石岡の街並み(14)
石岡市街地も他のブログの方が時々紹介してくださっていますが、身近な人が自分の近くの街並みとして紹介するのは意外に抵抗があります。
あまり書くときっと快く思わない人もいるのだと思います。
でも、私から見れば昔の栄華にしがみついているだけではこの街の発展は望めないと思っています。
石岡駅を橋上駅に新しくする案が進んでおります。
しかし、この駅からの乗車客は2010年の調べで1日に約5710人だといいます。
1万人いた頃を懐かしむばかりでは常磐線の特急が止まらなくなるのは時間の問題です。
都会に行けば地方の私鉄の小さな駅でも1万人以下のところなどほとんどないのではないかと思います。
このような現実をしっかり見ることが大切だと思います。
そして、何をすべきなのか。
私が、ブログやホームページで地域の情報を発信する気になったのは、この町が、あまりにも情報発信力が少ないことでした。
情報を操作するのではなく、そのままでいいのでまずは石岡という名前をポピュラーにしなければその先の戦術などいくら立てても進むことができないと思います。
ですから、街中情報もあまり歯に衣を着せず書いていきたいと思います。
さて、今日は香丸町にある立派な蔵です。
石岡市街を通る旧国道355号線(昔の水戸街道)沿いには中町を中心に昭和初期建築のロマン建築の建物がたくさんあります。
これらは国の登録文化財に指定され、一般には「看板建築」と呼ばれる非常に貴重なものです。
しかし、この香丸町(現府中2丁目)のこの土蔵(石蔵?)造りの店舗風の建物は何も書かれたものがありません。
この街のシンボル的な建物でもありますが、説明がされたものをほとんど見かけません。
この建物は「浜総業(株)」の本社として使われていました。
昭和9年に浜平右衛門氏が昭和4年に起きた石岡の大火の教訓を踏まえ、火災にも強いものを建築するという意図で作られたものだといいます。
浜平右衛門氏は当時の茨城の財界の有力者で鹿島鉄道の前進である「鹿島参宮鉄道」の社長にもなった人です。
現在はこの土蔵をどのように使っているのかはわかりません。
普段は表が開いていることは見かけません。
でも、外から来てこの建物を見ると石岡のよき時代の名残を感じるものです。
石岡は昭和4年に中町を中心に多くの家屋が火災で消失しました。
当時のもので残っているものはまち蔵として利用している「丁子屋」(江戸時代の染物屋)が残るだけです。
そしてその後街道の幅を広げる意味合いからも軒を張り出さない看板建築が建てられました。
その後、こちら側の香丸町側も道幅を広げる工事がされたのです。
その時に私は詳細を知りませんが、いくつも昔の建物が壊されたりしたようです。
この建物はその後に作られたものです。
こちらは通りの反対側にある空き地ですが、細長い駐車場です。
この街の敷地の区割りがこのような細長い形となっています。
そして、石蔵などをそのまま残しています。
やはり一度石蔵マップなどを作成しないといけないかもしれませんね。
(家の敷地の奥にあったりするので、個人的に作るのはやはり限界がありそうです)
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あまり書くときっと快く思わない人もいるのだと思います。
でも、私から見れば昔の栄華にしがみついているだけではこの街の発展は望めないと思っています。
石岡駅を橋上駅に新しくする案が進んでおります。
しかし、この駅からの乗車客は2010年の調べで1日に約5710人だといいます。
1万人いた頃を懐かしむばかりでは常磐線の特急が止まらなくなるのは時間の問題です。
都会に行けば地方の私鉄の小さな駅でも1万人以下のところなどほとんどないのではないかと思います。
このような現実をしっかり見ることが大切だと思います。
そして、何をすべきなのか。
私が、ブログやホームページで地域の情報を発信する気になったのは、この町が、あまりにも情報発信力が少ないことでした。
情報を操作するのではなく、そのままでいいのでまずは石岡という名前をポピュラーにしなければその先の戦術などいくら立てても進むことができないと思います。
ですから、街中情報もあまり歯に衣を着せず書いていきたいと思います。
さて、今日は香丸町にある立派な蔵です。
石岡市街を通る旧国道355号線(昔の水戸街道)沿いには中町を中心に昭和初期建築のロマン建築の建物がたくさんあります。
これらは国の登録文化財に指定され、一般には「看板建築」と呼ばれる非常に貴重なものです。
しかし、この香丸町(現府中2丁目)のこの土蔵(石蔵?)造りの店舗風の建物は何も書かれたものがありません。
この街のシンボル的な建物でもありますが、説明がされたものをほとんど見かけません。
この建物は「浜総業(株)」の本社として使われていました。
昭和9年に浜平右衛門氏が昭和4年に起きた石岡の大火の教訓を踏まえ、火災にも強いものを建築するという意図で作られたものだといいます。
浜平右衛門氏は当時の茨城の財界の有力者で鹿島鉄道の前進である「鹿島参宮鉄道」の社長にもなった人です。
現在はこの土蔵をどのように使っているのかはわかりません。
普段は表が開いていることは見かけません。
でも、外から来てこの建物を見ると石岡のよき時代の名残を感じるものです。
石岡は昭和4年に中町を中心に多くの家屋が火災で消失しました。
当時のもので残っているものはまち蔵として利用している「丁子屋」(江戸時代の染物屋)が残るだけです。
そしてその後街道の幅を広げる意味合いからも軒を張り出さない看板建築が建てられました。
その後、こちら側の香丸町側も道幅を広げる工事がされたのです。
その時に私は詳細を知りませんが、いくつも昔の建物が壊されたりしたようです。
この建物はその後に作られたものです。
こちらは通りの反対側にある空き地ですが、細長い駐車場です。
この街の敷地の区割りがこのような細長い形となっています。
そして、石蔵などをそのまま残しています。
やはり一度石蔵マップなどを作成しないといけないかもしれませんね。
(家の敷地の奥にあったりするので、個人的に作るのはやはり限界がありそうです)
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