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子供の頃-大人ってずるい?

今日は銚子まで仕事で行ってちょっと前に帰ってきました。
パソコンを立ち上げようとしたらスタート出来ませんでした。
などと表示され修復プログラムを起動し、どうにか立ち上がりました。

誰か何かいじったかな?
何度かこんなこともあるのであまり焦りませんがブログ更新記録が続いているので少し心配しました。
今日も何とか記事がUP出来ました。

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 私は中学校へは電車で通った。
その中学校へ通う途中の出来事です。

学校の最寄りの駅から広い道を行きますが、途中から脇道に入り住宅街を通りぬけていきます。
その住宅街の角に空き地があって、枯草が生い茂っているところがありました。

そして学校の友達と3人ほどで通りかかった時にその草むらから火の手が上がったのです。

このまま燃え広がったら近所の家にも燃え広がってしまったら大変です。
友達とあわてて、何かでたたいたり足で踏み消したりして、近所の人が出て来てくれることを祈りました。

すると目の前の家から女のひと(おばさん?)が出てき来たのです。

何とか火はおさまりましたので、お礼を言ってもらえるものと思っていたのです。

何と言ったと思います。

「ちょっと、あんたたちがやったの!、火をつけたのは!」

まったく思ってもいなかった一言。ショックで口もきけませんでした。

僕らがいくら弁明しても何も聞きません。

陰でタバコでも吸っているとでも思っていたのでしょうか。

ああ、いやだ 大人って。

こういう大人って自分の子供のことしか目がいかない偏視眼で、こういう家の子は外で悪い事をする子が多いですよね。家の中ではおりこうさんなのです。

その後、そんな子供と親をたくさん見てきました。


さて、もうひとつ。もう少し年が上の頃です。

やはり脇道ですが道幅は5~6mくらいあったでしょうか。

その道を数人で歩いていました。

前から自転車に乗った若いお巡りさんがやってきました。

私たちの横を通る時に

「君たち、道路は右側を歩きなさい!」

と声を荒げてそのまま走り去ろうとしました。

でも私たちが歩いていたのは道路の右側だったのです。

「右側ですよ」友達が叫びました。

するとお巡りさん。

「道路は並んで歩かない」ですって。

二人くらいしか横には並んでいなかったしそんなに言われるほどじゃあないのに・・・。

きっと少し気分の悪いことでもあったのかな?

大人っていやだな。

でもそんな大人に今はなってるのかな?  反省!

あっ!もう大人ではなく爺さんになってた。

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(ねじり花 柏原池公園にて)

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子供のころ | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/07/01 20:10

子供の頃-犯人探し

 小学校の5~6年生の頃のこと。

教室で物が紛失した。

紛失した物が何だったかは思い出せないが、担任の先生は教室で全生徒を椅子に座らせ、目を閉じさせてこう言った。

「今から皆さん目をつむって、もし心当たりがある人は先生にだけわかるようにそっと手を上げてほしい。決して先生以外にはわからないようにするから。」

そして、私も目を閉じました。

重苦しい空気が流れ、先生の声だけが聞こえてきます。

そのまま5分くらい続いたでしょうか。

早く誰か手を上げてくれないかな・・・・

・・・・・・・・・・・

でも誰も手を上げる子はいないようでした。

なんだか知らないけれど、目を閉じた私の目から涙がこぼれてきました。

涙がこぼれると僕が犯人のようで、必死にこらえるけれどどうにもなりません。

いまでもこの時に何故涙が出たのかがわかりません。

そして、今でもこの時の先生のやり方が良かったかどうかわからずにいます。

でも、この先生は今でもとても好きな先生(男)です。

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(石岡市柏原池公園にて)

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この池の周囲は700mくらい。
これから天気が良ければメタボ解消に7~8周くらい歩こうかな。

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子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/02 19:07

小見川に平良文をみる(1)-阿玉台貝塚

 千葉県香取市は佐原市と小見川町などが合併してできたが、香取神宮のある佐原は伊能忠敬と小江戸の街並みや水郷などがある観光地ともいえるが、この東側の旧小見川町はかなり趣が違うように思う。

この旧小見川の山側に入った高台に縄文時代の貝塚「阿玉台貝塚(あたまだい)」(国指定遺跡)があると言うので見に行った。

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阿玉台貝塚は明治27年に発見された縄文時代中期前半の貝塚だという。
美浦村の陸平(おかだいら)貝塚(縄文時代前期から後期)は明治12年に発掘されたのでその15年後ということになる。

しかし、訪れて見て驚いたのはその場所の標高の高さである。
標高は45~50m程あり、山の上といった感じの場所。
貝塚の層も標高で30~40mくらいの場所だそうだ。

陸平貝塚は標高20~30mで、浮島の広畑貝塚などは2~3mくらいしかない。
しかし時代的には同じようなものだと思う。

すると、縄文海進で海面がかなり高い時代もあったそうだが、こんなに違う物なのか。
それとも千葉の地形はせり上がったものなのか。

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この貝塚公園は民有地だそうで、整備もそれほど大掛かりには行われていない。
地元の方たちが保存会で頑張っていおられる様子。

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貝塚といっても、このような道が整備されているにすぎない。

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道を歩いていたら「夕顔観音塚」という看板が出ていた。かすれてよく読めない。

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千葉氏の祖である平良文の墓だと言われている場所だそうだ。

良文が何故この地にこのように出てくるのか少し不思議な感覚をおぼえた。

これは石岡で平国香が語られるのと似ているということか。

平良文(よしぶみ)は高望王の息子だが、国香などと違って側室の子であった。
そして父高望が坂東に下るときに(正室の子供を3人連れてきますが、この良文は側室の子でもありまだ幼かったので共に来ることはなかったのです。

それが坂東八平氏と呼ばれる関東平氏の祖となりあり、特にこの地を支配した千葉氏の祖とされる人物なのです。

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しかし、村岡五郎と呼ばれていたように関東では武蔵国村岡(埼玉県熊谷)に移り住んだと言われているが、この小見川にも館があったと言われているという。
または晩年にこちらに移り住んだとも。

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少し調べて次回以降に少し自分のメモとして残しておきたい。

平良文の法名は「夕顔観音大士」ということで、夕顔観音については次回以降の樹林寺などのところで説明を加えましょう。
(記事が長くなり少し疲れたので次回に続きます)

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小見川に平良文をみる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/03 20:49

小見川に平良文をみる(2)-良文貝塚

 阿玉台貝塚の近くに「良文貝塚」というところがあると言うので探した。
途中から少し狭い道で、右手に畑があり左手は森になっている場所だ。

しばらく行くと「史跡 良文村貝塚」との石碑が置かれていた。
良文貝塚だと思っていたが、良文村貝塚となっている。

調べてみるとこの阿玉台村や貝塚村などが合併して明治22年に良文村が誕生し、昭和30年に小見川町と合併するまで存在した村の名前であった。

もちろんこの良文は千葉氏の祖といわれる平良文のことだが、ここでこのように大切にされているとはこの地に来るまで知らなかった。

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平良文(たいらのよしぶみ)はこの近くに館を構えていたという。

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この良文貝塚は縄文時代中期から後期の貝塚で、ここも標高は40mくらいある。利根川下流で最大の貝塚群で昭和5年に国の史跡に登録された。

この貝塚が広範囲で縄文後期までの長い年代の貝塚群であるということで縄文海進の引き合いに出されるようですが、霞ヶ浦湖岸の貝塚を見てきた感想から言うと、本当にこんなに海面が高かったのどろうかというのが素直な気持ちです。

貝塚では貝以外にもいろいろなものが出土しています。特に人物意匠をもつ香炉型顔面付土器(こちら参照)などは特に珍しい物。


この貝層見学施設となっている白い箱の中にはびっしりと貝層が見られるが、ガラス窓も汚れておりあまり親切な施設とは言えない。

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この見学施設は、昔は3か所にあったと言うが今はこの1か所だけ。

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(ここからは歴史のメモ程度に、私的なメモ書きです)

平安時代中期に桓武天王のひ孫(または孫)であった高望王(たかもちおう)が宇多天皇より889年に平(たいら)姓をもらって上総介として、上総国にやってきたのが桓武平氏の始まりです。

もう当時の高級官僚である上総介は都にいて現地に来ることは少なくなっていたのですが、高望は上総国(今の千葉県東部、国府:市原)に、正妻の子である国香、良兼、良将を連れてやってきました。

でもこの時には側室の子であった「良文(よしぶみ)」はまだ小さい(3歳くらいだったとか)一緒には来ていないのです。

関東平氏の流れを参考までに少しだけ述べておきます。

高望とその3人の息子たちは、この地を開拓して領地を広げ、この坂東に強力な領地を獲得するに至ります。
高望はその後(902年)に西海道の九州大宰府に移ったようですが、息子たちはこの地で勢力を拡大していったのです。
(菅原道真が大宰府に流されたのは901年ですからほとんど同じ頃です)

さてその後の子供達は、長男国香は当時筑波山南側に広大な領地をもつ前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえて常陸国に勢力をのばし、その後常陸大掾(だいじょう)として君臨します。
(平清盛などの伊勢平氏(平家)もこの国香の系列から分かれたものです。)

しかし弟良将の子である平将門とこの護との領地争い(または護の娘や良兼の娘の争い)などで将門を襲った国香や護の子供たちの襲撃などもあり、将門は反乱をおこし、国香は殺されてしまいます。

次男良兼は父の高望が上総介の任期が切れてもやはり都には戻らず上総介として現地にとどまり、上総から下総にかけて勢力を拡大していきました。
居住していたのは上総国武射郡屋形(現在の千葉県山武郡横芝光町、匝瑳市のとなり)で屋形船などのことばの原型ではないかと言われている(屋形=館)そうです。

さて、この良兼はもともと将門とは不仲だったようで、兄国香が殺され、将門に対して出陣しますが敢え無く敗退。
下野国府(現栃木市)に逃げ込んだが取り囲まれてしまうが、良兼の娘を妻としている将門が一角を開けて逃がした。
その後も二人の争いは続くが、939年に病死します。

では、将門の父である高望王の三男良将(または良持)はというと、やはり下総の未開拓地などを開拓して領地を拡げていったようです。

最初の領地はこの香取市の佐原付近だと言われているようです。しかし正確なことな残っておらず、前に真壁散歩で書いたように猿島地区(坂東市)に屋敷を構えていたと言われています。

また子供の将門が滅んだ後は子孫がほとんど残っていないようです。

ではこの地で祀られている平良文はというと、側室の子であるということや、まだ幼かったということで父高望には同行せず、武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に陸奥守、鎮守府将軍としてやって来て村岡五郎と呼ばれるようになります。
その後、村岡から千葉県東庄町大友に移り、それからこの小見川の阿玉台に館を築いたと言われているのですがこの辺りはどうもはっきりしません。

また、相模国村岡(神奈川県藤沢市)にも領地があり、こちらで亡くなったとする説と、この小見川の阿玉台付近で亡くなったとする説に分かれます。
墓所は神奈川県藤沢市渡内の二伝寺というのがどうやら定説のようですがはっきりしません。

国香や良兼は将門との争いをしますが、この良文はどちらかというと将門の味方と考えられているようですが、将門討伐には加わらず、後に下総国相馬郡を与えられ、坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の基礎を築きました。

この千葉県ではやはり千葉氏の祖といわれる人物なのですが、千葉氏についても詳しいことが分からず、謎も多いようです。


夕顔観音の伝説などや良文の名前が残るこの地にどのような事が当時あったのかは興味があります。

夕顔観音などについては次回とします。



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小見川に平良文をみる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/04 18:55

小見川に平良文をみる(3)-樹林寺

 小見川駅方面から阿玉台貝塚を目指していく途中にこの白華山樹林寺がある。
入口に「夕顔観世音根本霊場」と書かれた大きな看板があり立寄った。

 平良文は天暦6年(952)に66歳でこの地で亡くなったとこの辺りでは語られているのですが、晩年は朝に咲いて華やかな桔梗(将門の愛妾の名)よりも、黄昏に匂う夕顔を愛したのだといいます。
そして、死に際して子の忠頼に「夕顔を割ってみよ。そこに私の化身があるはずだ」と遺言したと言う。

そして、実際にその後夕顔の実(瓢)から良文の化身として観音像が現われたと伝えられ、その後、亥鼻城を築いて実質的な千葉氏の基礎を固めたとされる千葉常重の代になって、大治元年(1126)に常重の夢枕に「祖、良文の念持仏である夕顔から出現した夕顔観世音菩薩を本尊を祀れ」とのお告げにより、この樹林寺を建立したという。

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この樹林寺は創建時は真言宗でしたが、臨済宗に変わったそうです。

この五郷内地区では「夕顔(干瓢)を食さない」という言い伝えがあるそうです。

この寺は紫陽花も有名らしいのですが、ここを訪れたのは5月の事でまだ咲いていませんでした。
紫陽花を「愛慈妻」と書いているとありました。そうですね。「妻を愛で慈しむ」と言うのもよいですね。

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本尊の夕顔観音は公開されていないために見ることができません。

明治4年に本堂が火災で焼けてしまいました。


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千葉にはこのほかに夕顔観音に関するいろいろな話が伝わっている。

葛飾区西水元の安福寺:
飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像が出てきた。
この観音像は鎌倉時代の作とおもわれ、「夕顔観音」として堂宇を建てて祀った。
その後明治になって西水元の安福寺におかれるようになったという。

足立の瑞応寺:
 千葉介の千葉常胤の娘に夕顔姫がいた。この寺はこの夕顔姫の菩提をとむらうために建てられたという。
そして夕顔観音を本尊としている。

千葉常胤の羽衣伝説:
 天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤であるという伝説。

どうもこのような話を見ていくと千葉氏の本当の素性に何か隠されたものがあるのではないかと言う気がしてくる。考えすぎなのか?

側高神社にいって感じたことに近い感覚がある。
いろいろと調べていくうちに少しずつわかってくるのかもしれない。



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小見川に平良文をみる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/05 19:16

近況

 最近なんとなく忙しくなってきた。
昨年から勤務時間も短くなって年寄りにはゆとりも出来てきたはずであった。
それがブログ開設3周年まであと1カ月となってきたというのに、どうにも落ち着かない。

勤務している仕事も、真に必要とされなければさっさと辞めるつもりだったのだが、自分から必要とされる場所を求めてしまった。

4月から新たな仕事についたが、自分が役に立つことが徐々に周りに伝わっていくことの快感を味わってしまうとすぐにはやめられそうにない。

 最近朝起きるのは早い。年取った証拠なのだが、5時頃に起きてしまう。
寝るのも夜11時頃なので、睡眠時間は6時間程度か。

でも昼間が暑いと眠くなってくる。
会社でも節電でなんとなく暑い。頭が集中出来ずに、論理回路が壊れてしまう。
ああプログラム屋でもないのになんでこんなことをやっているんだ。

いつの間にか他の人が出来ないので自分から進んでやり始めてしまった。でも年寄りにはしんどい。

そうすると、数十分集中して、コーヒーを飲んで、部屋の中をやみくもに動き回って体を動かす。
集中力も1時間程度が限界だ。年取るとはこんなことにも表れてくる。

早朝に山鳩の鳴く声が何処からともなく聞こえて、6時頃にはもう聞こえなくなる。
先日も比較的近くで聞こえると思ったら家の庭の梅の木辺りで山鳩とが動くのが見えた。

何か早朝の御褒美をもらったようでうれしくなった。

さて今日は月初めの土曜日、もう7月となり今年も半分が過ぎた。年々時間がたつのが早い。

「ふるさと風の会」の会報印刷を午前中に会員で行った。会員といっても7人しかいないので20ページx500部程の印刷と製本と言っても毎月は結構大変である。

皆この会が好きで集まっているので「7人の侍」と美浦村の「陸平(おかだいら)をヨイショする会」の市川さんから今月号にエールをいただいた。

7年を過ぎたので後の目標10年までまだまだ先は長い。

「山椒は小粒でもピリりと辛い」と皆が思っているこの会を地元石岡の方にもぜひ応援していただきたい。
応援の仕方は簡単で、会報を読んで悪口でも何でもよいので感想を言ってもらいたいだけ。

会報は市内の市役所、公民館、風土記の里、ゆりの郷、ひまわり館などに無料で置いてある。
私はまち蔵藍「丁子屋」、土浦市の「小町の里」、つくば市北条のふれあい館「田村家」に持って行っていたが前回から八郷瓦会の「まんまや」さんにおいてもらている。

「まんまや」さんは美味しい常陸蕎麦と地元豚を使ったとんかつがとても美味しい。
この近くにお店はないので近くに来た時は是非一度食べに行ってください。

いろいろ楽しいお話も伺えます。コーヒーも飲めますよ。

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野菜天ぷらそば:850円です。

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この10割そば。美味しいですよ。

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野菜天ぷらもかぼちゃ、サツマイモ、ナス、シシトウ、カキ揚げ・・・とてもカリッとして量も多いです。

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上の写真の本は「岩崎駿介」さんという方が最近出版した本です。(こちら

実はこの方、もしドラ作家の岩崎夏海さんのお父さんです。
有名な建築学者さんで、筑波大を退官して、この瓦会近くの高台(鳴滝への道の途中)に御夫婦で素敵な家を設計して自ら何年もかけて造ったそうです。

足尾山に沈む夕日を眺めるのに最高な場所なので「落日荘」です(落日荘:こちら(他の方のブログ)参照)

奥様は内装インテリア小物などがご専門の方でお二人で作るなんて素敵ですよね。

私より年上ですが、コンピュータで設計通りに木を切ってもらって、釘を使わずに自ら組み立てたそうです。

これは是非一見の価値ありですね。

夏は鳴滝に涼みに行くのでまた今度紹介できればと思います。

またこの瓦会は1300年前の常陸国分寺の瓦を焼いたとされる貴重な窯が数多く発掘された場所です。
つい1カ月ほど前も全国各新聞で紹介されたようです。(こちらなど)


今日こちらは梅雨明け。今も汗が滴らせて、書いています。

できるだけクーラを使わずに過ごしたいと、まだ家ではクーラも扇風機も使っていませんが、さすがに今日は扇風機のお世話になりそうです。




まんまやさん:石岡市瓦会郵便局交差点角です。

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近況 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/07/06 18:46

小見川に平良文をみる(4)-来迎寺

 今日は良文貝塚近くの来迎寺を紹介します。

東光山宝樹院来迎寺 浄土宗鎮西派の寺です。

ここには鎌倉将軍3代の墓碑がある。
全国に来迎寺という名前の寺は数多くあるという。
鎌倉にも2か所あり、多くが阿弥陀如来を祀っているようだ。

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阿玉台貝塚から良文貝塚に向かう途中にこの比較的大きな寺があります。

一般に寺などは道路より高い場所にあるのが普通ですが、ここは貝塚の道路が比較的高いところを通っており、階段で一旦下に降りる様に寺の入り口につながっています。
山谷が入り乱れて、比較的起伏の激しいところです。

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寛治2年(1088)に千葉常将が東庄町平山に創建し、建久9年(1198)に明恵上人がこの地に移転したと言われています。

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鐘楼堂。

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本堂

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阿弥陀三尊の板碑(黒雲母)。鎌倉時代後期 嘉元四年(1306)の銘がある。
頭に頭光を負った観音菩薩像が三体彫られている。

この寺にはその他に阿弥陀一尊種子板碑(梵字)がある。

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この阿弥陀三尊の後ろに「松平外記頭伊昌(これまさ)の室おふうの方の墓碑」がある。
この「おふう」は酒井忠次の娘で、徳川家康の養女となった娘である。

おふうは浄土宗に帰依し、遺言によって当寺に遺髪を葬り石碑を建立したという。

またここに鎌倉三代(源頼朝、頼家、実朝)の墓碑がある。
これは鹿島神宮に参拝した源頼朝がこの寺で休憩し、建久9年(1198)にこの地に移したのは頼朝の鹿島神宮参拝の際に頼朝が深く帰依していた明恵上人を開山上人として置いたものとも言われている。

かなりの有力寺院であったことが分かる。

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五地蔵の左端にあるのが「神野角助の墓である宝筐印塔」

私はよく知らないが、神野角助という人物はこの辺りの土地の有力者で、海上氏の嫡流であったが家督を離れ神野氏となり、小見川の松平家忠と親交が深かったという。

この場所には神野角助の陣屋があったようだ。


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小見川に平良文をみる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/07 18:07

小見川に平良文を見る(5)-豊玉姫神社

 良文貝塚のすぐ近くにこの「豊玉姫神社」がある。

名前の通り豊玉姫を祀る。安産の神として知られる。

豊玉姫は海神(わたつみ)の娘で、海幸彦と結婚して神武天皇の父である鵜葺草葺不合神(アマツヒコナギサタケ)を産む。

この海神のいたところは九州南部と考えられており豊玉姫を祀る神社は九州に多く、鹿児島県知覧町、指宿市、佐賀県嬉野市や四国などに有名な神社は集中している。

その中でこの千葉県香取市の豊玉姫神社は少し特異な感じがする。

徳島県にも多いので阿波からここに移り住んできた人びとがもたらしたと考えるのが常套であろう。

貝塚があるため、この内陸部まで内海で広がっていた地形を想像してみるが、どうも今の地形からはあまり想像できない。

そこでまた、Flood Mapsで海面を7m上昇させて地形を見てみた。

豊玉姫

やはり千葉県のこの辺りに大きな内海が現われた。

この内海の海岸付近にたくさんの人が暮らしていたのだろう。
そして貝塚はどういうわけか裏山の比較的高い所に積み上げられた。

何十メートルも海面が高いのではなく、5m~7m程度なのかもしれない。

ここに海洋族が九州から四国そして黒潮に乗ってこの安房国にやってきた。
そして小舟を操り海と共に生活していた。兎上国(うみのうえこく)が出来た。・・・

勝手に想像をたくましくしてみるのも楽しい。

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良文貝塚のすぐ近くに通り沿いに1の鳥居があります。ここから神社域に入っていきます。

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神社の拝殿などの入口に良文貝塚の説明と重要文化財の「香炉型人面付き土器」の説明板が置かれていました。
顔の形をかたどった土器で、大変珍しいものだそうです。この神社で保存されているのでしょうか?

香炉として使われたものではなく占いなどの儀式に用いられたらしいと説明に書かれています。

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入口に掲げられている門柱には「豊玉姫神社式年銚子大神幸祭」と書かれています。

この神社と銚子の港近くにある「渡海神社」との間で20年に一度の銚子大神幸祭が行われています。
康和4年(1102年)に銚子の高見浦に大津波が襲ったことをきっかけにこの祭りがおこなわれるようになったものだそうです。
前回行われたのは平成22年4月だそうですから次回の20年後は・・・・。

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拝殿前の鳥居。

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この鳥居の左側に千葉県神社庁の「規範神社」の石碑が置かれています。
規範神社がどういう神社か知りませんが、ネットで見てみると氏子などがしっかりしており、他の神社の模範となるような神社を県の神社庁が認定しているようです。

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拝殿です。

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狛犬(昭和5年建立?)も海神を守るのにふさわしい姿に見えます。九州や沖縄などの南洋と近いような気がします。(気のせいか?)

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こちらは本殿。宝暦7年(1757)に建立されたもので、昭和54、55年に大幅修理が行われたそうです。

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小見川に平良文をみる | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/07/08 19:35

あ~あ 暑いね!

 七夕(本来は8月なのだが)も過ぎて、暑さも急に増してきた。

昼間家にいないのが幸いして、家でのクーラーをまだ使わずにいる。

定時でさっさと帰ってくるが、暑くてもう少し残っているべきだったかな?

それにしても参議院選挙期間中にもかかわらず何とも納得のいかないことが続きます。

今日は吉田所長さんの死亡のニュースに愕然とし、どこのテレビも東電発表の「累積放射線量70ミリシーベルトで、「食道ガンの発症には5年以上かかるので原発事故との関係は非常に薄い」と言うことだけ。

私にはわからないが、これがあの体を張って日本を守り、東電を救った男に言う言葉なのか??

先日柏崎発電所の再稼働申請をもくろんでいた東電社長に泉田知事が言った一言、「安全よりも利益を優先するんですね」の言葉も・・・

また福島の原発から海に流れる水の汚染度が一気に上昇。

まだまだこの事故は終息などしていない! 被害者はいつ帰れるか? 

この暑さの中で、あの狭い仮設住宅で暮らす年寄りにはつらい。

そんな中の参議院選挙。党利党略で参議院も単なる数合わせ。

議員に立候補するのは誰でもいいみたい。
どの党なのかで党議拘束をかけてやるなら参議院議員などいらない。

きっと自民党一色になって参議院の意義が更に薄まり、廃止論が出てくるだろう。

ちょうどいい。議員歳費が大幅に減って大歓迎だ。小選挙区制の目指した方向にも合う。

でもなんでこんなに候補者の訴えが空しく聞こえる選挙なのだろう。
参議院なのにその意義さえ知らずにただ議員がやりたいだけというように聞こえる候補者があまりにも多すぎる。

復古主義の憲法改正草案。
憲法改正もやればいいが、この案が本当にやりたい案なのか?


私は人物で選びたいのだが、候補者は党の方ばかりを向いている。それなら誰に入れても同じだ。

困ったな。 今夜も寝苦しいそうだ。  今週もまだまだ忙しい。



 さて、口直しに少し遅いが紫陽花の花でも見て下さい。

茨城県立フラワーパークのあじさい祭りが先週日曜日まで行われていました。

今頃写真をUPするのも遅いのですが、10日ほど前に行った時の写真を載せます。

大人740円は少し高いですよね。
バラやアジサイを見るのには少し遅かったこともあり、入園者は比較的少なかったです。

まちかど情報センターに寄って前売り券500円を買っていきました。

冬場は半額になりますが、ここももうひとつ工夫が足りないような気がします。

国営ひたち海浜公園とすぐ比較してしまう。

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アジサイは比較的奥の小山一帯にたくさん咲いています。
この山の上の方から長さ800mのすべり台があります。400円かかりますが、かなり面白いようですよ。

私は乗りません・・・。 それより上まで上がるのが大変で・・・。   (軟弱!)

えっ! この滑り台 下から自動で上って行くんですか? 歩いて登るんではないらしい。


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近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/07/09 20:51

青いバラって?

  今日も暑い1日でしたね。

 私の知り合いにも、庭にバラの花を丹精込めて造っている人がかなりいる。

私は見るのは好きだが、どうもこのような面倒なことは嫌いである。

茨城県立フラワーパークが我が石岡の八郷地区にあるのだが、ここもバラの花がかなりのウエイトを占めている。

世界各国のバラを集め、650品種、30000株が植えられている。

つるバラなどの品種やバラの花の色でエリアが分かれている。

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一応バラの春のシーズンは6月末までとのことですが、これだけ種類があるとほとんど年中咲いている。
入口近くはピンクのバラ?

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そして白いバラ。

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アップしてみました。きれいですね。

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ミツバチもやってきました。
ミツバチがいなくなるとこの近くのイチゴ栽培はピンチになります。

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こちらは赤いつるバラ?

さて実はこの手前にあまりきれいではない赤に少し紫の色が混じったような花がありました。
あまりきれいでないと思い写真も撮らなかったのですが、「青いバラ」コーナーでした。


さて、この青いバラと言うのは世の中にほとんどなく。青紫色っぽい花が何十種類かあるだけだそうです。

それをサントリーがバイオテクノロジー技術で商品化することに成功したのだそうです。

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どうですか? これが「サントリーブルーローズ アプローズ」(花言葉「夢 かなう」)という名前で2009年に発売されたものです。

現在、「ぐんまフラワーパーク」と「浜松フラワーパーク」で栽培展示されているようです。
ネットでも売っていますね。

でもこれって青い?? 薄い青紫といった様な色ですよね。

一方ネットを調べてみると小林生花さんがオランダから真っ青なバラの花を輸入して販売していました。

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鮮やかな青ですね。しかもこちらの方が安い。
でもね。このバラの正体は白いバラです。
白いバラに青い色素をまぜた水を吸わせて花から葉脈、茎まで青・青・・・。

さあどちらがいいのでしょうか。

私にはわからない。何故こんなにまでして、バラが本来持つことのできない青の色素を無理やり創りだしたら、胡麻化して青くしたりするのでしょう。
人間っていつまでたっても馬鹿だと思うのはひねくれ者でしょうか?

昔読んだ大デュマの「黒いチューリップ」を思い出して溜息をついています。

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近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/07/10 20:01
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