大山寺(城里町)
さて、今日から10月です。
徳蔵寺で紹介した「開運花の寺」八か所めぐりも楽しそうなので、徳蔵寺からそのまま阿波山への道をたどり高根山大山寺に行きました。
道路標識には「阿波山-徳蔵線」と表示されているのでちゃんとした道が続いていると思ったのですが、途中から山道に入りすれ違いのできないような道が一部ありました。
これでは前に道を間違えてあきらめたのも今更ながらわかりました。
徳蔵(とくら)側からは比較的わかりやすく案内がありますが、逆からは分かれ道に案内がないので迷ってしまいました。
やはりカーナビ必要かな?
一応は持っているのだけれど、取り外せるタイプでほとんど置きっぱなしなのです。
前に一度、2年ほど前の冬にこの寺(大山寺)を訪れたことがありますが、花の時期でなく寂しい感じだったので、今度はどんな感じになっているか楽しみにしていました。

正面の山門とは別に花の寺らしく書院風の入口がありました。

これは前に行った冬の時の写真ですが、この寺ではクジャクを飼っていて、時々庭を散歩しているのに出くわします。今回行った時もオリから出て逃げ回っていたようです。

この花の庭にある東屋(あずまや)から寺の方を眺めたものです。
このお寺もいいですよね。


山門は2つあって、手前には左右に仁王像のいる立派な山門があり、その奥に昔の山門があるのですが、
これが今回の山門です。地震後左右に補強をしたようです。

こちらは、2年ほど前に撮ったものです。補強がありません。
この山門は平安末期の構造様式の物で、昭和40年に茅葺の物を瓦屋根にしたといいます。
また以前は15m程手前にあったといいますので、新しい山門を作る時に移動したものと思われます。

佐竹七福神の福禄寿さんの像と厄除けの赤い旗がたくさん。ここは子供の「疳の虫(かんのむし)」除けにご利益があるそうです。
ここの花の寺は「山ぼうし」「さんしゅう」「しゃが」だといいます。
あまり聞かない花の名前ですが珍しいのでしょうか。
ここの花のスタンプはこの山ぼうしでした。5~6月頃花を咲かせ、秋には紅葉するようです。
徳蔵寺で紹介した「開運花の寺」八か所めぐりも楽しそうなので、徳蔵寺からそのまま阿波山への道をたどり高根山大山寺に行きました。
道路標識には「阿波山-徳蔵線」と表示されているのでちゃんとした道が続いていると思ったのですが、途中から山道に入りすれ違いのできないような道が一部ありました。
これでは前に道を間違えてあきらめたのも今更ながらわかりました。
徳蔵(とくら)側からは比較的わかりやすく案内がありますが、逆からは分かれ道に案内がないので迷ってしまいました。
やはりカーナビ必要かな?
一応は持っているのだけれど、取り外せるタイプでほとんど置きっぱなしなのです。
前に一度、2年ほど前の冬にこの寺(大山寺)を訪れたことがありますが、花の時期でなく寂しい感じだったので、今度はどんな感じになっているか楽しみにしていました。

正面の山門とは別に花の寺らしく書院風の入口がありました。

これは前に行った冬の時の写真ですが、この寺ではクジャクを飼っていて、時々庭を散歩しているのに出くわします。今回行った時もオリから出て逃げ回っていたようです。

この花の庭にある東屋(あずまや)から寺の方を眺めたものです。
このお寺もいいですよね。


山門は2つあって、手前には左右に仁王像のいる立派な山門があり、その奥に昔の山門があるのですが、
これが今回の山門です。地震後左右に補強をしたようです。

こちらは、2年ほど前に撮ったものです。補強がありません。
この山門は平安末期の構造様式の物で、昭和40年に茅葺の物を瓦屋根にしたといいます。
また以前は15m程手前にあったといいますので、新しい山門を作る時に移動したものと思われます。

佐竹七福神の福禄寿さんの像と厄除けの赤い旗がたくさん。ここは子供の「疳の虫(かんのむし)」除けにご利益があるそうです。
ここの花の寺は「山ぼうし」「さんしゅう」「しゃが」だといいます。
あまり聞かない花の名前ですが珍しいのでしょうか。
ここの花のスタンプはこの山ぼうしでした。5~6月頃花を咲かせ、秋には紅葉するようです。
恋瀬川
気温も下がり秋めいてきました。
温度差が大きすぎて野菜などの葉ものは大きくなろうと思ったのに、思いとどまって予定通りに生産ができないらしい。
天高く馬肥ゆる秋ではあるのだが、あまり価格が高くなってはどうしようもない。。
お米や小麦も値上げだという。
一方、被災地の人々の抱えているローンなどの猶予ももう待ったなしで、仕事がなく頭を抱えている人が結構いると思う。
これからが正念場なのかもしれない。
さて、今日は先日、石岡の西側を流れる恋瀬川の6号国道にかかる「恋瀬橋」から筑波山側を撮影したものだ。
あまり、朝方撮る機会がなかったが、通りかかったのでロードパークに車を止めて撮影した。

やはりカメラがいいのでないとダメなのだが、それでも雰囲気は伝わると思う。
写真をブログに載せておられる方々はほとんどが、短い文だけで「内容を説明せずとも写真を見ろ」というスタイルだ。

しかし、私のは写真は補助的なもので、主は文章だと思っている。
昨日次回11月のことば座公演のポスター原稿を送っていただき、それをふるさと風の会のHPの方に載せた。
私は勝手に応援団といっているので、これもそのお手伝いではあるが、とても勉強になる。
やはり歳をとっても勉強しなければならないことを教えられる。
今回はその中の脚本原稿を送っていただき読ませていただいた。
そして、そこに書かれていた「後撰和歌集」に載せられている恋歌でも取り上げてみたい。
筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは)
恋(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる
陽成院(13番) 『後撰集』恋・777
もう、後撰和歌集は万葉集、古今集の後に作られたものだが、1100年以上も前に読まれた歌だ。
その中でも、筑波山を読んだとても有名な歌だ。
男女川は水無乃川と書いたり、解釈によりさまざまだ。
この男女川を筑波嶺の男体山と女体山の間を流れる細い川のことだというが、作者が筑波嶺に登ったかどうかはわからない。
きっと想像して歌ったものでしょう。
最初は細い川だが、やがて大きくなっていくように、恋心もしだいに積って大きく深く淵のようになってしまった程度の意味か?
しかし、歌が有名になりすぎて実際にどの川を指すのかなどという論争もあるようだが、あまり意味もないとも思う。
ここ「恋瀬川」などというのも昔は「表(おもて)川」「鯉川」「小泊(初)瀬川」「志筑(師付)川」などと何通りにも呼ばれてきたが、恋瀬川という名前に固定されたのだから、恋の川として認識されるようになったらいいなと思っている。
この恋瀬川の下流(中津川)で合流するかすみがうら市の方を流れる川を「天の川」というが、これもかなりいけてる名前だと思う。
笠間が「恋人の聖地」と指定されたのだから、石岡も何かできないものだろうか。
市の商工会でも市のイメージキャラクタ「恋瀬姫」にまつわる懸賞小説を募集している。
このイメージは少しハデな感じで、ふるさとの文化を掘り下げて新たな息吹を吹き込もうとしている「ことば座」の活動とは少し方向も違っているが、こちらの恋瀬姫にも筑波山を読んだ恋歌を是非広めていってもらいたいものである。
正岡子規が石岡で詠んだ歌
白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體
なんてのもあるので、この恋瀬橋から眺めた筑波山がもっとも美しい。
土浦やつくば側から見ると男体山と女体山が離れすぎていて、この歌のイメージには合わないのだから、石岡もこの景色は誇っていいと思う。
昨夜は土浦の桜川では恒例の花火大会があったが、人出も最近は多く見に行かなかった。
新潟長岡の花火を知っていると、あまり見に行く気になれない。
これも人混みがあまり好きでないのだからしょうがないね。
温度差が大きすぎて野菜などの葉ものは大きくなろうと思ったのに、思いとどまって予定通りに生産ができないらしい。
天高く馬肥ゆる秋ではあるのだが、あまり価格が高くなってはどうしようもない。。
お米や小麦も値上げだという。
一方、被災地の人々の抱えているローンなどの猶予ももう待ったなしで、仕事がなく頭を抱えている人が結構いると思う。
これからが正念場なのかもしれない。
さて、今日は先日、石岡の西側を流れる恋瀬川の6号国道にかかる「恋瀬橋」から筑波山側を撮影したものだ。
あまり、朝方撮る機会がなかったが、通りかかったのでロードパークに車を止めて撮影した。

やはりカメラがいいのでないとダメなのだが、それでも雰囲気は伝わると思う。
写真をブログに載せておられる方々はほとんどが、短い文だけで「内容を説明せずとも写真を見ろ」というスタイルだ。

しかし、私のは写真は補助的なもので、主は文章だと思っている。
昨日次回11月のことば座公演のポスター原稿を送っていただき、それをふるさと風の会のHPの方に載せた。
私は勝手に応援団といっているので、これもそのお手伝いではあるが、とても勉強になる。
やはり歳をとっても勉強しなければならないことを教えられる。
今回はその中の脚本原稿を送っていただき読ませていただいた。
そして、そこに書かれていた「後撰和歌集」に載せられている恋歌でも取り上げてみたい。
筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは)
恋(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる
陽成院(13番) 『後撰集』恋・777
もう、後撰和歌集は万葉集、古今集の後に作られたものだが、1100年以上も前に読まれた歌だ。
その中でも、筑波山を読んだとても有名な歌だ。
男女川は水無乃川と書いたり、解釈によりさまざまだ。
この男女川を筑波嶺の男体山と女体山の間を流れる細い川のことだというが、作者が筑波嶺に登ったかどうかはわからない。
きっと想像して歌ったものでしょう。
最初は細い川だが、やがて大きくなっていくように、恋心もしだいに積って大きく深く淵のようになってしまった程度の意味か?
しかし、歌が有名になりすぎて実際にどの川を指すのかなどという論争もあるようだが、あまり意味もないとも思う。
ここ「恋瀬川」などというのも昔は「表(おもて)川」「鯉川」「小泊(初)瀬川」「志筑(師付)川」などと何通りにも呼ばれてきたが、恋瀬川という名前に固定されたのだから、恋の川として認識されるようになったらいいなと思っている。
この恋瀬川の下流(中津川)で合流するかすみがうら市の方を流れる川を「天の川」というが、これもかなりいけてる名前だと思う。
笠間が「恋人の聖地」と指定されたのだから、石岡も何かできないものだろうか。
市の商工会でも市のイメージキャラクタ「恋瀬姫」にまつわる懸賞小説を募集している。
このイメージは少しハデな感じで、ふるさとの文化を掘り下げて新たな息吹を吹き込もうとしている「ことば座」の活動とは少し方向も違っているが、こちらの恋瀬姫にも筑波山を読んだ恋歌を是非広めていってもらいたいものである。
正岡子規が石岡で詠んだ歌
白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體
なんてのもあるので、この恋瀬橋から眺めた筑波山がもっとも美しい。
土浦やつくば側から見ると男体山と女体山が離れすぎていて、この歌のイメージには合わないのだから、石岡もこの景色は誇っていいと思う。
昨夜は土浦の桜川では恒例の花火大会があったが、人出も最近は多く見に行かなかった。
新潟長岡の花火を知っていると、あまり見に行く気になれない。
これも人混みがあまり好きでないのだからしょうがないね。
風土記の丘へ
10月になり最初の日曜日、気温は寒いくらいです。曇っていましたが、午後から常陸風土記の丘公園に何か咲いていないかのぞいてきました。

やはり、この時季はこの公園ではメインとなる花はないのですぐに目に飛び込んでくるものはありません。
しかし、日曜日のためか親子づれなどが結構遊びに来ていました。
イベントなどがない時は誰もいない公園をのんびり散策できるのですが、子供の声がこだまするのもいいものですね。
何かホットします。
すると、上の方の二つの沼へ通じるところに萩の花がこぼれるように咲いていました。
花の色は少しあせたような色で、遠くからはそれほど目立ちませんでしたが、近づいてみるときれいです。

公園からは木道を渡ったところです。向こうに見えるのは会津から移築した茅葺の民家です。
中にも自由に入れます。

この時季定番のコスモスです。右側が「時の門」といわれるモニュメントで「近代の門」中世の門」「古代の門」などが並んでいます。

彼岸花はやはり目立ちますね。バックはしだれ桜。

沼の方から小川が流れていますが、子どもたちが「ザリガニ採り」に夢中です。小さな女の子も平気で小さなザリガニを手で持って嬉しそうでしたよ。
私も昔横浜の三溪園でよく遅くまでザリガニ採りに夢中になっていたことを思い出しました。
小学1年生までしかいなかったので大分小さかった頃ですね。
子供たちの遊ぶ姿がそこにいつまでもあるのはとてもうれしくなりました。

やはり、この時季はこの公園ではメインとなる花はないのですぐに目に飛び込んでくるものはありません。
しかし、日曜日のためか親子づれなどが結構遊びに来ていました。
イベントなどがない時は誰もいない公園をのんびり散策できるのですが、子供の声がこだまするのもいいものですね。
何かホットします。
すると、上の方の二つの沼へ通じるところに萩の花がこぼれるように咲いていました。
花の色は少しあせたような色で、遠くからはそれほど目立ちませんでしたが、近づいてみるときれいです。

公園からは木道を渡ったところです。向こうに見えるのは会津から移築した茅葺の民家です。
中にも自由に入れます。

この時季定番のコスモスです。右側が「時の門」といわれるモニュメントで「近代の門」中世の門」「古代の門」などが並んでいます。

彼岸花はやはり目立ちますね。バックはしだれ桜。

沼の方から小川が流れていますが、子どもたちが「ザリガニ採り」に夢中です。小さな女の子も平気で小さなザリガニを手で持って嬉しそうでしたよ。
私も昔横浜の三溪園でよく遅くまでザリガニ採りに夢中になっていたことを思い出しました。
小学1年生までしかいなかったので大分小さかった頃ですね。
子供たちの遊ぶ姿がそこにいつまでもあるのはとてもうれしくなりました。
江畔寺(こうはんじ)
開運花の寺八寺の4番目である小瀬「江畔寺(こうはんじ)」を紹介しましょう。

寺の境内には真中に樹齢約450歳くらいの大イチョウがあります。
この木は市の天然記念物となっていて、秋には黄色の葉がきれいだそうです。

開運花の寺八寺の4番目で、花としては「つつじ」「さつき」「アヤメ」が登録されていますが、この時期ではこの白い萩の花がきれいでした。
また4月は木蓮もいいそうですよ。

この本堂は禅寺の説法の間にも使われていて、かなり大きな作りで見ごたえがあります。

現地の説明には「大方丈」と呼ばれ、江戸中期の建造物だそうです。

寺への入口の左手前に山門が造られています。平成16年に造られたものだといいますが、山門自体はもう少し古そうですので、どこからか移設したのでしょうか。

この山門をくぐった左手に裏山に登る階段があります。
上には「勝軍地蔵堂」が置かれていました。
説明書によると
「応永元年(1394年)に初祖(小瀬)義春を勝軍地蔵菩薩の化身仏と尊崇して西側山上に祭祀した江畔寺奥之院である」
となっています。
昔はこの山(愛宕山)の上に大きな鐘楼があったといいます。

境内に再建された鐘楼。

石段の途中から寺を見下ろすと、すぐ下の「仏殿」もいい形をしています。
これは、慶安元年の建立とされ釈迦如来が安置され、禅宗様式の佛殿として市の有形文化財だそうです。

「弁財天」:室町時代に祭祀され、その後、時代の流れの中で風化していたものを平成十六年に再建したものという。
赤い橋が印象的だが、この橋の下には鯉が泳いでいた。

寺の境内には真中に樹齢約450歳くらいの大イチョウがあります。
この木は市の天然記念物となっていて、秋には黄色の葉がきれいだそうです。

開運花の寺八寺の4番目で、花としては「つつじ」「さつき」「アヤメ」が登録されていますが、この時期ではこの白い萩の花がきれいでした。
また4月は木蓮もいいそうですよ。

この本堂は禅寺の説法の間にも使われていて、かなり大きな作りで見ごたえがあります。

現地の説明には「大方丈」と呼ばれ、江戸中期の建造物だそうです。

寺への入口の左手前に山門が造られています。平成16年に造られたものだといいますが、山門自体はもう少し古そうですので、どこからか移設したのでしょうか。

この山門をくぐった左手に裏山に登る階段があります。
上には「勝軍地蔵堂」が置かれていました。
説明書によると
「応永元年(1394年)に初祖(小瀬)義春を勝軍地蔵菩薩の化身仏と尊崇して西側山上に祭祀した江畔寺奥之院である」
となっています。
昔はこの山(愛宕山)の上に大きな鐘楼があったといいます。

境内に再建された鐘楼。

石段の途中から寺を見下ろすと、すぐ下の「仏殿」もいい形をしています。
これは、慶安元年の建立とされ釈迦如来が安置され、禅宗様式の佛殿として市の有形文化財だそうです。

「弁財天」:室町時代に祭祀され、その後、時代の流れの中で風化していたものを平成十六年に再建したものという。
赤い橋が印象的だが、この橋の下には鯉が泳いでいた。
龍谷院
「開運花の寺」8ヶ寺のうち「徳蔵寺」「大山寺」「江畔寺」と回りましたが、途中にもう一か所素通りしたところがありました。
寺の名前は「龍谷院」です。
地図をみて街道沿いに案内標識があったが、途中道が狭くなったりして不安を覚えながらも勘をたよりに無事到着しました。
とても良い寺で、花の寺としても穴場的なお勧め処ですね。YAHOOの地図には載っていません。

山門が寺への石段の途中にあり、石段の両側には紫陽花の木がありました。
是非紫陽花の咲く時期に訪れて見てください。
とてもいいと思います。

石段の途中にある山門です。更に奥に石段が続きます。このアングルはとても好きですね。
「瑞雲山」となっています。寺は曹洞宗(禅寺)で、長禄三年(西暦1459年)に大山城の佐竹義成か創建したとされます。
これは同じ花の寺高根山「大山寺」も佐竹義成の祈願所として寺を再興したので繋がりがありますね。

石段を登るとこの寺の高さがわかります。やはりこの石段と山門はいいですね。

境内です。ここは千手観音がまつられているそうです。写真は観音堂からお寺の方を見たところです。

当然花の寺巡りのスタンプももらってきました。
花は紫陽花です。9月なのにこんな白紫陽花が咲いていました。(9月中旬撮影)
この龍谷院も一時は末寺が三十六ヶ寺にも及んだといいます。
そしていまでも7か所が続いているそうです。
驚いたことに石岡根小屋の「泰寧寺」がその一つだそうです。
この泰寧寺は「山県大弐の墓」があることで知られ、座禅や写経の体験が受けられます。
住所は城里町下阿野沢1509 です。
それから、近くに「白山神社」とあるので行ってみようとしましたが、山の上で車では無理なようです。
手前の「白山荘」という宿にいって引き返しました。
「開運花の寺」巡りは半分しか行けませんでしたが、残り笠間市稲田の「金剛寺」、那珂市の「文殊院」「一乗院」「弘願寺」はまたの機会にします。
寺の名前は「龍谷院」です。
地図をみて街道沿いに案内標識があったが、途中道が狭くなったりして不安を覚えながらも勘をたよりに無事到着しました。
とても良い寺で、花の寺としても穴場的なお勧め処ですね。YAHOOの地図には載っていません。

山門が寺への石段の途中にあり、石段の両側には紫陽花の木がありました。
是非紫陽花の咲く時期に訪れて見てください。
とてもいいと思います。

石段の途中にある山門です。更に奥に石段が続きます。このアングルはとても好きですね。
「瑞雲山」となっています。寺は曹洞宗(禅寺)で、長禄三年(西暦1459年)に大山城の佐竹義成か創建したとされます。
これは同じ花の寺高根山「大山寺」も佐竹義成の祈願所として寺を再興したので繋がりがありますね。

石段を登るとこの寺の高さがわかります。やはりこの石段と山門はいいですね。

境内です。ここは千手観音がまつられているそうです。写真は観音堂からお寺の方を見たところです。

当然花の寺巡りのスタンプももらってきました。
花は紫陽花です。9月なのにこんな白紫陽花が咲いていました。(9月中旬撮影)
この龍谷院も一時は末寺が三十六ヶ寺にも及んだといいます。
そしていまでも7か所が続いているそうです。
驚いたことに石岡根小屋の「泰寧寺」がその一つだそうです。
この泰寧寺は「山県大弐の墓」があることで知られ、座禅や写経の体験が受けられます。
住所は城里町下阿野沢1509 です。
それから、近くに「白山神社」とあるので行ってみようとしましたが、山の上で車では無理なようです。
手前の「白山荘」という宿にいって引き返しました。
「開運花の寺」巡りは半分しか行けませんでしたが、残り笠間市稲田の「金剛寺」、那珂市の「文殊院」「一乗院」「弘願寺」はまたの機会にします。
泰寧寺(石岡・根小屋)
昨日、城里町の「龍谷院」を紹介しましたが、その寺の末寺の中にこの石岡の禅寺・泰寧寺(たいねいじ)の名前がありましたので、行ってみました。
前に「座禅体験」として取り上げた寺です。
場所は風土記の丘から「鬼越峠(おにこしとうげ)」を越えて比較的近くです。
戦国時代にここ根小屋、片野地区は小田氏を破った佐竹派の名将太田三楽(資正)の城(片野城)のあった地区です。
また、江戸時代の勤皇学者 山県大弐の墓があることでも有名です。
山県大弐は、1725年に甲斐国に生まれ、27才の時、江戸に出て儒学と兵学を講じ門人も三千人にも及んだといいます。また吉田松陰らにも影響を与えた思想家でもありました。
しかし、書いた書物が幕府を批判したとして捕らえられて処刑されました。時に43才でした。(明和事件)
大弐の門人で、根小屋(八郷町)出身の園部文之進らがひそかに処刑された師の首をはこび、この泰寧寺境内に葬ったものだそうです。
処刑されたのは明治維新の100年も前でした。
山県大弐の墓は生まれ故郷である山梨県甲斐市(旧竜王町)の山県神社と東京都新宿区全勝寺にもあるそうです。大弐は江戸に出た時、四谷坂町に住んでおり、夫人の里方の菩提寺である全徳寺に埋葬されたが、廃寺となったため全勝寺に移されたと載っていました。

寺の入口に咲く彼岸花。お墓の花との印象も強いですが、このようにして見ると、お寺にとても合う花ですね。


お寺側から見ると、向こうに筑波山と八郷の里山(稲刈りの終わった田圃)の煙が・・・
どこか懐かしい風景です。この辺りから見る筑波山は2つの頂上が1つに重なっています。
煙の向こう側のこんもりとした低い山は「富士山」といいます。
いつからその名前がついたのか・・・
その昔(万葉の頃)は「鼓ヶ峰(つつみがみね)」と呼ばれていたそうです。
その頃の筑波山への登山道はこちら側からが主体でした。のどかな平野から十三塚を通り真っ直ぐに登るのです。そして白滝を通って今の神社の手前から女体山へ登っていました。
先日、恋瀬川で書いた「男女川(みなのがわ)」が今では桜川に注ぐと思い込んでいますが、恋瀬川でないと当時の風景とマッチしないように思います。

この寺は禅寺で、禅や写経の体験が受けられます。
この5本柱の月丸扇の紋は佐竹氏の紋です。石岡の街中では清涼寺にもありました。
この寺は佐竹氏の秋田移封後に片野城に入った滝川氏の菩提寺だったようです。
この滝川氏も四代で後継ぎがなく、城も廃城となってしまったといいます。

前回来た時はこの六地蔵はなかったと思います。
急にあちこちに置かれるようになりました。
六地蔵と寺の大きな屋根も絵になりますね。

名将、太田資正(三楽)についてはまた書きましょう。
前に「座禅体験」として取り上げた寺です。
場所は風土記の丘から「鬼越峠(おにこしとうげ)」を越えて比較的近くです。
戦国時代にここ根小屋、片野地区は小田氏を破った佐竹派の名将太田三楽(資正)の城(片野城)のあった地区です。
また、江戸時代の勤皇学者 山県大弐の墓があることでも有名です。
山県大弐は、1725年に甲斐国に生まれ、27才の時、江戸に出て儒学と兵学を講じ門人も三千人にも及んだといいます。また吉田松陰らにも影響を与えた思想家でもありました。
しかし、書いた書物が幕府を批判したとして捕らえられて処刑されました。時に43才でした。(明和事件)
大弐の門人で、根小屋(八郷町)出身の園部文之進らがひそかに処刑された師の首をはこび、この泰寧寺境内に葬ったものだそうです。
処刑されたのは明治維新の100年も前でした。
山県大弐の墓は生まれ故郷である山梨県甲斐市(旧竜王町)の山県神社と東京都新宿区全勝寺にもあるそうです。大弐は江戸に出た時、四谷坂町に住んでおり、夫人の里方の菩提寺である全徳寺に埋葬されたが、廃寺となったため全勝寺に移されたと載っていました。

寺の入口に咲く彼岸花。お墓の花との印象も強いですが、このようにして見ると、お寺にとても合う花ですね。


お寺側から見ると、向こうに筑波山と八郷の里山(稲刈りの終わった田圃)の煙が・・・
どこか懐かしい風景です。この辺りから見る筑波山は2つの頂上が1つに重なっています。
煙の向こう側のこんもりとした低い山は「富士山」といいます。
いつからその名前がついたのか・・・
その昔(万葉の頃)は「鼓ヶ峰(つつみがみね)」と呼ばれていたそうです。
その頃の筑波山への登山道はこちら側からが主体でした。のどかな平野から十三塚を通り真っ直ぐに登るのです。そして白滝を通って今の神社の手前から女体山へ登っていました。
先日、恋瀬川で書いた「男女川(みなのがわ)」が今では桜川に注ぐと思い込んでいますが、恋瀬川でないと当時の風景とマッチしないように思います。

この寺は禅寺で、禅や写経の体験が受けられます。
この5本柱の月丸扇の紋は佐竹氏の紋です。石岡の街中では清涼寺にもありました。
この寺は佐竹氏の秋田移封後に片野城に入った滝川氏の菩提寺だったようです。
この滝川氏も四代で後継ぎがなく、城も廃城となってしまったといいます。

前回来た時はこの六地蔵はなかったと思います。
急にあちこちに置かれるようになりました。
六地蔵と寺の大きな屋根も絵になりますね。

名将、太田資正(三楽)についてはまた書きましょう。
太田三楽(資正)の墓
昨年秋に「太田三楽という武将を知っていますか?」というタイトルでブログに書いたのですが、昨日書いた「泰寧寺(たいねいじ)」のある石岡市根小屋と隣接する片野地区の山上には、戦国時代には「片野城」という城がありました。
この城を治めていたのが太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主であった戦国武将「太田資正(すけまさ)」(後に入道となり、三楽斎を名乗る)でした。
この片野城はもとは「小田天庵」の城であったが、小田氏(親北条派)と佐竹氏の覇権争いがし烈になり、この片野城を奪った「佐竹義重」はこの城を太田資正に預けます。
そして、資正は小田氏との戦いに勝利するのです。
太田三楽資正は日本で初めて軍用犬を使ったことで知られ、「三楽犬」と呼ばれています。
この片野、根小屋地区に残された無形文化財「排禍ばやし」や「七代神社神楽」など独特の文化がその後残り、代々にわたって地域で継続されているのですから、地元に愛されていたのだと思います。
戦国武将として大きな城もとれなかった人物ですが、もう少し日の目を見る機会に恵まれればと思います。

片野城は山域全体に広がっていたようですが、今では一部に土塁跡がみられるくらいしか残っていません。
その山の一角にこの「浄瑠璃光寺」という墓所があります。
地元の人でも、ここにお墓がある家以外にはあまり知られていないようですが、今回「泰寧寺」を訪れたので、見に行ってみました。

一部、山の脇道などは震災の影響で通れないところもありますが、この場所には問題なく辿りつきました。
太田資正三楽の墓はこの墓所の一番隅にありますが、なにしろ場所の案内がないので知らない人が探すのは苦労するだろうと思います。

前回訪れた時はちゃんとした「五輪塔」であったが、今回の地震で上部2段が崩れて、3段だけになっていた。
五輪はそれぞれ意味を持つので、三段ではやはりまずい。
お手数だが、市としても、援助してでも、もとの姿への復旧を望みたい。
ランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします。
この城を治めていたのが太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主であった戦国武将「太田資正(すけまさ)」(後に入道となり、三楽斎を名乗る)でした。
この片野城はもとは「小田天庵」の城であったが、小田氏(親北条派)と佐竹氏の覇権争いがし烈になり、この片野城を奪った「佐竹義重」はこの城を太田資正に預けます。
そして、資正は小田氏との戦いに勝利するのです。
太田三楽資正は日本で初めて軍用犬を使ったことで知られ、「三楽犬」と呼ばれています。
この片野、根小屋地区に残された無形文化財「排禍ばやし」や「七代神社神楽」など独特の文化がその後残り、代々にわたって地域で継続されているのですから、地元に愛されていたのだと思います。
戦国武将として大きな城もとれなかった人物ですが、もう少し日の目を見る機会に恵まれればと思います。

片野城は山域全体に広がっていたようですが、今では一部に土塁跡がみられるくらいしか残っていません。
その山の一角にこの「浄瑠璃光寺」という墓所があります。
地元の人でも、ここにお墓がある家以外にはあまり知られていないようですが、今回「泰寧寺」を訪れたので、見に行ってみました。

一部、山の脇道などは震災の影響で通れないところもありますが、この場所には問題なく辿りつきました。
太田資正三楽の墓はこの墓所の一番隅にありますが、なにしろ場所の案内がないので知らない人が探すのは苦労するだろうと思います。

前回訪れた時はちゃんとした「五輪塔」であったが、今回の地震で上部2段が崩れて、3段だけになっていた。
五輪はそれぞれ意味を持つので、三段ではやはりまずい。
お手数だが、市としても、援助してでも、もとの姿への復旧を望みたい。

七代天神社(石岡市根小屋)
昨日書いた「大田三楽(資正)」の墓は、昔、片野城があった佐久山にあるのだが、この登り道の途中に「七代天神社」がある。
山へ少し登ったところで、あまり人も通らないところにあるので、お祭り以外では一般の人はあまり来ないのだろう。
この天神社の祭典は11月3日正午から行なわれる「根小屋のじゃかもこじゃん」といわれる十二座神楽が残されています。
これは、市の無形文化財に指定されています。七代天神社は、永禄年間(1558~1570)片野城主太田資正(三楽)が城の守護神と して、久慈郡佐竹郷(常陸太田市)天神林から神霊を迎え、その時十二神楽を奉納したと伝えられているそうです。
この神楽は、十二種の舞で構成されており、代々この地の長男に引き継がれることから「代々神楽」と呼ばれています。
先日お祭りの中日に総社で奉納される「染谷の十二座神楽」を紹介したが、同じようなものが石岡には三か所も残されていることになります。
残りは9月の中秋の名月に柿岡の八幡神社で奉納される「柿岡のじゃかもこじゃん」(太々神楽)です。
ともに400年以上の歴史があるようです。
また、どこの神楽も、12歳以下の地元の女の子が巫女さんになることも共通しています。
(染谷十二座神楽は前に書いたブログを参照してください。 → No.1、No.2)

根小屋の集落の真ん中くらいから、太田資正(三楽)の墓へ山道を登る途中にある。
こんな大きな鳥居だが、気をつけていないと見過ごしてしまいそうだ。
正面の拝殿まで参道が続いています。

この木は、樹齢400年以上といわれるケヤキ(欅)で、御神木の杉の木と共に「石岡市認定保存樹」に指定されています。

こちらが御神木の杉の木です。樹齢は神社の歴史から見て400歳以上と思われます。

拝殿側から見るとこんな感じです。

こちらが拝殿で、ここで11月3日に「代々神楽」(石岡市無形民俗文化財)が奉納されます。
この神社は天正年間(1573~1592年)に佐竹郷(常陸太田)から七代天神の心霊を迎祀されたといわれています。
この拝殿の裏側の通りの向こう側に「片野城跡」の碑が置かれています。

神社の鳥居付近から見た下の里と筑波山。
地図は昨日の記事に載っています。(こちら)
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山へ少し登ったところで、あまり人も通らないところにあるので、お祭り以外では一般の人はあまり来ないのだろう。
この天神社の祭典は11月3日正午から行なわれる「根小屋のじゃかもこじゃん」といわれる十二座神楽が残されています。
これは、市の無形文化財に指定されています。七代天神社は、永禄年間(1558~1570)片野城主太田資正(三楽)が城の守護神と して、久慈郡佐竹郷(常陸太田市)天神林から神霊を迎え、その時十二神楽を奉納したと伝えられているそうです。
この神楽は、十二種の舞で構成されており、代々この地の長男に引き継がれることから「代々神楽」と呼ばれています。
先日お祭りの中日に総社で奉納される「染谷の十二座神楽」を紹介したが、同じようなものが石岡には三か所も残されていることになります。
残りは9月の中秋の名月に柿岡の八幡神社で奉納される「柿岡のじゃかもこじゃん」(太々神楽)です。
ともに400年以上の歴史があるようです。
また、どこの神楽も、12歳以下の地元の女の子が巫女さんになることも共通しています。
(染谷十二座神楽は前に書いたブログを参照してください。 → No.1、No.2)

根小屋の集落の真ん中くらいから、太田資正(三楽)の墓へ山道を登る途中にある。
こんな大きな鳥居だが、気をつけていないと見過ごしてしまいそうだ。
正面の拝殿まで参道が続いています。

この木は、樹齢400年以上といわれるケヤキ(欅)で、御神木の杉の木と共に「石岡市認定保存樹」に指定されています。

こちらが御神木の杉の木です。樹齢は神社の歴史から見て400歳以上と思われます。

拝殿側から見るとこんな感じです。

こちらが拝殿で、ここで11月3日に「代々神楽」(石岡市無形民俗文化財)が奉納されます。
この神社は天正年間(1573~1592年)に佐竹郷(常陸太田)から七代天神の心霊を迎祀されたといわれています。
この拝殿の裏側の通りの向こう側に「片野城跡」の碑が置かれています。

神社の鳥居付近から見た下の里と筑波山。
地図は昨日の記事に載っています。(こちら)

フクロウの神社(鷲子山上神社)
茨城県と栃木県の県境の山に少しかわった神社が鎮座しています。
テレビ「なにこれ珍百景」に登場した神社です。
登場した理由は神社が2つの県にまたがっているからです。
鷲子山上神社は「トリノコサンジョウジンジャ」と読みます。
この神社は、以前からもとても興味があり、今年の1月に「鷲の話」特集で紹介しました。
その時の話は「鷲」「鳥」「酉(とり)」などと名前のつくところは、阿波(徳島)忌部(いんべ)氏と関係が深いということです。
それらの神社の祭神は「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」です。
神話では、天照大神が天岩戸に隠れてしまったために、この世は闇になり、天照の気を引くために岩戸の前で奏でた楽器に鷲が飛んできてとまります。
そのため、この楽器を演奏していたの人を「天日鷲命」と名付けたわけです。
そして、どういうわけだか全国にたくさんある「鷲神社」をワシジンジャといったりトリジンジャと言ったりしているのですね。
そして、ほとんどの所が産業振興の願い事をかなえてくれるというところが多いようです。
「酉の市」も熊手で商売繁盛ですね。
この辺りは前も書いたと思いますので、今回はこの神社が「フクロウ神社」として有名になっているところを紹介します。

神社入り口の上り階段の真中に「県境」の立て看板が置かれています。
茨城県側は旧美和町(現常陸大宮市)、栃木県側は旧馬頭町(現那珂川市町)となっており、社務所も両県にそれぞれあるといいます。
さてこれだけでもめずらしいのですが、ここはその他いろいろと興味をそそられる神社です。

境内の手水鉢のところにある「フクロウの石像」です。水を2回かけて、手でフクロウの頭を良くなでてあげましょう。幸せになれるそうです。

さてこちらは福亀です。石畳を亀の形でかたどって幸せがやってきそうですね。

こちらは神社拝殿につながる石段です。中間部に楼門があります。
階段の数が96段で、往復すると2x96でフクロウ=不苦労ですね。

神社の上に登ると、ここには樹齢1000年といわれる杉の木が聳えています。
さて、最近には神社の入口の反対側にとても大きな金色フクロウの像があり、こちらをフクロウ神社とも言われているようですが、私はあまり新しいものには興味がなくお参りしていません。
お土産も、フクロウのかわいらしいものが多くありました。
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テレビ「なにこれ珍百景」に登場した神社です。
登場した理由は神社が2つの県にまたがっているからです。
鷲子山上神社は「トリノコサンジョウジンジャ」と読みます。
この神社は、以前からもとても興味があり、今年の1月に「鷲の話」特集で紹介しました。
その時の話は「鷲」「鳥」「酉(とり)」などと名前のつくところは、阿波(徳島)忌部(いんべ)氏と関係が深いということです。
それらの神社の祭神は「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」です。
神話では、天照大神が天岩戸に隠れてしまったために、この世は闇になり、天照の気を引くために岩戸の前で奏でた楽器に鷲が飛んできてとまります。
そのため、この楽器を演奏していたの人を「天日鷲命」と名付けたわけです。
そして、どういうわけだか全国にたくさんある「鷲神社」をワシジンジャといったりトリジンジャと言ったりしているのですね。
そして、ほとんどの所が産業振興の願い事をかなえてくれるというところが多いようです。
「酉の市」も熊手で商売繁盛ですね。
この辺りは前も書いたと思いますので、今回はこの神社が「フクロウ神社」として有名になっているところを紹介します。

神社入り口の上り階段の真中に「県境」の立て看板が置かれています。
茨城県側は旧美和町(現常陸大宮市)、栃木県側は旧馬頭町(現那珂川
さてこれだけでもめずらしいのですが、ここはその他いろいろと興味をそそられる神社です。

境内の手水鉢のところにある「フクロウの石像」です。水を2回かけて、手でフクロウの頭を良くなでてあげましょう。幸せになれるそうです。

さてこちらは福亀です。石畳を亀の形でかたどって幸せがやってきそうですね。

こちらは神社拝殿につながる石段です。中間部に楼門があります。
階段の数が96段で、往復すると2x96でフクロウ=不苦労ですね。

神社の上に登ると、ここには樹齢1000年といわれる杉の木が聳えています。
さて、最近には神社の入口の反対側にとても大きな金色フクロウの像があり、こちらをフクロウ神社とも言われているようですが、私はあまり新しいものには興味がなくお参りしていません。
お土産も、フクロウのかわいらしいものが多くありました。

茅葺屋根のお蕎麦屋-かまたや
今日は昼に石岡市八郷地区柿岡の蕎麦処「かまたや」さんに行ったので紹介します。
ここは「茅葺屋根のお蕎麦屋さん」として知られるところだそうです。
建物は築130年程経ち、柿岡宿で商人宿をしていたそうですが、60数年前からお蕎麦屋をやっています。

柿岡のメイン通りに面し、商店も並ぶところで、茅葺屋根は珍しいですね。

蕎麦は自家製粉した常陸そば粉を湧き水で打ったものだそうです。
「ざるけんちんそば 850円」を頼みました。

これから寒い季節にはピッタリでしょう。
今日はまだ暑いくらいでしたので「ざる」にしましたが、キノコのたくさん入った熱々のけんちん汁に手打ちのこしこししたそばが結構いけます。

店内は民芸品やお相撲さんの手形サイン色紙などの他、古銭、教育勅語、地元出身の衆議院議員さんの額などが飾られていました。
お蕎麦好きの人なら一度食べて見てください。独特のコシコシ感がいいと思います。
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ここは「茅葺屋根のお蕎麦屋さん」として知られるところだそうです。
建物は築130年程経ち、柿岡宿で商人宿をしていたそうですが、60数年前からお蕎麦屋をやっています。

柿岡のメイン通りに面し、商店も並ぶところで、茅葺屋根は珍しいですね。

蕎麦は自家製粉した常陸そば粉を湧き水で打ったものだそうです。
「ざるけんちんそば 850円」を頼みました。

これから寒い季節にはピッタリでしょう。
今日はまだ暑いくらいでしたので「ざる」にしましたが、キノコのたくさん入った熱々のけんちん汁に手打ちのこしこししたそばが結構いけます。

店内は民芸品やお相撲さんの手形サイン色紙などの他、古銭、教育勅語、地元出身の衆議院議員さんの額などが飾られていました。
お蕎麦好きの人なら一度食べて見てください。独特のコシコシ感がいいと思います。

