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持福院と手賀八坂神社(行方市)

 玉造の少し南側は今まで全く知らないところで、霞ヶ浦湖畔から富士山が見えたり、筑波山もよく見える場所くらいしかイメージはなかった。

しかし、この辺りには古代のヤマトタケル伝説が多く残り、また常陸国府(石岡)と鹿島を結ぶ古代の官道もあったようで、近くに「曾尼(そね)の駅家(うまや)」が置かれていた。

 今はその駅家の場所らしきところは国道50号線に近い所とされているが、このもう少し南岸よりをどうして通らなかったのだろう。

今では潮来、鹿島、香取などに行くには国道355号線を通る。

この道は比較的新しく、少し山側に旧道がある。今回玉造からすぐに旧道に入って見た。
そしてまず目にしたのが昨日紹介した「境稲荷神社」だ。

その「境稲荷神社」を少し行くと「手賀」に入る。

常陸国風土記には行方郡の記述に

「郡より西北に向ふと提賀(てが)の里がある。昔、この地に住んでゐた手鹿(てが)といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。
里の北に香島の神を分祀した社がある。周囲の山や野は、土が肥え、栗、竹、茅などが多く繁ってゐる。提賀の里より北に、曾尼(そね)の村がある。
やはり昔この地に住んでゐたそねびこといふ佐伯の名から名付けられた。
今は駅家(うまや)が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる」(口訳・常陸国風土記より)

このように書かれている。
手賀も提賀から来ており、その前は「手鹿」という佐伯(原住民)がいたとされる。

今日は手賀にある寺と神社の2か所を紹介します。

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まず「天台宗 持福院」(天台宗雄喜山神宮寺持福院)で、手賀小学校のすぐ手前にある。

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住職も48代目と言うことで、かなり古い寺である。
しかし、境内や墓地もそれ程広くはなく、寺の建物などの重厚感はあまり感じられない。

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寺の本尊は釈迦如来座像で、鎌倉時代の製作と見られている。
この本尊はほぼ等身大の大きさで、寺の中の正面に置かれていたが、中まで入っての確認はしなかった。
しかし、もう少し知られてもいい仏像なのかもしれない。(詳細はこちら


さてこの持福院からさらに100mほど進むと、道沿いに「八坂神社」がある。

八坂神社といえばこの先の天王先崎に八坂神社があり、元々は天王崎と言う名前の由来にもなった牛頭天王を祀る神社であった。

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こちらの手賀八坂神社で、7月下旬の土日に手賀祇園祭が行われる。両宿、浜町、竹の塙、横須賀(横新)の4地区の山車が奉納曳行される。この山車で演じられる囃子が石岡・柿岡・片野などの石岡市の民俗芸能の流れを汲んだものだそうだ。

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この八坂神社は「荒原神社」が合祀されています。

この荒原神社というのはもう少し山側に入ったところにもありますが、常陸国風土記に「里の北に香島の神を分祀した社」と記されたのはこの荒原神社と言う説もあるようです。

しかし私は前に「側鷹神社」(こちら)のところで書いたと思います。

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玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/01 19:41

荒川沖宿(旧水戸街道)

 先日土浦駅の一つ東京寄りにある「荒川沖」に行きました。
国道6号線から一つ線路寄りに平行に走る道が旧道のようです。

わらぶき屋根の家が残っています。

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(画像をクリックすると大きな画像が表示されます)

(上の写真)鶴町(たばこ屋さん)の建物?

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(画像をクリックすると大きな画像が表示されます)

(上の写真)佐野屋(旅籠)だった家のようです。

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(画像をクリックすると大きな画像が表示されます)

詳細はわかりませんが数件の家の造りが昔をしのばせてくれるものがあります。

荒川沖の駅前も駅の反対側が開けてきましたが、西側の旧道沿いの面影も是非残してほしいものです。

水戸街道の宿場は「取手」-「藤代」-「若柴」-「牛久」-「荒川沖」-「中村」-「土浦」-「中貫」-「稲吉」-「府中(石岡)」と続きます。

荒川沖宿は手前の「牛久宿」と分担した宿場で本陣は置かれなかったそうです。



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水戸街道 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/11/02 18:40

ペットショップ

 我が家ではペットは飼っていない。
飼うとなると面倒をみることが嫌いな私なのできっと犬や猫に迷惑をかけてしまうことになりそうだ。

ただ二人きりになると確かに犬でも飼うのも悪くないかもしれないとも思う。
昔雑種ではあったが犬を2回ほど屋外だが飼ったことがある。

亡くした時に悲しい思いをしたことも次を飼う気が起こらないことも有るのかもしれない。

そのため、ペットショップを覗く事もほとんどない。
しかし、先日ちょっと時間があって孫(7か月)を連れてペットショップを覗いてきた。

動物園ではまだ動物にはほとんど興味を示さず、周りの子供や人の動きが気になる程度の反応であったが、ペットショップの犬や猫にはかなり興味を示した。

自分と同じような仲間とでも思っているのかもしれない。

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動物園や水族館などにはまだ早そうです。

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ペットショップの方、犬を興奮させてしまいごめんなさいね。

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近所のスーパーでお買い物です。

孫は今日から1週間ほど東京の方に行っていませんがまた戻ってきます。
そして1週間くらいまたその後1週間くらいでイギリスに帰ります。

今日から1週間留守の間に家の改造もしているので忙しい事になります。

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近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/11/03 14:39

そば処「麓(ふもと)」

 娘が日本に帰って来て食べたいもの、寿司、納豆、ラーメン、卵かけご飯、明太子などと色々考えていたようだ。
そしてもう一つ「そば」があるというので赤ん坊を連れていける場所を考えて見た。

そこで思いついたのがこの「麓」というそば処です。
場所は少し不便な場所ですが、美味しいおそばでひょうばんでもあったのですが、なんといっても広い畳の座敷があるのです。

赤ん坊連れにはやはりこんなのもうれしいですよね。

前に行った大洗の寿司屋「森田水産大洗店」も赤ん坊連れに座敷に案内してくれました。
うれしいですよね。

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場所は片野地区の近くで「泰寧寺」のすぐ近くです。
もう一つこの山の上に「楓」というお蕎麦屋さんがあります。こちらも美味しいです。

この麓は蕎麦好きの御主人が脱サラして始めたと聞いたことがあります。
蕎麦粉も地元産で、ここで石臼で挽いているそうです。

でも営業時間は午前11時半から午後2時までと短いので行かれる方は注意してください。
日曜日も休みの週がありますので確認してお出かけください。

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こちらは「野菜天せいろ」です。

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スプーンがついているので何でかなと思っていると「そばのゼリー(そば粉の入ったゼリー)」と「蕎麦湯」を持ってきました。

そばゼリーは珍しいですね。とても美味しいです。

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このお店はご自宅を改造してお店にしたのだそうです。
和室もきれいでとても落ち着いた雰囲気で気持ちの良いお店です。

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庭も広く、お近くに来られましたら是非お立ち寄りください。
片野といえば太田三楽斉(太田道灌の祖孫、岩槻城主であった名将)の城のあった場所です。

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隣の泰寧寺は座禅や写経体験ができます(時期が決まっているようですので確認が必要です)。
また山形大弐(江戸時代の学者で勤皇思想で幕府を批判した罪で処刑された)の墓もあります。

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食事処 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/11/04 18:55

大掾氏備忘録(1)

 取手山館の説明(記事はこちら)をしようといろいろな資料を見ていましたが、まったく複雑で私にも頭が追い付きません。

この常陸府中(石岡)の大掾(だいじょう)氏などというのもあまり戦国武将としては魅力がないし、この地に来るまでまったく名前も聞いたことはなかった氏族でした。

いくら平氏の名門といってもその後の伊勢平氏が平家となって君臨したのとどのようにつながっているのかなどは全くよく分かりませんでした。

それが石岡に住むようになり名前だけは知るようになったのですが、関ヶ原の戦い前に滅んでしまい実態も霞んで見えなくなってしまっているようです。

また石岡の多くの人も名前は知っていても実態はよく分かっていないように思います。

 普通に生活していただけでは、この関ヶ原の戦前の戦国末期に滅びた平氏の名門と言われた大掾氏の姿が良く浮かび上がってきません。

石岡の歴史などとHPにも紹介しているのですから、もう少し理解を深めなければ先に進めなくなりました。

そこで少しだけ整理したもの書いてみたいと思います。

まず細かな事はさておいて、大きな流れだけでも整理しておきたいと思います。

A、関東平氏(坂東平氏)の起こり

1)平安時代に桓武天皇の孫である高望王が平(たいら)の姓をもらい(889年)民間に下って、上総介(かずさのすけ)として上総(千葉)やってきます(898年)

2)その時、国香・良兼・良将という3人の子供を連れてきます。そして高望王は任期が終了し、902年に大宰府に西海道の国司として転任となりました。
しかし、3人の子供達はこの常陸・上総・下総の地に残り、土地の豪族と手を結んでこの地に土着します。

3)長男国香は筑波の豪族であり、前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえ常陸国にその基盤を築いていきます。
この国香の子孫が代々常陸国の大掾職を継いで大掾氏を名乗るようになります。

平清盛を代表とする平家と言われるのはこの国香の子孫で伊勢平氏といいます。

さて、この大掾(だいじょう)という職位はあまり聞きなれない言葉ですが、その当時の国司の職位は守(かみ)、介(すけ)、ときてその下が掾(じょう)といいました。大国(延喜式の記載では13ヶ国)と言われた国にのみ大掾と少掾が置かれていました。掾の下に目(もく)が置かれていましたが、これも大国は大目、少目が置かれました。
また、常陸国は、都の大和朝廷(皇族)の収入が困窮し始めたため、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、皇族が直接統治して税を徴収する親王任国に指定され、親王が国守となり現地には来なくなりました。

「介」も次第に名誉職となり現地は大掾(だいじょう)が取り仕切るようになって行ったのです。

4)次男の良兼は父高望王の上総介の後を継ぎ上総、下総国に勢力を張って行きます。真壁などでもこの良兼は勢力を持っていたようです。

5)三男良将(よしまさ)(良持ともいう)はやはり源護の娘婿となり下総の勢力を拡大していきますが、子供の平将門がおこした乱で敗れたため、良将の正当な子孫はいなくなりました。

B、上総・常陸国における源氏の流れ

1)陸奥国の安倍氏との争いが活発となり、1053年に鎮守府将軍に任じられた源頼家が息子(八幡太郎)義家を伴い欧州の清原氏と協力して安倍氏を滅ぼします。(前九年の役)

2)その後の後三年の役では陸奥国の覇者をねらう清原氏を倒すために源義家(八幡太郎)が陸奥守となりやってきます。
そこに義家の弟、(新羅三郎)源義光が戦闘に加わり(1087年)戦いに勝利します。

3)後三年の役が終わり、都に帰った源義光(新羅三郎)は常陸介に任じられて常陸国に再びやってきます。そして勢力を拡大していた平国香の子孫(大掾氏)から妻を迎えこの地での地位を築いていきます。
しかし、鹿島神宮領域の争いで追放となり次男の源義清(武田冠者と呼ばれる:常陸国勝田付近の武田郷に住んでいた)と共に甲斐国に移り住みます。これが甲斐武田氏の始まりでしょう。(一部推論)

4)実は八幡太郎義家、新羅三郎義光兄弟の間に賀茂次郎源義綱がおりますが、ここに跡目を継ぐ子供がいませんでした。そこで新羅三郎義光の長男、源義業(よしなり)が養子に入ります。
そして常陸国太田の有力豪族の娘を妻に迎えます。
この賀茂次郎義綱の家系があまりうまくいかず、源義業は妻の里である太田の地にやって来て再起をはかります。そして、これが戦国時代に常陸国を制した佐竹氏の祖となって行きます。

まあこの頃は平氏も源氏婚姻関係では入り乱れていますので、系図をたどるとどこかで血縁関係が成立しています。
まあ長々と前段階を書いてみたのですが、少し自分自身の頭の整理に書いてみたものです。


大掾氏関係 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/11/05 18:53

大掾氏備忘録(2)

C、千葉氏の祖「平良文」について

 昨日書き忘れてしまったのでここで追加します。
高望王とその三人の子供(国香・良兼・良将)が上総にやってきて常陸・下総などで勢力を拡大していったと書きましたが、もう一人高望王には重要な子供がおります。
それが平良文です。一般的には五男といわれています。良文は高望王の側室の子といわれ、高望王が上総・坂東にやって来た時はまだ幼かったこともあり一緒にはやってきませんでした。

しかし、この良文が後に坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の祖となり、特に民俗的にも謎とされている千葉氏の祖とみなされています。

高望王の正室の三人の子供は将門の乱で戦をすることになりますが、良文は戦には加わっていないようです。

坂東(関東)には武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に移り住み、村岡五郎(五男なので)と呼ばれるようになります。
その後相模国村岡(藤沢市)、下総国村岡(下妻市)や千葉県の東庄町や小見川町(香取市)にも住んでいたと言われるように多くの領地を得ています。

陸奥守であった良文は、鎮守府将軍に任じられ(939年)、胆沢城にも留まり陸奥国の平定にも力を注ぎます。

翌年940年に坂東に戻りその後の秩父、上総、三浦、鎌倉などに勢力を拡大していったようです。

千葉氏、三浦氏などもその後の歴史ではかなり重要な役割を担っています。

D、常陸国大掾氏の簡単な流れ

1)平国香は源護(みなもとのまもる)と血縁関係を結んで常陸国に進出し常陸国の大掾(だいじょう)職に任じられます。そして石田(旧明野町)に居を構えます。
当時お役人の官庁は国府(現石岡)にありましたから、当時は国香も筑波山を越えて石岡の地に来ていたのでしょう。
国香が石岡に住んでいたとは考えられません。

2)将門がおこした反乱に対抗し、国香はあえなく戦死してしまいます。何処で亡くなったのかも諸説あるようですが、藤代川(現 龍ケ崎市)で935年2月に死んだと考えられています。ですから墓も石田に置かれていますので石岡の平福寺にあるというのも可能性は少ないでしょう。

3)父国香の死を京で聞いた長男の平貞盛は、下野押領使の藤原秀郷(ひでさと)(俵藤太)を味方にひきいれ、940年に平将門を承平・天慶の乱で倒すことに成功します。その後、貞盛は鎮守府将軍・陸奥守を歴任、常陸に多くの所領を得て常陸大掾となります。

4)貞盛の甥であり、養子として大掾氏を継承した平維幹(これもと)は筑波郡水守(みもり)に住み、後に(990年頃)筑波郡北条の多気山に多気城を築き移り住みます。これが多気大掾氏です。常陸大掾氏の始まりです。

5)それから為幹(ためもと)、繁幹(しげもと)、致幹(むねもと)、直幹、義幹と多気大掾氏が続きます。
この間、かなり裕福な氏族として羽振りを利かせていたようで、中央の都からやってきた常陸介なども太刀打ちできないほどだったとも言われています。

6)しかし、鎌倉幕府が成立し、曽我兄弟の仇討ち事件などで疑心暗鬼になっていた源頼朝に、大掾職が欲しい常陸国守護の八田氏(小田氏)(鎌倉幕府の御家人でもあった)が1193年に「謀反の噂あり」と讒言をします。
これにより鎌倉に呼び出された義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏は滅びてしまいます。
(ただし、系列の氏族はたくさん残ります。芹沢氏などもその一つです。

7)その後常陸国では八田氏の勢力が大きくなることを嫌っており、大掾職は水戸の吉田氏(平資幹)(水戸の馬場に居を構えていたので馬場氏ともいう)に任されることになります。
この吉田氏は前の多気大掾氏と同じ家系の系統ですから、常陸大掾氏という名前は継続されていきます。
この時から大掾氏と小田氏(八田氏)は仲が悪くなっていきます。

8)(吉田)大掾氏は水戸に城(馬場城=水戸城)を築き(1198年)、常陸国府(石岡)に通うという二重生活となります。
1214年鎌倉幕府から府中(現石岡)の地頭職を与えられ、茨城郡の郡衙があった石岡市田島に城を築きます。(後に府中城が出来てからは、石岡城とか外城(とじょう)と呼ばれます。

9)吉田大掾資幹から7代後の平詮国の時に鎌倉滅亡後足利尊氏について功を挙げ、廻りの脅威から身を守るため現在の石岡小学校の昔国府があった台地に「府中城」を築きます。(1346~51頃)
これは街を含んだ自然の要害を利用した中世の城であり、当時のものとしてはかなりすぐれた城でした。
山鹿素行が赤穂に謫居(ちっきょ)していた時に書かれた兵法書の謫居童問に、陸奥の多賀城、筑前の怡土城と並んで日本の三名城と書かせたほどのものであったといいます。

10)それから60数年後の1416年に起きた上杉禅秀の乱で上杉方につき敗北を期し水戸城(馬場城)周辺の所領を没収されてしまいます。しかし、大掾氏は水戸に居座り続けて渡そうとはしませんでした。

しかし、間抜けなもので、府中(石岡)で行われた青屋祭に出かけて留守にしていた時に江戸氏に襲われて水戸城を奪われてしまいました。

これ以来、大掾氏は根拠を府中(石岡)におくこととなり、江戸氏とは犬猿の仲となってしまいます。

その頃常陸国では「江戸氏」「大掾氏」「小田氏」の三強がしのぎを削るようになります。
大掾氏も江戸氏と対立するときは小田氏と手を組んだり、小田氏と対立するときは江戸氏と手を組んだり各地で紛争が絶えなくなります。

そしてあちこちに城や館、砦、要害などを築きます。そんな状況を理解してやっと、この取手館の様子が見えてきます。

前説明が大変長くなり失礼しました。

城館
(地図はクリックすると拡大します)

さて上の地図はあちこちの情報サイトなどから情報を調べて地図に書き込んだものです。

時代は天正時代(1573年から1592年)及びその少し前の時代を想像しています。

まず石岡に府中城(大掾氏)が平氏の棟梁として居を構えています。
そして小川城(地図の右側の方)に享禄元年(1528)に小田氏の家臣、園部兼泰が城主となります。(園部氏)

1551年に江戸氏や小田氏との係争を繰り返してきた大掾慶幹が死去し(1551年)、江戸氏、小田氏、園部氏(小田派)に対する備えをする必要から、府中城は長男大掾貞国が継ぎ、江戸氏が南下して築いた砦「堅倉砦」(地図の上方)に対峙するために園部川の近い所に「竹原城」を築いて(1555年)、四男の義国を守らせ、小田氏に対抗するための城として三村城(図の左下の方)を築きます。
そしてそこには7男?常春が城主となります。

しかし、この城は1573年(天正元年)2月に、小川の園部氏攻撃に城兵が出かけているすきを小田氏の軍勢につかれて城は炎上し、常春は自害してしまいます(常春は25歳)。(三村城秘話→こちら

その後、江戸氏は小川の園部氏とも手を結び、また佐竹氏もこれに加わって府中の大掾氏をせめ、小田氏は佐竹氏に攻められて、1574年(三村城炎上の翌年)に小田氏の拠点土浦城が佐竹氏の攻撃で陥落してしまいます。
この辺りの攻防はかすみがうら市の出島散歩でも時代の流れを感じました。
(宍戸城跡(こちら)、戸崎城跡(こちら)など)

それから府中大掾氏が滅ぼされる1591年まで17年。ここでの攻防が続いたのでしょう。
その戦闘や人びとの暮らしはどんなだったのでしょう。東に園部、北に江戸氏・佐竹氏、南に小田氏やその後やってきた佐竹派の家臣に囲まれてしまったのです。

西の八郷地区は佐竹派の客将太田三楽が片野城におりましたが、これも大掾氏とも姻戚関係を結んだりしていてあまり主だった闘いの記録はありません。

そんな中、府中の大掾氏の城主大掾(平貞国)は1577年に戦死してしまいました。
後を継いだのはまだ5歳の大掾清幹(きよとも)でした。

周りは敵だらけ、そしてその侵入を防ぐために各地に造られた要塞(砦)。

一つ一つ見ていくとこの頃の戦の流れが見て取れるようです。
でも多くがその時代の事をほとんど残しておらず、記録も断片的に切れ切れです。

これからあちこち関連した所を見る機会があれば、過去の歴史などを背景に見ていきたいと思います。

さあどうなるでしょう。何処までわかるのでしょうか?

前回と今回の記事は私的な備忘録として書いています。

大掾氏関係 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/06 19:12

飯塚館(玉里)

 さて2回にわたって大掾氏関連の備忘録を記しましたが、その関連で「取手山館」(田木谷砦)(こちら)と関係の深い飯塚館跡を探して行ってきましたので紹介します。

当時、石岡(府中城)の大掾氏は江戸氏や佐竹氏の支援を受けた小川の園部氏と対立していた。

この両者の最前線基地が「取手(砦)山館」であった。この取手山には大掾氏の家臣たちが何人も入り防戦していたがこの最前線の砦が陥落すると手前の栗又四ケ地区に城(屋敷)を構えていた家臣たちはそれぞれの城に引いて戦った。

この栗又四ケ(くりまたしか)村にはいくつかの城があった。殿塚館、笠松館は大掾清幹の近親で中郷城主を勤めた竹原左大臣兼信の家臣である栗又左近政清(十太夫)が治めていた。

しかし、勢いに乗る佐竹勢の前にこれらの城は次々に陥落していった。

もう一つが今回紹介する「飯塚館」だ。

飯塚氏の名前は以前「耳守神社」(こちら)で出て来た名前だ。

第3代常陸大掾繁盛(平国香の直孫)の五男・五郎左衛門兼忠がこの飯塚の地に移り飯塚氏を名乗ったといわれている。

この飯塚氏の娘の千代姫の耳が治ったということで建てられたのが耳守神社で耳の病気に効力があると言う大変珍しい神社である。

それから500~600年の間、この地は大掾氏の家臣として飯塚氏が守ってきたのである。

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しかし、小川に小田氏側の園部氏が入り、大掾氏の弟が小田氏の防衛のために入った三村城が小田氏に落とされ、城主常春が自害して滅びるが、その小田氏も翌年には佐竹勢に出島の城(宍倉城、戸崎城など)を攻略され、土浦城まで陥落してしまう。小川の園部氏も江戸・佐竹勢に組むせざるを得なくなり、大掾氏攻撃の先方としてこの取手山館で戦が続けられた。

飯塚氏はこの小川と最も近い位置にあったため、自らの前線基地として取手山に砦を築いたものと考えられる。

情勢が厳しくなると、他の大掾氏の部下たちはこの取手山に集結してたたかったものと考えられる。

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府中城の陥落のことは歴史として石岡では取り上げられるが、これらの家臣たちが守ってきた城の様子はあまり語られない。

たまにはこのようなところにも日の目を見させてやる事があってもよいのではないかと思っている。
時間があれば少しずつ紐解いておきたい。

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場所は栗又地区から国道355号線に沿って南に平行に走る旧道へ入るとすぐに右に折れて玉里村の霞ヶ浦側に行く道がある。
これを道なりに少し行くと最初の写真の看板の場所に出る。

あまり車も通らないノンビリした道である。

飯塚氏は大掾氏と命運を共にしたと書かれているが、飯塚姓の方も多く子孫は健在なのではないだろうか。
飯塚氏がこの地で暮らしたのは1590年より500~600年前からであり、この地に多くの子孫がおられるはずです。


玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/11/07 18:29

萬福寺(行方市)-重盛所縁の寺

 国道355号線の玉造の街に近い所に行方市が設置した文化財の場所の矢印看板がある。

県指定の文化財が「阿弥陀堂・仁王門・阿弥陀如来立像及び両脇侍像」、市の指定が「木造阿弥陀如来立像・金剛力士像」とかなり多い。

案内板があれば一度は目を通しておきたいと思い寄り道することにした。

見てみないとわからないものである。こんなところにこんな歴史を感じさせてくれる建物があったとは。

不意をつかれた感じであった。 ここは平重盛とかなり深くかかわっていることが判明した。

城里町の小松寺(こちら1こちら2こちら3)と関係しているのかもしれない。

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県指定有形文化財「仁王門」

天正6年(1578)に利根村小野逢善寺(ほうぜんじ)に建立したものを1724年にここに移築したもの。

この逢善寺も826年創建の古刹で、茨城百景にも指定されているそうなので今度行ってみたい。

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金剛力士(仁王)像(市指定有形文化財)

江戸時代中期、享保8年(1723)の造作とのこと。総高は阿形・吽形ともに2.7m。

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仁王門をくぐり石段を登ると立派な萱ぶきの「阿弥陀堂」が建っている。

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この阿弥陀堂に平重盛(小松殿)の本尊が納められているという。

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なぜこのような場所に重盛の本尊が納められているのかとても不思議なのだが、このあたりは小松寺で書いたので簡単に触れておきたい。

平家の仲間がみな西国に逃げ、その後壇ノ浦の合戦で源氏に敗れるが、平貞能(さだよし)は西国へは行かず、高野山に登り、重盛の墓を掘り起こし、遺骨だけを取り出し、周りの土は鴨川に流したという。

そして東国に逃げて来て遺骨を小松寺に埋めたとされる。
しかし、この萬福寺の伝によれ重盛本尊の阿弥陀如来像と遺骨を納めたとされているという。

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この阿弥陀堂の裏に寺の本堂があります。

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本堂にも鎌倉時代後半の作風の木造阿弥陀如来像が安置されています。

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行方市の玉造地区ももう少し散策しなければいけないようです。
この寺は思わぬ発見でした。



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玉造 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/11/08 19:13

多田朝日森稲荷神社(香取市)(1)

 先日このブログの読者に教えていただいた「多田朝日森神社」を紹介します。

先日また銚子に行ったのですが、その途中で立寄ってきました。
佐原インターチェンジのすぐ近くで。佐原と小見川の中間くらいの場所です。

行ってみてまず驚く事は鳥居の数が多いことです。

確かに1000本鳥居といわれる程鳥居の数の多い稲荷神社の総本山の伏見稲荷大社程ではないのですが、赤い木の鳥居がたくさん並んでいるのは圧巻です。

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神社に書かれていた説明書きによれば、

この神社は綱原千軒といわれた大集落の守護神として「加室稲荷神社」として祀られていた(古老の伝承)が、1351年に朝廷の命により一夜にして焼き討ちされ、住民は四散した。

その後多田地区に移っていた住民が1749年に多田村西地区に「多田の西稲荷神社」として伏見稲荷の勧請を受けて再建され、その後1854年に朝日のいずる現在の地(朝日の森)に遷座されたという。

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名前が「多田朝日森稲荷神社」となったのは比較的新しいようで、多田村の西から朝日の森に移ったことで多田朝日森稲荷となったのではないかと考えます。
最初にこの名前を聞いた時は長ったらしい名前で謂れを知りたくなったのですが、この程度しか考えられませんでした。

やはり森の鎮守の神様ですね。

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石の鳥居の先にたくさんの木の奉納鳥居がびっしり三列か四列連なっています。

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木の鳥居は数年で朽ちてしまう為にまた建て変えられます。
ほとんどの鳥居に奉納者、町名の他に寄進した年が印されています。
そしてそこに初午(ハツウマ)(2月の最初の午の日)=稲荷祭 が記されています。

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神社の森の片隅には役目を終えた鳥居がたくさん並べられていました。

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明日にもう少し続きます。



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香取地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/09 19:03

多田朝日森稲荷神社(2)(香取市)

 千葉県香取市の多田朝日森稲荷神社の続きです。

この神社の拝殿前に「日本一の眷属(きつね)」が置かれています。

まあ「大きいことはいいことだ」と言うのはどこにでもありますね。
私のいる石岡には「日本一の獅子頭」が風土記の丘公園に作られています。

これを同じに扱っては問題かもしれませんがこの狐像はあまり興味が湧きません。
狐が大きくなって少し怖い気がしますね。

そういえばフクロウ神社と言われる美和の「鷲子(とりのこ)山上神社」には巨大な黄金のフクロウ像が出来てましたね。

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また、このお稲荷さんはここの地元では関東三大稲荷の一つと言うようです。

関東三大稲荷は、笠間稲荷(笠間)・装束稲荷(王子)・白笹稲荷(秦野)と言うのがどうも一般的なようですが、この稲荷ももう少し調べないとよく理解できません。

多田というのも京都にあるようだし、朝日森もあります。色々どこかでつながっているのかもわかりません。

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稲荷神社拝殿内部です。

この稲荷神社の後ろにいくつか神社が置かれています。

境内社と言うには大きな神社の建物がいくつかあります。


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(上の写真)稲荷神社の裏手の本殿でしょう。
そしてその先にも鳥居がいくつも並び裏手の神社につながります。

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裏手の鳥居の左手の建物は「權殿(ごんでん)」と書かれています。

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この權殿は稲荷神社の一部のようです。狐を祀っています。

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本殿裏からこのようにまた石の鳥居と赤い木の鳥居が連なっています。(少しまばらですが)

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こちらの神社は学問の神様である菅原道真公を祀っているようです。天神様です。

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神社拝殿前の右手に「御神牛」の像が奉納されています。牛は道真が丑年生まれということもあり色々信仰されているようです。

お稲荷さんは初午(うま)で天神さんは牛なんですね。

二つが同じ敷地にあると少し変な気がします。


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香取地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/10 18:34
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