瓦会(1)-日笠神社
石岡市瓦会(かわらえ)地区を少し紹介しておきたいと思います。
吾国山-難台山(南台丈)-愛宕山(岩間山)-鐘転山(かねころばしやま)と続く石岡の東北側の山並みの麓にこの瓦会(かわらえ)はあります。
地図では瓦谷と瓦会との表記が混在していますが、元々は明治22年に近隣の小塙村・宇治会村・瓦谷村・野田村・佐久村・部原村の6つの村が合併して、瓦谷と宇治会の2つの村の名前から瓦会となったという。
この瓦の由来は、ここで国分寺などの瓦を焼いた窯跡がいくつも発見されたことが由来していると思われる。
8世紀頃にここの山側の台地で瓦を焼いた窯がいくつも掘り出され、ここで焼かれた瓦が府中(石岡)の国分寺などに運ばれたものと考えられている。
窯跡については私の別なHPを参照願いたい → こちら

瓦会の郵便局のある交差点に古びた神社があります。
「村社日笠神社」となっています。

神社の沿革を書いた石碑が建てられており、内容を要約すると
「日笠神社の祭神は弟橘姫命で創建は建治元年(1275)と云われ、近郷近在の人々に広く崇敬されてきたが、南北朝時代の難台山の戦乱で1388年に兵火で焼けてしまった。
その後、再建されたようだが、記録ははっきりせず、江戸時代に牛久三代藩主より1683年から毎年祭祀料の寄進があった。
1832年に再建した記録があるが、その後1841年に近隣の大火で類焼し、1850年に再建された。
境内神社として金刀比羅神社(大物主命)、稲荷神社(倉稲魂命)、浅間神社(木花開耶姫命)を祭る。」
ここで、面白いのはこの地が江戸時代牛久藩(山口家)の領地であったという。
イメージとして浮かんでこないが、牛久藩は新治郡にも多くの領地が有り、となりの下総国(今の千葉県)にも領地があったようだ。

この手水鉢?にもしめ縄がしてあるがどういうことか?
弟橘姫が祀られていることと関係があるのだろうか?
もっとも日笠神社という名前の神社はあまり多くはないようです。

拝殿の裏に本殿がありますが、木の板や金網によって覆われていて、よく見ることができません。
木の板は隙間がありますので、覗き込んで写真を撮りました。
立派な龍の彫り物が施されています。
フラッシュは使っていませんが、西日が注ぎ込んでいました。
← よろしければクリックお願いします。
吾国山-難台山(南台丈)-愛宕山(岩間山)-鐘転山(かねころばしやま)と続く石岡の東北側の山並みの麓にこの瓦会(かわらえ)はあります。
地図では瓦谷と瓦会との表記が混在していますが、元々は明治22年に近隣の小塙村・宇治会村・瓦谷村・野田村・佐久村・部原村の6つの村が合併して、瓦谷と宇治会の2つの村の名前から瓦会となったという。
この瓦の由来は、ここで国分寺などの瓦を焼いた窯跡がいくつも発見されたことが由来していると思われる。
8世紀頃にここの山側の台地で瓦を焼いた窯がいくつも掘り出され、ここで焼かれた瓦が府中(石岡)の国分寺などに運ばれたものと考えられている。
窯跡については私の別なHPを参照願いたい → こちら

瓦会の郵便局のある交差点に古びた神社があります。
「村社日笠神社」となっています。

神社の沿革を書いた石碑が建てられており、内容を要約すると
「日笠神社の祭神は弟橘姫命で創建は建治元年(1275)と云われ、近郷近在の人々に広く崇敬されてきたが、南北朝時代の難台山の戦乱で1388年に兵火で焼けてしまった。
その後、再建されたようだが、記録ははっきりせず、江戸時代に牛久三代藩主より1683年から毎年祭祀料の寄進があった。
1832年に再建した記録があるが、その後1841年に近隣の大火で類焼し、1850年に再建された。
境内神社として金刀比羅神社(大物主命)、稲荷神社(倉稲魂命)、浅間神社(木花開耶姫命)を祭る。」
ここで、面白いのはこの地が江戸時代牛久藩(山口家)の領地であったという。
イメージとして浮かんでこないが、牛久藩は新治郡にも多くの領地が有り、となりの下総国(今の千葉県)にも領地があったようだ。

この手水鉢?にもしめ縄がしてあるがどういうことか?
弟橘姫が祀られていることと関係があるのだろうか?
もっとも日笠神社という名前の神社はあまり多くはないようです。

拝殿の裏に本殿がありますが、木の板や金網によって覆われていて、よく見ることができません。
木の板は隙間がありますので、覗き込んで写真を撮りました。
立派な龍の彫り物が施されています。
フラッシュは使っていませんが、西日が注ぎ込んでいました。


瓦会(2)-道標
石岡市瓦会(かわらえ)は大昔からここに集落があったことが知られている。
瓦会は明治とは言え合併した時にできた名前で、この地区の地名は今でも瓦谷(かわらや)といっている。
昨日紹介した「日笠神社」の入口鳥居の前に石の「道標」が置かれている。
何故かこの古びた道標に目が止まりました。

「石岡 柿岡 真壁」と書かれています。
この書かれている正面の方向(南方面)に道がありますが、私などはあまり通ることがありません。
だいぶ前に「瀬戸井街道」を探った時にこの近くまで来ました。
おそらく、ここから柿岡へ向かっており、そこからつくば山への道を通ったものと思われます。
石岡-柿岡-真壁を結ぶ県道7号線にでます。真壁には上曽峠を通って行きます。
石岡という言葉ですので明治以降のものでしょう。
また交通安全なんていうのを見ると車が走るようになってのこととすると比較的新しいもののようです。
この道標の左側には「恋瀬 福原 笠間」と彫られています。
これは左手に進むと恋瀬地区(恋瀬小学校がある)を通り板敷峠を通って、福原や笠間に行けます。
右側は電信柱が邪魔していますが、きっと右方向は「真家 岩間 水戸」とでも書かれているのでしょうか。
何気なく置かれたこのような道標もその時代を考えさせてくれるものですね。
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瓦会は明治とは言え合併した時にできた名前で、この地区の地名は今でも瓦谷(かわらや)といっている。
昨日紹介した「日笠神社」の入口鳥居の前に石の「道標」が置かれている。
何故かこの古びた道標に目が止まりました。

「石岡 柿岡 真壁」と書かれています。
この書かれている正面の方向(南方面)に道がありますが、私などはあまり通ることがありません。
だいぶ前に「瀬戸井街道」を探った時にこの近くまで来ました。
おそらく、ここから柿岡へ向かっており、そこからつくば山への道を通ったものと思われます。
石岡-柿岡-真壁を結ぶ県道7号線にでます。真壁には上曽峠を通って行きます。
石岡という言葉ですので明治以降のものでしょう。
また交通安全なんていうのを見ると車が走るようになってのこととすると比較的新しいもののようです。
この道標の左側には「恋瀬 福原 笠間」と彫られています。
これは左手に進むと恋瀬地区(恋瀬小学校がある)を通り板敷峠を通って、福原や笠間に行けます。
右側は電信柱が邪魔していますが、きっと右方向は「真家 岩間 水戸」とでも書かれているのでしょうか。
何気なく置かれたこのような道標もその時代を考えさせてくれるものですね。


瓦会(3)-黄色種葉煙草
今日は銚子まで車で行ってきました。
雨はたいして降らないと思っていたのですが、仕事を終えて帰りにはかなりの勢いで降ってきました。
帰りの途中では小ぶりとなったのですが、これも台風の影響でしょう。
あまり勢力は大きくはない台風のようですが、明日はもっと降るかもしれません。
さて、昨日の続きです。日笠神社の境内にもう一つ気になる石碑が建てられていました。
私はタバコを吸いませんし、世の中からなくなってくれたら良いとくらい思っていますので、葉煙草の種類なども知りません。
でも、タバコを好まれる人も銘柄は知っていても、元のタバコの葉の種類などは知らないでしょう。

「茨城黄色種創始記念碑」と書かれています。
これだけ見ても地元の方以外はタバコの葉のことだと気がつく人も少ないかもしれませんね。
私はこれはタバコなんだなと気がつきました。
この瓦会地区をはじめ、八郷地区には葉たばこ農家がたくさんあります。
石岡は大きなタバコ組合があります。
今は肩身の狭い思いをしているのかもしれませんが、全国的に見てもこの地区はタバコで成り立ってきたのかもしれません。
黄色種を調べてみると、葉たばこの代表的な種類でタバコの味や香りの主体となるものだそうです。
一般的には「つくば黄色種」と呼ばれるようですが、この黄色種が初めて栽培されたのがこの地区なのかもしれません。
主に茨城から南で栽培されています。
私も数回この地を通っていますが、黄色く色づいた葉たばこがたくさん栽培されていました。
しかし、時代の流れで徐々にこれも減っているようです。
今では健康趣向の「ブルーベリー」や「ぶどう」の里に生まれ変わる日もそんなに遠くないかもしれません。

神社の裏手から見える難台山。
南北朝の戦が行われたところですが、今ではこのことを知る人も少なくなってしまったようです。

難台山から愛宕山への山並みが続きます。
天狗小僧の「寅吉」が連れてこられた山です。
手前はぶどう園でしょうか? もう稲刈りはすでに終わっています。
すぐ近くでは牛を飼っている牧場もありました。

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雨はたいして降らないと思っていたのですが、仕事を終えて帰りにはかなりの勢いで降ってきました。
帰りの途中では小ぶりとなったのですが、これも台風の影響でしょう。
あまり勢力は大きくはない台風のようですが、明日はもっと降るかもしれません。
さて、昨日の続きです。日笠神社の境内にもう一つ気になる石碑が建てられていました。
私はタバコを吸いませんし、世の中からなくなってくれたら良いとくらい思っていますので、葉煙草の種類なども知りません。
でも、タバコを好まれる人も銘柄は知っていても、元のタバコの葉の種類などは知らないでしょう。

「茨城黄色種創始記念碑」と書かれています。
これだけ見ても地元の方以外はタバコの葉のことだと気がつく人も少ないかもしれませんね。
私はこれはタバコなんだなと気がつきました。
この瓦会地区をはじめ、八郷地区には葉たばこ農家がたくさんあります。
石岡は大きなタバコ組合があります。
今は肩身の狭い思いをしているのかもしれませんが、全国的に見てもこの地区はタバコで成り立ってきたのかもしれません。
黄色種を調べてみると、葉たばこの代表的な種類でタバコの味や香りの主体となるものだそうです。
一般的には「つくば黄色種」と呼ばれるようですが、この黄色種が初めて栽培されたのがこの地区なのかもしれません。
主に茨城から南で栽培されています。
私も数回この地を通っていますが、黄色く色づいた葉たばこがたくさん栽培されていました。
しかし、時代の流れで徐々にこれも減っているようです。
今では健康趣向の「ブルーベリー」や「ぶどう」の里に生まれ変わる日もそんなに遠くないかもしれません。

神社の裏手から見える難台山。
南北朝の戦が行われたところですが、今ではこのことを知る人も少なくなってしまったようです。

難台山から愛宕山への山並みが続きます。
天狗小僧の「寅吉」が連れてこられた山です。
手前はぶどう園でしょうか? もう稲刈りはすでに終わっています。
すぐ近くでは牛を飼っている牧場もありました。



瓦会(4)-まんまや
日笠神社の前にそばとトンカツの美味しい「まんまや」さんがあります。
このあたりにはこのようなお店も少ないのでランチなどにもってこいです。
店の前にはこの通りには数少ないコンビニがあります。

外からしか写真を撮っていませんが、この建物は江戸末期頃(築150年くらい)の蔵だったものを、4年程前にこの地が気に入って、ご夫婦で越してこられ、自家農園をされながら、2年半前の春に店をオープンしたそうです。
店の内装は天井は昔からの太いむき出しの木をそのまま残し、壁などはご主人自ら手作りでしたそうです。
少し素人の手作り感も残る温かみのあるお店です。
メニューは常陸そばと地元産の美味しいトンカツに天ぷらです。
そばと天ぷらやミニカツ丼などのセットメニューが人気のようです。
それと美味しいコーヒーが自由に飲めますので、気さくな奥様やご主人との話も楽しいです。
初めて仲間と先日訪れましたが、こんな話がありました。
「もしドラ」作家の岩崎夏海さんのお父さん(岩崎俊介氏)が日本の都市デザインの大家の方で、筑波大の建築の教授をされていたそうですが、定年になりこの近くに素晴らしいお宅をご夫婦が何年もかけて手作りされているそうです。
やはり、この地がとても気に入って自ら設計した家を、材料などを寸法に切ってもらったものをご夫婦で10年くらいかけて、まず自宅への道路整備に5年かけ、その後、家の組立に内装をすべて2人で少しづつしてようやく住めるようになったそうです。
まだガレージなども、現在もすべて手作りで行っているそうです。
それに野菜にコメなども作る。
これは本当の理想かもしれませんね。
内装なども奥様も専門のようで素晴らしいそうです。
調べると、建築設計では有名な方のようですが、自分で作るのは初めてとか・・・。
もう定年を過ぎて(昭和12年生まれだそうですので頭が下がりますね)、好きな素晴らしい地に理想のマイホームを建てるのも素晴らしいですね。
山の斜面を利用して、八郷平野と足尾山に沈む夕日を眺められる「落日荘」と名付けられています。
また、このお店の少し大増よりに、「有明の松」という史跡があります。
私が前に、一度松クイ虫でダメになったものを、その木から育てた若松がこれくらいになっていたのに、またなくなってしまったと書いたところです。(記事は→こちら)
私が、「あの松はまたなくなってしまいましたよね」というと。
お店のご主人「いや、ありますよ。今日も通ってきましたので見ましたよ。」とのこと。
近くなので見に行きました。
あれ。元に戻っている。 若い松がちゃんとありました。
去年の8月に消えた松はいつのまに戻ったのでしょうか。大きさは比べて見なかったので同じ松かどうかはわかりません。少し小さくなったようにも・・・・。
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このあたりにはこのようなお店も少ないのでランチなどにもってこいです。
店の前にはこの通りには数少ないコンビニがあります。

外からしか写真を撮っていませんが、この建物は江戸末期頃(築150年くらい)の蔵だったものを、4年程前にこの地が気に入って、ご夫婦で越してこられ、自家農園をされながら、2年半前の春に店をオープンしたそうです。
店の内装は天井は昔からの太いむき出しの木をそのまま残し、壁などはご主人自ら手作りでしたそうです。
少し素人の手作り感も残る温かみのあるお店です。
メニューは常陸そばと地元産の美味しいトンカツに天ぷらです。
そばと天ぷらやミニカツ丼などのセットメニューが人気のようです。
それと美味しいコーヒーが自由に飲めますので、気さくな奥様やご主人との話も楽しいです。
初めて仲間と先日訪れましたが、こんな話がありました。
「もしドラ」作家の岩崎夏海さんのお父さん(岩崎俊介氏)が日本の都市デザインの大家の方で、筑波大の建築の教授をされていたそうですが、定年になりこの近くに素晴らしいお宅をご夫婦が何年もかけて手作りされているそうです。
やはり、この地がとても気に入って自ら設計した家を、材料などを寸法に切ってもらったものをご夫婦で10年くらいかけて、まず自宅への道路整備に5年かけ、その後、家の組立に内装をすべて2人で少しづつしてようやく住めるようになったそうです。
まだガレージなども、現在もすべて手作りで行っているそうです。
それに野菜にコメなども作る。
これは本当の理想かもしれませんね。
内装なども奥様も専門のようで素晴らしいそうです。
調べると、建築設計では有名な方のようですが、自分で作るのは初めてとか・・・。
もう定年を過ぎて(昭和12年生まれだそうですので頭が下がりますね)、好きな素晴らしい地に理想のマイホームを建てるのも素晴らしいですね。
山の斜面を利用して、八郷平野と足尾山に沈む夕日を眺められる「落日荘」と名付けられています。
また、このお店の少し大増よりに、「有明の松」という史跡があります。
私が前に、一度松クイ虫でダメになったものを、その木から育てた若松がこれくらいになっていたのに、またなくなってしまったと書いたところです。(記事は→こちら)
私が、「あの松はまたなくなってしまいましたよね」というと。
お店のご主人「いや、ありますよ。今日も通ってきましたので見ましたよ。」とのこと。
近くなので見に行きました。
あれ。元に戻っている。 若い松がちゃんとありました。
去年の8月に消えた松はいつのまに戻ったのでしょうか。大きさは比べて見なかったので同じ松かどうかはわかりません。少し小さくなったようにも・・・・。


子生(こなじ)の浜
鉾田の少し北の鹿島灘に面した浜に近いところに子生(こなじ)(旧旭村?)という場所があります。
この変わった名前の場所は、石岡の一部の人にとっては有名な場所なんです。
石岡に残る「国分寺の鐘伝説」(こちら)では、この場所に国分寺の雌雄2つの鐘が最初にこの浜に浮かんだ場所だからです。
そして、この伝説が石岡駅の下りホームに壁画として飾られているのです。(こちら)
この話は石岡では有名な話なのですが、この話をモチーフに作られた石岡の銘菓「釣鐘最中(つりがねもなか)」は知っていても、この話を知らない人も結構いるようですので、石岡の方でこのブログを読んでおられて、知らなかったら上にリンクしたHPを読んでみてくださいね。
この話は石岡以外にも、霞ヶ浦周辺にいくつも伝わっています。
この子生周辺の話では、ここから2つの鐘を常陸国府(現石岡)の国分寺に運んだのは「弁慶」になっていたりします。
逆に石岡では一つの鐘が盗まれてしまいますが、盗んだのはやはり「弁慶」だというのもあります。
伝説ですから力持ちは皆弁慶になってしまうようです。
もちろん時代も合いません。
子生は少し内陸よりなので、適当に玉田あたりに検討をつけて海を目指しました。

正面に海が見えてきました。ここで車は通行止めになっています。
歩いていくのは良いようなので、空き地に停めて歩いて坂道を下っていきました。
通行止めの入口に工事中らしく警備員さんが立っていました。

道路の両サイドにカラーコーンが置かれており、路肩が危ないのかもしれません。
この近くも地震と津波で被害を受けたのでしょう。

(サムネルです)
海岸にでました。
台風が過ぎたと思いましたが、かなり波が高いです。
北側は大洗海岸の方向ですが、波消しのブロックが置かれているのかと思いましたが、形が傘の弧のような形をしています。
先ほどの警備の方に、砂の流出防止だと後で伺いました。

昔は砂浜ももっと遠くまで広がっていたそうです。
今ではこのように波で流出してしまったのでしょう。
鹿島灘は波が荒く、船の難破も何度もあります。

(サムネルです)
南の方を見ると、波のしぶきで薄らと白いもやのようになっていました。
こんな波の高い海に船で鐘を運んできたとも考えられません。
さて、何故ここが子生という名前で、国分寺の鐘がここから運ばれたと伝説が何故生まれたのだろう。
荒れた海を眺めながらそんなことを考えていた。
そうそう、先ほどの入口に立っていた警備のおじさんも人が良さそうな方だったので、声をかけてみました。
「今日は暑くなりましたね。」
「そう。だからここ(木の陰)に立ってるの」
「でも大変ですね。昨日はもっと海の波は高かったのですか」
「いや、こんなものでしたよ。今日と同じくらい。」
「砂浜が少ないですね。」
「昔はもっと沖まで砂浜だったようだが、波で持って行かれてしまったらしい。」
「そうですか。昔みたいに戻ればいいですね。」
てな具合です。お粗末です。
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この変わった名前の場所は、石岡の一部の人にとっては有名な場所なんです。
石岡に残る「国分寺の鐘伝説」(こちら)では、この場所に国分寺の雌雄2つの鐘が最初にこの浜に浮かんだ場所だからです。
そして、この伝説が石岡駅の下りホームに壁画として飾られているのです。(こちら)
この話は石岡では有名な話なのですが、この話をモチーフに作られた石岡の銘菓「釣鐘最中(つりがねもなか)」は知っていても、この話を知らない人も結構いるようですので、石岡の方でこのブログを読んでおられて、知らなかったら上にリンクしたHPを読んでみてくださいね。
この話は石岡以外にも、霞ヶ浦周辺にいくつも伝わっています。
この子生周辺の話では、ここから2つの鐘を常陸国府(現石岡)の国分寺に運んだのは「弁慶」になっていたりします。
逆に石岡では一つの鐘が盗まれてしまいますが、盗んだのはやはり「弁慶」だというのもあります。
伝説ですから力持ちは皆弁慶になってしまうようです。
もちろん時代も合いません。
子生は少し内陸よりなので、適当に玉田あたりに検討をつけて海を目指しました。

正面に海が見えてきました。ここで車は通行止めになっています。
歩いていくのは良いようなので、空き地に停めて歩いて坂道を下っていきました。
通行止めの入口に工事中らしく警備員さんが立っていました。

道路の両サイドにカラーコーンが置かれており、路肩が危ないのかもしれません。
この近くも地震と津波で被害を受けたのでしょう。

(サムネルです)
海岸にでました。
台風が過ぎたと思いましたが、かなり波が高いです。
北側は大洗海岸の方向ですが、波消しのブロックが置かれているのかと思いましたが、形が傘の弧のような形をしています。
先ほどの警備の方に、砂の流出防止だと後で伺いました。

昔は砂浜ももっと遠くまで広がっていたそうです。
今ではこのように波で流出してしまったのでしょう。
鹿島灘は波が荒く、船の難破も何度もあります。

(サムネルです)
南の方を見ると、波のしぶきで薄らと白いもやのようになっていました。
こんな波の高い海に船で鐘を運んできたとも考えられません。
さて、何故ここが子生という名前で、国分寺の鐘がここから運ばれたと伝説が何故生まれたのだろう。
荒れた海を眺めながらそんなことを考えていた。
そうそう、先ほどの入口に立っていた警備のおじさんも人が良さそうな方だったので、声をかけてみました。
「今日は暑くなりましたね。」
「そう。だからここ(木の陰)に立ってるの」
「でも大変ですね。昨日はもっと海の波は高かったのですか」
「いや、こんなものでしたよ。今日と同じくらい。」
「砂浜が少ないですね。」
「昔はもっと沖まで砂浜だったようだが、波で持って行かれてしまったらしい。」
「そうですか。昔みたいに戻ればいいですね。」
てな具合です。お粗末です。


とちぎ海浜自然の家
昨日書いた子生(こなじ)近くの海岸のすぐ近くに、地図に「とちぎ海浜自然の家」と書かれた場所があります。
「いばらき」の間違いではないかと一瞬地図を疑いました。
すぐ近くなので行ってみました。
海岸に近い高台に立派な建物がでんと建っています。

この近くの道路から見ると少し場違いのような立派な建物です。

栃木県の生涯学習施設だそうです。海のない栃木県の子供達などに利用してもらうための栃木県の施設のようです。

施設を利用または見学をする方を除いて施設の中に入らないでくださいと書かれていました。
なら見学をさせていただくのなら構わないだろうとなかに車を乗り入れました。
入ると右側に立派な駐車場が有り20台くらいは停車していましたので利用者が来ているのでしょう。
この正面の建物の他、左側にテニスコートなどの運動場、奥の方に大きな体育館のような施設が数棟見ることができました。
ドラえもんとドラミちゃんなどが出迎えてくれます。

写真を撮っていると警備員さんがやってきました。
「ちょっと見学させていただいて、すぐに戻ります。」と話をしてすぐに失礼しました。
この施設がある場所は高台ですが、そのまま海岸に降りれるのかと思いましたが、少し周りを見てみましたが海に直接降りられるようには見えませんでした。(詳しくはわかりません)
建物の上の階に行けば太平洋の鹿島灘はよく見渡せるし、宿泊すれば日の出は見ることができそうです。
夏の海水浴ならこの少し北には大洗サンビーチがあり、すぐ南には大竹海岸もあります。
どちぎの子供たちも茨城に来て雄大な海を眺め、茨城を好きになって欲しいですね。

この自然の家に行く道と昨日の海岸への道の分かれ道の角には古びた石像が置かれていました。

(サムネルです)
この玉田地区の婦人会が置いた子安観音や庚申像?に二十三夜尊の石碑などです。
茨城もこのようにあちこちにこのような道祖神などが置かれています。
都会ではあまり見かけなくなったものですが、このようなものを見るのもどこか懐かしさがあります。
芭蕉もこのようなものに何かを感じて奥の細道を旅したのでしょうか?
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「いばらき」の間違いではないかと一瞬地図を疑いました。
すぐ近くなので行ってみました。
海岸に近い高台に立派な建物がでんと建っています。

この近くの道路から見ると少し場違いのような立派な建物です。

栃木県の生涯学習施設だそうです。海のない栃木県の子供達などに利用してもらうための栃木県の施設のようです。

施設を利用または見学をする方を除いて施設の中に入らないでくださいと書かれていました。
なら見学をさせていただくのなら構わないだろうとなかに車を乗り入れました。
入ると右側に立派な駐車場が有り20台くらいは停車していましたので利用者が来ているのでしょう。
この正面の建物の他、左側にテニスコートなどの運動場、奥の方に大きな体育館のような施設が数棟見ることができました。
ドラえもんとドラミちゃんなどが出迎えてくれます。

写真を撮っていると警備員さんがやってきました。
「ちょっと見学させていただいて、すぐに戻ります。」と話をしてすぐに失礼しました。
この施設がある場所は高台ですが、そのまま海岸に降りれるのかと思いましたが、少し周りを見てみましたが海に直接降りられるようには見えませんでした。(詳しくはわかりません)
建物の上の階に行けば太平洋の鹿島灘はよく見渡せるし、宿泊すれば日の出は見ることができそうです。
夏の海水浴ならこの少し北には大洗サンビーチがあり、すぐ南には大竹海岸もあります。
どちぎの子供たちも茨城に来て雄大な海を眺め、茨城を好きになって欲しいですね。

この自然の家に行く道と昨日の海岸への道の分かれ道の角には古びた石像が置かれていました。

(サムネルです)
この玉田地区の婦人会が置いた子安観音や庚申像?に二十三夜尊の石碑などです。
茨城もこのようにあちこちにこのような道祖神などが置かれています。
都会ではあまり見かけなくなったものですが、このようなものを見るのもどこか懐かしさがあります。
芭蕉もこのようなものに何かを感じて奥の細道を旅したのでしょうか?


こんなことも
ここ数ヶ月の韓国の動きがとても気になっています。
竹島の気違いじみた動きと、それに追随して動く韓国での報道。
これは無視するには少し度を越しているようでもあります。
日本の韓流ブームも急速にしぼんでしまいました。
一番気になるのは、韓国がスワップ協定の延長の申請をしてこないということです。
韓国がサムソンなどの営業利益が最高益となり、ウォン安や政府の援助を受けて自信をつけてきたためなのでしょうか。
私が韓国を初めて訪れたのはもう25年くらい前でしょうか。
ある企業から設備投資の機器購入の話で引き合いをもらい、最初は日本国内の企業と打ち合わせをしていたのですが、途中から韓国企業との合弁会社ができ、打ち合わせも韓国で行いました。
向こうでも年配の方はかなり日本語を話せました。
最初はスムーズに進んでいたのですが、結果的にはドイツの企業に仕事は取られてしまいました。
日本に対して好意的と思っていた人たちも、もしかしたら表面的なだけではないかと考えるようになりました。
土産店では、当時でも日本人と見れば「シャチョー、シャチョーさん」などと声をかけてきました。
そして、Reebokの靴やROLEXの時計などのコピー商品をコピーであると言って売るエリアが日本人などに人気でした。
こんなのは違法なので今はないかもしれませんね。
しかし、一部の人は「ソウルの空港の周りが緑が少なく禿山になっているのは日本のせいだ」といいます。
歴史を振り返れば、新羅、高句麗、百済の三国時代で、新羅が660年に百済を滅ぼし、百済の高官たちが日本に逃げてきて仏教を広めた。また668年に北側の高句麗も滅びて、やはり日本に数千人がやってきたといわれています。
埼玉県の高麗神社周辺、東京の狛江市、関西でも河内や山城などにたくさんいたそうです。
そして日本も新羅から本土を攻められた記録までとも聞く。
しかし、これは日本の歴史から消されてしまい、日本は大化の改新(646年)となり、白村江の戦いに続く。
この頃の史実は実は霧の中である。
この時代までさかのぼって竹島(独島)が新羅の一部だったと主張している。
その正当性をここで論じるつもりもないが、最近の韓国が中国寄りに傾きすぎてきたことが気なってきたのである。
韓国は経済的に力をつけてきたとは言え、規模から言えばまだまだ力は弱い。
中国の狙いはどこにあるのだろうか。
同じ領土問題を抱えて日本を攻め、もしかしたら韓国は中国に知らぬ間に支配されてしまう日がこないとも限らない。
韓国ははやく目を覚ましてもらいたいものだ。
中国とも日本ともうまく仲良く付き合うことを真剣に考えてもらいたい。

最近電線にこのようなものがたくさんついているのを見かけませんか?
一瞬ムクドリやスズメが列をなして留まっているのかと思いました。

これは鳥よけで「トマライン」という商標名がついているものらしいです。
よく見ると、このクリップのような物を結んで上の方に細い線が張られています。
この細い線の上に鳥が留まりにくいので鳥による糞害防止などに効果があるそうです。
人家の玄関先や鳥の害でお困りの方は電力会社やNTTなどに連絡して、必要と判断されたところには無料で設置していただけるそうです。
しかし、これも景観から見るとやはり違和感があります。
窓から見た景色にこんなのが近くでズラ~と並んだらやはり気分悪いですね。
皆さんならどちらを採りますか?
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竹島の気違いじみた動きと、それに追随して動く韓国での報道。
これは無視するには少し度を越しているようでもあります。
日本の韓流ブームも急速にしぼんでしまいました。
一番気になるのは、韓国がスワップ協定の延長の申請をしてこないということです。
韓国がサムソンなどの営業利益が最高益となり、ウォン安や政府の援助を受けて自信をつけてきたためなのでしょうか。
私が韓国を初めて訪れたのはもう25年くらい前でしょうか。
ある企業から設備投資の機器購入の話で引き合いをもらい、最初は日本国内の企業と打ち合わせをしていたのですが、途中から韓国企業との合弁会社ができ、打ち合わせも韓国で行いました。
向こうでも年配の方はかなり日本語を話せました。
最初はスムーズに進んでいたのですが、結果的にはドイツの企業に仕事は取られてしまいました。
日本に対して好意的と思っていた人たちも、もしかしたら表面的なだけではないかと考えるようになりました。
土産店では、当時でも日本人と見れば「シャチョー、シャチョーさん」などと声をかけてきました。
そして、Reebokの靴やROLEXの時計などのコピー商品をコピーであると言って売るエリアが日本人などに人気でした。
こんなのは違法なので今はないかもしれませんね。
しかし、一部の人は「ソウルの空港の周りが緑が少なく禿山になっているのは日本のせいだ」といいます。
歴史を振り返れば、新羅、高句麗、百済の三国時代で、新羅が660年に百済を滅ぼし、百済の高官たちが日本に逃げてきて仏教を広めた。また668年に北側の高句麗も滅びて、やはり日本に数千人がやってきたといわれています。
埼玉県の高麗神社周辺、東京の狛江市、関西でも河内や山城などにたくさんいたそうです。
そして日本も新羅から本土を攻められた記録までとも聞く。
しかし、これは日本の歴史から消されてしまい、日本は大化の改新(646年)となり、白村江の戦いに続く。
この頃の史実は実は霧の中である。
この時代までさかのぼって竹島(独島)が新羅の一部だったと主張している。
その正当性をここで論じるつもりもないが、最近の韓国が中国寄りに傾きすぎてきたことが気なってきたのである。
韓国は経済的に力をつけてきたとは言え、規模から言えばまだまだ力は弱い。
中国の狙いはどこにあるのだろうか。
同じ領土問題を抱えて日本を攻め、もしかしたら韓国は中国に知らぬ間に支配されてしまう日がこないとも限らない。
韓国ははやく目を覚ましてもらいたいものだ。
中国とも日本ともうまく仲良く付き合うことを真剣に考えてもらいたい。

最近電線にこのようなものがたくさんついているのを見かけませんか?
一瞬ムクドリやスズメが列をなして留まっているのかと思いました。

これは鳥よけで「トマライン」という商標名がついているものらしいです。
よく見ると、このクリップのような物を結んで上の方に細い線が張られています。
この細い線の上に鳥が留まりにくいので鳥による糞害防止などに効果があるそうです。
人家の玄関先や鳥の害でお困りの方は電力会社やNTTなどに連絡して、必要と判断されたところには無料で設置していただけるそうです。
しかし、これも景観から見るとやはり違和感があります。
窓から見た景色にこんなのが近くでズラ~と並んだらやはり気分悪いですね。
皆さんならどちらを採りますか?


龍蔵院-虚空蔵尊
茨城県の大洗海岸と大竹海岸の間の鹿島灘は太平洋の波が押し寄せるため、海岸線は比較的幅の狭い砂浜が続いています。
そして、そこに傘を広げたような防砂壁がいくつも設けられています。
この地には今は無き常陸国分寺の二つの鐘がこの付近(子生=こなじ)の浜より運ばれてきたとという伝説が伝わっています。
前に書いた海岸のすぐ近くに地図に「龍蔵院」という寺がかかれています。
ネットで調べてみてもほとんど内容がわかりません。
そこで、この寺を見てみたくなり立ち寄ることにしました。
海岸の崖の上に広がる玉田地区の住宅の台地の一番海岸寄りの脇道を少し入ったところに赤い板壁のお堂が見えました。

お堂の横に、昭和47年にこの龍蔵院本堂を改築した時の記念碑が建てられています。
内容の一部を少し省いたりしていますが下記に記します。
「明和4年に当地に建立され、一説に常陸国村松山虚空蔵尊の分室と伝えられる家内安全五穀豊穣を守護とする御仏として信仰される。明治42年10月火災により類焼したが、御本尊のみは災火から守られた。
・・・・・・
ここに於て往時不毛の地として価値なき海辺砂丘地帯を所有する玉田部落29名の共有地山林を売却し、代金の一部を削って龍蔵院本堂及び寺各所の建設を完成する。」
明和4年というと1767年で、江戸時代中期です。
また村松山虚空蔵堂というのは、東海村にある寺で、虚空蔵尊は、虚空菩薩像の中でも日本三体の一つに数えられ、十三詣りとして厄払いでも有名だそうです。
村松山虚空蔵堂は、807年に弘法大師により建立されたと書かれており、戦国時代の戦火で堂は焼けてしまったが、虚空蔵菩薩は無事で、後の1487年に頭白上人によって堂は再建されたとあります。
そう、頭白上人っていうのは頭が白かったので頭白だそうですが、先日北条地区を回った帰り道でみた大きな五輪塔(記事はこちら)で、この名前を見つけた僧です。

赤い壁の虚空堂本堂の中を覗くと、真ん中に色彩豊かな厨子が置かれています。
この中に虚空菩薩が安置されているものと思います。

その厨の横には、何やらとても古そうな仏像が置かれていました。
少し気味が悪いようにも思います。
この虚空蔵堂は「龍蔵院」と地図にも載っていますが、この玉田、子生地区には「厳島神社」という古社があります。
今回この地区に来た一番の目的はこの厳島神社の本殿を見たかったです。
国分寺の鐘伝説の現地調査はその次の目的でした。
こちらの厳島神社については明日以降に書きたいと思います。

この地区にひっそりと見物客なども訪れることはないような、このような社寺などを偶然訪れてみると、ハッとすることがあります。
もしかしたら、気がつかないことが眠っているのではないかとも思ってしまいます。
例えば、この龍蔵院は江戸中期の創建ではなく、もっと昔からあったのではないかということを・・・。
赤いお堂に曼珠沙華というのも絵になります。

花の写真を単独にアップして(マクロ?)撮るのはあまり趣味ではありません。
周り全体の中の花として風景などと一緒に花を見ないと落ち着かないのです。
赤の花を見るのでも「万緑叢中紅一点」の言葉どうり、一面の緑の草原に赤い花が一つあるから感じるものがあるように思っています。
これは、これらの社寺や道端のお地蔵さんなどでも同じです。
風景に溶け込んで初めて、そこに吹く風や土の匂いがするような気がしています。
これも個人の好みの問題なのでしょうがないですね。
これは石岡の史跡などを見るときも同じです。
常陸国分寺史跡を見るときも、単に石岡の史跡というのではなく、この史跡が置かれている環境を考えたり、常陸国(茨城)の史跡としてどう見るか、とか日本の史跡としてはどうなのか、という見方になります。
私も石岡に住んでいるので、ここに国分寺史跡があることは嬉しいのですが、石岡市民などという小さな枠で捉えることはどうしても好きになれないのです。
これは、もしかしたら私が生まれ育った場所ではないからかもしれませんね。
他所とのつながりを考えるのも好きですね。
← よろしければクリックお願いします。
そして、そこに傘を広げたような防砂壁がいくつも設けられています。
この地には今は無き常陸国分寺の二つの鐘がこの付近(子生=こなじ)の浜より運ばれてきたとという伝説が伝わっています。
前に書いた海岸のすぐ近くに地図に「龍蔵院」という寺がかかれています。
ネットで調べてみてもほとんど内容がわかりません。
そこで、この寺を見てみたくなり立ち寄ることにしました。
海岸の崖の上に広がる玉田地区の住宅の台地の一番海岸寄りの脇道を少し入ったところに赤い板壁のお堂が見えました。

お堂の横に、昭和47年にこの龍蔵院本堂を改築した時の記念碑が建てられています。
内容の一部を少し省いたりしていますが下記に記します。
「明和4年に当地に建立され、一説に常陸国村松山虚空蔵尊の分室と伝えられる家内安全五穀豊穣を守護とする御仏として信仰される。明治42年10月火災により類焼したが、御本尊のみは災火から守られた。
・・・・・・
ここに於て往時不毛の地として価値なき海辺砂丘地帯を所有する玉田部落29名の共有地山林を売却し、代金の一部を削って龍蔵院本堂及び寺各所の建設を完成する。」
明和4年というと1767年で、江戸時代中期です。
また村松山虚空蔵堂というのは、東海村にある寺で、虚空蔵尊は、虚空菩薩像の中でも日本三体の一つに数えられ、十三詣りとして厄払いでも有名だそうです。
村松山虚空蔵堂は、807年に弘法大師により建立されたと書かれており、戦国時代の戦火で堂は焼けてしまったが、虚空蔵菩薩は無事で、後の1487年に頭白上人によって堂は再建されたとあります。
そう、頭白上人っていうのは頭が白かったので頭白だそうですが、先日北条地区を回った帰り道でみた大きな五輪塔(記事はこちら)で、この名前を見つけた僧です。

赤い壁の虚空堂本堂の中を覗くと、真ん中に色彩豊かな厨子が置かれています。
この中に虚空菩薩が安置されているものと思います。

その厨の横には、何やらとても古そうな仏像が置かれていました。
少し気味が悪いようにも思います。
この虚空蔵堂は「龍蔵院」と地図にも載っていますが、この玉田、子生地区には「厳島神社」という古社があります。
今回この地区に来た一番の目的はこの厳島神社の本殿を見たかったです。
国分寺の鐘伝説の現地調査はその次の目的でした。
こちらの厳島神社については明日以降に書きたいと思います。

この地区にひっそりと見物客なども訪れることはないような、このような社寺などを偶然訪れてみると、ハッとすることがあります。
もしかしたら、気がつかないことが眠っているのではないかとも思ってしまいます。
例えば、この龍蔵院は江戸中期の創建ではなく、もっと昔からあったのではないかということを・・・。
赤いお堂に曼珠沙華というのも絵になります。

花の写真を単独にアップして(マクロ?)撮るのはあまり趣味ではありません。
周り全体の中の花として風景などと一緒に花を見ないと落ち着かないのです。
赤の花を見るのでも「万緑叢中紅一点」の言葉どうり、一面の緑の草原に赤い花が一つあるから感じるものがあるように思っています。
これは、これらの社寺や道端のお地蔵さんなどでも同じです。
風景に溶け込んで初めて、そこに吹く風や土の匂いがするような気がしています。
これも個人の好みの問題なのでしょうがないですね。
これは石岡の史跡などを見るときも同じです。
常陸国分寺史跡を見るときも、単に石岡の史跡というのではなく、この史跡が置かれている環境を考えたり、常陸国(茨城)の史跡としてどう見るか、とか日本の史跡としてはどうなのか、という見方になります。
私も石岡に住んでいるので、ここに国分寺史跡があることは嬉しいのですが、石岡市民などという小さな枠で捉えることはどうしても好きになれないのです。
これは、もしかしたら私が生まれ育った場所ではないからかもしれませんね。
他所とのつながりを考えるのも好きですね。


厳島神社(子生弁天)(1)
茨城県鉾田市子生(こなじ)には子生の弁天様と呼ばれる「厳島神社」がある。
水戸から鹿島の方に海沿いを走る国道51号線の旧旭村の子生地区に国道沿いに厳島神社の表参道入口がある。

この入口に鳥居が2つ、「村社厳島神社」の石柱と、説明板が置かれている。

「旭村森林浴の道厳島神社
承歴2年(1078)、安芸の宮島の厳島神社の分霊を迎えたことが始まりとされている厳島神社の境内を巡るコース。安産の神様として地元からは崇拝されている。
本店は小振りだが周囲は池と樹林に囲まれ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
・・・・・・・
東に足を向ければ、約1.5kmで玉田海岸にたどりつく。海岸沿いには飛砂防備保安林としてクロマツ林が広がり、海の青さとマツの緑が絶妙なコントラストを有しており、旭村の自然を満喫できる。」
と書かれています。

2つの鳥居の先に森林浴に確かに良さそうな参道が続いています。
入口にもう一つ神社の説明が書かれています。

(サムネルです)
神社の由緒の内容は
・祭神は市杵島姫命・・・これは安芸(広島)の宮島「厳島神社」の祭神で弁天様のようです。
・神社は寛文22年に火災で焼失し記録が残っていないが、承歴2年に安芸の宮島より勧請したと言われる。・・・平清盛が宮島の厳島神社の社殿を造営したのは1168年頃と言われていますので、承歴2年(1078)はその90年も前です。
・享保2年(1717年)の江戸時代に奉納された鏡に「安産をこの神に祈らば即ち安泰なり」とあるので子生村(こなじむら)と号すると言い伝えられん。
・・・私はこの説は信じられませんが、こんなことも話としては面白いでしょう。
この「こなじ」を「子生」と書いたものだろうが、名前はきっともっと前からあるように思う。
・神殿向拝柱の龍の彫刻は一本の柱をくりぬいた珍しい手法とされている。・・・この神社に来た最大の目的です。後日詳細を書きます。

この狛犬素敵ですね。
阿型の獅子は子獅子を連れています。

吽型の方は玉を持っています。

入口の長い参道が続きます。竹林も綺麗です。

参道を進むと横断する道が向こうにありますが、その先にまた鳥居があり、階段を神社の方へ下ります。
すると赤い神社の拝殿が池の中に浮かび上がって見えてきます。
安芸の厳島神社をミニュチュアにしたようなイメージかもしれませんが、綺麗な造形美です。
神社はまた明日続きを書きます。
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水戸から鹿島の方に海沿いを走る国道51号線の旧旭村の子生地区に国道沿いに厳島神社の表参道入口がある。

この入口に鳥居が2つ、「村社厳島神社」の石柱と、説明板が置かれている。

「旭村森林浴の道厳島神社
承歴2年(1078)、安芸の宮島の厳島神社の分霊を迎えたことが始まりとされている厳島神社の境内を巡るコース。安産の神様として地元からは崇拝されている。
本店は小振りだが周囲は池と樹林に囲まれ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
・・・・・・・
東に足を向ければ、約1.5kmで玉田海岸にたどりつく。海岸沿いには飛砂防備保安林としてクロマツ林が広がり、海の青さとマツの緑が絶妙なコントラストを有しており、旭村の自然を満喫できる。」
と書かれています。

2つの鳥居の先に森林浴に確かに良さそうな参道が続いています。
入口にもう一つ神社の説明が書かれています。

(サムネルです)
神社の由緒の内容は
・祭神は市杵島姫命・・・これは安芸(広島)の宮島「厳島神社」の祭神で弁天様のようです。
・神社は寛文22年に火災で焼失し記録が残っていないが、承歴2年に安芸の宮島より勧請したと言われる。・・・平清盛が宮島の厳島神社の社殿を造営したのは1168年頃と言われていますので、承歴2年(1078)はその90年も前です。
・享保2年(1717年)の江戸時代に奉納された鏡に「安産をこの神に祈らば即ち安泰なり」とあるので子生村(こなじむら)と号すると言い伝えられん。
・・・私はこの説は信じられませんが、こんなことも話としては面白いでしょう。
この「こなじ」を「子生」と書いたものだろうが、名前はきっともっと前からあるように思う。
・神殿向拝柱の龍の彫刻は一本の柱をくりぬいた珍しい手法とされている。・・・この神社に来た最大の目的です。後日詳細を書きます。

この狛犬素敵ですね。
阿型の獅子は子獅子を連れています。

吽型の方は玉を持っています。

入口の長い参道が続きます。竹林も綺麗です。

参道を進むと横断する道が向こうにありますが、その先にまた鳥居があり、階段を神社の方へ下ります。
すると赤い神社の拝殿が池の中に浮かび上がって見えてきます。
安芸の厳島神社をミニュチュアにしたようなイメージかもしれませんが、綺麗な造形美です。
神社はまた明日続きを書きます。


厳島神社(子生弁天)(2)
子生(こなじ)弁天様といわれる厳島神社の続きです。
この子生(こなじ)に上がった鐘を常陸国分寺へ運んだという場所というには、この地の玉田海岸は砂浜も少なく何故この場所なのだろうとずっと考えていた。
そしてこの地に来たがこの子生の弁天様(厳島神社)がある以外にそれといったイメージがわかなかった。
そして、今日地図を見て思い当たったことがあります。
それは、この場所が筑波山の真東だということです。(石岡からは真東はもう少し南になります。)
春分・秋分の時に筑波山から見るとこの海岸から日が昇ります。こちらから見ると山に日が沈みます。
きっとそんなことが関係していたのかもしれません。
鹿島神宮から真西には諏訪大社があります。これも偶然の一致とは言えないでしょう。
やはり水際にお祀りしていますが、坂道を降りたところにある赤い神社が水面に映えておもわずハッとします。
今はコンクリの階段ですが、昔は山道を下ったようなところにあったのでしょう。
このような造形の美が何故かあまり知られていません。

ここは今は鉾田市ですが、平成の大合併以前は旭村でした。
鉾田も旭村もどちらもメロンが有名です。
夕張みたいに高くはなくとても美味しいです。
これはこのあたりの土壌がメロン栽培やさつまいも栽培に適しているのだと思います。

坂を降りたところに木々の間から赤い円弧の橋が水に映って、思わず立ち止まり、うっとりと眺めました。

(これだけサムネルです)
左側が拝殿で、市の文化財です。奥の右側が本殿で、県の文化財です。
待望の龍の彫られた柱は、本殿をすっぽりと保護するように建屋で覆われていますので、遠目にはよく見えません。

こちらが市の文化財である拝殿です。

太鼓橋と赤い欄干が水に映ると綺麗です。
この池の水はあまり綺麗ではありませんが、鯉がおよいでいます。

こちらが本殿(社殿)です。
創建は承暦2年(1078)と伝えられますが、現在の本殿は元禄10年(1697)年に建てられたものだそうです。
こじんまりしたものですが、300年以上経つ本殿はこの中にあります。

木々の生い茂る山の中の窪地に湧き出した池の中に浮かぶように社殿を建てたのは
やはり水というものが大切にされ、弁天様を祀り、五穀豊穣を願ったのでしょう。
名前が子生であるので、子供が無事に生まれる女神ということがいつの間にか広がり、江戸時代には江戸からも参拝者があり、正月の縁日には参拝客がたくさん集まったと言われています。

毎日調べながら記事を書いていますが、仕事に出かけているときは、やはり記事のUPが遅くなってしまいます。
休みの日にある程度の記事をストックしたりしてそれを装飾して記事にまとめてもいますが、限界にも近づいて来ているかもしれませんね。
本殿の龍の彫刻を載せようと思いましたが、疲れたので、それはまた明日にします。
← よろしければクリックお願いします。
この子生(こなじ)に上がった鐘を常陸国分寺へ運んだという場所というには、この地の玉田海岸は砂浜も少なく何故この場所なのだろうとずっと考えていた。
そしてこの地に来たがこの子生の弁天様(厳島神社)がある以外にそれといったイメージがわかなかった。
そして、今日地図を見て思い当たったことがあります。
それは、この場所が筑波山の真東だということです。(石岡からは真東はもう少し南になります。)
春分・秋分の時に筑波山から見るとこの海岸から日が昇ります。こちらから見ると山に日が沈みます。
きっとそんなことが関係していたのかもしれません。
鹿島神宮から真西には諏訪大社があります。これも偶然の一致とは言えないでしょう。
やはり水際にお祀りしていますが、坂道を降りたところにある赤い神社が水面に映えておもわずハッとします。
今はコンクリの階段ですが、昔は山道を下ったようなところにあったのでしょう。
このような造形の美が何故かあまり知られていません。

ここは今は鉾田市ですが、平成の大合併以前は旭村でした。
鉾田も旭村もどちらもメロンが有名です。
夕張みたいに高くはなくとても美味しいです。
これはこのあたりの土壌がメロン栽培やさつまいも栽培に適しているのだと思います。

坂を降りたところに木々の間から赤い円弧の橋が水に映って、思わず立ち止まり、うっとりと眺めました。

(これだけサムネルです)
左側が拝殿で、市の文化財です。奥の右側が本殿で、県の文化財です。
待望の龍の彫られた柱は、本殿をすっぽりと保護するように建屋で覆われていますので、遠目にはよく見えません。

こちらが市の文化財である拝殿です。

太鼓橋と赤い欄干が水に映ると綺麗です。
この池の水はあまり綺麗ではありませんが、鯉がおよいでいます。

こちらが本殿(社殿)です。
創建は承暦2年(1078)と伝えられますが、現在の本殿は元禄10年(1697)年に建てられたものだそうです。
こじんまりしたものですが、300年以上経つ本殿はこの中にあります。

木々の生い茂る山の中の窪地に湧き出した池の中に浮かぶように社殿を建てたのは
やはり水というものが大切にされ、弁天様を祀り、五穀豊穣を願ったのでしょう。
名前が子生であるので、子供が無事に生まれる女神ということがいつの間にか広がり、江戸時代には江戸からも参拝者があり、正月の縁日には参拝客がたくさん集まったと言われています。

毎日調べながら記事を書いていますが、仕事に出かけているときは、やはり記事のUPが遅くなってしまいます。
休みの日にある程度の記事をストックしたりしてそれを装飾して記事にまとめてもいますが、限界にも近づいて来ているかもしれませんね。
本殿の龍の彫刻を載せようと思いましたが、疲れたので、それはまた明日にします。

