常陸国分尼寺跡(2)
昨日の続きを書こうとしたが、意外にこの尼寺のことが書かれたものが少ない。
国の特別史跡に指定されたのはかなり古く、大正十年だという。
現在はこの地はそのまま広場になってしまっているが、訪れた人はここにきて何を感じていかれるのだろうか。

ここには入口に「法華滅罪之寺」の石碑と2本の桜の木に説明板が1つあるだけに見える。

しかし、この場所は発掘調査で一番手前に「南大門」があり「中門」- 「金堂」 - 「講堂」がほぼ南から北へ一直線に並んでいたのです。
また別に一番北に尼房または食堂と思われる建物があったことがわかっています。
そして中門から講堂への回廊があり3m幅の溝で囲われていたことが確認されています。
良く詳しく見ればほぼその跡がわかるのですが、真中に置かれた案内板も詳しい人が見れば理解できるでしょうが、私も最初に見た時は良くわかりませんでした。

これは土塁か溝の跡のようです。回廊跡は区別するためにレンガを敷いたりしているようです。
そしてその両脇に萩の花があるので秋も趣がありそうです。

参考までに現地の看板に書かれた図をUPします。石岡の歴史などに載っているものと同じです。

やはり桜の時期の写真も載せておきます。
お花見もできます。
子供がボール遊びをしていました。

この国分尼寺は国分寺と同じころ(750年頃)に建てられましたが、10人の尼僧を置いていたといいます。
そして、934年平将門がこの地を襲います。
国衙の軍は3000人もいたのですが、三方から攻め入った将門の1000人程の軍にあっという間に打ち負かされてしまいました。
国衙の長官は降伏し、15,000程あった高価な絹布は全て奪われ、略奪、放火され人々は地面に膝まづき泥にまみれたといいます。
その時に国分寺も、この国分尼寺も焼かれてしまったのです。
尼寺の敷地には窪地となった池があったそうです。
将門が攻めてくるとの知らせで、尼僧たちはその池に大切な宝物をみな投げ込んだといいます。
(これは将門の時かまたは佐竹氏に攻められて落城した時(1590年)かもわかりません。それほど記録が無いのです。)
池の名前は「ごきあらい」といいました。
“ごき”とは、「御器」と書き、 「ごき洗い」は、食器などを洗った池があったためにそうよばれていたものでした。
しかし、兵火の中で尼僧や寺院の関係者は全員亡くなり、ごき洗いの池も焼け落ちた瓦や木材で埋まってしまいました。
そのためごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと伝えられています。
江戸時代、このごき洗いを掘ろうとした百姓は、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまいました。
罰を恐れた人々はそれ以来誰も掘ろうとはしなかったといわれています。
朝日さす 夕日かがやくごき洗い 黄金千枚 仏千体
尼寺ヶ原にひそかに言い伝えられた歌です。(市報いしおか No344より 一部抜粋)
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国の特別史跡に指定されたのはかなり古く、大正十年だという。
現在はこの地はそのまま広場になってしまっているが、訪れた人はここにきて何を感じていかれるのだろうか。

ここには入口に「法華滅罪之寺」の石碑と2本の桜の木に説明板が1つあるだけに見える。

しかし、この場所は発掘調査で一番手前に「南大門」があり「中門」- 「金堂」 - 「講堂」がほぼ南から北へ一直線に並んでいたのです。
また別に一番北に尼房または食堂と思われる建物があったことがわかっています。
そして中門から講堂への回廊があり3m幅の溝で囲われていたことが確認されています。
良く詳しく見ればほぼその跡がわかるのですが、真中に置かれた案内板も詳しい人が見れば理解できるでしょうが、私も最初に見た時は良くわかりませんでした。

これは土塁か溝の跡のようです。回廊跡は区別するためにレンガを敷いたりしているようです。
そしてその両脇に萩の花があるので秋も趣がありそうです。

参考までに現地の看板に書かれた図をUPします。石岡の歴史などに載っているものと同じです。

やはり桜の時期の写真も載せておきます。
お花見もできます。
子供がボール遊びをしていました。

この国分尼寺は国分寺と同じころ(750年頃)に建てられましたが、10人の尼僧を置いていたといいます。
そして、934年平将門がこの地を襲います。
国衙の軍は3000人もいたのですが、三方から攻め入った将門の1000人程の軍にあっという間に打ち負かされてしまいました。
国衙の長官は降伏し、15,000程あった高価な絹布は全て奪われ、略奪、放火され人々は地面に膝まづき泥にまみれたといいます。
その時に国分寺も、この国分尼寺も焼かれてしまったのです。
尼寺の敷地には窪地となった池があったそうです。
将門が攻めてくるとの知らせで、尼僧たちはその池に大切な宝物をみな投げ込んだといいます。
(これは将門の時かまたは佐竹氏に攻められて落城した時(1590年)かもわかりません。それほど記録が無いのです。)
池の名前は「ごきあらい」といいました。
“ごき”とは、「御器」と書き、 「ごき洗い」は、食器などを洗った池があったためにそうよばれていたものでした。
しかし、兵火の中で尼僧や寺院の関係者は全員亡くなり、ごき洗いの池も焼け落ちた瓦や木材で埋まってしまいました。
そのためごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと伝えられています。
江戸時代、このごき洗いを掘ろうとした百姓は、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまいました。
罰を恐れた人々はそれ以来誰も掘ろうとはしなかったといわれています。
朝日さす 夕日かがやくごき洗い 黄金千枚 仏千体
尼寺ヶ原にひそかに言い伝えられた歌です。(市報いしおか No344より 一部抜粋)


胎安神社(かすみがうら市)
先日、古渡(ふっと)の興禅寺で安産・子育てにご利益がある「延命地蔵」の話を書きました。
そこで連想ですが、かすみがうら市にある二つの子育て・安産神社を紹介します。
今日紹介するのは「胎安(たやす)神社」です。
名前ですぐにわかると思いますが、安産祈願の神社で、延喜式式内社です。
創建が763年と伝えられていますが、詳細ははっきりしません。
元々は香取神宮の経津主命を祀っていましたが、山城国葛野郡(京都嵐山)の梅宮大社の分霊を祀って、胎内神(木花咲耶姫命)を祀るようになったそうです。
この神社のいわれとしては家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏の印ですが、前九年の役の時の天喜2年(1055)源頼義、義家父子が、隣村の下雫村(下志筑)に滞在していた時に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の安産祈願を行いました。
康平6年(1064) 奥州からの帰路、お礼参りをし、この時の「太刀一振り」の奉納札が残っているそうです。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
また、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されたそうです。
(注:神社の書かれたものにはこのようになっていますが、前九年の役に下雫村に滞在したということは私は確認していません。本堂家が志筑藩に入ってきてからの話が少し混ざっているように思います。)

入口の「神門」です。

拝殿です。拝殿前の左側の杉の木は「不老長寿の杉」といい、杉皮の一片を衣服に縫い入れ着用すると、長寿を得られると言い伝えられているそうです。もっと大木と思いましたが意外に普通の太さの木です。
説明では根元が硬く成長が遅いのだといいます。

拝殿の正面に「笹竜胆」のマークとその下には龍の彫り物が鮮やかです。
笹竜胆は源氏の印ですが、この寺を保護した志筑藩の本堂家が使っていた家紋です。

この龍の彫り物も見事です。

寺の横から裏の方に回ると「子持ち松」という枯れ木が置かれています。
樹齢が500年程だといいますが、明治時代に枯れてしまったそうです。

本殿に彫られた彫刻。

境内にたくさんの祠が置かれていました。
全国から集まったものでしょうか。みな境内社になるのでしょうか?

神社で参拝していると社務所の方から巫女さん?が出てこられて暖かいお茶を1缶いただきました。
ここを訪れたのは4回目でしょうか。これでお茶をいただいたのは2度目です。
寒い日でしたので手を温めながらいただきました。
安産を願う方は一度おまいりして見てはいかがですか。
意外に知られていませんが、由緒のある神社です。
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そこで連想ですが、かすみがうら市にある二つの子育て・安産神社を紹介します。
今日紹介するのは「胎安(たやす)神社」です。
名前ですぐにわかると思いますが、安産祈願の神社で、延喜式式内社です。
創建が763年と伝えられていますが、詳細ははっきりしません。
元々は香取神宮の経津主命を祀っていましたが、山城国葛野郡(京都嵐山)の梅宮大社の分霊を祀って、胎内神(木花咲耶姫命)を祀るようになったそうです。
この神社のいわれとしては家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏の印ですが、前九年の役の時の天喜2年(1055)源頼義、義家父子が、隣村の下雫村(下志筑)に滞在していた時に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の安産祈願を行いました。
康平6年(1064) 奥州からの帰路、お礼参りをし、この時の「太刀一振り」の奉納札が残っているそうです。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
また、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されたそうです。
(注:神社の書かれたものにはこのようになっていますが、前九年の役に下雫村に滞在したということは私は確認していません。本堂家が志筑藩に入ってきてからの話が少し混ざっているように思います。)

入口の「神門」です。

拝殿です。拝殿前の左側の杉の木は「不老長寿の杉」といい、杉皮の一片を衣服に縫い入れ着用すると、長寿を得られると言い伝えられているそうです。もっと大木と思いましたが意外に普通の太さの木です。
説明では根元が硬く成長が遅いのだといいます。

拝殿の正面に「笹竜胆」のマークとその下には龍の彫り物が鮮やかです。
笹竜胆は源氏の印ですが、この寺を保護した志筑藩の本堂家が使っていた家紋です。

この龍の彫り物も見事です。

寺の横から裏の方に回ると「子持ち松」という枯れ木が置かれています。
樹齢が500年程だといいますが、明治時代に枯れてしまったそうです。

本殿に彫られた彫刻。

境内にたくさんの祠が置かれていました。
全国から集まったものでしょうか。みな境内社になるのでしょうか?

神社で参拝していると社務所の方から巫女さん?が出てこられて暖かいお茶を1缶いただきました。
ここを訪れたのは4回目でしょうか。これでお茶をいただいたのは2度目です。
寒い日でしたので手を温めながらいただきました。
安産を願う方は一度おまいりして見てはいかがですか。
意外に知られていませんが、由緒のある神社です。


子安神社(1)
かすみがうら市の胎安神社を紹介しましたが、今日はすぐ近くにある「子安神社」の紹介です。
延喜式の式内社としては茨城郡に「夷針(イハリ?)神社」が載っているのだが、昨日の胎安(タヤス)神社もこの子安神社もこの式内社の論社とみなされている。
もう一つ茨城町大戸に夷針(いしみ)神社」があるのだがすべて論社なのだどという。
もともと筑波の周りはニイバリ(新治)と呼ばれていた。この名前のもとになった言葉だと思うのだが意味は良くわからない。
漢字は当て字だろうから理解する助けにならない。
もっとも新治と各地名は各地にあり、群馬県では「にいはる」とよむ。
(写真はサムネルです。クリックで大きな写真が見られます)

街道から少し入ったところに神社参道入り口がある。

少し進むと鳥居が建っています。
木々はかなり古木があります。この鳥居の先から椿の古木(大木)が続きます。
椿の花の時期にはこの花を目当てに訪れる人もいるそうです。

拝殿前には大きな古木がありその歴史を感じさせてくれます。

拝殿です。この裏に江戸時代の本殿があります。
この拝殿の入口上にも立派な龍の彫刻があります。胎安神社の彫刻と対になっているようです。
源氏の紋である「笹竜胆(ささりんどう)」の紋も同じです。

この子安神社はこの周辺の子安講の中心的神社でした。9月の例祭は昔はかなり盛大に行われ参道の周囲には屋台もたくさん出たそうです。
いまは面影がありませんが、子安信仰の由緒ある神社です。
今日は時間もないので、もう少し掘り下げた内容は明日に書きたいと思います。
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延喜式の式内社としては茨城郡に「夷針(イハリ?)神社」が載っているのだが、昨日の胎安(タヤス)神社もこの子安神社もこの式内社の論社とみなされている。
もう一つ茨城町大戸に夷針(いしみ)神社」があるのだがすべて論社なのだどという。
もともと筑波の周りはニイバリ(新治)と呼ばれていた。この名前のもとになった言葉だと思うのだが意味は良くわからない。
漢字は当て字だろうから理解する助けにならない。
もっとも新治と各地名は各地にあり、群馬県では「にいはる」とよむ。
(写真はサムネルです。クリックで大きな写真が見られます)

街道から少し入ったところに神社参道入り口がある。

少し進むと鳥居が建っています。
木々はかなり古木があります。この鳥居の先から椿の古木(大木)が続きます。
椿の花の時期にはこの花を目当てに訪れる人もいるそうです。

拝殿前には大きな古木がありその歴史を感じさせてくれます。

拝殿です。この裏に江戸時代の本殿があります。
この拝殿の入口上にも立派な龍の彫刻があります。胎安神社の彫刻と対になっているようです。
源氏の紋である「笹竜胆(ささりんどう)」の紋も同じです。

この子安神社はこの周辺の子安講の中心的神社でした。9月の例祭は昔はかなり盛大に行われ参道の周囲には屋台もたくさん出たそうです。
いまは面影がありませんが、子安信仰の由緒ある神社です。
今日は時間もないので、もう少し掘り下げた内容は明日に書きたいと思います。


子安神社(2)
今日は昨日の子安神社の続きです。
この神社の本殿の紹介をします。

拝殿の裏へ回ると本殿が木の枠で囲われています。
立派な本殿なのですが、かなり時代が建ったものなので雨風に耐えられるようにおおっているものと思います。

この本殿は江戸初期の建立といわれ、途中で建て替えなどが行なわれていないことから貴重な建物だと思います。

なかなか凝った彫刻が施されています。
神社の由緒としては大同2年(807年)に富士浅間神社より木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を、また鹿島より武甕槌命(たけみかづちのみこと)を分霊して祀っています。
胎安(たやす)神社は763年の創建としていますので、胎安神社の方が44年古いことになります。
また同じ木花開耶姫命ですが、胎安神社は山城国葛野郡(京都嵐山)梅宮大社より分霊しています。
また胎安神社は鹿島ではなく香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)を祀っているのです。
この両者の違いは何なのでしょうか。
どうやら元は一つだったと思われる記録もあるようですが、別れてからかなり経っており訪れて見るとその雰囲気は全く違っています。
胎安神社の宮司は現在36代目らしいので数百年~1000年前くらいに遡るようです。
源頼義、義家親子が前九年の役にこの近くで宿泊しこの両方の神社にお参りしたといわれていますが、その伝わり方も少し違います。(行きは1055年、帰還は1064年の両方ともに訪れたということは両方で同じです)
胎安神社では近くの下雫村に陣をはり、義家(八幡太郎)の都に残した妻の安産を祈願して、無事安産であったお礼に「太刀一振り」を奉納したので、この義家の嫡男の誕生日9月9日を祭日としたとなっています。
(下雫村は江戸時代に秋田より移ってきた本堂氏の志筑(しづく)藩の場所が昔、下雫村であるのでこの場所に八幡太郎が滞在したという話になってしまったものと思います。胎安神社は本堂氏の保護を受けていました。)
一方子安神社では宿泊したのはこの神社の近くであり下雫村とは言っていません。
実はこの近くの石岡市正月平(しょうがつだいら)というところに、この親子が正月に宿泊したという記録が残されています。(正月平については以前地名の話として書いています。→こちら)
宿泊が正月になったのでその地が「正月平」というおめでたい地名になったというものです。
当時戸数も少なく大変であったにもかかわらず、総出でもてなしたため非常に感謝されたと記録があるようです。(正確には読んでいませんので未確認です)
そしてこの時に子安神社でお祭りがあり人々が神社に集まっていたので、その由緒を聞き頼義、義家親子がこの子安神社にお参りしたといいます。そして近くの川に架かる橋が通れないのを武士たちが橋をかけ直してくれたといわれています。
この川は今は天の川という洒落た名前になっています。高浜で恋瀬川に注いで霞ケ浦に流れています。
ここに架かる橋は建て替え工事を3年以上前からやっていて(臨時のバイパス橋で通行していた)今年になってやっと通れるようになった場所です。
それほど大きな橋でもないのに時間がかかりすぎです。昔はすぐに架けてしまったのですから・・・。
今の子安神社の例大祭は3月3日に行われています。
少し話が長くなってしまいましたが、この続きはまた明日へ。
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この神社の本殿の紹介をします。

拝殿の裏へ回ると本殿が木の枠で囲われています。
立派な本殿なのですが、かなり時代が建ったものなので雨風に耐えられるようにおおっているものと思います。

この本殿は江戸初期の建立といわれ、途中で建て替えなどが行なわれていないことから貴重な建物だと思います。

なかなか凝った彫刻が施されています。
神社の由緒としては大同2年(807年)に富士浅間神社より木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を、また鹿島より武甕槌命(たけみかづちのみこと)を分霊して祀っています。
胎安(たやす)神社は763年の創建としていますので、胎安神社の方が44年古いことになります。
また同じ木花開耶姫命ですが、胎安神社は山城国葛野郡(京都嵐山)梅宮大社より分霊しています。
また胎安神社は鹿島ではなく香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)を祀っているのです。
この両者の違いは何なのでしょうか。
どうやら元は一つだったと思われる記録もあるようですが、別れてからかなり経っており訪れて見るとその雰囲気は全く違っています。
胎安神社の宮司は現在36代目らしいので数百年~1000年前くらいに遡るようです。
源頼義、義家親子が前九年の役にこの近くで宿泊しこの両方の神社にお参りしたといわれていますが、その伝わり方も少し違います。(行きは1055年、帰還は1064年の両方ともに訪れたということは両方で同じです)
胎安神社では近くの下雫村に陣をはり、義家(八幡太郎)の都に残した妻の安産を祈願して、無事安産であったお礼に「太刀一振り」を奉納したので、この義家の嫡男の誕生日9月9日を祭日としたとなっています。
(下雫村は江戸時代に秋田より移ってきた本堂氏の志筑(しづく)藩の場所が昔、下雫村であるのでこの場所に八幡太郎が滞在したという話になってしまったものと思います。胎安神社は本堂氏の保護を受けていました。)
一方子安神社では宿泊したのはこの神社の近くであり下雫村とは言っていません。
実はこの近くの石岡市正月平(しょうがつだいら)というところに、この親子が正月に宿泊したという記録が残されています。(正月平については以前地名の話として書いています。→こちら)
宿泊が正月になったのでその地が「正月平」というおめでたい地名になったというものです。
当時戸数も少なく大変であったにもかかわらず、総出でもてなしたため非常に感謝されたと記録があるようです。(正確には読んでいませんので未確認です)
そしてこの時に子安神社でお祭りがあり人々が神社に集まっていたので、その由緒を聞き頼義、義家親子がこの子安神社にお参りしたといいます。そして近くの川に架かる橋が通れないのを武士たちが橋をかけ直してくれたといわれています。
この川は今は天の川という洒落た名前になっています。高浜で恋瀬川に注いで霞ケ浦に流れています。
ここに架かる橋は建て替え工事を3年以上前からやっていて(臨時のバイパス橋で通行していた)今年になってやっと通れるようになった場所です。
それほど大きな橋でもないのに時間がかかりすぎです。昔はすぐに架けてしまったのですから・・・。
今の子安神社の例大祭は3月3日に行われています。
少し話が長くなってしまいましたが、この続きはまた明日へ。


石岡市八郷地区
今日朝のNHK「小さな旅」で石岡市八郷を放映していました。
八郷地区の魅力をうまく表現していたと思います。
今日は神社ばかりではつまらないので、予定を変更して八郷地区の紹介をさせてください。
ここは筑波山~加波山~吾国山(あがくにさん)~難台山(なんだいさん)~鐘転山(かねころがしやま)の山並みにより西から北側を囲まれ、東側は霞ケ浦に続く平野部に続く温暖な気候の地域です。
八郷とは7つの村と1つの町が合併して「八郷町」となり平成の大合併で石岡市と合併した地区で八郷の地名は消えましたが、長らく愛された八郷の名前はあちこちで使われています。
東京からも70kmほどしか離れていないのに驚くほど自然豊かなホタルも舞う里山が広がっています。
今日のテレビでの紹介は次の3つでした。
1)親子3代にわたり八郷地区で農業をしている家庭。
昔はタバコ栽培をしていたが、野菜栽培に切り替え親子三代で一緒に暮らしている。
(タバコは、昔はこの地区の主要な産業でした。しかし最近野菜や果物栽培・ブルーベリー農園などに切り替えている所が多くなっています)
2)東京から脱サラでやってきた30代の親子。
2年間の農業指導を受けてこの地に自分の土地を耕し、野菜作りが始まった家族。
サラリーマン時代は子供と過ごす時間もほとんどなかったのが、収入は半分になったけれど、生き生きとして暮らしている姿であった。
奥さんの
「うちの子供たちはここにきてからこの人(ご主人)のことを父親だと知ったみたいです。それまでは時々顔を見かける人だった」
の言葉は強烈な印象を受けました。
私も昔はこんなだったな~なんて!
3)八郷地区の茅葺屋根を葺く職人さんに若い職人が加わり、必死に技を覚えている。
この地区に伝わる茅葺屋根は「筑波流」という独特の葺き方をしている。きれいな模様が特徴だ。
これは何度か紹介している。前に載せた写真だがここであらためて載せておきましょう。


この地区は日本の里山100選に選ばれており、都会からこの地に移り住む人も多い。
また果樹団地も多く、梨、りんご、柿、イチゴ、ブルーベリーなどのほか、有機栽培の野菜を始め、シャモ(軍鶏)も有名です。

(秋の柿(献上柿))
やはり良いところです。もっと紹介しなくてはいけないですね。
NHKのカメラは最後に素敵な映像を見せてくれました。山に登ってこの八郷地区を流れる恋瀬川の上に朝もやが帯状にたなびいていました。
素晴らしいですね。自分もこんな景色を写真に今度撮って見たい。

(板敷峠~吾国山の尾根より八郷地区を眺める。右手の山が筑波山~足尾山~加波山の連なる山並み)
今日は予定を変更して八郷地区の紹介をさせていただきました。
都会がいやになったら是非おいで下さい。
また雪国を離れたかったら来て見てくださいね。
八郷地区は結構広いんです。旧石岡地区より面積は大分大きいです。(下の地図を参照)

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八郷地区の魅力をうまく表現していたと思います。
今日は神社ばかりではつまらないので、予定を変更して八郷地区の紹介をさせてください。
ここは筑波山~加波山~吾国山(あがくにさん)~難台山(なんだいさん)~鐘転山(かねころがしやま)の山並みにより西から北側を囲まれ、東側は霞ケ浦に続く平野部に続く温暖な気候の地域です。
八郷とは7つの村と1つの町が合併して「八郷町」となり平成の大合併で石岡市と合併した地区で八郷の地名は消えましたが、長らく愛された八郷の名前はあちこちで使われています。
東京からも70kmほどしか離れていないのに驚くほど自然豊かなホタルも舞う里山が広がっています。
今日のテレビでの紹介は次の3つでした。
1)親子3代にわたり八郷地区で農業をしている家庭。
昔はタバコ栽培をしていたが、野菜栽培に切り替え親子三代で一緒に暮らしている。
(タバコは、昔はこの地区の主要な産業でした。しかし最近野菜や果物栽培・ブルーベリー農園などに切り替えている所が多くなっています)
2)東京から脱サラでやってきた30代の親子。
2年間の農業指導を受けてこの地に自分の土地を耕し、野菜作りが始まった家族。
サラリーマン時代は子供と過ごす時間もほとんどなかったのが、収入は半分になったけれど、生き生きとして暮らしている姿であった。
奥さんの
「うちの子供たちはここにきてからこの人(ご主人)のことを父親だと知ったみたいです。それまでは時々顔を見かける人だった」
の言葉は強烈な印象を受けました。
私も昔はこんなだったな~なんて!
3)八郷地区の茅葺屋根を葺く職人さんに若い職人が加わり、必死に技を覚えている。
この地区に伝わる茅葺屋根は「筑波流」という独特の葺き方をしている。きれいな模様が特徴だ。
これは何度か紹介している。前に載せた写真だがここであらためて載せておきましょう。


この地区は日本の里山100選に選ばれており、都会からこの地に移り住む人も多い。
また果樹団地も多く、梨、りんご、柿、イチゴ、ブルーベリーなどのほか、有機栽培の野菜を始め、シャモ(軍鶏)も有名です。

(秋の柿(献上柿))
やはり良いところです。もっと紹介しなくてはいけないですね。
NHKのカメラは最後に素敵な映像を見せてくれました。山に登ってこの八郷地区を流れる恋瀬川の上に朝もやが帯状にたなびいていました。
素晴らしいですね。自分もこんな景色を写真に今度撮って見たい。

(板敷峠~吾国山の尾根より八郷地区を眺める。右手の山が筑波山~足尾山~加波山の連なる山並み)
今日は予定を変更して八郷地区の紹介をさせていただきました。
都会がいやになったら是非おいで下さい。
また雪国を離れたかったら来て見てくださいね。
八郷地区は結構広いんです。旧石岡地区より面積は大分大きいです。(下の地図を参照)



子安神社(3)
昨日載せようとしていましたが、別な記事を挟みましたので今日になりました。
ところで、土浦の駅前のウララに入っているイトーヨーカドーが来年2月に撤退だそうです。
その空いたフロアを土浦市で買い取る交渉をしているそうです。
市役所も建て直すので、この跡地になどと言う話もあるようですが止めた方がいいですね。
駅前はやはり活気がなければだめです。
今日は子安神社の3回目です。胎安神社と合わせれば4回目です。
まあ、この神社に3回も4回もかけて書く人もまずいないでしょう。
訪れて見れば特になんでもない神社です。子安神社は参道に大きな山椿の木が並びますので、この椿を見に行く人はいるようです。今月には見られるようになるのでしょうか。
さて、この2つの神社は出産・子育ての神社です。
胎安神社では再選を0円入れてお参りしたのにお茶をいただき申し訳ない思いでした。
さてここで祀っている神様は鹿島香取の神と「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀っているのですが、この神様は伊勢神宮内宮の子安神社でも祀られていて「木華開耶姫命」と書かれていますが、読み方は一緒です。
「木の花(桜や梅)が咲くように美しい姫」の神様です。良い名前ですよね。木花之佐久毘売とも書かれます。
神様になってしまうと何だか美しさがわからないですよね。
神話を読めばわかるのですが、簡単にお話ししておきます。
日向の地(高千穂)に降り立ったニギニギのところに天の大山津見神より二人の姉妹が送られてきます。
姉は醜く、ニギニギは妹の木花開耶姫命だけを妻にし、姉は送り返してしまいます。
妹は子孫繁栄の子宝に恵まれる娘であり、姉も妻にしていれば永遠の命をもたらされたというのです。
妹だけを妻にしたために人間には寿命ができて、人は皆死ぬ運命になったというのです。
さて、このニギニギと1晩過ごした木華開耶姫は身ごもったので、身ごもったのは自分の子供ではないかもしれないとニギニギは疑いを持ちます。
そこで、木華開耶姫はもしあなたの子供でなければ、火の中では無事にお産は出来ないだろうと自ら産屋に火をつけてその中で3人の子供を産みます。
その3番目の子供の子孫が天照大神です。
この話はこれくらいにして、この子安神社の拝殿を少し見ておきましょう。
一昨日の記事に龍の彫り物があったところです。

拝殿の中には正面に2枚の「正一位子安大明神」の額があり、そのまわりに、たくさんの奉納された絵馬がかかっています。
みな古びていて読むことができません。

子安神社の新しいHP(昨年末?)に紹介されていましたのでサンプルとして一つ紹介します。
これは「寛延三巳巳年(1750年)9月吉日 土浦横町田町鉄砲宿 男女講中」だそうです。
その他に「寛保三年 鳥羽田村内増山 同行二拾六人」など江戸時代の講中で訪れたことが記録されています。
絵馬には1700年~1900年頃の様子が描かれており結構興味深いです。
まあこんなところにまで興味を持つの少ないかもしれませんね。
この神社も昔はもっと色々な飾りなどがあったそうですが、盗人にあってかなり失われてしまったといいます。
皆さん大切に後世に残していきましょう。
実はこの子安・胎安神社の間の通りが鎌倉時代に「鎌倉街道」と呼ばれていたというのです。
そして、この道が土浦の方につながっていたのではなく霞ケ浦の方に向かっていたようなのです。
やはり美浦村から舟に乗り牛渡の方にわたり、こちらへつながっていたのでしょう。
それが江戸時代になり全く違う道になって廃れて今では道さえあやふやになってしまったようです。

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ところで、土浦の駅前のウララに入っているイトーヨーカドーが来年2月に撤退だそうです。
その空いたフロアを土浦市で買い取る交渉をしているそうです。
市役所も建て直すので、この跡地になどと言う話もあるようですが止めた方がいいですね。
駅前はやはり活気がなければだめです。
今日は子安神社の3回目です。胎安神社と合わせれば4回目です。
まあ、この神社に3回も4回もかけて書く人もまずいないでしょう。
訪れて見れば特になんでもない神社です。子安神社は参道に大きな山椿の木が並びますので、この椿を見に行く人はいるようです。今月には見られるようになるのでしょうか。
さて、この2つの神社は出産・子育ての神社です。
胎安神社では再選を0円入れてお参りしたのにお茶をいただき申し訳ない思いでした。
さてここで祀っている神様は鹿島香取の神と「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀っているのですが、この神様は伊勢神宮内宮の子安神社でも祀られていて「木華開耶姫命」と書かれていますが、読み方は一緒です。
「木の花(桜や梅)が咲くように美しい姫」の神様です。良い名前ですよね。木花之佐久毘売とも書かれます。
神様になってしまうと何だか美しさがわからないですよね。
神話を読めばわかるのですが、簡単にお話ししておきます。
日向の地(高千穂)に降り立ったニギニギのところに天の大山津見神より二人の姉妹が送られてきます。
姉は醜く、ニギニギは妹の木花開耶姫命だけを妻にし、姉は送り返してしまいます。
妹は子孫繁栄の子宝に恵まれる娘であり、姉も妻にしていれば永遠の命をもたらされたというのです。
妹だけを妻にしたために人間には寿命ができて、人は皆死ぬ運命になったというのです。
さて、このニギニギと1晩過ごした木華開耶姫は身ごもったので、身ごもったのは自分の子供ではないかもしれないとニギニギは疑いを持ちます。
そこで、木華開耶姫はもしあなたの子供でなければ、火の中では無事にお産は出来ないだろうと自ら産屋に火をつけてその中で3人の子供を産みます。
その3番目の子供の子孫が天照大神です。
この話はこれくらいにして、この子安神社の拝殿を少し見ておきましょう。
一昨日の記事に龍の彫り物があったところです。

拝殿の中には正面に2枚の「正一位子安大明神」の額があり、そのまわりに、たくさんの奉納された絵馬がかかっています。
みな古びていて読むことができません。

子安神社の新しいHP(昨年末?)に紹介されていましたのでサンプルとして一つ紹介します。
これは「寛延三巳巳年(1750年)9月吉日 土浦横町田町鉄砲宿 男女講中」だそうです。
その他に「寛保三年 鳥羽田村内増山 同行二拾六人」など江戸時代の講中で訪れたことが記録されています。
絵馬には1700年~1900年頃の様子が描かれており結構興味深いです。
まあこんなところにまで興味を持つの少ないかもしれませんね。
この神社も昔はもっと色々な飾りなどがあったそうですが、盗人にあってかなり失われてしまったといいます。
皆さん大切に後世に残していきましょう。
実はこの子安・胎安神社の間の通りが鎌倉時代に「鎌倉街道」と呼ばれていたというのです。
そして、この道が土浦の方につながっていたのではなく霞ケ浦の方に向かっていたようなのです。
やはり美浦村から舟に乗り牛渡の方にわたり、こちらへつながっていたのでしょう。
それが江戸時代になり全く違う道になって廃れて今では道さえあやふやになってしまったようです。



池花池
今日は雨でしたが気温は高く、立春を過ぎてこのまま春になればとも思いましたが、また寒くなるらしいです。
私は昨日から少し風邪気味で風邪薬を飲んで今朝は気が付いたらいつもより1時間以上遅い時間でした。
それでも出勤には間にあう時間でしたので、少しバタバタして出かけてきました。
午後会議があったのでそれを済ませて早く帰宅して今日も早めに寝ます。
今日は、この前の日曜日に撮った小美玉市にある池花池の白鳥を載せます。
写真愛好の方々が素晴らしい写真を載せてくれていますが、餌を食べる時間などをちゃんと知っていかなければいけないのですね。

あまり大きくない池ですが、白鳥は30羽ほどやってきていました。

みんな実におとなしく争いもなく、時々鳴き声をあげる程度です。

白鳥に混ざって他の鳥ものんびりしています。

白鳥を見るために作られた池に突き出たこの観鳥台の上にもやってきました。

山をバックにしていい感じです。
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私は昨日から少し風邪気味で風邪薬を飲んで今朝は気が付いたらいつもより1時間以上遅い時間でした。
それでも出勤には間にあう時間でしたので、少しバタバタして出かけてきました。
午後会議があったのでそれを済ませて早く帰宅して今日も早めに寝ます。
今日は、この前の日曜日に撮った小美玉市にある池花池の白鳥を載せます。
写真愛好の方々が素晴らしい写真を載せてくれていますが、餌を食べる時間などをちゃんと知っていかなければいけないのですね。

あまり大きくない池ですが、白鳥は30羽ほどやってきていました。

みんな実におとなしく争いもなく、時々鳴き声をあげる程度です。

白鳥に混ざって他の鳥ものんびりしています。

白鳥を見るために作られた池に突き出たこの観鳥台の上にもやってきました。

山をバックにしていい感じです。


貴布禰神社(小美玉市堅倉)1
昨日は久しぶりに良く寝たので大分風邪も良くなりました。熱もなくなりましたが、もう少しのんびりやっていきます。
今日もこのブログ途中まで書いていた記事を保存せずに閉じてしまって、また途中から書いていますが、同じことを書くのは苦痛ですね。
ネタも大分なくなってきましたのであせらずにやっていこうと思います。
この前の日曜日に6号国道を通っていた時に小美玉市堅倉の交差点のところにひときわ大きな「貴布禰神社」の石柱が建っていたので立ち寄りました。
神社としては古くからあったようですが、平成8年に近くの金刀毘羅神社を合祀して社殿を新築したようです。
京都鞍馬の「貴船神社」から祭神「高龗(おかみ)神」を分霊して祀っています。
この堅倉という場所も江戸時代の街道沿いということで興味はありますが、何故「高龗(おかみ)神」なのか不思議でした。
この高龗(おかみ)は石岡にも龍神山の麓に古くからある佐志能神社で祀られています。
染谷の佐志能神社が高龗(おかみ)神(雌龍)、村上の佐志能神社が闇(やみ)龗(おかみ)神(雄龍)が祀られています。
雨乞いの神様です。水をもたらしてくれる龍神様ですね。
でもこの貴布禰神社の場所は山はありません。少し変な感じです。
調べて見ると昔は「貴船神社」と書いており、日本武尊(やまとためる)を祀っていたようです。
大正2年(1913年)に京都鞍馬の貴船神社より高龗(おかみ)神を分霊して名前を「貴布禰神社」と改めたと書かれていました。
京都の貴船神社のHPを見て見ると「貴布禰総本宮」と書かれています。全国の貴船神社を取りまとめているようです。
また、境内に「金刀毘羅神社」があって、こちらも建物が傷んでいたので合祀して神様も「高龗(おかみ)神」に金刀毘羅神社の「大物主神(おおものぬしのかみ)」と「崇徳天皇(すとくてんのう)」も一緒に祀ったようです。(平成8年)
大物主神は大和の三輪山に祀られた農耕の神様です。
ですから、雨乞いに五穀豊穣の神様ですね。
でもやはり山のないところに龍神様は合いませんね。


拝殿と本殿です。しっかりした立派な神殿です。

拝殿の入口には龍の彫り物がありました。
これは社殿を新しくした時のものでしょうから平成8年のものでしょう。

境内に大きな欅の古木が数本ある。
これは特に大きくて目立つが、調べて見たら樹齢は300年以上だといいます。
境内には少し面白いものがあったので明日紹介します。
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今日もこのブログ途中まで書いていた記事を保存せずに閉じてしまって、また途中から書いていますが、同じことを書くのは苦痛ですね。
ネタも大分なくなってきましたのであせらずにやっていこうと思います。
この前の日曜日に6号国道を通っていた時に小美玉市堅倉の交差点のところにひときわ大きな「貴布禰神社」の石柱が建っていたので立ち寄りました。
神社としては古くからあったようですが、平成8年に近くの金刀毘羅神社を合祀して社殿を新築したようです。
京都鞍馬の「貴船神社」から祭神「高龗(おかみ)神」を分霊して祀っています。
この堅倉という場所も江戸時代の街道沿いということで興味はありますが、何故「高龗(おかみ)神」なのか不思議でした。
この高龗(おかみ)は石岡にも龍神山の麓に古くからある佐志能神社で祀られています。
染谷の佐志能神社が高龗(おかみ)神(雌龍)、村上の佐志能神社が闇(やみ)龗(おかみ)神(雄龍)が祀られています。
雨乞いの神様です。水をもたらしてくれる龍神様ですね。
でもこの貴布禰神社の場所は山はありません。少し変な感じです。
調べて見ると昔は「貴船神社」と書いており、日本武尊(やまとためる)を祀っていたようです。
大正2年(1913年)に京都鞍馬の貴船神社より高龗(おかみ)神を分霊して名前を「貴布禰神社」と改めたと書かれていました。
京都の貴船神社のHPを見て見ると「貴布禰総本宮」と書かれています。全国の貴船神社を取りまとめているようです。
また、境内に「金刀毘羅神社」があって、こちらも建物が傷んでいたので合祀して神様も「高龗(おかみ)神」に金刀毘羅神社の「大物主神(おおものぬしのかみ)」と「崇徳天皇(すとくてんのう)」も一緒に祀ったようです。(平成8年)
大物主神は大和の三輪山に祀られた農耕の神様です。
ですから、雨乞いに五穀豊穣の神様ですね。
でもやはり山のないところに龍神様は合いませんね。


拝殿と本殿です。しっかりした立派な神殿です。

拝殿の入口には龍の彫り物がありました。
これは社殿を新しくした時のものでしょうから平成8年のものでしょう。

境内に大きな欅の古木が数本ある。
これは特に大きくて目立つが、調べて見たら樹齢は300年以上だといいます。
境内には少し面白いものがあったので明日紹介します。


貴布禰神社(2)
昨日書いた小美玉市堅倉にある「貴布禰神社」には樹齢が300年以上の欅の木が聳えている。
社殿などは平成になって建てなおしたものなので新しいのだが、恐らくこの地は江戸時代には水戸街道(陸前浜街道)が通っていたと思われるので、ここに合祀された「金刀比羅神社」はやはり石岡の金刀比羅神社と関係があるのかもしれない。
昨日は農耕の守り神と言ったが船・水産関係も関係しているに違いない。
石岡の金刀比羅神社は昔は大いににぎわって笠間の稲荷か府中のこんぴらさんかというように参拝客が絶えなかったようなのだ。
そして、少しこの堅倉の貴布禰神社(金刀比羅神社)の境内をみてみると、興味深いものが結構ある。

さて、この石標は何でしょうか?
「一田三反四歩」とは一体どういう意味でしょう。
昔一反歩(たんぶ)などと耳にしたことはありますが、一石の米がとれる田圃の大きさが大体一反(たん)で約300坪。300歩=一反(江戸時代)らしいので、田圃の大きさでしょうか?
何故神社にこんな石標があるのでしょう。下の方には何やら人の名前のようなものが書かれています。

こちらの仏像はなんでしょう。
あまり詳しくないのではっきりしませんが、不動明王でしょうか?
(追記:頭に馬が飾られているので馬頭観音だそうです。お教えいただき感謝です)

さてこの石像は?2つの石像は共に赤ん坊を抱えています。
そして台座に「女人中」と刻まれています。恐らく「女人講中」と同じだと思います。
とするとこれは「子安観音」でしょう。
昔は女性だけの子育て・出産などを助けあう講中がたくさんあったのだと思います。
子安講と不動明王の関係もあったのかもしれません。
調べて見ると面白いかもしれませんね。
まあ今日はこの辺でお終いです。
何か分かることがありましたら教えてください。
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社殿などは平成になって建てなおしたものなので新しいのだが、恐らくこの地は江戸時代には水戸街道(陸前浜街道)が通っていたと思われるので、ここに合祀された「金刀比羅神社」はやはり石岡の金刀比羅神社と関係があるのかもしれない。
昨日は農耕の守り神と言ったが船・水産関係も関係しているに違いない。
石岡の金刀比羅神社は昔は大いににぎわって笠間の稲荷か府中のこんぴらさんかというように参拝客が絶えなかったようなのだ。
そして、少しこの堅倉の貴布禰神社(金刀比羅神社)の境内をみてみると、興味深いものが結構ある。

さて、この石標は何でしょうか?
「一田三反四歩」とは一体どういう意味でしょう。
昔一反歩(たんぶ)などと耳にしたことはありますが、一石の米がとれる田圃の大きさが大体一反(たん)で約300坪。300歩=一反(江戸時代)らしいので、田圃の大きさでしょうか?
何故神社にこんな石標があるのでしょう。下の方には何やら人の名前のようなものが書かれています。

こちらの仏像はなんでしょう。
あまり詳しくないのではっきりしませんが、不動明王でしょうか?
(追記:頭に馬が飾られているので馬頭観音だそうです。お教えいただき感謝です)

さてこの石像は?2つの石像は共に赤ん坊を抱えています。
そして台座に「女人中」と刻まれています。恐らく「女人講中」と同じだと思います。
とするとこれは「子安観音」でしょう。
昔は女性だけの子育て・出産などを助けあう講中がたくさんあったのだと思います。
子安講と
調べて見ると面白いかもしれませんね。
まあ今日はこの辺でお終いです。
何か分かることがありましたら教えてください。


大戸の桜(茨城町)
今日は朝から久しぶりに銚子にでかけてきた。
行きは2時間くらいで行けたが、帰りはやはり車が混んで3時間近くかかってしまった。
やはり少し遠いかな。これから時々また行くことになりそうだ。
そんなわけで先ほど戻ったので何を書くかも決めていない。
最近はネタが少し切れ気味だ。
そこで、先日から紹介している胎安神社・子安神社と同じく昔の式内社で夷針神社の論社と思われる茨城町にある夷針神社に行ってみたのだが、こちらは少し調べないと記事にできないので、すぐ近くに看板があった「大戸(おおど)の桜」を紹介します。
国の天然記念物の山桜だそうですが、昔に比べると大分小さくなってしまったそうです。




やはり今度は桜の時期に行ってみよう。
上の説明を読めば内容はわかるでしょう。
昔は見事だったのだろう。
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行きは2時間くらいで行けたが、帰りはやはり車が混んで3時間近くかかってしまった。
やはり少し遠いかな。これから時々また行くことになりそうだ。
そんなわけで先ほど戻ったので何を書くかも決めていない。
最近はネタが少し切れ気味だ。
そこで、先日から紹介している胎安神社・子安神社と同じく昔の式内社で夷針神社の論社と思われる茨城町にある夷針神社に行ってみたのだが、こちらは少し調べないと記事にできないので、すぐ近くに看板があった「大戸(おおど)の桜」を紹介します。
国の天然記念物の山桜だそうですが、昔に比べると大分小さくなってしまったそうです。




やはり今度は桜の時期に行ってみよう。
上の説明を読めば内容はわかるでしょう。
昔は見事だったのだろう。

