小貝浜
常盤高速を日立北インターで下り、6号国道に出て北上すると、直ぐに日立市の日高、川尻と続き直ぐ右手に「蚕養神社」、左手に「館山神社」の看板が見えます。
この蚕養神社(こがいじんじゃ)は、会津若松の蚕養國神社(こがいくにじんじゃ)ほど有名ではありませんが、古くからある神社で常陸国の三蚕神社の一つです。
詳しくはもう少し調べてから紹介します。

6号国道に面したところに神社の拝殿のような建物が有りますが、これは社務所で、その脇に上の海に面した高台に登る石段があります。

石段を上ると、向こう側に太平洋が見え、左手が蚕養神社に行き、そのままさらに登っていくと そこが小貝浜緑地です。

海沿いの散策路を少し登ったり降りたりしていくと、「茨城百景 小貝浜」の碑が立っています。


松や雑草などで海の景観を木々の間から垣間見て進みます。
この緑地の眺めは素晴らしく道も整備されていますが、道を外れて海の方に行くと危なそうです。
比較的地盤がもろいようです。
危ないところはロームを張ってありますし、進入禁止の立札のある場所もあります。

案内板に書いてあるように松の枝ぶりと波の打ち寄せる様は絵になる風情があります。
(サムネルです)

この下の海辺の洞窟もあり、下の浜にも降りられるようですが、歩くのがくたびれそうなので、途中から6号国道の方に下りました。
上の写真は不動岬?
島のようになっているのは侵食して島になってしまったのかもしれません。
島の上に松が植わっています。夫婦松と呼ばれているものでしょうか。

途中の断崖の上に立つ「波切不動尊」です。

潮風により風化の速度が速いと思われますが、何回も新しくして続いてきたようです。
右がたぶん1代前の石像? 奥にさらにもう形のわからなくなった2つの石像もあります。

← よろしければクリックお願いします。
この蚕養神社(こがいじんじゃ)は、会津若松の蚕養國神社(こがいくにじんじゃ)ほど有名ではありませんが、古くからある神社で常陸国の三蚕神社の一つです。
詳しくはもう少し調べてから紹介します。

6号国道に面したところに神社の拝殿のような建物が有りますが、これは社務所で、その脇に上の海に面した高台に登る石段があります。

石段を上ると、向こう側に太平洋が見え、左手が蚕養神社に行き、そのままさらに登っていくと そこが小貝浜緑地です。

海沿いの散策路を少し登ったり降りたりしていくと、「茨城百景 小貝浜」の碑が立っています。


松や雑草などで海の景観を木々の間から垣間見て進みます。
この緑地の眺めは素晴らしく道も整備されていますが、道を外れて海の方に行くと危なそうです。
比較的地盤がもろいようです。
危ないところはロームを張ってありますし、進入禁止の立札のある場所もあります。

案内板に書いてあるように松の枝ぶりと波の打ち寄せる様は絵になる風情があります。
(サムネルです)

この下の海辺の洞窟もあり、下の浜にも降りられるようですが、歩くのがくたびれそうなので、途中から6号国道の方に下りました。
上の写真は不動岬?
島のようになっているのは侵食して島になってしまったのかもしれません。
島の上に松が植わっています。夫婦松と呼ばれているものでしょうか。

途中の断崖の上に立つ「波切不動尊」です。

潮風により風化の速度が速いと思われますが、何回も新しくして続いてきたようです。
右がたぶん1代前の石像? 奥にさらにもう形のわからなくなった2つの石像もあります。



蚕養神社(日立市豊浦)
誰が何時頃から言いだしたのか「常陸国の三蚕神社」というものがあるそうだ。
今日紹介する日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」、以前紹介したつくば市の「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」(記事はこちらの金色姫伝説)、もう一つは神栖市の「蚕霊神社(さんれいじんじゃ)」を常陸国の三蚕神社と紹介されている。
どれもそれ程大きな神社ではない。しかし、皆古くからある神社で、創建などはよくわからない。
しかし三ヶ所すべてに、地名として豊浦と呼ばれる場所に有り、金色姫伝説の説明看板が掲げられている。
その中で、もっとも豊浦という地名が広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前があるのはこの日立市北部の蚕養神社だけである。
どう説明して良いかわからずにいたが、訪れてみたが少しは感じるかと思ったが、なお更わからなくなってきた。
では少しずつ、写真を見ながら考えてみたい。

6号国道の左右に神社があり、道路で分断されたように見える。
そして右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
この左右の神社の氏子は共通であるようだ。

こちらが西側の館山神社と書かれた神社。上に登る石段が続く。

東側(海側)の神社が「蚕養神社」である。
入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。いまこのあたりを小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。

社務所の脇に立てられていた看板。少し薄くなっているが、写真をクリックして拡大して頂ければ読むことができると思います。
タイトルは「日本最初 蚕養神社」となっています。
内容もどこまで理解してよいうのか全く不明。
この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?
養蚕に関する神社は日本にたくさんあるが、ここ常陸国の神社がそれらの総本山になっているのはのは確かで、かなり古くから信仰されてきたことは間違いないだろう。

神社へはこの脇の階段を上って行く。

登ったところに、ここにも「金色姫伝説」が書かれていた。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは皆同一である。
後から神栖市の蚕霊神社にも行ってみたが、同じ伝説の看板が掲げられていた。
調べたところこの話の出処は享和2年(1802)の「養蚕秘録(全三巻)」のなかに書かれている話が元になっているような気がする。
この書物は今の兵庫県(但馬の国)養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が18歳の時に、奥州(今の福島)で蚕種を買い求めて、研究し、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、この伝説が載っているというのです。
上垣守国の偉業を記念して兵庫県養父郡大屋町に「上垣守国 養蚕記念館」が建てられています。
また海外でも早くから注目され、オランドやフランス、ドイツ語などに翻訳されて古くからヨーロッパに広まっていたといいます。
どうも私にはこの三ヶ所が、上垣守国が奥州に来て伝説を聞いて書物に表した金色姫のたどり着いたという「豊浦」は自分のところだと行っているように見えます。
真実はどうなのでしょうか?

蚕養神社の拝殿です。この蚕養神社は「日本最初」、つくば市神郡の蚕影山神社は「日本一社」、神栖市の蚕霊神社は「日本養蚕事始」とそれぞれにうたっています。

こちらが本殿です。少し痛みが激しくなっています。
この神社を調べていたら、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたとありました。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。(息栖神社はこちらを参照ください → その1、その2、その3)
この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
実は息栖神社は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。
そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があるんです。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
また根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
特につくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていますが、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めています。
そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。
それが証拠に、全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されているようです。
(詳しくは調べていませんので、違っているかもしれません。)
東京都立川市の五日市街道沿いに阿豆佐味天神社の境内に「蚕影神社(こかげじんじゃ)」があります。
この神社は猫の像が飾られており、猫返し神社とも言われています。
ここにお参りすると、いなくなったペットの猫が戻ってくると言われています。
養蚕農家にとっては天敵のねずみを捕まえてくれる猫を大切にしていたのです。
しかし、この立川の蚕影神社は名前からして、恐らくつくば市の蚕影山神社から江戸時代初期に分霊されたと思いますが、常陸国の三蚕神社はどこにも猫の像などは見当たらなかったと思います。

祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だという。
これでは息栖神社との関係は推察することはできない。
こうなると息栖神社の境内にある芭蕉の句碑
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
の気吹戸主(いぶきとぬし)が気になってきました。
気吹戸主はいざなぎの命が黄泉の国から戻る時に、汚いものなどを洗い流して綺麗に蘇らせてくれた神様です。

神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できる。
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今日紹介する日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」、以前紹介したつくば市の「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」(記事はこちらの金色姫伝説)、もう一つは神栖市の「蚕霊神社(さんれいじんじゃ)」を常陸国の三蚕神社と紹介されている。
どれもそれ程大きな神社ではない。しかし、皆古くからある神社で、創建などはよくわからない。
しかし三ヶ所すべてに、地名として豊浦と呼ばれる場所に有り、金色姫伝説の説明看板が掲げられている。
その中で、もっとも豊浦という地名が広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前があるのはこの日立市北部の蚕養神社だけである。
どう説明して良いかわからずにいたが、訪れてみたが少しは感じるかと思ったが、なお更わからなくなってきた。
では少しずつ、写真を見ながら考えてみたい。

6号国道の左右に神社があり、道路で分断されたように見える。
そして右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
この左右の神社の氏子は共通であるようだ。

こちらが西側の館山神社と書かれた神社。上に登る石段が続く。

東側(海側)の神社が「蚕養神社」である。
入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。いまこのあたりを小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。

社務所の脇に立てられていた看板。少し薄くなっているが、写真をクリックして拡大して頂ければ読むことができると思います。
タイトルは「日本最初 蚕養神社」となっています。
内容もどこまで理解してよいうのか全く不明。
この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?
養蚕に関する神社は日本にたくさんあるが、ここ常陸国の神社がそれらの総本山になっているのはのは確かで、かなり古くから信仰されてきたことは間違いないだろう。

神社へはこの脇の階段を上って行く。

登ったところに、ここにも「金色姫伝説」が書かれていた。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは皆同一である。
後から神栖市の蚕霊神社にも行ってみたが、同じ伝説の看板が掲げられていた。
調べたところこの話の出処は享和2年(1802)の「養蚕秘録(全三巻)」のなかに書かれている話が元になっているような気がする。
この書物は今の兵庫県(但馬の国)養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が18歳の時に、奥州(今の福島)で蚕種を買い求めて、研究し、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、この伝説が載っているというのです。
上垣守国の偉業を記念して兵庫県養父郡大屋町に「上垣守国 養蚕記念館」が建てられています。
また海外でも早くから注目され、オランドやフランス、ドイツ語などに翻訳されて古くからヨーロッパに広まっていたといいます。
どうも私にはこの三ヶ所が、上垣守国が奥州に来て伝説を聞いて書物に表した金色姫のたどり着いたという「豊浦」は自分のところだと行っているように見えます。
真実はどうなのでしょうか?

蚕養神社の拝殿です。この蚕養神社は「日本最初」、つくば市神郡の蚕影山神社は「日本一社」、神栖市の蚕霊神社は「日本養蚕事始」とそれぞれにうたっています。

こちらが本殿です。少し痛みが激しくなっています。
この神社を調べていたら、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたとありました。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。(息栖神社はこちらを参照ください → その1、その2、その3)
この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
実は息栖神社は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。
そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があるんです。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
また根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
特につくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていますが、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めています。
そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。
それが証拠に、全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されているようです。
(詳しくは調べていませんので、違っているかもしれません。)
東京都立川市の五日市街道沿いに阿豆佐味天神社の境内に「蚕影神社(こかげじんじゃ)」があります。
この神社は猫の像が飾られており、猫返し神社とも言われています。
ここにお参りすると、いなくなったペットの猫が戻ってくると言われています。
養蚕農家にとっては天敵のねずみを捕まえてくれる猫を大切にしていたのです。
しかし、この立川の蚕影神社は名前からして、恐らくつくば市の蚕影山神社から江戸時代初期に分霊されたと思いますが、常陸国の三蚕神社はどこにも猫の像などは見当たらなかったと思います。

祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だという。
これでは息栖神社との関係は推察することはできない。
こうなると息栖神社の境内にある芭蕉の句碑
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
の気吹戸主(いぶきとぬし)が気になってきました。
気吹戸主はいざなぎの命が黄泉の国から戻る時に、汚いものなどを洗い流して綺麗に蘇らせてくれた神様です。

神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できる。


蚕養神社(2)_館山神社(日立市川尻)
6号国道の日立市の旧十王町に入る堺にこんもりとした小山があり、この山を一部削り取って6号国道の建設がされたと思われる。
国道は坂をゆっくり登ってゆくが、右手(東)に昨日紹介した蚕養神社(こがいじんじゃ)と小貝浜緑地が広がり、左手(西)に館山神社の看板が見える。
蚕養神社側に神社の社務所があるが、これは館山神社の社務所でもあるようだ。
道路の両側の神社は一体に維持管理されていると思われます。
蚕養神社を見に来たついでに立ち寄ってみたのだが、結構興味を持つ事柄があった。

この館山神社だが、戦国時代?に館山館という城があった場所らしい。
6号国道で山が削られてしまったので、城がどの程度のものかはよくわからない。
すぐ裏手が豊浦中学校があり、この学校あたりが城の遺構なのかもしれない。
上の写真の右側階段の上に館山神社があり、左手の半分位の長さの階段上には白山神社という境内社が祀られている。その他にいくつか境内社がみられる。

館山神社の入口鳥居の階段入口に昭和3年作られた狛犬が置かれています。
なかなか特徴のある顔ですね。

館山神社の拝殿です。 素朴な造りです。

館山神社本殿です。

拝殿前に置かれた狛犬です。こちらは昭和14年製だといいます。

白山神社です。こちらは館山神社の上り階段の途中からも行けるように、館山神社の境内社となっています。
こじんまりした祠ですが、この神社を調べてみると、意外に面白いのです。
この白山神社は文明年間(1472)に俊意法印によって勧請されたもののようです。
そして、日立市川尻町に伝わるむかしばなし「伊福部岳の雷神」の話(茨城いすゞのいばらきの昔ばなし→ こちら)話に関係していたのです。
この川尻町に伝わる「この地方で雉を食べなくなった」話は、この白山神社が「お雉さま」として祭られてきたことによります。
この話は常陸国風土記の逸文に出てくる伊福部山の話しと同じである。
概略は
妹が伊福部の神(雷)に殺されたので、兄は仇を討とうとする。しかしその居場所がわからない。
するとそこに、一羽の雌雉が飛んできて、肩にとまります。
兄は麻糸を巻いた積麻(へそ)の端を雉の尾につけたところ、雉は飛んで伊福部の岳に飛んでいきます。
兄が積麻をたどっていくと、雷が寝ている石屋にたどり着きます。
この雷が妹の敵と悟った兄は太刀を抜いて雷を斬ろうとします。
しかし、雷は命乞いをします。
「もし助けてくれれば百年後まで子孫に落雷のおそれがないようにします。でももしこれに反したら病気になり不幸が訪れるでしょう」と言うのです。
兄は雷を許してやり、それからこの地方では雉を大切にして雉を食べないようになったと言うのである。
この伊福部の神の話は、どこの場所であるかは定説はありません。
その候補として、「八瓶山」、石岡市(旧八郷町)上曽(葺山?、きのこ山)、旧十王町伊師浜に天然記念物のいぶき山イブキ樹叢がありこれを伊福部山とする説などがあるという。
この川尻にある白山神社は最後の伊師浜のすぐ手前である。
一方クレフシ山も今では水戸市の朝房山と定着しつつあるようだが、私のいる石岡の龍神山もその話がある。
山も市が民間(砕石業者)に売り払ってしまったのでは、いくら主張しても虚しくなるだけである。




豊浦中学校がすぐ裏手(高台)にあります。

さて蚕養神社としてはここ以外にたくさんあるのでしょうが、会津若松にある「蚕養國神社」は大きさでも有名ですね。
会津の神社は「日本一社」をうたっています。日立の神社は「日本最初」です。
日本一社を歌っているのはつくば市神郡にある蚕影山神社ですね。
今日は節分ですね。昔は年越しの行事(旧暦)だったらしいですね。
恵方巻も関東でもすっかり定着してしまったみたいですね。
どこに行ってもたくさん売っていましたし、飛ぶように売れていました。
大阪人はきっと商売上手なのでしょうね。
私には何が何だかわからないけど縁起物ということでこれからお付き合いでいただきます。
え~と 南南東を向いて・・・。
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蚕養神社側に神社の社務所があるが、これは館山神社の社務所でもあるようだ。
道路の両側の神社は一体に維持管理されていると思われます。
蚕養神社を見に来たついでに立ち寄ってみたのだが、結構興味を持つ事柄があった。

この館山神社だが、戦国時代?に館山館という城があった場所らしい。
6号国道で山が削られてしまったので、城がどの程度のものかはよくわからない。
すぐ裏手が豊浦中学校があり、この学校あたりが城の遺構なのかもしれない。
上の写真の右側階段の上に館山神社があり、左手の半分位の長さの階段上には白山神社という境内社が祀られている。その他にいくつか境内社がみられる。


館山神社の入口鳥居の階段入口に昭和3年作られた狛犬が置かれています。
なかなか特徴のある顔ですね。

館山神社の拝殿です。 素朴な造りです。

館山神社本殿です。


拝殿前に置かれた狛犬です。こちらは昭和14年製だといいます。

白山神社です。こちらは館山神社の上り階段の途中からも行けるように、館山神社の境内社となっています。
こじんまりした祠ですが、この神社を調べてみると、意外に面白いのです。
この白山神社は文明年間(1472)に俊意法印によって勧請されたもののようです。
そして、日立市川尻町に伝わるむかしばなし「伊福部岳の雷神」の話(茨城いすゞのいばらきの昔ばなし→ こちら)話に関係していたのです。
この川尻町に伝わる「この地方で雉を食べなくなった」話は、この白山神社が「お雉さま」として祭られてきたことによります。
この話は常陸国風土記の逸文に出てくる伊福部山の話しと同じである。
概略は
妹が伊福部の神(雷)に殺されたので、兄は仇を討とうとする。しかしその居場所がわからない。
するとそこに、一羽の雌雉が飛んできて、肩にとまります。
兄は麻糸を巻いた積麻(へそ)の端を雉の尾につけたところ、雉は飛んで伊福部の岳に飛んでいきます。
兄が積麻をたどっていくと、雷が寝ている石屋にたどり着きます。
この雷が妹の敵と悟った兄は太刀を抜いて雷を斬ろうとします。
しかし、雷は命乞いをします。
「もし助けてくれれば百年後まで子孫に落雷のおそれがないようにします。でももしこれに反したら病気になり不幸が訪れるでしょう」と言うのです。
兄は雷を許してやり、それからこの地方では雉を大切にして雉を食べないようになったと言うのである。
この伊福部の神の話は、どこの場所であるかは定説はありません。
その候補として、「八瓶山」、石岡市(旧八郷町)上曽(葺山?、きのこ山)、旧十王町伊師浜に天然記念物のいぶき山イブキ樹叢がありこれを伊福部山とする説などがあるという。
この川尻にある白山神社は最後の伊師浜のすぐ手前である。
一方クレフシ山も今では水戸市の朝房山と定着しつつあるようだが、私のいる石岡の龍神山もその話がある。
山も市が民間(砕石業者)に売り払ってしまったのでは、いくら主張しても虚しくなるだけである。




豊浦中学校がすぐ裏手(高台)にあります。

さて蚕養神社としてはここ以外にたくさんあるのでしょうが、会津若松にある「蚕養國神社」は大きさでも有名ですね。
会津の神社は「日本一社」をうたっています。日立の神社は「日本最初」です。
日本一社を歌っているのはつくば市神郡にある蚕影山神社ですね。
今日は節分ですね。昔は年越しの行事(旧暦)だったらしいですね。
恵方巻も関東でもすっかり定着してしまったみたいですね。
どこに行ってもたくさん売っていましたし、飛ぶように売れていました。
大阪人はきっと商売上手なのでしょうね。
私には何が何だかわからないけど縁起物ということでこれからお付き合いでいただきます。
え~と 南南東を向いて・・・。


鰯の頭も信心から
NHKのテレビが2月1日で開局60周年を迎えたという。
まだたった60年ではあるが、最近のテレビは確かにつまらない。
どこの局を見ても同じような(品のない?)タレントが映し出され、またかと思うことが多い。
60年でもう疲弊してしまったのか?
私の子供の頃はテレビはまだどこの家庭にもなかった。
そのため、外で遊ぶことが中心だった。
近くの広場で三角ベースで野球をやったり、ビー玉、メンコ、ベーゴマ、かくれんぼなど・・・・
さて、テレビが我が家にやってきたのは皇太子のご成婚(S34)の頃だ。
我が家はその年の後半だったか、素人の手作り真空管テレビを親父の知り合いから買った。
それも当時は高価なものだったので、親父は無理したのだろうな。
その1~2年前に、近所のお蕎麦屋さんに最初に入った。
子供たちはスーパーマンが放送される時にお店に毎回のように見せてもらいに行った。
このスーパーマンはTBSで放送されたが、テレビ台数がまだ少ないこともあるが、最高視聴率は70%を超えている。
我が家に来たテレビで最初にザ・ピーナツが写った。
双子とは知らずに一瞬鏡に移っているのかと思った。
そんなことが懐かしく思い出される。
テレビは白黒だったが、日本映画が総天然色などといっていたのは昭和20年代後半頃からだっただろうか?
その頃、アメリカのディズニーなどの綺麗なカラー映画が眩しかった。
そんなテレビも今ではなんとなく暇つぶしに見る位になっている。
確かにこんなものを見ていても生産性は上がらない。
テレビ番組表などというものを最近は調べたり、見たりすることがない。
見落としたからってあまりどうってことはない。
頭の疲れが取れると思ったのもどうやら思い込みだったのかもしれない。
AKB48の一人が、丸刈りでテレビ画面に写し出されていた。なんか変だよね。
昔の軍隊の上下関係の謝りを見ているようで気分が悪い。
テレビもこんな映像を繰り返し流すのはやめてもらいたい。なんということもない話だ。
やらせているのかもしれないし、自分から進んでやったとしてもこんな見世物なんて見たくもない。
ゴシップ週刊誌と変わらない。
柔道の体罰事件も、この監督の問題で終わってしまうのかもしれない。
この前のオリンピックで日本が勝てなかった事を、「練習時間が足りない」とか「精神的に鍛え方が甘い」とかいうようにしか思っていない柔道連盟などの考え方が見えてきて不快に思っていたので、この事件もそれほどの驚きはなかった。
勝つためには、競技人口を増やし、指導法を勉強し、日本のお家芸などということに甘えず海外にもたくさん学ぶことがあるはずだ。スポーツのひとつである限り変に凝り固まった至上主義的な感覚を捨て去らなければ、これからの活躍は望めないだろう。

昨日は節分。いわしの頭をヒイラギの葉と一緒に玄関に飾った。
まあ、「鰯の頭(かしら)も信心から」だからこれも気休め。
鬼よけらしいが、可愛い鬼ならやってきてもいいよ。
このブログのアクセス数が今日20万回になりました。
20万アクセス 2013.2.4
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14万アクセス 2012.6.22
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もうすぐブログも2年半になります。あと半年頑張りたいと思います。
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どこの局を見ても同じような(品のない?)タレントが映し出され、またかと思うことが多い。
60年でもう疲弊してしまったのか?
私の子供の頃はテレビはまだどこの家庭にもなかった。
そのため、外で遊ぶことが中心だった。
近くの広場で三角ベースで野球をやったり、ビー玉、メンコ、ベーゴマ、かくれんぼなど・・・・
さて、テレビが我が家にやってきたのは皇太子のご成婚(S34)の頃だ。
我が家はその年の後半だったか、素人の手作り真空管テレビを親父の知り合いから買った。
それも当時は高価なものだったので、親父は無理したのだろうな。
その1~2年前に、近所のお蕎麦屋さんに最初に入った。
子供たちはスーパーマンが放送される時にお店に毎回のように見せてもらいに行った。
このスーパーマンはTBSで放送されたが、テレビ台数がまだ少ないこともあるが、最高視聴率は70%を超えている。
我が家に来たテレビで最初にザ・ピーナツが写った。
双子とは知らずに一瞬鏡に移っているのかと思った。
そんなことが懐かしく思い出される。
テレビは白黒だったが、日本映画が総天然色などといっていたのは昭和20年代後半頃からだっただろうか?
その頃、アメリカのディズニーなどの綺麗なカラー映画が眩しかった。
そんなテレビも今ではなんとなく暇つぶしに見る位になっている。
確かにこんなものを見ていても生産性は上がらない。
テレビ番組表などというものを最近は調べたり、見たりすることがない。
見落としたからってあまりどうってことはない。
頭の疲れが取れると思ったのもどうやら思い込みだったのかもしれない。
AKB48の一人が、丸刈りでテレビ画面に写し出されていた。なんか変だよね。
昔の軍隊の上下関係の謝りを見ているようで気分が悪い。
テレビもこんな映像を繰り返し流すのはやめてもらいたい。なんということもない話だ。
やらせているのかもしれないし、自分から進んでやったとしてもこんな見世物なんて見たくもない。
ゴシップ週刊誌と変わらない。
柔道の体罰事件も、この監督の問題で終わってしまうのかもしれない。
この前のオリンピックで日本が勝てなかった事を、「練習時間が足りない」とか「精神的に鍛え方が甘い」とかいうようにしか思っていない柔道連盟などの考え方が見えてきて不快に思っていたので、この事件もそれほどの驚きはなかった。
勝つためには、競技人口を増やし、指導法を勉強し、日本のお家芸などということに甘えず海外にもたくさん学ぶことがあるはずだ。スポーツのひとつである限り変に凝り固まった至上主義的な感覚を捨て去らなければ、これからの活躍は望めないだろう。

昨日は節分。いわしの頭をヒイラギの葉と一緒に玄関に飾った。
まあ、「鰯の頭(かしら)も信心から」だからこれも気休め。
鬼よけらしいが、可愛い鬼ならやってきてもいいよ。
このブログのアクセス数が今日20万回になりました。









もうすぐブログも2年半になります。あと半年頑張りたいと思います。


蚕霊神社(神栖市)
つくば市神郡の蚕影山神社と日立市川尻の蚕養神社と並んで常陸国の三蚕神社である神栖市日川にある蚕霊神社(これいじんじゃ)に行ってみました。
日立市の蚕養神社が東国三社の一つ「息栖神社」から分霊されたようだと2~3日前に書きました。
この息栖神社も大同二年(807)に神栖市日川地区から現在地に移されています。(これは前に書いた)
この神栖市日川にある蚕霊神社がある場所は、国道260の常陸利根川沿いの利根川との合流点に近く、こんもりした木々が生い茂っている場所だが、ほぼ低地にある。
他の蚕神社と少し趣が違う。
息栖神社があった日川の場所も近いのだろうか?範囲が広いのでどの辺りかはわからない。

街道からの入口に看板もないので少しわかりづらいが、木が茂っている場所なので見当をつけて行けばたどり着ける。
それ程大きな神社ではないが、木々に囲まれひっそり佇んでいた。
境内はちょうど箒ではいている女性がおられたが、神社の近くに住んでおられて、神社を管理されているようだ。

入口には神社の由来として例の金色姫伝説が書かれていた。

鳥居をくぐると神社の拝殿が見えますが、この赤い色は目立ちますね。
狛犬なども比較的新しそうです。

拝殿の壁と屋根の裏側の色は皆赤です。

奥にある本殿です。 脇を囲っているのであまり中を覗うことができません。

ぐるりととりかこんでいます。でも反対側に回ると本殿に入る口がありました。

拝殿と本殿をつなぐ廊下の屋根下から本殿もみな赤が目立ちます。
彫刻の彩色も綺麗です。

この色合いは昔からなのでしょうか? それとも途中でこのように変えたのだろうか?


この神社についてはまた調べているうちに何かわかってくるかもしれない。
全国に蚕霊神社はたくさんあるようだが、「これいじんじゃ」とは言わず、「こだまじんじゃ」というところが多いように思う。
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日立市の蚕養神社が東国三社の一つ「息栖神社」から分霊されたようだと2~3日前に書きました。
この息栖神社も大同二年(807)に神栖市日川地区から現在地に移されています。(これは前に書いた)
この神栖市日川にある蚕霊神社がある場所は、国道260の常陸利根川沿いの利根川との合流点に近く、こんもりした木々が生い茂っている場所だが、ほぼ低地にある。
他の蚕神社と少し趣が違う。
息栖神社があった日川の場所も近いのだろうか?範囲が広いのでどの辺りかはわからない。

街道からの入口に看板もないので少しわかりづらいが、木が茂っている場所なので見当をつけて行けばたどり着ける。
それ程大きな神社ではないが、木々に囲まれひっそり佇んでいた。
境内はちょうど箒ではいている女性がおられたが、神社の近くに住んでおられて、神社を管理されているようだ。

入口には神社の由来として例の金色姫伝説が書かれていた。

鳥居をくぐると神社の拝殿が見えますが、この赤い色は目立ちますね。
狛犬なども比較的新しそうです。

拝殿の壁と屋根の裏側の色は皆赤です。

奥にある本殿です。 脇を囲っているのであまり中を覗うことができません。

ぐるりととりかこんでいます。でも反対側に回ると本殿に入る口がありました。

拝殿と本殿をつなぐ廊下の屋根下から本殿もみな赤が目立ちます。
彫刻の彩色も綺麗です。

この色合いは昔からなのでしょうか? それとも途中でこのように変えたのだろうか?


この神社についてはまた調べているうちに何かわかってくるかもしれない。
全国に蚕霊神社はたくさんあるようだが、「これいじんじゃ」とは言わず、「こだまじんじゃ」というところが多いように思う。


蚕霊山星福寺(神栖市)
神栖町日川の蚕霊神社(これいじんじゃ)の参道を手前に延長していくと200mくらい離れたところに「星福寺」がある。この寺の正式な名称は「真言宗智山派蚕霊山千手院星福寺」となっています。
この寺のとなりに大きな保育園があり、寺が経営していると思われます。

寺の入口の山門や石柱も比較的に最近立て直したものでしょうか。新しくてきれいです。
この寺がどのように蚕霊神社と関わっているのか、寺を見ただけではわかりませんでした。
でも位置関係から見ても 名前に蚕霊山と付けているところからもこの寺と蚕霊神社は昔一体だったと思われます。

こちらが本堂です。
向かって左側に立つ像は「南無大師遍照金剛」ですので弘法大師さんです。

寺の境内に墓地がありますが、この入口に近いところに古びた五輪塔や墓石が集まった墓所がありました。
お墓そのものの写真はあまり載せるのは控えたいのですが、恐らくここはこの寺の住職の歴代の墓だと思われます。
実はこの寺を蚕霊神社の関連した場所として紹介しようと思ったのは、南総里見八犬伝を書いた滝沢馬琴がこの寺を調査していた記録があるのです。
何故調べたのかというとこの寺に蚕霊尊があり、この像が各地に巡行されて各地で蚕産業が奨励されていたタメもあり、多くの地方の「お蚕様」信仰につながっているようなのです。
これはつくば市蚕影(山)神社にもにたような話があり、全国の蚕影神社が分社として建てられたということのようです。
確かに全国を調べると「蚕影神社」はたくさん有り、その総本山がつくば市神郡の蚕影山神社となっています。
しかし、こちらの蚕霊(これい)神社と同じ名前「蚕霊(こだま)神社」なども確かにありますが、それよりも富岡製糸などで有名な群馬県の蚕神社は、蚕影神社が40箇所以上あり、それより少ないけれど同じくらい「絹笠神社」があるのですが、この絹笠神の出処が不明でよくわからないらしいのですが、それがこちらの蚕霊神ではないかということらしいです。
この寺にあるという蚕霊尊はこの寺に現在あるという「馬鳴菩薩」のことだと言われています。
養蚕が各地で行われるようになったのは江戸時代で、西暦1800年代初めの頃からのようです。
馬琴が里見八犬伝を書いたのは1814年~1842年の28年間書き続けてものだといいますのですごいですね。
結果的にはこの書いているあいだに全国に養蚕は広まっていた時期でもあったようです。

山門を潜ったところに置かれていた石像たち

こちらは見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が彫られています。
きっと「庚申塔」ですね。かなり古そうです。
人間の体内にいると信じられていた「三尸(さんし)」(三虫)。
今でも60日に1度の庚申の日に体を抜け出しその人の悪い行いを天帝に報告されているのでしょうか。

これは山門の入口に置かれていました。
五輪塔のようでもありましたが、真ん中の丸い石版は時計の文字盤や方位盤のようにも見えました。
少し変わっているので写真に残しておきました。
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この寺のとなりに大きな保育園があり、寺が経営していると思われます。

寺の入口の山門や石柱も比較的に最近立て直したものでしょうか。新しくてきれいです。
この寺がどのように蚕霊神社と関わっているのか、寺を見ただけではわかりませんでした。
でも位置関係から見ても 名前に蚕霊山と付けているところからもこの寺と蚕霊神社は昔一体だったと思われます。

こちらが本堂です。
向かって左側に立つ像は「南無大師遍照金剛」ですので弘法大師さんです。

寺の境内に墓地がありますが、この入口に近いところに古びた五輪塔や墓石が集まった墓所がありました。
お墓そのものの写真はあまり載せるのは控えたいのですが、恐らくここはこの寺の住職の歴代の墓だと思われます。
実はこの寺を蚕霊神社の関連した場所として紹介しようと思ったのは、南総里見八犬伝を書いた滝沢馬琴がこの寺を調査していた記録があるのです。
何故調べたのかというとこの寺に蚕霊尊があり、この像が各地に巡行されて各地で蚕産業が奨励されていたタメもあり、多くの地方の「お蚕様」信仰につながっているようなのです。
これはつくば市蚕影(山)神社にもにたような話があり、全国の蚕影神社が分社として建てられたということのようです。
確かに全国を調べると「蚕影神社」はたくさん有り、その総本山がつくば市神郡の蚕影山神社となっています。
しかし、こちらの蚕霊(これい)神社と同じ名前「蚕霊(こだま)神社」なども確かにありますが、それよりも富岡製糸などで有名な群馬県の蚕神社は、蚕影神社が40箇所以上あり、それより少ないけれど同じくらい「絹笠神社」があるのですが、この絹笠神の出処が不明でよくわからないらしいのですが、それがこちらの蚕霊神ではないかということらしいです。
この寺にあるという蚕霊尊はこの寺に現在あるという「馬鳴菩薩」のことだと言われています。
養蚕が各地で行われるようになったのは江戸時代で、西暦1800年代初めの頃からのようです。
馬琴が里見八犬伝を書いたのは1814年~1842年の28年間書き続けてものだといいますのですごいですね。
結果的にはこの書いているあいだに全国に養蚕は広まっていた時期でもあったようです。

山門を潜ったところに置かれていた石像たち

こちらは見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が彫られています。
きっと「庚申塔」ですね。かなり古そうです。
人間の体内にいると信じられていた「三尸(さんし)」(三虫)。
今でも60日に1度の庚申の日に体を抜け出しその人の悪い行いを天帝に報告されているのでしょうか。

これは山門の入口に置かれていました。
五輪塔のようでもありましたが、真ん中の丸い石版は時計の文字盤や方位盤のようにも見えました。
少し変わっているので写真に残しておきました。


大戸神社(香取市)
鹿島神宮には元鹿島と言われる古社「大生(おおう)神社」を紹介しましたので、今度は香取神宮です。
香取神宮に対しての古社として考えられるのは「側高(そばたか)神社」と今回紹介する香取市にある古社「大戸神社」だと思う。
ここを訪れたのは、昨年12月半ばです。忘れないうちに記事を残しておかないとわからなくなってしまいます。
大戸神社は成田線の大戸駅に近く、香取神宮の5kmほど西。 佐原の町が真ん中にある。
または、香取神宮から見ると東に息栖神社が有り、西にあるのがこの大戸神社がある。
これも見方を変えれば何とでも読めるが、かなりの古社である。
祭神は天の岩戸をこじ開けた「天手力男命」。創建は日本武尊が東征時に戦勝を祈願して建てたとされる。
明治6年に県社に列せられた。
香取神宮の第一末社であった。
しかし、神主、大禰宜なども別々にいて、領域を区別して取り仕切っていたようです。

神社のある大戸はのんびりとした田舎町だが、古代の歴史を感じさせてくれる佇まいを見せる。
上の写真は神社の入口にある民家の柿の木。


拝殿前の御神木の杉の木は樹齢600年ほどと言われています。



スタジイの大木。

拝殿です。
正応2年(1289)、明徳4年(1396)、寛文4年(1665)に社殿を造営したことが記録にあり、現在の社殿は宝永4年(1707)に徳川将軍綱吉によって改築されたものと伝えられています。
江戸時代には香取神宮の御朱印地1,000石の内から100石を分配されていたという。

かつては祭事も年間45回も行われていた記録があります。
明治中期に奉納された大絵馬2枚。

天の岩戸神話をあらわしたもの

宝物殿です。この神社の特徴とも言える県指定有形文化財「羅龍王面」「納曽利面」などの特徴ある古面が伝わって残されています。
「羅龍王面」は嘉歴3年(1328)3月在銘があります。
また和鏡3面(鎌倉、室町時代)、千葉県の伝世品で最古と考えられる「籠目太刀(かごめのたち)」1口などがあります。


(大戸神社HPより借用)上が「羅龍王面(らりょうおうめん)」、下が「納曽利面(なそりめん)」。
ともに鎌倉時代の作とされ舞楽に用いられたもの。

本殿です。

神楽殿です。
拝殿手前の建屋にこのような神輿がガラス越しに見えました。
元禄十五年(1703)8月の銘がある神輿です。
この神楽の奥から昭和63年に刀剣が発見され、平安時代末期のころのものと切られているそうです。

境内末社18座(道祖神三社・浅間神社二社・水神大神・高房神社・白幡神社・稲荷大神二社・大天神社・側高神社・神明神社・豊受皇大神宮・日大神社・疱瘡神社・足尾神社・日吉神社)


「縁結夫婦杉」
この下が繋がった夫婦杉は香取神宮にもあったし、側高(そばたか)神社にもあったような気がする。
さて、香取神宮はタケミカヅチと同様に武人である経津主(ふつぬす)大神を祀る。
こちらの神もやはり春日大社(藤原氏=中臣氏)にも祀られている。
鹿島神宮のタケミカヅチが多氏一族であったが、この香取神宮のフツヌシは物部氏だ。
するとこの大戸神社は? これはもう二つは融合してしまったのか?
ヤマトタケルが建てたというのだ。
まだまだわからないことが多い神社です。またゆっくりと調べていくのも楽しいかもしれません。
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香取神宮に対しての古社として考えられるのは「側高(そばたか)神社」と今回紹介する香取市にある古社「大戸神社」だと思う。
ここを訪れたのは、昨年12月半ばです。忘れないうちに記事を残しておかないとわからなくなってしまいます。
大戸神社は成田線の大戸駅に近く、香取神宮の5kmほど西。 佐原の町が真ん中にある。
または、香取神宮から見ると東に息栖神社が有り、西にあるのがこの大戸神社がある。
これも見方を変えれば何とでも読めるが、かなりの古社である。
祭神は天の岩戸をこじ開けた「天手力男命」。創建は日本武尊が東征時に戦勝を祈願して建てたとされる。
明治6年に県社に列せられた。
香取神宮の第一末社であった。
しかし、神主、大禰宜なども別々にいて、領域を区別して取り仕切っていたようです。

神社のある大戸はのんびりとした田舎町だが、古代の歴史を感じさせてくれる佇まいを見せる。
上の写真は神社の入口にある民家の柿の木。


拝殿前の御神木の杉の木は樹齢600年ほどと言われています。



スタジイの大木。

拝殿です。
正応2年(1289)、明徳4年(1396)、寛文4年(1665)に社殿を造営したことが記録にあり、現在の社殿は宝永4年(1707)に徳川将軍綱吉によって改築されたものと伝えられています。
江戸時代には香取神宮の御朱印地1,000石の内から100石を分配されていたという。

かつては祭事も年間45回も行われていた記録があります。
明治中期に奉納された大絵馬2枚。

天の岩戸神話をあらわしたもの

宝物殿です。この神社の特徴とも言える県指定有形文化財「羅龍王面」「納曽利面」などの特徴ある古面が伝わって残されています。
「羅龍王面」は嘉歴3年(1328)3月在銘があります。
また和鏡3面(鎌倉、室町時代)、千葉県の伝世品で最古と考えられる「籠目太刀(かごめのたち)」1口などがあります。


(大戸神社HPより借用)上が「羅龍王面(らりょうおうめん)」、下が「納曽利面(なそりめん)」。
ともに鎌倉時代の作とされ舞楽に用いられたもの。

本殿です。

神楽殿です。
拝殿手前の建屋にこのような神輿がガラス越しに見えました。
元禄十五年(1703)8月の銘がある神輿です。
この神楽の奥から昭和63年に刀剣が発見され、平安時代末期のころのものと切られているそうです。

境内末社18座(道祖神三社・浅間神社二社・水神大神・高房神社・白幡神社・稲荷大神二社・大天神社・側高神社・神明神社・豊受皇大神宮・日大神社・疱瘡神社・足尾神社・日吉神社)


「縁結夫婦杉」
この下が繋がった夫婦杉は香取神宮にもあったし、側高(そばたか)神社にもあったような気がする。
さて、香取神宮はタケミカヅチと同様に武人である経津主(ふつぬす)大神を祀る。
こちらの神もやはり春日大社(藤原氏=中臣氏)にも祀られている。
鹿島神宮のタケミカヅチが多氏一族であったが、この香取神宮のフツヌシは物部氏だ。
するとこの大戸神社は? これはもう二つは融合してしまったのか?
ヤマトタケルが建てたというのだ。
まだまだわからないことが多い神社です。またゆっくりと調べていくのも楽しいかもしれません。


そばたか神社(1)-側高神
側高神社(そばたかじんじゃ)という変わった名前の神社が香取神宮の北東(鬼門)の位置にある。
場所は国道356号(利根水郷ライン)が東関東自動車道が上を通る場所(佐原サービスエリア)の近くである。
ここが香取神宮の第一摂社であり、香取神宮と密接なつながりはあるはずであるが、どうも我には神宮の鬼門の位置にあるにもかかわらずそっぽを向いているように感じるのは考えすぎなのか?
この神社のことは1月号の会報「ふるさと風」に書いた。写真を載せていないので改めてこちらにも書かせていただくことにした。
「そばたか」という名前の神社は、調べただけで千葉県14ヶ所、茨城県3ヶ所、埼玉県2ヶ所のみだ。
その他の県には見当たらない。
漢字は「側高」「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」などまちまちである。それらの中心となっているのが香取市大倉にあるこの側高神社である。
私が興味を持ったのは、この神社の神様は昔は長いあいだ名前が秘匿とされていたというのだ。
今では「側高大神」となっている。

神社の入口に「國土浄化の祖神」という大きな看板が掲げられています。
創建は神武天皇18年。これは香取神宮と同じ年である。
日本の歴史もこの年代は紀元前になるが、これをまともに信じる人も今では少ないでしょう。
ここを訪れたのは昨年12月のはじめです。写真が古くなってしまい季節感がありません。

鬱蒼とした森の中に神社へ上り階段があります。

階段を上ったところに手水舎、鳥居、古木の先に神社の拝殿が見えます。

拝殿は中に明かりが灯されており、神聖な気持ちになります。

幕につけられている紋は皇室の「桐紋」です。
これは私の中高校の時の校紋にも使われていましたので、学生帽にいつも付いていました。
今は近くの筑波大がこのマークです。

こちらが本殿です。


本殿は慶長年間(1596~1614)に造られたと考えられていますが、この説明で気になる記述があります。
この神社が香取神宮の第一摂社であるのは良いとして、建てられた場所が昔の「香取郡」と「海上郡」の境界にあると書かれています。
海上(かいじょう)郡の名前は2005年に消滅するまで使われていた郡名で、飯岡町と海上(うみかみ)町が属していました。
古代においては下海上国(しもつうなかみのくに)という大きな領域で、一部(鹿島郡の領域も入っていた)あったものが、6世紀前半に物部小事(もののべ の おごと)の活躍で、この地域に「匝瑳(そうさ)郡」が造られ、鹿島神宮・香取神宮の神域を分離したことのようだ。
香取神宮が物部氏の権力の中心として祭られたと考えると、この下総の地で少し前からいたかもしれない多氏(おおし)の一族が、この側高(そばたか)神社を建てて、香取大神の下に入る形で、全体を治める形にしたのか?
でも、多氏の一族は自分たちの神を別に祀って、その名前を秘匿として敢えて表示しなかったのではないのか。
現在残っているその他の「そばたか神社」を見るとその多くが、中世に千葉氏が自分の城内の鬼門にこの「そばたか神社」を祀ってきた経緯が読み取れるのです。
(次回に続きます)
場所は国道356号(利根水郷ライン)が東関東自動車道が上を通る場所(佐原サービスエリア)の近くである。
ここが香取神宮の第一摂社であり、香取神宮と密接なつながりはあるはずであるが、どうも我には神宮の鬼門の位置にあるにもかかわらずそっぽを向いているように感じるのは考えすぎなのか?
この神社のことは1月号の会報「ふるさと風」に書いた。写真を載せていないので改めてこちらにも書かせていただくことにした。
「そばたか」という名前の神社は、調べただけで千葉県14ヶ所、茨城県3ヶ所、埼玉県2ヶ所のみだ。
その他の県には見当たらない。
漢字は「側高」「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」などまちまちである。それらの中心となっているのが香取市大倉にあるこの側高神社である。
私が興味を持ったのは、この神社の神様は昔は長いあいだ名前が秘匿とされていたというのだ。
今では「側高大神」となっている。

神社の入口に「國土浄化の祖神」という大きな看板が掲げられています。
創建は神武天皇18年。これは香取神宮と同じ年である。
日本の歴史もこの年代は紀元前になるが、これをまともに信じる人も今では少ないでしょう。
ここを訪れたのは昨年12月のはじめです。写真が古くなってしまい季節感がありません。

鬱蒼とした森の中に神社へ上り階段があります。

階段を上ったところに手水舎、鳥居、古木の先に神社の拝殿が見えます。

拝殿は中に明かりが灯されており、神聖な気持ちになります。

幕につけられている紋は皇室の「桐紋」です。
これは私の中高校の時の校紋にも使われていましたので、学生帽にいつも付いていました。
今は近くの筑波大がこのマークです。

こちらが本殿です。


本殿は慶長年間(1596~1614)に造られたと考えられていますが、この説明で気になる記述があります。
この神社が香取神宮の第一摂社であるのは良いとして、建てられた場所が昔の「香取郡」と「海上郡」の境界にあると書かれています。
海上(かいじょう)郡の名前は2005年に消滅するまで使われていた郡名で、飯岡町と海上(うみかみ)町が属していました。
古代においては下海上国(しもつうなかみのくに)という大きな領域で、一部(鹿島郡の領域も入っていた)あったものが、6世紀前半に物部小事(もののべ の おごと)の活躍で、この地域に「匝瑳(そうさ)郡」が造られ、鹿島神宮・香取神宮の神域を分離したことのようだ。
香取神宮が物部氏の権力の中心として祭られたと考えると、この下総の地で少し前からいたかもしれない多氏(おおし)の一族が、この側高(そばたか)神社を建てて、香取大神の下に入る形で、全体を治める形にしたのか?
でも、多氏の一族は自分たちの神を別に祀って、その名前を秘匿として敢えて表示しなかったのではないのか。
現在残っているその他の「そばたか神社」を見るとその多くが、中世に千葉氏が自分の城内の鬼門にこの「そばたか神社」を祀ってきた経緯が読み取れるのです。
(次回に続きます)
そばたか神社(2)
この「そばたか神社」は香取市大倉にある「側高神社」が中心なのですが、もう一つこの神社の特徴を象徴していると思うのが、成田空港の入口にある「側高神社」です。
こちらは成田市取香(とっこう)という地名です。
江戸時代から続く神楽「三番叟(さんばそう)」が行われることで知られています。
でもこの取香(とっこう)というのは日本の地名らしくない不自然な名前ですよね。
でもこの感じを逆さまにすると「香取」になります。
香取に逆らってもじって名付けられた地名とも言われていますので、この神社の性格を表しているのかもしれません。
さて、話を戻して、香取市にある「側高神社」の紹介をもう少し続けます。

上の写真の奥にある建物が、拝殿。 その裏手(手前の建物に隠れて見えません)に本殿があります。
本殿は昨日紹介しましたが、千葉県の有形文化財です。

境内にはいくつか境内社がありますが、この写真は「毘沙門天」となっています。

こちらは御神木の千年杉です。大きさから見ると茨城北部山間部などにある千年杉などに比べて細いですね。
境内の裏手の方に樹齢500年と書かれた夫婦杉が置かれています。
こちらは根元の部分で2本の杉が合体しています。
神社に行くと最近目にする機会が増えました。

この神社には少し変わったお祭りが伝わっています。
詳細は上の写真の説明を読んでいただければわかりますが、氏子の当番が交代する引き継ぎの時にヒゲを撫でて酒をすすめるという変わった行事です。
髭を逆さになでると、酒を三杯追加して飲むというのですから、昔も大酒飲みはいいが飲めない人は大変ですね。
私も昔は酒をよく飲みました。週末にはいつも真夜中まで飲んでいました。
しかし、肝臓も数値があまりよくないのと、あることをきっかけにほとんど飲まなくなりました。
最初は何か寂しさもありましたが、夜調べ物をしたりするには飲まないほうがいいです。
人間関係のコミュニカーションとしては付き合うこともありますが、晩酌はしていません。
先日少し飲んだだけで、ブログの更新が難しくなりました。

さて、この香取市大倉の側高神社に伝わる興味深い話を最後に載せます。
「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」
というのです。それぞれ神と表現されていますが、ここでは豪族と読み替えてみてください。
この頃の話は全て神話として、ヤマト王朝の豪族の長は神と書かれていますので、史実の焦点がぼやけてしまいます。
面白いのはまだ霞ヶ浦が海で海面の高さが数m高かったので、浮島(現稲敷市浮島)は潮が満ちてくると島になり、引くとまた地続きになる状態だったということが一つ。
また、馬を陸奥国から連れてきたと言っていますが、律令制の始まる頃にはこのあいだに「常陸国(現茨城県)」が入っていることです。
ですから、この話は黒坂命(くろさかのみこと)が美浦村から府中(石岡)を通って日立市(十王町)の竪破山(たつわれやま) まで攻めていった時代よりも少し前の話と考えられます。
当時は常陸国も陸奥国も区別がつかなかった蝦夷地だったのではないかと思います。
この当時は今の美浦村が「日高見国」の入口だったのでしょう。
鹿島神宮の神「タケミカヅチ」、香取神宮の神「フツヌシ」がどのような豪族の神様なのかよくわかりません。
歴史から消えてしまった物部氏、その後に台頭した藤原氏(中臣氏)などですが、それよりも前に多氏がいます。
それらの大和王朝の豪族たちが歴史を塗り替えたのか?
この側高神社を祀る「千葉氏」も桓武平氏系統の氏族とされていますが、この神社を見ると少し違うのではないかと感じています。
もちろん長い年月の間に同じような民族ですから交わってきてもおかしくありません。
区別する方が無理かも知れませんね。
明日は茨城県の「そばたか神社」を少しだけ紹介します。
← よろしければクリックお願いします。
こちらは成田市取香(とっこう)という地名です。
江戸時代から続く神楽「三番叟(さんばそう)」が行われることで知られています。
でもこの取香(とっこう)というのは日本の地名らしくない不自然な名前ですよね。
でもこの感じを逆さまにすると「香取」になります。
香取に逆らってもじって名付けられた地名とも言われていますので、この神社の性格を表しているのかもしれません。
さて、話を戻して、香取市にある「側高神社」の紹介をもう少し続けます。

上の写真の奥にある建物が、拝殿。 その裏手(手前の建物に隠れて見えません)に本殿があります。
本殿は昨日紹介しましたが、千葉県の有形文化財です。

境内にはいくつか境内社がありますが、この写真は「毘沙門天」となっています。

こちらは御神木の千年杉です。大きさから見ると茨城北部山間部などにある千年杉などに比べて細いですね。
境内の裏手の方に樹齢500年と書かれた夫婦杉が置かれています。
こちらは根元の部分で2本の杉が合体しています。
神社に行くと最近目にする機会が増えました。

この神社には少し変わったお祭りが伝わっています。
詳細は上の写真の説明を読んでいただければわかりますが、氏子の当番が交代する引き継ぎの時にヒゲを撫でて酒をすすめるという変わった行事です。
髭を逆さになでると、酒を三杯追加して飲むというのですから、昔も大酒飲みはいいが飲めない人は大変ですね。
私も昔は酒をよく飲みました。週末にはいつも真夜中まで飲んでいました。
しかし、肝臓も数値があまりよくないのと、あることをきっかけにほとんど飲まなくなりました。
最初は何か寂しさもありましたが、夜調べ物をしたりするには飲まないほうがいいです。
人間関係のコミュニカーションとしては付き合うこともありますが、晩酌はしていません。
先日少し飲んだだけで、ブログの更新が難しくなりました。

さて、この香取市大倉の側高神社に伝わる興味深い話を最後に載せます。
「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」
というのです。それぞれ神と表現されていますが、ここでは豪族と読み替えてみてください。
この頃の話は全て神話として、ヤマト王朝の豪族の長は神と書かれていますので、史実の焦点がぼやけてしまいます。
面白いのはまだ霞ヶ浦が海で海面の高さが数m高かったので、浮島(現稲敷市浮島)は潮が満ちてくると島になり、引くとまた地続きになる状態だったということが一つ。
また、馬を陸奥国から連れてきたと言っていますが、律令制の始まる頃にはこのあいだに「常陸国(現茨城県)」が入っていることです。
ですから、この話は黒坂命(くろさかのみこと)が美浦村から府中(石岡)を通って日立市(十王町)の竪破山(たつわれやま) まで攻めていった時代よりも少し前の話と考えられます。
当時は常陸国も陸奥国も区別がつかなかった蝦夷地だったのではないかと思います。
この当時は今の美浦村が「日高見国」の入口だったのでしょう。
鹿島神宮の神「タケミカヅチ」、香取神宮の神「フツヌシ」がどのような豪族の神様なのかよくわかりません。
歴史から消えてしまった物部氏、その後に台頭した藤原氏(中臣氏)などですが、それよりも前に多氏がいます。
それらの大和王朝の豪族たちが歴史を塗り替えたのか?
この側高神社を祀る「千葉氏」も桓武平氏系統の氏族とされていますが、この神社を見ると少し違うのではないかと感じています。
もちろん長い年月の間に同じような民族ですから交わってきてもおかしくありません。
区別する方が無理かも知れませんね。
明日は茨城県の「そばたか神社」を少しだけ紹介します。


春節
今日2月10日(2013年)は旧正月初日です。
中国では春节(chūnjié)というそうです。一般に日本では春節と言われています。
また春節は一般的には正月の15日間を指すとされているようですが、初日のみに使っても良さそうです。
そして前日の昨日2月9日(土)は中国では大晦日にあたり、夜には政府の自粛要請があったが、花火がたくさん夜空にひかり、爆竹の音が騒がしかったそうです。
日本では、今日のニュースは、中国艦船のレーザ照射問題で揺れ、深刻な大気汚染の日本への影響が大きく取り上げられています。
この中国の行事を取り上げるとしても大気汚染がさらに深刻になるとの報道ばかりです。
私は中国の正月は知らない。
でも、中国では民族大移動の時期のはずで、日本を敵視するにしても時期的には国民は関心がないと思う。
ぜひ、報道関係者には、政府間の緊張を緩和するためにも民間のレベルでの交流などについて報道を行っていっていただきたい。
先週のブロ友さん(言の葉ISさん)のブログに紹介されていた歌をここでも紹介させていただこう。
☆ 年の内に春は来にけり ひととせを去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ (在原元方:新古今和歌集1番)
先日、2月3日に節分が有り、翌4日に立春がありました。(節分は立春前の日の行事)
元来は季節が春になる日(立春)が正月になる日と思われるのだが、今年のように正月になる前に立春が来てしまった時の様子を軽いタッチで読まれた歌だとされます。
歌の内容は、特にどうということもないと思いますが、歌のテンポがいいですね。
私の中学校の国語の先生に名物先生がおりました。
大学を出てからすぐに来たばかりだったので、まだ若いが優秀な先生で学生にとても人気がありました。
いつも0(ゼロ)や∞(無限大)を使って生徒を煙に巻いていました。
中学1年にその先生が担任で、学年最後に記念の作文などをまとめることになった。
国語などあまり好きではなく、なんでもいいというので和歌を数種載せました。
和歌を書いたのは私ともう一人の二人だけ。もうひとりが格好の良い歌を書いていて私は恥ずかしい思いでおりました。
でもそれ以来和歌も書いたことがないのに、作った歌を忘れずに覚えているのです。不思議ですね。
☆ 立春を過ぎぬと思えば 何故となく 風の中にも 温かみ感ず
☆ 風邪のため 閉鎖となりし 組通り 羨みつつも 地学室行く
☆ ポカポカと した縁側に 寝転びて 雪の降る国 遥かに思う
実にくだらないが、我が青春も懐かしい。
さて、昨日はやはりブロ友さん(たすけさん)が石岡に来てくれた。
石岡市観光協会の方を交えて話をした。
自転車仲間で石岡をめぐってみたいので案内をして欲しいとの話であった。
とても貴重な時間をいただいた。
この石岡の街は魅力があるのに外への発信力がないということを改めて思い知らされた。
この春には仲間を集めて、この街の散策するプランを立てていただく予定だ。いよいよ楽しみがまた増えた。
昨日午前中は「ふるさと風」の機関紙を印刷し、午後の打ち合わせに出席し、少し石岡の街を案内した。
観光協会の方にはまち蔵「藍」に機関紙を置かせていただく許可を頂き、たすけさんにも少し東葛方面にどこかに置かせてもらえるよう10部ほどお願いした。
そして、今日はつくば市北条のふるさと館「田村家」にお置かせていただき、平沢官衙(かんが)の公園管理事務所にも持っていった。
こちらは係りの方が5人いてローテーションを組んでいるそうだ。
管理場所を聞いていないが、つくば市の施設だから輪が広がってくれるかもしれない。
今日もこんな昔の遺跡の場所なのに結構たくさんの人が訪れ、熱心に説明を聴いたり、パンフレットをもって言ってくれたりしていた。
最後にとうとう残りが4部とギター文化館のコンサートシリーズのパンフレット(ビラ)が35枚残った。
これを土浦市博物館(亀城公園となり)に持って行って、置いてくれるように頼んでみた。
係りは女性の方ではあったが、快く引き受けていただいた。
次回は様子を見て増やしていけたら面白い。
そうそう、博物館では私の方から係りの方に
「博物館の館長さんの正月初夢の、”霞ヶ浦の豊富な史跡をまとめて、世界遺産登録したい”の記事に感動しました」
と話しておきました。
ここの館長さんは麻生町(現行方市)出身の方で、私の調べていることなどにもきっと関心を持っていただけるかもしれないと思っています。
それにしても、土浦も平沢官衙でも自転車も含め観光客が多いですね。
配り終えて、石岡に戻ったのですが、いつもの如く歩いている人も少ない状態でした。
まちかど情報センターに立ち寄り、16日からはじまる「石岡雛めぐり」の様子を聞いてきました。
まだ準備中でしたが、総社宮には昨日飾り付けが終わり(舞台と拝殿の中?の2箇所)、まちかどは今年のテーマを源氏物語にしたそうです。
金刀比羅宮と国府館、みんなの家などに飾るそうです。
お近くの方は是非真壁とは言わず、石岡にも足を運んでください。
雛めぐりは2月16日(土)からです。
今日は穏やかな日差しで風もなく気持ちの良い日であった。
車をつくば山沿いに走らせていたが、実に「山笑う」の言葉がぴったりしていた。
本来はもう少し木々の葉や芽が吹き始めた状態を言うのであろうが、もう間近にそんな状態が来ている予感を感じさせてくれていた。
石岡への春も間近に迫っているように思う。
賛同される方は一報下さい。いろいろな案内や情報を共有しましょう。
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中国では春节(chūnjié)というそうです。一般に日本では春節と言われています。
また春節は一般的には正月の15日間を指すとされているようですが、初日のみに使っても良さそうです。
そして前日の昨日2月9日(土)は中国では大晦日にあたり、夜には政府の自粛要請があったが、花火がたくさん夜空にひかり、爆竹の音が騒がしかったそうです。
日本では、今日のニュースは、中国艦船のレーザ照射問題で揺れ、深刻な大気汚染の日本への影響が大きく取り上げられています。
この中国の行事を取り上げるとしても大気汚染がさらに深刻になるとの報道ばかりです。
私は中国の正月は知らない。
でも、中国では民族大移動の時期のはずで、日本を敵視するにしても時期的には国民は関心がないと思う。
ぜひ、報道関係者には、政府間の緊張を緩和するためにも民間のレベルでの交流などについて報道を行っていっていただきたい。
先週のブロ友さん(言の葉ISさん)のブログに紹介されていた歌をここでも紹介させていただこう。
☆ 年の内に春は来にけり ひととせを去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ (在原元方:新古今和歌集1番)
先日、2月3日に節分が有り、翌4日に立春がありました。(節分は立春前の日の行事)
元来は季節が春になる日(立春)が正月になる日と思われるのだが、今年のように正月になる前に立春が来てしまった時の様子を軽いタッチで読まれた歌だとされます。
歌の内容は、特にどうということもないと思いますが、歌のテンポがいいですね。
私の中学校の国語の先生に名物先生がおりました。
大学を出てからすぐに来たばかりだったので、まだ若いが優秀な先生で学生にとても人気がありました。
いつも0(ゼロ)や∞(無限大)を使って生徒を煙に巻いていました。
中学1年にその先生が担任で、学年最後に記念の作文などをまとめることになった。
国語などあまり好きではなく、なんでもいいというので和歌を数種載せました。
和歌を書いたのは私ともう一人の二人だけ。もうひとりが格好の良い歌を書いていて私は恥ずかしい思いでおりました。
でもそれ以来和歌も書いたことがないのに、作った歌を忘れずに覚えているのです。不思議ですね。
☆ 立春を過ぎぬと思えば 何故となく 風の中にも 温かみ感ず
☆ 風邪のため 閉鎖となりし 組通り 羨みつつも 地学室行く
☆ ポカポカと した縁側に 寝転びて 雪の降る国 遥かに思う
実にくだらないが、我が青春も懐かしい。
さて、昨日はやはりブロ友さん(たすけさん)が石岡に来てくれた。
石岡市観光協会の方を交えて話をした。
自転車仲間で石岡をめぐってみたいので案内をして欲しいとの話であった。
とても貴重な時間をいただいた。
この石岡の街は魅力があるのに外への発信力がないということを改めて思い知らされた。
この春には仲間を集めて、この街の散策するプランを立てていただく予定だ。いよいよ楽しみがまた増えた。
昨日午前中は「ふるさと風」の機関紙を印刷し、午後の打ち合わせに出席し、少し石岡の街を案内した。
観光協会の方にはまち蔵「藍」に機関紙を置かせていただく許可を頂き、たすけさんにも少し東葛方面にどこかに置かせてもらえるよう10部ほどお願いした。
そして、今日はつくば市北条のふるさと館「田村家」にお置かせていただき、平沢官衙(かんが)の公園管理事務所にも持っていった。
こちらは係りの方が5人いてローテーションを組んでいるそうだ。
管理場所を聞いていないが、つくば市の施設だから輪が広がってくれるかもしれない。
今日もこんな昔の遺跡の場所なのに結構たくさんの人が訪れ、熱心に説明を聴いたり、パンフレットをもって言ってくれたりしていた。
最後にとうとう残りが4部とギター文化館のコンサートシリーズのパンフレット(ビラ)が35枚残った。
これを土浦市博物館(亀城公園となり)に持って行って、置いてくれるように頼んでみた。
係りは女性の方ではあったが、快く引き受けていただいた。
次回は様子を見て増やしていけたら面白い。
そうそう、博物館では私の方から係りの方に
「博物館の館長さんの正月初夢の、”霞ヶ浦の豊富な史跡をまとめて、世界遺産登録したい”の記事に感動しました」
と話しておきました。
ここの館長さんは麻生町(現行方市)出身の方で、私の調べていることなどにもきっと関心を持っていただけるかもしれないと思っています。
それにしても、土浦も平沢官衙でも自転車も含め観光客が多いですね。
配り終えて、石岡に戻ったのですが、いつもの如く歩いている人も少ない状態でした。
まちかど情報センターに立ち寄り、16日からはじまる「石岡雛めぐり」の様子を聞いてきました。
まだ準備中でしたが、総社宮には昨日飾り付けが終わり(舞台と拝殿の中?の2箇所)、まちかどは今年のテーマを源氏物語にしたそうです。
金刀比羅宮と国府館、みんなの家などに飾るそうです。
お近くの方は是非真壁とは言わず、石岡にも足を運んでください。
雛めぐりは2月16日(土)からです。
今日は穏やかな日差しで風もなく気持ちの良い日であった。
車をつくば山沿いに走らせていたが、実に「山笑う」の言葉がぴったりしていた。
本来はもう少し木々の葉や芽が吹き始めた状態を言うのであろうが、もう間近にそんな状態が来ている予感を感じさせてくれていた。
石岡への春も間近に迫っているように思う。
賛同される方は一報下さい。いろいろな案内や情報を共有しましょう。

