筑波山夕景
毎日暑い日が続きますね。
夜は若干気温が下がってきているようですが、じっとしていても汗ばんできます。

恋瀬川に架かる粟田橋から夕日を眺めているが、太陽は大分南側に戻ってきていますが、まだ山の上まで来ていません。

もう今日から8月なので真上くらいに来ているかと思いましたが、あと2週間くらいかかるのかも・・・。

鳥もねぐらに帰っています。
最近雀もだいぶ増えてきたのか、見かけるようになりました。

今夜あたりから涼しくなってくれたらいいですね。
沖縄、九州には台風が来ています。被害がないことを祈ります。
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夜は若干気温が下がってきているようですが、じっとしていても汗ばんできます。

恋瀬川に架かる粟田橋から夕日を眺めているが、太陽は大分南側に戻ってきていますが、まだ山の上まで来ていません。

もう今日から8月なので真上くらいに来ているかと思いましたが、あと2週間くらいかかるのかも・・・。

鳥もねぐらに帰っています。
最近雀もだいぶ増えてきたのか、見かけるようになりました。

今夜あたりから涼しくなってくれたらいいですね。
沖縄、九州には台風が来ています。被害がないことを祈ります。


桜川(土浦)
それにしても暑いですね。
ブログも夏休みを取られている人もおられますね。やはりこれが賢明な選択かも。
こちらはあと1週間くらいでまる2年を迎える。まだ休んだことがないので、ここで休めない。
貧乏性な性格が災いしています。
今日は空には入道雲がもくもくと出ていました。午後から土浦の法務局に行く用事があって、少し職場を離れて行ってきました。
これは登記変更の申請を先週してきたので、完了証明書を受け取りに行ってきました。
司法書士の方にお願いすると2万円と言われ、自分でやってきました。2筆変更があったので2千円でした。
最近は法務局も相談窓口があって、素人にも優しく教えてくれます。
ネットで調べて書類を作り、相談窓口で15分くらいで書類も完成しました。
なんでも挑戦は必要ですね。ほんとに簡単でした。
法務局と土浦駅との間には桜川という川が流れています。
あまりの天気の良さについ川沿いの土手に出てみました。

こちらが霞ヶ浦方面(下流側)で土浦駅は左手奥の方向です。

川の水がかなり緑が濃く、土手の桜並木の影も濃くなっています。

こちらは上流側で、6号国道や常磐高速の橋を越えて、つくば山につながります。
この土手で10月初め頃に花火大会が行われます。
日本で一番最後の花火大会かもしれません。全国の花火師のコンクールなのです。
今日または明日から東北三大祭りが始まりますね。いよいよ夏本番です。
新潟長岡の花火大会も確か明日、明後日頃だったと思います。
三尺玉の花火は迫力がありますね。

この桜川に沿ってもう1本小さな川が平行に流れています。
ここに木の橋がかけられていました。渡るのが少し怖いくらいです。
今夜は満月でしょうか、先ほど外に出たら雲一つなく真ん丸な月が笑っていました。
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こちらはあと1週間くらいでまる2年を迎える。まだ休んだことがないので、ここで休めない。
貧乏性な性格が災いしています。
今日は空には入道雲がもくもくと出ていました。午後から土浦の法務局に行く用事があって、少し職場を離れて行ってきました。
これは登記変更の申請を先週してきたので、完了証明書を受け取りに行ってきました。
司法書士の方にお願いすると2万円と言われ、自分でやってきました。2筆変更があったので2千円でした。
最近は法務局も相談窓口があって、素人にも優しく教えてくれます。
ネットで調べて書類を作り、相談窓口で15分くらいで書類も完成しました。
なんでも挑戦は必要ですね。ほんとに簡単でした。
法務局と土浦駅との間には桜川という川が流れています。
あまりの天気の良さについ川沿いの土手に出てみました。

こちらが霞ヶ浦方面(下流側)で土浦駅は左手奥の方向です。

川の水がかなり緑が濃く、土手の桜並木の影も濃くなっています。

こちらは上流側で、6号国道や常磐高速の橋を越えて、つくば山につながります。
この土手で10月初め頃に花火大会が行われます。
日本で一番最後の花火大会かもしれません。全国の花火師のコンクールなのです。
今日または明日から東北三大祭りが始まりますね。いよいよ夏本番です。
新潟長岡の花火大会も確か明日、明後日頃だったと思います。
三尺玉の花火は迫力がありますね。

この桜川に沿ってもう1本小さな川が平行に流れています。
ここに木の橋がかけられていました。渡るのが少し怖いくらいです。
今夜は満月でしょうか、先ほど外に出たら雲一つなく真ん丸な月が笑っていました。


井関屋とオリトモ(土浦)
昨日の続きです。土浦からの帰り道「井関屋」の看板を見つけてなつかしくなりました。
子供会などのイベントをやる時にお菓子や花火、クラッカーにビンゴゲームなどを買いにきたことがあります。
知っている人は知っているお店です。昭和のはじめころからやっているらしいのですが、卸問屋さんでもありますが、一般の人も買えますし、バラ売りもしています。
夏休みですので、お近くでしたらイベントにどうですか?

この看板の左上の高架道は昔、つくば科学万博の時に土浦駅からつくば学園都市の万博会場まで敷かれた道路です。

こちらがお店ですが、左に少し大きなプレハブの工場のような建物がつながっていて、そこ中に商品がたくさん積まれています。

売っているのは昔懐かしい駄菓子から各種お菓子がいっぱいです。
買ったお菓子類は大量に買って小袋に詰めて子供たちの景品などに使います。

風船、シャボン玉、クラッカー、ビンゴなどいろいろな玩具もたくさんあります。

花火は打ち上げ花火や線香花火など・・・・。懐かしいですね。
さて、夏休みなので、こんなお店も知っていてもいいと思って紹介しましたが、もう一つ「オリトモ」という卸問屋を紹介します。
こちらは食器、厨房機器、お菓子作りの道具や紙製品、木製品などを扱っています。
場所は虫掛に本社店舗、公設市場の近くにもお店があります。
探し物などありましたら一度のぞいてみてください。
お店をやっておられる人などがよく行くようです。この本店よりも「土浦総合流通センター店」の方が一般の人は行きやすいのかもしれません。
私はそちらには行ったことがありません。本店ももうずいぶん前に行ったきりです。
でも知っておくと便利なお店です。
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子供会などのイベントをやる時にお菓子や花火、クラッカーにビンゴゲームなどを買いにきたことがあります。
知っている人は知っているお店です。昭和のはじめころからやっているらしいのですが、卸問屋さんでもありますが、一般の人も買えますし、バラ売りもしています。
夏休みですので、お近くでしたらイベントにどうですか?

この看板の左上の高架道は昔、つくば科学万博の時に土浦駅からつくば学園都市の万博会場まで敷かれた道路です。

こちらがお店ですが、左に少し大きなプレハブの工場のような建物がつながっていて、そこ中に商品がたくさん積まれています。

売っているのは昔懐かしい駄菓子から各種お菓子がいっぱいです。
買ったお菓子類は大量に買って小袋に詰めて子供たちの景品などに使います。

風船、シャボン玉、クラッカー、ビンゴなどいろいろな玩具もたくさんあります。

花火は打ち上げ花火や線香花火など・・・・。懐かしいですね。
さて、夏休みなので、こんなお店も知っていてもいいと思って紹介しましたが、もう一つ「オリトモ」という卸問屋を紹介します。
こちらは食器、厨房機器、お菓子作りの道具や紙製品、木製品などを扱っています。
場所は虫掛に本社店舗、公設市場の近くにもお店があります。
探し物などありましたら一度のぞいてみてください。
お店をやっておられる人などがよく行くようです。この本店よりも「土浦総合流通センター店」の方が一般の人は行きやすいのかもしれません。
私はそちらには行ったことがありません。本店ももうずいぶん前に行ったきりです。
でも知っておくと便利なお店です。


筑波山夕景(2)
昨日の夕方日が沈む前に急いで筑波山の婆ヶ峰(子授け地蔵)に行った。
これはここから見る筑波山の姿と下の景色が素晴らしいからだ。
山の上まで行くのは時間もないので、前にもここからの景色を紹介した。
冬に夕焼けに染まる富士山を捉えたことがある場所だ。
(最初の3枚はサムネルです。クリックで少し大きな画像になります)

時間は夕方の6時20分頃。 もうすぐ日が沈みます。
男体山は頂上がよく見えますが、手前の女体山は雲がかかって絶えず勢いよく流れています。

つくばの町の方は霞がかかっています。土浦、霞ヶ浦はさらに左手の方向です。

ここには婆ヶ峰の子授け地蔵が立っています。
子宝に恵まれますようにとたくさんの人がお参りに来るようです。
周りでは鶯の鳴き声があちらこちらから聞こえてきます。
そしてヒグラシも夏の夕暮れを告げていました。

筑波女体山にかかった雲は見ているあいだも勢いよく流れているのですが、次ぐから次と雲は湧いてきて山頂は見られません。
この先のつつじヶ丘からケーブルカーが女体山の頂上に出ていますが、これでは上からの視界はよくないですね。
男体山へのケーブルが出ているので、向こうからは良く下を見下ろすことができそうです。

さあもうすぐ日が沈みます。
続きはあすへ。
今日も暑いです。なんとか涼しげな写真をお届けしたいですが・・・。
今年は8月7日が立秋ですね。
今外からは盆踊りの太鼓や歌が聞こえてきます。
日本の夏ですね。
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これはここから見る筑波山の姿と下の景色が素晴らしいからだ。
山の上まで行くのは時間もないので、前にもここからの景色を紹介した。
冬に夕焼けに染まる富士山を捉えたことがある場所だ。
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時間は夕方の6時20分頃。 もうすぐ日が沈みます。
男体山は頂上がよく見えますが、手前の女体山は雲がかかって絶えず勢いよく流れています。

つくばの町の方は霞がかかっています。土浦、霞ヶ浦はさらに左手の方向です。

ここには婆ヶ峰の子授け地蔵が立っています。
子宝に恵まれますようにとたくさんの人がお参りに来るようです。
周りでは鶯の鳴き声があちらこちらから聞こえてきます。
そしてヒグラシも夏の夕暮れを告げていました。

筑波女体山にかかった雲は見ているあいだも勢いよく流れているのですが、次ぐから次と雲は湧いてきて山頂は見られません。
この先のつつじヶ丘からケーブルカーが女体山の頂上に出ていますが、これでは上からの視界はよくないですね。
男体山へのケーブルが出ているので、向こうからは良く下を見下ろすことができそうです。

さあもうすぐ日が沈みます。
続きはあすへ。
今日も暑いです。なんとか涼しげな写真をお届けしたいですが・・・。
今年は8月7日が立秋ですね。
今外からは盆踊りの太鼓や歌が聞こえてきます。
日本の夏ですね。


筑波山夕景(3)
一昨日の筑波山尾根道にある婆ヶ峰より筑波山での日没写真を昨日に続いてUPします。
子授け地蔵がたっている場所が「展望台」となっていて山と日没を眺められます。
(今日の写真はサムネル表示です。クリックすると大きな写真になります。)

太陽は夏至を過ぎて段々に南の方に移ってきました。
筑波山より少し南側、昔万葉集に歌われた「鳥羽の淡海」(騰波ノ江)の方向です。
(草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へは止みぬ <高橋虫麻呂>)
その先、小山駅方面に日が沈みます。

昨日は男体山と女体山を間違って書いてしまいました。(訂正してあります)
左(西側)が男体山で、右(東側)が女体山です。雲がかかっているのが女体山です。
すこしづつ日が沈んでいきます。

太陽が半分位隠れました。これくらいになると肉眼でも太陽の形を見ることができます。

さらに沈んでいきます。
空はまだ青く澄んでいます。
日が沈む時は、まわりが暗くなり始めて、空の青さが光ります。

ほぼ太陽が見えなくなっていきます。

太陽が隠れて5~10分ほど、空を眺めていましたが思ったほどには焼けませんでしたが、それでも幻想的な景色が見られました。
明日は前にもブログで紹介したのですが、この子授け地蔵をまた紹介します。
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子授け地蔵がたっている場所が「展望台」となっていて山と日没を眺められます。
(今日の写真はサムネル表示です。クリックすると大きな写真になります。)

太陽は夏至を過ぎて段々に南の方に移ってきました。
筑波山より少し南側、昔万葉集に歌われた「鳥羽の淡海」(騰波ノ江)の方向です。
(草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へは止みぬ <高橋虫麻呂>)
その先、小山駅方面に日が沈みます。

昨日は男体山と女体山を間違って書いてしまいました。(訂正してあります)
左(西側)が男体山で、右(東側)が女体山です。雲がかかっているのが女体山です。
すこしづつ日が沈んでいきます。

太陽が半分位隠れました。これくらいになると肉眼でも太陽の形を見ることができます。

さらに沈んでいきます。
空はまだ青く澄んでいます。
日が沈む時は、まわりが暗くなり始めて、空の青さが光ります。

ほぼ太陽が見えなくなっていきます。

太陽が隠れて5~10分ほど、空を眺めていましたが思ったほどには焼けませんでしたが、それでも幻想的な景色が見られました。
明日は前にもブログで紹介したのですが、この子授け地蔵をまた紹介します。


筑波山と子授け地蔵
ここ2日に分けて筑波山での夕日をお届けしましたが、この撮影場所には「子授け地蔵」さんが立っています。
昨年8月にもこの紹介をしていますので同じような記事になることお許しください。(こちら)
名前のいわれなどは前に書いた時に載せていますので興味があれば見てください。

場所はつつじヶ丘下の風返し峠から東筑波スカイラインを東に1km程度行った駐車場なのだが、昔有料だったこのスカイラインが無料になって、使える駐車場としてはここしかない。
他の駐車場はすべて門を閉めて閉鎖している。
これも暴走族対策の一環なのだろうが、普通の観光客にも駐車場が使えないのは困りものだ。
この駐車場も昔はトイレ等が整備されていたようだが、今は何もない。
一番奥に赤い鳥居が立っている。

鳥居をくぐってすぐこのようなお宮とたくさんの石地蔵や色々な石などがある。
子宝に恵まれるようにここで300円を箱に入れて置いてある「願い木札」をいただいて願い事を書いて置いていきます。
また、ここにある石や石地蔵を抱くと子宝に恵まれると伝えられています。

石地蔵も恐らく願いが叶ったらまた奉納する人がいたりするようです。
このような小さなぬいぐるみなどを掛けていくのはお礼にかけたのでしょうか?
私にはわかりません。

もうすぐ日が暮れます。
この場所は暗くなると怖いです。
山の天気も麓とは違いますね。

このお宮のすぐ上の高台に「子授け地蔵」という大きな地蔵さんが建てられました。
いつ建てられたものかはわかりませんが、比較的新しいと思います。
私がこの婆ヶ峰(姥ヶ峰)をまた紹介する気になったのは、先日から紹介してきた信太小太郎伝説から連想されたためだ。
全く話は違うし、どこに共通点があるのかなどという質問をされても答えようがない。
突然うかんできただけである。
ここの地名伝説として石岡(八郷地区)に残されている話は、とても単純な話である。
「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎに殺されてしまった。そのため、この場所が婆ヶ峰、爺ヶ峰と言われるようになった。
そして、亡くなった爺婆を哀れに思った村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残った。」
というものだ。
しかし、名前の由来と話は多分逆で、名前があって、この追い剥ぎの話が出来上がったと考える方が普通だと思う。
すると、この地蔵をこの場所に置いたのは誰なのでしょうか?
恐らく八郷地区の十三塚の人たちなのでしょう。
この十三塚という名前もいわれが残されています。
十二匹の大鼠と一匹の猫が死闘を繰り広げて死んだのを葬った塚から名付けられたという。
何故、この二つの話は融合しないで別々に伝わっているのだろう。
ふるさとに残されたお話は、時代に合わせた教訓や時代背景などを映して変わっていくに違いないのですが・・・・。
この2つの昔話はとても面白いのだけれど、どうにも発展してこなかったのかもしれない。
徳一法師が筑波山の周りに配した四面薬師の一つがこの十三塚にあったが、今は何もない。
しかし、この薬師堂は明治になって、石岡の国分寺に移され、その薬師堂として残されている。
本当はとても大切にして守っていかなければならないお話しだと思います。
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昨年8月にもこの紹介をしていますので同じような記事になることお許しください。(こちら)
名前のいわれなどは前に書いた時に載せていますので興味があれば見てください。

場所はつつじヶ丘下の風返し峠から東筑波スカイラインを東に1km程度行った駐車場なのだが、昔有料だったこのスカイラインが無料になって、使える駐車場としてはここしかない。
他の駐車場はすべて門を閉めて閉鎖している。
これも暴走族対策の一環なのだろうが、普通の観光客にも駐車場が使えないのは困りものだ。
この駐車場も昔はトイレ等が整備されていたようだが、今は何もない。
一番奥に赤い鳥居が立っている。

鳥居をくぐってすぐこのようなお宮とたくさんの石地蔵や色々な石などがある。
子宝に恵まれるようにここで300円を箱に入れて置いてある「願い木札」をいただいて願い事を書いて置いていきます。
また、ここにある石や石地蔵を抱くと子宝に恵まれると伝えられています。

石地蔵も恐らく願いが叶ったらまた奉納する人がいたりするようです。
このような小さなぬいぐるみなどを掛けていくのはお礼にかけたのでしょうか?
私にはわかりません。

もうすぐ日が暮れます。
この場所は暗くなると怖いです。
山の天気も麓とは違いますね。

このお宮のすぐ上の高台に「子授け地蔵」という大きな地蔵さんが建てられました。
いつ建てられたものかはわかりませんが、比較的新しいと思います。
私がこの婆ヶ峰(姥ヶ峰)をまた紹介する気になったのは、先日から紹介してきた信太小太郎伝説から連想されたためだ。
全く話は違うし、どこに共通点があるのかなどという質問をされても答えようがない。
突然うかんできただけである。
ここの地名伝説として石岡(八郷地区)に残されている話は、とても単純な話である。
「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎに殺されてしまった。そのため、この場所が婆ヶ峰、爺ヶ峰と言われるようになった。
そして、亡くなった爺婆を哀れに思った村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残った。」
というものだ。
しかし、名前の由来と話は多分逆で、名前があって、この追い剥ぎの話が出来上がったと考える方が普通だと思う。
すると、この地蔵をこの場所に置いたのは誰なのでしょうか?
恐らく八郷地区の十三塚の人たちなのでしょう。
この十三塚という名前もいわれが残されています。
十二匹の大鼠と一匹の猫が死闘を繰り広げて死んだのを葬った塚から名付けられたという。
何故、この二つの話は融合しないで別々に伝わっているのだろう。
ふるさとに残されたお話は、時代に合わせた教訓や時代背景などを映して変わっていくに違いないのですが・・・・。
この2つの昔話はとても面白いのだけれど、どうにも発展してこなかったのかもしれない。
徳一法師が筑波山の周りに配した四面薬師の一つがこの十三塚にあったが、今は何もない。
しかし、この薬師堂は明治になって、石岡の国分寺に移され、その薬師堂として残されている。
本当はとても大切にして守っていかなければならないお話しだと思います。


泉子育観音(慶龍寺)(1)
さて、昨日の筑波山、婆ヶ峰の子授け観音を紹介したので、近くで子育てで有名なお寺を紹介しましょう。
私のところでも最初の子供(娘)のお宮参りに訪れたところなんです。
その子も今では立派に成人して結婚してロンドンに住んでいます。
私たち夫婦どちらもこの地は地元ではないので、子供が生まれた時に近所の方にきいたのです。
すると、このお寺が子育てでは有名なお寺だというので行きました。
生後30日くらいの時に赤ん坊を連れて行きました。すると額に何か✖のような印を書かれたように思います。地方によっては男の子は大とか犬、女の子には小と書くところが多いそうです。
魔除けの意味もあるようだが、丈夫に育ってくださいというおまじないでしょう。

この子育観音のいわれは、「子育出生観世音菩薩」という秘仏がこのお寺にあるのだそうです。
この像は、京都の東寺で、弘法大師が自ら彫ったといわれるもので、出世と名前にあるのは徳川家康が信仰していた仏で、天下を取ったことから出世の文字が加わったそうです。
この秘仏が京都で彫られたのが大同2年(807年)、そして1472年に仁和寺の僧が小田原に観音寺を建ててこの像を祀った。
それを家康が信仰していた。そして東に行って民を救いなさいとのお告げを得て、このつくば山の手前に来て動かなくなったので、ここに寺を建てたのだそうです。

さて、江戸時代にはこの地は土浦藩の領地で土浦藩主の土屋正直が寺録を献し、貞亨四年(1687)に表門を寄進したそうだ。
門の手前右端には「弘法大師一千五十回遠忌供養塔」と書かれています。
仁和寺での弘法大師1150回遠忌法要は昭和59年5月に行われたようですので、その時と同じ年でしょう。
その左手には「茨城百景(北条泉の観音)」の碑があります。
写真左手の門の前に建てられた左右の柱には「御成婚記念」「土浦市」の文字があります。

この寺には2つの門があるが、どちらが土屋家から寄贈されたものなのか?
こちら(向かって右手)が主の山門のようです。

山門の右側には「二十三夜塔」(真夜中の二十三夜の月の出を待った)

こちらは向かって左手の山門です。どちらにも土屋氏の家紋がついています。

今日は時間がないので、またあすに続きを書きます。
毎日、オリンピックも忙しいですね。

この手水鉢には「水海道」(みつかいどう)」と書かれています。水海道はここから西にいったところにある地名です。


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私のところでも最初の子供(娘)のお宮参りに訪れたところなんです。
その子も今では立派に成人して結婚してロンドンに住んでいます。
私たち夫婦どちらもこの地は地元ではないので、子供が生まれた時に近所の方にきいたのです。
すると、このお寺が子育てでは有名なお寺だというので行きました。
生後30日くらいの時に赤ん坊を連れて行きました。すると額に何か✖のような印を書かれたように思います。地方によっては男の子は大とか犬、女の子には小と書くところが多いそうです。
魔除けの意味もあるようだが、丈夫に育ってくださいというおまじないでしょう。

この子育観音のいわれは、「子育出生観世音菩薩」という秘仏がこのお寺にあるのだそうです。
この像は、京都の東寺で、弘法大師が自ら彫ったといわれるもので、出世と名前にあるのは徳川家康が信仰していた仏で、天下を取ったことから出世の文字が加わったそうです。
この秘仏が京都で彫られたのが大同2年(807年)、そして1472年に仁和寺の僧が小田原に観音寺を建ててこの像を祀った。
それを家康が信仰していた。そして東に行って民を救いなさいとのお告げを得て、このつくば山の手前に来て動かなくなったので、ここに寺を建てたのだそうです。

さて、江戸時代にはこの地は土浦藩の領地で土浦藩主の土屋正直が寺録を献し、貞亨四年(1687)に表門を寄進したそうだ。
門の手前右端には「弘法大師一千五十回遠忌供養塔」と書かれています。
仁和寺での弘法大師1150回遠忌法要は昭和59年5月に行われたようですので、その時と同じ年でしょう。
その左手には「茨城百景(北条泉の観音)」の碑があります。
写真左手の門の前に建てられた左右の柱には「御成婚記念」「土浦市」の文字があります。

この寺には2つの門があるが、どちらが土屋家から寄贈されたものなのか?
こちら(向かって右手)が主の山門のようです。

山門の右側には「二十三夜塔」(真夜中の二十三夜の月の出を待った)

こちらは向かって左手の山門です。どちらにも土屋氏の家紋がついています。

今日は時間がないので、またあすに続きを書きます。
毎日、オリンピックも忙しいですね。

この手水鉢には「水海道」(みつかいどう)」と書かれています。水海道はここから西にいったところにある地名です。




立秋と秋の空
今年の立秋は8月7日(昨日)だそうですね。
これからは残暑見舞いに変わるのだそうで、それを知ってか今日は今までの暑さに比べて急に秋がやってきたような気温でした。
空を見上げると、これは秋の空ですね。
今日の雲はとても不思議な感じでした。スジの入った雲はやはり秋を感じますね。
でもまた夏の暑さがぶり返すそうです。気持ちだけでも涼しくいきたいものです。
(写真はサムネルです。クリックすると大きな画像を別ウインドウで開きます)

広島の原爆の日が8月6日、長崎が8月9日です。67年前のこの夏の空にピカドンの閃光が走り、死の灰が降った。
忘れてはならない日がまたやってきた。
それなのに・・・・。何が25%だ、15%だ、0%などという理由のわからないシナリオの議論をしている。
これは明らかに15%に誘導するためのシナリオでしかない。
核の副産物を処理することも決まらない。原発は止まっても、福島の4号機のように使用済み核燃料をプールに保管し続けるしかない。
これから10万年先にまでつけを残す。
一般に、多くの人が歴史で興味が湧くのはせいぜい鎌倉時代以降であろう。
まだ800年くらい前のことだ。
富士山が大きくなったのは10万年前ころからの噴火で段々に今の形となった。
古東海道の足柄峠の道が通れなくなった噴火は802年。貞観大噴火が864~866年。貞観地震が869年のことだ。
宝永の大噴火に至っては1707年だから たった300年しか経っていない。
どこに安全に保管できる場所があるのだろうか?

この世に100%安全などというものは存在しない。
万が一想定外のことが起こったときにいかにその与える影響のリスクを低減できるのかというプロセスが大切なのだ。
当然、新しいリスクが判明すれば修正し、新しい技術ができればそれを駆使してそのプロセスを絶えず見直すことが必要なのです。
私も技術屋の端くれです。
高校生になった時に糸川英夫博士の物理学の問題集にのめり込んだ。
アインシュタイン相対性理論を扱ったガモフの「不思議な国のトムキンス」などを面白く読んだ。
原子核分裂などの探求は物理学ではとても興味のある分野ですし、これからも研究は進めなければならないでしょう。まだまだ知らねばならないことが山ほどあるでしょう。
でもこの核廃棄物処理などの技術が大幅に進まなければ、このまま利用を続けることは今の推進派の思考回路の上にある限り怖くてやっていられない。
関西電力社長の「次の原発稼働は・・・」発言は、全く自分たちのエゴを出しているに過ぎない。
私は見てしまった。
福島から取るものもとりあえず、ふるさとを追われ、暑く狭いプレハブにいて不平を言ってもどこにも聞いてもらえない人たちの落胆した目を。
そしてその人たちの中にも津波で流された家族もいたことを。
家畜を置き去りにして故郷を離れざるを得なかった人たちのことも。
この同じ日本にいながらこの温度差はなんなのだろう。
先日までの暑い日々と、今の秋のような気温とのように、住むところが違えば忘れていられるものなのだろうか。
福島2号機の危機的だった状況が1年以上もたった今頃伝わってきている。
背筋が凍りつくような状況だったのに、今聞くと何か絵空事のような気にもなる。
SR弁などというわけのわからない言葉でごまかし、日本語で「安全弁」と言って欲しい。
これが開かずに、格納容器が大爆発して日本全土に死の灰を降らせたかもしれないのだから。
プルサーマルの運転をしていた3号機は1号機の水素爆発とは明らかに違った黒煙(キノコ雲)が上がった。
そして5月にも黒煙が上がっている。
未だに原因がわからない。または発表していない。
2号機は実際は大爆発までいかなかったが一部が壊れて大量の放射性物質が飛び散った。
しかし数百キロが不毛の地になることは防げた。運が良かったのである。
まだ、天は私たちを見放していないのに、本当の天罰がくだらないうちにまともな議論をしたい!
あまり政治的なことを書くと、読者が減ってしまいそうだが、たまには許してください。
年に1回の原爆の日を忘れないようにしましょう。
原子力を人の力で制御できると思い込んでいた。でもそれは奢りであった。
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これからは残暑見舞いに変わるのだそうで、それを知ってか今日は今までの暑さに比べて急に秋がやってきたような気温でした。
空を見上げると、これは秋の空ですね。
今日の雲はとても不思議な感じでした。スジの入った雲はやはり秋を感じますね。
でもまた夏の暑さがぶり返すそうです。気持ちだけでも涼しくいきたいものです。
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広島の原爆の日が8月6日、長崎が8月9日です。67年前のこの夏の空にピカドンの閃光が走り、死の灰が降った。
忘れてはならない日がまたやってきた。
それなのに・・・・。何が25%だ、15%だ、0%などという理由のわからないシナリオの議論をしている。
これは明らかに15%に誘導するためのシナリオでしかない。
核の副産物を処理することも決まらない。原発は止まっても、福島の4号機のように使用済み核燃料をプールに保管し続けるしかない。
これから10万年先にまでつけを残す。
一般に、多くの人が歴史で興味が湧くのはせいぜい鎌倉時代以降であろう。
まだ800年くらい前のことだ。
富士山が大きくなったのは10万年前ころからの噴火で段々に今の形となった。
古東海道の足柄峠の道が通れなくなった噴火は802年。貞観大噴火が864~866年。貞観地震が869年のことだ。
宝永の大噴火に至っては1707年だから たった300年しか経っていない。
どこに安全に保管できる場所があるのだろうか?

この世に100%安全などというものは存在しない。
万が一想定外のことが起こったときにいかにその与える影響のリスクを低減できるのかというプロセスが大切なのだ。
当然、新しいリスクが判明すれば修正し、新しい技術ができればそれを駆使してそのプロセスを絶えず見直すことが必要なのです。
私も技術屋の端くれです。
高校生になった時に糸川英夫博士の物理学の問題集にのめり込んだ。
アインシュタイン相対性理論を扱ったガモフの「不思議な国のトムキンス」などを面白く読んだ。
原子核分裂などの探求は物理学ではとても興味のある分野ですし、これからも研究は進めなければならないでしょう。まだまだ知らねばならないことが山ほどあるでしょう。
でもこの核廃棄物処理などの技術が大幅に進まなければ、このまま利用を続けることは今の推進派の思考回路の上にある限り怖くてやっていられない。
関西電力社長の「次の原発稼働は・・・」発言は、全く自分たちのエゴを出しているに過ぎない。
私は見てしまった。
福島から取るものもとりあえず、ふるさとを追われ、暑く狭いプレハブにいて不平を言ってもどこにも聞いてもらえない人たちの落胆した目を。
そしてその人たちの中にも津波で流された家族もいたことを。
家畜を置き去りにして故郷を離れざるを得なかった人たちのことも。
この同じ日本にいながらこの温度差はなんなのだろう。
先日までの暑い日々と、今の秋のような気温とのように、住むところが違えば忘れていられるものなのだろうか。
福島2号機の危機的だった状況が1年以上もたった今頃伝わってきている。
背筋が凍りつくような状況だったのに、今聞くと何か絵空事のような気にもなる。
SR弁などというわけのわからない言葉でごまかし、日本語で「安全弁」と言って欲しい。
これが開かずに、格納容器が大爆発して日本全土に死の灰を降らせたかもしれないのだから。
プルサーマルの運転をしていた3号機は1号機の水素爆発とは明らかに違った黒煙(キノコ雲)が上がった。
そして5月にも黒煙が上がっている。
未だに原因がわからない。または発表していない。
2号機は実際は大爆発までいかなかったが一部が壊れて大量の放射性物質が飛び散った。
しかし数百キロが不毛の地になることは防げた。運が良かったのである。
まだ、天は私たちを見放していないのに、本当の天罰がくだらないうちにまともな議論をしたい!
あまり政治的なことを書くと、読者が減ってしまいそうだが、たまには許してください。
年に1回の原爆の日を忘れないようにしましょう。
原子力を人の力で制御できると思い込んでいた。でもそれは奢りであった。


泉子育観音(慶龍寺)(2)
つくば北条近くにある「泉の観音さま」として知られる「勢光山泉子育観音 慶竜寺」の2回目です。
真言宗豊山派の寺院ですので、総本山は奈良の長谷寺です。
京都仁和寺の僧が小田原に観音寺を建て、そしてこの地に移ったとなっていますが、小田原の観音寺がまだ残っているかを確かめようと思いましたが見当たりません。


本堂です。

なかなか荘厳な彫刻と屋根の造りです。

この狛犬は仙台の国分寺にあったオランウータン型の狛犬です。

こちらは阿型の狛犬ですが、タマを持っています。

全体の配置はこのようになっていますが、建物には何も書かれたものがないので説明に困ります。

このお寺は虫封じなどの子育て観音様で有名なのですが、そのほかに2月に行われる豆まきも有名なようです。
また、桜(枝垂れ)でも有名だそうです。

ここにもフクロウ(不苦労)さんがいました。

子供が多く訪れることもあり、このような置物も・・・。

金属フェチの方。こんなのどうですか?
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真言宗豊山派の寺院ですので、総本山は奈良の長谷寺です。
京都仁和寺の僧が小田原に観音寺を建て、そしてこの地に移ったとなっていますが、小田原の観音寺がまだ残っているかを確かめようと思いましたが見当たりません。


本堂です。

なかなか荘厳な彫刻と屋根の造りです。

この狛犬は仙台の国分寺にあったオランウータン型の狛犬です。

こちらは阿型の狛犬ですが、タマを持っています。

全体の配置はこのようになっていますが、建物には何も書かれたものがないので説明に困ります。

このお寺は虫封じなどの子育て観音様で有名なのですが、そのほかに2月に行われる豆まきも有名なようです。
また、桜(枝垂れ)でも有名だそうです。

ここにもフクロウ(不苦労)さんがいました。

子供が多く訪れることもあり、このような置物も・・・。

金属フェチの方。こんなのどうですか?


泉子育観音(慶龍寺)(3)
毎日オリンピックも盛り上がっていますね。
なでしこの銀も立派ですが、レスリングは金がたくさん。
私は個人的には浜口京子さんに拍手を送ります。
最初で負けてしまいましたが、よく頑張ってくれたと思います。
親思いの優しさが勝負にはホンの少しの差になったのかもしれませんね。
胸を張って帰ってきて欲しいです。
それにしても柔道男子はダメでしたね。日本の伝統技という思いがこの成績になっているように思えます。
根性だけで勝てる世界ではないはずです。
スポーツの世界は今は食事やメンタル手法に、ITを駆使した相手の研究などを絶えず行っています。
指導者にはそれなりの指導者学が必要ですね。
さて、この泉の観音様の紹介も昨日で終わりのはずでしたが、どうにも後味が悪いのです。
今までは、何か調べると多少なりとも記事になることが見つかるのですが、ネットで調べても「豆まきのお祭り」行事と「桜」の記事ばかりです。
寺のいわれは同じことがどこにも書かれているのですが、ここにある本堂も鐘楼もたいそう立派なのですが詳しいことがわかりません。
そんなことを考えながら、ネットを漁っておりました。
すると筑波山の「大御堂(おおみどう)」文字が・・・・
そうだ、前に大御堂を紹介した時に、筑波神社にある「御神橋」と「随神門」を寛永10年11月(1633)に徳川三代将軍家光が寄進した時に、鐘楼堂も同時に寄進され(筑波神社の前の記事はこちら)(大御堂はこちら)、それが明治の神仏分離令で寺が取り壊されて、この鐘楼堂はつくばの「慶龍寺」に移されたと書かれていたことを思い出したのです。
そうだ。この時の鐘楼がこの鐘楼なのだと。
もちろんそれから修理も改築もされているようですので、当時のものがどの程度変わらずにあるのかはわかりません。
ネットを探しても何も書かれたものがありません。何故なのでしょうか?

立派な鐘楼ですね。これほどのものはあまり見かけません。

寺紋は昔とは違っているように思います。左右の紋は土浦藩の土屋氏の家紋に似ています。
さて、この寺は真言宗豊山派の寺院となっていましたので、近くの同じ宗派の寺を探してみました。
すると雨引観音(雨引山楽法寺)も同じであった。
こちらも子供を連れてお参りに行くところとして知られる。
そこの鐘楼堂をこちらのものと比べてみたい。

雨引観音の鐘楼堂は入口の山門の右手にあるが、全容を写真に撮るのが難しい。
近づくと全部が入らない。離れると木々が邪魔をする。

この雨引観音の鐘楼堂も立派です。この堂は1254年に建設されたものを1831年に再建したものだそうです。
色々と見て歩いているうちに少し関連性が見えてきたりして、少しづつ楽しさも増すようです。
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なでしこの銀も立派ですが、レスリングは金がたくさん。
私は個人的には浜口京子さんに拍手を送ります。
最初で負けてしまいましたが、よく頑張ってくれたと思います。
親思いの優しさが勝負にはホンの少しの差になったのかもしれませんね。
胸を張って帰ってきて欲しいです。
それにしても柔道男子はダメでしたね。日本の伝統技という思いがこの成績になっているように思えます。
根性だけで勝てる世界ではないはずです。
スポーツの世界は今は食事やメンタル手法に、ITを駆使した相手の研究などを絶えず行っています。
指導者にはそれなりの指導者学が必要ですね。
さて、この泉の観音様の紹介も昨日で終わりのはずでしたが、どうにも後味が悪いのです。
今までは、何か調べると多少なりとも記事になることが見つかるのですが、ネットで調べても「豆まきのお祭り」行事と「桜」の記事ばかりです。
寺のいわれは同じことがどこにも書かれているのですが、ここにある本堂も鐘楼もたいそう立派なのですが詳しいことがわかりません。
そんなことを考えながら、ネットを漁っておりました。
すると筑波山の「大御堂(おおみどう)」文字が・・・・
そうだ、前に大御堂を紹介した時に、筑波神社にある「御神橋」と「随神門」を寛永10年11月(1633)に徳川三代将軍家光が寄進した時に、鐘楼堂も同時に寄進され(筑波神社の前の記事はこちら)(大御堂はこちら)、それが明治の神仏分離令で寺が取り壊されて、この鐘楼堂はつくばの「慶龍寺」に移されたと書かれていたことを思い出したのです。
そうだ。この時の鐘楼がこの鐘楼なのだと。
もちろんそれから修理も改築もされているようですので、当時のものがどの程度変わらずにあるのかはわかりません。
ネットを探しても何も書かれたものがありません。何故なのでしょうか?

立派な鐘楼ですね。これほどのものはあまり見かけません。

寺紋は昔とは違っているように思います。左右の紋は土浦藩の土屋氏の家紋に似ています。
さて、この寺は真言宗豊山派の寺院となっていましたので、近くの同じ宗派の寺を探してみました。
すると雨引観音(雨引山楽法寺)も同じであった。
こちらも子供を連れてお参りに行くところとして知られる。
そこの鐘楼堂をこちらのものと比べてみたい。

雨引観音の鐘楼堂は入口の山門の右手にあるが、全容を写真に撮るのが難しい。
近づくと全部が入らない。離れると木々が邪魔をする。

この雨引観音の鐘楼堂も立派です。この堂は1254年に建設されたものを1831年に再建したものだそうです。
色々と見て歩いているうちに少し関連性が見えてきたりして、少しづつ楽しさも増すようです。

