だったかな?」
などという声も耳にする。
当然お色直しなども行なわれているとは思うが、身近にある時は意外に気がつかないものですね。

ワイドのカメラではないので、2枚の写真をくっつけています。

本館玄関。


中に入れませんでしたので、外から教室の方を・・・。


教室の建物だけではなく、庭もかなり凝った設計になっています。

こちらは現在の自転車置き場の横の建物です。
何かに使われているようです。


石岡の街も昔はこのような凝ったモダンで斬新な建物があった。
今残っていればなどとため息のつくような建造物だった。
石岡駅もモダンなのだが、どこかインパクトがないと思うのは私だけだろうか。
自らの存在感を主張しているものでなければ人の目に留まらない。
現在の県立土浦第一高等学校の敷地内に保存されている。
高校は何度かお邪魔したことがあるが裏の方の古い校舎は見ていなかった。
明治の建築だが、とてもモダンな西洋建築をふんだんに取り入れとても素晴らしいものだった。
明治37年の施行だが、設計者駒杵勤治は当時わずか25歳で東京帝国大学を卒業して日も浅い青年であったといいます。
驚嘆の出来栄えですね。
同じ設計者が常陸太田の太田中学(現太田一校)も手掛けており、その講堂が保存されている。こちらも同時に国の重要文化財に登録された。
内部の公開は月1度程度のようですので、確認してからお出かけください。
この日は扉は閉まっていました。
さて、この学校も県内屈指の進学校として有名で、卒業生もたくさんおられると思うが学生時代を振りかえって、
「そんな素敵だったかな?」
などという声も耳にする。
当然お色直しなども行なわれているとは思うが、身近にある時は意外に気がつかないものですね。

ワイドのカメラではないので、2枚の写真をくっつけています。

本館玄関。


中に入れませんでしたので、外から教室の方を・・・。


教室の建物だけではなく、庭もかなり凝った設計になっています。

こちらは現在の自転車置き場の横の建物です。
何かに使われているようです。


石岡の街も昔はこのような凝ったモダンで斬新な建物があった。
今残っていればなどとため息のつくような建造物だった。
石岡駅もモダンなのだが、どこかインパクトがないと思うのは私だけだろうか。
自らの存在感を主張しているものでなければ人の目に留まらない。
旧筑波鉄道の駅案内板
昨日、この週末神戸に出かけていた妻を迎えに茨城空港へ行った。
驚いたことに大勢の人が訪れていた。昼時だったせいもあるが、2Fの食堂も満席に近い状態。
駐車場も8割くらい埋まっていた。
理由は1週間ほど前から自衛隊のF4ファントム戦闘機が2機展示され見学・写真撮影が可能になったから。
私はあまり興味がないので通りの外から眺めただけだが、これでもこんなに集客ができるのに驚いた。
しかし土産物屋はあまり買う人はいない。また、石岡の物はパンフレッドも土産物も何もない。
茨城のお酒などと言っても石岡ではないようだ。テナントに参加しなかった??
何か違和感があります。
さて、昨日の土浦一校の続きです。
旧土浦中学の校舎の裏側は部活などの小屋がありますが、その角に昭和62年に廃止となった筑波鉄道の「土浦駅ホームにあった案内板」置かれていた。
「あ、こんなところに・・・」
といった感じだ。


さて、昨日紹介した旧土浦中学の本館校舎の左となりに同じような洒落た建物があります。
「進修学習館」と看板が掛けられています。
この建物は創立100周年記念事業で建設されたもののようです。
2Fも灯りがついており、夏休みにも何回か使われるような計画表が貼ってありました。


外へ出て真鍋小学校側の通りから眺めてみました。真鍋小学校も桜で有名ですが、現在工事中で見られませんでした。

驚いたことに大勢の人が訪れていた。昼時だったせいもあるが、2Fの食堂も満席に近い状態。
駐車場も8割くらい埋まっていた。
理由は1週間ほど前から自衛隊のF4ファントム戦闘機が2機展示され見学・写真撮影が可能になったから。
私はあまり興味がないので通りの外から眺めただけだが、これでもこんなに集客ができるのに驚いた。
しかし土産物屋はあまり買う人はいない。また、石岡の物はパンフレッドも土産物も何もない。
茨城のお酒などと言っても石岡ではないようだ。テナントに参加しなかった??
何か違和感があります。
さて、昨日の土浦一校の続きです。
旧土浦中学の校舎の裏側は部活などの小屋がありますが、その角に昭和62年に廃止となった筑波鉄道の「土浦駅ホームにあった案内板」置かれていた。
「あ、こんなところに・・・」
といった感じだ。


さて、昨日紹介した旧土浦中学の本館校舎の左となりに同じような洒落た建物があります。
「進修学習館」と看板が掛けられています。
この建物は創立100周年記念事業で建設されたもののようです。
2Fも灯りがついており、夏休みにも何回か使われるような計画表が貼ってありました。


外へ出て真鍋小学校側の通りから眺めてみました。真鍋小学校も桜で有名ですが、現在工事中で見られませんでした。

難読地名-嘉良寿理
このブログでも何度か地名を取り上げてきました。
ブログを書くために調べるうちに、最初の頃と比べて地名についても自分の見方も大分変わってきたように思います。
さて、石岡に「嘉良寿理」という地名があります。何と読むでしょうか?
「カラスリ」と読みます。漢字をそのまま読めば読めますね。
でも普通の人は読めません。どこか不思議な地名です。周りの地名「林」「山崎」「柴間」「瓦会」などとはニュアンスが異なります。あきらかに言葉があって漢字はあとからあてはめられたということでしょう。
八郷町が石岡市と合併したのは平成17年10月。下の「八郷町史」が出版されたのは平成17年の3月。「八郷町の地名」の方は平成15年12月です。これは平成の大合併が検討されていた平成12年から八郷町の名前がなくなるのを危惧して作成されたものです。
大分急いで作成されたため、内容は不十分と思えるか所が散見されますが、その労は多とさせていただきます。
石岡にも地名の立派な本が出版されていますが、基本がどうしても元禄や天保などの時代にしかさかのぼれず、こちらからのアプローチは必ず一方的な解釈にならざるを得ないように思います。
八郷の地名の本は内容は兎も角、字地名や昔の集落の地名がかなり列挙されており、記録としての価値がありそうに思います。

「元禄郷帳には鷹爪、天保郷帳では烏瓜、新編常陸国誌では烏瓜(加良須宇里)、明治17年の陸軍部作成地形図は加良須里とある。現在は嘉良寿理と表記している。本来は「涸州里」で水の少ない谷津地集落の意であろう。一方では「唐住里」で大陸渡来人の住んだ集落説を唱える説もある。
集落の北側台地上には、瓦谷街道(後宇都宮街道)の古道があり、街道沿いには茨城県指定文化財の嘉良寿理経筒出土地、旧嘉良寿理村社貴船神社がある。・・・近世旗本領、・・・天保14年の戸数は16戸である。」
と書かれています。この場所を谷津地(恋瀬川支流の一つの源流地)と見るか、まったく別の見方があるのか? 唐は昔はインド、中国、韓国などの地はすべて唐という見方もあります。
さて、ネットで検索して見ると、「あやしい地名研究」という変わったサイトがありました。登録された地名からある単語で検索をして、その地名の分布と縄文遺跡の分布などを突き合わせていた。
おもしろい手法だと思う。
ここでは「カラス」「ラス」「シラス」などの語で検索して解釈を加えている。
1)「カラス」を含む地名は背後に険しい山のある「岡」にあることが多いといってよい。
2)「からす」は山の人々、「から」と呼ばれた人々の「巣」ではないか。「か」は「かみ(上)」「かむる(被る)」の「か」であり「上のほう(も人々)」となる。「かす」ではなく「からす」であるが「ら」とは何か?「ら」は「そこ等」「僕等」「はらから(同胞)」の「ら」であると思う。複数を表す「ら」である。
となっています。
また「唐」についても解釈がなされ、天竺などインド、中国、韓国などは遠いところと、高いところと解釈しています。
おもしろいですね。

高台の丘の上からは東には難台山などの山並みがきれいだ。

地区にある貴船神社にあるスタジイは市内の古木としても大変大きな木である。
訪れる人もほとんどいないが、幻の旧宇都宮街道の休憩場所としても旅人をいやしたに違いない。
この高台からは両側の山が見渡せる。

さて、この八郷や石岡の地名をデータベースに取り込んで、ほとんどは郵便番号帳で取り込めると思いますが、検索プログラムでも作成して検討して見たいと思うようになりました。
そのうちにやってみましょう。プログラムは単純なものならEXCELで意外に簡単にできそうです。
ブログを書くために調べるうちに、最初の頃と比べて地名についても自分の見方も大分変わってきたように思います。
さて、石岡に「嘉良寿理」という地名があります。何と読むでしょうか?
「カラスリ」と読みます。漢字をそのまま読めば読めますね。
でも普通の人は読めません。どこか不思議な地名です。周りの地名「林」「山崎」「柴間」「瓦会」などとはニュアンスが異なります。あきらかに言葉があって漢字はあとからあてはめられたということでしょう。
八郷町が石岡市と合併したのは平成17年10月。下の「八郷町史」が出版されたのは平成17年の3月。「八郷町の地名」の方は平成15年12月です。これは平成の大合併が検討されていた平成12年から八郷町の名前がなくなるのを危惧して作成されたものです。
大分急いで作成されたため、内容は不十分と思えるか所が散見されますが、その労は多とさせていただきます。
石岡にも地名の立派な本が出版されていますが、基本がどうしても元禄や天保などの時代にしかさかのぼれず、こちらからのアプローチは必ず一方的な解釈にならざるを得ないように思います。
八郷の地名の本は内容は兎も角、字地名や昔の集落の地名がかなり列挙されており、記録としての価値がありそうに思います。

「元禄郷帳には鷹爪、天保郷帳では烏瓜、新編常陸国誌では烏瓜(加良須宇里)、明治17年の陸軍部作成地形図は加良須里とある。現在は嘉良寿理と表記している。本来は「涸州里」で水の少ない谷津地集落の意であろう。一方では「唐住里」で大陸渡来人の住んだ集落説を唱える説もある。
集落の北側台地上には、瓦谷街道(後宇都宮街道)の古道があり、街道沿いには茨城県指定文化財の嘉良寿理経筒出土地、旧嘉良寿理村社貴船神社がある。・・・近世旗本領、・・・天保14年の戸数は16戸である。」
と書かれています。この場所を谷津地(恋瀬川支流の一つの源流地)と見るか、まったく別の見方があるのか? 唐は昔はインド、中国、韓国などの地はすべて唐という見方もあります。
さて、ネットで検索して見ると、「あやしい地名研究」という変わったサイトがありました。登録された地名からある単語で検索をして、その地名の分布と縄文遺跡の分布などを突き合わせていた。
おもしろい手法だと思う。
ここでは「カラス」「ラス」「シラス」などの語で検索して解釈を加えている。
1)「カラス」を含む地名は背後に険しい山のある「岡」にあることが多いといってよい。
2)「からす」は山の人々、「から」と呼ばれた人々の「巣」ではないか。「か」は「かみ(上)」「かむる(被る)」の「か」であり「上のほう(も人々)」となる。「かす」ではなく「からす」であるが「ら」とは何か?「ら」は「そこ等」「僕等」「はらから(同胞)」の「ら」であると思う。複数を表す「ら」である。
となっています。
また「唐」についても解釈がなされ、天竺などインド、中国、韓国などは遠いところと、高いところと解釈しています。
おもしろいですね。

高台の丘の上からは東には難台山などの山並みがきれいだ。

地区にある貴船神社にあるスタジイは市内の古木としても大変大きな木である。
訪れる人もほとんどいないが、幻の旧宇都宮街道の休憩場所としても旅人をいやしたに違いない。
この高台からは両側の山が見渡せる。

さて、この八郷や石岡の地名をデータベースに取り込んで、ほとんどは郵便番号帳で取り込めると思いますが、検索プログラムでも作成して検討して見たいと思うようになりました。
そのうちにやってみましょう。プログラムは単純なものならEXCELで意外に簡単にできそうです。
消えた真鍋公園(土浦)と正岡子規
土浦の一高近くに「真鍋公園(総宜園)」という高台の公園があった。
明治22年に若き日の正岡子規が「水戸紀行」に書きしるした場所だ。
まだ常磐線が走っていなかった時に、学生だった子規は水戸にいる友人のところへ友達と2人で歩いて旅しました。
藤代で1泊して、土浦にやってきました。霞ケ浦を見るのを楽しみにしていたのに土浦から何も見えません。
この真鍋にやってきて小高い山の上の公園に登ってみました。
「見えた見えた。」ととても喜んで歌を残しました。
「霞みながら 春雨ふるや 湖の上」
時は4月で、少し雨が降るあいにくの天気でした。
子規がながめた霞ケ浦と土浦の街はこんな感じだったのだろう。
絵葉書が残されていました。

[よろずや商会絵葉書ギャラリー]より(明治40年頃の真鍋公園)
この真鍋公園は6号国道ができる時に削られてなくなってしまいました。
この場所が良くわからなかったのですが、公園の半分の場所が残っていました。
「愛宕神社」がある場所です。
6号国道側から神社へ登る階段がついています。

しかし、この階段は途中で崩れて登れません。

柳生四郎氏が水戸紀行の道筋を昭和24年頃自ら訪ねて歩き、解説本を出版しています。
この昭和24年頃にはまだ公園はあったようです。
しかし、「この公園地も、六号国道ができるときけずり取られて、現在は石段も崩れたままで、容易には上れないままに、町の一角に忘れ去られたようになっている」と書かれています。

さて、この公園は愛宕神社の隣にあったそうで、今の神社は国道側からはいけません。
隣にある「真延寺」側から裏を回って行くことができました。

神社には祠と子規の碑の木の看板が置かれていました。しかし、ここからは木々が邪魔して霞ケ浦を見渡すことができません。
そこで、隣りの真延寺の境内から見渡せることから、ここに子規の碑を建立しました。

真延寺は七福神を祀る無宗派の寺です。


この後、子規は石岡の「万屋」旅館に宿泊します。一等の宿だとほめているのに、石岡では記念碑もない。
明治22年に若き日の正岡子規が「水戸紀行」に書きしるした場所だ。
まだ常磐線が走っていなかった時に、学生だった子規は水戸にいる友人のところへ友達と2人で歩いて旅しました。
藤代で1泊して、土浦にやってきました。霞ケ浦を見るのを楽しみにしていたのに土浦から何も見えません。
この真鍋にやってきて小高い山の上の公園に登ってみました。
「見えた見えた。」ととても喜んで歌を残しました。
「霞みながら 春雨ふるや 湖の上」
時は4月で、少し雨が降るあいにくの天気でした。
子規がながめた霞ケ浦と土浦の街はこんな感じだったのだろう。
絵葉書が残されていました。

[よろずや商会絵葉書ギャラリー]より(明治40年頃の真鍋公園)
この真鍋公園は6号国道ができる時に削られてなくなってしまいました。
この場所が良くわからなかったのですが、公園の半分の場所が残っていました。
「愛宕神社」がある場所です。
6号国道側から神社へ登る階段がついています。

しかし、この階段は途中で崩れて登れません。

柳生四郎氏が水戸紀行の道筋を昭和24年頃自ら訪ねて歩き、解説本を出版しています。
この昭和24年頃にはまだ公園はあったようです。
しかし、「この公園地も、六号国道ができるときけずり取られて、現在は石段も崩れたままで、容易には上れないままに、町の一角に忘れ去られたようになっている」と書かれています。

さて、この公園は愛宕神社の隣にあったそうで、今の神社は国道側からはいけません。
隣にある「真延寺」側から裏を回って行くことができました。

神社には祠と子規の碑の木の看板が置かれていました。しかし、ここからは木々が邪魔して霞ケ浦を見渡すことができません。
そこで、隣りの真延寺の境内から見渡せることから、ここに子規の碑を建立しました。

真延寺は七福神を祀る無宗派の寺です。


この後、子規は石岡の「万屋」旅館に宿泊します。一等の宿だとほめているのに、石岡では記念碑もない。
常陸七福神
正岡子規の句碑のある土浦「真延寺」は七福神をまつる変わった寺だ。「億萬山真延寺」とある。
ついでにこちらも紹介しておこう。
6号国道の土浦一高手前、土浦側から坂を上った頂上手前くらいに左に寺への入口がある。
赤白の旗が両脇にひらめいている。稲荷神社などの風情に似ている。

この階段を上ったところが真延寺であるが、境内の右手に「子規の句碑」がおかれ、左手にこの七福神の石像が置かれている。

本尊は寺の中に比較的小さな金の七福神(七体)(個人の方が家宝として居たものを寄贈した)があります。
この寺は商売繁盛を願って市民有志で20年ほど前に建立したものだそうだ。
寺も無宗派で、市民で造る寺という一風変わった寺だ。
従って、正岡子規が登った真鍋公園がなくなってから建ったものだ。
さて、常陸七福神というものがある。
常陸七福神とは真延寺(土浦)七福神、笠間稲荷の大国天、筑波山神社の恵比寿、月山寺(桜川市)の布袋尊、逢善寺(稲敷)の弁財天、西光院(石岡)の毘沙門天、長勝寺(潮来)の福禄寿、西蓮寺(行方)の寿老人
をいうという。お近くの神社などに行った時は気をつけて見ていただきたい。
まあ、あちこちに七福神の寺や神社が結構多い。東京七福神、利根七福神、出雲七福神など各地で七福神巡りが楽しめるようです。
福にあやかりたいですね。
ついでにこちらも紹介しておこう。
6号国道の土浦一高手前、土浦側から坂を上った頂上手前くらいに左に寺への入口がある。
赤白の旗が両脇にひらめいている。稲荷神社などの風情に似ている。

この階段を上ったところが真延寺であるが、境内の右手に「子規の句碑」がおかれ、左手にこの七福神の石像が置かれている。

本尊は寺の中に比較的小さな金の七福神(七体)(個人の方が家宝として居たものを寄贈した)があります。
この寺は商売繁盛を願って市民有志で20年ほど前に建立したものだそうだ。
寺も無宗派で、市民で造る寺という一風変わった寺だ。
従って、正岡子規が登った真鍋公園がなくなってから建ったものだ。
さて、常陸七福神というものがある。
常陸七福神とは真延寺(土浦)七福神、笠間稲荷の大国天、筑波山神社の恵比寿、月山寺(桜川市)の布袋尊、逢善寺(稲敷)の弁財天、西光院(石岡)の毘沙門天、長勝寺(潮来)の福禄寿、西蓮寺(行方)の寿老人
をいうという。お近くの神社などに行った時は気をつけて見ていただきたい。
まあ、あちこちに七福神の寺や神社が結構多い。東京七福神、利根七福神、出雲七福神など各地で七福神巡りが楽しめるようです。
福にあやかりたいですね。
真鍋宿(旧水戸街道)
旧水戸街道の宿場は土浦の先は「真鍋宿」があった。
しかし、土浦からは1kmほどしか離れていないためほとんど一体とも言える。
城下町であった「土浦」は街道がカギ形になっており宿場もそれに沿って並んでいたと思われます。
そしてその宿場のはずれにまたこの真鍋の宿場となった。
さて、昨日書いた正岡子規が旅した時の内容だが、
「土浦の町は街道の一すぢ道にはあらず少しはあちらへ曲りこちらへ曲りして家數も可なりありげに見ゆ」
と書かれており、昼時だったので飯を食おうと宿屋みたいなところで飯を作ってもらおうと入ったがすぐに用意ができないと断られ、街外れまで来てしまいます。
そこで、小さな旅籠にいって頼むとすぐにできるから上がれといわれ、仕方なく上がって観察するとどうもそこは「曖昧屋」だと気がついたとなっています。
飯もうまくなく対応にもいたたまれずそっと外に出ると向かいに車屋がありよろこんで頼んだらあまりにも法外な値段を言われ、疲れた足でまた歩き始め、そして昨日の真鍋公園から霞ケ浦を眺めたのです。

この真鍋宿は主に土浦一高下の坂道にその面影が残っています。


こちらの建物は「藤本蚕業株式会社支店」となっています。
藤本蚕業は蚕業で栄えた長野県の上田にあった蚕種製造業の総元締の会社で現在もその歴史館が上田にあります。

坂の上の方から眺めた真鍋宿。
しかし、土浦からは1kmほどしか離れていないためほとんど一体とも言える。
城下町であった「土浦」は街道がカギ形になっており宿場もそれに沿って並んでいたと思われます。
そしてその宿場のはずれにまたこの真鍋の宿場となった。
さて、昨日書いた正岡子規が旅した時の内容だが、
「土浦の町は街道の一すぢ道にはあらず少しはあちらへ曲りこちらへ曲りして家數も可なりありげに見ゆ」
と書かれており、昼時だったので飯を食おうと宿屋みたいなところで飯を作ってもらおうと入ったがすぐに用意ができないと断られ、街外れまで来てしまいます。
そこで、小さな旅籠にいって頼むとすぐにできるから上がれといわれ、仕方なく上がって観察するとどうもそこは「曖昧屋」だと気がついたとなっています。
飯もうまくなく対応にもいたたまれずそっと外に出ると向かいに車屋がありよろこんで頼んだらあまりにも法外な値段を言われ、疲れた足でまた歩き始め、そして昨日の真鍋公園から霞ケ浦を眺めたのです。

この真鍋宿は主に土浦一高下の坂道にその面影が残っています。


こちらの建物は「藤本蚕業株式会社支店」となっています。
藤本蚕業は蚕業で栄えた長野県の上田にあった蚕種製造業の総元締の会社で現在もその歴史館が上田にあります。

坂の上の方から眺めた真鍋宿。
真鍋宿-善応寺
土浦の真鍋宿には「善応寺」という真言宗豊山派の寺がある。
宿場町の途中からも脇道を入ると寺に出られる。宿場につながった寺と言える。
さて、この寺に石岡生まれの「佐久良東雄(さくらあずまお)」の墓があるのです。
生家(飯嶋家)が石岡市の柿岡の手前にあり、こちらにも先日風土記の丘の曲屋の藁葺屋根を見ていたらまた行きたくなってお邪魔した。
こちらはまた後で紹介できればと思います。
佐久良東雄は桜田門外の変の水戸浪士をかくまったとして投獄され、「徳川の粟は食えない」と断食して獄死しました。
また25歳から8年間、この善応寺の住職をしており、寺の観音堂に架かる額(聖観音)は東雄の書だといわれています。

境内の墓地にある東雄の墓の向かって右側には土浦藩の英才大久保要の墓がある。
大久保も安政の大獄で投獄され、獄中で死亡しています。

何げなく置かれている石像が長年風雨にさらされてきた年月を感じさせてくれました。


寺の入口左手に「照井の井戸」というきれいな井戸があります。
この井戸は、寺を見学している間にもひっきりなしに、何人もの人が水を汲みに来ていました。
昔はこの真鍋の宿場の水として重宝がられたに違いないでしょう。
説明では、鎌倉街道にも近く、水戸街道沿いでもあったので憩いの場でもあったろう。土浦藩がこの井戸を保護していたと記されていました

土浦市の指定文化財に指定されている。

明日は震災後行っていなかった銚子に出かけます。
またしばらくは月1回程度、定期的に行くことになりそうです。うまい魚が食べたい。
明後日は東京の実家と夜は友人との飲み会。帰りが遅くなりそう。
宿場町の途中からも脇道を入ると寺に出られる。宿場につながった寺と言える。
さて、この寺に石岡生まれの「佐久良東雄(さくらあずまお)」の墓があるのです。
生家(飯嶋家)が石岡市の柿岡の手前にあり、こちらにも先日風土記の丘の曲屋の藁葺屋根を見ていたらまた行きたくなってお邪魔した。
こちらはまた後で紹介できればと思います。
佐久良東雄は桜田門外の変の水戸浪士をかくまったとして投獄され、「徳川の粟は食えない」と断食して獄死しました。
また25歳から8年間、この善応寺の住職をしており、寺の観音堂に架かる額(聖観音)は東雄の書だといわれています。

境内の墓地にある東雄の墓の向かって右側には土浦藩の英才大久保要の墓がある。
大久保も安政の大獄で投獄され、獄中で死亡しています。

何げなく置かれている石像が長年風雨にさらされてきた年月を感じさせてくれました。


寺の入口左手に「照井の井戸」というきれいな井戸があります。
この井戸は、寺を見学している間にもひっきりなしに、何人もの人が水を汲みに来ていました。
昔はこの真鍋の宿場の水として重宝がられたに違いないでしょう。
説明では、鎌倉街道にも近く、水戸街道沿いでもあったので憩いの場でもあったろう。土浦藩がこの井戸を保護していたと記されていました

土浦市の指定文化財に指定されている。

明日は震災後行っていなかった銚子に出かけます。
またしばらくは月1回程度、定期的に行くことになりそうです。うまい魚が食べたい。
明後日は東京の実家と夜は友人との飲み会。帰りが遅くなりそう。
板谷の松並木(旧水戸街道)
江戸日本橋から水戸までの旧水戸街道(江戸街道)に唯一残っている松並木が土浦市の板谷にあります。
前から何度も通っていたところですが、旧水戸街道唯一の松並木街道とは気がつきませんでした。
真鍋宿からその先の中貫宿までの中間くらいになります。

この右側が日立電線の工場入口です。松並木はこの辺りから続きます。

江戸時代から続く街道の名残がありますが、昔は両側に続いていたのでしょう。
ところどころが少しずつ減っていっているようです。


この松並木の途中に「板谷の一里塚」ありました。
通りの両側に塚が残されています。



反対側の一里塚です。
この一里(約4km)毎に置かれた一里塚ですが、この先は「千代田.石岡インター」出口にあり、その次が「石岡の一里塚」です。
前から何度も通っていたところですが、旧水戸街道唯一の松並木街道とは気がつきませんでした。
真鍋宿からその先の中貫宿までの中間くらいになります。

この右側が日立電線の工場入口です。松並木はこの辺りから続きます。

江戸時代から続く街道の名残がありますが、昔は両側に続いていたのでしょう。
ところどころが少しずつ減っていっているようです。


この松並木の途中に「板谷の一里塚」ありました。
通りの両側に塚が残されています。



反対側の一里塚です。
この一里(約4km)毎に置かれた一里塚ですが、この先は「千代田.石岡インター」出口にあり、その次が「石岡の一里塚」です。
石岡の地名-狢内
映画やテレビの時代劇などでよく使われる龍明にある長楽寺。
この寺は愛宕山13天狗に登場する13番目の天狗の寺としても有名で、江戸時代の本にも狢内村の長楽寺として出てくる。
少し前までこの地区は(葦穂村)狢内と呼ばれていた。
この場所に行って、裏は山で奥まった感じから「むじな」とは当然タヌキやアライグマなどで人を化かすムジナのことだとばかり思っていた。
しかし、先日借りてきた「八郷町の地名」によると
「狢内の地名の由来は不明であるが、獣の狢ではない。足尾山中腹の山中に位置する狢内に、源流を発する小さな川は、下流の鯨岡と弓張境までの川岸が山間の急流を流れることからの地形語と考えられる。
「ムサ・ムシ・ムジナ」などの意は山中の「沢」が曲流して崩壊地形をつくる地名を言う。
「ムジナ・ムジル」でむしり取るの沢が流れの方向を変える処の意ともいわれている。」
となっています。では「むしる」という言葉は「たわわ」などと同じ縄文語?かもしれない。
ところで旧八郷には変わった地名も多いが、「林(はやし)」などという大きな村があったが、あまり直接このようなストレートの名前は珍しい。
これについては「八郷町の地名」によれば、「拜師」で信仰対象地域の意であろうとしています。
しかし、「八郷町誌」では「和名抄」に書かれている茨城郡の18郷の中に「拝師(はやし)郷」とあるが、「出雲国風土記」に「ここの樹林が勢いよく茂っていたので、林という。神亀3年(726年)に字を拝志と改めた」とのことが書かれており、本来は「林」という地名であったのだろうとしています。
従って今は元に戻ったということなのでしょうか。
地名は難しいですね。どれももっともらしく聞こえてきます。

長楽寺の入口に立つ仁王門(裏手側から撮影)
MapFan地図へ
この寺は愛宕山13天狗に登場する13番目の天狗の寺としても有名で、江戸時代の本にも狢内村の長楽寺として出てくる。
少し前までこの地区は(葦穂村)狢内と呼ばれていた。
この場所に行って、裏は山で奥まった感じから「むじな」とは当然タヌキやアライグマなどで人を化かすムジナのことだとばかり思っていた。
しかし、先日借りてきた「八郷町の地名」によると
「狢内の地名の由来は不明であるが、獣の狢ではない。足尾山中腹の山中に位置する狢内に、源流を発する小さな川は、下流の鯨岡と弓張境までの川岸が山間の急流を流れることからの地形語と考えられる。
「ムサ・ムシ・ムジナ」などの意は山中の「沢」が曲流して崩壊地形をつくる地名を言う。
「ムジナ・ムジル」でむしり取るの沢が流れの方向を変える処の意ともいわれている。」
となっています。では「むしる」という言葉は「たわわ」などと同じ縄文語?かもしれない。
ところで旧八郷には変わった地名も多いが、「林(はやし)」などという大きな村があったが、あまり直接このようなストレートの名前は珍しい。
これについては「八郷町の地名」によれば、「拜師」で信仰対象地域の意であろうとしています。
しかし、「八郷町誌」では「和名抄」に書かれている茨城郡の18郷の中に「拝師(はやし)郷」とあるが、「出雲国風土記」に「ここの樹林が勢いよく茂っていたので、林という。神亀3年(726年)に字を拝志と改めた」とのことが書かれており、本来は「林」という地名であったのだろうとしています。
従って今は元に戻ったということなのでしょうか。
地名は難しいですね。どれももっともらしく聞こえてきます。

長楽寺の入口に立つ仁王門(裏手側から撮影)
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中貫宿(水戸街道)(1)
昔の街道をいくつか調べたり探してみたりしていますが、江戸時代のメイン街道は紹介される方も多く、ある程度知られていますので、敢えて取り上げるのは避けてきました。
しかし、近くは少しは紹介しておきたいとも思い、出かけてきました。
まずは常陸府中宿の2つ江戸寄りの「中貫(なかぬき)宿」です。
宿場の大名などが宿泊した宿(普通の旅籠ではなく、特別の家があてられた)を「本陣」といいますが、現在旧水戸街道で本陣が残っているところは「取手」「中貫」「稲吉」の3か所しかない。

現在の6号国道の中貫交差点から、一つ山側に平行に走る裏街道が旧水戸街道です。
古い町並みが少し残っていますが、手前の土浦・真鍋宿からの距離も近く、宿泊はしなかったようです。

この中貫本陣の本橋さんが今もここで暮らしています。
私も昔お世話になった方ですが、本陣とは知らずに車でこの門を何度か出入りしていました。
野菜(小松菜)やシイタケを分けていただきに行ったのです。
とても良い方ですよ。
天狗党に焼かれてしまい、その後の再建だといいます、。

今回の地震でも屋根瓦が一部壊れていました。

今日はこれから東京の実家に行きます。
夜は大学の友人数人と暑気払い。
次の更新は明日になりそうです。
しかし、近くは少しは紹介しておきたいとも思い、出かけてきました。
まずは常陸府中宿の2つ江戸寄りの「中貫(なかぬき)宿」です。
宿場の大名などが宿泊した宿(普通の旅籠ではなく、特別の家があてられた)を「本陣」といいますが、現在旧水戸街道で本陣が残っているところは「取手」「中貫」「稲吉」の3か所しかない。

現在の6号国道の中貫交差点から、一つ山側に平行に走る裏街道が旧水戸街道です。
古い町並みが少し残っていますが、手前の土浦・真鍋宿からの距離も近く、宿泊はしなかったようです。

この中貫本陣の本橋さんが今もここで暮らしています。
私も昔お世話になった方ですが、本陣とは知らずに車でこの門を何度か出入りしていました。
野菜(小松菜)やシイタケを分けていただきに行ったのです。
とても良い方ですよ。
天狗党に焼かれてしまい、その後の再建だといいます、。

今回の地震でも屋根瓦が一部壊れていました。

今日はこれから東京の実家に行きます。
夜は大学の友人数人と暑気払い。
次の更新は明日になりそうです。