謹賀新年

新しき年の初めの初春の今日の幸せ長くとぞ思ふ
初日の出を見ようと早寝して、目が覚めてみたら陽はすでに昇っていました。
今年も平凡な日々を積み重ねていきたいと思います。


今年も良い年に!
今日は朝から車で東京の多摩地区に親父の墓参りに行ってきました。
東京にいる母を途中で乗せて、オーストリア(ウィーン)から戻っている次女夫婦と3番目の長男にその彼女も集合してもらって行ってきました。
その長男も3月にアメリカにしばらく行くことになりそうです。
こうして会えるのもあまりないでしょう。
そして皆で食事をして別れ、私は母(先月で90歳)を我が家にそのまま連れてきました。
こうして家族が増え、それぞれに羽ばたいていってくれることをうれしく思います。
昨年はイギリスにいる娘に初孫が生まれ、日本にもやって来てくれました。
今年もきっと良い年になってくれることでしょう。


母の卆寿の祝いに子供たちが相談して送ってくれた胡蝶蘭とコヒーカップ。
その他名前入りの箸などをセットで送ってくれたものです。
やさしい子供たちです。
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東京にいる母を途中で乗せて、オーストリア(ウィーン)から戻っている次女夫婦と3番目の長男にその彼女も集合してもらって行ってきました。
その長男も3月にアメリカにしばらく行くことになりそうです。
こうして会えるのもあまりないでしょう。
そして皆で食事をして別れ、私は母(先月で90歳)を我が家にそのまま連れてきました。
こうして家族が増え、それぞれに羽ばたいていってくれることをうれしく思います。
昨年はイギリスにいる娘に初孫が生まれ、日本にもやって来てくれました。
今年もきっと良い年になってくれることでしょう。


母の卆寿の祝いに子供たちが相談して送ってくれた胡蝶蘭とコヒーカップ。
その他名前入りの箸などをセットで送ってくれたものです。
やさしい子供たちです。


常陸国総社宮2014(1)
今年は土日につながるので、どこも正月が長い。
でも昨日も高速道路の東京方面に向かう車は混んでいた。
今日は1月3日。朝からどんより曇っていてあまりよい天気ではなかった。
母が来ていても特に出かけることもないのだが、少し小物が欲しくということで100円ショップ周りにつきあった。
最近あまり行っていなかったが、これが100円かというほど品数も品質も驚くほどであった。
そして、家に帰り、パソコンの壁紙のスライドショーに写された孫の笑顔に話しかけ気分を良くして、夕方に1日の夕方に続いて総社宮にもう一度お参りに行った。

総社宮も元旦には大きなさい銭箱が置かれていて、夕方行ったせいもあるが、去年までの行列はなかった。
今日はほとんどお参りする人も少なく、参道に出ていた屋台も片付けの最中だった。

お祭りに登場する(正)神輿。

随心門も正月は少し雰囲気が違います。
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でも昨日も高速道路の東京方面に向かう車は混んでいた。
今日は1月3日。朝からどんより曇っていてあまりよい天気ではなかった。
母が来ていても特に出かけることもないのだが、少し小物が欲しくということで100円ショップ周りにつきあった。
最近あまり行っていなかったが、これが100円かというほど品数も品質も驚くほどであった。
そして、家に帰り、パソコンの壁紙のスライドショーに写された孫の笑顔に話しかけ気分を良くして、夕方に1日の夕方に続いて総社宮にもう一度お参りに行った。

総社宮も元旦には大きなさい銭箱が置かれていて、夕方行ったせいもあるが、去年までの行列はなかった。
今日はほとんどお参りする人も少なく、参道に出ていた屋台も片付けの最中だった。

お祭りに登場する(正)神輿。

随心門も正月は少し雰囲気が違います。


常陸国総社宮2014(2)
総社宮の初詣に行き去年と違うことが結構ありました。
昨日紹介した拝殿前のさい銭箱を明治神宮などにならって臨時に大きな箱(といっても横に6~7人くらいが並べるもの)を設置してあったことと、今日紹介するヤマトタケル(日本武尊)の腰掛石です。
以前からここに置かれていて、ヤマトタケルが霞ヶ浦の海を舟でやって来て、この神社の下に着き、この石に腰かけたという話になっています。
常陸国風土記には「倭武の天皇」と書かれており、あちこち歩いたり舟に乗ったりしています。
また東京湾で入水した弟橘姫とも常陸国で再会しています。

その日本武尊が腰かけたとはっきり書かれたものは見当たりませんが、もともと実在した人物というのもあまり信ぴょう性はないので好きに話を作ってしまえるかもしれません。

この腰かけ石が、拝殿前の境内にひっそり置かれ、小さな看板があるだけだったのですが、今年は手塚治虫プロダクションと組んで派手な看板がお目見えしました。
これをどう解釈するかは人それぞれでしょう。
また石の横に「山高神代桜」の苗木が植えられていました。
またそこには「日本武尊のお手植えされた桜」との説明もありました。
山高神代桜は山梨県北杜市武川町山高の実相寺境内にあるエド ヒガンザクラで、樹齢2000年程の老木で国の天然記念物になっています。
この桜には日本武尊が東征の際に立寄ってこの桜を植えたとされているのだそうです。
当然私は信じてはいませんが、解釈も人それぞれですね。

さて、この石も実は神社の裏手にあったものをこの場所に移したという話も聞こえてきていますので解釈はどうぞご自由に。

神社にこのような手塚治虫の火の鳥の看板が似合うかに合わないかというのも解釈が分かれるところですね。
でも、総社という神社は数多くありますが、この神社が現在の地位を得てこうして受け継がれていくのには伝統だけではなく、このような変化も必要な事なのかもしれません。
生き残り発展を遂げるにはこのように変わっていくこともあるのでしょう。
そして伝統と言われる多くの事が途中で変わって来ているし、変わることも必要な事もあるのでしょう。
私にはよく分かりません。
大洗磯前神社のガールズ&パンツァーの大きな絵馬が登場して話題となっているようです。
こちらも負けずと火の鳥や恋瀬姫なのかもしれません。
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昨日紹介した拝殿前のさい銭箱を明治神宮などにならって臨時に大きな箱(といっても横に6~7人くらいが並べるもの)を設置してあったことと、今日紹介するヤマトタケル(日本武尊)の腰掛石です。
以前からここに置かれていて、ヤマトタケルが霞ヶ浦の海を舟でやって来て、この神社の下に着き、この石に腰かけたという話になっています。
常陸国風土記には「倭武の天皇」と書かれており、あちこち歩いたり舟に乗ったりしています。
また東京湾で入水した弟橘姫とも常陸国で再会しています。

その日本武尊が腰かけたとはっきり書かれたものは見当たりませんが、もともと実在した人物というのもあまり信ぴょう性はないので好きに話を作ってしまえるかもしれません。

この腰かけ石が、拝殿前の境内にひっそり置かれ、小さな看板があるだけだったのですが、今年は手塚治虫プロダクションと組んで派手な看板がお目見えしました。
これをどう解釈するかは人それぞれでしょう。
また石の横に「山高神代桜」の苗木が植えられていました。
またそこには「日本武尊のお手植えされた桜」との説明もありました。
山高神代桜は山梨県北杜市武川町山高の実相寺境内にあるエド ヒガンザクラで、樹齢2000年程の老木で国の天然記念物になっています。
この桜には日本武尊が東征の際に立寄ってこの桜を植えたとされているのだそうです。
当然私は信じてはいませんが、解釈も人それぞれですね。

さて、この石も実は神社の裏手にあったものをこの場所に移したという話も聞こえてきていますので解釈はどうぞご自由に。

神社にこのような手塚治虫の火の鳥の看板が似合うかに合わないかというのも解釈が分かれるところですね。
でも、総社という神社は数多くありますが、この神社が現在の地位を得てこうして受け継がれていくのには伝統だけではなく、このような変化も必要な事なのかもしれません。
生き残り発展を遂げるにはこのように変わっていくこともあるのでしょう。
そして伝統と言われる多くの事が途中で変わって来ているし、変わることも必要な事もあるのでしょう。
私にはよく分かりません。
大洗磯前神社のガールズ&パンツァーの大きな絵馬が登場して話題となっているようです。
こちらも負けずと火の鳥や恋瀬姫なのかもしれません。


常陸国総社宮2014(3)
常陸国総社宮で去年と違ったことの2つ目は御手洗(おみたらし)道下の滝の脇に禊池が設けられた事。
これが昔からあったかどうかは良く分からないが、もしあったとしても大分壊れていたと思う。
元々は鹿島神宮の御手洗の禊(こちらの記事参照)と同じような行事が行われていた時代があったらしい。
それを昨年末(12/29)72年振りに復活したという。 (こちらの竹千代さんのブログ参照)

おみたらし道というのは相撲の土俵の裏に隠れたように道があるが、1年ほど前に下の道などを整備していた。
本来の総社宮への参拝は宮の下側から拝殿前に直登する道と、この水が湧きでていた所から廻る道の2つがあったのだろう。
この水がなければここに神社が建てられたかどうかも怪しいのである。
今回この随神門脇から下の水場まで下りる道も整備された。(土俵の両側に道が出来た)

この小さな池にたくさんの人が良く入ったものだと感心する。
72年振りというのだが来年もまた行うかどうかははっきりしないそうだ。
今回の禊の写真は境内に正月に張り出されていたが、3日の夕方にはもう撤去されていました。


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これが昔からあったかどうかは良く分からないが、もしあったとしても大分壊れていたと思う。
元々は鹿島神宮の御手洗の禊(こちらの記事参照)と同じような行事が行われていた時代があったらしい。
それを昨年末(12/29)72年振りに復活したという。 (こちらの竹千代さんのブログ参照)

おみたらし道というのは相撲の土俵の裏に隠れたように道があるが、1年ほど前に下の道などを整備していた。
本来の総社宮への参拝は宮の下側から拝殿前に直登する道と、この水が湧きでていた所から廻る道の2つがあったのだろう。
この水がなければここに神社が建てられたかどうかも怪しいのである。
今回この随神門脇から下の水場まで下りる道も整備された。(土俵の両側に道が出来た)

この小さな池にたくさんの人が良く入ったものだと感心する。
72年振りというのだが来年もまた行うかどうかははっきりしないそうだ。
今回の禊の写真は境内に正月に張り出されていたが、3日の夕方にはもう撤去されていました。




成田空港へ
昨日の日曜日に成田空港に行ってきました。
正月休みの最終日でやはり空港の駐車場も混んでいました。
第1ターミナルの大きな駐車場も係員に駐車の誘導されたのは初めてです。
次女夫婦が正月に帰国していましたが、御主人がウィーンに帰るので見送りです。
そして娘を家に連れてきました。
後1週間程日本に滞在します。

第1ターミナルの中央付近に飾られていたものです。 題名は「ウサギとカメ」で英語でも説明がされていました。
亀は下の方に見えるのですが、ウサギは?

4F出発ロビー(南ウィング)

待ち合わせ場所はここです。

帰りの高速から「牛久大仏」が見えます。ブロンズ立像では世界1(全高:120m)だそうです。
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正月休みの最終日でやはり空港の駐車場も混んでいました。
第1ターミナルの大きな駐車場も係員に駐車の誘導されたのは初めてです。
次女夫婦が正月に帰国していましたが、御主人がウィーンに帰るので見送りです。
そして娘を家に連れてきました。
後1週間程日本に滞在します。

第1ターミナルの中央付近に飾られていたものです。 題名は「ウサギとカメ」で英語でも説明がされていました。
亀は下の方に見えるのですが、ウサギは?

4F出発ロビー(南ウィング)

待ち合わせ場所はここです。

帰りの高速から「牛久大仏」が見えます。ブロンズ立像では世界1(全高:120m)だそうです。


利根川河口堰と常陸利根川水門
霞ヶ浦は昔は海だった。
それもそれ程昔ではない。
香取の海、流れ海などと呼ばれていた頃はとてつもなく広い内海だった。
江戸時代になり、江戸の街を水害から守るため、暴れ川であった利根川を江戸湾から銚子の方に流れを変える大事業が行われた。
しかしその後も霞ヶ浦には海水が出入りする汽水湖となり、魚も海・川・湖などのすべての魚が豊富で、江戸の台所にも欠かせない魚の宝庫だった。

しかし、米作りがどうしても日本の食糧生産に欠かせないと、米栽培が優遇されると共に、霞ヶ浦沿岸ではそれまで何度も水害に苦しんでいた人びとの願いから2つの水門が作られた。
設けられたところは利根川と常陸川が合流する手前で、銚子から15km程手前である。
霞ヶ浦から海に流れる川が常陸川だ。
水門は利根川の入口と常陸川の入口にそれぞれ設けられ、同じように動いているように見えるがまったく動きは別々であるようだ。

利根川河口堰。
千葉県東庄町側から茨城県神栖市側を見たところ。
昭和46年1月に総工費125億円をかけ完成。
HPによると目的は2つ・・・塩害防止と東京の飲料水の確保(江戸川に送水)
こちらの利根川の水門は完全に利根川沿岸の水田などの塩害を防止するのが目的だが、これに大東京の水源確保という目的が付加された。

利根川にかかる水門の橋は「利根川大橋」という。
すぐ先に霞ヶ浦と繋がる常陸利根川が隣接しており、常陸川水門は利根川に設けられた水門より少し短いが、この目的は霞ヶ浦の治水(利根川の水位が高くて霞ヶ浦に水が逆流するのを防ぐ)が最大の目的で昭和38年(1963年)5月に18億円で完成した。

(常陸川水門)
確かにそれまで霞ヶ浦沿岸では多くの水害が発生しており、水門設置と護岸の整備で水害は大幅に減ったので、その効果があったということになる。
しかし、この水門が完成してから10年間は水害の恐れがある時のみ閉じて通常は水門を開けていたのであるが、1974年に水位が霞ヶ浦側の水位が高い時のみ開けるという方式に変えたのである。
これにより海水や利根川からの水が常陸川に入ることがなくなり、完全閉鎖と同じ状態になってしまった。
このため、霞ヶ浦は徐々に首根っこを押さえられて死の湖に変わって行ったのである。
塩害が問題だと水門を閉じ、また、鹿島臨海工業地帯の水源確保などの名目も加えられて行ったが、こちらは目的のような使われ方をしていない。
塩害の影響がどの程度及ぶかの検証も不十分で、何時までもこのままでは生態系は完全に破壊されてしまう。
現在国会でもこれを一昔前の方式に戻す見直しの動きがあると聞いている。
是非早急に水門の開放をしていただきたいと思っている。
現在、この常陸川の水門の開放時間は年間で500~800時間くらいだ。
霞ヶ浦の水位が高い時だけ開放するため、海からの水は入って行かないのである。
霞ヶ浦は息を吐き続けるのみで吸えないから呼吸は苦しくなるばかりだ。
鰻も昔はたくさん採れたが、今では数得るほどしか取れない。
早急に考え直す時期に来ている。
夏のアオコの大量発生による悪臭は、自分で見て匂いをかいだ人にしかわからない。
私も今回調べて初めてこの方式の違いがわかったのである。
多くの人が理解できるような広報のあり方を是非お願いしたいものである。
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それもそれ程昔ではない。
香取の海、流れ海などと呼ばれていた頃はとてつもなく広い内海だった。
江戸時代になり、江戸の街を水害から守るため、暴れ川であった利根川を江戸湾から銚子の方に流れを変える大事業が行われた。
しかしその後も霞ヶ浦には海水が出入りする汽水湖となり、魚も海・川・湖などのすべての魚が豊富で、江戸の台所にも欠かせない魚の宝庫だった。

しかし、米作りがどうしても日本の食糧生産に欠かせないと、米栽培が優遇されると共に、霞ヶ浦沿岸ではそれまで何度も水害に苦しんでいた人びとの願いから2つの水門が作られた。
設けられたところは利根川と常陸川が合流する手前で、銚子から15km程手前である。
霞ヶ浦から海に流れる川が常陸川だ。
水門は利根川の入口と常陸川の入口にそれぞれ設けられ、同じように動いているように見えるがまったく動きは別々であるようだ。

利根川河口堰。
千葉県東庄町側から茨城県神栖市側を見たところ。
昭和46年1月に総工費125億円をかけ完成。
HPによると目的は2つ・・・塩害防止と東京の飲料水の確保(江戸川に送水)
こちらの利根川の水門は完全に利根川沿岸の水田などの塩害を防止するのが目的だが、これに大東京の水源確保という目的が付加された。

利根川にかかる水門の橋は「利根川大橋」という。
すぐ先に霞ヶ浦と繋がる常陸利根川が隣接しており、常陸川水門は利根川に設けられた水門より少し短いが、この目的は霞ヶ浦の治水(利根川の水位が高くて霞ヶ浦に水が逆流するのを防ぐ)が最大の目的で昭和38年(1963年)5月に18億円で完成した。

(常陸川水門)
確かにそれまで霞ヶ浦沿岸では多くの水害が発生しており、水門設置と護岸の整備で水害は大幅に減ったので、その効果があったということになる。
しかし、この水門が完成してから10年間は水害の恐れがある時のみ閉じて通常は水門を開けていたのであるが、1974年に水位が霞ヶ浦側の水位が高い時のみ開けるという方式に変えたのである。
これにより海水や利根川からの水が常陸川に入ることがなくなり、完全閉鎖と同じ状態になってしまった。
このため、霞ヶ浦は徐々に首根っこを押さえられて死の湖に変わって行ったのである。
塩害が問題だと水門を閉じ、また、鹿島臨海工業地帯の水源確保などの名目も加えられて行ったが、こちらは目的のような使われ方をしていない。
塩害の影響がどの程度及ぶかの検証も不十分で、何時までもこのままでは生態系は完全に破壊されてしまう。
現在国会でもこれを一昔前の方式に戻す見直しの動きがあると聞いている。
是非早急に水門の開放をしていただきたいと思っている。
現在、この常陸川の水門の開放時間は年間で500~800時間くらいだ。
霞ヶ浦の水位が高い時だけ開放するため、海からの水は入って行かないのである。
霞ヶ浦は息を吐き続けるのみで吸えないから呼吸は苦しくなるばかりだ。
鰻も昔はたくさん採れたが、今では数得るほどしか取れない。
早急に考え直す時期に来ている。
夏のアオコの大量発生による悪臭は、自分で見て匂いをかいだ人にしかわからない。
私も今回調べて初めてこの方式の違いがわかったのである。
多くの人が理解できるような広報のあり方を是非お願いしたいものである。


八木蒔周辺(4)-地名
昨年末まで書いてきた行方市の八木蒔地区。この読み方は「やぎまき」ではなく「やきまき」と読む。
少し気になって同じ地名を検索してみた。
・大分県中津市耶馬溪町大字山移八木蒔(やきまき)
があった。耶馬渓と深耶馬渓の中間にある集落である。
地名の由来を知るのに全国の郵便番号簿から地名検索用のプログラムをEXCELで作成して検索した。
まず「八木」とつく地名は全国に100件程あったが、この中で「やき」と読むのは次の8か所のみ。
(もちろん新住所のみなので、旧住所にあるものは検索できない)
・茨城県行方市八木蒔
・千葉県船橋市八木が谷(ヤキガヤ)
・新潟県東蒲原郡阿賀町八木山(ヤキヤマ)
・富山県富山市八木山(ヤキヤマ)
・三重県多気郡明和町八木戸(ヤキド)
・岡山県備前市八木山(ヤキヤマ)
・福岡県飯塚市八木山(ヤキヤマ)
・長崎県西海市西彼町八木原郷(ヤキハラゴウ)
その他は次の1つを除いてすべて「ヤギ」だ。
・熊本県上益城郡山都町八木(ハチボク)
続いて「やきまき」という言葉でネット検索してみると
・岩手県花巻市八木巻集落:古い時代の文献には、八鬼巻、八亀巻、焼巻、焼蒔、八寸巻というさまざまな表現で登場。
永禄7年(1564年)に始まったとされる「八木巻神楽」が有名
八鬼巻、八亀巻、焼巻、焼蒔、八寸巻 その他でいろいろと検索するが思うようにヒットしない。
・宮城県石巻市広渕焼巻
・岩手県下閉伊郡岩泉町釜津田小焼巻(こやきまき)
変わったところでは
・愛知県豊田市松平志賀町八升蒔(はっしょうまき)
というのもあった。
こう言うことを考えて頭の片隅に置いておくと次にどこかでハッとして気がつく事があるのではないかと思っている。
まあ行方(なめかた)などというわからない名前もあるのでのんびり考えよう。
行方についての謂れは一応常陸国風土記に載っていることは承知しているが、これは正確ではないと思っている。
今回の検索で「八木山」がヒットしたが、昨年末に仙台に出かけていたが、仙台にも八木山があったがこちらは「ヤギヤマ」だと伺った。
そのため全国にある「八木山」と漢字で書く地域を調べたが上のリストに記載した新潟・富山・岡山・福岡の「ヤキヤマ」とこの仙台の「ヤギヤマ」しか出てこなかった。
仙台の八木山は元々は越路山と呼ばれていた所だそうで、仙台城に隣接していて樹木の伐採が制限され(御留山?)荒廃していた場所であったそうだ。それを江戸時代創業の仙台味噌などを営んでいた八木家4代目八木久兵衞氏が明治になりこの地区を私財を投じて買い取り開発を進め、さらに昭和になり5代目が開発を拡げて動物園などを整備したことから越路山は八木山(ヤギヤマ)と呼ばれるようになったそうだ。
こんなことからもその場所の歴史が見えます。
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少し気になって同じ地名を検索してみた。
・大分県中津市耶馬溪町大字山移八木蒔(やきまき)
があった。耶馬渓と深耶馬渓の中間にある集落である。
地名の由来を知るのに全国の郵便番号簿から地名検索用のプログラムをEXCELで作成して検索した。
まず「八木」とつく地名は全国に100件程あったが、この中で「やき」と読むのは次の8か所のみ。
(もちろん新住所のみなので、旧住所にあるものは検索できない)
・茨城県行方市八木蒔
・千葉県船橋市八木が谷(ヤキガヤ)
・新潟県東蒲原郡阿賀町八木山(ヤキヤマ)
・富山県富山市八木山(ヤキヤマ)
・三重県多気郡明和町八木戸(ヤキド)
・岡山県備前市八木山(ヤキヤマ)
・福岡県飯塚市八木山(ヤキヤマ)
・長崎県西海市西彼町八木原郷(ヤキハラゴウ)
その他は次の1つを除いてすべて「ヤギ」だ。
・熊本県上益城郡山都町八木(ハチボク)
続いて「やきまき」という言葉でネット検索してみると
・岩手県花巻市八木巻集落:古い時代の文献には、八鬼巻、八亀巻、焼巻、焼蒔、八寸巻というさまざまな表現で登場。
永禄7年(1564年)に始まったとされる「八木巻神楽」が有名
八鬼巻、八亀巻、焼巻、焼蒔、八寸巻 その他でいろいろと検索するが思うようにヒットしない。
・宮城県石巻市広渕焼巻
・岩手県下閉伊郡岩泉町釜津田小焼巻(こやきまき)
変わったところでは
・愛知県豊田市松平志賀町八升蒔(はっしょうまき)
というのもあった。
こう言うことを考えて頭の片隅に置いておくと次にどこかでハッとして気がつく事があるのではないかと思っている。
まあ行方(なめかた)などというわからない名前もあるのでのんびり考えよう。
行方についての謂れは一応常陸国風土記に載っていることは承知しているが、これは正確ではないと思っている。
今回の検索で「八木山」がヒットしたが、昨年末に仙台に出かけていたが、仙台にも八木山があったがこちらは「ヤギヤマ」だと伺った。
そのため全国にある「八木山」と漢字で書く地域を調べたが上のリストに記載した新潟・富山・岡山・福岡の「ヤキヤマ」とこの仙台の「ヤギヤマ」しか出てこなかった。
仙台の八木山は元々は越路山と呼ばれていた所だそうで、仙台城に隣接していて樹木の伐採が制限され(御留山?)荒廃していた場所であったそうだ。それを江戸時代創業の仙台味噌などを営んでいた八木家4代目八木久兵衞氏が明治になりこの地区を私財を投じて買い取り開発を進め、さらに昭和になり5代目が開発を拡げて動物園などを整備したことから越路山は八木山(ヤギヤマ)と呼ばれるようになったそうだ。
こんなことからもその場所の歴史が見えます。


茨城県の難読地名
地名にはおもしろい読み方をするところがたくさんあり、昔の縄文人たちが使っていた呼び方が形を変えて伝わっているものもあると言う。
そして、表記された漢字の意味を考えると解釈がおかしくなるものがたくさん含まれている。
そこで茨城県の地名に何か特徴的な事がないかを考える上で、読み方が一般的でない住所を知りたくなった。
そのため、現在の郵便局の郵便番号データが10万件以上の住所が載っており、これはHPでダウンロードが出来るので、これから住所を引っ張り出して難読の地名リストを作ってみた。
さらに、EXCELのマクロプログラムを作り、全国の地名検索を可能とした。




このリストの題名は「難読地名」とはなっていますが、普通に読めるものもあります。
しかし、何か地名に意味がありそうなところは残しました。
全国の地名検索のプログラムは少し手を加えて1週間くらい経ったら自由にダウンロード出来るように公開したいと思います。興味のある方はまたその頃見に来て下さい。
まあ、どうなるかわからないけどその時はまた連絡します。
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そして、表記された漢字の意味を考えると解釈がおかしくなるものがたくさん含まれている。
そこで茨城県の地名に何か特徴的な事がないかを考える上で、読み方が一般的でない住所を知りたくなった。
そのため、現在の郵便局の郵便番号データが10万件以上の住所が載っており、これはHPでダウンロードが出来るので、これから住所を引っ張り出して難読の地名リストを作ってみた。
さらに、EXCELのマクロプログラムを作り、全国の地名検索を可能とした。




このリストの題名は「難読地名」とはなっていますが、普通に読めるものもあります。
しかし、何か地名に意味がありそうなところは残しました。
全国の地名検索のプログラムは少し手を加えて1週間くらい経ったら自由にダウンロード出来るように公開したいと思います。興味のある方はまたその頃見に来て下さい。
まあ、どうなるかわからないけどその時はまた連絡します。


大洗海岸
90歳の母とウィーンから帰国中の次女を伴い大洗に行ってきました(1月8日)




大洗の目的はまたこのお寿司です。
森田水産大洗店のランチ。950円です。
(通常は1500円以上です)
この母を今日午後から東京に実家に送ってとんぼ返りしてきました。
高速を使い行きが2時間、帰りが2時間半。
少し体調も芳しくないので疲れました。
娘の方は今度の日曜日にウィーンに帰ります。成田まで送っていくことになりそうです。
今週から仕事にもスタートなのですが、少し出遅れです。
来週から普通の生活に戻れそうです。
でもまだ頭は正月休みのままです。
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大洗の目的はまたこのお寿司です。
森田水産大洗店のランチ。950円です。
(通常は1500円以上です)
この母を今日午後から東京に実家に送ってとんぼ返りしてきました。
高速を使い行きが2時間、帰りが2時間半。
少し体調も芳しくないので疲れました。
娘の方は今度の日曜日にウィーンに帰ります。成田まで送っていくことになりそうです。
今週から仕事にもスタートなのですが、少し出遅れです。
来週から普通の生活に戻れそうです。
でもまだ頭は正月休みのままです。

