旧小川町の街並み

 昨日紹介した小川素鷲神社はスサノオノミコトを祀る素鷲神社と境内に櫛稲田姫を祀る稲田神社が一緒になっている。
神社の説明では、両方をお参りすれば男女の絆が深まり幸せになれるとか・・・。

まあ今更でもないが、しっかりお参りしておきましたよ。

この素鷲(そが)神社と隣の小川小学校の敷地は昔、園部城があった場所で、その後医学の学校ができた。
これについてはかなり特筆すべき内容なので、後ほど紹介したいと思います。

今日は近くの街並みを少しだけ紹介しましょう。

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ここは内山家具屋さんの横の通りを少し登ったところです。
古い町並みです。

内山家具屋さんももう20年以上前に一度子供の机か何かを購入したことがあった。
それから毎年年賀状が来ていたが、こちらも引っ越したので今は何もない。

昔はもう少しまわりも賑やかっだたように思うが・・・。

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このような蔵は石岡と同じですが、鹿島鉄道が廃止されて、だんだん街がさみしくなっているような気もします。

茨城空港には近いのでまた復活してもらいたいものです。

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坂の途中の脇道から入ったところにあったものですが、「台之坊本尊薬師如来参道」と書かれています。
ネットで探してみたが、謂れもわからなかった。

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まあ、ほかに紹介されていないのだから、写真をUPしておけばそのうちわかるかもしれない。

明日は近くでまた面白いものを見つけたのでそちらも紹介します。



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小川地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2012/06/01 18:43

天聖寺跡1(旧小川町)

 昨日旧小川町の街並みの一部を紹介しましたが、その通りを少し先に行った先に醤油の工場「幡谷本店」があったのですが、見落としました。
しかし、同じ通りに旧小川町の歴史のいったんを知る貴重な場所がありました。

私が知る旧小川町のイメージは自衛隊の百里基地(現在では茨城空港併設)のある場所で、中世の園部城があったくらいで、石岡と小川を結ぶ小川街道沿いには飲食店や飲み屋さんも多いところだというくらいでした。

しかし、偶然見つけたこの場所で、私の頭から欠落していた歴史が見えてきたのです。

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古い家並みの間に狭い路地があり、入口に「天聖寺斎場表参道」と書かれた石柱が立っています。

なに! 斎場ということは・・・・

普通なら入らないところですが、その先の石段脇にたくさんの石板や石仏が見えますので、恐る恐る中に入ってみました。

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何やら、上り階段(ここは寺の参道?)の脇には古めかしい石碑や仏像などが所狭しと並んでいます。

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そして、階段の登り口には禅寺で前に見かけたのと同じ「不許葷酒入山門」の文字が読めます。
これは前に古渡(ふっと)の興善寺や出島の田伏の実伝寺の山門にあったものと同じです。

「葷酒(くんしゅ)(ニンニクなどのくさい匂いをさせた者や酒を飲んでいる者)はこの山門から先に入ることを許さない」という意味でしたね。
何度か勉強したので覚えています。

昔はここに山門があったのでしょう。

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ここから先の石段の両脇にはこのような石仏に混ざってたくさんの石板が並んでいます。
これは墓石なのか、塔婆のようなものなのかはわかりませんが、あまり写真におさめるものではないかもしれません。

嫌いな方は無視くださいね。

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右側も同じです。

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この参道脇にずうっと続いています。

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何か不気味でもありますが、こんな光景は見たことありません。

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これは庚申像(青面金剛と三猿)ですね。やっと覚えました。

よく見るとあちこちにあるんですね。

階段を上った先に、この場所にあった「天聖寺」のことが書かれていました。

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説明の内容を理解するのに少し時間がかかりましたが、小川町の江戸時代から明治はじめまでの歴史の一端が見えたように思えました。

わかりにくく書かれているので要約してみると、

「この寺の開祖は水戸の祇園寺の第三世和尚である蘭山和尚が宝永4年(1707)に水戸義公(光圀)の取りなしで、88歳の高齢でこの場所に移ってきたのが始まりだという。

この蘭山和尚は元々は京都の名僧であったが、江戸に出てきた時に水戸光圀に認められて、僧籍のままで光圀の大日本史編纂を助けていたそうです。

そして、それから30石以上の寺領を与えられ、禅寺として14世に渡って発展を遂げてきたといいます。

しかし、幕末の天狗騒動で天狗党の棲家となってその後荒廃してしまい火災が起こって廃寺になったのだそうです。」

しかし、今となっては墓地のみとなってしまった天聖寺の跡地を近くに来たら行ってみませんか?

まあそれほど嫌いではない方のみにおすすめします。

あすへ記事は続きます。


小川地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/06/02 18:48

天聖寺跡2-天妃(海洋の女神)

 昨日の続きです。

今日は旧小川町の天聖寺に伝わる「天妃尊」像についての話です。

調べていったわけではないので、偶然見かけたものなのですが、とても興味が湧きました。

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石段を登った上にこのような小さな石の保管庫が置かれています。

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扉は開いておりませんが、説明板が置かれていました。「天妃尊」と書かれています。

この短い説明文だけでは内容がよくわかりません。調べてみる必要がありそうです。

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この天妃は中国の海洋航海の女神だそうで、いまでも台湾にはたくさん信仰があるそうです。

参考資料:「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面

これによれば、天妃は媽祖(まそ)という道教の女神と同一で、中国の福建省に10世紀に実在した娘(黙娘)が神通力を得て奇跡をおこしたことなどから信仰の対象となっていったようです。

これが日本にも伝わり、ヤマトタケルの東征時に東京湾で入水して波を沈めたという弟橘姫伝説と一体となって信仰の対象となっていったということのようです。

この小美玉市の天聖寺に伝わったのは、江戸前期に清より伝わり、水戸義公(光圀)によって水戸の祇園寺に祀られ、その後その像を模して北茨城の弟橘神社、大洗の弟橘比売神社(天妃神社)、とここ小川の天聖寺に像が置かれたようです。

また、日本の信仰と一体となって神道の信仰に取り入れられていったようです。

神道を裏付けるようにこの寺の墓には次のような墓石がたくさんありました。

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神道の墓には、仏教の戒名に当たるような決まりがあり、翁は老人男子、刀自(とじ)は老年女子のことだそうです。

たくさんの墓にこの文字が書かれていました。

調べた時に参考とさせていただいた前述の論文は関西大学のものですが、この中にこれらの寺などが置かれている場所の位置と海岸までの距離を地図でみて判定したところがありましたが、残念ながら現在の地図で判定したのではこの小美玉市の寺はきっと理解できないようです。

海岸(霞ヶ浦湖岸)まで2KM以上離れているとなっています。
でもこれは前にも書いたとおり、この園部川の河口付近が昔は大きな入江になっていたと思われるのです。

また、この小川が江戸時代の水戸と江戸を結ぶ海洋ルートの重要な港になっていたということを忘れてはいけないようです。

そのために水戸藩がこの小川の地を治めたのでしょう。

水戸藩とのつながりが強かったものと思われます。

江戸との物資運搬は、外洋航路が安定して行えるまでは、水戸から船で那珂湊より涸沼に入り、その先で陸でこの小川または鉾田に荷を運び、そこでまた船に載せ霞ヶ浦水運で利根川経由で江戸に運んでいたようです。

長い間、このルートが発達していたのですが、明治中頃に開通した鉄道に押され、この小川町は鉄道からも離れてしまいました。

やっとできた鹿島鉄道はこの小川の駅は「常陸小川駅」という名前で、設置されたのは隣町の玉里村でした。
この時にも、小川は水運の湊の意識が強く、駅は隣町になったとも言われているようです。

この鹿島鉄道も今はありません。

しかし、幡谷町長の時に大変な反対運動もあったようですが、自衛隊の百里基地を誘致して財政は大分助かったようです。

この幡谷仙三郎氏の碑が茨城空港のファントム展示場のすぐ近くに昨年秋に作られています。

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小川地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/06/03 17:23

稽医館(小川)

 ここ数日にわたって現小美玉市の旧小川町の紹介をしています。
今日も、訪れて初めて知ったことを紹介します。

(小川)稽医館(けいいかん)という医学の研究所があったことを知っているだろうか?
小川の方なら多くの人が知っているのかもしれませんね。

先日訪れた小川素鷲神社の隣に小川小学校があります。

この小学校の敷地は中世は園部城があった場所で、江戸時代になり運送庁の使われなくなった建物があったようです。

そこに文化元年(1804)に水戸藩の施設として医学研究所が設立され、後に烈公(徳川斉昭)に稽医館という名前を授けてもらったという。

この時に医学の神様の名前を書いた斉昭の書が残されているという。

この医学の神様は「大穴牟遅神(おおなむじのかみ) =大国主命」と「少名毘古那神=少名彦名命」です。

この医学研究所は水戸藩の最初の郷校(今で言う学校。水戸藩の教育機関)である「小川郷校」にも後になったようです。

小川小学校の敷地に碑が置かれていると書かれていましたが、今回見ていません。

稽医館は当時としては最先端の医療研究をしていたようで、主な研究テーマは種痘や外科手術だったといいます。

稽(けい)というと稽古の稽ですが、稽える=考える という意味のようです。

実はこの稽医館の存在は、天聖寺の墓地にある本間家の墓所に掲げられた説明板に書かれていたことで知ったのです。

雑誌「常陽藝文」の4月号に「郷土の医事先駆者たち」という特集記事が掲載されました。

そこに本間玄調という名医が紹介されています。

記事では本間家八代の本間玄調はこの稽医館が設立された1804年に生まれ、水戸藩医の原南陽に学び、江戸や京都の名医の門をたたき、紀州の華岡青洲や長崎にいたシーボルトにも師事したそうです。
そして、脱疽の重症患者を救うために、日本初の下肢切断(足の切断)手術に成功した人物だそうです。

その後、斉昭の招きで水戸弘道館の医学館教授を勤め、天然痘の予防接種を広めるのに貢献したといいます。
また膀胱結石の手術や肺結核の治療に取り組みました。

この本(藝文)は常陽銀行の各支店には無料で閲覧出来るように置かれていると思いますので、興味のある方は読んでみてください。

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上は天聖寺にある本間家の墓所に書かれていた説明文です。

本間家6代の道意の時にこの小川に移り住み、玄調の父玄有(8代)、祖父玄琢(7代)が稽医館を開いたのです。

また、水戸市三の丸の三の丸小学校の前に本間玄調の立像が置かれているそうです。

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さて、ここに掲げられている芭蕉の歌に弟子の曽良とともに、潮来の医師「本間道悦=本間家一代」(号は松江)の歌が載っています。

芭蕉はこの道悦に医術の知識を学んだとも言われ、芭蕉がこの道悦を訪ねて潮来に来た時に、鹿島方面にも行ったようです。

鹿行地域(鹿島・行方)に行くと、芭蕉の句碑がいくつかあります。
これが皆、芭蕉がこの本間道悦という医者と交流があったためだと知りました。

潮来にある長勝寺にも上の歌の句碑が置かれているそうです。

また本間道悦の墓は牛堀の長国寺にあるとかかれていました。

牛堀町は潮来町と合併しましたが、富嶽三十六景の「常州牛堀」に描かれている場所でもあります。

これで今までの記事ともつながりました。

1、鉾田市の月蔵寺の芭蕉句碑。

2、息栖神社の芭蕉句碑

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小川地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/06/04 18:47

福性寺(茨城町)

 今日は茨城町の福性寺(ふくしょうじ)を紹介します。

石岡の方から355号線のバイパスをまっすぐ笠間方面に進み、岩間駅近くで常磐高速の岩間のIC方向に曲がってまっすぐ進むと石塚街道(石岡~城里町石塚)と交差する交差点が「俎倉(まないたくら)」という地名になっている。

これもまた面白い地名だと気になっているがいわれはわからない。
この俎倉をそのまま進み次のコンビニより左折するとそこが県道59号線(玉里~水戸)になる。

近くに「ポケットファームどきどき」という施設があるので、知っておられる方も多いと思う。

この道を水戸方面に進むと北関東道の北茨城西ICへ行くが、現在このIC近くは工業団地計画が進められている。
東京までの高速バスもIC近くに駐車場がありここに車をおいてバスに乗ることができる。

今日紹介するのは、この道を水戸方面に用事があり車で出かけた時に偶然信号で停車したところに案内板がでていたのでよってみることにしたのである。

この寺は思わぬ収穫であった。

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寺の正式名称は「三池山普門院福性寺」という天台宗の寺だ。

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天台宗開宗1200年慶賛記念事業として、2007年に本堂・客殿が新築され新しくなっていました。
あまり新しいものは写真に残しませんでしたが、周りはとても趣のある寺です。
これは入口山門手前に置かれた六地蔵です。

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本堂には平安時代の一木造りの如来像が安置されているというので室町時代にはこの寺はあったのだろうと思います。

境内には鎌倉時代の板碑や南北朝時代の五輪塔が町の文化財としてあるそうです。

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観音堂。この寺の向かい側に「飯沼城跡」がある。
こちらはまた紹介するが、中世の城である。
この城の奥方の安産を祈願して建てたと伝えられる。

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こちらが御神木でしょうか。

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こちらの木(杉?)もかなり大きく枝ぶりも立派ですが、このように枝は支え棒で保護されています。

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鐘楼です。奥に見えるのは右手が観音堂で左手が本堂です。

もう少しよく調べてみたいが、よくわからない。
まずは紹介だけとしよう。そのうちにまたわかってくるかもしれない。

でもこんなところにと思われるくらい雰囲気の良い寺です。
お近くを通ったら寄ってみてください。



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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/05 19:15

飯沼城跡(茨城町)

 昨日紹介した「福性寺」の入口前の通りの反対側に小山があり、飯沼城跡と書かれています。

あまり聞いたことのない中世の城の名前だ。

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茨城町史跡となっています。入口はきれいに整備されています。
中世の城跡はあまり整備されていないところがほとんどですからここはきれいです。

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階段を上ると、上は公園風な台地になっており、真ん中に説明看板が置かれていました。
書かれたものが少し読みにくいのでここに転載します。

「飯沼城は、通称飯沼館あるいは桜井氏の館跡とも呼ばれている。戦国時代ころには、図のように三つの郭があったが、現在は本丸だけが、当時のようすを伝えている。
 広さは約五十メートル四方で、郭の周囲や、その外側にも土塁がめぐらされていた。
東北の邦楽(鬼門)にある鹿島神社は、城の鎮護のために祀られ、また下門(げもん)の地名は、南側の城域を示していると思われる。
 城域などから発見された三筋壺(さんきんこ 平安時代)や五輪塔(南北朝~室町時代初期)などから、福性寺との密接なつながりが想像される。
福性寺の記録によると、南北朝時代には南朝方に属し、また戦国時代の城主として桜園氏の名が記されている。
文明年間(1500年頃)には江戸氏の影響下に入り、天正十八年(1590)佐竹氏に滅ぼされた。
   茨城町教育委員会」

少し歴史を知りたい人には物足りない書き方ですね。

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この図は上記の説明看板に書かれていた図です。三つの郭の内、北側(左側)は現在小学校があります。
また南側(右側)には福性寺の墓地があります。

残っているのは真ん中の本丸部分ですが、高さが約5mくらいの台地です。
この真ん中近くに(看板の後ろ)に木で囲まれた一角があり下の写真のように祀られた場所があります。

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現地に「大日様」と書かれています。現地の説明文を載せます。

「大日様(だいにちさま) 密教の本尊である「大日如来」を、一般に大日様と読んでいる。もとは北の郭にあったが、川根小学校敷地造成に伴い、現在地に移された。  茨城町教育委員会」

小学校のグランドの整備拡張のためこちらに持って祀っているようです。

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/06 19:20

豊川稲荷分身

 先月だったかtroyさんのブログで行方市の芹沢地区に近いところの西光寺という寺を紹介されていた。
この西光寺の境内に稲荷神社があると書かれていた。

この稲荷神社というのを調べてみたら「三州豊川稲荷」となっていて興味を持った。

先日偶然この前を車で通ったので覗いてみた。

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場所は、前に紹介した新撰組の芹沢鴨の芹沢家のある場所に近く、カッパの手を切り落としてしまう伝説の「手奪橋」のすぐ上だ。

また、ヤマトタケルの伝説のある「現原(あらはら)の丘」の入口も近い。

手奪橋のすぐ近くから寺への登り口(あまり使われていない)には写真のように「三州豊川稲荷御分身参道」と書かれた石柱と稲荷の赤い旗が風にひらめいていた。

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実は稲荷神社はほとんどが伏見稲荷から分身をいただいて正一位と神社の身分をうたっているところがほとんどなのですが、(三州)豊川稲荷は神社ではなくお寺(曹洞宗の妙厳寺)なのです。

これは白い狐に乗ったインドの女神「吒枳尼天(だきにてん)」を祀っていて、境内にある「稲荷堂」あってお稲荷さんと皆が呼んでいることで稲荷が有名らしいんです。

しかし、何でこんなところに豊川稲荷なのか?

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お寺(西光寺)の山門です。奥の正面がお寺で、右側に「豊川稲荷」(こちらも寺)があります。

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これが「豊川稲荷」です。やはり狐がお守りしています。

豊川稲荷は曹洞宗のお寺ですが、この西光寺は行方市井上にある西蓮寺の末寺で天台宗だと思います。

そこで曹洞宗と天台宗の関係を調べたが、曹洞宗は禅寺で、天台宗から分離したらしい。
(訂正:分離したと書くと誤解を生むので訂正です。禅宗の曹洞宗は鎌倉時代に道元禅師が開祖とされています。これも道元は曹洞宗を名乗っておりませんが、中国の曹洞宗を学び日本に帰ってきています。そのため分離というのは言葉としては正しくはありません。後の世に曹洞宗がかなり広く知られ、力を持ってきたので天台宗から曹洞宗に改宗したお寺も多いのです。2012.6.8)

鎌倉時代に遡るが、宗派は途中で変わってしまった寺もたくさんあるので、あまりわからないが、どうやら二つの宗派は近いようです。

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こちらが西光寺の拝殿です。「安産子育観世音菩薩 西光寺」とかかれています。

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拝殿にはこのような武者絵が奉納されていました。

行方市のHPには2月3日の節分祭の紹介が載っていました。豆まきは盛大にやるようです。

豊川稲荷分身とネットで検索すると結構あるものなんですね。
近くでは土浦市文京区の神龍寺にも置かれていました。
こちらは道路工事のためにこの寺に移動したとのこと。
でもどちらもお寺さんなんですよね。



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玉造 | コメント(2) | トラックバック(1) | 2012/06/07 19:47

庭の花

 今日の昼間は暑くなり、西日本では梅雨入り、こちらももうすぐ梅雨ですね。

歴史の掘り起こしでまだまだ調べたり書いたりしたいことがあるのですが、この暑さで、記事をまとめるには疲れてしまいます。

慌てずにまた次の構想を練らなければ・・・・。
調べていると気になる情報に接してさらに関連を調べていると記事がかけません。

今日はワールドカップ予選もあるし、庭の花を載せます。

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これは何の花かわかりますか?

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こんな赤い花です。入口の門のそばにあります。前にもブログに載せました。

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横から見るとこんな感じです。これが次第に付け根の方が膨らんで大きくなっていき実になります。

ザクロの花です。結構可愛いんですよね。

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これはプランターに植えられたベコニアです。

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これは鉢に植えられた「ニューインパ」という花だそうです。

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こちらはシラン(紫蘭)というらしいです。
結構長く咲きます。

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シランのアップ。

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こちらは??
いつもよく咲いているのですが・・・。


今日江戸時代の平田篤胤の仙境異聞を読んでいた(ネットで)。
そしたら、天狗小僧寅吉の話の中に岩間山(愛宕山)と共に、ここ石岡の龍神山が出てきた。

天狗が雨乞いをする場所だそうだ。
とても面白くなって読み出したが、読み終えることができなかった。
今度紹介しよう。

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近況 | コメント(4) | トラックバック(1) | 2012/06/08 20:53

四つの佐志能神社(1)

 石岡市の龍神山の中腹と麓に佐志能(さしのう)神社という古い神社があります。
石岡の方はよくご存知のようですが、二つの佐志能神社として歴史的にも話題となることがよくあります。

歴史の好きな方の興味も多いようですが、その説明をこんなブログで展開するつもりもありません。

今回はこの二箇所を含め、四箇所の佐志能神社があることを紹介したいと思います。

佐志能神社0

石岡市の龍神山の麓に2箇所。そして旧八郷の柿岡の近くに1箇所。
それと笠間の昔の城跡の山の上にあります。

皆山の中腹や上にあるので山の神を祀っている神社を呼ぶのだと思っていましたが、これは少しちがいそうです。
一つづつ見ていきながら何か感じたりわかってくることもあるかもしれません。

まず石岡の龍神山の中腹にある佐志能神社を先日久しぶりに訪れましたので紹介します。
「染谷佐志能神社」と言われるところです。

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風土記の丘公園から少し行ったところにあります。
もう訪れたのは1ヶ月くらい前です。

記事が遅れてしまいましたが、何を書いて良いか迷ってしまっていました。

そう、何か書いてやろうなんて少し肩に力が入ってしまって書けませんでした。
わからないので、ともかくそのまま感じたことを載せておくだけで良いと思い直したのです。


風土記の丘の方からは参道の桜並木を進むと、山への登り口に鳥居が立っています。

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入口に置かれた説明版です。

もう一つの村上佐志能神社は明日紹介しますが、二つは元々は一つだったのが、祀っていた村が二つに分かれたので神社も二つ別々になったようです。

そして共に雨乞いの龍神を祀っています。こちらの染谷は高靇(おかみ)神(雌龍)、村上が闇靇(おかみ)神(雄龍)を祀っています。
「おかみ:靇」という字は雨かんむりに龍です。

創建ははっきりしていませんがかなり古いことは確かで、こちらの社殿は文久二年(1862)に消失したと言われています。

こちらの神社に伝わる染谷十二座神楽は石岡市の有形民族文化財ですが、毎年9月の石岡のおまつりの時にも中日に総社宮でも披露されます。
なかなか面白いものだと思います。
地元の小学生が毎年巫女役に選ばれますが、とても可愛らしいです。(ブログでも前に紹介しました

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こちらの手水に水は山から湧き出す水を引いていたはずなのですが、水がほとんど流れていません。
雨乞いの山がいまは削られて泣いています。

特に村上・染谷地区の地下は硬い岩盤で緯度を掘るのも大変だったようです。
この山がもたらした水は古くから枯れることもなく人々の生活を潤してきました。

この水の元を止めてしまっては石岡は枯れてしまったような気になります。
この水が柏原池に流れ、山王川となって霞ヶ浦に注いでいたのでしょう。

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一の鳥居からしばらく山道を進んだところに二の鳥居があります。
ここから石段で急坂になります。

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階段を上ると、そこに岸壁にしがみつくように神社の拝殿と本殿があります。
この岩は屏風岩といわれる岩肌ですが、しめ縄も張られ岩が信仰の対象です。

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この岩場の踊り場となったその向こうに、昔来た時にもう一つ舞台のような建物があったはずなのですが今はなくなっていました。

石段の途中の木も根が掘り起こされたように倒れたものもありました。
地震の影響でしょうか。

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岩盤の途中に「滝水路」という石碑が置かれていました。
昭和27年に置かれたもののようですが、当然ここには滝のように水が流れていたように思います。
今は水はありません。

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上の写真は、手前が本殿で、奥(右手)が拝殿です。
本殿はスレートの建屋で囲まれてしまって中を見ることができません。
きっと龍の彫刻等が施されているのではないかと思います。



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佐志能神社 | コメント(4) | トラックバック(1) | 2012/06/09 18:57

四つの佐志能神社(2)

 昨日紹介した染谷佐志能神社と対になったもう一つの村上佐志能神社を紹介します。

石岡市史などによると、染谷が高龗神(たかおかみのかみ)で村上が闇龗神(くらおかみのかみ)を祀っているとある。
しかも、高龗神(染谷)は雌龍神、闇龗神(村上)は雄龍神だとある。

何か変なのだがこの神様についてはどうもよくわからない。

wikipediaによれば「龗神=淤加美神」は神話に登場する神で、日本書紀では「龗神」と書き、古事記では
「淤加美神」と書くそうです。

神話ではイザナミ(伊邪那岐神)がカグツチ(迦具土神)を斬り殺した時にその血から生まれた神とも・・・。

この辺になるとよくわからないので正確ではないです。

高は山の上であり、闇は谷間を表しているともいわれ、対の神ではありますが、雌雄の表現はどこかに危うさを感じます。

高龗神は京都の貴船神社の祭神で、奈良県吉野の丹生川上神社には上社が高龗、中社が罔象女神(みずはのめのかみ)、下社が闇龗神を祀っているようです。

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こちらが村上にある佐志能神社です。こちらは山の麓で民家の途切れたところの広場に鳥居があります。
しかし、昔はこの鳥居の正面側ももっと参道が伸びていたように思います。
今は横から入るような形になっています。
初めての方は少し地図を調べていかないとわかりにくいですが、一番山側に並んでいる普通の民家をそのまま進むと自然に神社に入っていく感じです。

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木々に囲まれた鳥居をくぐって正面に拝殿があります。

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こちらは鳥居の手前にある湧水(御神水)のあった場所。
今ではかっての清らかな水も流れてなく、わずかに水が溜まっているのみです。

歴史がどうのこうのというのだが、この近くではまだ水も湧き出しているところもありそうなので、引いて来たらいいのになどと勝手に思ってしまった。澱んだ水では神様も喜ぶまい。

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正面が拝殿です。

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拝殿の裏には本殿があります。染谷の方は囲われていて見られなかったが、こちらは龍の彫り物も見ることができます。

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この本殿の裏手に更に山の方に入っていくように鳥居があります。
しかし、道は特に整備されていませんので木々や岩につかまって登ることしかできませんが、山の上の方にお宮が祀られています。奥の院ということのようです。

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さて、石岡の龍神山ですが、今はこんな姿です。年々左右に別れ、小さくなっていくようです。
砕石業者がこの山を削っています。

昨日みた染谷の屏風岩のように良質の石が採れるそうです。(市が以前業者に売ってしまったものです)

龍神山は昔から雨乞いをする山であったのです。その信仰の山でもあり、清らかなる水を常陸国の国府へ供給してくれるめぐみの場所でした。
そこにまた湧き出した泉には「親は諸白、子は清水」の伝説も生まれて、酒造りにも適した場所だったのです。

明日は、柿岡にある佐志能神社を紹介します。



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佐志能神社 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/06/10 18:06
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