屏風岩(銚子)

 銚子の犬吠崎の南側の海岸は素敵な砂浜と奇妙な岩や断崖がある。

屏風岩という切り立った崖が10kmにもわたって続く。 高さは40~50mもある。

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英仏海峡(ドーバー海峡)にある「白い壁」に匹敵するものだそうだ。このため「東洋のドーバー」と呼ばれると説明板に書かれていた。

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東向きの海岸にもかかわらず、海に沈む夕日が見られるのだという。

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この屏風のような崖は激しい波浪の作用で大地が削られて出来たのだそうです。
この銚子の台地は、約300万年前~30万年前までに沖合の深海で堆積したもので「犬吠層」と呼ばれ、調子半島の先端が隆起して出来たものだそうです。

この犬吠層群には多数の火山灰層が挟まれていて、日本列島の火山活動の歴史を知る上で重要なものだと言われています。

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この手前の入江は綺麗な砂浜のビーチが広がっています。
「銚子マリーナ」です。

「海洋性レクリエーション拠点港湾」として、平成11年4月に開業しました。
ヨットが1000艘収容できる予定だという。

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波が穏やかで、この屏風岩を眺めて、青い海と青い空。どこか日本離れしたような景色ですね。

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ここは普通の海水浴場でもあります。

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ほとんど足跡のない砂浜にそっと足跡を残してきました。
でもしばらくすれば消えてしまいますね。

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こんなところでのんびりと波が寄せくるのを眺めていたいですね。
そうすると時間の経つのもどこかに忘れてきてしまいます。

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銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/01 17:28

梅雨の晴れ間

 梅雨に入ったとと思ったら、もう晴れ間が続いており、しばらく雨が降りそうにない。

本来の意味での梅雨の晴れ間=五月晴れということで、我が家の庭のザクロの花を撮って見ました。

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この赤朱色のザクロ(柘榴)の可愛い花が咲き始めました。
この花の根元部分がこれから膨らんでいき、ザクロの実ができます。

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バックの青空が眩しい。気温も爽やかで梅雨などという感じはありません。

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つぼみはこんな感じです。

「万緑叢中紅一点」

男ばかりの中に女性が一人などのたとえで「紅一点」というのが、この言葉の一部だと知ったのは高校生の頃でした。

漢和辞典を何気なくめくっていたら漢字を使う参考の熟語として載っていたのです。

なんだ。じゃあ男は黒じゃなくて緑色なんだなと思ったわけです。

この詩の「紅一点」というのはこのザクロの花のことだと言われているようです。

一面のみどりの草原にこの赤いザクロの花が一輪咲いている。

このザクロの花の咲く時期は木や草の緑色が色濃くなってきた時に赤い花を咲かせるのだそうです。

今では園芸用に様々な花が咲いていますが、昔はきっとこの赤い花が緑の葉の中で目に飛び込む色の花として目立っていたのでしょう。

う~ん ?

これは中国の王安石の詩「詠柘榴」の中に載っているのだそうです。


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近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/02 16:17

子供の頃-雨戸

 「お母さん 夢じゃないよね」

私は小学校1年生が終わった春休みに横浜市から東京都東村山市に引っ越した。

その最初の日に私が母に言った言葉だという。

その後、事あるごとに母は「あの頃は可愛かった」などとよく言うので忘れずに覚えているようになった。

それは、庭付きの1棟が2軒長屋風の建屋が何十棟かが集まった都営住宅に移った日のことだ。

1軒毎に生垣の垣根で囲われていてプライバシー保護はされていた。
その庭に面した部屋の外には濡れ縁があって、窓に木の雨戸がついていた。

越してきてすぐにその雨戸を開けて、その雨戸があることが不思議であり、子供にとっては面白くて、何度も出し入れしながら言った言葉だという。

「あの頃は可愛かった。」ということは今はかわいくないってこと?などと少し大きくなるまで思った。

まあ確かに可愛くはなくなって小憎らしくなっていったことは確かだが。

横浜にいた時は、海が埋め立てられる前で、漁師の家なども多く、本当に小さな掘立小屋のような家であった。
もちろん雨戸などはなかった。

でもそれも懐かしい思い出しかないのだが、子供にとっては楽しい我が家であった。

横浜にいた時は、まだ戦後まもない時期だから、砂糖の替りにサッカリンなどを使っていた。

今では庭付き1戸建の住まいに住んでいるが、人間の幸せとはなんだろうかと思うことがある。

確かに衣食住に事欠けば考えも卑屈になりがちだから、最低限の余裕は必要だろう。

でも心が豊かであることと、金持ちであることはイコールにはならないだろう。

心の貧しい金持ちはたくさんいるもの・・・・。

今のアベノミックスでまたこのお金だけを動かして金儲けをしようとする人たちがたくさんいる。

また、なんとなく憂鬱だ。


やはり、モノを作って買っていただいて喜んでもらうことが原点だ。それにより対価は後から付いてくる。
もちろんサービス業だって良いサービスを提供して喜んでいただくということが原点だ。

定年過ぎてもまだ汗水たらして働かねばならないのも事実だが、今では働けるという気持ちの張りが、お金を得るという対価以上に精神的には大切になっている。

いつまで働けるかはわからないが、アクセクせずに無理なく働き続けることができるならこれはこれで十分幸せだと感じている。

もちろん若い人の仕事を奪うつもりはないので、真に必要とされていると感じられなくなればさっさとその職場は離れよう。

「すべての物・人に感謝する」この気持ちがいつまで保てるかな?

しかし、こうしている間も、すぐ妻に愚痴を言ったりしてしまう。
まあ人間がまだまだできていないな~。

これは死ぬまで治らんかもしれないな。

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シランの花(玄関の横で長く咲いている)

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子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/03 19:14

真壁散歩(8)-花の井酒造

1週間ほど前まで書いていた茨城県桜川市真壁の記事をもう数回にお渡り続けます。 
でも、また他の記事も時々挟みます。

 先日紹介した「五所駒瀧神社」に奉納されていた酒樽に「花の井」と銘があった。
街中を少し散策していて、この工場を見つけた。

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創業は天明2年(1782)というからかなり古い。

この米蔵は国指定の有形文化財に登録されているそうです。
内部をギャラリーとして開放しているようです。(見ていません)

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会社のHPを見ると
「この地は昔から良質の米と、御影石という名で知られる花崗岩地帯を浸透して湧き出る清らかな伏流水のある所として有名です。近江商人として酒造りに適したこの地で創業以来220余年、伝統を守ると共に常に進取の精神で真摯に酒を造り販売することに励んで参りました。」
と書かれていました。

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この横の通りを南に行くと羽鳥地区(桃山中学校前)に「筑波登山本道」という分かれ道がありました。

恐らく真壁陣屋から筑波山に登る旧道なのだと思います。



真壁散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/04 18:52

真壁散歩(9)-羽鳥天神塚古墳

 真壁の散歩シリーズで古代を考える上でどうしても1度行ってみたかった場所がこの羽鳥天神塚古墳です。
桃山中学校の通りの反対側(山側)だと調べていたので、羽鳥地区にいけば場所はわかるだろうと考えていたのですが、それらしきものがありません。

そしてまた出直しました。


まあ、時間のロスは多いですが、新たな発見も逆に増えます。間違って知らない道を何度もウロウロすると見えなかったものが見えてくることもあります。

昔の人は歩いていたのですから、その気持ちも少し分からなければ(やせ我慢?)

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この羽鳥天神塚古墳は上の写真のように上に1本の大きな木があり、小さな祠があるだけの比較的小さな円墳です。

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少しカメラを引いてみると筑波山がバックに綺麗に見える場所です。

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周りは夏草が覆い、道がよくわからないくらいです。
古墳の麓によく読み取れないくらいになった「羽鳥天神塚古墳」の文字が書かれた木のポールがたっています。
そして石段が上までついています。
上に小さな祠が置かれているだけです。

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場所がわからなかったのは、通りの方から見るとこの工場の影になって見えないのです。
この工場は柿沼製粉というこのあたりのお蕎麦屋さんでは知らない人はいないと思われるそば粉の製粉をやっている工場で、ここは第二工場です。


この手前の分かれ道に昨日の記事にある「筑波登山本道」という追分石碑が置かれています。

さて、なぜこんな変哲もない藪の中の古墳に行ってみたいと思ったのかというと、ここに「菅原道真公のお墓」があったと言われているからなのです。

菅原道真を知らない人は少ないと思いますが、九州太宰府に流されその地で亡くなったとされますが、死後いろいろの天変地異がこの菅原道真の起こしたことだと噂が流れます。
そのため、朝廷は祟を恐れて天満宮に祀り、学問の神様として多くの方に親しまれるようになりました。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春 な忘れそ」

あまりにも有名ですよね。

ではなぜこのように離れた地に墓があったと言われるのでしょうか?

一般には道真は奈良市菅原町近くで生まれ、太宰府で59歳で死んでその地に葬られたと言われまています。
そこが有名な太宰府天満宮です。

では少しだけこの真壁との関わりを調べた範囲で紹介します。

平将門は太宰府で道真が死んだ903年に生まれたと言われます。このため、将門には道真の生まれ変わりであるとの噂がついてまわります。

平家の祖は平国香であるとして、石岡でも大掾氏の祖先を国香としていますが、この国香の弟には「良将=良持」「良兼」「良文」「良正」がおりますが、この「良持(良将)」の子供が将門です。

この将門の父「良持」が茨城県豊田郡(旧石下町)近くで館を構えていました。
一方菅原道真の三男の菅原景行(かげつら)も駿河に左遷されていたのですが、放免になり、その後常陸介として常陸にやってきたとされています。
そして、この良持の館に近いこの真壁の羽鳥地区に館を建てたのです。

将門との関係ですが、学問の神とも言われる道真の子である菅原景行もやはりその才能は優れたものでした。
このため、将門はこの景行を師と仰いで、学問を習ったとも言われています。
しかし、この年代の人たちの生まれも諸説あり、お互いに交流があったのかも定かではありません。


延長4年(926年)に景行は将門の叔父・良兼の力を借りてこの羽鳥の地に「菅原天満宮」を建て、この羽鳥天神塚古墳に道真の遺骨を埋葬したのです。

そして、これが全国の天満宮の最初とされています。

しかしながら、この天満宮はその3年後の延長7年2月25日に常総市(旧水海道市)大生郷に移転しました。

将門が都から下総国に戻ったのは延長8年(930年)であり、この地の天満宮が大生に移ったのはその前の年になるのです。それを考えるとどのような接点があったのかは疑問が残ります。

また、景行の生まれが867年とされていますが、下総守と常陸介と合わせた在任期間は24年間とされるようです。しかし、詳しくはわかりません。まあ後からいろいろ尾ヒレがついてきても不思議ではありませんね。

この大生郷の天満宮にこの記録が残されているそうです。
そして大生天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神といわれているのだそうです。
(この3箇所に道真の遺骨があるとされる)

そして、この古墳は道真の三男の景行が926年に道真の遺骨を埋めたとされているのです。

遺骨は3年後の神社の移転に合わせて移したということのようですが、真相は定かではありません。

やはり、国府のあった石岡から筑波山の反対側に来ると見える景色がずいぶん違います。

出てくる人物も違って、面白いですね。

常総市の大生郷天満宮のある場所は、昔「菅原村」と言われていました。
この神社も「菅原神社」と呼ばれていました。

その後、水海道市になり、今は常総市です。
ただ、この土地の菅原というのは今も残っていて、菅原小学校などがあります。


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真壁散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/05 18:50

真壁散歩(10)-羽鳥地区

 昨日菅原道真の遺骨の一部を一時的に埋めていたとされる真壁の羽鳥天神塚古墳を紹介しましたが、この場所が分からずに近くをウロウロしておりましたので、その時の様子を記録しておきます。

羽鳥地区は、真壁の旧町並みから前に紹介した筑波四面薬師の一つである薬王院のある椎尾地区と真壁の街を真っすぐに結ぶ通り沿いにあります。街の中心地からも1kmくらいの場所ですが、周りはのどかな田んぼが多くあります。

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まず見つけたのはサイクリングロードです。
これは土浦から筑波を経由して岩瀬までを結んでいた筑波鉄道筑波線が25年前に廃線になった跡を自転車道路にしたものです。

土浦から筑波までは比較的利用者が多いのですが、この真壁あたりはあまり多くの人は見かけません。
この鉄道と自動車道の交差する昔の踏切場所には線路がまだ埋め込まれたままになっていました。

ここは真壁駅の一つ手前の「常陸桃山駅」があった場所に近いようです。

この鉄道は25年ほど前に廃止されてしまいましたが、真壁駅を街の中心部に造ることができず、この場所から街の北側の古城に寄ったところに駅ができました。
このため、鉄道線路はこの桃山駅から右手(東側)に回り込むように曲がっていました。

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この道もきれいに整備されており、地元の人の散歩道にも良いようです。
すぐ近くに「桃山中学校」がありました。

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あたりは水田と奥には筑波山系の山並みが見えます。

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この羽鳥地区に「柿沼製粉」の本社工場がありました。
私も名前だけは知っていたのですが、思ったより大きな工場です。
「常陸秋そば」は全国的にも有名で、茨城県は北海道についで全国第2位のそば生産県なのです。

そして、そば通の店に行くと自家製や地元の製粉工場などもあるのですが、この柿沼製粉さんの名前を見かけます。(会社のHP
明治15年にこの地で精米業を始め、製粉業にかわり、そば粉を挽くようになったのは戦後すぐのようです。

今では家庭用の石臼なども販売しており、自宅でそばを作られるひとはきっとご存知の会社だと思います。


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こちら側から見る筑波山は石岡の方から見る姿とはまるで違います。

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ウロウロするうちにこの桃山中学校の西側の裏に小さな古墳がありました。

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「吾妻塚古墳」と書かれていました。
大きさは羽鳥天神塚古墳より少し小さいでしょうか。
円墳 径約20m 6世紀後半の築造となっています。

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真壁散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/06 19:31

真壁散歩(11)-旧筑波線真壁駅

 常磐線の土浦駅と水戸線の岩瀬駅間の40kmを結んでいた筑波鉄道筑波線が廃線になったのはもう25年も前。

最後の頃に記念乗車を女房と一番下の息子が乗りに行った。

まあ私はその頃、それほど興味もなく、仕事が忙しくて乗らなかったが、このジーゼル車両が走っている姿は何度も見ていた。

今から見ると懐かしく、残しておけばよかったのにな~と思うのだが、まあどうしようもない。

ここ石岡から見ると「鹿島鉄道」がこの筑波線(当時の常総筑波鉄道鉄道)と合併して関東鉄道となったのが、昭和40年のことだが、この筑波線がいち早く廃線となってしまった。
(鹿島鉄道の廃線は2007年春なので、この筑波線の廃止はその20年前になる)

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真壁駅は桜川市真壁町古城(昔の真壁城のあった場所に近い)に造られていた。

この筑波線の廃線後すぐにこの鉄道の跡地をサイクリングロードとすることが決まり、つくばリンリンロード建設が始まった。

この頃はまだそれほど自転車ブームもなく出来てもあまり走る人もいない状態だったように思うが、最近はこのサイクリングロードを走っている記事も多く見られるようになった。

歓迎すべきことだ。

今はまだ、土浦-筑波間は比較的利用者が多いようだが、真壁や岩瀬方面の利用者が少し少ないように思う。

しかし、この真壁も魅力があるし、加波山や雨引観音(楽法寺)などを組み合わせれば多くの魅力を感じさせてくれる地域でもある。


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旧真壁駅は昔のまま残されている。この桜の古木もとても綺麗だ。

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古い樹が3本と少しあたらしい樹が数本、駅のホームであったところに植えられています。

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「思い出の樹」と名付けられた桜の並木。

この樹は大正5年、真壁駅の北島駅長が駅のホームに10本の桜の木を植えたそうです。

そして、そのうち3本の桜が今でも残り、鉄道の駅として70年、自転車ロードの休憩所として25年間この場所を見守ってきたのです。


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駅のホームの先が公園風になっていて、そこに「茨城百景」の碑が置かれています。

「伝正寺と真壁城址」となっていますが、昭和25年に制定された時の正式登録名は「伝正寺と加波足尾」である。

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手前のタイル貼りの建物はトイレです。

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こちらは筑波、土浦方面です。

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こちらは反対側の岩瀬駅方面です。

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この岩瀬側から駅(休憩所)と筑波山方面の眺めです。

この真壁駅の近くに真壁小学校に戦中まであった「奉安殿」を移設して残されていると聞いていたのですが、見渡してもわからずじまいでした。もう少しじっくり探せばわかったのかもしれません。

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真壁散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/07 19:00

子供の頃-記憶

 今日は午前中に「ふるさと風」の会報の印刷。午後になってそれを石岡のまち蔵(丁子屋)に置きに行き、その足で、つくば市北条のふれあい館(田村家)に行きまた少し置かせてもらってきた。

ふれあい館で田村さんとお話をしていたら、紅茶をご馳走になってしまいました。
話は竜巻の話や、壊れた瓦で作った「竜の子ゴブリン」の見学もしてきました。

先日「いい旅・夢気分」(6月5日夜の放送)でここが紹介されたそうです。
そして、この私が座った場所に「新山千春さんと島谷ひとみさん」が座ったのだそうです。
あらま~です。

そして、その後に小町の里と土浦市民会館に寄ってきました。
結構遠いんですよね。車で行って帰ってくるまで1時間半くらいかかりましたね。


 さて、これからは子供の頃の話です。

人は幼かった頃のことをどの程度さかのぼって覚えているものなのだろうか?

私はもともと記憶力が良くなく、人の名前や顔なども覚えられずに、昔あった人などに声をかけられたりして思い出せずに困ることがよくある。


昔子供の頃に、母から「お前は赤ん坊の時こうだった。」などと言われることがあったが、「そんなこといわれても記憶にないよ」と思うのだが、それも何回もそう言われるとそんなこともあったかななんていう気になってくる。

人の脳の海馬の構造がどうなっているかは知らないが、繰り返しインプットされると記憶が本物になるのかもしれない。

私が生まれたのは新潟県小千谷市で雪深い場所だ。
しかし、2歳くらいの時に家族で横浜に引越した。
そのため、この小千谷で生活した記憶が全くない。

そのな中、小学校に上がる前の冬に横浜でも珍しく大雪が降った年があった。
ネットで調べてみたら昭和29年に東京でも大雪が降ったとあるのでこの年だと思う。
この時はまだ5歳くらいだったわけだが、この積もった雪道を歩いた記憶が結構鮮明に残っている。

もちろん5歳の頃を覚えているのは当たり前なのだが、この積もりたての雪の上に石ころか何かを落として、それがズブっと沈む感触が、昔同じことを経験したという感覚を覚えていたのだ。

それは当然横浜時代ではなく、新潟の雪に違いないのだ。

そして、その記憶が私の海馬に蓄積されて記憶となって刻み込まれている。

このため、幼い頃の自分の記憶がある人は、記憶を思い出す環境があって、きっとそのことをあとから思い出し、記憶の定着となるのではないだろうかと考えるのだが、どうだろうか?

まあ、「♪ 柱の傷はおととしの五月五日の背比べ ♪」などと何度も繰り返せば昔のことも忘れないのだろうと思う。

さて話は変わるが、梅雨に入ってなかなか雨が降らず、昨夜に少し降ったがそれもほんのお湿り程度。
今朝は寒いくらいだとおもったら、昼間は湿度も高く暑さもぶり返してきた。

家内は毎週土曜日にいわきの仮設住宅へにまだ行っているが、向こうは雨がだいぶ降ってこまったようだ。

原発の避難も長期化して年寄りも多いし、今後どうなるんだろうとまだまだ心配しているが、訪れる人はめっきり少なくなっているようだ。

今日は、急にまた暑くなってきたので家の中に「蠅」が出て飛び回った。それを「ハエたたき」でやっつけてやった。

たった一匹だが「五月蝿い(うるさい)」ものだ。
この五月蝿いというのは夏目漱石が書いたことが言葉の始めだそうだが、やはりこの五月は今の六月の梅雨(五月雨)のころなのだろう。

これで、急に昔の童話を思い出してしまった。

「一打ちで七匹」という爽快なお話だ。

昔読んだこんな話が大好きで、おおぼらふきの話だの、地獄耳の話などの話ばかりが載った本だった。
しかし、何という本だったかがわからず、また読みたいと思って東京の大きな書店を探したがわからなかったことがあった。

一打ちで七匹というのはある若い仕立て屋がうるさいハエを布で叩いたら1度に7匹もやっつけてしまった。
これは世の中に知らせなければと、「一打ち七つ」と刺繍した帯を腰に巻いて冒険の旅に出る話で、最後はお姫様を嫁にしてめでたしめでたしだったと思う。

小さなことにこだわらずに知恵と勇気で夢を実現することはいつの時代も子どもの心をワクワクさせてくれます。

ピーターパンも同じですよね。

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子供のころ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/08 19:03

真壁散歩(12)-村井醸造

 真壁の旧武家屋敷近くに「村井醸造」という酒造会社があった。

この震災の影響なのかあちこちまだ修理をしている最中であった。
古い建物や屋根の損害を直すのは大変なのだと思う。

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入口には「こうめい(公明)」「花だより」と書かれた酒樽が置かれていた。
公明はこの酒造会社の主力銘柄なのだそうだ。

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樽の上に掲げられた説明には

「日野における行商人(近江商人)活躍の記録としては、江戸時代初期明暦(1655-1657)の頃の記録が最も古い。関東や奥州の各地へ上方商品を運ぶため間もなく関東にその中継所として拠点地を構えるようになった。
「江戸時代の初期である延宝年間(1673-1680)に、常陸の国真壁の町へ村井重助が醤油味噌販売の出店を構えた。これが日野商人における関東出店の最も古い記録である。」

と書かれています。

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この会社のHP(こちら)によると、中の見学もできるとなっている。

また奥に見える大きな煙突は「昔、蔵中で使う熱湯を沸かしていたそうです。現在は使われておりませんが、当時の面影そのままに残っておりますので、見学の際は御覧下さい。」と書かれています。

でも、昔醤油などを作っていた時からあったのならば大豆のカスなどを燃やすのに使ったのではないかとも思います。
ただ、この煙突は昭和初期のものだといいますので湯を沸かしていただけなのかもしれません。

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長い塀が続く大きな酒造所です。この木の塀は比較的新しいものだそうで、以前はトタン塀だったそうです。
数年前にトタン塀の外側に外観をよくするために木の塀をとりつけたようです。

でも屋根瓦は震災で傷んだのでしょう。

説明にありましたが、この近江商人の村井重助は最近まで代々名前を継いで来たそうです。
現在で17代目だそうですが、名前は区別して少し変わったようです。(今の戸籍では親と同じ名前は基本的には認められなくなっているのでしょう)

また日野という地名は今の滋賀県浦生郡日野町のことで、この日野家も長い間、滋賀県日野に本宅があったようです。しかし昭和19年から真壁に移り住んだそうですが、日野にも家があるようです。



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真壁散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/09 18:15

道の駅みわ

 茨城県西北の美和村は平成の大合併で常陸大宮市美和地区となり、住所も西側が「鷲子(とりのこ)」と東側が「高部(たかぶ)」に区分されている。

ここには鷲子山上神社があり栃木県の那珂川町(旧馬頭町)と那須烏山市と接している。

この三和地区に「道の駅みわ=北斗星」がオープンしたのは1995年(平成7年)だという。
かなり大規模なきれいな「道の駅」であるとオープン当初から話題になった。

この地区は夜には星が綺麗に見える場所であるところから、星を見るイベントなども行われていて、レストランは「北斗庵」トイレは「満てんトイレ」と名づけて客集めをしている。

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どこの道の駅も同じだが、地元野菜などの新鮮野菜を売っている。

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この美和地区は林業の他に「しいたけ」などのきのこ類やお茶などの栽培が盛んで、この時期にはきのこが多く売れれていた。

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この先の馬頭手前にも道の駅があるが、こちらのほうが広くて綺麗なので利用者は多いように思う。
観光バスなども多くがこの道の駅を使っており、このあたりでは成功した道の駅の部類に入るだろう。

石岡にも道の駅の建設計画があるようだが是非客寄せのノウハウを参考にしてもらいたい。

私が観るところでは、以前にも来た時はリンゴなども山積みされていたが、地元でもリンゴ栽培が盛んであるにもかかわらず、長野産のリンゴがケースで売られていた。

現在茨城県には9箇所の道の駅しか設置されていない。大変数が少ないように思う。

造っても客が来ないようではどうしようもないのでぜひ絶えず目新しい工夫をしていけるような組織作りが大切なのではないかと思う。

地元農協などに丸なげでは、たぶんうまくいかないだろう。

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道の駅入口に置かれていた巨大なきのこのオブジェ。

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そのオブジェの脇に置かれていた石碑

「はとうからすやまとりのこみち」

さて皆さんはこれをどのように読みますか?
江戸時代にこの辺の道の案内に置かれていた石碑を模したもののようです。

「鳩、カラス、山鳥の小路」と読んで、旅人がこの道は人間が通るところではないと引き返したのだとか。

「馬頭・烏山・鷲子 道」をひらがなで書いたものだそうです。

そうこの道の駅美和があるのは「鷲子(とりのこ)」という地名です。

詳しくは前に鷲子山上神社を紹介した時に書いています。

ここからはこの道の駅を紹介しようと思ったトイレの紹介です。
(食事中の方はまた終わってからご覧下さい(笑))


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入口に赤いマークで「満てんトイレ」とあります。
向かって右が女性用、左が男性用です。

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この男女それぞれの入口に映画スターの写真が置かれています。
これはユニークですね。

懐かしのスターの写真です。私などには懐かしいのですが、今の人は少し古すぎるかもしれませんね。

天井は満天の星空です。

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これも映画スター=星 を引っ掛けているのだそうです。

さてこの女優さん誰でしょう。 下はオードリーヘップバーンはすぐわかります。
では上は?「グレースケリー」でしょうか?

男性の方は「ジェームスディーン」と「チャップリン」ですね。

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この道の駅の通りの反対側には綺麗に植林されたスギ・ヒンキ林が広がっています。
ここは昔は和紙作りも盛んだったようですが、今ではしいたけやお茶に林業が大きな産業なのです。

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鷲子・美和・高部 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/10 20:08
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