あけましておめでとうございます。
2012年になりました。本年もよろしくお願いいたします。
霞ケ浦から上る初日の出を見に出かけましたが、曇っていて太陽は顔を出してくれませんでした。
でも雲の間から差す日差しを少し見ながら今年が良い年であることを願ってきました。
帰りがけに筑波山を1枚。今年もその姿をまた何回か紹介することになるかもしれません。

(石岡市高浜の平和橋からの筑波山)

(石岡の獅子さん 今年もよろしく)
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霞ケ浦から上る初日の出を見に出かけましたが、曇っていて太陽は顔を出してくれませんでした。
でも雲の間から差す日差しを少し見ながら今年が良い年であることを願ってきました。
帰りがけに筑波山を1枚。今年もその姿をまた何回か紹介することになるかもしれません。

(石岡市高浜の平和橋からの筑波山)

(石岡の獅子さん 今年もよろしく)


初詣
元旦に常陸国総社宮へ午後から行ってきました。

行列は約30分待ちくらいでしょうか。

拝殿前が少し狭いので、少し時間がかかります。
でも明治神宮みたいに遠くからお賽銭を投げるような光景はありません。
お参りの前に大きな地震があり、今年は災害のない良い年になるようにおまいりしてきました。

おみくじを引いて枝に結び付けています。
今年が皆さまにとっても良い年でありますように!
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行列は約30分待ちくらいでしょうか。

拝殿前が少し狭いので、少し時間がかかります。
でも明治神宮みたいに遠くからお賽銭を投げるような光景はありません。
お参りの前に大きな地震があり、今年は災害のない良い年になるようにおまいりしてきました。

おみくじを引いて枝に結び付けています。
今年が皆さまにとっても良い年でありますように!


今年も蝋梅が咲きました
今日は東京の実家へ行って墓参りをしてきました。
今年も下の息子と真中の娘が帰ってきているので、一緒に行ってきました。
長女はイギリスですので正月は帰ってきません。
昼ごろ到着の予定が車の混雑で2時間近く遅れてしまいました。
でも無事に用事を済ませ、帰りは比較的すいていましたので行く時の半分以下の時間で戻れました。
出かけに庭の蝋梅の花が咲いているのに気が付き、何時も正月に咲く花だなと感心しています。
昨年も正月のブログに書いたように思います。

毎年季節を忘れずに、葉が散ったと思ったらいつの間にか花を咲かせます。

元旦の初日の出を見にかすみがうら市(旧出島)の先端の歩崎公園に出かけましたが、太陽は暑い雲にさえぎられて姿を見せませんでした。

それでも水鳥たちがたくさん戯れていました。
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今年も下の息子と真中の娘が帰ってきているので、一緒に行ってきました。
長女はイギリスですので正月は帰ってきません。
昼ごろ到着の予定が車の混雑で2時間近く遅れてしまいました。
でも無事に用事を済ませ、帰りは比較的すいていましたので行く時の半分以下の時間で戻れました。
出かけに庭の蝋梅の花が咲いているのに気が付き、何時も正月に咲く花だなと感心しています。
昨年も正月のブログに書いたように思います。

毎年季節を忘れずに、葉が散ったと思ったらいつの間にか花を咲かせます。

元旦の初日の出を見にかすみがうら市(旧出島)の先端の歩崎公園に出かけましたが、太陽は暑い雲にさえぎられて姿を見せませんでした。

それでも水鳥たちがたくさん戯れていました。


また茨城空港を見に行きました。
今日1月3日に子供たちが今日帰るのですが、空港を見たいというので昼前に見に行ってきました。
駐車場無料なのですが、この日は車が多く、見学者用の駐車場に案内され停めましたが、舗装されていないので停めている車はほこりだらけです。
例によってまずF4ファントムの戦闘機と偵察機を見物。思ったより見学者が多いようです。

今日の空は印象的な雲です。すじ雲なのでしょうか。

空の雲と、ファントムの姿がマッチして結構格好良いと思いました。

この日は中国上海便が昼過ぎに最初に飛び立つので、春秋航空のカウンターには搭乗者がたくさん集まっています。
乗る人はかなりいます。元気になってほしいですね。

飛行場の見学デッキは多くの人がいます。
現在飛んでいる便は、札幌便が2往復、神戸が1往復(共に177人乗り)、上海が週に5往復(180人乗り)でソウル便が震災後運休中です。
しかし、今年3月7日より1日2往復に増便となります。

土産物売り場も混雑して、店員さんも忙しそうです。

この空港では、ここでしか買えないものを売っているようです。
この百里基地サブレやブルーベリーゼリーなども多分他では売っていないように思います。
またお菓子のパッケージにも「茨城空港にいってきました」と書かれています。
マイナーな茨城空港を逆手に取った宣伝かもしれませんね。
いまだに東京などに行くと友達などからも「茨城空港などつくってやっていけるの?」などという言葉を良くかけられます。
百里基地との併用なので、空港の維持費が半分で済むので、LCCがこれから本格化すれば面白いことになるかもしれません。
反対ばかりでもダメでしょう。ただでさえ一番人気のない県といわれる「茨城」ですから・・・・。
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駐車場無料なのですが、この日は車が多く、見学者用の駐車場に案内され停めましたが、舗装されていないので停めている車はほこりだらけです。
例によってまずF4ファントムの戦闘機と偵察機を見物。思ったより見学者が多いようです。

今日の空は印象的な雲です。すじ雲なのでしょうか。

空の雲と、ファントムの姿がマッチして結構格好良いと思いました。

この日は中国上海便が昼過ぎに最初に飛び立つので、春秋航空のカウンターには搭乗者がたくさん集まっています。
乗る人はかなりいます。元気になってほしいですね。

飛行場の見学デッキは多くの人がいます。
現在飛んでいる便は、札幌便が2往復、神戸が1往復(共に177人乗り)、上海が週に5往復(180人乗り)でソウル便が震災後運休中です。
しかし、今年3月7日より1日2往復に増便となります。

土産物売り場も混雑して、店員さんも忙しそうです。

この空港では、ここでしか買えないものを売っているようです。
この百里基地サブレやブルーベリーゼリーなども多分他では売っていないように思います。
またお菓子のパッケージにも「茨城空港にいってきました」と書かれています。
マイナーな茨城空港を逆手に取った宣伝かもしれませんね。
いまだに東京などに行くと友達などからも「茨城空港などつくってやっていけるの?」などという言葉を良くかけられます。
百里基地との併用なので、空港の維持費が半分で済むので、LCCがこれから本格化すれば面白いことになるかもしれません。
反対ばかりでもダメでしょう。ただでさえ一番人気のない県といわれる「茨城」ですから・・・・。


二又大根
正月も3が日があっという間に過ぎました。
仕事は明日からですが、気を引き締めていないと休みモードを脱却できません。
ブログも元のテーマなどに戻そうと思います。
昨年の1月のブログのテーマを見直して見ましたが、「天狗の話」「カラスの話」「鷲の話」「狢の話」など日本神話に絡めた記事を書いていたのですが、あれから1年経ちました。
今年のテーマはどうしようかなどと迷っています。
特別テーマを決めなくても自然と1年経つと何かまとまったものに膨らんでくれたら嬉しいのですが・・・。
さて、今日の記事は神社に奉納された「二又大根」です。
下の写真は先日かすみがうら市の旧出島地区(霞ケ浦に飛び出た地区)を散策していたら、地元の小さな神社(加茂神社?)の入口に置いてありました。
みんな二又大根です。
このような習慣は全国にあるようですが、それぞれ夫婦円満、五穀豊穣、健康増進などの意味があるそうです。
女性の足のようでもあるのでその意味合いでの言い伝えが多いのでしょう。
ここの牛渡(うしわた)地区ににある「鹿島神社」に「へいさんぼう」という変わった、昔ながらのおおらかな祭りが行なわれています。
ブログで紹介するのにためらわれるような昔ながらのおおらかな祭りです。
平さんの女房が詰まって「へいさんぼう」と言うとあるのですが、どうもそのまま納得できないでいます。
お祭りの詳細はここでは省きます。

二又の大根は何処でもあるもののようですが、やはりその姿が・・・・。
今年はこんな話からノンビリおおらかにいきたいと思います。
前々からこの牛渡(うしわた)地区と霞ケ浦をはさんだ対岸の美浦村牛込地区との繋がりとその痕跡を探しています。
こんなテーマでもまわりから少しずつ調べたり書いたりしているうちに何か見つかるかもしれません。
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ブログも元のテーマなどに戻そうと思います。
昨年の1月のブログのテーマを見直して見ましたが、「天狗の話」「カラスの話」「鷲の話」「狢の話」など日本神話に絡めた記事を書いていたのですが、あれから1年経ちました。
今年のテーマはどうしようかなどと迷っています。
特別テーマを決めなくても自然と1年経つと何かまとまったものに膨らんでくれたら嬉しいのですが・・・。
さて、今日の記事は神社に奉納された「二又大根」です。
下の写真は先日かすみがうら市の旧出島地区(霞ケ浦に飛び出た地区)を散策していたら、地元の小さな神社(加茂神社?)の入口に置いてありました。
みんな二又大根です。
このような習慣は全国にあるようですが、それぞれ夫婦円満、五穀豊穣、健康増進などの意味があるそうです。
女性の足のようでもあるのでその意味合いでの言い伝えが多いのでしょう。
ここの牛渡(うしわた)地区ににある「鹿島神社」に「へいさんぼう」という変わった、昔ながらのおおらかな祭りが行なわれています。
ブログで紹介するのにためらわれるような昔ながらのおおらかな祭りです。
平さんの女房が詰まって「へいさんぼう」と言うとあるのですが、どうもそのまま納得できないでいます。
お祭りの詳細はここでは省きます。

二又の大根は何処でもあるもののようですが、やはりその姿が・・・・。
今年はこんな話からノンビリおおらかにいきたいと思います。
前々からこの牛渡(うしわた)地区と霞ケ浦をはさんだ対岸の美浦村牛込地区との繋がりとその痕跡を探しています。
こんなテーマでもまわりから少しずつ調べたり書いたりしているうちに何か見つかるかもしれません。


ブログのアクセス数が大台に乗りました。
おかげさまで本日アクセス数が10万件を越えました。
一つの目標を達成しました。
ブログ開始から513日目でした。(1日平均195件)
6万アクセスが昨年7月20日ですから、その後179日で4万アクセスがあったことになります。
(1日平均225件)

記念として残しておきます。
すみません。記事じゃなくて!
今日のNHK水戸では袋田の滝が半分以上凍ったそうです。
最近いっていないので、そのうち行ってみようかな?

(2年前の冬に撮った写真です)
今年の大寒は1月21日(土)です。
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一つの目標を達成しました。
ブログ開始から513日目でした。(1日平均195件)
6万アクセスが昨年7月20日ですから、その後179日で4万アクセスがあったことになります。
(1日平均225件)

記念として残しておきます。
すみません。記事じゃなくて!
今日のNHK水戸では袋田の滝が半分以上凍ったそうです。
最近いっていないので、そのうち行ってみようかな?

(2年前の冬に撮った写真です)
今年の大寒は1月21日(土)です。


霞ケ浦の鯉養殖
今晩2件目の記事です。さっきのは記事ではないので・・・。
霞ケ浦は日本一の鯉の養殖の産地でした。ここで養殖された鯉が生きたまま全国へ送られていました。
しかし、2003年に発生した鯉ヘルペスはこの養殖産業に大打撃を与えました。
鯉のヘルペスはどこか外部(海外?)からの菌が伝染したと思われ、菌を保有しても発症する場合と発症しない場合があるようです。
ただ一旦発症するとその死亡率は100%という鯉にとっては恐ろしい病気です。
このため、ここ霞ケ浦の鯉の養殖が全面禁止され、多くの鯉の養殖業者が廃業に追い込まれてしまいました。
その後、ヘルペスに耐性のある鯉が試験場で開発され、また移動もエラを取り除いて移動すればヘルペス菌は伝染しないことが確認され、2009年に養殖の再開が許可されました。
現在では半数程度の養殖業者が再開にこぎつけたようですが、すでに撤退した業者も多くいるといいます。

(かすみがうら市牛渡付近)
ここは霞ケ浦に飛びだしているかすみがうら市旧出島の先端近くの牛渡地区の「鯉養殖いけす」です。

この牛渡地区ではこのように湖の中にいけすを作り、そこに餌をまいて養殖しています。
最初の私もこのタンクが何をするものなのかが不思議でした。
この小屋にはきっと餌となる飼料が置いてあるのか、自動的に操作して餌をまいているのかどちらかでしょう。

(かすみがうら市歩崎公園付近)
霞ケ浦沿岸ではこのようなタンクはこの牛渡地区と歩崎の2か所位です。
いけすもこのようないけすではなく、内陸側に池を作って「陸いけす」という方法があるといいます。
昨年のNHK「きっちんが走る」で放送された鯉料理のレシピは → こちら
この鯉料理美味しそうだったです。
現在は生きた鯉を移動する場合はエラを切除するそうです。その他は地元で料理されるものはOKです。
他の県の鯉にウイルスが移らないためにしかたないのでしょうが、地元での料理にもたくさん使わるといいですね。
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霞ケ浦は日本一の鯉の養殖の産地でした。ここで養殖された鯉が生きたまま全国へ送られていました。
しかし、2003年に発生した鯉ヘルペスはこの養殖産業に大打撃を与えました。
鯉のヘルペスはどこか外部(海外?)からの菌が伝染したと思われ、菌を保有しても発症する場合と発症しない場合があるようです。
ただ一旦発症するとその死亡率は100%という鯉にとっては恐ろしい病気です。
このため、ここ霞ケ浦の鯉の養殖が全面禁止され、多くの鯉の養殖業者が廃業に追い込まれてしまいました。
その後、ヘルペスに耐性のある鯉が試験場で開発され、また移動もエラを取り除いて移動すればヘルペス菌は伝染しないことが確認され、2009年に養殖の再開が許可されました。
現在では半数程度の養殖業者が再開にこぎつけたようですが、すでに撤退した業者も多くいるといいます。

(かすみがうら市牛渡付近)
ここは霞ケ浦に飛びだしているかすみがうら市旧出島の先端近くの牛渡地区の「鯉養殖いけす」です。

この牛渡地区ではこのように湖の中にいけすを作り、そこに餌をまいて養殖しています。
最初の私もこのタンクが何をするものなのかが不思議でした。
この小屋にはきっと餌となる飼料が置いてあるのか、自動的に操作して餌をまいているのかどちらかでしょう。

(かすみがうら市歩崎公園付近)
霞ケ浦沿岸ではこのようなタンクはこの牛渡地区と歩崎の2か所位です。
いけすもこのようないけすではなく、内陸側に池を作って「陸いけす」という方法があるといいます。
昨年のNHK「きっちんが走る」で放送された鯉料理のレシピは → こちら
この鯉料理美味しそうだったです。
現在は生きた鯉を移動する場合はエラを切除するそうです。その他は地元で料理されるものはOKです。
他の県の鯉にウイルスが移らないためにしかたないのでしょうが、地元での料理にもたくさん使わるといいですね。


霞ケ浦を渡る牛
かすみがうら市牛渡(うしわた)の地名の由来はここに牛が泳ぎついたという伝説が伝わっているのです。
これがとても興味深いのです。
前に、古東海道がここを船で渡っていたのではないかと書いたことがあります。(こちら)
そのことを示す言い伝えとして残されている「牛塚古墳」を紹介します。

霞ケ浦の湖側に近いところを走る道路に沿って土浦側から牛渡に向かう途中にこじんまりした丸い塚がある。
これが「牛塚古墳です」
塚には松の木と小さなお宮さん(中に石の観音様が安置)が置かれています。
その場に書かれた説明板の内容を下記します。
「霞ケ浦沿岸の低地、房中(ぼうじゅう)集落の西に位置し、市内で最も低いところにある古墳で、形は円墳です。常陸国府に下向途中、この地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力つきてこの地で亡くなり、土地の人々がこれに感動して塚をつくり牛塚と名付けたという伝説があります。五世紀に築いたものと推定されています。 かすみがうら市教育委員会」
多くの方が、この事を単なる物語ととらえているようですが、まさかこんなところに古東海道の道(船道)があったとは考えないようです。
律令制の始まる前からある道で、奈良時代になり律令制の施行された時に各国府を結ぶ官道を整備したのですが、これは10世紀には良くわからなく廃れてしまったのです。
源氏物語が書かれたのは1001年?頃で、ここに常陸介が何回も登場します。
空蝉の夫は常陸介ですよね。
常陸介が常陸国国府(現石岡)にいくのには牛車でゆっくりと進みます。
この頃の道は舗装もされていませんのでスピードは出ません。
なぜ、馬でないのか?などと言う人もいますが、当時の馬は数も少なく、とても小さかったようです。
また去勢などの処置もされていませんので、とても扱い辛かったようです。
都からこのような遠い国にいくのも馬車ではなく牛車で優雅に進んだのです。
(それにしても、選ばれて下向するのは大変だったでしょうね。そのうち時代が経つと役職も名目だけで、実際には下向しなくなってしまうのです。)
ここの古墳に書かれている話は勅使がこの地で亡くなり、慕って後を追ってきた牛が力つきたとなっていますが、話は2つあります。
1)対岸の美浦村(牛込)より勅使は船に牛も載せて牛渡地区の沖合で船を止め、この地の神社(鹿島神社?)にお参りするために勅使が小舟に乗り換え上陸しますが、牛が後を追って湖に飛び込んでしまった。
2)牛は牛込に残して勅使が船で国府に向かった。しかし、残された牛が後を追いかけて湖を渡った。
どちらかかよくわかりませんが、このような話が残っていることはとても興味深いのです。
石岡の三村地区に「鷲塚」「鰻塚」という塚が昔あったそうです(この塚は埋め立てに削られてしまったようです)。室町時代末期に三村城主常春が滅ぼされた時に伝わる「鷲と鰻の大決闘」の話などとどことなくつながっているのかもしれません。
こちらの鷲塚・鰻塚も5世紀頃の古墳で人骨と石館が出てきたそうなので、古墳が先で、話は後からついたものかもしれません。
ただこんなことを考えるのも面白いと思っています。今年もこの道を追いかけることになるのか??
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これがとても興味深いのです。
前に、古東海道がここを船で渡っていたのではないかと書いたことがあります。(こちら)
そのことを示す言い伝えとして残されている「牛塚古墳」を紹介します。

霞ケ浦の湖側に近いところを走る道路に沿って土浦側から牛渡に向かう途中にこじんまりした丸い塚がある。
これが「牛塚古墳です」
塚には松の木と小さなお宮さん(中に石の観音様が安置)が置かれています。
その場に書かれた説明板の内容を下記します。
「霞ケ浦沿岸の低地、房中(ぼうじゅう)集落の西に位置し、市内で最も低いところにある古墳で、形は円墳です。常陸国府に下向途中、この地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力つきてこの地で亡くなり、土地の人々がこれに感動して塚をつくり牛塚と名付けたという伝説があります。五世紀に築いたものと推定されています。 かすみがうら市教育委員会」
多くの方が、この事を単なる物語ととらえているようですが、まさかこんなところに古東海道の道(船道)があったとは考えないようです。
律令制の始まる前からある道で、奈良時代になり律令制の施行された時に各国府を結ぶ官道を整備したのですが、これは10世紀には良くわからなく廃れてしまったのです。
源氏物語が書かれたのは1001年?頃で、ここに常陸介が何回も登場します。
空蝉の夫は常陸介ですよね。
常陸介が常陸国国府(現石岡)にいくのには牛車でゆっくりと進みます。
この頃の道は舗装もされていませんのでスピードは出ません。
なぜ、馬でないのか?などと言う人もいますが、当時の馬は数も少なく、とても小さかったようです。
また去勢などの処置もされていませんので、とても扱い辛かったようです。
都からこのような遠い国にいくのも馬車ではなく牛車で優雅に進んだのです。
(それにしても、選ばれて下向するのは大変だったでしょうね。そのうち時代が経つと役職も名目だけで、実際には下向しなくなってしまうのです。)
ここの古墳に書かれている話は勅使がこの地で亡くなり、慕って後を追ってきた牛が力つきたとなっていますが、話は2つあります。
1)対岸の美浦村(牛込)より勅使は船に牛も載せて牛渡地区の沖合で船を止め、この地の神社(鹿島神社?)にお参りするために勅使が小舟に乗り換え上陸しますが、牛が後を追って湖に飛び込んでしまった。
2)牛は牛込に残して勅使が船で国府に向かった。しかし、残された牛が後を追いかけて湖を渡った。
どちらかかよくわかりませんが、このような話が残っていることはとても興味深いのです。
石岡の三村地区に「鷲塚」「鰻塚」という塚が昔あったそうです(この塚は埋め立てに削られてしまったようです)。室町時代末期に三村城主常春が滅ぼされた時に伝わる「鷲と鰻の大決闘」の話などとどことなくつながっているのかもしれません。
こちらの鷲塚・鰻塚も5世紀頃の古墳で人骨と石館が出てきたそうなので、古墳が先で、話は後からついたものかもしれません。
ただこんなことを考えるのも面白いと思っています。今年もこの道を追いかけることになるのか??


山王山古墳(美浦村)
前に黒坂命(くろさかのみこと)の古墳かもしれないという所を紹介しました。(こちら)
この古墳は霞ケ浦のすぐ近くであり、海抜もそれほど高くなく、築造年代も5世紀半ばということで、黒坂命の古墳と考えるのは無理ではないかと書きました。
もっとも黒坂命は古墳時代より少し前のように考えていますので、どのように埋葬されたかはわかりません。
この古墳の近くに少し山の方にもう少し大きな古墳があります。「山王山古墳」です。

この山王山古墳は前に書いた黒坂命古墳(弁天塚古墳)よりもかなり大きいくて立派です。
名前の通り少し高台の山になっており、道はわかりにくいが、鳥居の横にも花が植えられ、地元の人がきれいに守ろうと活動されている。
とても気持ちが良い。

ここは山の上にある日枝神社で、創建は不明だ。
恐らく古墳が先にあって、その後に建てられたものであろう。

この神社の裏山一帯が古墳のようだ。かなり大きいと感じた。

現地説明看板「霞ケ浦を見渡す段丘先端部に築かれた円墳。未調査のため詳細は不明であるが、南側裾部には名前の由来となった日枝神社(祭神 大山咋神)が祭祀されている。そのため地形の改編変が認められるものの、自然地形を利用したと思われる範囲を加えると、径70mを越える村内最大級の円墳となり、本地域の盟主的な墳墓と考えられる。本古墳より北西約800mの位置には、古墳時代中期(5世紀)に比定される大型円墳を中心とした大塚古墳群が存在し、規模・立地に共通した傾向が認められることからその関係が注目される。 平成17(2005)年3月 美浦村教育委員会」とあります。

<黒坂命古墳、陸平貝塚などとの位置関係>(サムネルです。クリックで拡大します)
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この古墳は霞ケ浦のすぐ近くであり、海抜もそれほど高くなく、築造年代も5世紀半ばということで、黒坂命の古墳と考えるのは無理ではないかと書きました。
もっとも黒坂命は古墳時代より少し前のように考えていますので、どのように埋葬されたかはわかりません。
この古墳の近くに少し山の方にもう少し大きな古墳があります。「山王山古墳」です。

この山王山古墳は前に書いた黒坂命古墳(弁天塚古墳)よりもかなり大きいくて立派です。
名前の通り少し高台の山になっており、道はわかりにくいが、鳥居の横にも花が植えられ、地元の人がきれいに守ろうと活動されている。
とても気持ちが良い。

ここは山の上にある日枝神社で、創建は不明だ。
恐らく古墳が先にあって、その後に建てられたものであろう。

この神社の裏山一帯が古墳のようだ。かなり大きいと感じた。

現地説明看板「霞ケ浦を見渡す段丘先端部に築かれた円墳。未調査のため詳細は不明であるが、南側裾部には名前の由来となった日枝神社(祭神 大山咋神)が祭祀されている。そのため地形の改編変が認められるものの、自然地形を利用したと思われる範囲を加えると、径70mを越える村内最大級の円墳となり、本地域の盟主的な墳墓と考えられる。本古墳より北西約800mの位置には、古墳時代中期(5世紀)に比定される大型円墳を中心とした大塚古墳群が存在し、規模・立地に共通した傾向が認められることからその関係が注目される。 平成17(2005)年3月 美浦村教育委員会」とあります。

<黒坂命古墳、陸平貝塚などとの位置関係>(サムネルです。クリックで拡大します)


縄文海進
律令制の始まった頃から全国的に七つの官道が整備されました。
これは主に各地と都との連絡や租庸調の徴収などのために必要とされたようです。
大化の改新(646年)以降、畿内から東には三つの官道が整備されました。
その道は各国の国府を繋いでいたのです。奈良時代初頭にはかなり整備されていたと思われます。
海寄りを進むのが東の海道で東海道(中路)
本州の真中を走る東の山道で東山道(中路)
日本海側を越後(または佐渡)まで行く北陸道(小路)
東山道は陸奥国国府(多賀城市)まで続き、東海道は常陸国国府(石岡市)まで続いていました。
そして16km毎に駅家(うまや)をおいてそこに馬(中路は10疋、小路は5疋)を置き、各国府との連絡に馬で乗り継いで連絡する仕組みができていたようです。
中路となった東海道、東山道は幅員が6~12m位あったようです。
東京の所属する武蔵国は771年に東山道の国から東海道の国に編入されたのです。
これは東京湾の下町から埼玉南部にかけて大きな湿原が存在しており、最初の頃には東海道も武蔵国は通らずに東京湾を船で渡っていました。
また東山道も武蔵国国府(東京都府中市)を通ると全くの時間ロスになっていたといいます。
このため、武蔵国は東海道に組みかえられたというわけです。
また甲斐国(国府:笛吹市)も東海道に組み込まれていますが、箱根を越えて山中湖~河口湖を経由して峠越えで行きますので武蔵国を通らなくても良かったのでしょう。
この武蔵国が東海道に組み込まれてから色々なルートができてきたように思います。
武蔵府中から松戸などとがつながるルートも出来てきたのではないかと思います。
しかし、10世紀から11世紀には廃れてしまい、幾つもの生活道路が出来て、鎌倉時代に鎌倉街道と呼ばれる各地の道とダブってきてしまったようです。
しかしこの古代の官道のルートを理解する上で、この縄文海進を少し理解しておいた方が良いと思います。
あまりにも現在と地形の様子が違ってくるからです。
今から6千年ほど前が海面上昇のピークと言われていますが、今よりも海面がかなり高い時代があったのです。
これは地域によっても違うし、その後の土砂の蓄積などで地面が高くなったところもあり明らかにはなっていません。
各地に残された貝塚などの分布を基に今より6~7mくらい高かったという説と、2~3mくらい高いという考え方があるようです、
しかし、この数mの海面の上昇がもっとも大きく地形を変えている場所がここの霞ケ浦周辺だと思います。

(日経BP社の海進シュミュレーションより)
これは海面が5m高かった場合の地図ですが、霞ケ浦はとても大きな内海でした。
この呼び名も各地名をとって○○の流海(ながれうみ)、香取海(かとりのうみ)など様々です。
そして、東海道も常陸国府(石岡)には東京湾を渡った後に川を下り、何度もこの流海を渡ってきたようです。
湿地帯や山岳地帯を歩くよりも意外にこちらの方が楽だったのかもしれません。
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これは主に各地と都との連絡や租庸調の徴収などのために必要とされたようです。
大化の改新(646年)以降、畿内から東には三つの官道が整備されました。
その道は各国の国府を繋いでいたのです。奈良時代初頭にはかなり整備されていたと思われます。
海寄りを進むのが東の海道で東海道(中路)
本州の真中を走る東の山道で東山道(中路)
日本海側を越後(または佐渡)まで行く北陸道(小路)
東山道は陸奥国国府(多賀城市)まで続き、東海道は常陸国国府(石岡市)まで続いていました。
そして16km毎に駅家(うまや)をおいてそこに馬(中路は10疋、小路は5疋)を置き、各国府との連絡に馬で乗り継いで連絡する仕組みができていたようです。
中路となった東海道、東山道は幅員が6~12m位あったようです。
東京の所属する武蔵国は771年に東山道の国から東海道の国に編入されたのです。
これは東京湾の下町から埼玉南部にかけて大きな湿原が存在しており、最初の頃には東海道も武蔵国は通らずに東京湾を船で渡っていました。
また東山道も武蔵国国府(東京都府中市)を通ると全くの時間ロスになっていたといいます。
このため、武蔵国は東海道に組みかえられたというわけです。
また甲斐国(国府:笛吹市)も東海道に組み込まれていますが、箱根を越えて山中湖~河口湖を経由して峠越えで行きますので武蔵国を通らなくても良かったのでしょう。
この武蔵国が東海道に組み込まれてから色々なルートができてきたように思います。
武蔵府中から松戸などとがつながるルートも出来てきたのではないかと思います。
しかし、10世紀から11世紀には廃れてしまい、幾つもの生活道路が出来て、鎌倉時代に鎌倉街道と呼ばれる各地の道とダブってきてしまったようです。
しかしこの古代の官道のルートを理解する上で、この縄文海進を少し理解しておいた方が良いと思います。
あまりにも現在と地形の様子が違ってくるからです。
今から6千年ほど前が海面上昇のピークと言われていますが、今よりも海面がかなり高い時代があったのです。
これは地域によっても違うし、その後の土砂の蓄積などで地面が高くなったところもあり明らかにはなっていません。
各地に残された貝塚などの分布を基に今より6~7mくらい高かったという説と、2~3mくらい高いという考え方があるようです、
しかし、この数mの海面の上昇がもっとも大きく地形を変えている場所がここの霞ケ浦周辺だと思います。

(日経BP社の海進シュミュレーションより)
これは海面が5m高かった場合の地図ですが、霞ケ浦はとても大きな内海でした。
この呼び名も各地名をとって○○の流海(ながれうみ)、香取海(かとりのうみ)など様々です。
そして、東海道も常陸国府(石岡)には東京湾を渡った後に川を下り、何度もこの流海を渡ってきたようです。
湿地帯や山岳地帯を歩くよりも意外にこちらの方が楽だったのかもしれません。

