明けましておめでとうございます。

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(サムネルです)

新年明けましておめでとうございます。
今日の霞ヶ浦の日の出です。(歩崎公園)

残念ながら少し雲があり綺麗には日の出も見られませんでしたが、気分も爽快になりました。
「今年も頑張るぞ!」という気持ちになれました。太陽の光は本当にありがたい。

皆様におかれましても健康で明るい年になるといいですね。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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あいさつ | コメント(14) | トラックバック(0) | 2013/01/01 08:20

初詣

 元旦は炬燵に丸くなっていましたが、午後暗くなる前に初詣にと、妻と二人で筑波山神社に出かけてきました。

少し日差しが傾いていましたので、もう人も少なくなっていると思っていましたがかなり混んでいました。

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拝殿は8人くらいが1列でお参りするように係りの人が整理し、階段の下の方から並んでいました。

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おみくじ売り場も並んでいました。私はこちらはパスです。

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巫女さんもこの日は若い高校生くらいでしょうか?

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入口にある「随神門」です。寛永10年11月(1633)三代将軍家光公が寄進したものですが、宝暦4年(1757)焼失し、すぐに再建されたのですが、直後の明和4年(1767)に再び焼失し、文化8年(1811)再建されたものです。

この筑波山神社の基になった徳一法師が建てたという「知足院中禅寺」は明治のはじめに壊されたので、江戸時代にはここに寺があったことになります。

今は神社のとなりに「大御堂」という寺が再建されています。
今回私はこちらの大御堂側からの参道から神社に来ましたが、人はほとんどいませんでした。

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もう夕刻でもあるので、車も行列でした。私は手前の上にある駐車場に停めました。
少し待ちましたがすぐに駐車することができました。(500円)

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神社の手前の道に大きな鳥居があります。

しかし、昔の江戸時代の「つくば道」と言われる北条の街中から真っすぐに登る途中にも大きな鳥居があります。
そんなことも思い出していました。

今度は梅まつりの頃に来てみたいと思います。

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近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/01/02 08:39

筑波山夕景

 初詣に筑波山に行きましたが、ケーブルカーは16:40で終わりでした。

途中まで行った時には最終で降りてくる人がいたばかり。
1日朝は御来迎を迎えるために朝早くから動いていたようです。

暗くなるのは早いですね。神社への坂道の途中からも富士山が見えていました。

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(クリックで拡大します。)

筑波山に登るのはあきらめて、いつもの富士山の見える絶景ポイントへ。

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(クリックで拡大します。)

日が暮れて浮かび上がる富士の山の美しさは格別です。
土浦やつくばの街の明かりがきれいです。

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1年前に撮った写真と同じようになってしまいました。
やはり三脚や望遠を使わないとあまり綺麗には取れません。
でもこの遠く筑波山の尾根から富士山が浮かび上がって見えるのは感動的です。
今年はきっといいことが訪れるかも・・・・。

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筑波山の東側の土浦方面の夜景です。撮影は元旦の夜(夕方5時過ぎ)です。

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(クリックで拡大します。)

筑波山と夜景(西方向)

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恋瀬川と筑波山 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/03 09:52

地方、地域名(1)

 昨日の朝、空を見上げると大きな龍が一直線に西から東に泳いでいました。

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石岡は常陸国国府があったところといいますが、大昔のこと。
多くの国府のあったところも同様で、新しい建物を建てる前には発掘調査などが行われ、時間も費用もかかります。
道路もなかなか広げられず、未だに3~3m幅の法定4mに満たない道路が街中にはたくさんあります。

それにもかかわらず、昔のプライドみたいなものが漂っていて、今時「なんだかな~」なんて思うこともあります。

少し私の望む方向とは違っていても、これはまたこの地域を愛する人々でもあります。

ご多分に漏れず駅前といえどもシャター街に近づいてきている感も拭えません。
何とか少しでも活気を取り戻してくれたら良いと願っています。

これもささやかな希望で、都会のように多くの人が来るのは望みもしません。騒がしいのは好きではありません。

こよなくこの街を愛し、歴史にも思いを馳せ、八郷地区の里山を楽しんでいただける人が程々にいればそれでいいのです。
そして街中や観光地が成り立っていければと願うのみです。

今は街中を歩いていてもほとんど人がいないのですから、人恋しくなってくることがあるのです。
でもこの街の魅力は一度ハマると抜けられない魅力を持っています。

石岡には龍神山と言われるいろいろな伝説の残っている山がありました。

龍が棲んでいるというといわれ、また鬼が住んでいるとも言われてきました。
また日照りには湧水が人々の暮らしを支え、大昔から雨乞いの山でもありました。
湧水も酒造りには適していたのでしょう。古くから酒造りも盛んだったのですが、灘などのように大きくなることはありませんでした。
それでもおいしい酒が作られています。

龍神山も、もっと昔は「村上山」と言われてもいたようです。村の上にある山という意味なのでしょう。
今年も気になる地名などを探っていくことにもなりそうです。

正月から気になる地名がありました。それは「関西・関東・東北」です。

「東北」というのは日本の東北にあるので「東北」だと思っていると思います。
私もそうですし、辞書などを引いてもこのように書かれています。

でも本当にそれだけなのでしょうか?いつごろから呼ばれていたのでしょう。
東北は鬼門の方向です。偶然の一致なのでしょうか?

まずは関東、関西の名前がどのように決まってきたのかを調べてみたいと思います。

関東、関西の「関」は関所(せきしょ)のことだそうです。
こんなふうに考えたことは今までありませんでした。

律令制時代(奈良時代)に都は奈良・京都にありました。この都のある地域は畿内と呼ばれていて山城・大和・河内・和泉・摂津の五つの国があり「五畿内」と呼ばれていました。

この中の「和泉」はその前は「泉」と一文字だったそうですが、奈良時代に朝廷の命令で2文字と変更されました。
四国徳島の「阿波」もその前は「粟」と書いていたといいます。

律令制時代に作られたこの畿内から全国の首都を結ぶ街道に関所が設けらました。

東に向う街道は三つで、東海道は「鈴鹿関(すずかのせき)」、東山道は「不破関(ふわのせき)」、北陸道は「愛発関(あらちのせき)」がおかれました。この時の古東海道は伊賀国から始まりますので、その途中の亀山市関町あたりが鈴鹿関、また不破関は天下分け目の関ヶ原あたり、愛発関は越後国の入口で、福井県敦賀市の南あたりとされています。

(愛発関は、平安時代には山城国と近江国の国境の「逢坂関」(滋賀県大津市)に変わります。)

奈良時代の三関を地図にマークしてみましょう。

三関

地図でもわかるようにこの関から東を「関東」と呼んだとしても、今の関東とはイメージが合いません。

これは鎌倉幕府ができて今の関東地方が定まったと考えられます。
鎌倉幕府が朝廷から認められた直接統治の国が今の関東地方にそのままなったそうなのです。

関東武士の地域といったところなのでしょう。
この時にそれまで同じ関東と呼ばれていた中から「三河」「信濃」「越後」が中部地方になったのです。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/04 08:47

地方、地域名(2)

 昨日は畿内から東に伸びる街道に作られた三関を紹介しましたが、これらの関所ができた時期は天武天皇元~2年(672~673年)とされています。大化の改新が645~646年ですからそれから約27年後になります。

この頃の天皇の地位はまだ危うく、時々この関を固めるように発令が出されています。
しかし、延暦8年(789)に桓武天皇の勅によりこの三関はその機能を停止したようです。
完全になくなったわけではありませんが、畿内を守るという役目は薄くなったようです。

その後、三関の越後の入口にあった愛発関はなくなり、相坂関(逢坂関)が加わったが、これは京の都にずっと近く、琵琶湖の入口(大津市)にありました。
逢坂の関は万葉集などにも歌われ、ここで都から旅立つ人を送った場所となったのでしょう。

これは天皇の政権(大和王朝)がかなり安定してきたためであり、10世紀ころにはこの三関はもうほとんど機能していなかったと言われています。

さて、ではその先の関東と東北地方の関を見てみましょう。

関はやはり三つあり、東海道「勿来関」、東山道「白河関」、北陸道「鼠ケ関(念珠関)」の三関所を奥州三関と呼びます。

奥羽1

東山道は終点が仙台の先「多賀城」でした。この道は東北地方に限ってみると大雑把に行って現在の4号国道やJR東北線の鉄道に近いところを通っていました。

この街道に作られたのが白河関です。
しかし、この関が何時作られたかは不明で、7世紀後半から8世紀始め頃と考えられます。
もちろん最初の頃はこの地の先は蝦夷地と言われ、まだ大和王朝の勢力が完全には及んでいなかったと思われます。

当時は陸奥や出羽に鎮守府将軍が北方防衛のために派遣され、警護にあたっていたと思われます。

上の地図には東山道の終点「多賀城」の位置と、もう一つ平泉の近くの「達谷窟」の位置を示しています。
達谷窟については平泉が世界遺産に選定されて、観光のブームとなっていますが、この達谷窟も同じように見る観光記事が散見されます。

しかし、この地は蝦夷の首領「アテルイ(阿弖流為)=悪路王」たちが最後まで戦った場所でした。
アテルイとその部下モレ(母礼)が坂上田村麻呂の軍に投降したのは802年のことです。

その後この二人は京に送られ、首を切られて死にます。京都の清水寺に石碑が立てられています。

さて、この後捕まった残りの蝦夷の人たちはどうなったのでしょうか?
よくわかりません。大和朝廷に忠誠を誓ってこの地の平定に力を貸した人もいるでしょう。
また、最後まで抵抗した人もたくさんいたでしょう。
またもっと北を目指して逃げていった人もたくさんいたはずです。

これについては青森の「ねぶた祭り」の起源としてひとつの話が伝わっています。
捕まった蝦夷の人々は生きたまま穴に押し込まれた。そして上に蓋をかぶせ生き埋めにしたのだと・・・・。

ねぶた=根蓋で、蓋をした上で足を踏ん張って担ぎ上げられている武者絵はこの坂上田村麻呂なのだと。

私はこの説には同意しません。それほど昔からのこの怨念や田村麻呂をたたえるにしてもこの祭りの持つ盛大な勢いとは全く相容れないし、祭りの起源はきっとそんなところにはないだろうと思います。

昔からある祭りは基本的に豊作を祈るもの(雨乞いなども)や霊を祈るものなどでしょう。
一般に言われている「眠り流し」が起源というのは妥当なものだと考えています。

長くなりましたので続きは明日へ。

正月早々記事が長くなってしまいました。

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地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/01/05 15:17

地方、地区名(3)

 奥州三関のもう一つ「勿来関(なこそのせき)」について少し考えてみました。

古東海道の延長線上に設けられた「勿来関(なこそのせき)」はいつごろ出来たのでしょうか。
最初に作られた古東海道は各国の国府をつないでいました。

この東海道の最後が常陸国(茨城県)ですから、この国府が石岡に有り、ここが街道としては終点です。

「常陸」の名前の由来についてはいくつもの説が唱えられています。
もっとも有力とされているのが「直道(ひたみち)」説です。

常陸国に来るには海・山を越えやってきます。するとこの常陸国は平らな平野が広がっています。
どこまでも続くまっすぐな道(陸)の国だというので「ひたみち」となり「ひたち」となったというものです。

これにはある程度根拠もあります。常陸国風土記にも同じような話が書かれています。
東北地方は最初道の奥にある地域という意味で「道奥(みちのく)」と呼ばれ、それが次第に平地の奥という意味で「陸奥(むつ)」と呼ばれるように変わっていったのです。
常陸(ひたち)も直道 → 常道 → 常陸 になっていったというものです。

しかし、これもひとつの解釈で、「日高見国」が「ひたち」の起源という考え方もあります。

日本全国の「日高」の地名を追っていくと面白いことが分かってきます。

古くから歌舞伎にも安珍・清姫伝説として取り入れられている「道成寺」があるのが「和歌山県日高郡日高川町」です。

ですからここが大和に東進してくる前の「日高見国」と言えそうです。

その後、大和王朝が成立した頃にはこの常陸国あたりにあったのです。

 『日本書紀』には、景行天皇の二七年二月条で東国事情を調査して帰った武内宿祢が東夷の中に日高見国があって土地が肥えていて広いから討って取るべしと天皇に進言しています。

この奪い取る地(日高見国)は明らかに蝦夷地ですが、ここ常陸国(茨城)がその地と考えてもいいと思います。

ですから黒坂命(くろさかのみこと)が原住民(蝦夷)たちを制圧しながら霞ヶ浦の入口(美浦村)から兵を進めて、日立市の少し北(高萩市の西)竪破山(たつわれさん)まで進行してそこで死んだと言われているのです。

そして、フツヌシ(香取神)とタケミカズチ(鹿島神)をこの地の平定につかわしたのではないでしょうか。
この二神は出雲の平定の国譲りでも活躍しています。

時代の前後はよくわかりませんが、まだ常陸国が蝦夷地であった時に、ここ常陸は「日高見国」と呼ばれていたのです。
このため「日高見」が「常陸」となったというように考えることも自然なのです。

伊勢などからみて、最も日が高くなる夏至の頃に日が昇る方向は東よりも地軸の傾き(23.5度)ほど北方向から太陽が上りますので、東北方向と言えないこともないと思います。

鬼門(=良いも悪いも最も大きな力がやってくる方向)が丑寅(=艮うしとら)の方向と鬼門が一致してくるのかもしれません。

日高見

常陸が「日高見の国」といわれていたと書きましたが、これは先に述べた日本書紀の記述の他に、常陸国風土記にも見られます。

「黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のためここで亡くなった。このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたやうで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふ」

黒坂命は地図にある「竪割山」で病に倒れたとなっています。
この地まで蝦夷を追っていったのでしょう。

そしてその亡骸を「日高見の国」へ運んで埋葬したというのです。この場所は信太(しだ)の国ということですので、霞ヶ浦の入口にある「美浦村」と考えられます。

この表現からすると「日高見の国」というのは当時の蝦夷地というのではなく、蝦夷地と接する大和朝廷の勢力が及ぶ地域の境界あたりを指しているように思います。
日が高く昇る地ということもできそうです。

さて「勿来関」はこの竪割山より北にあります。古東海道の終点都市「石岡」から道は延長されていました。
水戸市の那珂川沿いの「渡里町」の那珂川を挟んで両側に駅屋(うまや)がありました。
そこから道はいくつかに分かれたようです。

一つは那珂川をさかのぼり、城里町を通り、もう一つは久慈川をさかのぼって今の水郡線に沿って北上します。
これは、その後の八幡太郎(源義家)らが征夷大将軍として進軍した時にこちらを通ったと私は考えています。

そして現在の田村市(坂上田村麻呂から名前をつけた)(旧船引町など)あたりで東山道に合流したようです。

海寄りの道はこの竪割山の方から北上して「いわき」の手前の「勿来」に来ます。
「な・・・そ」というのは、学生時代に古文で習った「・・・するな」という構文と考えられるといいます。

すなわち「な来そ」=「来るな」という意味ではないかと言われています。

ここからこっちには来るなというのは「蝦夷の人たちが来ないでくれ」と言っていると解釈するのが普通です。

ただ、はっきりした場所も特定されていないし、設置された時期も明確ではありません。
でも状況から考えて、黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなった後ですよね。

さて、ここまで考えてきて、「茨城」の名前の由来をもう一度考えてみたいと思います。

常陸国風土記には次のように書かれています。

「昔、山の佐伯(さへき)、野の佐伯といふ国巣(くず)(俗に「つちくも」または「やつかはぎ」)がゐた。普段は穴を掘ってそこに住み、人が来れば穴に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでゐた。まるで狼か梟ででもあるかのやうに、あちこちに潜んでゐては、物を盗み、祭に招かれても様子がをかしく、風習がまったく異なってゐた。あるとき、大(おほ)の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、あらかじめ彼らの住む穴に茨(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。佐伯たちは、あわてて穴に逃げ帰ったが、仕掛けられた茨の刺がからだ中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。このときの茨から、茨城の名となった。 諺に「水泳(みづくぐ)る茨城の国」といふ。
別の話では、山の佐伯、野の佐伯は、山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻ってゐた。彼らと戦ふために、黒坂命は、茨をもって城を造った。その土地の名を茨城といふやうになった。」(口訳・常陸国風土記より)

この黒坂命が大の一族であることがわかります。
一般には多氏(おおし)と言われる皇室の一番古いとされる一族です。

このように考えていけば、この地にいた蝦夷人(縄文人)たちがどのように扱われ、制圧されていったかを見てとれるのではないでしょうか。

ですから茨城という地名の名前はあまり好きになれません。
ましてやバラの花が咲いている野原が広がっていた場所だなんて解釈することなどできるはずもないのです。

潮来(いたこ)は昔「板来」と書きました。これを「潮来」に改めたのは水戸光圀だと言われています。
この地方では潮宮をイタミヤと読むように潮は「いた」という読み方をしていたのです。

むかし、この地に進出した大和朝廷の武人(タカミカヅチなど)はこの潮来の地に原住民を大量に集めました。
そして、皆殺しにしたというのです。
「いたく殺した」が「板来(いたこ)」になったと言われているのです。

このような内容を不快と思う方もおられるでしょう。

でも真実を見極めるためには、歴史の記述に隠れている裏も見ていかないと、その後の歴史観を左右するのです。

真実かどうかはあまりはっきりしていませんが、ヤマトタケルが鏡をかざすとその地にいた人々はひれ伏して皆その後ろに従ったと本当に思うのでしょうか?

次回に続きます。

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地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/06 10:32

地方、地区名(4)

 奥州三関の残りの一つ「鼠ヶ関(ねずがせき)」は新潟県と山形県の県境(山形県鶴岡市)にありました。

やはりこの関所も蝦夷との境を守る(攻める)拠点となっていたようです。江戸時代には念珠関とも書かれました。

源義経が日本海側から奥州藤原氏をたよって平泉に逃げ込んだ時にここ(弁天島)に上陸したことが知られています。

「鼠(ねずみ)」という字が使われますが、これは蝦夷人をさして呼んだ言葉のようです。

常陸国風土記でも「狼の性(さが)、梟(ふくろふ)の情(こころ)ありて、鼠(ねずみ)のごと窺(うかが)ひ、狗(いぬ)のごとく盗む」と表現しています。

胆沢

日本書紀646年の「是歳、越国の鼠、昼夜相連りて、東に向かひ移り去く」の「越国の鼠」とは内陸に住む蝦夷のことと村上市のウェブサイトの解説にあるとWikipediaに記載されています。

さて、地図では白河関からも、この鼠ヶ関からも、平泉へつながります。

平泉の少し西に「達谷窟(たっこくのいわや)」があります。
蝦夷との最後の死闘が繰り広げられた場所です。

その岩窟の後に田村麻呂が「毘沙門堂」が建てたとされています。
こんな岩場にどうして建てたのだろうというのも、この蝦夷との戦いの歴史を見てみると分かってきます。

さて、平泉の北に「水沢」がありますが、ここに田村麻呂は「胆沢(いさわ)城」を築きました(802年)。
そして、それまで仙台近くの「多賀城」にあった鎮守府の機能がここに移されたのです。

その後150年にわたって、鎮守府将軍や征夷大将軍などとして、この胆沢で指揮を執ったものと思われます。

そのころの「日高見の国」というとこの少し北にある「北上」あたりでしょう。
北上川の流域を日高見と言っているようです。

さて、地図にはもう一つの「後三年駅」の場所を載せています。秋田県の南部の奥羽本線にあるJRの駅です。
この駅もブログで秋田の方に教えていただきました。感謝です。

この駅の付近が八幡太郎義家が前九年の役の後に、2度目の蝦夷征伐「後三年の役」(1083年~1087年)の時に、この地が戦場になった場所だというのです。

この横手市付近にはこの頃の戦いの場所となったところがいくつか残されているようです。
記録も、この頃になるとネズミだのオオカミだのという言葉は消えています。

もう蝦夷という言葉はどこかに消え、清原氏、安倍氏などの争いになっています。
そこに源義家が陸奥守に任命されて絡んできます。

話の発端は常陸国が関わってくるのですから、どのように理解したらいいのかもよくわかりません。

話が飛んでしまいましたが、あまり書くとボロが出てきますので、この辺でこの話は終わりです。

しかし、昨年、江差追分の歌詞を知って驚きました。これもブログで知ったものです。

-前 唄-
国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー 
いくよねざめの 波まくら
朝なタなに聞こゆるものはネ~
友呼ぶかもめと 波の音


-本 唄-
かもめの なく音に ふと目をさまし
あれが蝦夷地の 山かいな


-後 唄-
月をかすめて 千鳥が鳴けばネ~
波もむせぶか 蝦夷の海

この歌は、明冶23年江差に渡った南部水沢の虚無僧「島田大次郎」が、越後で修得した信濃川の船唄を本唄の前付けとして吹奏したことから広まったとされています。
上の歌詞は代表的なものですが、たくさん種類があります。

下記は初代浜田喜一の江差追分(YouTube)です。



北海道はまだ蝦夷地と呼ばれていたのです。

そう、その頃には「日高見の国」は北海道の日高地方の名前になっていたのです。

最後に一言、平泉には京都や奈良を凌ぐほどの優雅な文化が花開きました。
奥州藤原氏の残した文化です。
これは、この後三年の役の後に開花した文化です。
しかし、これも源頼朝により1189年に滅ぼされたのです。

たった100年でしたが、世界に誇れる素晴らしい文化です。

仙台の伊達政宗なども海外にも目を向けていた優れた武将でした。

東北は鬼門の方向などというのではなく、日が昇る方向でもあったのです。
もっとも鬼門というのも忌み嫌うようになったのは、もっとずっとあとなのではないかと思います。

鬼門の方向=東北方面=もっとも輝く夏至の太陽が登る方向=力強いエネルギーがやってくる方向

=鬼がやってくる方向=不浄なものを配置してはいけない方向 

程度のことかもしれません。

また風水などでいう鬼門は自分の屋敷や武将が領有していた地域などの比較的狭い範囲の東北方面に角を指すと私は解釈しています。
そのため、家の東北の角に置くものを考慮し、塀の東北の角をなくす工夫をしたり、京都などの町の北東に鬼門を守る神様を安置したりするのでしょう。

一般に中国から来た風習だと言われていますが、日本であとから広がっていったものと思います。
中国の匈奴からの侵入を防ぐために万里の長城を建設しますが、これは北東というよりは北側です。

蛇足ですが、常陸などの地に1万年以上にもわたって住んでいた「縄文人」は長いあいだ自然を愛し、民族間の争いなどはなかったようです。

発掘された骨なども争いの傷などは何も残っていないのです。
弥生人が来て、争いが起こり、傷ついた人骨が増えたといいます。
これも、まだ今からたった千数百年前のことなのです。

最後に自分の記録のために調べた「日高」の地名を記載しておきます。

大分県 日田市日高町
高知県 高岡郡日高村
和歌山県 日高郡日高川町
和歌山県 日高郡日高町
和歌山県 伊都郡かつらぎ町日高
兵庫県 川西市日高町
兵庫県 豊岡市日高町
愛知県 刈谷市日高町
長野県 長野市中条日高
埼玉県 日高市
群馬県 高崎市日高町
茨城県 日立市日高町
岩手県 奥州市水沢区日高西
岩手県 奥州市水沢区日高小路
北海道 日高郡新ひだか町
北海道 沙流郡日高町

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地名 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/01/07 19:14

富田北向観音(石岡)

 石岡の昔の街立てをどのように作ったのか?
この北向観音を見て考えてみるとわかりやすいように思います。

石岡市街地といわれる旧町内の通りは比較的碁盤の目を意識した作りがされていたようです。
もっとも人や荷馬車が通ることを考えていたくらいだから通りの幅はかなり狭かったのかもしれない。

 北向観音は長野善光寺の南向きに対の形で上田にある北向観音が有名だ、極楽浄土を願う寺に向かい合う向きにある全国の北向観音は拝む人が南(天竺)を向くようになる。
現世の福を願うというが、ここは十一面観音を祭っている。

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歴史を紐解いてみると、意外に面白いことがわかる。
この北向観音は今の位置の50m、ほど手前にあったものをここに動かしたのそうだ。
何時頃のことだろうか? よくわからない。

この観音堂は今の常陸国総社の境内に神社の神宮寺として建立されたものだそうだ。
それが元禄年間(1688-1703)に、その神宮寺を今の50mほど北側の富田町の中に移したという。

しかし、その後、寺も現在地に移された。
下の地図が書かれたのが、天保(1830-1843年)年間というのでこの時には既に現在地にあった。
従って、この間のことになる。観音堂のみが残ったという。

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この北向観音のとなりは府中酒造さんがあり、登録文化財の建物がいくつか残されています。
反対側は平福寺(常陸大掾氏の歴代の五輪塔がある)の入口である。

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境内にある地蔵堂。

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北向観音は府中(石岡)の街を南端から北を向いて見守っているようである。

 この北向観音堂には、市指定文化財「鰐口(わにぐち)」が残されている。
この鰐口には天仁年間(1108~1110)の銘があったとも伝えられているというが現在は確認できない。

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この北向観音が府中の南端で北を向いているのに対し、北側にあったのは現在国分寺の境内に山門だけがのこる「千手院」である。

千手院は大きなお寺で、旧355号(中町通り、香丸通り)の先、泉町の交差点の少し先に、通りの突き当たりのようにあったのである。

これは明らかに意図的にこの石岡の街立てを意識して作られたものだろう。
江戸時代になってからのことだろうか?

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江戸時代の石岡の古地図を載せておきます。(クリックで拡大します)

石岡古地図s2

この富田北向観音は地図の真ん中下のあたりに「トミタ」と書かれているところです。
この1本左の道が355号線の旧水戸街道ですが、町の北(地図の上側)に「千手院」があります。



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石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/08 19:37

石岡の街並み(20)

 昨日書いた「富田北向観音のまっすぐ前の道は駅前の八間通り(御幸通り)から一方通行の横道だ。
その正面が北向観音になる。

その通りは地元では「金丸寿通り」または単に「寿通り」というようだ。
通りの歩道部分もきれいに整備して、少し趣が出てきている。

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このような造りの家も珍しい。

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上の家の隣にある少し洋風な建築。
地図には「氏江商店」とあるが、商店には見えない。

IMG_5077s氏江商店

入口の看板には「検察審査会」の文字があった。
またドアに「要注意」の白い紙が貼られていた。

これは地震の時に貼られたものかもしれない。
このあたりのお店などは、全てチェックを受けて、取り壊しになったり、修理が必要となったりしたのだが、色紙だったと思う。

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少し進んで、NTTの建て屋(金刀比羅神社の横)の前の横丁を入った。

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古い石蔵などが目立つ。この通りは「守横通り」?、「守木通り」? よくわからない。
前にも書いたが、通りの名称(愛称)を是非表示して欲しい。
これは観光客などにも親しみを持っていただくのにも必要なことだ。

東京などもかなり表示が進んできたように思う。

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「丸三」そば屋さん。

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和風居酒屋「河内屋」さん。
の外壁にたくさんの蔦が・・・・

看板には「おにぎり」と書かれている。


さて、石岡駅前の市街地活性化のために、いろいろ取り組み始めているが、来年駅前に「石岡屋台村」をオープンさせるという。
昨年末より参加店の募集を始めた。

駅前近くにあった「西友」が何年も前に撤退し、ロッテリアが今回の地震で営業をやめてしまった。
駅から1分の場所に屋台村をはじめるという計画だ。

これをやるなら、市役所や商工会などでもぜひ利用するようにして欲しい。
皆車で出勤を考え直したのだが・・・・

でも、私も最近ほとんど酒を飲むのをやめてしまったからな・・・・。

おいしいラーメン屋でも出来たら行きたい。

最近ホームページを立ち上げた。 → こちら

いしおかサンドの次は「屋台」だそうだ。
B級グルメに是非参加して、石岡の新名物を作って欲しい。

八郷のシャモもなかなかお目にかかれない。 いつも提供しているところが少ない。
冷凍技術の進歩がものすごいのだから、いつでも提供できるようにして欲しいものだ。

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石岡の街並み | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/01/09 19:01

石岡の街並み(21)

 2日前に書いた「富田北向観音」のとなりに「府中誉(府中酒造)」さんがあります。
昔は関東の灘などとも言われるくらいの酒どころでもあったようですが、規模はみなそれほど大きくはなく、昭和の半ばには、この「府中誉」さんが残り、その他の酒造が一緒になり「石岡酒造」の2社、及び高浜の「白菊酒造」さんが残るのみになりました。

 府中誉の酒といえば、幻の酒米と言われる渡舟で醸造した大吟醸「渡船」が有名です。
創業は江戸時代末期の安政元年で現在で7代目になります。

石岡酒造では清酒白鹿の他に山田錦を使った「筑波」という大吟醸の評判が良いようです。

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今回の地震でかなり被害もあったようですが、屋根などを修理して大きな問題もなく再開できたようでホッとしています。

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この府中誉さんの蔵などは、中町などの昭和ロマン看板建築の建物と同時に、国の有形文化財に登録されています。

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昭和4年に市街地の中心で発生した大火は、西北からの大風の影響で、瞬く間に街の大半を飲み込んで広がりました。

しかし、火の波はこの府中誉さんの建物や、富田北向観音堂の前で東方向の高浜への街道を走っていきました。
このため、この前の通りより南は影響を受けずに済みました。

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広い敷地を持っています。上の写真は 裏側の6号国道側(南側)からみた酒造所です。

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西側からの眺めです。

渡船は市内の酒屋さんでも買えますが、この酒蔵の入口にあるたてやの中でも買えます。
酒米の表面を削って半分位にしたものを使います。
このため50%、55%などと削った分量で種類が分かれています。お値段も削った量に比例します。

とても美味しいお酒ですので、石岡に来たらここでお酒を買ってみてください。
車でないなら試飲も可能です。
但し、工場見学はあらかじめ予約が必要です。

石岡酒造さんは東大橋の方に工場があるので、駅から歩いていくのは遠いです。
一般にはこちらで製造している「筑波」のお酒の方が出回っていますし、お店などにも置かれています。

渡船は、お米の量がまだ少ないので、本格的に大量に作れるまでにはもう少しかかるのかもしれません。
でも「幻の・・・・」なんていうのも話題になっていいのではと思います。

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石岡の街並み | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/01/10 18:58
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