出島散歩(32)-柏崎素鵞神社(2)
昨日柏崎素鵞(そが)神社に奉納されている絵馬を紹介しましたのでその神社も紹介します。
素鵞神社(ソガジンジャ)は各地にたくさんあります。
対岸の玉造や玉里といった古い地名のところに残されています。
神話に出てくる鷲(わし)の話は前に書いたことがあります。(こちら)
鷲を祀るから阿波の忌部氏に関係があるとも思うのだが、ほとんどの素鵞神社はスサノオ(素戔嗚尊)を祀っているようです。

拝殿です(上)。入口には2種類の狛犬が置かれています。

古いほうの狛犬は貫禄ありますね。豹のようです。

おおきなケヤキの大木。二股に分かれた根元に小さな祠が置かれています。

御神木と思われる「オガタマ」の古木。ただし、ネットで調べてみるとこれはタブノキの間違いだろうとなっていました。
タブノキであれば近くでも結構見かけますが、見たときには市の表札に「オガタマ」と書かれていました。
しかしこれも別なサイトでは「オガタマ」と「オガタマノキ」は別物でオガタマはクスノキ科のタブノキで、オガタマノキはモクレン科の別の木を指す。とあった。
はっきりしないがタブノキに属するオガタマということでいいらしい。

ここの本殿は彩色されたもので、少し変わっている。

真ん中の模様は何を表しているのだろう。この色合いはいままでにあまり見たことがないようだが・・・。

本殿の飾り。

本殿にはこのように彫刻が施され彩色されている。
この神社に伝わる祇園祭の山車も彫刻や彩色がされているという。
きっと石岡のお祭りの山車祭りにも影響を与えているように思う。
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素鵞神社(ソガジンジャ)は各地にたくさんあります。
対岸の玉造や玉里といった古い地名のところに残されています。
神話に出てくる鷲(わし)の話は前に書いたことがあります。(こちら)
鷲を祀るから阿波の忌部氏に関係があるとも思うのだが、ほとんどの素鵞神社はスサノオ(素戔嗚尊)を祀っているようです。

拝殿です(上)。入口には2種類の狛犬が置かれています。


古いほうの狛犬は貫禄ありますね。豹のようです。

おおきなケヤキの大木。二股に分かれた根元に小さな祠が置かれています。

御神木と思われる「オガタマ」の古木。ただし、ネットで調べてみるとこれはタブノキの間違いだろうとなっていました。
タブノキであれば近くでも結構見かけますが、見たときには市の表札に「オガタマ」と書かれていました。
しかしこれも別なサイトでは「オガタマ」と「オガタマノキ」は別物でオガタマはクスノキ科のタブノキで、オガタマノキはモクレン科の別の木を指す。とあった。
はっきりしないがタブノキに属するオガタマということでいいらしい。

ここの本殿は彩色されたもので、少し変わっている。

真ん中の模様は何を表しているのだろう。この色合いはいままでにあまり見たことがないようだが・・・。

本殿の飾り。

本殿にはこのように彫刻が施され彩色されている。
この神社に伝わる祇園祭の山車も彫刻や彩色がされているという。
きっと石岡のお祭りの山車祭りにも影響を与えているように思う。


出島散歩(33)-柏崎地区
昨日に続いて柏崎地区を紹介しておきましょう。
柏崎地区は霞ヶ浦の高浜入りのちょうど入口部分になっていて、霞ヶ浦をはさんで対岸は旧玉造町です。
霞ヶ浦大橋ができて行方市へすぐ行けるようになったが、船が運行されていた時に比べその衰退は目に見えてわかる。
これは石岡の高浜も全く同じだが、ここはもっとどん詰りだからなかなか厳しいものがあるように思う。
しかし、この柏崎という地区は霞ヶ浦特産の佃煮等の加工業者やその魚を養殖する生簀が多い地区だ。
しかし、一般の人は佃煮等も直売所などで売っているのでどこで作られているかを知らない。

柏崎地区の霞ヶ浦漁の漁船のプール。比較的小型の個人漁師の船のようです。
また、これは前に紹介した志戸崎地区よりも少し小型かもしれません。

湖岸近くに「斎藤うなぎ店」の看板があります。いまもお店はあるのでしょうか?
近くには料理屋さんは見当たりません。
この近くには「斎藤川魚店」という鮮魚店があるようです。

少し奥に行ったところにある「栗山商店」さんにお邪魔しました。
前に何度かお世話になったことがあります。佃煮等を製造販売しています。

お店の中の冷蔵庫にいろいろな佃煮等が入っていました。

その場でパックから少し試食させてもらって白魚のパック入をいただいてきました。
帰ってから、早速ご飯の上にかけてパクパクいただいてしまいました。美味しかったです。
このお店はこの店に隣接しているところに生け簀とその先に加工場の工場があります。

霞ヶ浦に面した土手の脇にはこじんまりとした「水神宮」が祀られていました。
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柏崎地区は霞ヶ浦の高浜入りのちょうど入口部分になっていて、霞ヶ浦をはさんで対岸は旧玉造町です。
霞ヶ浦大橋ができて行方市へすぐ行けるようになったが、船が運行されていた時に比べその衰退は目に見えてわかる。
これは石岡の高浜も全く同じだが、ここはもっとどん詰りだからなかなか厳しいものがあるように思う。
しかし、この柏崎という地区は霞ヶ浦特産の佃煮等の加工業者やその魚を養殖する生簀が多い地区だ。
しかし、一般の人は佃煮等も直売所などで売っているのでどこで作られているかを知らない。

柏崎地区の霞ヶ浦漁の漁船のプール。比較的小型の個人漁師の船のようです。
また、これは前に紹介した志戸崎地区よりも少し小型かもしれません。

湖岸近くに「斎藤うなぎ店」の看板があります。いまもお店はあるのでしょうか?
近くには料理屋さんは見当たりません。
この近くには「斎藤川魚店」という鮮魚店があるようです。

少し奥に行ったところにある「栗山商店」さんにお邪魔しました。
前に何度かお世話になったことがあります。佃煮等を製造販売しています。

お店の中の冷蔵庫にいろいろな佃煮等が入っていました。

その場でパックから少し試食させてもらって白魚のパック入をいただいてきました。
帰ってから、早速ご飯の上にかけてパクパクいただいてしまいました。美味しかったです。
このお店はこの店に隣接しているところに生け簀とその先に加工場の工場があります。

霞ヶ浦に面した土手の脇にはこじんまりとした「水神宮」が祀られていました。


茨城空港バスレーン
今日は朝から大雨でした。連休で出かけた人は大変だったでしょうね。
午後からは小ぶりになりましたが。
茨城空港ができ、鹿島鉄道が廃線となった跡地を石岡駅から空港までの専用バスレーンにした。
現在茨城空港からのバスは
①石岡駅(1日11往復 片道:600円、往復:1000円)
②水戸駅(1日5往復 片道:1000円)・・・茨城空港北~水戸南間は高速道路
③東京駅(1日6往復 航空券あり片道:500円、なし:1000円)・・・千代田石岡ICより高速道路
④つくばセンター(1日2往復 片道:1000円)・・・千代田石岡~桜土浦間は高速道路
へ行く路線が走っている。

茨城空港入口バス乗り場(バス停は上記4路線) この写真は「水戸駅」行きバス。左側の駐車場は無料。
東京までのバス便は最近増えてきたようで、6往復は当初から比べると大幅に増便となっている。
これはこの3月に神戸便が1日2往復になったことで利用価値が高まったようだ。
都会に近いこじんまりした神戸空港からビジネスマンが茨城空港を利用し始めているようだ。
東京駅まで500円でバスで1時間半くらい掛かるが寝ていければいいのかもしれない。
また近隣の人が東京へ出るのはこのバスが一番安くて便利なんです。
車を空港において1000円で東京までバスに座っていける。
石岡から東京までも水戸発の高速バスがあるが、片道1500円(往復2750円)だ。
JRなら石岡~東京は1450円(+特急900円)。
さて、石岡-小川-茨城空港間は道路が混雑するので、廃線となった鹿島鉄道の軌道跡を舗装してバス専用レーンが作られている。

一般道との交差点ではこのような踏切バーがあり、一般車はこのレーンを走行することは出来ない。
並行して走る国道355号線(通称小川街道)は朝夕は結構混雑する。
しかし、このバスレーンを横切る道路はどれもあまり混雑しないため、バスは交差点では止まって車の通過を待ってくれるようだ。

でも隣の混雑する道路から見ると、たまにしか走らないバスだけに解放するのはもったいない気がする。
現在は石岡~旧四箇村駅間の5.1km。 将来計画は旧小川駅までの7.1kmを計画している。
しかし、高速バスではないので時間的には5分位の短縮にしかならないらしい。
地域の活性化としてのアイデアとしては乏しい気がするが・・・。
さて肝心の茨城空港ですが、いまだにどこに行っても静岡と同じで無駄な空港建設と言われております。(笑)
でも意外にジワジワと価値観が増えつつあります。上海へは週6便が運行され、最安値5000円でいけます。
札幌・神戸が1日2便づつ運行です。
まあホリエモンがいうように金持用のプライベートジェットにも使わせてみるのも一つのアイデアかもしれませんね。
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午後からは小ぶりになりましたが。
茨城空港ができ、鹿島鉄道が廃線となった跡地を石岡駅から空港までの専用バスレーンにした。
現在茨城空港からのバスは
①石岡駅(1日11往復 片道:600円、往復:1000円)
②水戸駅(1日5往復 片道:1000円)・・・茨城空港北~水戸南間は高速道路
③東京駅(1日6往復 航空券あり片道:500円、なし:1000円)・・・千代田石岡ICより高速道路
④つくばセンター(1日2往復 片道:1000円)・・・千代田石岡~桜土浦間は高速道路
へ行く路線が走っている。

茨城空港入口バス乗り場(バス停は上記4路線) この写真は「水戸駅」行きバス。左側の駐車場は無料。
東京までのバス便は最近増えてきたようで、6往復は当初から比べると大幅に増便となっている。
これはこの3月に神戸便が1日2往復になったことで利用価値が高まったようだ。
都会に近いこじんまりした神戸空港からビジネスマンが茨城空港を利用し始めているようだ。
東京駅まで500円でバスで1時間半くらい掛かるが寝ていければいいのかもしれない。
また近隣の人が東京へ出るのはこのバスが一番安くて便利なんです。
車を空港において1000円で東京までバスに座っていける。
石岡から東京までも水戸発の高速バスがあるが、片道1500円(往復2750円)だ。
JRなら石岡~東京は1450円(+特急900円)。
さて、石岡-小川-茨城空港間は道路が混雑するので、廃線となった鹿島鉄道の軌道跡を舗装してバス専用レーンが作られている。

一般道との交差点ではこのような踏切バーがあり、一般車はこのレーンを走行することは出来ない。
並行して走る国道355号線(通称小川街道)は朝夕は結構混雑する。
しかし、このバスレーンを横切る道路はどれもあまり混雑しないため、バスは交差点では止まって車の通過を待ってくれるようだ。

でも隣の混雑する道路から見ると、たまにしか走らないバスだけに解放するのはもったいない気がする。
現在は石岡~旧四箇村駅間の5.1km。 将来計画は旧小川駅までの7.1kmを計画している。
しかし、高速バスではないので時間的には5分位の短縮にしかならないらしい。
地域の活性化としてのアイデアとしては乏しい気がするが・・・。
さて肝心の茨城空港ですが、いまだにどこに行っても静岡と同じで無駄な空港建設と言われております。(笑)
でも意外にジワジワと価値観が増えつつあります。上海へは週6便が運行され、最安値5000円でいけます。
札幌・神戸が1日2便づつ運行です。
まあホリエモンがいうように金持用のプライベートジェットにも使わせてみるのも一つのアイデアかもしれませんね。


薫風
昨日の雨もようやく上がってきて、どんよりと曇った一日となりました。
梨の白い花はすっかり見なくなり青葉が目立ちます。
山々はこの一週間の間にすっかり緑が濃くなってきました。
つい先日まで白っぽく燃えるような淡い緑色だったのですが、青葉というのにふさわしくなってきました。
「薫風」(くんぷう)五月の始まりです。
また、雨が上がった田んぼは一斉に田植えが始まりました。

昔とちがって田植えもみんな機械です。
ここは霞ヶ浦の高浜入り近くの田んぼです。

田んぼの向こう側の緑の土手は霞ヶ浦に続く恋瀬川で、川の向こう側は石岡市。
この田んぼの場所はかすみがうら市東野寺です。
恋瀬川と天の川に挟まれたデルタ地帯。
二つの川が合流したところが中津川で、その先で霞ヶ浦に注ぎます。
コメづくりは盛んですが、昔はよく洪水に悩まされました。
夜になり今は綺麗な月が空に輝いています。
明日は天気でしょうか。
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梨の白い花はすっかり見なくなり青葉が目立ちます。
山々はこの一週間の間にすっかり緑が濃くなってきました。
つい先日まで白っぽく燃えるような淡い緑色だったのですが、青葉というのにふさわしくなってきました。
「薫風」(くんぷう)五月の始まりです。
また、雨が上がった田んぼは一斉に田植えが始まりました。

昔とちがって田植えもみんな機械です。
ここは霞ヶ浦の高浜入り近くの田んぼです。

田んぼの向こう側の緑の土手は霞ヶ浦に続く恋瀬川で、川の向こう側は石岡市。
この田んぼの場所はかすみがうら市東野寺です。
恋瀬川と天の川に挟まれたデルタ地帯。
二つの川が合流したところが中津川で、その先で霞ヶ浦に注ぎます。
コメづくりは盛んですが、昔はよく洪水に悩まされました。
夜になり今は綺麗な月が空に輝いています。
明日は天気でしょうか。


風土記の丘は今
5月5日の子供の日。久しぶりに晴れ上がって気持ちが良いが、外に出ると暑くて汗ばんでしまう。
久しぶりに常陸風土記を歩いてみた。

入口にある藤棚を期待していたのですが、まだ少し早かったようです。
昨年行った時の白い藤が綺麗だったので、もう少ししてからまた行ってみましょう。



桜は全ての種類で終わっていました。そしてスカシユリが植えられ、6月中旬にはまた綺麗な花を咲かせてくれそうです。

金山池も今は寂しいですが、7月中旬から古代ハスが見られます。
それにしてものんびりと散策するにはいいところです。

おしどりも仲良く細い川にいたのですが、近くにいてもあまり警戒しませんね。
ノンビリしています。

今日の子供の日のため、家族連れもかなり来ていました。
時の門のところには無料の野点を楽しめるようになっていました。
風船を持った子供がテーブルと椅子でお茶ですから、何か少し違和感はありますね。
これもいいでしょう。なにしろ天気も良くなった子供の日ですから。
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久しぶりに常陸風土記を歩いてみた。

入口にある藤棚を期待していたのですが、まだ少し早かったようです。
昨年行った時の白い藤が綺麗だったので、もう少ししてからまた行ってみましょう。



桜は全ての種類で終わっていました。そしてスカシユリが植えられ、6月中旬にはまた綺麗な花を咲かせてくれそうです。

金山池も今は寂しいですが、7月中旬から古代ハスが見られます。
それにしてものんびりと散策するにはいいところです。

おしどりも仲良く細い川にいたのですが、近くにいてもあまり警戒しませんね。
ノンビリしています。

今日の子供の日のため、家族連れもかなり来ていました。
時の門のところには無料の野点を楽しめるようになっていました。
風船を持った子供がテーブルと椅子でお茶ですから、何か少し違和感はありますね。
これもいいでしょう。なにしろ天気も良くなった子供の日ですから。


東京スカイツリーと両国
東京スカイツリーの一般公開も間近に迫ってきました。
こちらの常磐道から三郷ICを経て東京銀座方面に首都高6号線を通ることが何度かありますが、一旦荒川を渡る橋の上から見るスカイツリーはとても綺麗に見えます。
その先隅田川に沿って走りますので、向島の先浅草近辺では目の前にツリーはそびえて見えてきます。
この辺りでは少し近すぎてカメラでは撮りにくそうです。
もっとも高速道路での運転中には写真を撮ることは出来そうにありませんので写真はありません。
また東京駅行きの高速バスにもよく乗りますが、これも土曜日には浅草経由なので目の前にツリーを見上げることもできます。
(追記)本記事に写真がないとさみしいと思っていたら、写真を提供いただきました。忠顕さまありがとうございました。(下記写真はサムネルです。クリックで拡大します)

本写真は首都高速6号向島線の上りの向島出口手前です。
東京行きのバスはここ向島で高速を下りて浅草を経由します。その時は目の前にスカイツリーが見えます。
本写真はまだ建設中で最後の塔の部分はありません。(ここまで追記)
しかし、この東京スカイツリーの高さが634mでムサシ=武蔵国のことだということは各所で宣伝されていますので知られるようになりましたが、私も隅田川に架かる「言問橋(ことといばし)」「吾妻橋=業平橋」などの名前の由来はうっすらと知る程度でした。
押上線の「業平橋駅」が「東京スカイツリー駅」に改名されたのですが、業平の名前を消したくないと反対の抗議もあって、「東京スカイツリー駅 旧業平橋」と旧名も残すことになったそうです。
この辺の歴史を調べてみるととても興味深いことがたくさんあります。
ひとつは在原業平(ありわらのなりひら)が伊勢物語九段東下りで詠んだ
「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
の短歌が基になっているわけですが、この歌そのものの意味はある程度ご存知の方も多いと思われますが、平安時代初期の西暦800年初頭に都(京都)から武蔵国にはるばるとやってきた心を思うとき、意味もわかってくるように思います。
さて私の興味は、この東下りで業平は下総国から武蔵国に舟で渡ったのか、その逆なのかということです。
伊勢物語には詳しく書かれていません。
------------------------------------------------
なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河と言ふ。
その河のほとりに群れ居て思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡し守、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ。」と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。(伊勢物語九段より)
-------------------------------------------------
この九段で東下りで、この武蔵国までに間に駿河を通り富士山を眺めてやってきました。
九段のあとには入間や武蔵野がでてくるから武蔵の国に下総国から入ってのだろうと思います。
東京湾を船でわたって上総国(市原)から下総(市川)を通ってここで隅田川を渡って武蔵国に入ってのではないでしょうか。
しかし、徳川家康が江戸に幕府を築き、この隅田川(旧利根川の一部?)に架かる橋は千住より南には城の守りを固めるために架けさせなかったそうです。
しかし、1657年正月に起きた江戸市中の大火で逃げ場を失った人たちが多数(数万人)死亡(水死)したといわれています。
この大火で、江戸幕府はここに橋を架けることを決め、1年後の春に大橋が完成したのです。
最初は大橋と呼ばれていましたが、この橋が昔の下総国と武蔵国をつなぐ橋であったことから「両国橋」と呼ばれるようになったそうです。
そしてこの橋の名前から地名として「両国」が誕生しました。
両国といえば相撲と隅田川の花火大会ですが、この花火は享保18年(1733)に始まり、橋の上流側を「玉屋」、下流側を「鍵屋」が受け持つこととなっていました。
玉屋は1843年に一時断絶しますが、花火店として玉屋は残っていったようです。
花火の費用も大変なもので、当時の両国界隈の船宿などが多額の出費をしていたようで、相当に賑わっていたようです。
さて、もう一つ面白いことに、この都鳥ですが、今一般に名前の付いている都鳥とは違うようです。
「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ」という姿は、都鳥ではなく「ユリカモメ」ではないかと言われています。
是非ムサシ(634m)を知ったのなら、この平安時代の東国のウラ悲しい風情や江戸時代の賑わい等も思い浮かべてみるのも良いでしょう。
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こちらの常磐道から三郷ICを経て東京銀座方面に首都高6号線を通ることが何度かありますが、一旦荒川を渡る橋の上から見るスカイツリーはとても綺麗に見えます。
その先隅田川に沿って走りますので、向島の先浅草近辺では目の前にツリーはそびえて見えてきます。
この辺りでは少し近すぎてカメラでは撮りにくそうです。
もっとも高速道路での運転中には写真を撮ることは出来そうにありませんので写真はありません。
また東京駅行きの高速バスにもよく乗りますが、これも土曜日には浅草経由なので目の前にツリーを見上げることもできます。
(追記)本記事に写真がないとさみしいと思っていたら、写真を提供いただきました。忠顕さまありがとうございました。(下記写真はサムネルです。クリックで拡大します)

本写真は首都高速6号向島線の上りの向島出口手前です。
東京行きのバスはここ向島で高速を下りて浅草を経由します。その時は目の前にスカイツリーが見えます。
本写真はまだ建設中で最後の塔の部分はありません。(ここまで追記)
しかし、この東京スカイツリーの高さが634mでムサシ=武蔵国のことだということは各所で宣伝されていますので知られるようになりましたが、私も隅田川に架かる「言問橋(ことといばし)」「吾妻橋=業平橋」などの名前の由来はうっすらと知る程度でした。
押上線の「業平橋駅」が「東京スカイツリー駅」に改名されたのですが、業平の名前を消したくないと反対の抗議もあって、「東京スカイツリー駅 旧業平橋」と旧名も残すことになったそうです。
この辺の歴史を調べてみるととても興味深いことがたくさんあります。
ひとつは在原業平(ありわらのなりひら)が伊勢物語九段東下りで詠んだ
「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
の短歌が基になっているわけですが、この歌そのものの意味はある程度ご存知の方も多いと思われますが、平安時代初期の西暦800年初頭に都(京都)から武蔵国にはるばるとやってきた心を思うとき、意味もわかってくるように思います。
さて私の興味は、この東下りで業平は下総国から武蔵国に舟で渡ったのか、その逆なのかということです。
伊勢物語には詳しく書かれていません。
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なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河と言ふ。
その河のほとりに群れ居て思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡し守、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ。」と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。(伊勢物語九段より)
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この九段で東下りで、この武蔵国までに間に駿河を通り富士山を眺めてやってきました。
九段のあとには入間や武蔵野がでてくるから武蔵の国に下総国から入ってのだろうと思います。
東京湾を船でわたって上総国(市原)から下総(市川)を通ってここで隅田川を渡って武蔵国に入ってのではないでしょうか。
しかし、徳川家康が江戸に幕府を築き、この隅田川(旧利根川の一部?)に架かる橋は千住より南には城の守りを固めるために架けさせなかったそうです。
しかし、1657年正月に起きた江戸市中の大火で逃げ場を失った人たちが多数(数万人)死亡(水死)したといわれています。
この大火で、江戸幕府はここに橋を架けることを決め、1年後の春に大橋が完成したのです。
最初は大橋と呼ばれていましたが、この橋が昔の下総国と武蔵国をつなぐ橋であったことから「両国橋」と呼ばれるようになったそうです。
そしてこの橋の名前から地名として「両国」が誕生しました。
両国といえば相撲と隅田川の花火大会ですが、この花火は享保18年(1733)に始まり、橋の上流側を「玉屋」、下流側を「鍵屋」が受け持つこととなっていました。
玉屋は1843年に一時断絶しますが、花火店として玉屋は残っていったようです。
花火の費用も大変なもので、当時の両国界隈の船宿などが多額の出費をしていたようで、相当に賑わっていたようです。
さて、もう一つ面白いことに、この都鳥ですが、今一般に名前の付いている都鳥とは違うようです。
「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ」という姿は、都鳥ではなく「ユリカモメ」ではないかと言われています。
是非ムサシ(634m)を知ったのなら、この平安時代の東国のウラ悲しい風情や江戸時代の賑わい等も思い浮かべてみるのも良いでしょう。


霞ヶ浦の水門
徳川家康は江戸の治水のため、現在の東京湾に注いでいた暴れ川といわれる「利根川」の流れを常陸川に合流させ、銚子の方に変えさせる命令を出した(1590年)。
これは水路で江戸に物資を運ぶためのルート確保の役割もあり、寛文5年(1665年)、境町・関宿間に江戸川を移し権現堂川を締め切ることで、霞ヶ浦や銚子からの物資を関宿を通って江戸川を経由して江戸へ運ぶ水運の大動脈が完成した。
元々は縄文海進でこの香取海流域は湿地帯で稲作もあまり盛んではなかったようだが、この利根川の東遷事業で肥沃な土砂が堆積し、広大な稲作の地帯が出現した。
しかし、利根川の逆流などで各地で洪水は頻繁に発生し、治水対策が明治になっても続けられた。
下の写真は現在の霞ヶ浦や利根川の下流地帯の写真であるが、この利根川等に架かる橋を書き込んでみた。
(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)

大きな橋は下流から「銚子大橋」「利根かもめ大橋」「利根川大橋・常陸川大橋」「小見川大橋・息栖大橋」となっている。

水門があるのは利根川と常陸川が合流する手前の「利根川大橋・常陸川大橋」のところに設置されています。河口からは18.5km上流にあります。
上の写真は利根川大橋です。この手前側に常陸川大橋があり、こちらも同じような水門が並んでいます。

水門の東側(海側)は波が押し寄せても水門の上流側には水流の逆流がない。
この道路の上から見ると左右でその違いがすぐにわかるほどだ。
この道路は利根川と常陸川に挟まれたデルタ地帯のちょうど一番先端に当たる。
この水門は昭和40年(1965年)12月に着工し、昭和46年(1971年)1月に完成している。
最大の目的は塩分濃度の調節(水田の塩害防止)にあるそうです。
それまでは利根川の香取付近や霞ヶ浦の北浦などで塩害の被害が度々あったそうです。
水門は自動制御され、自家発電施設も備えており、停電時も確実に制御されているとともに、今まで地震でも問題になったことはないという。
川の水量が多く洪水の心配があるときは全ての水門が全開となるが、利根川流域の洪水防止は堤防の整備もさることながら昭和3年に完成した利根川上流の権現堂川を仕切って廃川として調整池の役割を持たせたことも大きいようです。
でも、この水門が出来てから霞ヶ浦の自然環境は大きく変わってしまいました。
ウナギなどの海からの遡上が仕切られてしまったことや、霞ヶ浦の漁や湖岸に生える植物等も大きな変化があったといいます。
少しずつでも理解してどうするのが私たちにとって良いのかも考えてみたい。

この上の写真は2000年に完成した有料(普通車200円)の「利根かもめ大橋」です。
ここから10km程海寄りの銚子大橋の交通量が多く、この混雑緩和を狙ったそうですが、有料であるため通行量は1日4000台に満たないそうだ。
都市の中心部を通らない中途半端な有料の橋のため、見たときも通行する車は少ないように見えた。
元々銚子大橋が完成したのは昭和37年(1962)で、当初は有料道路だった。
この料金は30年で償還する予定が、通行料が増えて12年後の昭和49年(1974)に無料となった。
通行量は現在1日に約26000台あるという。
かもめ大橋はできたのだが、あまり通行量はなく、こちらの銚子大橋は交通の動脈となっている。
その銚子大橋も1年程前に行った時には架け替えの工事をしていた。
現在は新しい銚子大橋が2010年12月に一部が開通し、今年春には全線開通するはずである。
霞ヶ浦の西側に二橋を架ける運動が行われていることは先日書いたが、このような他の橋やその歴史等も見ておく必要がありそうだ。
それにしてもこの利根川下流地帯は水田が一面に広がっていて、今では大きなコメの産地になっていると思う。
詳しいことは分からないが、米の戸別所得補償制度等に対する取り組み方を見る時、この地帯の動きも興味深い気がします。
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これは水路で江戸に物資を運ぶためのルート確保の役割もあり、寛文5年(1665年)、境町・関宿間に江戸川を移し権現堂川を締め切ることで、霞ヶ浦や銚子からの物資を関宿を通って江戸川を経由して江戸へ運ぶ水運の大動脈が完成した。
元々は縄文海進でこの香取海流域は湿地帯で稲作もあまり盛んではなかったようだが、この利根川の東遷事業で肥沃な土砂が堆積し、広大な稲作の地帯が出現した。
しかし、利根川の逆流などで各地で洪水は頻繁に発生し、治水対策が明治になっても続けられた。
下の写真は現在の霞ヶ浦や利根川の下流地帯の写真であるが、この利根川等に架かる橋を書き込んでみた。
(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)

大きな橋は下流から「銚子大橋」「利根かもめ大橋」「利根川大橋・常陸川大橋」「小見川大橋・息栖大橋」となっている。

水門があるのは利根川と常陸川が合流する手前の「利根川大橋・常陸川大橋」のところに設置されています。河口からは18.5km上流にあります。
上の写真は利根川大橋です。この手前側に常陸川大橋があり、こちらも同じような水門が並んでいます。

水門の東側(海側)は波が押し寄せても水門の上流側には水流の逆流がない。
この道路の上から見ると左右でその違いがすぐにわかるほどだ。
この道路は利根川と常陸川に挟まれたデルタ地帯のちょうど一番先端に当たる。
この水門は昭和40年(1965年)12月に着工し、昭和46年(1971年)1月に完成している。
最大の目的は塩分濃度の調節(水田の塩害防止)にあるそうです。
それまでは利根川の香取付近や霞ヶ浦の北浦などで塩害の被害が度々あったそうです。
水門は自動制御され、自家発電施設も備えており、停電時も確実に制御されているとともに、今まで地震でも問題になったことはないという。
川の水量が多く洪水の心配があるときは全ての水門が全開となるが、利根川流域の洪水防止は堤防の整備もさることながら昭和3年に完成した利根川上流の権現堂川を仕切って廃川として調整池の役割を持たせたことも大きいようです。
でも、この水門が出来てから霞ヶ浦の自然環境は大きく変わってしまいました。
ウナギなどの海からの遡上が仕切られてしまったことや、霞ヶ浦の漁や湖岸に生える植物等も大きな変化があったといいます。
少しずつでも理解してどうするのが私たちにとって良いのかも考えてみたい。

この上の写真は2000年に完成した有料(普通車200円)の「利根かもめ大橋」です。
ここから10km程海寄りの銚子大橋の交通量が多く、この混雑緩和を狙ったそうですが、有料であるため通行量は1日4000台に満たないそうだ。
都市の中心部を通らない中途半端な有料の橋のため、見たときも通行する車は少ないように見えた。
元々銚子大橋が完成したのは昭和37年(1962)で、当初は有料道路だった。
この料金は30年で償還する予定が、通行料が増えて12年後の昭和49年(1974)に無料となった。
通行量は現在1日に約26000台あるという。
かもめ大橋はできたのだが、あまり通行量はなく、こちらの銚子大橋は交通の動脈となっている。
その銚子大橋も1年程前に行った時には架け替えの工事をしていた。
現在は新しい銚子大橋が2010年12月に一部が開通し、今年春には全線開通するはずである。
霞ヶ浦の西側に二橋を架ける運動が行われていることは先日書いたが、このような他の橋やその歴史等も見ておく必要がありそうだ。
それにしてもこの利根川下流地帯は水田が一面に広がっていて、今では大きなコメの産地になっていると思う。
詳しいことは分からないが、米の戸別所得補償制度等に対する取り組み方を見る時、この地帯の動きも興味深い気がします。


出島散歩(34)-出島の椎
出島散歩ももう終わりにしようと思いましたが、まだ少し記事が残っていますので2~3回続けたいと思います。
それにしても、何もないと思っていたこのかすみがうら市の旧出島地区には掘り起こしたいものが沢山埋まっています。

出島の内陸部の下軽部にある「長福寺」に樹齢700年の「出島の椎」の木が残されていると知って、やはり見ておかねば片手落ちになると思い連休中に出かけてみました。

この「出島の椎(しい)」と呼ばれるだけありものすごい幹の根の張り方です。
すでに上の方の枝が一部ありません。
スタジイの木は300年~400年程のものは古い神社等で威容を誇っているのですが、700年というのは初めてです。
これも千葉県の匝瑳市(そうさし)にある安久山に樹齢1000年のシイの木があるそうですので、それには及びませんが、すごい木=気です。

ここ長福寺についてはまた明日にでも紹介したいところがありますが、本日はこの古木です。
根元に祠が置かれており、この木の周りにはたくさんの石仏が取り囲んでいます。

この石仏ですが、どうやら弘法大師様のようです。
調べてみると、
「長福寺住職の正応上人が1767年(明和4)、四国遍路から持ち帰った札所の砂、土、お札を根元に埋め、弘法大師の石造88体をシイの木の周囲に並べ「木の周りを回ればお遍路さんと同じご利益がある」と伝えた」
(常陽リビング 茨城歴史散歩より)
と書かれていました。やはり弘法大師さんです。

この巨木から湧いてくるパワーを囲んで、まわりの仏様がお経を上げているのでしょうか。
このようなものは初めて見ました。
一見の価値ありでしょう。

毎日記事をUPしていますが、さすがに記事を書く時間が足りなくなってきました。
ひとつの記事は2時間近くかかります。
調べ始めたらその倍かかることもよくあります。
今日アクセスカウンタが13万を越えました。(記録として残しています)
10万アクセス:1月5日
12万アクセス:3月24日
13万アクセス:5月8日
さて、11万アクセスはいつだったか?? 記録しなかった。
記事をストップすると、書くのをやめてしまうのではないかと言われ、もう少し頑張っていこうと思っています。
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それにしても、何もないと思っていたこのかすみがうら市の旧出島地区には掘り起こしたいものが沢山埋まっています。

出島の内陸部の下軽部にある「長福寺」に樹齢700年の「出島の椎」の木が残されていると知って、やはり見ておかねば片手落ちになると思い連休中に出かけてみました。

この「出島の椎(しい)」と呼ばれるだけありものすごい幹の根の張り方です。
すでに上の方の枝が一部ありません。
スタジイの木は300年~400年程のものは古い神社等で威容を誇っているのですが、700年というのは初めてです。
これも千葉県の匝瑳市(そうさし)にある安久山に樹齢1000年のシイの木があるそうですので、それには及びませんが、すごい木=気です。

ここ長福寺についてはまた明日にでも紹介したいところがありますが、本日はこの古木です。
根元に祠が置かれており、この木の周りにはたくさんの石仏が取り囲んでいます。

この石仏ですが、どうやら弘法大師様のようです。
調べてみると、
「長福寺住職の正応上人が1767年(明和4)、四国遍路から持ち帰った札所の砂、土、お札を根元に埋め、弘法大師の石造88体をシイの木の周囲に並べ「木の周りを回ればお遍路さんと同じご利益がある」と伝えた」
(常陽リビング 茨城歴史散歩より)
と書かれていました。やはり弘法大師さんです。

この巨木から湧いてくるパワーを囲んで、まわりの仏様がお経を上げているのでしょうか。
このようなものは初めて見ました。
一見の価値ありでしょう。

毎日記事をUPしていますが、さすがに記事を書く時間が足りなくなってきました。
ひとつの記事は2時間近くかかります。
調べ始めたらその倍かかることもよくあります。
今日アクセスカウンタが13万を越えました。(記録として残しています)



さて、11万アクセスはいつだったか?? 記録しなかった。
記事をストップすると、書くのをやめてしまうのではないかと言われ、もう少し頑張っていこうと思っています。


出島散歩(35)-長福寺
昨日の「出島の椎」の続きです。
今日はこの樹齢700年以上というシイの大木のある「長福寺」を紹介します。
昨日載せた写真にこの寺の説明も書かれていました。
「長福寺は、真言宗豊山派の寺で、かつては十万石の格式を供え、南大門を有し、本堂は間口十八間、奥行十間、九尺の縁廻し、総けやきの荘厳な寺院でしたが、度々の火災により、宝篋印塔(ほうきょういんとう)と山門、そしてこの「出島の椎」に昔日を偲ぶばかりであります。かすみがうら市教育委員会」

末寺の数もかつては36もある由緒ある寺だったといいます。
この山門も趣のある歴史を感じます。

横から見ると厚みのある屋根の形はとてもいいです。

下の写真は宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。上の部分の相輪部分の写真が切れてしまいました。

少し全体のイメージがわかるように写真を撮ってみました。

宝篋印塔は鎌倉時代以降に密教系のお寺では各地に建てられているそうです。

この長福寺は以前の出島散歩で細野冉兵衛と百姓一揆の話(こちら)を書いた時に出てきました。
一揆の首謀者として25歳の若さで処刑された「貝塚恒助」の墓があると思ってやってきたのですが、よくわかりませんでした。
他の記事などによると近くにある墓地に葬られているようです。
いま寺は申し訳程度の小屋があるだけです。

この寺に来るには途中ゴルフ場の入口前を通り越して少し言ったところから少し狭い道を入った突き当りになります。
このような場所になぜあったのだろうか。昔は道も続いていたのだろうか。
車社会になると、このような歩く道は廃れてしまい、昔の道のつながりが見えなくなってしまう。
入口の近くの民家に咲いていたダリアが綺麗だったので思わず、写真に残してきました。
雨が上がったばかりの時でまだ水滴がついています。

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昨日載せた写真にこの寺の説明も書かれていました。
「長福寺は、真言宗豊山派の寺で、かつては十万石の格式を供え、南大門を有し、本堂は間口十八間、奥行十間、九尺の縁廻し、総けやきの荘厳な寺院でしたが、度々の火災により、宝篋印塔(ほうきょういんとう)と山門、そしてこの「出島の椎」に昔日を偲ぶばかりであります。かすみがうら市教育委員会」

末寺の数もかつては36もある由緒ある寺だったといいます。
この山門も趣のある歴史を感じます。

横から見ると厚みのある屋根の形はとてもいいです。

下の写真は宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。上の部分の相輪部分の写真が切れてしまいました。

少し全体のイメージがわかるように写真を撮ってみました。

宝篋印塔は鎌倉時代以降に密教系のお寺では各地に建てられているそうです。

この長福寺は以前の出島散歩で細野冉兵衛と百姓一揆の話(こちら)を書いた時に出てきました。
一揆の首謀者として25歳の若さで処刑された「貝塚恒助」の墓があると思ってやってきたのですが、よくわかりませんでした。
他の記事などによると近くにある墓地に葬られているようです。
いま寺は申し訳程度の小屋があるだけです。

この寺に来るには途中ゴルフ場の入口前を通り越して少し言ったところから少し狭い道を入った突き当りになります。
このような場所になぜあったのだろうか。昔は道も続いていたのだろうか。
車社会になると、このような歩く道は廃れてしまい、昔の道のつながりが見えなくなってしまう。
入口の近くの民家に咲いていたダリアが綺麗だったので思わず、写真に残してきました。
雨が上がったばかりの時でまだ水滴がついています。



出島散歩(36)
茨城県かすみがうら市の旧出島村(合併前は霞ヶ浦町)の埋もれた魅力を掘り起こそうと約2ヶ月に渡り紹介をしてきました。
この地区は明治後半からの鉄道の発達に伴う霞ヶ浦水運の衰退、及び車社会の発達によりどこかに置き忘れられてきたような地区でもあります。
一般の観光という面ではそれ程魅力のある地区ではないかもしれません。
しかし、そこを何気なく訪れて散策してみると、今では忘れられてしまった昔の人たちの生活が見えてくる場所ではないかと思えてきます。
ここを探索してみようと思ったきっかけは、平安時代やそれ以前の古東海道がこの出島地区を通っていたかもしれないとの思いでした。
しかし、その痕跡を見つけることはできませんでした。そしていまだ霧の中にあります。
でもこの地区を何気なく掘り起こしてみたら、これはとても素晴らしい内容が掘り起こされてきました。
まだまだ掘り起こしが足りないようでもありますが、こんな一見つまらなそうなところにたくさんの宝物が眠っています。
ということは、その他のところにも同じような宝物がいっぱいあるように思います。
私が掘り起こせるのはほんの少しばかりです。
皆さんももし興味がおありなら身近な場所を少し掘り起こしてみませんか?
何気なく掘り起こしてみると意外にも向こうから語りかけてきますよ。
最後に出島地区の関連地名入り地図を載せておきます。

地図を作成していて懐かしいところがたくさん思い浮かんできます。
かなり色々なところを掘り起こしてきたなと思います。
紹介できなかったところもたくさんありますが、これはまたの機会とします。
出島シリーズはここまでとします。
じっくりと振り返るとなにか見えてくるかもしれません。
時間が許すときにまた掘り起こせたらいいなと思います。
最後に歩崎観音に近い田伏地区の「鹿島神社」を紹介します。

田伏地区も霞ヶ浦大橋の近くに田伏城があった(現在の実伝寺裏山あたり)場所ですが、この鹿島神社は湖岸に近い場所にあります。
湖岸のそばの神社はこのように松が植えられている場合がほとんどです。

創建は承平7年(937)とされていますので、古くからあるのでしょうが、詳細は不明です。

神社の狛犬。堂々としていますね。
しかし、この神社には少し変わったものがあります。

太白(たいはく?)流の和算で解いた算問の解き方を額にして神社に奉納したもののようです。
日本の算数については江戸時代に盛んになり、関孝和が始めた関流がもっともよく知られています。
しかし、私には関流も太白流も違いがわかりません。
算数の難題が解けたことを感謝して神社に「算額」を絵馬と同様に奉納することは全国でおこなわれているそうです。
全国に975面の算額が現存している(『例題で知る日本の数学と算額』森北出版)そうですが、この出島地区でもこの和算を熱心に学んでいた人たちがいたことは今となっては驚きです。

神社の御神木でしょうか、古木(タブノキ?、スタジイ?)の根元には祠が置かれていました。
写真でもわかるようにこの場所は平地で、湖までとの間に田が広がります。
しかし、この神社ができた頃はきっとこの場所が湖に面していたのでしょう。
祭礼は10月28~30日で、当屋(とや)祭というお祭だそうです。
昔は盛大におこなわれていたようですが、最後の直会(飲食会)は中止となったようです。
昔は火を炊いてその周りで酒を飲んだのでしょうか。
最近は直会が行われているところでもみな公民館や集会所のようなところでやっていますね。
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一般の観光という面ではそれ程魅力のある地区ではないかもしれません。
しかし、そこを何気なく訪れて散策してみると、今では忘れられてしまった昔の人たちの生活が見えてくる場所ではないかと思えてきます。
ここを探索してみようと思ったきっかけは、平安時代やそれ以前の古東海道がこの出島地区を通っていたかもしれないとの思いでした。
しかし、その痕跡を見つけることはできませんでした。そしていまだ霧の中にあります。
でもこの地区を何気なく掘り起こしてみたら、これはとても素晴らしい内容が掘り起こされてきました。
まだまだ掘り起こしが足りないようでもありますが、こんな一見つまらなそうなところにたくさんの宝物が眠っています。
ということは、その他のところにも同じような宝物がいっぱいあるように思います。
私が掘り起こせるのはほんの少しばかりです。
皆さんももし興味がおありなら身近な場所を少し掘り起こしてみませんか?
何気なく掘り起こしてみると意外にも向こうから語りかけてきますよ。
最後に出島地区の関連地名入り地図を載せておきます。

地図を作成していて懐かしいところがたくさん思い浮かんできます。
かなり色々なところを掘り起こしてきたなと思います。
紹介できなかったところもたくさんありますが、これはまたの機会とします。
出島シリーズはここまでとします。
じっくりと振り返るとなにか見えてくるかもしれません。
時間が許すときにまた掘り起こせたらいいなと思います。
最後に歩崎観音に近い田伏地区の「鹿島神社」を紹介します。

田伏地区も霞ヶ浦大橋の近くに田伏城があった(現在の実伝寺裏山あたり)場所ですが、この鹿島神社は湖岸に近い場所にあります。
湖岸のそばの神社はこのように松が植えられている場合がほとんどです。

創建は承平7年(937)とされていますので、古くからあるのでしょうが、詳細は不明です。

神社の狛犬。堂々としていますね。
しかし、この神社には少し変わったものがあります。


太白(たいはく?)流の和算で解いた算問の解き方を額にして神社に奉納したもののようです。
日本の算数については江戸時代に盛んになり、関孝和が始めた関流がもっともよく知られています。
しかし、私には関流も太白流も違いがわかりません。
算数の難題が解けたことを感謝して神社に「算額」を絵馬と同様に奉納することは全国でおこなわれているそうです。
全国に975面の算額が現存している(『例題で知る日本の数学と算額』森北出版)そうですが、この出島地区でもこの和算を熱心に学んでいた人たちがいたことは今となっては驚きです。

神社の御神木でしょうか、古木(タブノキ?、スタジイ?)の根元には祠が置かれていました。
写真でもわかるようにこの場所は平地で、湖までとの間に田が広がります。
しかし、この神社ができた頃はきっとこの場所が湖に面していたのでしょう。
祭礼は10月28~30日で、当屋(とや)祭というお祭だそうです。
昔は盛大におこなわれていたようですが、最後の直会(飲食会)は中止となったようです。
昔は火を炊いてその周りで酒を飲んだのでしょうか。
最近は直会が行われているところでもみな公民館や集会所のようなところでやっていますね。

