那賀鹿島神社

 栃木県馬頭の先から水戸に流れる大きな川「那珂川」がある。

川はかなり大きな川で流れはところどころ大きく蛇行して流れており、「なか」というのは蛇のことだとか龍のことだなどと言う人もいます。

御前山でこの那珂川にかかる那珂川大橋(桂大橋)(まえに御前山まんじゅうを買った(記事はこちら))を渡りそのまま北上すると「緒川」という街に出る。

この町に入る手前に「鹿島神社」と書かれた神社が通り沿いにある。
何度か通りすぎていたのだが、少し気になって車を停めて見て来た。

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通り沿いに赤い鳥居が目につく。横にはこの地域の公民館らしき建物が建っている。
神社の入口には大きな看板で「村社・鹿島神社」と書かれている。

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鹿島神社と言うのはこの辺りにもたくさんあり、珍しいものでもないが、村社とあり、その奥に「常陸大宮市大宮市指定有形文化財 那賀鹿島神社本殿」という立て札が立てられていた。

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こういう神社はどのように紹介してよいかわからないので、いろいろな角度からネットを漁ったりして調べて見る。

そうするとおもしろいことが見えてきたりする。
ここは特に昔の屋敷がありそうなところでもないし、何か気にはなるが何もないのではないかと思っていた。
しかしどっこい色々隠れたものが見えてきた。

鹿島神宮を調べていたときだったのでなおさら興味が湧いてきた。
またもう少し調べて書くことになるかもしれない。

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こちらが鹿島神社本殿です。常陸大宮市(旧緒川村)の有形文化財です。

これは調べると市の観光協会のガイドでは
「平安時代に、当時の豪族である那賀太郎藤原通資が鹿島大神を崇拝して城の東方に建立した。」
と書かれていました。また別なサイトには
「江戸時代の元和6年(1620)に社殿の大造営が行われ、この時につくられた本殿四方の彫刻は、日光東照宮を造営した彫刻師によるものと伝えられています。」
と書かれていました。

どうですか、通り越して見過ごすには惜しい本殿と彫刻ですよね。

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でも調べても神社についてはこれ以上良くわかりません。

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でもこの「那賀」という地名と那賀太郎藤原・・・と言う名前がとても気になるんです。

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そこで、この那賀太郎藤原通資を調べて見ると、これが面白そうなんです。

「那賀」は「なか」と読みます。「なが」ではありません。

この那賀太郎藤原通資という人物は「藤原秀郷」(ムカデ退治で名をはせた俵藤太というよりは平将門をやっつけた方が有名か?)の子孫が久慈郡太田郷に着任し、その子の通直が那珂東郡川辺郷に住み、さらにその子、藤原通資がこの那珂郡那珂郷に住し、那珂氏(那賀氏)を名乗ったのだそうだ。その後230年間この地を支配したという。

この那賀氏の城(那賀城)がこの神社の通りの反対側の少し山の方にあったのだそうだ。(1150年頃)

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那賀城はこの家の奥の山の方でしょう。
この一帯が那賀氏が支配していた所で、この場所はその中心にあるようです。

特におもしろいと思ったのはこの「那賀」という地名なのです。
那賀氏(那珂氏)と言うのがこんな場所だったのかという驚きとともに「那珂川」というのは何処から名前がついたのだろうかという興味が湧いて来たのです。

昔の勝田とその東側一帯はいまでは「ひたちなか市」となりました。
これはその西側に「那珂町」という地域があって混同しやすいので平仮名になったのだと勝手に解釈していますが、すべて那珂川から地名が採られているように思います。

この那珂川の上流の栃木県には「那珂川町」と言うところがあります。馬頭町も合併してこの那珂川町に入りました。

それ程この「那珂」と言う地名は川の上流から下流までたくさん使われています。

でも、この名前の発祥地はこの「那賀」地域がではないかと勝手に想像してしまいました。

常陸国風土記には「粟川」と書かれています。これはやはり旧桂村の粟地方から突いた名前だと思います。

もう少しこの辺りは時間をかけて調べてみなければなりません。そのうちにまた書くことになるかもしれません。

那賀という場所が、鹿島神宮で調べていた「建借間」あたりと繋がってくるようにも感じています。



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城里町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/10/01 19:13

大甕神社(1)-倭文神宮

 鹿島神宮とその関係する神社などを15回に亘って紹介してきました。
そして、その結果訪ねて見たい場所が出てきてしまいました。
それが今日紹介する「大甕(おおみか)神社」です。

 鹿島神宮の祭神「武甕槌(タケミカヅチ)命」と香取神宮の祭神「経津主(フツヌシ)神」は大和朝廷がこの日本国、特に東国を平定した時に最も活躍した武神でしょう。

そのため、現利根川・霞ヶ浦の入口の両側に絶対的な権力で祀られています。

しかし、この両神が従わせることができなかった部族がこの北に住んでいました。
星神香々背男(ホシノカカセオ)=天津甕星(あまつみかぼし)です。

神話では悪い神となっていますが、元々この地方の北一帯を治めていた星を頂く民族でした。
いまでも北の地の多くの「星宮神社」にこの神が祀られているようです。

鹿島神宮でも書きました(高房神社)が、楼門をはいって本殿・拝殿などは北を向いているのですが、この高房神社は楼門の方(西向き)を向いて建っています。

この神社が鹿島神宮の摂社の一つとなっており、常陸国二の宮「静神社」の祭神である「倭文神(しずりのかみ)」(建葉槌神(たけはづちのかみ))が祀られているのです。

建葉槌神(たけはづちのかみ)は武甕槌(タケミカヅチ)と経津主(フツヌシ)の最強の武神でも倒せなかった香々背男を倒すために使わされました。

そして、ついに日立市の手前の多賀山地でこの香々背男を倒したとされています。

倒したというよりは怨念も含めて岩山に封じ込め、岩山の上に神社を建てました。
それがこの大甕神社だということがおぼろげながら見えて来たのです。

そうとなったらやはり見て見ないと先に進めません。
鹿島神宮散策が済んですぐに行ってみました。

もう1カ月くらい前です。すっかり紹介するのが遅くなってしまいました。
午後まだ日が高いうちに到着したのですが、天候不順で雲行きが怪しくなって帰る頃には暗くなってしまいました。

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六号国道(陸前浜街道)を勝田の方から北上すると、久慈川周辺は広い低地が広がっています。
川を渡ってしばらく行くと前に山並みが見えてきます。

大和朝廷の軍はこの川まで制圧してたのでしょうか。そしてその先に広がる山に住む香香背男という部族に手を焼いていたのかもしれません。

現在の大甕神社(おおみかじんじゃ)は6号国道で寸断されています。

神社の入り口には「大甕倭文神宮」と彫られています。
倭文(しず)とは織物です。常陸二の宮「静神社」も倭文

最初に建てられたのはもっと山の上の方だったと言います。
それを、現在の位置に移したのは1689年といいますから水戸光圀の時代で、隠居する前の年です。

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大甕神社は光圀によって移転したのですが、その後の国道建設で2つに分断されてしまいました。

現在は6号国道側に入口が出来ていますが、元々の入口は少し海寄りの旧道から入る方が、昔の雰囲気を感じることができます。

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裏山が迫っているため、拝殿前の境内はそれほど広くはありません。
しかし、この拝殿は物凄いエネルギーを感じるようです。

1695年に社殿が造営され、1933年に拝殿が造られたと書かれていましたが、この拝殿がそれなのでしょうか。
でもかなりすごい造りで、彫刻も見応えがあります。

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こちらは拝殿なのですが、本殿は?
この裏山の岩山を少し登った岩盤の上に建てられています。(明日紹介します。結構登るの大変なんです。)

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提灯の紋は「左三つ巴」。これは鹿島神宮の神紋と同じ。八幡神社も同じ。
平安時代にははやったようだが・・・・。ルーツは?

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太い木が屋根を貫いて・・・。木を避けて屋根を造った。

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儀式殿です。こちらは近代的な立派な建物です。

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こちらが6号国道沿いの神社入り口です。

看板は「大甕神社」「大甕倭文神社」となっています。

旧道側の入口は「倭文神社」ではなく「倭文神宮」でした。


日立・十王 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/10/02 19:30

大甕神社(2)-香々背男の眠る岩山

 鹿島神宮境内にある「高房神社」からこの大甕(おおみか)神社にやってきた。

祭神は「武葉槌命」で、鹿島神宮・香取神宮の武神にも退治できなかった(星神)香香背男をやっつけた男である。
どういうわけか倭文(しず)の里(=静神社のあたり)にはこの武葉槌命が来ていて、倭文織などの織物技術を伝えていた。

ここ大甕の山砦に住む香香背男はかなり強大な力を持っていて、この制圧に大和朝廷は手こずっていた。

この武葉槌命はかなり頭の良い武神と言われ、この香香背男を制圧したとされる。
しかし、ここに来ると制圧したというより懐柔して、仲間に加えたのではないだろうかという気がしてくる。

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拝殿の脇に「宿魂石」と書かれた岩が置かれている。
宿魂石と言うのはこの彫られた石ではなく、この上の大岩全体を言うようだ。

そしてこの大岩の上に大甕神社の本殿が置かれている。

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この宿魂石と書かれた所から山道のような道がある。しかしこの上の本殿にはここから登るのは少し危ない。
昔は鎖などが取り付けられていたようだが、今は横の方から登りやすい道がつけられている。

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その道は儀式殿側から続いているのだが、その入口に一つの神社が置かれている。
比較的新しい建物で、最近建てなおされたものかもしれない。

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この神社には「甕星香香背男大神」と書かれている。
これは「香香背男」を祀る神社であろう。

と言うことはこの大甕神社は「星神(甕星)香香背男」と「武葉槌」の両方を祀る神社だ。

悪神「香香背男」をこの岩山に封じ込めたというのは後から作った話だと思う。

恐らく首領をやっつけたかもしれないが、そこに住んでいた部族を懐柔させ味方に引き入れるには、この「香香背男」を大切な神としてたたえてここに祀ったのだ。

敵も味方もそれぞれを大岩信仰の対象として祀りあげたものだと思う。

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甕星香香背男を祭る神社。この脇から本殿に登れる。

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急な岩山を登ると本殿が置かれていた。

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こんな岩山の上に建てられている。

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さて、6号国道によって分断された神社の反対側には「祖霊殿」という建物があります。

しかし、神社の向かい側のその祖霊殿に行く入口に一つの神社が建っています。
「久慈稲荷神社」と言うようです。

この稲荷神社は明治末期頃までは「明久稲荷」と言われていたそうで、もう少し南側の久慈に近い場所にあったという。祭神は五穀豊穣の神である宇迦之御魂神。稲荷神社の祭神である。

この大甕神社とあまり関係がないような気がするが、場所を移す必要から境内社としてうつされたのかもしれない。

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祖霊殿へはこの薄暗い参道を進みます。

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薄暗いと言ってもそれほど怖いものではありません。先祖の眠るお墓の入口でしょうね。

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すぐに開けてその先に立派な建物があります。

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祖霊殿です。さてどんな魂が眠っている場所なのでしょうか。
詳しい説明がありません。
少し時間をかけて調べてみなければならないでしょう。

この神社に属していた神宮寺が明治初期の廃仏毀釈でなくなりこのような形になったものでしょうか?

さて、大甕(おおみか)と言う言葉は何処から来たのでしょうか。

一般的な説明は「甕(みか)」というのは「かめ、瓶」などの意味で、祭時などで使う甕と関係しているのだろうと言われています。

弥生時代の甕棺は、成人埋葬用に作った大甕のことだと言うことですので、ここが祭時としての埋葬場所だったということが考えられます。

一体誰の埋葬場所だったのでしょう。
「武葉槌命」と「香香背男」がともに埋葬された場所なのかもしれません。

2つの民族が融合した象徴なのかもしれません。

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日立・十王 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/10/03 19:25

市のホームページが新しくなりました。

 石岡市のホームページもようやく新しくなりました。

まだまだなのでしょうが、全然動かなかったものが少しでも動きだしたらうれしいことです。

ホームページ → こちら

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ここで紹介するのも何なのだけれど、まあ頑張って来てくれたことをうれしく思います。

まったくダメだと書いたのはもう5年以上前。

ブログでも市の方でちゃんと書いてくれたらもう書かなくてもいい内容もあるのでこちらとしてもやりやすい。

上に載せた写真は石岡市の広報の一番後ろの記事。

実は、私のホームページも一部リンクされたので気がついた。もちろん承諾の依頼はあってOKした。
私のは「キッズページ」の子供向けの石岡地方の昔話や伝説のところ

「調べ学習・リンク集」の国語の一番下というほんの小さなところ(こちら

まあお勉強のネタです。(笑い)

また石岡市観光協会のHPには私のHPとこのブログ(こちら)および「こちらホワイトロック」のたすけさんのまち蔵の動画が載っている(こちら

まちかど情報センターのHPの「石岡ってどんなところ(こちら)」の名所・旧跡にもリンクされています。

まあこうして少しは街のPRにも貢献できているかな?(自己満足気味)

さて、今月末の日曜日には市長選挙があります。


それからTOP記事に入れている東京両国のシアターχ(カイ)で行われる公演を聞いて下さる方を募集しています。
10月23日(水)~25日(金)よる19時から1時間半くらいだそうです。

東京近辺で仕事をされている方も帰りに寄れます。

もしチケット欲しい方(協力しても良い方)は連絡ください。すぐに送ります。

ヨネヤマママコさんのパントマイムはなかなか他では見られませんよ。

連絡は kimura@rekishinosato.com (@マクークは小文字に変換して)にメールして下さい。

お待ちしています。

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地域振興 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/10/04 19:54

つらつら思うこと(6)

 「つらつら思うこと」という、適当な「つぶやき」を時々載せようと思い3月から5月にかけて5回程書いた。

また時々書いてみようかと思う。

 私は団塊の世代の中心にいる。

この時代に生まれたことは自分で望んだことではない。

この時代の人口が多いので今や厄介者のように扱われるのは全く困ったものだと思う。

団塊前の世代が制度上の優遇を受けていても、私たちの時には必ず制度が改正された。
団体生命保険などもそうだ。若い時世代によらず一律のものが、若い時は「年上になっても変わらないですからいいですよ」などと言われていたものがある時突然「年齢により変えます」などと平気で言ってくる。

もうあきらめと言おうか、そんなつまらないことを気にしても始まらないのでどうでもよくなった。

さて話は変わるが、最近テレビに出てくるタレントさんなどの使う言葉がとても気になっている。
自分の親を「私のお父さん」「僕のお母さん」と平気で使う。

何時からこんなことになったのだろう。もう教えるい人がいないからなのかもしれない。

教える大人が何とも思っていない??

私は貧しいながらも自分の親の事を他人に話す時は「私の父(ちち)は・・・」「母(はは)は・・・」と言うように言われた。
小学校6年生の時だ。しっかり覚えている。

これは私立中学を受験したため、その面接があり、学校でも家に帰ってからも何回も稽古をさせられた。
ノックして部屋に入る時、ドアの締め方、椅子に座るタイミング、目線・・・・

まったく嫌だと思っていたが、今から思えば感謝すべきことであった。

2~3倍くらいの倍率を突破しなければならないのだから結構しんどいが、競争はそれからも続いた。

中学に入ったら学校の増設ラッシュで教室数が前の学年よりもかなり増えた。
今から思えばきっと先生方も急激に増えた生徒をどう指導するか苦慮されたものと思う。

大学は浪人してはいるのが当たり前の時代で、2浪、3浪なども結構いた。
しかし団塊の前の世代(2年前)は、後ろに塊が控えているので皆現役合格を希望していた。

落ちたらその後ろの団塊世代に飲み込まれるのが目に見えていたのだ。
1年前の世代から団塊世代と言うが、その前が少なかったので受験倍率はまだよかった。

一番大変だったのが昭和23・24年組だ。
何処も倍率が高く、10倍くらいは当たり前の状態だった。

これは本人が望んだことではなく、この年に生まれたのだからあきらめるしかなかった。

こんな状態で大学に入ったら学校は学生運動で閉鎖されまともな授業もできない年であった。

ノンポリ学生だったので学校に行って、まともな授業はないのでやることはない。しかし、バリケードしていても学生は中に入れたので、読書三昧の日々が半年くらい続いた。これも一つの糧となった。

もっともこの頃に麻雀荘に入り浸っている学生もたくさんいた。

企業に就職しても仲間はものすごくたくさんいた。

企業では何度も失敗し挫折も味わったし、50歳前に友人を一人ガンで亡くし、その後自分もガンを疑われて1カ月入院し手術した。

その頃から会社人生はある程度で良いと思うようになった。子供の教育は妻任せであったし・・・。

半沢直樹も面白いがこんな人生は送りたくない。

現在おかれている日本の状況はとても危うい。

私はもう10年以上前の段階で、消費税は15~20%必要だと感じて来た。
これはヨーロッパなどに行くと15~20%は普通なので、そのうちこのくらいは必要だと思うようになったのである。
財政規律の公約もどこまで本気なのか・・・。

でも消費税が3%上がるとなったことで、それを狙った族議員などがうごめいている。
まったく醜い姿をさらしている。

復興増税で得た金がまったく関係ない所に湯水のごとく流れていくのだから、今回も大体どうなるか見えてくる。
団塊の世代の老齢化対策にコストがかかると言いながら別なものに充てられる。
こんなことならこの先も国の借金は減らず、福祉はどんどん貧しくなっていくだろう。

こんな世の中に誰がしただ。


議員定数も減らせられないし、既得権益などがまだはびこっている状態では消費税を上げても益々お上にぺこぺこして補助金をもらったり、土地を寝かせておいて税金をくれと叫んでみたり、堂々と自分の持っている土地に道路を誘致したりすることが無くならない限りとても安心して増税など主張できない。

私も今年65歳になった。ここまで税金も納めて来た。この先まだ数年は税金を払っていくと思う。

後何年納めればこんな無駄使いをしない世の中になるのだろう。俺の金は大切に使ってくれ。

無駄な事に使われているなら許さない。


農協もTPP反対などと騒ぐいでいるが、何処に落とし所を考えているのだろうか。
騒げば関税が今の水準に維持されると思っている人ばかりではないだろう。

食糧自給率を本当にこの危機水準から回復させる気があるのか農水省さん。

自分の利益、団体の利益を力ずくで取り込もうなんてこの国を滅ぼすだけだ。
族議員なんてくそくらえだ。

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少し殺伐とした内容になってしまったので、家内の絵手紙の絵を一枚拝借しました。

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つらつら思うこと | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/10/05 18:46

芋銭歌碑(銚子)

 前に銚子の地球の丸く見える丘に作られた銚子にある歌碑のモニュメントで紹介しましたが、やはり歌碑はその歌が詠まれた場所に建てられているものがいいね。

特に小川芋銭(うせん)の歌碑は海岸の絶壁の自然石に彫られたものですごいです。

「大海を 飛びいつる如と 初日の出」

ここ犬吠埼は平野部では日本一早く初日の出がみられる場所です。

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海岸にそそり立つ自然石に歌が彫られています。

この辺りは白亜紀層が飛び出し、奇岩も多い場所です。

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この後ろの岩に彫られた歌碑。どうやって掘ったのでしょう。

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この岩の所から見る初日の出はどんなものでしょうか。
なんだか見たくなりますね。

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小川芋銭(うせん)はカッパの絵で有名で、牛久沼では記念館もあります。

前に書いたようにこの芋銭が銚子にやってきたのは(現石岡市)高浜の篠目八郎兵衛の別荘に来て気にいってしまったのです。(記事はこちら

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天皇陛下がお生まれになった時にその喜びを詠んだものだそうです。

この芋銭の碑の通りの反対側の山の方に少し入ったところに、尾崎咢堂(がくどう)の歌碑があります。

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咢堂は号で、本名は議会政治の父と言われた相模原出身の政治家「尾崎行雄」です。

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この碑の置かれた場所の先は現在三菱化学の犬吠寮となっていて、この奥には入れません。



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銚子 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/10/06 13:28

川口神社(1)(銚子)

 銚子の港に近い神社で前に「安倍晴明伝説」を紹介した事があります。(こちら

その時にこの川口神社の話が出て来たのですが湊沿いの道を車で走っていてこの神社を発見しました。

普段ですとまあ「こんなときにも神社があるな~」と思う程度なのですが、車を少し道路の空いた所に止めて覗いてみることにしました。その時はまだこの神社がその晴明伝説にまつわる神社であるとは気がつきませんでした。

986年(寛和2年)の創建といわれる。

安倍晴明の伝説は、晴明がお世話になった地元の長者の娘の顔にあざがあったが晴明に恋した。

晴明も結婚の約束をするがいやになり逃げ出す。

それを娘は追いかけたが、晴明は身を投げた工作をする。
それを見た娘は晴明が死んだと思い身を投げて死んでしまう。
そして、娘の歯と櫛が流れ着いたこの場所にその冥福を祈って神社を建てた。

神社の名前は「歯櫛明神(はくしみょうじん)」とよばれ、途中から「白紙明神」と書くようになり明示を迎えた。

明治に入り現在の川口神社(明治3年)と改められた。明治12年に村社となる。

速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀る。速秋津姫命はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、男女一対の「水戸神(みなとのかみ)」であるが、ここは女性のみを祀っている。

川と海の接する河口部の神とされるので神社も「川口神社」となったものと思われる。

銚子の利根川の入口の河口に建てられた神社だ。

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ここにあるように銚子の大漁節にうたわれる神社です。

一つとせ 一番船に 積み込んで
川口押込む 大矢声 浜大漁だネ

・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・
九つとせ この浦守る川口の
明神 ご利益 あらわせり

この「川口の明神」がこの神社です。

江戸時代はここから利根川をさかのぼり江戸に魚を送っていた。

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港に近い2つの道が交わる交差点に一の鳥居がありました。

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鳥居から奥に広い参道が続いています。
左右は松並木です。

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しばらく平坦な道を進むと二の鳥居があります。昔はこの辺りから登り道が続いていたのでしょう。
今は広い階段です。

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鳥居の左右に阿吽の狛犬が置かれています。

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1歩では次の階段を登れませんので、結構歩きにくいんです。

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最初はちょこっとどんな所かを見て戻るつもりでしたが、なかなか古びた大きな風格のある神社なので驚きました。
正面に拝殿とその手前に狛犬か2対。

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手水舎も風格があります。

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境内社ですが、説明がないのでわかりません。

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拝殿。柱などの彫刻が目を引きます。

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写真が多くなってしまいましたので、明日に続きを書きます。



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銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/10/07 19:17

川口神社(2)(銚子)

 銚子の川口神社の続きです。

この川口神社は「白紙神社」と呼ばれ、その前は「白神明神」や「歯櫛明神」と呼ばれてきた。

安倍晴明伝説がどの程度の信憑性があるかはわからない。
この説によれば安倍晴明の生まれは筑波山の麓と言うことになり、筑西市(旧明野町)猫島の生まれとすることと繋がってくる。

石岡市の旧八郷地区の吉生でも晴明誕生説があるというが、こちらはあまりよく知らない。

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この川口神社の本殿はなかなか見ごたえのある造りであった。


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制作年代が書かれたものがないが、狛犬の刻印が文政三年(1820)とあり、それより前の文化年間(1804-1818年)と推測されるという。

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かなり凝った彫刻が全体に施されている。

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奥の本殿側から参道の方を見る。遠くに銚子の利根川入口が見える。
ここが川口神社ということが良くわかる。

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この神社の境内から銚子の漁港が良く見降ろせます。

海川吹く風を感じながら、広々した参道の上から海を見ると、とてもゆったりとした気分にさせてくれます。

大潮まつり(旧暦6月15日:現7月22日?)の時に朝早く神輿がこの階段を駆け降り、下の港の関係場所を練り歩き、夕方にまた駆け上るそうです。

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吉田松陰も21歳の時に水戸、鹿島神宮を巡りこの銚子に来てこの神社に立寄ったようです。
参道の階段横に石碑が置かれています。

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港の漁業関係者の信仰がとても厚い神社だと感じました。

灯籠には寄進した船の名前が・・・。

また女性のあざ除けに御利益があると言われ、訪れる女性も多いそうです。

これは、この晴明を慕って入水した長者の娘は顔にあざがあったと伝えられていることに由来したものと思われます。

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銚子 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/10/08 20:36

取手山館(小美玉市)

 国道355号線は笠間市から石岡を通って千葉県香取市を結ぶ霞ヶ浦の北側沿いを走る街道である。
昔は笠間稲荷ー常陸国府(石岡)-小川ー佐原ー香取神宮を結ぶその時代ごとに重要な役割を担っていたものと思う。

石岡から小美玉市の小川を結ぶ街道は通称「小川街道」と呼ばれ、その街道に沿って昔は鹿島鉄道が走っていた。
鉄道は数年前に廃止となって今では石岡と茨城空港を結ぶバス専用の道路になった。

この国道355号線が旧玉里村と旧小川町の境界の場所で小川の街中を通って鉾田に行く道と、最近できた茨城空港方面に行く分かれ道(T字路)がある。

バス停は「田木谷(たぎや)」とある。

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今この場所で道路工事が行われ、T字路から十字路になるようだ。これはおそらく現在建設中の6号国道千代田・石岡バイパスと茨城空港のアクセスが良くなるために建設が進められているものと思う。

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上の写真の右側で山を切り崩し、谷を埋めての道路工事が続いている。

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しかし、この場所は常陸府中(現石岡市)の関東の平氏の棟梁「大掾(だいじょう)氏」と小川城の園部氏との最後の争いの主戦場になった場所のようだ。

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道路工事に先だって、この場所の発掘調査が行われた。そして今年2月に発掘結果が公開された。
残念ながら行くことは出来なかったが、その資料によると、

取手山館:
 天文6年(1537年)、現在の石岡市に本拠地を持つ大掾氏が小川を本拠とする園部氏に対抗するために築城しました。
天正16年(1588年)、江戸・佐竹軍との戦いでは、戦死者を数多く出す激戦の末落城したとされています。

と説明がされ、この場所から縄文時代・古墳時代の竪穴住居跡や、奈良平安時代の遺物も多数発見されています。
またこの取手山館時代のものと思われる多数の鉄砲の弾が発見されました。

特徴的なのはトンネルの跡が多数発掘されており、この館にはいる時はこのトンネルを使ったのではないかと言うことでした。

まさに自然の地形を利用した砦だったと思われます。

当然「取手山」の名前も「砦山」からきたものでしょう。

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さて、工事中の写真の左手(東側)のこんもりとまだ少し残って小山に神社が建っています。
「取手稲荷神社」です。

神社への入口は、国道355号線のところから住宅の脇を通るような細い道が続いています。

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そして山に続く道の入口に「正一位取手稲荷社?」と石柱が立っています。

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その近くに「取手館跡」の説明看板が置かれていました。
少し説明がこれではわかりずらいですね。
この辺りはまた明日にでも整理して書きたいと思います。

義国は平義国(大掾)のことで、竹原城の城主であった竹原四郎義国のことのようです。
府中城の本家大掾氏の大掾貞国の弟。四郎というので四男?

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山の上には取手稲荷神社があります。
神社境内には明治44年4月1日建立の「鳥手神社三百五十年記念祭記念碑」がありました。
「鳥手神社」となっているのが目につきました。

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神社そのものはこんなこじんまりしたものです。
下草も伸び、蜘蛛の巣もかき分けて、この時期ですからあまり人が訪れないので手入れも大変です。

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キツネですからここは、お稲荷さんですね。正一位とありましたので当然ですね。



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玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/10/09 19:38

健武山神社-奈良東大寺に使われた金の記録

 昨日取手山館について書いた時に、この周りの戦国末期の様子や城や館の配置を調べていた。
しかしかなり古いことでもあり、また負けた側にとっては多くが犠牲になり歴史も残っていかないようだ。
この問題はもう少し時間のある時に別なテーマでまた書く事にする。

今日は先日栃木県の雲巌寺に行った。この時に馬頭(現那珂川町)を通って行ったが、途中街道沿いにあった神社の前に掲げられた看板が目に付いた。

「ここが那須野ゆりがねの里」と書かれていた。神社の名前は「健武山(たけぶやま)神社」である。

馬頭の町から武茂川に沿って県道52号線で少し山側に入ったところだ。この神社は延喜式の式内社である。

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この那珂川町(旧馬頭町)には町営の日帰り温泉施設「ゆりがねの湯」があり、昔近くに行った時に立寄り入浴した事がある。
その時にこの「ゆりがね」の由来を聞き調べたこともある。
それが今回この場所だったのだと知った。

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神社は通りからこの石段を登ったすぐ上にある。

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古木に覆われ、境内もそれほど広くはないがどっしりとした雰囲気がある。

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創建は大同元年(806年)という。これは古い神社に行くと同じ年の創建が多い。
「ゆりがね」というのは金のことだ。

日本で産金が確認されている場所の最古の場所がここだと言う。これはあまり知られていない。

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聖武天皇が全国の国分寺の総本山として奈良に東大寺を建立した。(8世紀前半)
この東大寺の大仏などに使う金が不足して困っていた。
そこにこの下野の地で金がとれることが伝わってきた。

そしてこの金が奈良の都に運ばれた。
これが日本の産金の最古という。それではそれまでは金はどうしていたのか?

東大寺よりも古いお寺としては、奈良に「百済寺(くだらじ)」があり、これは7世紀前半の建立とされている。

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百済と倭(昔の日本)との関係は切っても切れないつながりがある。
紀元前18年に朝鮮半島南西部に百済国(十済)が出来たともいわれる(韓国などでの教科書)が、この頃はあまり国家としての形をなしていなかったようでもあり、はっきりしない。

ようはこの百済と倭国がかなり密接につながっていて、人の交流も盛んであった。
しかし、346年に近肖古王が即位し、385年に仏教が伝わり、660年に滅びてしまった。

そして百済から仏教やいろいろが技術も伝わってきた。
それと同時に多くの位の高い人びとが倭国に逃げて来た。

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663年に起きた「白村江(はくすきのえ)の戦い」は百済・倭国連合軍と唐・新羅連合軍の戦いだったが、百済人が倭国(日本)に逃げてくるための戦いだったのかもしれない。
この時日本からは3万7千人程が戦に出陣している。

大敗したが、百済人の多くが日本に亡命した。

一方『日本書紀』では応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて(一説では18,760人)帰化したと記される弓月君(ゆづきのきみ)がおり、彼が秦の始皇帝の末裔とも称され、その後の秦氏の祖とされています。

新羅系なのか、百済系なのかこの辺りがはっきりしません。

でも大昔の日本で中国語が読めたり話せたりしたことを考えても、これらの帰化人がたくさんこの国にやって来ていたことはうかがい知ることが出来ます。


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そして、大和朝廷も多くの百済からの亡命者を要人として採用し、蝦夷征伐にもかなり重要な役割を担い、多くの産業や薬の製法などもこの人びとから伝わっていったものと思う。

那須国の国造はこの帰化人の多くを受け入れたようだ。
そしてこの地(当時はまだ蝦夷地への最前線基地)に住み着いた。

そして産金技術もこの地に伝わったのだろう。

那珂川沿いに「那須国造の碑」が建てられているが、これはこの地にやって来て帰化した人々が感謝のために立てたものだと言う。(飛鳥時代の建造で国宝)

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本殿。

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「古代産金の里」の碑

古代産金としては宮城県遠田郡涌谷町に黄金山神社がありますが、ここも陸奥守百済王敬福が東大寺大仏の建立に黄金900両(13.5kg)を送ったそうですので、みな百済の王族が関係しているようです。

常陸国も初代常陸守として西暦700年に百済王遠寶が任命されています。

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こちらの「健」の字は「徤」の字が使われています。



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馬頭(那珂川町) | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/10/10 20:13
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