大山寺(城里)
この高根山大山寺は、前に花の寺巡りの一つとして紹介していますが、先日近くに行った時に撮った写真を載せます。

鐘楼はやはりこの木々の緑に映えますね。一部葉も色づいてきています。紅葉にはまだ早かったようです。
この鐘は朝・昼・夕と日に三回撞かれているそうです。

お寺の庭です。枯山水の庭もありました。

このお寺の特徴は境内に続いてこの庭園があることでしょう。
お花の時期にまた来たいと思います。
庭園の入口に句がかかげられていました。
「うつせみの負う苦も消えむ 静もれる生々庵に憩ふひととき」
この東屋(茶室)の名前が「生々庵」と書かれています。平成4年に建てられたそうです。
うつせみ(空蝉)とはこの世のことです。
この庭にきて、この東屋で日頃の苦しさを忘れて、ゆったりとした一時を過ごしてほしいという願いが込められているのでしょう。

この東屋からお寺の方を見るとこのような景色です。まだサルビアが咲いていました。

お寺の入口奥にこの馬頭観音像が置かれています。とても立派な大きなものです。
良くあちこちで見かける像なのですが、こんなに大きいのは珍しいです。

鐘楼はやはりこの木々の緑に映えますね。一部葉も色づいてきています。紅葉にはまだ早かったようです。
この鐘は朝・昼・夕と日に三回撞かれているそうです。

お寺の庭です。枯山水の庭もありました。

このお寺の特徴は境内に続いてこの庭園があることでしょう。
お花の時期にまた来たいと思います。
庭園の入口に句がかかげられていました。
「うつせみの負う苦も消えむ 静もれる生々庵に憩ふひととき」
この東屋(茶室)の名前が「生々庵」と書かれています。平成4年に建てられたそうです。
うつせみ(空蝉)とはこの世のことです。
この庭にきて、この東屋で日頃の苦しさを忘れて、ゆったりとした一時を過ごしてほしいという願いが込められているのでしょう。

この東屋からお寺の方を見るとこのような景色です。まだサルビアが咲いていました。

お寺の入口奥にこの馬頭観音像が置かれています。とても立派な大きなものです。
良くあちこちで見かける像なのですが、こんなに大きいのは珍しいです。
秋の空
秋の空に浮かぶ曇って見ていて飽きないですよね。
「お~い 雲よ
ゆうゆうと ばかに のんきそうじゃないか
どこまでいくんだ」
思い出しますね。
「筑波山を越えてふるさとの山まで行くんかい」


(ちょっと休憩。これ綿菓子に見える? 私は食い気が優先です。)
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「お~い 雲よ
ゆうゆうと ばかに のんきそうじゃないか
どこまでいくんだ」
思い出しますね。
「筑波山を越えてふるさとの山まで行くんかい」


(ちょっと休憩。これ綿菓子に見える? 私は食い気が優先です。)


長福寺(大子)
大子町の袋田の滝の方に行った帰りに水郡線の上小川駅の近くにある「長福寺」という寺に行った。
前から花の寺として気になっていたところだが、ここはシャクヤク、花菖蒲が有名で、予約すれば精進料理も食べることができるそうだ。
ただ今の時期は訪れる人は少なく、菖蒲苑は何も咲いていない。
一応この菖蒲苑は有料で、この時期は入口に人はいないが、入場料を払ってくださいと書かれていて、お金を入れる箱が置いてある。
何も咲いていないので誰もいない。 当然お金も入っていない。

しかし、この入口の山門はかなりしっかりした風格がある。歴史的なものはあまり良くわからない。
2階建の楼門で、木組みも立派で高さも高い。

こうしてみると、梅の頃も美しいだろうと思う。

長元2年(1029)梅閑律師が長福山に開創したとのこと。その後、文明元年(1470)に佐竹氏の一族で城主の小川和泉義房が一族の祈願寺にしたために、本堂などは佐竹氏の紋(月丸扇)のマークがついている。


この寺は「奥久慈七福神巡り」の1番寺で「寿老神(じゅろうじん)」をまつる。
健康と長寿の神様だそうだ。
まずはブログを継続できるだけの健康をお祈りしておきましょう。
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前から花の寺として気になっていたところだが、ここはシャクヤク、花菖蒲が有名で、予約すれば精進料理も食べることができるそうだ。
ただ今の時期は訪れる人は少なく、菖蒲苑は何も咲いていない。
一応この菖蒲苑は有料で、この時期は入口に人はいないが、入場料を払ってくださいと書かれていて、お金を入れる箱が置いてある。
何も咲いていないので誰もいない。 当然お金も入っていない。

しかし、この入口の山門はかなりしっかりした風格がある。歴史的なものはあまり良くわからない。
2階建の楼門で、木組みも立派で高さも高い。

こうしてみると、梅の頃も美しいだろうと思う。

長元2年(1029)梅閑律師が長福山に開創したとのこと。その後、文明元年(1470)に佐竹氏の一族で城主の小川和泉義房が一族の祈願寺にしたために、本堂などは佐竹氏の紋(月丸扇)のマークがついている。


この寺は「奥久慈七福神巡り」の1番寺で「寿老神(じゅろうじん)」をまつる。
健康と長寿の神様だそうだ。
まずはブログを継続できるだけの健康をお祈りしておきましょう。


茨城の県名(8)-黒坂命古墳
先に茨城の県名の由来記事を書いてきました。
一応は小原神社を紹介して終わっているのですが、関連した記事を少し続けたいと思います。
茨城の名前については常陸国風土記に書かれている「黒坂命(くろさかのみこと)」なる人物が、この地に住む「野の佐伯・山の佐伯」を茨で穴や洞窟を塞いでやっつけたことが名前の由来だと書かれています。
これについては疑義があると書いてきました。
ではこの「黒坂命」とはどんな人物だったのでしょうか?
この頃の英雄はほとんど、どこかの神社に祀られ、良くわからない神様になっています。
しかし、この黒坂命はこれだけの活躍をしたにもかかわらず、死んだとされる日立市十王町の「黒前(くろさき)神社」に祀られているだけです。
調べて見ると「多氏(大氏)(おおし)」の系統の人物だったと思われます。多氏は、九州から大和に来てそして常陸の鹿島地区に来た氏族の中臣(かなとみ)=後の藤原氏の祖?と同じです。
県名の由来に書かれるにしてはあまりはっきりしたことがわかっていない気がします。
常陸国風土記では日立市十王町の竪破山(たつわれさん)で亡くなった黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かい、この時の様子から幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふようになったと書かれています。
そして、江戸時代に発見されたという美浦村にあるこの黒坂命の古墳(弁天塚古墳、大塚古墳等の呼び名がある)を見に行ってきました。

前に何度か探したのですが、良くわからずに断念をしたくらいわかりにくい場所です。
見つけて見れば何のことはないのに、まさかこんな場所といった感じでしょうか。
すぐ隣りは一般の家が建っています。

すこしこじんまりとした小山の円墳です。
山の上から霞ケ浦が見えます。周りは田圃など低い低地が霞ケ浦まで続きます。

山の頂上には由緒らしき説明の石板と新しい五輪塔らしきものが置かれています。
古墳の上り口の説明看板には「村指定文化財」となっており、「1847年に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上に移す際石棺がはっけんされ、江戸時代末期の国学者色川三中(土浦市出身)が「黒坂命墳墓考」として記録されています。・・・・」
と記され、黒坂命の墓ではないかと考察したとしています。しかし、この時に発見されたとしている石棺や鏡、剣、甲冑などがたくさん記録されていますが、何も残されていません。

この古墳は下で海抜5~6m、頂上でも10mくらいです。
さて、黒坂命がこの地に来たのはいつごろなのでしょうか?
これは前に書きましたが、ヤマトタケルよりも数十年前の3世紀後半から4世紀初めだと思われます。
この古墳は2005年の筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半と思われますと、案内板にも書かれています。そうするとやはり5世紀半ばくらいのものでしょう。
黒坂命の年代は特定されていませんが、時代が合わないように思います。

国土地理院の地図から標高5mのところまで水位が高かったとしたら、水はすぐ麓まで来ていたことになります。(上の地図の左側少し突き出している所=弁天塚古墳と表示)
ここにきて、この古墳が黒坂命の古墳とはどうしても考えられないという思いが強くなりました。
江戸時代の学者が書いているといっても、可能性を述べているだけで、現在は確認の術は何もない状態です。
上の地図で緑の部分が5mの高さの時の水位。陸平貝塚のあるのは右側の島。
縄文時代は、少なくとも10~15mくらい水位が高かったと思いますので、5000年くらい前はこの古墳の場所は水没していたところだし、陸平(おかだいら)貝塚の場所も完全に島になっていたように思います。
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一応は小原神社を紹介して終わっているのですが、関連した記事を少し続けたいと思います。
茨城の名前については常陸国風土記に書かれている「黒坂命(くろさかのみこと)」なる人物が、この地に住む「野の佐伯・山の佐伯」を茨で穴や洞窟を塞いでやっつけたことが名前の由来だと書かれています。
これについては疑義があると書いてきました。
ではこの「黒坂命」とはどんな人物だったのでしょうか?
この頃の英雄はほとんど、どこかの神社に祀られ、良くわからない神様になっています。
しかし、この黒坂命はこれだけの活躍をしたにもかかわらず、死んだとされる日立市十王町の「黒前(くろさき)神社」に祀られているだけです。
調べて見ると「多氏(大氏)(おおし)」の系統の人物だったと思われます。多氏は、九州から大和に来てそして常陸の鹿島地区に来た氏族の中臣(かなとみ)=後の藤原氏の祖?と同じです。
県名の由来に書かれるにしてはあまりはっきりしたことがわかっていない気がします。
常陸国風土記では日立市十王町の竪破山(たつわれさん)で亡くなった黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かい、この時の様子から幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふようになったと書かれています。
そして、江戸時代に発見されたという美浦村にあるこの黒坂命の古墳(弁天塚古墳、大塚古墳等の呼び名がある)を見に行ってきました。

前に何度か探したのですが、良くわからずに断念をしたくらいわかりにくい場所です。
見つけて見れば何のことはないのに、まさかこんな場所といった感じでしょうか。
すぐ隣りは一般の家が建っています。

すこしこじんまりとした小山の円墳です。
山の上から霞ケ浦が見えます。周りは田圃など低い低地が霞ケ浦まで続きます。

山の頂上には由緒らしき説明の石板と新しい五輪塔らしきものが置かれています。
古墳の上り口の説明看板には「村指定文化財」となっており、「1847年に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上に移す際石棺がはっけんされ、江戸時代末期の国学者色川三中(土浦市出身)が「黒坂命墳墓考」として記録されています。・・・・」
と記され、黒坂命の墓ではないかと考察したとしています。しかし、この時に発見されたとしている石棺や鏡、剣、甲冑などがたくさん記録されていますが、何も残されていません。

この古墳は下で海抜5~6m、頂上でも10mくらいです。
さて、黒坂命がこの地に来たのはいつごろなのでしょうか?
これは前に書きましたが、ヤマトタケルよりも数十年前の3世紀後半から4世紀初めだと思われます。
この古墳は2005年の筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半と思われますと、案内板にも書かれています。そうするとやはり5世紀半ばくらいのものでしょう。
黒坂命の年代は特定されていませんが、時代が合わないように思います。

国土地理院の地図から標高5mのところまで水位が高かったとしたら、水はすぐ麓まで来ていたことになります。(上の地図の左側少し突き出している所=弁天塚古墳と表示)
ここにきて、この古墳が黒坂命の古墳とはどうしても考えられないという思いが強くなりました。
江戸時代の学者が書いているといっても、可能性を述べているだけで、現在は確認の術は何もない状態です。
上の地図で緑の部分が5mの高さの時の水位。陸平貝塚のあるのは右側の島。
縄文時代は、少なくとも10~15mくらい水位が高かったと思いますので、5000年くらい前はこの古墳の場所は水没していたところだし、陸平(おかだいら)貝塚の場所も完全に島になっていたように思います。


西山荘(常陸太田)(1)
今日午後から、水戸光圀の隠居所「西山荘」に行ってきました。
ここは紅葉もきれいなのですが、まだ少し早かったようです。
まぶしいくらいの緑に、少し紅葉が混じっている程度でしょうか。

入口駐車場わきにできている「西山の里 桃源」の池と庭
このお休み処は前には無かったと思うが、何時できたのだろう。きれいに手入れされた庭もいい。

西山荘手前の梅の庭

入口の通用門。この竹林と質素な門がいつ来てもいいですね。

水戸黄門(光圀)は華美なことをきらい、僅かな身の回りの物だけを持ち込んで、この隠居所で73歳で亡くなるまで10年間過ごしました。
この場所で大日本史の編纂事業を行なったとされています。

西山荘は光圀没後100年以上後に野火により西山御殿が焼失し、翌年規模は小さくなりましたが再建されたものです。
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ここは紅葉もきれいなのですが、まだ少し早かったようです。
まぶしいくらいの緑に、少し紅葉が混じっている程度でしょうか。

入口駐車場わきにできている「西山の里 桃源」の池と庭
このお休み処は前には無かったと思うが、何時できたのだろう。きれいに手入れされた庭もいい。

西山荘手前の梅の庭

入口の通用門。この竹林と質素な門がいつ来てもいいですね。

水戸黄門(光圀)は華美なことをきらい、僅かな身の回りの物だけを持ち込んで、この隠居所で73歳で亡くなるまで10年間過ごしました。
この場所で大日本史の編纂事業を行なったとされています。

西山荘は光圀没後100年以上後に野火により西山御殿が焼失し、翌年規模は小さくなりましたが再建されたものです。


西山荘(常陸太田)(2)
西山荘(せいざんそう)の続きです。

これは入口の通用門で裏門と呼ばれているものです。
家臣や近所の庶民が出入りするための門ですが、表門より立派なのです。庶民を大切にしたいとの思いが込められています。

さて、これが表門です。一般に「突上御門(つきあげごもん)」と呼ばれているもので、非常に質素な門です。この門は昼は扉を上にはね上げて開けたままにしておくのです。
お城からの使者などはこちらから入ります。

西山御殿の裏側に吊るされた半鐘。280年前の物だそうです。
何か家臣や奉公人に用事や知らせたいことがある時に鳴らしたようです。

これが「西山御殿」です。左端の丸い採光の窓があるところが書斎(三畳)でその右が寝室です。
その右は御座の間(十畳)の居間。続いて家来たちが控えるお次の間ですが、この間には敷居がありません。
玄関はもう少し右側です。
さて茅葺屋根のてっぺんに草が生えていますが、これはわざと生やしているのです。
植えられているのは「いちはつ(別名しばきり)」で、根が張ることによって屋根が崩れにくくなり、水をやることで火災の防止にもなるそうです。

突上御門手前側からみた西山御殿。落ち着いた佇まいです。
すべて苔むした地面がとても落ち着いた気分にしてくれます。

入口駐車場の桜。こちらは色づいてきていましたが、西山荘の中はまだ少しでした。
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これは入口の通用門で裏門と呼ばれているものです。
家臣や近所の庶民が出入りするための門ですが、表門より立派なのです。庶民を大切にしたいとの思いが込められています。

さて、これが表門です。一般に「突上御門(つきあげごもん)」と呼ばれているもので、非常に質素な門です。この門は昼は扉を上にはね上げて開けたままにしておくのです。
お城からの使者などはこちらから入ります。

西山御殿の裏側に吊るされた半鐘。280年前の物だそうです。
何か家臣や奉公人に用事や知らせたいことがある時に鳴らしたようです。

これが「西山御殿」です。左端の丸い採光の窓があるところが書斎(三畳)でその右が寝室です。
その右は御座の間(十畳)の居間。続いて家来たちが控えるお次の間ですが、この間には敷居がありません。
玄関はもう少し右側です。
さて茅葺屋根のてっぺんに草が生えていますが、これはわざと生やしているのです。
植えられているのは「いちはつ(別名しばきり)」で、根が張ることによって屋根が崩れにくくなり、水をやることで火災の防止にもなるそうです。

突上御門手前側からみた西山御殿。落ち着いた佇まいです。
すべて苔むした地面がとても落ち着いた気分にしてくれます。

入口駐車場の桜。こちらは色づいてきていましたが、西山荘の中はまだ少しでした。


奈良の鹿
奈良公園にいる鹿は修学旅行生にも人気でみなさんご存じだと思います。
この奈良公園の鹿は春日大社の守り神で神聖な動物だとされています。
この春日大社は大化の改新で活躍した中臣鎌足が藤原姓を賜り、藤原鎌足となって藤原氏の繁栄を象徴するために、この藤原氏の氏神として鎌足の息子の藤原不比等により768年に建てられたものです。
そして、ここに祀られている神は藤原氏の守護神であるタケミカズチ(武甕槌命)で、これは常陸国一宮の鹿島神宮の祭神です。
中臣家は鹿島神宮の神官の家柄で、この中臣鎌足(鎌子)は常陸生まれであるとの説はかなりの信憑性があると思っています。奈良には生誕の地なる碑もできているようですが、やはり常陸生まれですよね。
鎌足(幼少時:鎌子)などと言う名前は製鉄のイメージにつながりますから。
現在世界遺産に登録されている春日大社の裏山にあたる春日山、御蓋山(三笠山)一帯は、いまでも原生林が残る貴重な区域になっていますが、これはこの場所が神聖な区域として人の立ち入りを禁止しているからなのです。
春日大社の主神、タケミカズチは768年に、この御蓋山の上に白鹿に乗って舞い降りてきたとされています。
鹿島神宮の神がこの地にやってきたのです。鎌足が鹿島出身の人でないとつじつまが合いません。
そして鹿は、貴重な神の使いの動物として狩猟が禁止されました。
鹿島神宮の鹿島は昔は香島と書いていました。しかし、鹿島に変わったのが何時なのかがはっきりしません。
さて、話変わって、百人一首の第5首目の次の有名な歌はほとんどの方はご存じだと思います。
○ 奥山に 紅葉ふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき 猿丸太夫
この歌は、良く国語の問題にもなっていますね。
・もみじを踏み分けているのは歌の作者ですか?それとも鹿ですか? という問題ですね。
答えは鹿だそうです。すなわち作者は鹿の姿を想像して詠んでいるというのです。
雄鹿は9月から3カ月くらいは発情期で気が荒くなり、雄鹿が雌鹿を探して鳴いていると解釈され、遠距離恋愛などの歌の例としても良くとりあげられています。

(2010.11.21 月山寺にて)
しかし、最近になって、私は全く違った意味の歌なのではないかと気になりだしました。
この歌があるので、私は奈良の山には昔から野生の鹿がたくさんいたのだろうとばかり思っていたのです。
この鹿の鳴いていた場所がこの春日山の一帯の立ち入り禁止の山なのです。
当時藤原氏でなければどんなに優れていても出世できないとされてしまった時代だと思います。
この猿丸太夫と言う人は本当にいた人物かどうかもわかっていません。
詠み人知らずになっていた歌を小倉百人一首に載せたのです。
私にはこの歌が、藤原氏ばかりの世になってしまい、それを嘆いているように思えてなりません。
もともと奈良には山の鹿がいたのでしょうか?
春日大社創設時に、常陸の国から1年かけて陸路を、鹿を連れて奈良まで行ったという言い伝えが残っており、道中に鹿のつく地名が何箇所かあるのだといわれています。
その後、奈良の鹿が少なくなってしまい、948年には、この石岡(常陸国府)から鹿7頭を奈良に送っています。
しかし、今度は鹿島の鹿が絶滅したため、奈良から鹿を連れてきたため、今の鹿島の鹿は逆輸入鹿だといわれているのです。
今日は百人一種の秋の歌として名高い上記の歌の解釈も違った見方も出来るのではないかということを書いてみたまでですが、それにしても歌はうまいですよね。
鹿が紅葉を踏み分ける音が映像とともに聞こえてきますね。紅葉に鹿の姿は絵になるのですね。
名句だと思います。
もう一つ私の大好きな句があります。
○ 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ 藤原定家 (新古今和歌集)
歌を詠むだけでその映像が浮かんでくる。そして聞く人の心を打つ。
浮かぶのは真っ白な夕やみ迫る白銀の世界。全ての音を消してしまう雪の降る音だけが残ります。
それから、この佐野は和歌山県新宮市の辺りだそうです。
私は長いこと、厄除大師で有名な栃木県の佐野かと思っていました。
もうずっとも昔の学生の頃ですが、この春日山の裏手をまわり地獄谷石窟仏を通って柳生街道を柳生の里を通って笠置駅まで歩きましたが、まだ若かったのですね。今ではそんな元気はありませんね。
地獄谷のあたりは少し怖いくらいで、山道を入れて25kmくらいは歩いたのでしょうか。
今でも想い出に残っています。
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この奈良公園の鹿は春日大社の守り神で神聖な動物だとされています。
この春日大社は大化の改新で活躍した中臣鎌足が藤原姓を賜り、藤原鎌足となって藤原氏の繁栄を象徴するために、この藤原氏の氏神として鎌足の息子の藤原不比等により768年に建てられたものです。
そして、ここに祀られている神は藤原氏の守護神であるタケミカズチ(武甕槌命)で、これは常陸国一宮の鹿島神宮の祭神です。
中臣家は鹿島神宮の神官の家柄で、この中臣鎌足(鎌子)は常陸生まれであるとの説はかなりの信憑性があると思っています。奈良には生誕の地なる碑もできているようですが、やはり常陸生まれですよね。
鎌足(幼少時:鎌子)などと言う名前は製鉄のイメージにつながりますから。
現在世界遺産に登録されている春日大社の裏山にあたる春日山、御蓋山(三笠山)一帯は、いまでも原生林が残る貴重な区域になっていますが、これはこの場所が神聖な区域として人の立ち入りを禁止しているからなのです。
春日大社の主神、タケミカズチは768年に、この御蓋山の上に白鹿に乗って舞い降りてきたとされています。
鹿島神宮の神がこの地にやってきたのです。鎌足が鹿島出身の人でないとつじつまが合いません。
そして鹿は、貴重な神の使いの動物として狩猟が禁止されました。
鹿島神宮の鹿島は昔は香島と書いていました。しかし、鹿島に変わったのが何時なのかがはっきりしません。
さて、話変わって、百人一首の第5首目の次の有名な歌はほとんどの方はご存じだと思います。
○ 奥山に 紅葉ふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき 猿丸太夫
この歌は、良く国語の問題にもなっていますね。
・もみじを踏み分けているのは歌の作者ですか?それとも鹿ですか? という問題ですね。
答えは鹿だそうです。すなわち作者は鹿の姿を想像して詠んでいるというのです。
雄鹿は9月から3カ月くらいは発情期で気が荒くなり、雄鹿が雌鹿を探して鳴いていると解釈され、遠距離恋愛などの歌の例としても良くとりあげられています。

(2010.11.21 月山寺にて)
しかし、最近になって、私は全く違った意味の歌なのではないかと気になりだしました。
この歌があるので、私は奈良の山には昔から野生の鹿がたくさんいたのだろうとばかり思っていたのです。
この鹿の鳴いていた場所がこの春日山の一帯の立ち入り禁止の山なのです。
当時藤原氏でなければどんなに優れていても出世できないとされてしまった時代だと思います。
この猿丸太夫と言う人は本当にいた人物かどうかもわかっていません。
詠み人知らずになっていた歌を小倉百人一首に載せたのです。
私にはこの歌が、藤原氏ばかりの世になってしまい、それを嘆いているように思えてなりません。
もともと奈良には山の鹿がいたのでしょうか?
春日大社創設時に、常陸の国から1年かけて陸路を、鹿を連れて奈良まで行ったという言い伝えが残っており、道中に鹿のつく地名が何箇所かあるのだといわれています。
その後、奈良の鹿が少なくなってしまい、948年には、この石岡(常陸国府)から鹿7頭を奈良に送っています。
しかし、今度は鹿島の鹿が絶滅したため、奈良から鹿を連れてきたため、今の鹿島の鹿は逆輸入鹿だといわれているのです。
今日は百人一種の秋の歌として名高い上記の歌の解釈も違った見方も出来るのではないかということを書いてみたまでですが、それにしても歌はうまいですよね。
鹿が紅葉を踏み分ける音が映像とともに聞こえてきますね。紅葉に鹿の姿は絵になるのですね。
名句だと思います。
もう一つ私の大好きな句があります。
○ 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ 藤原定家 (新古今和歌集)
歌を詠むだけでその映像が浮かんでくる。そして聞く人の心を打つ。
浮かぶのは真っ白な夕やみ迫る白銀の世界。全ての音を消してしまう雪の降る音だけが残ります。
それから、この佐野は和歌山県新宮市の辺りだそうです。
私は長いこと、厄除大師で有名な栃木県の佐野かと思っていました。
もうずっとも昔の学生の頃ですが、この春日山の裏手をまわり地獄谷石窟仏を通って柳生街道を柳生の里を通って笠置駅まで歩きましたが、まだ若かったのですね。今ではそんな元気はありませんね。
地獄谷のあたりは少し怖いくらいで、山道を入れて25kmくらいは歩いたのでしょうか。
今でも想い出に残っています。


忠犬タローの歌
本日2回目の記事です。石岡市善隣幼稚園の合唱祭での歌がYouTubeにアップされました。紹介します。
まだ鹿島鉄道が走っていた時、石岡駅で17年間飼い主を待ち続けた犬タローの話です。
昨年の11月にこの話を知り、聞きに行ったのですが(こちら)、今年も歌われました。
坂本九ちゃんの長女「大島花子」さんが作詞作曲した歌です。幼稚園児の歌ですが聞いてくださいね。
11月12日(土)午前10時30分から、善隣幼稚園で大島花子さんのコンサートが開かれるそうです。
(GreatGengorouさんのブログより転載)
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まだ鹿島鉄道が走っていた時、石岡駅で17年間飼い主を待ち続けた犬タローの話です。
昨年の11月にこの話を知り、聞きに行ったのですが(こちら)、今年も歌われました。
坂本九ちゃんの長女「大島花子」さんが作詞作曲した歌です。幼稚園児の歌ですが聞いてくださいね。
11月12日(土)午前10時30分から、善隣幼稚園で大島花子さんのコンサートが開かれるそうです。
(GreatGengorouさんのブログより転載)


葦原の鹿
さて、昨日、奈良の鹿が鹿島の鹿を連れて行ったもので、藤原氏の祈願所である奈良の春日大社はこの鹿島神宮の神を奈良に分霊したものだと書きました。
今日はその奈良の鹿に絡む話ですが、長ったらしいので、興味のある人だけ読んでくださいね。
奈良の都で春日大社を建て、勢力を拡大した藤原氏が日本の歴史を数百年間にわたって、封印してしまったので謎解きゲームのようなことが必要になってきているように思われます。
石岡の歴史についても、古墳時代は何もわかっていません。歴史と言うのがこの風土記からはじまるのです。
常陸国風土記の編纂者として名前があがっている「藤原宇合(うまかい)」は藤原氏の基を築いた藤原不比等の三男で、719年に25~26歳で常陸国守として赴任し、723年まで滞在しました。
みやこに戻って翌年には蝦夷で反乱が起こり、鎮圧のために陸奥国に大将軍として出かけています。
この宇合が赴任を終えて戻る時にこの地の娘から贈られた歌が石岡小学校の敷地に置かれています。

「庭に立つ 麻手(あさで)刈り干し布曝(さら)す 東女(あづまをみな)を忘れたまふな」(藤原 宇合(うまかひ)大夫(まへつきみ) 、任 遷(うつ)りて京に上る時に 常陸娘子(ひたちのをとめ)の贈る歌)
(麻を、刈ったり干したり晒したりしていた東国の女を忘れないでくださいの意見)
この頃からこの地の歴史が始まり1300年の歴史と言われるゆえんですが、この前はというと皆考古学とみなされて、その間の繋がりが無くなってしまっているのです。
ここに藤原氏が封印した歴史が眠っているのでしょう。
さて、今日の話の「葦原(あしはら)の鹿」については、この歴史から脱落してしまった世界が書かれているように思います。歴史の学問から外されてしまった世界のようです。
実は、これは茨城県の県名の由来を書いてきた時に気になった項目の一つです。
「常陸国風土記」で、黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって戻って埋葬された地とされる信太郡(しだぐん)について以下のような不思議なことが書かれています。
「諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」(口訳・常陸国風土記)
そのまま解釈すれば、
「葦の茂るような湿地帯に棲む鹿の肉は下総などの鹿とは味が違う(まずい)ので、狩りをして全滅させられることもないだろう。」
というようなことでしょうか。
このすぐ前には、この地(信太郡あたりの地)のことを「葦原の中津の国」とも表現されていますので、この信太郡の地の鹿のことを書いていることになります。
古事記や日本書紀では「葦原中国(あしはらのなかつくに)」はこの日本国の最初の国だとされており、それが出雲にあり、これを譲り受けることで、今の天皇制の国家が出来上がったとされています。
従って、何故常陸風土記ではこの信太の地を「葦原の中津の国」と呼んだのでしょうか。
また、黒坂命がこの地に戻る時に「日高見の国」と書かれているのでしょうか?
「日高見国(ひたかみのくに)」は辞書をひくと、「日本書紀に登場する現在の東日本(一説では東北地方、岩手県内の北上川流域)にあったとされる蝦夷の国である」と書かれています。
これは、景行天皇27年(4世紀初め頃?)、武内宿禰が東国を巡視し、「東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきである」と報告したという記載が基になっています。
そして、ヤトタケルが派遣されて、統一されることになるのです。
ヤマトタケルは実在したかははっきりしませんが、黒坂命はそれより数十年前の時代で、常陸国の北部まで大和朝廷の勢力を拡大した人物です。
従って、この日高見国(ひだかみのくに)は、蝦夷の国ではなく、蝦夷と接する大和朝廷の最前線の安定した(制覇されて完全に自分たちの勢力範囲になった)地域を指す言葉と解釈してよさそうです。
黒坂命の時代はこの霞ケ浦を渡る手前の「信太郡」の地域です。
そして、その後常陸国全体がこの日高見国になり、この地を「常陸」と呼ぶようになったものと思います。
(「常陸」の語源は常道、直道など平地がつながっている様からきており、東北(蝦夷地)を道奥と書いていたものが、陸奥と書くようになり、常陸になったというのが、今では定説のようですが、これは承知の上で、このように考えてもいいのではないかということです)
その更にもっと前については、面白い記事を読みました。
和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺「道成寺」に残る古話「安珍・清姫伝説」の話を風の会の会報(こちら2P目から)に書かれた内容です。
道成寺は701年に建立されてた大変古い寺で、ここに伝わるこの古い言い伝えが歌舞伎や能で演じられてきているのは大変興味深いと感じます。
要するに、この日高郡の地名こそが、昔この地(和歌山県)が日高見国であって、大和に入るのに苦戦したところをヤタガラスがでてきて道案内して、無事にヤマトの国に入ることができたことにつながるって来るようです。
さて、常陸国風土記では、続けて、
「榎(え)の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神(今の鹿島神宮)を遥拝し、そののちに国に入ることができる。」(注:駅家(うまや)は律令制時代に整備した官道の駅にあたるもので、馬を数台常駐させ、官史などの往来時に宿や馬の交換などを行なっていた場所です。)
と書かれているのです。

(信太(しだ)郡は常陸国の入口でした。ここから流海(香取の海)=霞ケ浦を渡っていたのです。)
これは、意味もわからないので適当に読み飛ばしていましたが、考えて見るととても意味深な言葉に思えます。
・ 葦原中国(あしはらのなかつくに)というのは、日本神話に登場するこの日本の始まりの国です。
そしてこれは出雲にあったとされています。(国譲りの話に出てくる)
・ 国譲りでは鹿島神宮神(タケミカズチ(建御雷神))と香取神宮神(フツヌシ(経津主神))が出雲に赴き、強引に国譲りを成し遂げます。
・ 鹿島神宮と香取神宮は、伊勢神宮を合わせた三社のみが昔は神宮と言う特別な名で呼ばれています。
・ 鹿島神宮は常陸国の一宮、香取神宮は下総国の一宮です。
・ この信太(しだ)郡は、この平安の時代以前は「常陸国」への入口でした。大昔の古東海道はここから霞ケ浦(流海・香取海)を舟で渡っていたのです。
渡った先はかすみがうら市の旧出島の牛渡(うしわた)辺りですが、一部は行方(なめかた)の方にも渡っていたかもしれません。
ヤマトタケルの伝説が対岸の行方に多いのは、この黒坂命が自分たちの勢力範囲と出来ていなかったところがこの地に残されていたのでしょう。
そして数十年後のヤマトタケルの時代になって、この地から舟で行方へ渡って、こちらにいた人々を服従させていったと考えるのがもっとも考えられることどと思われます。
そして以前書いた「清玉井」「現原の丘」などの話になっていったものと考えられます。
・香取神宮は「物部氏」。鹿島は「中臣氏」。そして鹿島の名前は、昔は香島と書いていたが、何時しか鹿島に変わっています。
中臣(なかとみ)氏は鹿島神宮の神官として、神と人との間をとりもつ(中をとりもつ人で「中臣」)占いの氏族でしょう。
九州が起源とされる皇族とかかわりを持つ古族「多(おお)氏」の系列です。
香取神宮の経津主神は物部氏が海洋技術に長けていたのでしょう。「舵取り=香取」でしょう。
そして、藤原氏の祖「中臣(なかとみ)氏」の神=タケミカズチ がこの物部(もののべ)を取りこんで行ったのでしょうね。そして、あたかも自分の仲間と言うように、一緒に神として祀った。
常陸国の入口を押さえた二つの神社はこんな意味合いがあったのでしょう。
冒頭で述べた「葦原の鹿」と言うのは、まだ鹿島(=香島)が香取を支配できていなかった不安定な時代のことを暗示しているのかもしれません。
ああ、なんだかこんがらがってきましたね。このパズルを解いてほしい!!
でもハズルを解いてしまうと1300年封印してきたパンドラの箱を開けてしまうかもしれません。
なんか怖いですね。これは程々にして、今度は写真いっぱいの記事に戻しましょう。
長ったらしい文を最後までお読みいただきありがとうございました。
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今日はその奈良の鹿に絡む話ですが、長ったらしいので、興味のある人だけ読んでくださいね。
奈良の都で春日大社を建て、勢力を拡大した藤原氏が日本の歴史を数百年間にわたって、封印してしまったので謎解きゲームのようなことが必要になってきているように思われます。
石岡の歴史についても、古墳時代は何もわかっていません。歴史と言うのがこの風土記からはじまるのです。
常陸国風土記の編纂者として名前があがっている「藤原宇合(うまかい)」は藤原氏の基を築いた藤原不比等の三男で、719年に25~26歳で常陸国守として赴任し、723年まで滞在しました。
みやこに戻って翌年には蝦夷で反乱が起こり、鎮圧のために陸奥国に大将軍として出かけています。
この宇合が赴任を終えて戻る時にこの地の娘から贈られた歌が石岡小学校の敷地に置かれています。

「庭に立つ 麻手(あさで)刈り干し布曝(さら)す 東女(あづまをみな)を忘れたまふな」(藤原 宇合(うまかひ)大夫(まへつきみ) 、任 遷(うつ)りて京に上る時に 常陸娘子(ひたちのをとめ)の贈る歌)
(麻を、刈ったり干したり晒したりしていた東国の女を忘れないでくださいの意見)
この頃からこの地の歴史が始まり1300年の歴史と言われるゆえんですが、この前はというと皆考古学とみなされて、その間の繋がりが無くなってしまっているのです。
ここに藤原氏が封印した歴史が眠っているのでしょう。
さて、今日の話の「葦原(あしはら)の鹿」については、この歴史から脱落してしまった世界が書かれているように思います。歴史の学問から外されてしまった世界のようです。
実は、これは茨城県の県名の由来を書いてきた時に気になった項目の一つです。
「常陸国風土記」で、黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって戻って埋葬された地とされる信太郡(しだぐん)について以下のような不思議なことが書かれています。
「諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」(口訳・常陸国風土記)
そのまま解釈すれば、
「葦の茂るような湿地帯に棲む鹿の肉は下総などの鹿とは味が違う(まずい)ので、狩りをして全滅させられることもないだろう。」
というようなことでしょうか。
このすぐ前には、この地(信太郡あたりの地)のことを「葦原の中津の国」とも表現されていますので、この信太郡の地の鹿のことを書いていることになります。
古事記や日本書紀では「葦原中国(あしはらのなかつくに)」はこの日本国の最初の国だとされており、それが出雲にあり、これを譲り受けることで、今の天皇制の国家が出来上がったとされています。
従って、何故常陸風土記ではこの信太の地を「葦原の中津の国」と呼んだのでしょうか。
また、黒坂命がこの地に戻る時に「日高見の国」と書かれているのでしょうか?
「日高見国(ひたかみのくに)」は辞書をひくと、「日本書紀に登場する現在の東日本(一説では東北地方、岩手県内の北上川流域)にあったとされる蝦夷の国である」と書かれています。
これは、景行天皇27年(4世紀初め頃?)、武内宿禰が東国を巡視し、「東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきである」と報告したという記載が基になっています。
そして、ヤトタケルが派遣されて、統一されることになるのです。
ヤマトタケルは実在したかははっきりしませんが、黒坂命はそれより数十年前の時代で、常陸国の北部まで大和朝廷の勢力を拡大した人物です。
従って、この日高見国(ひだかみのくに)は、蝦夷の国ではなく、蝦夷と接する大和朝廷の最前線の安定した(制覇されて完全に自分たちの勢力範囲になった)地域を指す言葉と解釈してよさそうです。
黒坂命の時代はこの霞ケ浦を渡る手前の「信太郡」の地域です。
そして、その後常陸国全体がこの日高見国になり、この地を「常陸」と呼ぶようになったものと思います。
(「常陸」の語源は常道、直道など平地がつながっている様からきており、東北(蝦夷地)を道奥と書いていたものが、陸奥と書くようになり、常陸になったというのが、今では定説のようですが、これは承知の上で、このように考えてもいいのではないかということです)
その更にもっと前については、面白い記事を読みました。
和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺「道成寺」に残る古話「安珍・清姫伝説」の話を風の会の会報(こちら2P目から)に書かれた内容です。
道成寺は701年に建立されてた大変古い寺で、ここに伝わるこの古い言い伝えが歌舞伎や能で演じられてきているのは大変興味深いと感じます。
要するに、この日高郡の地名こそが、昔この地(和歌山県)が日高見国であって、大和に入るのに苦戦したところをヤタガラスがでてきて道案内して、無事にヤマトの国に入ることができたことにつながるって来るようです。
さて、常陸国風土記では、続けて、
「榎(え)の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神(今の鹿島神宮)を遥拝し、そののちに国に入ることができる。」(注:駅家(うまや)は律令制時代に整備した官道の駅にあたるもので、馬を数台常駐させ、官史などの往来時に宿や馬の交換などを行なっていた場所です。)
と書かれているのです。

(信太(しだ)郡は常陸国の入口でした。ここから流海(香取の海)=霞ケ浦を渡っていたのです。)
これは、意味もわからないので適当に読み飛ばしていましたが、考えて見るととても意味深な言葉に思えます。
・ 葦原中国(あしはらのなかつくに)というのは、日本神話に登場するこの日本の始まりの国です。
そしてこれは出雲にあったとされています。(国譲りの話に出てくる)
・ 国譲りでは鹿島神宮神(タケミカズチ(建御雷神))と香取神宮神(フツヌシ(経津主神))が出雲に赴き、強引に国譲りを成し遂げます。
・ 鹿島神宮と香取神宮は、伊勢神宮を合わせた三社のみが昔は神宮と言う特別な名で呼ばれています。
・ 鹿島神宮は常陸国の一宮、香取神宮は下総国の一宮です。
・ この信太(しだ)郡は、この平安の時代以前は「常陸国」への入口でした。大昔の古東海道はここから霞ケ浦(流海・香取海)を舟で渡っていたのです。
渡った先はかすみがうら市の旧出島の牛渡(うしわた)辺りですが、一部は行方(なめかた)の方にも渡っていたかもしれません。
ヤマトタケルの伝説が対岸の行方に多いのは、この黒坂命が自分たちの勢力範囲と出来ていなかったところがこの地に残されていたのでしょう。
そして数十年後のヤマトタケルの時代になって、この地から舟で行方へ渡って、こちらにいた人々を服従させていったと考えるのがもっとも考えられることどと思われます。
そして以前書いた「清玉井」「現原の丘」などの話になっていったものと考えられます。
・香取神宮は「物部氏」。鹿島は「中臣氏」。そして鹿島の名前は、昔は香島と書いていたが、何時しか鹿島に変わっています。
中臣(なかとみ)氏は鹿島神宮の神官として、神と人との間をとりもつ(中をとりもつ人で「中臣」)占いの氏族でしょう。
九州が起源とされる皇族とかかわりを持つ古族「多(おお)氏」の系列です。
香取神宮の経津主神は物部氏が海洋技術に長けていたのでしょう。「舵取り=香取」でしょう。
そして、藤原氏の祖「中臣(なかとみ)氏」の神=タケミカズチ がこの物部(もののべ)を取りこんで行ったのでしょうね。そして、あたかも自分の仲間と言うように、一緒に神として祀った。
常陸国の入口を押さえた二つの神社はこんな意味合いがあったのでしょう。
冒頭で述べた「葦原の鹿」と言うのは、まだ鹿島(=香島)が香取を支配できていなかった不安定な時代のことを暗示しているのかもしれません。
ああ、なんだかこんがらがってきましたね。このパズルを解いてほしい!!
でもハズルを解いてしまうと1300年封印してきたパンドラの箱を開けてしまうかもしれません。
なんか怖いですね。これは程々にして、今度は写真いっぱいの記事に戻しましょう。
長ったらしい文を最後までお読みいただきありがとうございました。


西山荘(常陸太田)(3)
先日から水戸黄門さんの隠居所「西山荘」を紹介してきましたが、今回で最後です。

西山荘はまだ紅葉には早かったのですが、庭園内に小さな川があり、この場所は「洗耳滝」と書かれていました。
この水はすぐ上に「桜ヶ池」という湧水を貯めている池があり、この水を流しています。
「洗耳滝」の名前の由来は15代当主が光圀公ちなみ「桃源遺事」よりこの名をとったと書かれていました。

ここは四季折々楽しめるようです。とてもきれいな場所ですね。
この梅の木も花が咲いているといいでしょうね。



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西山荘はまだ紅葉には早かったのですが、庭園内に小さな川があり、この場所は「洗耳滝」と書かれていました。
この水はすぐ上に「桜ヶ池」という湧水を貯めている池があり、この水を流しています。
「洗耳滝」の名前の由来は15代当主が光圀公ちなみ「桃源遺事」よりこの名をとったと書かれていました。

ここは四季折々楽しめるようです。とてもきれいな場所ですね。
この梅の木も花が咲いているといいでしょうね。




