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五万掘古道(2)-鹿の子・河内ルート

 笠間市の五万掘古道を見て、かなりの確信を覚えた。
五万掘と名づいているところに古代の官道があるのではないかと。

この道路は笠間市仁古田(にこだ)と長菟路(ながとろ)の町の境界になっている。
この二つの地名もとても興味深い。

仁古田(にこだ)という地名は東京なら西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」が駅の元になっているが読み方が違う。
もう一つかすみがうら市の神立にちかいところに「江後田(えごた)」という地名がある。
昔、鎌倉街道がこのあたりを通っていたのではないかということを子安神社の宮司さんに伺ったことがある。

多分川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所だったのではないかと思う。
それもそれほど大きな川ではない。
江古田は江古田川、仁古田は涸沼川、江後田は霞ヶ浦に注ぐ菱木川のそれぞれ上・中流部にある。
名前もよくわからないほどの比較的小さな川である。しかし、昔の舟での移動を考えると意外に重要な場所だったのかもしれない。

さて、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名だが、「古代の道」冊子ではこの古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論している方がおられるが、これはどうも違うだろう。

長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・など漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんある。
これは川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈している。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべるが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っている。

さて、この道を南南西に延長すると小美玉市の五万掘や五万窪を通り、石岡の国分尼寺の300m程北の鹿の子(C)遺跡の場所(高速道路下)にでる。また北北東に延長すると、河内駅家(こうちうまや)のある渡里町と河内町に真っすぐにつながる。

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(クリックして大きい画像を見てください。表示された画像が小さい時はもう一度クリック)

そして、五万掘や渡里町などに八幡太郎義家の伝説が伝わっている。

八幡太郎義家が蝦夷征伐に通った時(後三年の役)に源氏の呼びかけに我も我もと武士が集まり、かすみがうら市の四万騎農園のある広大な草原で4万騎が集まり、この場所で馬の訓練をし、石岡に来た時には5万騎に膨れ上がり、鹿の子遺跡そばに五万掘の名前となった。
この鹿の子近くの五万掘の名前は消えてしまったが、小美玉市に五万掘という地名となり、さらにその先の涸沼川近くの笠間市の五万掘の名前も残った。

また台渡里廃寺の近辺ではここの一番の長者(一盛長者)が滅ぼされた話が伝わっている。(こちらを参照)

面白いことに、この話とそっくりな話が行方市の西連寺にも伝わっています。
西連寺で昔から行われている伝統行事「常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)」の始まりの話とそっくりなのだ。
西連寺は鹿島神宮までと常陸国府を結ぶ中間に有り「曾尼(そね)の駅家(うまや)」の推定値に近い場所にあります。

小美玉市の旧玉里の高崎にも昔五万掘という場所があったそうだ。
この玉里地区にも八幡太郎伝説がいくつも残っている。
今まで考えてもみなかったがここも通ったのだろうか?

考えてみればいくつものルートを通って国府(石岡)に集結したかもしれない。集結した場所が国府跡(石岡小学校敷地)ではなく、鹿の子遺跡の軍事拠点ということになりそうだ。

前九年の役は1051年から、後三年の役は1083年からだ。
この後に奥州藤原氏が台頭することになる。

やはり鹿の子(かのこ)の地名の由来は鹿ではなく鹿島神宮を意識していたようでもあるが、鹿は鉄のことを指していたとする方がすっきりした解釈になれそうだ。

石岡に生板池という池があるが、この場所で炊事をした「まないた」から「生板池」の名前となり、この近くに6万という地名まである。

かすみがうら市の四万騎(しまき)原は江戸時代の文献では嶋木ヶ原と出てくる。
古東海道のルートもいろいろな事実に基づき考察し直さねばならないだろう。

従って、道路があって名前ができ、そこに鎌倉時代になって八幡太郎の伝説が生まれたのだろう。

 さて、この古道の途中、小美玉市の五万掘ととなりあった場所(羽鳥駅の東側)に五万窪という地名がある。
ここで、東工大の発掘調査により、古代の遺跡が見つかっている。
五万窪遺跡と呼ばれているが、古代製鉄炉(たたら製鉄)跡とみられ、室町時代の遺跡だと考えられている。

これはすべて古代官道が道路として掘りこまれて窪、掘と呼ばれる広大な低地がまっすぐに続いていたのを表したものだ考えるとかなりスッキリする。恐らくこの官道の両側で昔の行政区が変わったりするのもわかる気がする。
平成の大合併で名前が消えてしまった地域も多いのだろう。
消えてしまっても地図や記録にはぜひ残して欲しいと思う。

もう一つ、特徴的なことがある。鹿の子遺跡は高速道路建設の時の発掘調査で見つかったものだが、10万平方メートルの広い遺跡で奈良時代後期から平安時代前期のものとされています。
多くの住居跡の他、武器や農具などを制作していたと思われる工房跡などがみつかり、多くの漆紙文字が残されているために当時の行政の統計に関する資料などたくさんの貴重な資料が発見されています。
一部は風土記の丘公園の有料エリアの展示室で見ることができます。

しかし、この展示エリアの公開して書かれている内容などを見ても、これらの時代に蝦夷との関わりなどは読み解くことができません。
今回の五万掘古道を考えて、一気にその姿が浮かび上がってくるように感じました。

各国府をつなぐ道で、行政の連絡道とばかり思っていたのですが、蝦夷との関わりが重要だったのではないかと思えてきました。

坂上田村麻呂が阿弖流為を滅ぼし、胆沢(いさわ)城を築いたのが西暦802年です。
今残されている鹿の子遺跡には昔の西暦780年にあたる暦(具注暦)が発見されています。

この鹿の子が武器供給の拠点であり、道を整備する必要もあったのだと思います。
当然この道の先は高萩などの海岸通りへも続きますが、水戸市の河内からまっすぐ北上して福島県の田村市(三春)に続いていたのだと思います。

常陸国風土記が編纂されたのが西暦713年ということで、今年は1300年記念の行事が茨城県の各地で行われています。
高萩市の風間市長さんは熱心ですね。

明日は常陸国府周りの古官道などの情報を述べてみたいと思います。

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古東海道 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/05/01 17:36

五万掘古道(3)-国府周辺

 笠間市の涸沼川上流にある五万掘の平安時代の官道跡から見えてきた全体像を勝手な解釈で、2度にわたり書いてしまいました。
あまり根拠のないものが多いので、こんなこともあるのかな?程度に聞き流しておいてください。
ここは学術論文の発表の場ではないので、反対意見などもあっても、意見はご自由ですから聞くことは聞きますが、特に反論する気もありません。

さて、鹿の子遺跡のことを考えているとやはり奈良平安時代の国府(石岡)の周りに残された数々の伝承などをもとに今思っていることを書いてみたいと思います。
これもほとんど根拠がありませんので、実にくだらない妄想かもしれません。

国府
(クリックして拡大して見てください)

 常陸国の国府は石岡小学校の敷地の調査でほぼ判明したとされています。
(まだ異論を唱える方もいるようですが、とりあえずここが国府と国に認められました。)

この国府の入口門は石岡駅側(東側)を向いています。従って、奈良平安時代の官道は当然国府跡の東側にあったことでしょう。

この国府があったとされている場所には1346年に大掾氏が府中城を築き1590年まで続きました。
この場所に城を築く前は、後に外城(とじょう)と呼ばれる場所(岡田稲荷神社)に城(1214年築城?)がありました。
この外城というのが茨城郡の郡衙(ぐんが)があった場所ではないかと言われ、近くに大きな茨城廃寺の遺跡が見つかっています。

この茨城廃寺の建立された時期が不明ですが、西暦752年に完成したとされる常陸国分寺よりも古く、8世紀初頭の頃と思われます。
一方の国府跡も7世紀後半ころからの遺構もあるので、国府の建物と、茨城郡衙の建物が少し離れてあったものと思われます。

 2年程前に6号国道のバイパス道路建築のために通過地点となる場所の遺跡発掘調査が行われました。
この時に、石岡と高浜を結ぶ通称「高浜街道」沿いの中津川で旧東海道のものではないかと思われる官道の跡が見つかりました。

この道を延長すると石岡の国府跡の東側を通り、国分尼寺から鹿の子遺跡につながります。
国分尼寺横の道は昔国分寺の瓦を焼いた「瓦会」を通り宇都宮まで続く「宇都宮街道」と言われた道になります。
この道はその後の変革でほとんど忘れ去られ、消えてしまっています。

では中津川遺跡である官道の遺跡は何を語っているのでしょうか?
今まで古東海道を調べていた学芸員さんや学者の間で想像していた場所とはかけ離れていた所だったようなのです。

私は、やはり古代の道は海(現霞ヶ浦)を抜きには考えられない証拠だと思っています。

常陸国風土記にはこの高浜の浜については次のように書かれている。

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「花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かける。春には浦の花が千々に彩り、秋には岸の紅葉が百々に色づく。野辺に鴬は歌ひ、水辺に鶴は舞ふ。山里の男たちや海浜の娘たちが、次々に集まり、商人や農夫たちも舟を急がせて通ふ。夏には、朝夕に友を呼び、下僕を連れ、浜辺で海を眺めて過ごす。波を蹴立てて寄せる風に、暑さや気怠さを忘れ、岡の陰が長く伸びるころになると、涼しさもひとしほである。歌はれる歌は、

 高浜に来寄する浪の沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば

(高浜に寄せ来る波が、どんなに沖から寄せ来ても(他の女が寄って来ても)、私の心が動かないのは、あの娘に心を寄せてるからだ。)

 高浜の下風 ( したかぜ ) さやぐ妹を恋ひ 妻と言はばや しこと召しつも

(高浜の浜辺の下を騒がしく吹く風ではないが、恋するあの娘を妻と呼びたい気持ちがこみあげてくる。こんな私だのに。)
-------------------------------------

常陸国に赴任した国司たちはこの高浜から舟で鹿島神宮にお参りに行ったのです。
しかしこの昔の霞ヶ浦は海でしたので風が強ければかなり波が荒れて船が出せません。

そのために陸路で行く道も作られたのでしょう。
国府から高浜(国府(こう)の浜が高浜になった?)を経て行方の曾尼駅、潮来(板来)駅を経由して鹿島神宮へ続いたのでしょう。

ですから、古東海道はこちらではないのです。海を渡ったのです。

信太郡の美浦村あたりから船で対岸のかすみがうら市へ渡るのが最短ですが、波が少し静かなら、高浜にまで行かずに菱木川を遡上したのかもしれません。

なにしろ、馬での移動などはあまりなく、奈良平安の乗り物と言ったら「牛車」です。
悪路でも牛がのんびり引く車に揺られてやって来たのでしょう。

その後、前九年の役で源頼義と源義家(八幡太郎)親子がやってきたのは「正月平」を通ったことになっているので(これは私が信じているだけかもしれない)かすみがうら市の出島地区を横断しているように思う。

一方、子安神社と胎安神社の間を鎌倉街道と呼ばれた道があったというが、これを古東海道の道との紹介があちこちに載っている。
しかし、この間にあった道は現在のまっすぐな舗装道路より少し東側に旧道があり、この先は江後田を通りやはり霞ヶ浦を渡ったと考えるべきであろう。

なぜなら、天の川に架かる橋が、壊れて通れなくなっていたので、子安・胎安神社にやってきた八幡太郎義家たちがこの橋を修復したと神社での記録には残されており(言い伝えかもしれぬが)、この神社に来るときにはこの川を軍勢はわたっていない。
また今の天の川より南の土浦までの道は今から39年前の昭和49年に、茨城県で国体が行われた時に整備した「国体道路」であるのだから。

笄崎(こうがいさき)の地名も、弟橘媛(おとたちばなひめ)の笄(こうがい)が流れ着いたとの話からもし来ているのだとすると、菱木川を上ってきたということも十分に考えられる。(地名の記事はこちら

なんともロマンが広がる。

それと、前に書いたが国府の駅家(うまや)は6号国道の貝地の交差点の少し北側にあったのではないかと考えています。(記事はこちら
この近くには府中六井の一つで平景清が産湯をつかったという言い伝えまである「室ヶ井」があった。
駅家としてはこの井戸が役に立ったのかもしれない。

好きなことを書いたが、今の土浦で行われている古代の道のルートとはかなり違うので、解釈は今後の発掘調査などで次第にはっきりしてくるでしょう。

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古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/02 19:05

五月晴れ

 今日は憲法記念日というよりはゴールデンウィーク後半のスタートですね。

ここ数日寒くらいの日が続き、北海道では雪が降ったそうです。

しかし、今日は比較的天気もよく青空が広がっていました。

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空には鯉のぼりが悠々と泳いでいます。
もっとも、こんなに大きな鯉のぼりは自宅では上げられません。
近所で、毎年この時期の上げている家があるのでついパチリととってしまいました。

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子供の成長を願ってあげる鯉のぼりも良いものですよね。

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青空に紫色の藤も綺麗に映えています。
白い藤を見に風土記の丘に行ったのですが、まだ白い藤はこれからというところでした。

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さて、五月晴れ(さつきばれ、ごがつばれ)というのは昔なら旧暦ですから6月の梅雨時の晴れの日をいったそうですが、今では5月のカラッと晴れた日を思い浮かべますね。

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4月末の休みに入る頃になると、このあたりでは田植えが始まり、連休中にはほとんどの水田で田植えが終わります。

昔の田植えは1ヶ月くらい遅かったそうです。
従って五月雨(さみだれ)というのは梅雨のことだそうですが、田植え時期の雨だったのですね。

五月雨をあつめて早し最上川

なども旧暦の5月末で、今の7月半ばですのでもう暑い頃ですね。

そういえば五月蝿い(うるさい)なんてのもありましたね。

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近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/03 16:42

春色里山-菖蒲沢

 この田植えの時期になるとこの里山風情が恋しくなる。
ここに住んでいると当たり前の風景なのだが、やはり日本の原風景に浸りたくなる。

八郷の菖蒲沢から仏生寺・小野越地区へただ田んぼとカエルの声を聞きにやってきた。

住んでおられる方はこの時期天気もいいので家族総出で1日田植えというご家庭も多いようだ。

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道路の端を苗を積んだ田植え機がのんびり走っていくが、運転しているおじいちゃんの隣にはお孫さんも乗っていたりする。微笑ましくもある。

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田植えの機械が導入されているところもあれば、狭いところは手植えでやっている。
既に植え終わった田んぼでも、丁寧に手を加えたりしている。

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菖蒲沢、仏生寺・小野越地区は筑波方面からは不動峠を超えて、反対側に下りたところから直ぐで、筑波四面薬師と小町の北向観音がある山で囲まれた静かなところだ。
辻のいちごハウス畑もすぐそばで、朝日トンネルからも近い。

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八郷地区は日本の里山100選に選ばれた場所で、このように都会から近くてもコメ以外にもいろいろな野菜の収穫から梨・柿・いちごなどの果物栽培も盛んで、筑波山系に囲まれていて、都会の雑踏を逃れて自転車などでめぐるのは気分が晴れ晴れする場所として選定されたものと思う。

でも地元では意外にこの良さを認識していないようだ。

絵になる風景はどこにでも転がっている。
田んぼ、小川、菜の花、民家、柿の木、人々の暮らし、藁葺きやね、ミツバチ、蝶、蛙、取り残された橋、森林(特殊保護地区でもあります)、姫ハルゼミ・・・。

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目に青葉 蛙(かわず)喜ぶ 田植えかな


そうそう、田んぼに水を流す音に混じって、もうあちらこちらで鳴き始めましたよ。


里山の風情 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/05/04 17:17

春色里山(2)

 皆さん連休はどうお過ごしですか?

まあ、天気も良いし、それほど暑くも寒くもないのだからどこかに出かけなくちゃと混雑したところに出かけてそろそろぐったりしている人もいるかもしれませんね。

今日のニュースだったかに喫煙する人を就職エントリーから除外する企業が増えていると書いてありました。
昔は職場内での喫煙も当然だった時に比べたら、分煙や禁煙が浸透してきてタバコを吸わない人にとっては過ごしやすくなったと言えますが、これがタバコを吸わない人にとっても最近の煙がない状態に慣れてくると、ちょっとの煙でもすぐにわかるほど敏感になってしまいました。

ですから喫煙所などの近くを通っただけでももうダメですね。

海外に行くともうだいぶ前から喫煙する人のことをあまり良い顔で見られないようになってきました。
先進国に行くほどその傾向は強いですよね。

もう25年以上前にロンドンのホテルで禁煙室というのに泊まりました。ホテルのその階はすべて禁煙室でした。
いまではもう当たり前になっていますが、当時は少し驚きました。
だってまだ飛行機の喫煙席と禁煙席は単に座席のエリアで区切っていただけでしたので、禁煙席でもすぐ前が喫煙席なんてのもありましたから。

いまでもまだタバコを吸い始める若者や女性が多いですね。
こんなに虐げられてもなお、そんなに魅力があるのですかね。

私は個人的には1箱1000円くらいにして、たくさん税金を収めてくれたらいいなと思っています。
ですからタバコを吸う人も嫌いでないですよ。ありがたいです。

 春のやさしい薫風に誘われて、疲れた目を少し休めましょう。

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石岡市池袋近郊にて。

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八郷の片野地区より県立フラワーパークとその上に見える筑波山。

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同じ片野地区。水田ばかりでなく、麦や野菜など多種の畑が混ざり合っている。
奥に見えるのは「富士山」。八郷地区にも富士山があるんですよ。
昔(万葉の頃)は鼓ヵ嶺(つつみがみね)と呼ばれたそうです。山の上で足を踏み鳴らすと振動したんだそうです。

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フルーツライン近くの辻、上青柳地区から弓弦(ゆづり)方面を見たところです。

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この頃はどこに行っても春色です。
私は植物園などもいいのですが、このような里山の風情が好きです。
いつまでも変わらないでいてほしいと願っています。

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里山の風情 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/05 17:42

つらつら思うこと(4)

 ゴールデンウィークも今日で終わりですね。
ある程度自由の身になると、この休みはかえって困ります。
どこに行っても混雑し、時間もかかる上にゆっくり散策もできない。

昔はこれしか休めないのでどこに行こうかなどと考えもしたが、今は平日に出かけることもできるので休みは家にとどまっていることが多い。

このブログを開始して今日で1000日目になった。

昔の記事に時々拍手やコメントをもらうことがある。その時にまたその記事を読み直してみる。

毎日書いているとやはりマンネリになり昔のフレッシュさが失われてきていることに気がつく。
やはりマンネリで記事をUPしていることが多くなった。

時間との競争もあり、根気が続かなくなることもある。
これもある程度は致し方ないだろう。

このブログを始めたきっかけは実に他愛もないことだった。
最初はどうして良いかも分からずにハンドルネームも自分だけわかれば良いと登録するときに考えずに決めてしまった。

今から思えば皆からキザと思われるような名前になってしまった。
石岡の歴史などを紹介するホームページも、他所から来て間もない時であったので「・・・ロマン紀行」なんてつけたので、石岡市民とはまだ自分でも思っていなかったのだろう。

もちろんこの場所を、他の場所に住んでおられる方に知ってもらうには紀行文的な書き方の方が伝わりやすいと思っていたためのタイトルでもあった。

そして、姉妹編としてこのブログを始めたのでハンドル名を「Roman1405」(ロマン石岡)としたのだが、これってコメントを書くたびに出てきて打つのが面倒になり「Roman」と短くした。

まったくキザぽくなっってしまったが、本人はいたってロマンチストとは思っていない。
でも名前負けしたくないので、顔も見えないので、できればもっとロマンチックにやりたいのだが、こればかりは生来のガサツさは文章に出てくる。

まあ目標の3年間ももう少し。
妻に「疲れたからそろそろ毎日書くのはやめようかな」と言うと、「ここまでやったのだからもう少し続けたら」と言われてしまった。

妻も、このブログを毎日のようにチェックしているようだが、文章は長いからほとんど写真を流し読みが多いという。
だから写真がないとつまらないようなので今日も1枚載せます。
連休最終日に風土記の丘も親子連れが多く来ていました。
お弁当を広げたり小川で魚などをとったり楽しそうでした。

明日にもう少し写真をUPします。

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(クリックすると拡大します)

風土記の丘の日本一の獅子頭と藤棚

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つらつら思うこと | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/05/06 18:06

風土記の丘の風景

 連休も終わり今日は仕事に出かけてきました。
休みすぎているとペースが出ません。
仕事場に行くとやはり気が引き締まって思うように仕事が進みます。

自宅にいるにしてもこのような規則正しい時間のコントロールができるでしょうか。

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風土記の丘に入口の藤棚は半分が白い藤なのですが、白い藤の花はあと1週間くらいでしょうか。

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桜も終わり、連休最終日の公園内は天気もよくのどかです。
若葉萌ゆるです。

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上の写真はスカシユリです。桜が終わるとこのユリを植えて、これからどんどん成長します。
そして6月中旬には綺麗な花を咲かせてくれます。

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時の門の脇にある大きな木は「」(訂正:栃の木?:ご指摘感謝)ですね。昔「朴の木」ではないかと書いてしまいましたが、これでよくわかりました。
桐の紋はこんな形ですよね。皇室もそうですが、筑波大も学校の紋に使っています


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時の門と栃の木

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子供たちの姿を見ていると今も昔も変わらないかもしれません。
何を捕まえようとしているのでしょうか?

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この遊具はこの日ばかりはたくさんの子供たちが遊んでいました。

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会津の古民家を移築した建物の縁側では「めだか」を売っていました。

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風土記の丘近辺 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2013/05/07 20:11

つらつら思うこと(5)

 このブログもいろいろな場所を訪れて、見て感じて、発見したりしたことなどを好きに書いてきた。

しかも、歴史学や考古学、民俗学などそれぞれの専門家がいるのに、そんな勉強もしない素人が勝手なことを書いていてもいいのだろうかというプレッシャーを感じることがある。

しかし、歴史も嘘は多いし、事実の事柄だけを並べ立ててもその時代に生きていた人たちの思いは伝わって来ない。

歴史の裏を見たいという思いはきっと誰にでもあるのだろうが、記録されたものがなければ学問では扱えず、どちらかと言うと文学や芸能の方がそのような民衆の考え方が伝わってくることも多い。

まあ「Going My Way」で行こう。誰かに何か言われてもそれはその人の考えであり、私は私の考えのおもむくままに進めばいい。

そんなことを考えていて、この休みにアメリカ映画「Going My Way」をネットで見た。

1944年の作品でまだ太平洋戦争の最中なのにアカデミー7部門を獲得したアメリカ映画だ。

タイトルから想像したのとは全く違ったが、とても良い映画だった。モノクロ映画など久しぶりだ。

借金で潰れそうになっていた教会を立て直しに新任神父がやってくる。
45年以上にわたってこの教会を自ら建て、それを守ってきた老神父は、新任の神父が自分の代わりに送られてきたことを知って、居場所がない思いにかられ、教会をそっと去る。
あてもないのに・・・・。

戦争中でもあったし、多くの人々が、居場所を見失っていた時代なのかもしれません。
家出し歌手を目指す少女・七面鳥を盗んだりする少年グループなど新任神父が変えていきます。
映画は優しく包んでくれます。



これは"虹の町"へ往く道
我が道を往こう ♪
行く手には "青い鳥の丘"
我が道を往こう
バスケットに希望をつめて さあ旅立とう
日曜の朝のように 心晴れやかに
道を曲がれば標識 "夢追い人"のハイウエー
幸せが待ち受ける道
我が道を往こう ♪
やがて浮かぶほほ笑みを 旅の道連れに
君も往くといい 君の道を ♪

ビング・クロスビーが歌う「Going My Way」はしっとりと美しい声だ。
この新任神父役がビング・クロスビーで若い時に歌手になるか神父になるかの選択を迷った結果が、このGoing My Wayというわけだ。


(アベマリア)

でもこれは日本語で言う「我が道を往く」ということとはかなりイメージが違う。
人々のために陰で支える役割に徹して、「君も往くといい 君の道を」というわけだ。

うん、こんな生き方もいいなと思うようになったね。

アベノミクスでただお金だけが動いて大儲けするなんて現象がまた復活しかけている。
生産性の伴わない金儲けは基本的にはどこかで損をする人が出る。

海外勢が日本株を買っているが、これは逃げ足が早い。ムードが変わった途端に暴落する。
まあ、お金の儲かった人は大いに消費してもらい、旅行も美味しいものもたくさん食べてくださいね。

どちらにしろ年寄りの金はなくなるしかないので、そのうちにこの大借金国日本はもたなくなるでしょう。

足尾山

今朝(6時頃)の恋瀬橋からの眺め。(クリックで拡大します)

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つらつら思うこと | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/05/08 20:04

五万掘古道(4)-安侯駅家

 1週間ほど前に書いていた古代の道の続き記事です。

 910年頃になってまとめられた延喜式には、その当時の神社の名前や大きさ、さらに各国を結んでいた街道(官道)に設けられた駅家(うまや)の名前が記されています。

畿内から全国に向かう七道のうち東海道の国に属していた「常陸国」は国府が今の石岡ですから、主要道としては石岡が終点になります。

奈良時代に、それまで人が通っていた道は地形に合わせてくねくね曲がっていたものを、できるだけ平に、直線となるように広い道路を作ることが、それぞれの国に課せられようです。

これは実際に各地で、両側に広い側溝を持った官道と思われる遺跡が発見され、いろいろな憶測を交えながら議論がされ始めています。

しかし、この官道の意味するものがこの五万掘古道のルートを見ていて違って見えてきたのです。

国府石岡から北に伸びるこの古代官道の出発点となっているのは「鹿の子遺跡」と思われます。
鹿の子遺跡は石岡の少し外れにあります。

国府や郡衙(ぐんが)などは恐らくこの常陸国府の中心であり、この奈良時代の始め頃は、まだ東北の蝦夷の脅威に備えていなければならなかったのです。

そのため、この陸奥国の蝦夷への城柵が最初の頃はこのあたりにも設けられたのだと思います。
畿内の回りにも各主要官道に関が設けられました。
それが時代とともに北に移動し、ある程度の大和朝廷の律令制が浸透して来て、その必要性がなくなり、東北地方との境にある「鼠ヶ関」「白河関」「勿来関」の役割が大きくなり、それも次第に北へ北へと小さな城柵が作られて行ったのでしょう。

奈良時代のはじめ頃は、この鹿の子では広大な土地にいくつもの武具や農具などを作る工場群があったのです。
そこではすでに、各種の人口統計や税の台帳なども作られていたようです。

いってみれば武器や食糧の供給基地であり、人馬についても管理がされていたと思われます。

当時の様子をなかなか想像することが困難なのですが、古東海道の道を探求するにはきっとこの時代背景を考えずに推測すると見えるものも見えなくなるように思います。

では鹿の子(常陸国府の官道駅ではなく、軍事拠点)から次の駅は延喜式では「安侯」と書かれています。
これは笠間市(旧岩間町)安居(あご)として地名に残っているあたりだろうと言われています。

この安居という地名もどういう意味なのかはわかりませんが、各地に似た地名があります。

地図で見たら静岡の久能山の麓にも「安居」「根小屋」「古宿」などの地名が並んでいました。
根小屋などは昔の城があった時に家臣などが住んでいたところがその名前で呼ばれているので古いお城の周りによく見かける地名です。

 以前「安居千日堂」を紹介した(こちら)時にも、このあたりに駅家(うまや)があったのだろうかと思いを馳せていたのです。

しかし、今回の五万掘古道で見えてきた場所は、もう少し西寄りで、安居の一番北側涸沼川の手前あたりだと思われます。

安居

上の地図で、笠間市安居はこの涸沼川までです。
丁度川が湾曲した場所に近いところに駅家があったのではないかと思います。(確認されていません)

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しかし、ここの東西にはしる県道(43号)は比較的新しいもので、あたりもこのような畑などが広がり、何もそれらしきものはありません。

ただ、この道沿いの高速道路に近い場所で昔の建物(倉庫?)跡と思われる遺跡が発掘調査で判明しています。(東平遺跡)

少し南下していくと小さな神社「山倉神社」があります。
神社は古墳と思われる小山の上にあります。

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これが神社の入口です。階段を上ると拝殿があり、中には地元の祭りに使われる小さな赤い神輿がありました。
歴史的なものもよくわかりません。

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明らかに古墳の上に建てられた神社だと思います。

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神社の前の通りは、上の写真のように竹林を持つ大きなお屋敷風の家などがあります。

この神社の前の道を少し東側にいったところの交差点を南に行くと岩間インター近くの東大附属農場や県農業総合センターの前に出ます。

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上の写真の正面信号の先の右手こんもりしたところが「山倉神社」です。
左は石岡方面です。

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この信号脇に置かれていた供養塔ですが、追分と兼用だったようで右下に「右」左下に「左」と彫られていて、地名が入っているようなのですが、よく読むことができません。比較的新しいものかもしれません。

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地図に「墨書土器(騎兵長+)」と書かれた場所近くの写真です。

この場所で「騎兵長+」と墨で底の部分に書かれた土師器杯が発見されました。9世紀前半のものだとされます。
この駅家のあたりにもこれらの騎兵が10人単位以上でいたのではないかと推測されます。

鹿の子遺跡などとの関連や、これより西の涸沼川上流にある笠間市土師(はじ)などの地名との関連を知りたくなりますね。

ああ、やっぱりすぐ近く(北西)の「随分附(なむさんづけ)」などとも隣り合っているのだから、これはすべて関連した名前なのかもしれません。(こちらに書いた記事参照ください)

それからこの前も書きましたが、地図に見える長兎路(ながとろ)はこの官道に関係して付けられた名前ではありません。
漢字を基に古い地名を考えては見えるものが見えてきません。同じ読みの長瀞、長戸路、長土呂、長渡呂、長外路などは皆、川沿いにある地名だと思います。

明日は国指定文化財である「塙家住宅」を紹介します。
ここも私にとってはとても興味深いものでした。

塙(はなわ)という地名もたくさんあります。
塙、小塙などみな少し小高い土地についた名前で、これは漢字そのものがその形状に合わせて作られたものです。
この反対は圷(あくつ)なのですが、どうも崖の下という意味合いばかりではないようです。
すべて川沿いの場所についています。

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古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/09 18:33

塙家住宅-分棟式曲り屋

 安居の古代の官道駅家(うまや)があったとも割る場所の近くに国指定文化財の「塙家住宅」があります。
前にブロ友さんの記事で気になっていて3月末に見に行っていたのですが、古代官道記事が先になり、やっと紹介できるようになりました。

とても興味深い家屋でした。
まあ、多くの方は「なんでこんなところに感動しているんだ」と思われると思いますが・・・。

そう、江戸時代にできた藁葺きの家屋でしかないんです。でも面白い。初めて見る形です。

少しずつ写真とともに紹介します。

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このあたりは江戸時代水戸徳川家の宍戸藩の領域ですが、佐竹氏が家康に秋田へ飛ばされた時に、秋田氏が国替えで入ってきました(1602年)。
しかし、秋田氏は1645年に福島県三春に移されてしまったために、この地にいたのも比較的短かったのです。

この塙家は、この秋田氏の名主をつとめていた家で、三春に移った時に随行せずにこの地に残ったそうです。

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この建物は江戸中期の18世紀中頃だそうですので、なぜこのような建て方になったのかについて、いろいろな憶測を呼びそうです。
詳細は後で述べます。

正面に大きな入母屋造りの主屋があり、右手には兜屋根の家屋が隣り合ってL字型配置に置かれています。
これは正しく曲り屋とそっくりです。

那珂市の一の関ため池親水公園に移築されたつるし雛で有名な曲り屋とそっくりです。(こちら参考)

兜屋根にしているのは2階部分の開口部を広く取るためで、東北地方などでも普通のようです。

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違っているのは、曲り屋ではあるのに、二つの茅葺き屋根が分かれてしまっているのです。
確かにふた棟を連続した屋根で茅葺きにするのは手間がかかりますが、それなら二棟を分けてしまえば済むのだと思いますね。

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しかし、この二棟は屋根は別々ですが、内部は普通の曲り屋と同じで、一体に続いているのです。

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では雨が漏らないのか心配ですよね。
それがこの構造を見てわかったのです。
二つの家屋の中間に大きな丸太が で~ん と渡してあるんです。
しかも丸太を半割れにして中をくりぬいて大きな樋になっていたのです。

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裏に回ってみると、このように丸太がニョキッと飛び出していました。
変わってますよね。初めて見ました。

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それにしてもずいぶん大きな木を使ったもんですね。

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なぜこれが面白いのかって??
下の説明を読んでみてください。

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読んでもつまらないでしょうか?
きっと面白がる人は少ないのでしょうね。

私が面白いと感じたのは最後の方に書かれていた内容です。

「このような分棟型の民家は、沖縄や鹿児島に多く見られるほか、西日本の太平洋側に分布しています。千葉県の房総半島から九十九里海岸辺りにも見られます。本県の場合、海岸寄りではなく、水戸市の西方部、美和村(現常陸大宮市)・桂村(現城里町)・御前山村(現常陸太田市)から笠間市にかけて内陸部に見られます。」

これは、私が石岡から北部の道を感じるままに美和地方にたどり着いたのとまさに同じルートなんです。

桂村の「粟」「阿波山」から御前山までは那珂川(昔は粟川)沿いです。

古代の官道も水戸の河内から北へ延喜式に書かれた駅家(うまや)のルートとしてこちらの道を挙げていませんが、車で走ってみると桂村、御前山村、美和村のルートの流れが前からとても気になっているのです。

鹿児島から太平洋と房総までは完全に黒潮ルートです。海のシルクロード沿いです。
そして那珂川沿いを遡るのが、民族の移動の流れのように思えます。

縄文人(蝦夷人)もこのルートに沿って後退して行ったのかもしれません。

坂上田村麻呂、八幡太郎義家などの蝦夷征伐は、このルート沿いにいろいろな伝説が残されているのも興味をそそります。

さて、もう一つ興味を抱いたことがあります。
それはこの地に来た秋田氏の出生です。

平安時代に出羽(秋田)から津軽(青森)を治めていた安東氏がそのはじめであるが、この秋田氏は安倍氏の後裔を自認し、阿弖流為の子孫であるとまで称しているという。

そうすると、この分棟型の民家の分布を真っすぐにたどると三春にたどり着く。
やはり何かあると考えるのは考え過ぎか?



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笠間方面 | コメント(7) | トラックバック(0) | 2013/05/10 20:09
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