出島散歩(16)(牛渡鹿島神社)
かすみがうら市の一部で霞ケ浦に出っ張った半島のような旧出島村地区。
今まで近くにいてもあまり見る物は少なくどのようなところかが理解できないでいた。
石岡が昔の常陸国の国府があって、古道である律令制の始まった頃の東海道がこの出島地区を通っていたとするとどのようなルートだったのか。今ではまったく想像できない。
まあ、そんなことを考える人もほとんどいないようで、明治に出来た鉄道が人々の生活も、物流・情報の流れも大きく変えてしまったようだ。
しかし、逆にあちこちを見て歩くと逆に今も変わらない昔の姿を想像することも出来そうなノンビリとした場所でもあった。
今回紹介する牛渡(うしわた)地区は、前から何度か紹介してきたが4~5世紀頃から、まだ中央政権の力が及んでいないその後の常陸国(中央から見れば蝦夷などの人々が多く暮らしていた地区の入口)に入るのにこの地に対岸の美浦村牛込地区から舟で渡ってきたのだろうと考えています。
今日紹介するこの牛渡鹿島神社はとても変わった祭りが残されているので有名です。
あまり詳しくネットでは書けないのですが、江戸時代から続いているという「へいさんぼう」というお祭りです。(毎年5月5日)
まあ、興味のある方はネットで調べられたら良いと思いますが、この「へいさんぼう」という名前も漢字では「平三坊」と書き、何か意味があると思いましたが、地元などの説明では「平さん(お百姓さんの名前)女房」がいつの間にか「へいさんぼう」となったといいます。
田植えの時期に米の豊作を願ってお腹に子を孕むとを掛けて願った祭りだそうです。
このようなお祭りも人前でやることが段々と厳しくなっていって止めてしまったところが多いそうです。
しかし、おおらかに行なうことの方がよほど健全だという気がします。
映画「米」の中でも冒頭にこの祭りの様子が紹介されていますが、昔は結構あちこちに似たようなお祭りはあったのではないかと思っています。

鹿島神社の鳥居。
割合と参道などは広々ときれいにしてあった。
また参道はこの鳥居より手前も伸びていたが、昔はそちらからが正式な入口と思うも、道が入り組んでいて入りづらい。

拝殿。
この鹿島神社はこの出島地区にも多くの鹿島神社がありますが、「本鹿島」と言われており、大同年間(806~810年)に創建されたと言われています。
常陸国府(石岡)に着任した勅使は常陸一宮である鹿島神宮に参拝するために高浜から舟に乗り参拝に行きました。この時にこの鹿島神社に休憩のために立ち寄ったとも言われています。
私はどちらかと言うと、この時(鹿島神宮参拝)に立ち寄ったのではなく、国府に着任・離任の時に立ち寄ったことがあるのではないかと考えています。
少し沖に船を停めて、小舟でここに上陸しお参りしたとも言われます。その際に停まっていた船に残された牛が勅使を追いかけて湖に入り、岸をめざし泳いだが力つきたとの話は嘘か本当かはわかりませんが、話には尾ひれがついて似たような事件がこの話になっていったとも考えられます。
ただ、このような話は嘘でも本当でも伝えていくことは大切だと思っています。
伝えていくべきは話の内容ではなくて、その話が生まれた背景が伝わっていくからです。
その牛を葬ったのが前に紹介した牛塚古墳です。(こちら)

こちらが本殿です。
この神社はやはり戦国時代は小田氏の管轄で、佐竹氏に滅ぼされた時に神社も滅亡し、後に再建された者だと思います。
古くは平将門の国府攻略時に焼かれたのかもしれません。そのような話も伝わっているようです。
また、源義家(八幡太郎)の奥州征伐時に立ち寄ったとの記述も見かけたが・・・・。

この鳥居はかなり重厚で、この左側にはおおきなタブノキの古木が聳えていた。

手前が田圃(今はまだこのようなきれいな花が咲いていた。田圃にレンゲの花は良く見るのだが・・・)
写真奥のこんもりとした茂みのあるところが鹿島神社で、手前に案内板はなかった。
この鹿島神社の場所は意外にわかりにくい。
この辺だと適当に検討をつけていき、何度がまわりをウロウロしてあきらめたことが数回ある。
これも他のところを見るついでに立ち寄ろうとしたので、カーナビは必要かな。
しかし、ウロウロしていると別な発見もある。

これは湖沿いを走る県道118号線からの神社入り口方面に入るところに置かれていた地蔵像です。

こちらは神社を少し通りこして行った先の道路わきに置かれていた石仏群です。
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今まで近くにいてもあまり見る物は少なくどのようなところかが理解できないでいた。
石岡が昔の常陸国の国府があって、古道である律令制の始まった頃の東海道がこの出島地区を通っていたとするとどのようなルートだったのか。今ではまったく想像できない。
まあ、そんなことを考える人もほとんどいないようで、明治に出来た鉄道が人々の生活も、物流・情報の流れも大きく変えてしまったようだ。
しかし、逆にあちこちを見て歩くと逆に今も変わらない昔の姿を想像することも出来そうなノンビリとした場所でもあった。
今回紹介する牛渡(うしわた)地区は、前から何度か紹介してきたが4~5世紀頃から、まだ中央政権の力が及んでいないその後の常陸国(中央から見れば蝦夷などの人々が多く暮らしていた地区の入口)に入るのにこの地に対岸の美浦村牛込地区から舟で渡ってきたのだろうと考えています。
今日紹介するこの牛渡鹿島神社はとても変わった祭りが残されているので有名です。
あまり詳しくネットでは書けないのですが、江戸時代から続いているという「へいさんぼう」というお祭りです。(毎年5月5日)
まあ、興味のある方はネットで調べられたら良いと思いますが、この「へいさんぼう」という名前も漢字では「平三坊」と書き、何か意味があると思いましたが、地元などの説明では「平さん(お百姓さんの名前)女房」がいつの間にか「へいさんぼう」となったといいます。
田植えの時期に米の豊作を願ってお腹に子を孕むとを掛けて願った祭りだそうです。
このようなお祭りも人前でやることが段々と厳しくなっていって止めてしまったところが多いそうです。
しかし、おおらかに行なうことの方がよほど健全だという気がします。
映画「米」の中でも冒頭にこの祭りの様子が紹介されていますが、昔は結構あちこちに似たようなお祭りはあったのではないかと思っています。

鹿島神社の鳥居。
割合と参道などは広々ときれいにしてあった。
また参道はこの鳥居より手前も伸びていたが、昔はそちらからが正式な入口と思うも、道が入り組んでいて入りづらい。

拝殿。
この鹿島神社はこの出島地区にも多くの鹿島神社がありますが、「本鹿島」と言われており、大同年間(806~810年)に創建されたと言われています。
常陸国府(石岡)に着任した勅使は常陸一宮である鹿島神宮に参拝するために高浜から舟に乗り参拝に行きました。この時にこの鹿島神社に休憩のために立ち寄ったとも言われています。
私はどちらかと言うと、この時(鹿島神宮参拝)に立ち寄ったのではなく、国府に着任・離任の時に立ち寄ったことがあるのではないかと考えています。
少し沖に船を停めて、小舟でここに上陸しお参りしたとも言われます。その際に停まっていた船に残された牛が勅使を追いかけて湖に入り、岸をめざし泳いだが力つきたとの話は嘘か本当かはわかりませんが、話には尾ひれがついて似たような事件がこの話になっていったとも考えられます。
ただ、このような話は嘘でも本当でも伝えていくことは大切だと思っています。
伝えていくべきは話の内容ではなくて、その話が生まれた背景が伝わっていくからです。
その牛を葬ったのが前に紹介した牛塚古墳です。(こちら)

こちらが本殿です。
この神社はやはり戦国時代は小田氏の管轄で、佐竹氏に滅ぼされた時に神社も滅亡し、後に再建された者だと思います。
古くは平将門の国府攻略時に焼かれたのかもしれません。そのような話も伝わっているようです。
また、源義家(八幡太郎)の奥州征伐時に立ち寄ったとの記述も見かけたが・・・・。

この鳥居はかなり重厚で、この左側にはおおきなタブノキの古木が聳えていた。

手前が田圃(今はまだこのようなきれいな花が咲いていた。田圃にレンゲの花は良く見るのだが・・・)
写真奥のこんもりとした茂みのあるところが鹿島神社で、手前に案内板はなかった。
この鹿島神社の場所は意外にわかりにくい。
この辺だと適当に検討をつけていき、何度がまわりをウロウロしてあきらめたことが数回ある。
これも他のところを見るついでに立ち寄ろうとしたので、カーナビは必要かな。
しかし、ウロウロしていると別な発見もある。

これは湖沿いを走る県道118号線からの神社入り口方面に入るところに置かれていた地蔵像です。

こちらは神社を少し通りこして行った先の道路わきに置かれていた石仏群です。


出島散歩(17)坂本九と霞ヶ浦
このブログも一昨年8月から1年半をすぎ、ここまで休み無く記事をUPしてきました。
すでに782件の記事を書いたことになります。
大概は休みの日などに調べて書き溜めたりしていたのですが、書きたいことはたくさんまだあるのですが、時間的な余裕がなくなってきています。
”石の上にも三年”、”継続は力なり”などと考えながら続けていますが、まあ大分きつくなってきました。
実はこの土日は今までの記事をまとめて冊子にしておこうとしたのです。これもまとまったら記事にUPしますが、かなりのボリュームになりました。
今年初めまでの分だけで、200ページで4冊位になってしまいました。
ブログをプリントされたもので見るのもいいですね。
また違ったものになるし、今までのことがよくわかります。
今日は記事を書き溜めていないので、タイトルに書いた「坂本九」ちゃんとこの霞ヶ浦のお話を少し紹介します。
坂本九さんは神奈川県川崎市で1941年12月10日に生まれました。本名は「大島九(ひさし)」。
名前のとおり九番目の子供でした。
父親は坂本寛。母親は「いく」でその旧姓が大島です。
九の誕生日は真珠湾攻撃の2日後で、太平洋戦争に突入した時に生まれたのです。
そして、戦争が激しくなり、母親と茨城県笠間に疎開します。(前に書いた「九ちゃんの家」参照)
この笠間は母親の実家があった場所で、坂本九の結婚式を笠間稲荷で挙げたため、意外に知られていますが、あまり知られていない事実があるようです。
実は、笠間に行こうと上野を列車で母親と出たのは1943年10月26日です。2歳にまだならない子供でした。
この常磐線の列車が土浦駅で貨物列車と衝突し4両が脱線し、そのうちの1両が桜川に転落し死者110名、負傷者107名の大惨事が起こりました。
この時、実はこの川に転落した車両に最初は坂本親子は乗り合わせていたそうです。しかし、途中で車両を移ったために無事だったといいます。
このことも笠間稲荷信仰の元になっていたようです。
本名の大島は母親の旧姓で、両親が離婚したので坂本から大島になったそうです。
実は、この鉄道事故の話はさて置き、坂本家がここ霞ヶ浦にも深い関係があるようです。
先日田伏城の話を書きましたが、霞ヶ浦大橋の手前あたりを「田伏」といいます。
ここに坂本九の祖父が住んでいたそうです。祖父の名前は「坂本金吉」さんといいます。
実はこの方は魚の行商等をしていたようですが、秋田の八郎潟で魚がたくさん取れると知り、妻と息子(坂本九の父親)を連れて、八郎潟に移住しました。(明治30年代)
そして、霞ヶ浦でおこなわれていた帆引き船の漁法を八郎潟に教えた人だといいます。
秋田ではまたこれを改良して「うたせ舟」漁法と言われているようです。
八郎潟のこのうたせ舟は干拓が始まる頃まではたくさん湖に浮かんでおり、八郎潟の風物詩となっていたようです。
こんなつながりを知るとまた大島家の方とも茨城のつながりを感じますね。
石岡に残された「忠犬タロー」物語。九ちゃんの長女「大島花子」さんの歌が幼稚園児の声で聞こえてきます。
「ここで君をまってるよ」(Youtube)
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すでに782件の記事を書いたことになります。
大概は休みの日などに調べて書き溜めたりしていたのですが、書きたいことはたくさんまだあるのですが、時間的な余裕がなくなってきています。
”石の上にも三年”、”継続は力なり”などと考えながら続けていますが、まあ大分きつくなってきました。
実はこの土日は今までの記事をまとめて冊子にしておこうとしたのです。これもまとまったら記事にUPしますが、かなりのボリュームになりました。
今年初めまでの分だけで、200ページで4冊位になってしまいました。
ブログをプリントされたもので見るのもいいですね。
また違ったものになるし、今までのことがよくわかります。
今日は記事を書き溜めていないので、タイトルに書いた「坂本九」ちゃんとこの霞ヶ浦のお話を少し紹介します。
坂本九さんは神奈川県川崎市で1941年12月10日に生まれました。本名は「大島九(ひさし)」。
名前のとおり九番目の子供でした。
父親は坂本寛。母親は「いく」でその旧姓が大島です。
九の誕生日は真珠湾攻撃の2日後で、太平洋戦争に突入した時に生まれたのです。
そして、戦争が激しくなり、母親と茨城県笠間に疎開します。(前に書いた「九ちゃんの家」参照)
この笠間は母親の実家があった場所で、坂本九の結婚式を笠間稲荷で挙げたため、意外に知られていますが、あまり知られていない事実があるようです。
実は、笠間に行こうと上野を列車で母親と出たのは1943年10月26日です。2歳にまだならない子供でした。
この常磐線の列車が土浦駅で貨物列車と衝突し4両が脱線し、そのうちの1両が桜川に転落し死者110名、負傷者107名の大惨事が起こりました。
この時、実はこの川に転落した車両に最初は坂本親子は乗り合わせていたそうです。しかし、途中で車両を移ったために無事だったといいます。
このことも笠間稲荷信仰の元になっていたようです。
本名の大島は母親の旧姓で、両親が離婚したので坂本から大島になったそうです。
実は、この鉄道事故の話はさて置き、坂本家がここ霞ヶ浦にも深い関係があるようです。
先日田伏城の話を書きましたが、霞ヶ浦大橋の手前あたりを「田伏」といいます。
ここに坂本九の祖父が住んでいたそうです。祖父の名前は「坂本金吉」さんといいます。
実はこの方は魚の行商等をしていたようですが、秋田の八郎潟で魚がたくさん取れると知り、妻と息子(坂本九の父親)を連れて、八郎潟に移住しました。(明治30年代)
そして、霞ヶ浦でおこなわれていた帆引き船の漁法を八郎潟に教えた人だといいます。
秋田ではまたこれを改良して「うたせ舟」漁法と言われているようです。
八郎潟のこのうたせ舟は干拓が始まる頃まではたくさん湖に浮かんでおり、八郎潟の風物詩となっていたようです。
こんなつながりを知るとまた大島家の方とも茨城のつながりを感じますね。
石岡に残された「忠犬タロー」物語。九ちゃんの長女「大島花子」さんの歌が幼稚園児の声で聞こえてきます。
「ここで君をまってるよ」(Youtube)


常陸風土記の丘の桜
ようやく春になったと思ったら台風のような大風が来るというので、早々に帰宅しました。
昨日部屋のカレンダーを見たら、まだ3月。急いで4月に変えたら何と、「常陸風土記の丘」のしだれ桜の写真でした(下の最初の写真)。
今年はまだ咲きませんが、近くにおられたら時期を見て一度訪れてみてください。
入場無料です。土日は1日1000円で乗り放題のバスが運行されます。
八郷地区の県立フラワーパークなどと合わせてご利用ください。

このしだれ桜も綺麗ですね。ここはソメイヨシノからボタン桜まで1ヶ月くらい楽しめます。

上の写真は昨年私が同じ場所で撮った写真です。日付を見たら4月16日でした。
昨年は震災の影響で桜まつりは中止になりましたが、人の数もまままあ来ていました。

今日庭で撮ったスイセン。
よくわからない花もたくさん咲き出しました。
もうこちらは春ですね。梅は満開少し過ぎた感じ。菜の花も黄色の絨毯があちこちに見られます。

花のアップはあまり好きではないのですが、まあたまにはいいでしょう。
庭の椿です。

これはシンビジューム? ラン科の花でしょうが全く名前に疎いのでわかりません。
玄関を入ったところに家内が飾っていたので・・・・。
ようやく春がやって来たようですね。これで花粉がなければ最高なのですが。
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昨日部屋のカレンダーを見たら、まだ3月。急いで4月に変えたら何と、「常陸風土記の丘」のしだれ桜の写真でした(下の最初の写真)。
今年はまだ咲きませんが、近くにおられたら時期を見て一度訪れてみてください。
入場無料です。土日は1日1000円で乗り放題のバスが運行されます。
八郷地区の県立フラワーパークなどと合わせてご利用ください。

このしだれ桜も綺麗ですね。ここはソメイヨシノからボタン桜まで1ヶ月くらい楽しめます。

上の写真は昨年私が同じ場所で撮った写真です。日付を見たら4月16日でした。
昨年は震災の影響で桜まつりは中止になりましたが、人の数もまままあ来ていました。

今日庭で撮ったスイセン。
よくわからない花もたくさん咲き出しました。
もうこちらは春ですね。梅は満開少し過ぎた感じ。菜の花も黄色の絨毯があちこちに見られます。

花のアップはあまり好きではないのですが、まあたまにはいいでしょう。
庭の椿です。

これはシンビジューム? ラン科の花でしょうが全く名前に疎いのでわかりません。
玄関を入ったところに家内が飾っていたので・・・・。
ようやく春がやって来たようですね。これで花粉がなければ最高なのですが。


出島散歩(18)坂地区二の宮(1)
かすみがうら市の旧出島地区を紹介しています。
今日は霞ヶ浦の名物にもなった帆引き船。
この漁法を発明したのはこの出島村二の宮の漁師「折本良平」さんです。
この二の宮とはどこなのか、行ってみました。
地図では坂という地名になっていますが、住所表記からはかすみがうら市坂と一緒になってしまったようです。県道118号線の牛渡と歩崎のちょうど中間くらいになります。
この通り沿いに「八坂神社」という神社が建っています。
比較的新しそうなのであまり目に止めていなかったのですが、その神社の隣に昔のお堂が残っていました。
これはとても面白いです。

新しい神社の横に古びた崩れたような石段が伸びています。入口には梅の花がさいています。

石段を登った先にはお堂が一つと古びた地蔵が7体。そしてその周りには見事な竹林が。

地蔵像はだいぶ昔のようです。明治ではなく江戸時代のもののように思います。
首が折れてしまったものが一体あります。

そして、そのそばには子安観音像が数体置かれています。
「子安」「女人講中」「享和二年?・・・」などの文字が彫られています。
ということは1802年にここに奉納されたようです。
その両隣の像はよく読み取れません。さらに古いのでしょう。

このような比較的小さな二人のむつまじい感じの像がたくさん置かれていました。

こちらが新しい隣に出来ている八坂神社の拝殿と本殿です。
海の方をむいて建っています。
明日はこの地区で帆引き船の漁法の発明者「折本良平」さんについて少し書きたいと思います。
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今日は霞ヶ浦の名物にもなった帆引き船。
この漁法を発明したのはこの出島村二の宮の漁師「折本良平」さんです。
この二の宮とはどこなのか、行ってみました。
地図では坂という地名になっていますが、住所表記からはかすみがうら市坂と一緒になってしまったようです。県道118号線の牛渡と歩崎のちょうど中間くらいになります。
この通り沿いに「八坂神社」という神社が建っています。
比較的新しそうなのであまり目に止めていなかったのですが、その神社の隣に昔のお堂が残っていました。
これはとても面白いです。

新しい神社の横に古びた崩れたような石段が伸びています。入口には梅の花がさいています。

石段を登った先にはお堂が一つと古びた地蔵が7体。そしてその周りには見事な竹林が。

地蔵像はだいぶ昔のようです。明治ではなく江戸時代のもののように思います。
首が折れてしまったものが一体あります。

そして、そのそばには子安観音像が数体置かれています。
「子安」「女人講中」「享和二年?・・・」などの文字が彫られています。
ということは1802年にここに奉納されたようです。
その両隣の像はよく読み取れません。さらに古いのでしょう。

このような比較的小さな二人のむつまじい感じの像がたくさん置かれていました。

こちらが新しい隣に出来ている八坂神社の拝殿と本殿です。
海の方をむいて建っています。
明日はこの地区で帆引き船の漁法の発明者「折本良平」さんについて少し書きたいと思います。


出島散歩(19)坂地区二の宮(2)
出島の散歩紹介も19回目になってしまいました。それも二の宮で2回目なんて。
本当は何もないようなところなんです。ほんの狭いエリアで、今では住所表記からも消えてしまっているようです。
昨日紹介した「八坂神社」の隣にあるお堂に石仏。何か気になります。
でも今日の話は霞ヶ浦に帆引き船の漁法を発明した「折本良平」さんについてです。
前に書いたことがある霞ヶ浦水族館の近くに置かれていた「帆引き船発祥の地」の石碑(下の写真)

また、歩崎観音の展望台の横に置かれていた「折本良平頌徳碑」(こちらの記事)下の写真。

昨日書いた神社のすぐ前の湖側に大きな家があります。

昔からあったと思われる赤レンガが残されており、高浜あたりの醤油醸造所の跡等に似ています。

表札を見ると「折本」さんと書かれているようです。
そうするとここが良平さんの出身の御宅でしょうか。
少し歴史を調べてみましょう
今では観光用に霞ヶ浦に浮かぶ帆引き船が時々運行され、これを見るために観光船が運行され、近くで写真を撮るためにエンジンつきボートをチャータしたりするくらいに霞ヶ浦の名物ともなっていますが、もちろん昔は、これは魚を採るために運行されてきたものです。
江戸時代には前に高浜、高崎地区の紹介で「御留川(おとめがわ)」という制度を紹介したことがあります。
高浜入りの霞ヶ浦が狭くなった両岸の領地が水戸藩に抑えられ、その間に挟まれた湖は川の場合と同じように両岸の領地の一部となって、魚はこの水戸藩のものとなっていたのです。
また、個人の漁師が霞ヶ浦で漁を勝手には採ることができず、それぞれ網元がいて、この網の持ち主(大徳網)が大きな利益を上げ、個人の漁師はこの網を引いたりして漁をする他なかったようです。
明治になって、御留川制度の廃止され、自由に採れるようになったのですが、その漁法はやはり大人数で網を引いて採る方法が主体でした。
そんな中、なんとか個人の船で網を引かせることができないかと考えたのが、この折本良平さんでした。
船に帆を張って、風の力で船を走らせることはできますが(荷物を運ぶ帆を張った高瀬舟はたくさん浮かんでいました)、網をつけて走っただけではほとんど魚は採れません。
考えたのは帆を張って船を横に動かすことでした。このアイディアで繰り返し試してみて試行錯誤を繰り返し、明治13年についにうまくバランスをとって船を動かし沢山お魚(シラウオ)を採ることに成功したのです。良平さんは46歳だったそうです。
そして、この漁法を秋田の八郎潟に伝えたのは先日書いた坂本九ちゃんの祖父坂本金吉さんでした。明治35年に家族と八郎潟に移っています。
さて、この折本良平さんはどんな人だったのでしょうか。家は漁師もやっていたり農家でもあったようです。農具の改良等も得意だったようです。
でもこの折本家は屋号を「あいや」という染物が先祖からの生業でもあったようです。
すると、上の折本家のレンガの作りはこの頃からのものかもしれません。
この帆引き船の漁法は霞ヶ浦周辺の多くの貧しい漁師にとって救いの神と映ったことでしょう。
今まで大徳網の曳き子として細々と生活していた漁師には夢のような方法だったのです。
少しこの場所が気になったので前に縄文海進の説明をした時に紹介した「Flood Map」で今より4m水面が高かったとして地図を見てみました。

この近くを流れている川に沿って大きく陸地がえぐられて、この場所が岬の先のようになっています。
おそらくこの入江のところは大昔は漁場としては住みやすいところだったのではないかと思います。
もっとも数千年前のことですが。
また、調べているうちに何か出てくるかもしれません。その時まで心に留めておきましょう。
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本当は何もないようなところなんです。ほんの狭いエリアで、今では住所表記からも消えてしまっているようです。
昨日紹介した「八坂神社」の隣にあるお堂に石仏。何か気になります。
でも今日の話は霞ヶ浦に帆引き船の漁法を発明した「折本良平」さんについてです。
前に書いたことがある霞ヶ浦水族館の近くに置かれていた「帆引き船発祥の地」の石碑(下の写真)

また、歩崎観音の展望台の横に置かれていた「折本良平頌徳碑」(こちらの記事)下の写真。

昨日書いた神社のすぐ前の湖側に大きな家があります。

昔からあったと思われる赤レンガが残されており、高浜あたりの醤油醸造所の跡等に似ています。

表札を見ると「折本」さんと書かれているようです。
そうするとここが良平さんの出身の御宅でしょうか。
少し歴史を調べてみましょう
今では観光用に霞ヶ浦に浮かぶ帆引き船が時々運行され、これを見るために観光船が運行され、近くで写真を撮るためにエンジンつきボートをチャータしたりするくらいに霞ヶ浦の名物ともなっていますが、もちろん昔は、これは魚を採るために運行されてきたものです。
江戸時代には前に高浜、高崎地区の紹介で「御留川(おとめがわ)」という制度を紹介したことがあります。
高浜入りの霞ヶ浦が狭くなった両岸の領地が水戸藩に抑えられ、その間に挟まれた湖は川の場合と同じように両岸の領地の一部となって、魚はこの水戸藩のものとなっていたのです。
また、個人の漁師が霞ヶ浦で漁を勝手には採ることができず、それぞれ網元がいて、この網の持ち主(大徳網)が大きな利益を上げ、個人の漁師はこの網を引いたりして漁をする他なかったようです。
明治になって、御留川制度の廃止され、自由に採れるようになったのですが、その漁法はやはり大人数で網を引いて採る方法が主体でした。
そんな中、なんとか個人の船で網を引かせることができないかと考えたのが、この折本良平さんでした。
船に帆を張って、風の力で船を走らせることはできますが(荷物を運ぶ帆を張った高瀬舟はたくさん浮かんでいました)、網をつけて走っただけではほとんど魚は採れません。
考えたのは帆を張って船を横に動かすことでした。このアイディアで繰り返し試してみて試行錯誤を繰り返し、明治13年についにうまくバランスをとって船を動かし沢山お魚(シラウオ)を採ることに成功したのです。良平さんは46歳だったそうです。
そして、この漁法を秋田の八郎潟に伝えたのは先日書いた坂本九ちゃんの祖父坂本金吉さんでした。明治35年に家族と八郎潟に移っています。
さて、この折本良平さんはどんな人だったのでしょうか。家は漁師もやっていたり農家でもあったようです。農具の改良等も得意だったようです。
でもこの折本家は屋号を「あいや」という染物が先祖からの生業でもあったようです。
すると、上の折本家のレンガの作りはこの頃からのものかもしれません。
この帆引き船の漁法は霞ヶ浦周辺の多くの貧しい漁師にとって救いの神と映ったことでしょう。
今まで大徳網の曳き子として細々と生活していた漁師には夢のような方法だったのです。
少しこの場所が気になったので前に縄文海進の説明をした時に紹介した「Flood Map」で今より4m水面が高かったとして地図を見てみました。

この近くを流れている川に沿って大きく陸地がえぐられて、この場所が岬の先のようになっています。
おそらくこの入江のところは大昔は漁場としては住みやすいところだったのではないかと思います。
もっとも数千年前のことですが。
また、調べているうちに何か出てくるかもしれません。その時まで心に留めておきましょう。


石岡の街並み(8)
以前書いていた石岡市内の街並み紹介で記事を書きかけていてUPしていないものがありましたので紹介します。
今回は「栗山呉服店」さんです。
ここも国の登録有形文化財「看板住宅・店舗」の一つです。
場所は中町の通りから「すがや化粧品店」前の路地を駅の方へ少し入ってところにあります。
この道の角に以前市のモデルショップ「夢市場」という店舗がありました。
活性化のモデルとして他所から見学まであったのですが、残念ながら撤退してしまいました。
理由はいろいろありそうですが、あまり書くのは控えましょう。

昭和4年の大火で焼けたあとの昭和7年頃の建築だそうです。
木造2階建ての商家建築です。

2階正面のガラス戸の組子は、明治以降における日本建築の近代化の特徴が表われており、ガラスもキリコ風の飾りが彫られている。
今回の地震でこの2階のガラス戸が一部破損してしまい、修理したのですが昔のガラスはもう入れることができないので普通のガラスに一部がなっているそうです。
外の通りからもよく見るとこの模様が見れますが、内部から見ないとあまりよくわからないようです。

さて、この店舗は呉服店となっていますが、現在は和様小物(特に京都風)を中心に扱われているようです。

女性等は喜びそうな小物が置かれていますので来られたら、一度覗いていかれると良いと思います。
もっとも商品は駅横の観光案内所にもおいているようです。
また多くは京都の方から仕入れられているようですが、一部手作りのものもあるようです。


上の写真は、石岡のお祭りで各町内の名前の入ったストラップです。

右上の毛糸の靴下、5本指ソックスなどもあり、履き心地はよさそうです。
最も秋冬用でしょうが・・・。

このようなお店はこの辺では少ないので、探しておられる方などにはいいでしょう。
この路地は道路にタイルを2006年にはり、イメージチェンジしています。
隣の村山漬物屋さんと2軒が主体ですが、どこかホットできる路地の雰囲気があります。
私も好きな通りの一つですが前にこの路地も含め、通りに愛称の名前をつけたり、決まっている名前の表示をもっとわかるようにして欲しいと市に要望したのですが、どうなったのかな。
仙台など通りの名前がよく載っていて、その通りごとに文化が育っているのです。
地元の人は名前がわかったとしても他所から来た人はわかりません。
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地元の人と話したりするときに通りに愛称があるととても身近に感じるものです。
今回は「栗山呉服店」さんです。
ここも国の登録有形文化財「看板住宅・店舗」の一つです。
場所は中町の通りから「すがや化粧品店」前の路地を駅の方へ少し入ってところにあります。
この道の角に以前市のモデルショップ「夢市場」という店舗がありました。
活性化のモデルとして他所から見学まであったのですが、残念ながら撤退してしまいました。
理由はいろいろありそうですが、あまり書くのは控えましょう。

昭和4年の大火で焼けたあとの昭和7年頃の建築だそうです。
木造2階建ての商家建築です。

2階正面のガラス戸の組子は、明治以降における日本建築の近代化の特徴が表われており、ガラスもキリコ風の飾りが彫られている。
今回の地震でこの2階のガラス戸が一部破損してしまい、修理したのですが昔のガラスはもう入れることができないので普通のガラスに一部がなっているそうです。
外の通りからもよく見るとこの模様が見れますが、内部から見ないとあまりよくわからないようです。

さて、この店舗は呉服店となっていますが、現在は和様小物(特に京都風)を中心に扱われているようです。

女性等は喜びそうな小物が置かれていますので来られたら、一度覗いていかれると良いと思います。
もっとも商品は駅横の観光案内所にもおいているようです。
また多くは京都の方から仕入れられているようですが、一部手作りのものもあるようです。


上の写真は、石岡のお祭りで各町内の名前の入ったストラップです。

右上の毛糸の靴下、5本指ソックスなどもあり、履き心地はよさそうです。
最も秋冬用でしょうが・・・。

このようなお店はこの辺では少ないので、探しておられる方などにはいいでしょう。
この路地は道路にタイルを2006年にはり、イメージチェンジしています。
隣の村山漬物屋さんと2軒が主体ですが、どこかホットできる路地の雰囲気があります。
私も好きな通りの一つですが前にこの路地も含め、通りに愛称の名前をつけたり、決まっている名前の表示をもっとわかるようにして欲しいと市に要望したのですが、どうなったのかな。
仙台など通りの名前がよく載っていて、その通りごとに文化が育っているのです。
地元の人は名前がわかったとしても他所から来た人はわかりません。


地元の人と話したりするときに通りに愛称があるととても身近に感じるものです。
春うらら
今日は比較的気温が低く、東北や北海道では雪になったようですね。
でも午前中は比較的暖かく日もさしていたので、少し気になっていた出島の散策にまた行ってきました。
何もないところだと思っていましたが、色々面白いところが見つかってきました。
春の花もアチラコチラに色鮮やかに咲き乱れており本当に春うららの陽気でした。
カメラを持って出かけたのですが、途中で電池が切れてしまい、また出直しです。
そのうちにまた紹介したいと思います。
今は夜空にまん丸の月が優しく輝いています。
桜の花は一部咲きだしたところもありますがまだもう少しかかるようです。
(今回の写真は全部サムネルです。クリックすると少し大きな写真が見れますよ)

途中高浜近くの平和橋から見た恋瀬川と筑波山。

この場所は禁猟区だと思いますので鴨さんものんびり泳いでいます。
川の水も「水ぬるむ」という表現がちょうど合う陽気です。

かすみがうら市出島の先端にあるあゆみ崎の郷土資料館です。
最初はこんなお城の形なんかで作ってどうしようもない等と見ていたのですが、このお城結構形がいいです。
桜もホンの少し咲きだしたようです。
すぐ近くに歩崎森林公園等もありますので、子供連れの人は楽しめると思います。

最後に近所の鯉のぼりです。
毎年4月になると上がります。それも夜は下ろすので毎日上げたり下ろしたり、大変なんだろうな?
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でも午前中は比較的暖かく日もさしていたので、少し気になっていた出島の散策にまた行ってきました。
何もないところだと思っていましたが、色々面白いところが見つかってきました。
春の花もアチラコチラに色鮮やかに咲き乱れており本当に春うららの陽気でした。
カメラを持って出かけたのですが、途中で電池が切れてしまい、また出直しです。
そのうちにまた紹介したいと思います。
今は夜空にまん丸の月が優しく輝いています。
桜の花は一部咲きだしたところもありますがまだもう少しかかるようです。
(今回の写真は全部サムネルです。クリックすると少し大きな写真が見れますよ)

途中高浜近くの平和橋から見た恋瀬川と筑波山。

この場所は禁猟区だと思いますので鴨さんものんびり泳いでいます。
川の水も「水ぬるむ」という表現がちょうど合う陽気です。

かすみがうら市出島の先端にあるあゆみ崎の郷土資料館です。
最初はこんなお城の形なんかで作ってどうしようもない等と見ていたのですが、このお城結構形がいいです。
桜もホンの少し咲きだしたようです。
すぐ近くに歩崎森林公園等もありますので、子供連れの人は楽しめると思います。

最後に近所の鯉のぼりです。
毎年4月になると上がります。それも夜は下ろすので毎日上げたり下ろしたり、大変なんだろうな?


出島散歩(20)-志戸崎地区
かすみがうら市の旧出島地区の先端を回ってみましたが、土浦の方から先日書いた牛渡(うしわた)地区を通って町名としては「坂」という地名が歩崎の公園の方まで続く。
2~3日前に書いた帆引き船の発明者折本良平氏のいた二の宮というところも住所は坂となっている。
ところがこの先に行くと坂という地名の中に昔からの「志戸崎」という地名も住所表記に登録されている。
霞ヶ浦の漁として最も盛んなところでもある「志戸崎漁港」の名前を一部残したようだ。

歩崎の水族館のある公園に車を停めて歩いて志戸崎漁港に行ってみた。
歩いてすぐであるが、現在湖岸工事をしていて県道の方を回っていった。

船のプールには10艘ほどの船が止まっていた。
船には小さなエンジンが搭載されている。それぞれ持ち主の名前が船体の横に書かれている。
写真の大きい方は「貝塚」となっており、この辺の有名な佃煮屋さんのものだろうか。

ここからすぐ先に沖生け簀(いけす)がある。これは前にも書いたが鯉の養殖用だ。
鯉ヘルペスで5年ほど完全に養殖ができなかったが、今は復活している。

こちらは陸側の生け簀(陸いけす)だ。
水を大量に流し、酸素ボンベで酸素を送り、餌を上のタンクから供給している。
何が飼われているか見えなかったが、これはこの霞ヶ浦名産の甘露煮や佃煮などに加工されて出荷される。

街の通りに出ると「貝塚忠三郎商店」の案内板があった。

この路地を入ったところに1910年(明治43年)創業の老舗「貝塚忠三郎」商店さんの本店があった。
屋号として「△」のマークを使用している。
現在の社長で3代目だそうだ。

ただし、現在この店舗では販売をしていない。
かすみがうら市の資料館(お城の形)のすぐ前に綺麗なガーデンと直売所がオープンしたため、小売はこちらで扱っているのだそうだ。

こちらが、綺麗な「GARDEN PARK SHELL」だ。貝塚の貝からShellと名づけたそうです。

綺麗なお店です。水戸のデパートやつくば、それにインターネット販売等多角的に経営を進めています。
お店のPRにはかすみがうら市の役所の職員だった「あん時の猪木」さんが一役買っていました。

庭園にはバラ等が栽培されているそうです。
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2~3日前に書いた帆引き船の発明者折本良平氏のいた二の宮というところも住所は坂となっている。
ところがこの先に行くと坂という地名の中に昔からの「志戸崎」という地名も住所表記に登録されている。
霞ヶ浦の漁として最も盛んなところでもある「志戸崎漁港」の名前を一部残したようだ。

歩崎の水族館のある公園に車を停めて歩いて志戸崎漁港に行ってみた。
歩いてすぐであるが、現在湖岸工事をしていて県道の方を回っていった。

船のプールには10艘ほどの船が止まっていた。
船には小さなエンジンが搭載されている。それぞれ持ち主の名前が船体の横に書かれている。
写真の大きい方は「貝塚」となっており、この辺の有名な佃煮屋さんのものだろうか。

ここからすぐ先に沖生け簀(いけす)がある。これは前にも書いたが鯉の養殖用だ。
鯉ヘルペスで5年ほど完全に養殖ができなかったが、今は復活している。

こちらは陸側の生け簀(陸いけす)だ。
水を大量に流し、酸素ボンベで酸素を送り、餌を上のタンクから供給している。
何が飼われているか見えなかったが、これはこの霞ヶ浦名産の甘露煮や佃煮などに加工されて出荷される。

街の通りに出ると「貝塚忠三郎商店」の案内板があった。

この路地を入ったところに1910年(明治43年)創業の老舗「貝塚忠三郎」商店さんの本店があった。
屋号として「△」のマークを使用している。
現在の社長で3代目だそうだ。

ただし、現在この店舗では販売をしていない。
かすみがうら市の資料館(お城の形)のすぐ前に綺麗なガーデンと直売所がオープンしたため、小売はこちらで扱っているのだそうだ。

こちらが、綺麗な「GARDEN PARK SHELL」だ。貝塚の貝からShellと名づけたそうです。

綺麗なお店です。水戸のデパートやつくば、それにインターネット販売等多角的に経営を進めています。
お店のPRにはかすみがうら市の役所の職員だった「あん時の猪木」さんが一役買っていました。

庭園にはバラ等が栽培されているそうです。


出島散歩(21)-志戸崎(2)
昨日書いた志戸崎地区の街並みを少し紹介します。
この街中を通る湖岸沿いの県道は今春バイパスができて、この街中や歩崎公園前を通らずに霞ヶ浦大橋の方に行くことができるようになりました。
これは便利ではありますが、街中の景色が徐々に無くなっていくようであり寂しい気もします。
元々漁港以外にはこれといったところでもないので気になります。
これはわが街も同じ。現在6号のバイパス工事をしていますので、そのうちにレストランが連なっている通りが寂れてしまわないかととても心配です。

これは「大国屋商店」さんです。結構古い建物のようです。

お店の中には生活雑貨類が置かれています。雑貨屋さんでしょうか。
店の前に年季の入った灯油などの給油機があります。
どうやら雑貨よりも燃料を街の家々や船などに卸しているのではないかと思います。
店の入口に掲げられている額には「液化石油ガス販売事業者証」がありました。

横から見るとこんな感じです。土蔵・石蔵の造りと同じようです。

この大国屋さんの隣はものすごく大きな屋根の家です。昔は藁葺きの家の作りをそのまま瓦屋根にしたのでしょうか。

このお宅は商売をされていないように見えますが、「タバコ屋」さんと地図にはあります。
「たばこは町内でかいましょう」とあります。しかし合併前の「霞ヶ浦町」です。
霞ヶ浦町はその前は「出島村」でした。土地柄のイメージはやはり出島が合います。

すぐ通りの反対側(山側)に「慈眼寺」という寺がありました。
境内には石像や五輪塔などが無造作に置かれています。いつ頃の時代のものでしょうか。
五輪塔は江戸時代にも造られていたようですが室町時代まで遡るものかもしれません。

さて、この慈眼寺についてよくわからないので調べていたらとても面白い記事を見つけた。
「天保の坂村大騒動」というもので、天保五年(1834)にここ坂村志戸崎を中心にして起きた農民の決起騒動です。
以前志筑(しずく)村で安永七年(1778)に起こった助六一揆と同じようではあるが、志筑では義人福田助六がまつられているのに対し、こちらは細野冉兵衛(ぜんべい)という人物だ。
常陽新聞社が昭和42年に連載で書いているようなので、あまり詳しくは省略するが、原因は坂村の名主が土浦藩の代官と密約して(悪代官と名主がグルになって)不当な年貢米を課したため、当時の志戸崎の貝塚恒助がリーダとなってこの「慈眼寺」などに農民が集まって話し合い、隣り村深谷で人望の厚い「細野冉兵衛」に頼み込んだ。
しかし証拠がなく、何とか証拠を探そうとするうちに恒助は代官にみつかりつかまってしまった。
騒動が大きくなってきたのを見た細野冉兵衛は農民の味方をして代官を縛り上げてしまった。
冉兵衛は私財をなげうって土地を開墾したりしていたため、土屋の殿様から土浦領の東郷(土浦から東側一帯)の名主総代に選ばれてもいたようで、体も大きくなかなかに押しの強い人物だったらしいが、ここは土浦藩に背いたとみなされて、入牢となってしまった。
そして翌年牢屋で病気で死亡したとされます。まあ72歳ということですから牢屋は応えたのでしょう。
また首謀者であった貝塚恒助は25歳の若さであったが打ち首になったそうです。
そして恒助の墓は「長福寺」にあるそうです。冉兵衛の墓は深谷にあるそうです。
この長福寺も通りから離れてはいますが、なかなか興味深い場所にあるので今度一度行ってみたいと思います。
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この街中を通る湖岸沿いの県道は今春バイパスができて、この街中や歩崎公園前を通らずに霞ヶ浦大橋の方に行くことができるようになりました。
これは便利ではありますが、街中の景色が徐々に無くなっていくようであり寂しい気もします。
元々漁港以外にはこれといったところでもないので気になります。
これはわが街も同じ。現在6号のバイパス工事をしていますので、そのうちにレストランが連なっている通りが寂れてしまわないかととても心配です。

これは「大国屋商店」さんです。結構古い建物のようです。

お店の中には生活雑貨類が置かれています。雑貨屋さんでしょうか。
店の前に年季の入った灯油などの給油機があります。
どうやら雑貨よりも燃料を街の家々や船などに卸しているのではないかと思います。
店の入口に掲げられている額には「液化石油ガス販売事業者証」がありました。

横から見るとこんな感じです。土蔵・石蔵の造りと同じようです。

この大国屋さんの隣はものすごく大きな屋根の家です。昔は藁葺きの家の作りをそのまま瓦屋根にしたのでしょうか。

このお宅は商売をされていないように見えますが、「タバコ屋」さんと地図にはあります。
「たばこは町内でかいましょう」とあります。しかし合併前の「霞ヶ浦町」です。
霞ヶ浦町はその前は「出島村」でした。土地柄のイメージはやはり出島が合います。

すぐ通りの反対側(山側)に「慈眼寺」という寺がありました。
境内には石像や五輪塔などが無造作に置かれています。いつ頃の時代のものでしょうか。
五輪塔は江戸時代にも造られていたようですが室町時代まで遡るものかもしれません。

さて、この慈眼寺についてよくわからないので調べていたらとても面白い記事を見つけた。
「天保の坂村大騒動」というもので、天保五年(1834)にここ坂村志戸崎を中心にして起きた農民の決起騒動です。
以前志筑(しずく)村で安永七年(1778)に起こった助六一揆と同じようではあるが、志筑では義人福田助六がまつられているのに対し、こちらは細野冉兵衛(ぜんべい)という人物だ。
常陽新聞社が昭和42年に連載で書いているようなので、あまり詳しくは省略するが、原因は坂村の名主が土浦藩の代官と密約して(悪代官と名主がグルになって)不当な年貢米を課したため、当時の志戸崎の貝塚恒助がリーダとなってこの「慈眼寺」などに農民が集まって話し合い、隣り村深谷で人望の厚い「細野冉兵衛」に頼み込んだ。
しかし証拠がなく、何とか証拠を探そうとするうちに恒助は代官にみつかりつかまってしまった。
騒動が大きくなってきたのを見た細野冉兵衛は農民の味方をして代官を縛り上げてしまった。
冉兵衛は私財をなげうって土地を開墾したりしていたため、土屋の殿様から土浦領の東郷(土浦から東側一帯)の名主総代に選ばれてもいたようで、体も大きくなかなかに押しの強い人物だったらしいが、ここは土浦藩に背いたとみなされて、入牢となってしまった。
そして翌年牢屋で病気で死亡したとされます。まあ72歳ということですから牢屋は応えたのでしょう。
また首謀者であった貝塚恒助は25歳の若さであったが打ち首になったそうです。
そして恒助の墓は「長福寺」にあるそうです。冉兵衛の墓は深谷にあるそうです。
この長福寺も通りから離れてはいますが、なかなか興味深い場所にあるので今度一度行ってみたいと思います。


出島散歩(22)-太子古墳(安食)
昨日今日と暖かいというより少し暑いくらいの陽気となった。
そのせいで、日曜日にはまだもう少しかかると思っていた桜が一斉に開花した。
桜よ桜。
そんなに急いて咲かなくてもいいんだよ。
もっとゆっくり咲いておくれ。
今週末には散りそうじゃないか。
私の心にホンの少しでいいんだから準備の時間をおくれ。
ああ風が吹いたらほんとに行ってしまいそうだ。
あー、桜も梅も花が咲くのを待つのが愛おしくて待ち遠しいですね。
さて、いつものネタの続きです。
今回紹介する安食(あんじき)地区にある太子古墳(たいしこふん)は通りかかって看板を見つけ偶然立ち寄ったのだけれど、ちょっとビックリしました。
こんなものがこの場所にあるなんて思いもかけなかったのです。
まったくフイを食らったような感じです。
ほとんど人も訪れることもない場所かもしれませんが、彩色古墳としては、ひたちなか市の「虎塚古墳」が有名なのにここは全くほったらかしです。

県道118号線に「太子古墳」の矢印があり、その角を曲がるとすぐ通り沿いにあります。
もともとは前方後円墳だったそうですが、古墳はなく上記の写真のような石で囲まれた横穴があいているだけです。

説明では地元では「太子のカロウド」と呼ばれているとありますが、これは「大師の唐櫃」のことだと思います。

この穴の中には2体の人骨や刀とか須恵器等が出てきたそうですが、2体を葬ることはよくあるようなのでそれほど驚くことでもないのですが、問題は壁に彩色が施されていることです。
穴の中に体を潜り込ませて写真を撮ってきました。
フラッシュは使わずに後で修正しました。
いくら昔の古墳といってもあまり気持ちの良いものではありません。
誰もいないからよかったですが、人に見られたら恥ずかしいですね。

発見されたのは明治23年で発表されたのが大正時代だといいます。
きっとそのころはもっと鮮やかな色をしていたのだと思います。
茨城県では横穴石室古墳で色彩を施されているのは虎塚古墳とここの2箇所だけだそうです。
県指定史跡になっているのですからもう少し保護しないと色もなくなってしまいそうです。

古墳はこの石室のところだけであとは家なども近くにもあります。
おおきなハクレンの花が満開でした。
さて、JR成田線には安食で「あじき」と読む駅があり、つくばにある地名も「あじき」ですが、ここの土地は「あんじき」です。
これもアイヌ語かもしれませんね。
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桜よ桜。
そんなに急いて咲かなくてもいいんだよ。
もっとゆっくり咲いておくれ。
今週末には散りそうじゃないか。
私の心にホンの少しでいいんだから準備の時間をおくれ。
ああ風が吹いたらほんとに行ってしまいそうだ。
あー、桜も梅も花が咲くのを待つのが愛おしくて待ち遠しいですね。
さて、いつものネタの続きです。
今回紹介する安食(あんじき)地区にある太子古墳(たいしこふん)は通りかかって看板を見つけ偶然立ち寄ったのだけれど、ちょっとビックリしました。
こんなものがこの場所にあるなんて思いもかけなかったのです。
まったくフイを食らったような感じです。
ほとんど人も訪れることもない場所かもしれませんが、彩色古墳としては、ひたちなか市の「虎塚古墳」が有名なのにここは全くほったらかしです。

県道118号線に「太子古墳」の矢印があり、その角を曲がるとすぐ通り沿いにあります。
もともとは前方後円墳だったそうですが、古墳はなく上記の写真のような石で囲まれた横穴があいているだけです。

説明では地元では「太子のカロウド」と呼ばれているとありますが、これは「大師の唐櫃」のことだと思います。

この穴の中には2体の人骨や刀とか須恵器等が出てきたそうですが、2体を葬ることはよくあるようなのでそれほど驚くことでもないのですが、問題は壁に彩色が施されていることです。
穴の中に体を潜り込ませて写真を撮ってきました。
フラッシュは使わずに後で修正しました。
いくら昔の古墳といってもあまり気持ちの良いものではありません。
誰もいないからよかったですが、人に見られたら恥ずかしいですね。

発見されたのは明治23年で発表されたのが大正時代だといいます。
きっとそのころはもっと鮮やかな色をしていたのだと思います。
茨城県では横穴石室古墳で色彩を施されているのは虎塚古墳とここの2箇所だけだそうです。
県指定史跡になっているのですからもう少し保護しないと色もなくなってしまいそうです。

古墳はこの石室のところだけであとは家なども近くにもあります。
おおきなハクレンの花が満開でした。
さて、JR成田線には安食で「あじき」と読む駅があり、つくばにある地名も「あじき」ですが、ここの土地は「あんじき」です。
これもアイヌ語かもしれませんね。

