今日から四月
今日から四月になりました。
リクルートスーツの新入社員がたくさん歩いていました。
でも皆同じような格好ですね。男子の背広は何時から黒一色になったのでしょうか。
私にもあんな時代があったな・・・・なんて思い出していました。(笑)
それにしてもエープリルフールではないでしょうが、理化学研究所の発表はおかしなことになってきましたね。
まあ予想通りといえばそんな気がしてはいました。
捏造だと決めつけながらSTAP細胞はこれから1年くらいかけて検証するらしい。
当然小保方さんはこれから外されるのでしょうね。
予想したこととはいえ何故このように一人の人間の責任と排除するのでしょうか?
わからないことばかり・・・・。 エープリルフール??
こうなったら論文は取り下げない方がいいですね。STAP細胞を横取りされてしまいます。
しばらくまだ見守っていきたいと思います。
どうやら私は昔から弱そうな方に味方したい性格のようです。

昨日の晴れた中で風が強かった霞ヶ浦の湖面は波だって岸に激しく波が打ちつけていました。
行方市の「天王崎」にて

昨日はガソリンスタンドに車が並んでいましたが、そんなにしてまで給油する気もなく、今日はガソリンも1リトル当たり5円値上げとなっていました。
また、はがきを出そうとして切手は? 50円の所に80円を貼るのももったいないので郵便局に出しに行ってきました。
2円のためにガソリンを使っていったいどうなってるのか・・・・。
スーパーなどではすでに少し前から、商品の配置を変えたり、リニューアルしたりすると共に値札は外税に皆切り替えていました。
私は消費税は15%くらいにしないとバランスがとれないと前から思ってきました。
ですから上がるのは止むを得ないと思いますが、無駄を削除する公約はどうなったのでしょうか。
議員定数はこんな小手先のごまかしではまったく納得できません。
復興特別税をつまらないことに流用するなどということが何で平気な顔して行えるのでしょうか?
税金が本当に必要なところに有効に使われないのではないかとどうしても思えてきてしまうような政治は心底から反省してもらいたいものです。
← よろしければクリックお願いします。
リクルートスーツの新入社員がたくさん歩いていました。
でも皆同じような格好ですね。男子の背広は何時から黒一色になったのでしょうか。
私にもあんな時代があったな・・・・なんて思い出していました。(笑)
それにしてもエープリルフールではないでしょうが、理化学研究所の発表はおかしなことになってきましたね。
まあ予想通りといえばそんな気がしてはいました。
捏造だと決めつけながらSTAP細胞はこれから1年くらいかけて検証するらしい。
当然小保方さんはこれから外されるのでしょうね。
予想したこととはいえ何故このように一人の人間の責任と排除するのでしょうか?
わからないことばかり・・・・。 エープリルフール??
こうなったら論文は取り下げない方がいいですね。STAP細胞を横取りされてしまいます。
しばらくまだ見守っていきたいと思います。
どうやら私は昔から弱そうな方に味方したい性格のようです。

昨日の晴れた中で風が強かった霞ヶ浦の湖面は波だって岸に激しく波が打ちつけていました。
行方市の「天王崎」にて

昨日はガソリンスタンドに車が並んでいましたが、そんなにしてまで給油する気もなく、今日はガソリンも1リトル当たり5円値上げとなっていました。
また、はがきを出そうとして切手は? 50円の所に80円を貼るのももったいないので郵便局に出しに行ってきました。
2円のためにガソリンを使っていったいどうなってるのか・・・・。
スーパーなどではすでに少し前から、商品の配置を変えたり、リニューアルしたりすると共に値札は外税に皆切り替えていました。
私は消費税は15%くらいにしないとバランスがとれないと前から思ってきました。
ですから上がるのは止むを得ないと思いますが、無駄を削除する公約はどうなったのでしょうか。
議員定数はこんな小手先のごまかしではまったく納得できません。
復興特別税をつまらないことに流用するなどということが何で平気な顔して行えるのでしょうか?
税金が本当に必要なところに有効に使われないのではないかとどうしても思えてきてしまうような政治は心底から反省してもらいたいものです。


波崎港(茨城県東南端)
今日は桜の花が一気に満開になりました。
都内ではもう散りだしたようです。
今週は週末しか時間がとれないので散らないでほしいですね。
さて、銚子に行く時に何度か茨城県の神栖市から銚子大橋を通っていくことがあります。
この利根川河口に架かる大橋を渡ると銚子の街ですが、手前は波崎(はさき)という街です。
茨城県の東南端で、利根川の河口の南が銚子で北が波崎となります。
茨城県に住んでいながらあまりこの港を訪れたことはありません。
大昔に霞ヶ浦や印旛沼などが一体となった大きな内海であった頃でもこの河口の広さはあまり変わりません。
この辺りは松林が続いていたようです。
少し時間があったので橋の手前から下へ降りて見ました。

右手奥に見える橋が銚子大橋です。2年程前に修理されてきれいになりました。
この利根川の対岸が銚子(千葉県)の街です。
この辺りが地軸の傾きを考えると日本(本州)の一番東端になるのでしょうか。
山の上をのぞけば一番日の出が早い地域です。

そのまま先端の方へ少し進みました。

川の中間に波消しのためでしょうかコンクリの堤防が作られていますが、そこにたくさんのカモメがびっしり並んで休んでいます。

そしてその向こう側の対岸に銚子の港が見えますが、飯沼観音(銚子観音)の五重の塔が良く見えます。
ごちゃごちゃとたくさんの船も見ることが出来ます。
向こう側からこちらを眺めたことは何度もありますが、今回初めて反対側から見ました。
五重の塔もこうして街に溶け込んでいるのがわかります。
もっともこれも平成21年に完成したものです。(前の記事 こちらを参照下さい)


さらにその先に進むと突きあたりのようになってしまいますが、ここに「はさきかもめ公園」というきれいな公園がありました。

公園の中央にコンクリ製のおおきな「はさき丸」と書かれた船が置かれています。
子供が中に入って登ったりできるようです。
芝生の野外ステージもありました。

そして松林が周りを取り囲んでいるのですが、その一角に「竹下夢二句碑」が置かれていました。

ここに書かれているようにこの港は鰯(イワシ)漁が盛んであったようです。
イワシが好きな夢二が波崎のイワシを思い浮かべて遠くベルリンで描いた絵に添えたもののようです。
銚子側には夢二の有名な宵待草の「まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな」の碑があります。

さて、先端のこの「かもめ公園」を廻りこんで更に進むと「波崎新港」に出ます。
こちらはもう鹿島灘の外洋に面していますが、港は囲われており比較的大きな船が停泊していました。

この先の「波崎海岸」と「童子女の松原」へはまた別な日に立寄りましたので続きを明日にでも載せます。
← よろしければクリックお願いします。
都内ではもう散りだしたようです。
今週は週末しか時間がとれないので散らないでほしいですね。
さて、銚子に行く時に何度か茨城県の神栖市から銚子大橋を通っていくことがあります。
この利根川河口に架かる大橋を渡ると銚子の街ですが、手前は波崎(はさき)という街です。
茨城県の東南端で、利根川の河口の南が銚子で北が波崎となります。
茨城県に住んでいながらあまりこの港を訪れたことはありません。
大昔に霞ヶ浦や印旛沼などが一体となった大きな内海であった頃でもこの河口の広さはあまり変わりません。
この辺りは松林が続いていたようです。
少し時間があったので橋の手前から下へ降りて見ました。

右手奥に見える橋が銚子大橋です。2年程前に修理されてきれいになりました。
この利根川の対岸が銚子(千葉県)の街です。
この辺りが地軸の傾きを考えると日本(本州)の一番東端になるのでしょうか。
山の上をのぞけば一番日の出が早い地域です。

そのまま先端の方へ少し進みました。

川の中間に波消しのためでしょうかコンクリの堤防が作られていますが、そこにたくさんのカモメがびっしり並んで休んでいます。

そしてその向こう側の対岸に銚子の港が見えますが、飯沼観音(銚子観音)の五重の塔が良く見えます。
ごちゃごちゃとたくさんの船も見ることが出来ます。
向こう側からこちらを眺めたことは何度もありますが、今回初めて反対側から見ました。
五重の塔もこうして街に溶け込んでいるのがわかります。
もっともこれも平成21年に完成したものです。(前の記事 こちらを参照下さい)


さらにその先に進むと突きあたりのようになってしまいますが、ここに「はさきかもめ公園」というきれいな公園がありました。

公園の中央にコンクリ製のおおきな「はさき丸」と書かれた船が置かれています。
子供が中に入って登ったりできるようです。
芝生の野外ステージもありました。

そして松林が周りを取り囲んでいるのですが、その一角に「竹下夢二句碑」が置かれていました。

ここに書かれているようにこの港は鰯(イワシ)漁が盛んであったようです。
イワシが好きな夢二が波崎のイワシを思い浮かべて遠くベルリンで描いた絵に添えたもののようです。
銚子側には夢二の有名な宵待草の「まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな」の碑があります。

さて、先端のこの「かもめ公園」を廻りこんで更に進むと「波崎新港」に出ます。
こちらはもう鹿島灘の外洋に面していますが、港は囲われており比較的大きな船が停泊していました。

この先の「波崎海岸」と「童子女の松原」へはまた別な日に立寄りましたので続きを明日にでも載せます。


波崎海岸
銚子大橋側から波崎海岸(海水浴場)の方に行ってみました。
天気は良かったのですが風が強く海岸の駐車場に車を止めてもひっきりなしに砂粒が吹きつけてきました。

海岸に1本の風力発電機が立っています。
このまま砂浜を海岸にいけるのですが、あきらめてその先に行ってみました。

通りの両側には松林が続きます。「童子女の松原」を探していたのですが良く分かりません。ウロウロ・・・。

少し北に行ったところにやはり海岸公園の入口がありました。
右手に見えるのが先ほどの海水浴場にあった風力発電の風車です。
その先の方には銚子沖の風車も見えるようです。

海はこの通り人はおりません。

北の方を見るとやはり風力発電用風車がたくさん並んでいます。
そしてその先に見えるのは鹿島臨海工業地帯の煙突です。

こちらの公園の入り口付近に歌碑が一つ置かれていました。

佐藤佐太郎さんは宮城県の生まれですが子供の頃に茨城県の平潟(現北茨城市)にて過ごしています。
アララギ派の歌人ですが斎藤茂吉研究、長塚節研究が有名なようです。

また戻って、最初の海岸付近に運動公園があります。
この辺りをウロウロしてしまいました。
目的地はこの先の松林の中でした。
手前に大きな「生涯学習センター」の建物があり、駐車場が中にあり、その入口もお休みで進入禁止でした。
もう少し案内を良くしてほしいものです。
明日はその童子女の松原を載せます。
天気は良かったのですが風が強く海岸の駐車場に車を止めてもひっきりなしに砂粒が吹きつけてきました。

海岸に1本の風力発電機が立っています。
このまま砂浜を海岸にいけるのですが、あきらめてその先に行ってみました。

通りの両側には松林が続きます。「童子女の松原」を探していたのですが良く分かりません。ウロウロ・・・。

少し北に行ったところにやはり海岸公園の入口がありました。
右手に見えるのが先ほどの海水浴場にあった風力発電の風車です。
その先の方には銚子沖の風車も見えるようです。

海はこの通り人はおりません。

北の方を見るとやはり風力発電用風車がたくさん並んでいます。
そしてその先に見えるのは鹿島臨海工業地帯の煙突です。

こちらの公園の入り口付近に歌碑が一つ置かれていました。

佐藤佐太郎さんは宮城県の生まれですが子供の頃に茨城県の平潟(現北茨城市)にて過ごしています。
アララギ派の歌人ですが斎藤茂吉研究、長塚節研究が有名なようです。

また戻って、最初の海岸付近に運動公園があります。
この辺りをウロウロしてしまいました。
目的地はこの先の松林の中でした。
手前に大きな「生涯学習センター」の建物があり、駐車場が中にあり、その入口もお休みで進入禁止でした。
もう少し案内を良くしてほしいものです。
明日はその童子女の松原を載せます。
童子女の松原
1300年前に書かれた常陸国風土記の「香島郡(かしまのこおり)」にこの地方の言い伝えとして次の話が出てくる。
ここでは口訳・常陸国風土記から文章をお借りします。
-----------------------------------------
○ 童子女の松原
軽野の南に童子女の松原がある。
むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。
ともにみめ麗しく、村を越えて聞こえてくる評判に、いつしか二人はひそかな思ひを抱くやうになった。
年月が立ち、歌垣の集ひで二人は偶然出会ふ。そのときいらつこが歌ふに、
いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも
(安是の小松に清らかな木綿を懸け垂らして、それを手草に舞ひながら、私に向かって振ってゐるのが見える。安是の小島の……。)
いらつめの答への歌に、
潮には 立たむといへど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り
(潮が島から寄せる浜辺に立ってゐようと言ってゐたのに、あなたは、八十島に隠れてゐる小島を見つけて、走り寄ってくる。)
ともに相語らんと、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ、押さへてゐた思ひを口にすると、これまで思ひ悩んだことも消え、ほほゑみの鮮かな感動がよみがへる。
玉の露の宿る梢に、爽やかな秋風が吹き抜け、そのかなたに望月が輝いてゐる。
そこに聞こえる松風の歌。
鳴く鶴の浮州に帰るやうに、渡る雁の山に帰るやうに。
静かな山の岩陰に清水は湧き出で、静かな夜に霧はたちこめる。
近くの山の紅葉はすでに色づき始め、遠い海にはただ青き波の激しく磯によせる音が聞こえるだけだ。
今宵の楽しみにまさるものはない。
ただ語らひの甘きにおぼれ、夜の更け行くのも忘れる。
突然、鶏が鳴き、犬が吠え、気がつくと朝焼けの中から日が差し込めてゐた。
二人は、なすすべを知らず、人に見られることを恥ぢて、松の木となり果てたといふ。
いらつこの松を奈美松といひ、いらつめの松を古津松といふ。
その昔からのこの名は、今も同じである。
-----------------------------------------
少し長いのですがそのまま載せました。

昨日書いたとおりこの童子女の松原公園は手前に大きな生涯学習センターがある裏手の松林でした。
学習センターがお休みで気がつかなかったこともありますが、公園の入口はこのセンターを横切っていくのですから矢印の案内板くらい欲しいと思います。

表の通りからはこの看板の文字は読めないのですが近づいてみれば「常陸国風土記 童子女(おとめ)の松原公園」と書かれています。
「童子女」は一般には「うない」と読むのですがここでは「おとめ」とフリガナがふられています。
このように振り仮名をつけられるとこの常陸国風土記に書かれた内容も単なる美男美女の恋愛物語で終わってしまいそうです。
「うない」というのは少年少女の事と言われますが、髪の毛をうなじのあたりで束ねて下に垂らした髪型の事を言うと書かれたものもありましたのでここに造られている男女の像の姿とは少し違うのかもしれません。(神に仕える者です)

公園内は整備されていて、松林の中に常陸国風土記の各郡の説明プレートが1枚づつ置かれており、読みながら常陸国の昔を思うことが出来るように作られています。
でも訪れた方はどんな思いで散策されるのでしょうか・・・。

風土記の話に書かれているように「歌垣」(嬥歌 かがい)の集まりで出会った二人が松の木陰で一夜を過ごし、朝になってしまったので恥ずかしくなり松の木になってしまったというので、この当時の予想される衣装を着た男女像が作られています。
歌垣は筑波山が有名ですが、このような水辺などでもあちこちで行われていたようです。
興味のある方はご自身で調べて見て下さい。


「童子女(おとめ)の鐘」
説明板には
「この童子女の鐘は、いつまでも一緒にいたいという想いを抱き、松の姿に身をゆだねた男女の決して変わることのない深い絆にちなんだ、永遠の愛を願う鐘です。時代の流れを表現したアーチから、現代に語り継がれている2人の出会いの場面をみつめながら、あなたも永遠の愛を願いこの鐘を響かせて下さい」
とありました。
どんな音がするかやはり興味がありますね。
軽く叩いてみました。
ゴオ~ン・・・・ とても大きな音が鳴り響きました。
恥ずかしくなって松の木にでもなりたい気分です(笑)

さて、この公園は一度見ておけばそれでよしと言うことで、何故この童子女(うない)松原の話が常陸国風土記に書かれているのでしょうか。どのような意味を持っているのでしょうか。
この風土記には筑波郡のところにも筑波山の歌垣について書かれていますし、風土記を書いたと言われる高橋虫麻呂の万葉集に載せられている歌にも春と秋の歌垣の様子が歌われています。
これによればこの日ばかりは人妻であっても交際自由?? てな感じです。
さて、この男は「那賀の寒田」であり女は「海上の安是」で、共に神に仕える男女となっています。
これって少し興味深いですね。場所はどのあたりなのでしょうか。
こんなことに興味を持つと、この男女の松原の話も、少し違った話に見えてくるのです。
時間が無くなりましたので続きは明日に調べながら書いてみたいと思います。
この話の後に「手子后神社(てごさきじんじゃ)」を訪れました。
こちらにはこの童子女の二人を祀っています。この二人は神社に祭られる神様になっているのです。
ここを訪れようと思ったのは、先日石岡をバイパスする6号国道が通ることになっている舟塚山古墳の近くにこの波崎にある「手子后神社」と同じ名前の神社を発見したためです。
少しずつ紐解いてみたいと思います。
これから3-4回にわたって訪れた時の写真などで紹介したいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
ここでは口訳・常陸国風土記から文章をお借りします。
-----------------------------------------
○ 童子女の松原
軽野の南に童子女の松原がある。
むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。
ともにみめ麗しく、村を越えて聞こえてくる評判に、いつしか二人はひそかな思ひを抱くやうになった。
年月が立ち、歌垣の集ひで二人は偶然出会ふ。そのときいらつこが歌ふに、
いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも
(安是の小松に清らかな木綿を懸け垂らして、それを手草に舞ひながら、私に向かって振ってゐるのが見える。安是の小島の……。)
いらつめの答への歌に、
潮には 立たむといへど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り
(潮が島から寄せる浜辺に立ってゐようと言ってゐたのに、あなたは、八十島に隠れてゐる小島を見つけて、走り寄ってくる。)
ともに相語らんと、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ、押さへてゐた思ひを口にすると、これまで思ひ悩んだことも消え、ほほゑみの鮮かな感動がよみがへる。
玉の露の宿る梢に、爽やかな秋風が吹き抜け、そのかなたに望月が輝いてゐる。
そこに聞こえる松風の歌。
鳴く鶴の浮州に帰るやうに、渡る雁の山に帰るやうに。
静かな山の岩陰に清水は湧き出で、静かな夜に霧はたちこめる。
近くの山の紅葉はすでに色づき始め、遠い海にはただ青き波の激しく磯によせる音が聞こえるだけだ。
今宵の楽しみにまさるものはない。
ただ語らひの甘きにおぼれ、夜の更け行くのも忘れる。
突然、鶏が鳴き、犬が吠え、気がつくと朝焼けの中から日が差し込めてゐた。
二人は、なすすべを知らず、人に見られることを恥ぢて、松の木となり果てたといふ。
いらつこの松を奈美松といひ、いらつめの松を古津松といふ。
その昔からのこの名は、今も同じである。
-----------------------------------------
少し長いのですがそのまま載せました。

昨日書いたとおりこの童子女の松原公園は手前に大きな生涯学習センターがある裏手の松林でした。
学習センターがお休みで気がつかなかったこともありますが、公園の入口はこのセンターを横切っていくのですから矢印の案内板くらい欲しいと思います。

表の通りからはこの看板の文字は読めないのですが近づいてみれば「常陸国風土記 童子女(おとめ)の松原公園」と書かれています。
「童子女」は一般には「うない」と読むのですがここでは「おとめ」とフリガナがふられています。
このように振り仮名をつけられるとこの常陸国風土記に書かれた内容も単なる美男美女の恋愛物語で終わってしまいそうです。
「うない」というのは少年少女の事と言われますが、髪の毛をうなじのあたりで束ねて下に垂らした髪型の事を言うと書かれたものもありましたのでここに造られている男女の像の姿とは少し違うのかもしれません。(神に仕える者です)

公園内は整備されていて、松林の中に常陸国風土記の各郡の説明プレートが1枚づつ置かれており、読みながら常陸国の昔を思うことが出来るように作られています。
でも訪れた方はどんな思いで散策されるのでしょうか・・・。

風土記の話に書かれているように「歌垣」(嬥歌 かがい)の集まりで出会った二人が松の木陰で一夜を過ごし、朝になってしまったので恥ずかしくなり松の木になってしまったというので、この当時の予想される衣装を着た男女像が作られています。
歌垣は筑波山が有名ですが、このような水辺などでもあちこちで行われていたようです。
興味のある方はご自身で調べて見て下さい。


「童子女(おとめ)の鐘」
説明板には
「この童子女の鐘は、いつまでも一緒にいたいという想いを抱き、松の姿に身をゆだねた男女の決して変わることのない深い絆にちなんだ、永遠の愛を願う鐘です。時代の流れを表現したアーチから、現代に語り継がれている2人の出会いの場面をみつめながら、あなたも永遠の愛を願いこの鐘を響かせて下さい」
とありました。
どんな音がするかやはり興味がありますね。
軽く叩いてみました。
ゴオ~ン・・・・ とても大きな音が鳴り響きました。
恥ずかしくなって松の木にでもなりたい気分です(笑)

さて、この公園は一度見ておけばそれでよしと言うことで、何故この童子女(うない)松原の話が常陸国風土記に書かれているのでしょうか。どのような意味を持っているのでしょうか。
この風土記には筑波郡のところにも筑波山の歌垣について書かれていますし、風土記を書いたと言われる高橋虫麻呂の万葉集に載せられている歌にも春と秋の歌垣の様子が歌われています。
これによればこの日ばかりは人妻であっても交際自由?? てな感じです。
さて、この男は「那賀の寒田」であり女は「海上の安是」で、共に神に仕える男女となっています。
これって少し興味深いですね。場所はどのあたりなのでしょうか。
こんなことに興味を持つと、この男女の松原の話も、少し違った話に見えてくるのです。
時間が無くなりましたので続きは明日に調べながら書いてみたいと思います。
この話の後に「手子后神社(てごさきじんじゃ)」を訪れました。
こちらにはこの童子女の二人を祀っています。この二人は神社に祭られる神様になっているのです。
ここを訪れようと思ったのは、先日石岡をバイパスする6号国道が通ることになっている舟塚山古墳の近くにこの波崎にある「手子后神社」と同じ名前の神社を発見したためです。
少しずつ紐解いてみたいと思います。
これから3-4回にわたって訪れた時の写真などで紹介したいと思います。


里山に春色満開
昨日の記事の続きを書こうと思っていたのですが、今日は花見をして廻りましたのでそちらを先に載せます。
「ふるさと風の会」の会報95号の印刷を皆で午前中やり、そのまま会報を配るついでに桜を楽しんできました。
写真は全てクリックすると拡大写真が見られます。

まずは柏原池公園の桜から。
満開~です。 まだ花びらは舞っていません。 親子連れなどが桜の下でお花見です。

今日は朝方まで雨や風が強く降ったり吹いたりしていましたが、昨日よりも少しまだ風が冷たいのですが、これくらいなら良いお花見日和と言えるでしょう。

石岡のお花見スポットしても人気もあるのですがあまり知られていないようで混雑はありません。


続いて近くの風土記の丘公園へ。
広い駐車場が満杯でしばらく待たされました。
こちらは古代民家などの雰囲気の中にソメイヨシノとしだれ桜がとても良いのです。

このピンクのしだれ桜のトンネルが有名になっていて、多くの人がやって来ていました。
でもまだ6分咲きくらいでしょうか。
満開は来週末頃? もう少し楽しめそうです。

こうして写真で見るとかなり咲いているようですが・・・。

アップしてみればまだつぼみが半分くらいあります。来週また1度来て見ましょう。

昼はいつものように八郷の瓦会地区にある「まんまや」さんでおそばをいただきました。とてもおいしい蕎麦です。
そのまんまやさんの前にある「日笠神社」(前に紹介した記事はこちら)の桜が見事だったのでパチリ。

まんまやさんから柿岡の町の方向に行くと途中に運動公園があります。ここも桜がきれいだと言うことで立寄りました。

ここからは加波山から吾国山の方の山並みがみえます。

そのまま進むと石岡の八郷支所(柿岡)の少し手前で恋瀬川を渡りますが、ここはそれ程川幅もなく桜のきれいな場所です。

川の向こうに見える山は加波山でしょうか。この辺りからは筑波山よりも加波山の方が良く見えるようです。

そのまま町を通り抜けてフルーツラインにでて辻のイチゴ団地を通り抜けます。
この辺りは山の色が本当に早春の色なんです。まだみどり色がほとんどでていないのに芽がたくさんついて今にも若葉色に変わりそうな淡い色合いです。
こんな里山が一番好きです。

朝日トンネルを抜けて土浦市の小町の里に来ました。ここにも会報を置いています。
そば処でもあり水車が目を引きます。

小野小町の墓というのがある場所ですが、今はこの小野家の許可が出なくなり見学は遠慮してくださいとのこと。
こちらの小町の館に会報を置かせてもらっています。
建物の中で明日(4/6)から土浦の「上高津貝塚土器づくりの会」が自分たちで作った縄文式土器の展示会をやります。

どれも本物ではありません。本物をモデルとして自分たちで再現制作したものばかりです。
今日はまだ準備中でしたが写真を撮らせていただきました。

小町の里から北条に行きます。

途中菜の花の黄色が目を引きました。

近くの採石場の手前に桜のきれいな場所があります。
ここの五輪塔は特に大きくて立派です。
この五輪塔は1516年に頭白上人が母親のために建立したといわれるものです。(前に書いた記事:こちらを参照)


蒲公英(たんぽぽ)や土筆(つくし)と春ですね。漢字で書くとどこか趣が違って感じます。

そのまま北条大池に行ってみました。
やはりここはたくさん人が出ていました。


北条の街では「北条ふれあい館」(旧田村呉服店)に会報を少し置かせていただいています。
2階が二つに分かれていてなかなか変わった造りですね。大正末期に建てられたもののようです。
(この無料休憩所は土日や祝日のみ開いています)

さて、北条から戻る途中で土浦からの自転車道(りんりんロード)(筑波鉄道跡)にも両脇に桜が植えられ、トンネルになっていました。
今の時期は自転車でこんな道を走るのも気持ちがよさそうです。
今回は写真がたくさんになってしまいました。今年の春色を残しておきたいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
「ふるさと風の会」の会報95号の印刷を皆で午前中やり、そのまま会報を配るついでに桜を楽しんできました。
写真は全てクリックすると拡大写真が見られます。

まずは柏原池公園の桜から。
満開~です。 まだ花びらは舞っていません。 親子連れなどが桜の下でお花見です。

今日は朝方まで雨や風が強く降ったり吹いたりしていましたが、昨日よりも少しまだ風が冷たいのですが、これくらいなら良いお花見日和と言えるでしょう。

石岡のお花見スポットしても人気もあるのですがあまり知られていないようで混雑はありません。


続いて近くの風土記の丘公園へ。
広い駐車場が満杯でしばらく待たされました。
こちらは古代民家などの雰囲気の中にソメイヨシノとしだれ桜がとても良いのです。

このピンクのしだれ桜のトンネルが有名になっていて、多くの人がやって来ていました。
でもまだ6分咲きくらいでしょうか。
満開は来週末頃? もう少し楽しめそうです。

こうして写真で見るとかなり咲いているようですが・・・。

アップしてみればまだつぼみが半分くらいあります。来週また1度来て見ましょう。

昼はいつものように八郷の瓦会地区にある「まんまや」さんでおそばをいただきました。とてもおいしい蕎麦です。
そのまんまやさんの前にある「日笠神社」(前に紹介した記事はこちら)の桜が見事だったのでパチリ。

まんまやさんから柿岡の町の方向に行くと途中に運動公園があります。ここも桜がきれいだと言うことで立寄りました。

ここからは加波山から吾国山の方の山並みがみえます。

そのまま進むと石岡の八郷支所(柿岡)の少し手前で恋瀬川を渡りますが、ここはそれ程川幅もなく桜のきれいな場所です。

川の向こうに見える山は加波山でしょうか。この辺りからは筑波山よりも加波山の方が良く見えるようです。

そのまま町を通り抜けてフルーツラインにでて辻のイチゴ団地を通り抜けます。
この辺りは山の色が本当に早春の色なんです。まだみどり色がほとんどでていないのに芽がたくさんついて今にも若葉色に変わりそうな淡い色合いです。
こんな里山が一番好きです。

朝日トンネルを抜けて土浦市の小町の里に来ました。ここにも会報を置いています。
そば処でもあり水車が目を引きます。

小野小町の墓というのがある場所ですが、今はこの小野家の許可が出なくなり見学は遠慮してくださいとのこと。
こちらの小町の館に会報を置かせてもらっています。
建物の中で明日(4/6)から土浦の「上高津貝塚土器づくりの会」が自分たちで作った縄文式土器の展示会をやります。

どれも本物ではありません。本物をモデルとして自分たちで再現制作したものばかりです。
今日はまだ準備中でしたが写真を撮らせていただきました。

小町の里から北条に行きます。

途中菜の花の黄色が目を引きました。

近くの採石場の手前に桜のきれいな場所があります。
ここの五輪塔は特に大きくて立派です。
この五輪塔は1516年に頭白上人が母親のために建立したといわれるものです。(前に書いた記事:こちらを参照)


蒲公英(たんぽぽ)や土筆(つくし)と春ですね。漢字で書くとどこか趣が違って感じます。

そのまま北条大池に行ってみました。
やはりここはたくさん人が出ていました。


北条の街では「北条ふれあい館」(旧田村呉服店)に会報を少し置かせていただいています。
2階が二つに分かれていてなかなか変わった造りですね。大正末期に建てられたもののようです。
(この無料休憩所は土日や祝日のみ開いています)

さて、北条から戻る途中で土浦からの自転車道(りんりんロード)(筑波鉄道跡)にも両脇に桜が植えられ、トンネルになっていました。
今の時期は自転車でこんな道を走るのも気持ちがよさそうです。
今回は写真がたくさんになってしまいました。今年の春色を残しておきたいと思います。


童子女の松原(2)
一昨日の記事の続きです。
神栖市波崎先端の鹿島灘側に面した海水浴場近くの松林に「童子女(おとめ)松原」公園があった。
常陸国風土記の香島郡のところに載せられた1300年前に伝承として伝えられたおはなし「童子女(うない)松原」の場所として推測した場所と思われる。
この歌垣(東国では嬥歌(かがい))の話として知られているが、何かもう少し深い話が眠っていそうな気がする。
その伏線は同じ常陸国風土記の香島郡の冒頭に書かれています。
「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記より)
この香島(鹿島)郡は大化5年(649年)に下海上国より「軽野」という土地と仲(那賀)国より「寒田(さむた)」といわれる土地をそれぞれ供出して新しい郡(こおり)が置かれたのだ。
常陸国風土記が書かれたのはそれより60年以上後である。

今では香島郡の北が何処まで課ははっきりしないが Flood Mapsで海面を5mくらい高くしてみると北にあったと言う阿多可奈湖(あたかなこ)が現在の涸沼から那珂川河口辺りに広がっているのでここが北の境であろう。
南はこの波崎の所までであるはずだから 5:1の大きさの面積で比較すれば上の地図のようになるであろう。
童子女(うない)の松原は一番南の方になる。
常陸国風土記の古老の話としてこの説話が書かれているのはこの香島(鹿島)の神の地が出来た頃よりも前の話かもしれない。
それともこの二つの国造の国からここを分離するために作られた話なのかもしれない。
そうでなければ別々の国の神に仕える男女二人がこの地で隠れて一緒になり、男は奈美松(なみまつ)、女は古津松(こつまつ)になって、そしていつのまにか奈美松霊・古津松霊という名の神様となって手子后(てごさき)神社に祀られているなどということにはならないはずであるのだから。
仲国造は神八井耳命(かむやいみみのみこと)=神武天皇の子 の後裔の建借間命(けかしまのみこと)が那珂川流域(水戸など)などに派遣されて切り開き場所であり、古代皇族の多氏の系統。
下海上(下兎上)国造は海洋や湖などの舟の操作が巧みな民族で出雲族だという。
すなわち多氏と出雲族がここで共に手を取り合って鹿島の神の地を作り上げたと言うことなのか?
ただ鹿島はどちらかというとやはり多氏の系統色がとても強いので、息栖神社がその象徴なのかもしれない。
息栖神社の現在の祭神は岐神(ふなどのかみ)・天神船神・住吉三神である。
息栖神社で芭蕉が読んだ句「この里は 気吹戸主の 風寒し」などということの意味もなんとなく気になってくる。
気吹戸主とはイザナギが黄泉の国から戻った時、けがれたものを清め流したその流れから生まれたのが気吹戸主とされる。
このため何でも汚れを清めてくれるのだそうだ。
さて、現在のこの童子女の松原公園の場所に松林も整備され、像がおかれているが本来は銚子大橋の波崎側の入口近くにある手子后神社の場所がこの二人が会ったという場所なのでしょう。
また、神栖市のホームページを見ていたら市の名前の由来が載っていました。
現在の神栖市役所のすぐ近くに大きな池がありその場所は昔から現在に至るまで神の池と呼ばれていました。
今の池は干拓も進み昔よりはだいぶ小さくなっているようです。
また息栖神社のある息栖町から栖の字をとって「神栖(かみす)」となったそうです。
この神の池も調べて見ると現在の百里基地(小美玉市、旧小川町)が建設される前にこの神の池と大野原地区に自衛隊の軍用施設が建設される話が持ち上がり、大反対にあいました。
結局これが小川町の百里ヶ原に建設されることになり今の百里基地と茨城空港となっていったのです。
ここにも大きな反対運動があったと聞いています。
それぞれの土地には知らなければいけないことがたくさん眠っていますね。
大間の原発のことなど知らされなければいけない事柄も隠しているように感じてしまいます。
まだまだ新しい原発をいくら建設途中だからと言って建設をするなどということは福島の避難民などの心を踏みにじっています。
プルサーマルですから、MOX燃料を使いたいと言うただそれだけの気持ちが先にあるとしたらとんでもないことだと思います。
明日は手子后神社を紹介します。
神栖市波崎先端の鹿島灘側に面した海水浴場近くの松林に「童子女(おとめ)松原」公園があった。
常陸国風土記の香島郡のところに載せられた1300年前に伝承として伝えられたおはなし「童子女(うない)松原」の場所として推測した場所と思われる。
この歌垣(東国では嬥歌(かがい))の話として知られているが、何かもう少し深い話が眠っていそうな気がする。
その伏線は同じ常陸国風土記の香島郡の冒頭に書かれています。
「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記より)
この香島(鹿島)郡は大化5年(649年)に下海上国より「軽野」という土地と仲(那賀)国より「寒田(さむた)」といわれる土地をそれぞれ供出して新しい郡(こおり)が置かれたのだ。
常陸国風土記が書かれたのはそれより60年以上後である。

今では香島郡の北が何処まで課ははっきりしないが Flood Mapsで海面を5mくらい高くしてみると北にあったと言う阿多可奈湖(あたかなこ)が現在の涸沼から那珂川河口辺りに広がっているのでここが北の境であろう。
南はこの波崎の所までであるはずだから 5:1の大きさの面積で比較すれば上の地図のようになるであろう。
童子女(うない)の松原は一番南の方になる。
常陸国風土記の古老の話としてこの説話が書かれているのはこの香島(鹿島)の神の地が出来た頃よりも前の話かもしれない。
それともこの二つの国造の国からここを分離するために作られた話なのかもしれない。
そうでなければ別々の国の神に仕える男女二人がこの地で隠れて一緒になり、男は奈美松(なみまつ)、女は古津松(こつまつ)になって、そしていつのまにか奈美松霊・古津松霊という名の神様となって手子后(てごさき)神社に祀られているなどということにはならないはずであるのだから。
仲国造は神八井耳命(かむやいみみのみこと)=神武天皇の子 の後裔の建借間命(けかしまのみこと)が那珂川流域(水戸など)などに派遣されて切り開き場所であり、古代皇族の多氏の系統。
下海上(下兎上)国造は海洋や湖などの舟の操作が巧みな民族で出雲族だという。
すなわち多氏と出雲族がここで共に手を取り合って鹿島の神の地を作り上げたと言うことなのか?
ただ鹿島はどちらかというとやはり多氏の系統色がとても強いので、息栖神社がその象徴なのかもしれない。
息栖神社の現在の祭神は岐神(ふなどのかみ)・天神船神・住吉三神である。
息栖神社で芭蕉が読んだ句「この里は 気吹戸主の 風寒し」などということの意味もなんとなく気になってくる。
気吹戸主とはイザナギが黄泉の国から戻った時、けがれたものを清め流したその流れから生まれたのが気吹戸主とされる。
このため何でも汚れを清めてくれるのだそうだ。
さて、現在のこの童子女の松原公園の場所に松林も整備され、像がおかれているが本来は銚子大橋の波崎側の入口近くにある手子后神社の場所がこの二人が会ったという場所なのでしょう。
また、神栖市のホームページを見ていたら市の名前の由来が載っていました。
現在の神栖市役所のすぐ近くに大きな池がありその場所は昔から現在に至るまで神の池と呼ばれていました。
今の池は干拓も進み昔よりはだいぶ小さくなっているようです。
また息栖神社のある息栖町から栖の字をとって「神栖(かみす)」となったそうです。
この神の池も調べて見ると現在の百里基地(小美玉市、旧小川町)が建設される前にこの神の池と大野原地区に自衛隊の軍用施設が建設される話が持ち上がり、大反対にあいました。
結局これが小川町の百里ヶ原に建設されることになり今の百里基地と茨城空港となっていったのです。
ここにも大きな反対運動があったと聞いています。
それぞれの土地には知らなければいけないことがたくさん眠っていますね。
大間の原発のことなど知らされなければいけない事柄も隠しているように感じてしまいます。
まだまだ新しい原発をいくら建設途中だからと言って建設をするなどということは福島の避難民などの心を踏みにじっています。
プルサーマルですから、MOX燃料を使いたいと言うただそれだけの気持ちが先にあるとしたらとんでもないことだと思います。
明日は手子后神社を紹介します。
手子后神社(神栖市)(1)
手子后神社(てごさきじんじゃ)は茨城県神栖市の銚子大橋の入口のすぐ近くにあります。

入口参道から奥に続いて拝殿が見えます。

入口に神社の説明があります。
「祭神は手子比売命(てごひめのみこと)。鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。
神護景雲年間(西暦七六七年)の創建と伝えられ、古くから息栖大洗両社と共に鹿島神宮の三摂社と称されている。
当社は漁師の信仰が厚く、鎮守祭には出漁しない習慣がある。この時期は大時化になることが多く、当社を信仰する漁師はこの習慣により難を免れた。以前は初出の漁船、また遠隔地へ行かれる漁船は必ず利根川の明神下まで船を進め、その無事を祈って船出した。」
そして「童子女(うない)の松原」の説明があります。こちらでは「うない」とフリガナがふられています。
その最後に「手子比売命と海上の安是(あぜ)の嬢子(いらつめ)とは同一神なりとの説もある」と書かれています。
少し内容をまとめてみると、この神社は「手子比売命」を祀った神社であり、この手子比売命は鹿島神宮の祭神である武甕槌(たけみかづち)大神の娘であるとされ、一説には常陸風土記に書かれた童子女の松原で古津松という松になったという安是の嬢子(女性の方)であるともいわれると書かれている。またこの神は同一であるかもしれないのだ。
どのように理解すればいいのだろうか。

場所が漁師町に近く江戸時代も波崎・銚子からは江戸へたくさん魚が運ばれていたのだから、この古社がいつのまにか漁業の女神を祀っているように思われていったものではないだろうか。
神栖市観光協会のホームページにはここの祭りについて
「毎年大潮祭は旧暦の6月15日に近い土・日曜日に執り行われます。
航海の安全や豊漁を祈る、海の男たちの祭りです。 初日夜の『宵宮』2日目の祭礼当日ともに神輿や鳴物が街中を練り歩きます。この日は波崎の漁船は出漁を止め大漁旗を飾り、乗組員は神社に参拝します。」
と書かれています。なかなか大きなお祭りのようだ。

狛犬もいい風情をしている。


神社拝殿。創建の年代が書かれている。
この年代にはすでに常陸風土記は編纂されていたのだから、あとからこの神社を建てる何かの力が働いたのか?
もっとも神社の創建年代などはあまりあてになるものは少ないが・・・。

こちらが本殿。

明日に続きます。
← よろしければクリックお願いします。

入口参道から奥に続いて拝殿が見えます。

入口に神社の説明があります。
「祭神は手子比売命(てごひめのみこと)。鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。
神護景雲年間(西暦七六七年)の創建と伝えられ、古くから息栖大洗両社と共に鹿島神宮の三摂社と称されている。
当社は漁師の信仰が厚く、鎮守祭には出漁しない習慣がある。この時期は大時化になることが多く、当社を信仰する漁師はこの習慣により難を免れた。以前は初出の漁船、また遠隔地へ行かれる漁船は必ず利根川の明神下まで船を進め、その無事を祈って船出した。」
そして「童子女(うない)の松原」の説明があります。こちらでは「うない」とフリガナがふられています。
その最後に「手子比売命と海上の安是(あぜ)の嬢子(いらつめ)とは同一神なりとの説もある」と書かれています。
少し内容をまとめてみると、この神社は「手子比売命」を祀った神社であり、この手子比売命は鹿島神宮の祭神である武甕槌(たけみかづち)大神の娘であるとされ、一説には常陸風土記に書かれた童子女の松原で古津松という松になったという安是の嬢子(女性の方)であるともいわれると書かれている。またこの神は同一であるかもしれないのだ。
どのように理解すればいいのだろうか。

場所が漁師町に近く江戸時代も波崎・銚子からは江戸へたくさん魚が運ばれていたのだから、この古社がいつのまにか漁業の女神を祀っているように思われていったものではないだろうか。
神栖市観光協会のホームページにはここの祭りについて
「毎年大潮祭は旧暦の6月15日に近い土・日曜日に執り行われます。
航海の安全や豊漁を祈る、海の男たちの祭りです。 初日夜の『宵宮』2日目の祭礼当日ともに神輿や鳴物が街中を練り歩きます。この日は波崎の漁船は出漁を止め大漁旗を飾り、乗組員は神社に参拝します。」
と書かれています。なかなか大きなお祭りのようだ。

狛犬もいい風情をしている。


神社拝殿。創建の年代が書かれている。
この年代にはすでに常陸風土記は編纂されていたのだから、あとからこの神社を建てる何かの力が働いたのか?
もっとも神社の創建年代などはあまりあてになるものは少ないが・・・。

こちらが本殿。

明日に続きます。


手子后神社(神栖市)(2)
茨城県神栖市の銚子大橋に近い場所にある手子后(てごさき)神社の紹介の続きです。
この神社と息栖神社、大洗磯前(いそさき)神社が古くは鹿島神宮の三摂社と言われていたとの記述もありが、現在の鹿島神宮の摂社には息栖神社をのぞいて入っていない。
大洗磯前神社の祭神は大己貴命(=大国主)と少彦名(すくなひこな)である。少彦名命 はこの大洗磯前神社と対をなす酒列磯前(さかつらいそさき)神社に祀られている神の分身である。
昔の地形を考えると大洗の方は鹿島郡で酒列の方は仲(那賀)の国造の土地であるようだ。

この手子后神社にはたくさんの境内社があるようだ。
入口の鳥居のすぐ近くに「厳島神社」がある。

それほど大きくはないが、当然安芸国(広島県)一宮である厳島神社から分霊されたものであろう。

その少し先の反対側には小山の上に社があり「浅間神社」が置かれている。江戸時代頃の富士山信仰の表れなのか。

その隣はキツネ像が置かれているので稲荷神社?、その隣が「天神さん」(菅原道真?)、「琴平宮」(海上安全?)となっています。

その隣に「大師堂」と書かれた門柱のある場所があります。
これは弘法大師を御まつりしているようですのでお寺です。
ここに寺があったのでしょうか。明治になってからの廃仏毀釈で寺が壊されたのでしょうか。

ここには古くからの信仰があった跡を見ることが出来ます。庚申塔などの三猿も良く残っています。
記録としても残しておきたいものばかりです。

ここも弘法大師の関連ですので四国八十八ヶ寺のそれぞれの仏像が置かれています。
これを拝むことで四国の霊場をお参りしたと同じ功徳が得られると信じられたのでしょう。

大きなものは弘法大師像でしょうか。

こちらは不動明王??
茨城県内の手子后神社は他に4カ所あると言うので今度少しずつ紐解いていきたい。
← よろしければクリックお願いします。
この神社と息栖神社、大洗磯前(いそさき)神社が古くは鹿島神宮の三摂社と言われていたとの記述もありが、現在の鹿島神宮の摂社には息栖神社をのぞいて入っていない。
大洗磯前神社の祭神は大己貴命(=大国主)と少彦名(すくなひこな)である。少彦名命 はこの大洗磯前神社と対をなす酒列磯前(さかつらいそさき)神社に祀られている神の分身である。
昔の地形を考えると大洗の方は鹿島郡で酒列の方は仲(那賀)の国造の土地であるようだ。

この手子后神社にはたくさんの境内社があるようだ。
入口の鳥居のすぐ近くに「厳島神社」がある。

それほど大きくはないが、当然安芸国(広島県)一宮である厳島神社から分霊されたものであろう。

その少し先の反対側には小山の上に社があり「浅間神社」が置かれている。江戸時代頃の富士山信仰の表れなのか。

その隣はキツネ像が置かれているので稲荷神社?、その隣が「天神さん」(菅原道真?)、「琴平宮」(海上安全?)となっています。

その隣に「大師堂」と書かれた門柱のある場所があります。
これは弘法大師を御まつりしているようですのでお寺です。
ここに寺があったのでしょうか。明治になってからの廃仏毀釈で寺が壊されたのでしょうか。

ここには古くからの信仰があった跡を見ることが出来ます。庚申塔などの三猿も良く残っています。
記録としても残しておきたいものばかりです。

ここも弘法大師の関連ですので四国八十八ヶ寺のそれぞれの仏像が置かれています。
これを拝むことで四国の霊場をお参りしたと同じ功徳が得られると信じられたのでしょう。

大きなものは弘法大師像でしょうか。

こちらは不動明王??
茨城県内の手子后神社は他に4カ所あると言うので今度少しずつ紐解いていきたい。


手子后神社(石岡)と中津川(1)
神栖市の手子后神社は常陸風土記に書かれている童子女(うない)の松原の話に出てくる松になった女性(古津松)を祀っていると言われ、これが鹿島大神(タメミカズチ)の娘ともいわれているとされています。
この話を調べて見ると私の住む石岡市にも手子后神社があることがわかりました。
この神社は国の史跡にも登録されている東日本で2番目の大きさを持つ舟塚山古墳のある台地(中津川)と同じ所に建っていました。
現在6号国道のバイパス工事が行われているすぐ近くです。

神社は3つ並んで建っていますが、YAHOOの地図などでは真ん中のの手子后神社は名前が表示されていません。
場所は中津川の高台側の先端部分です。

右側のこの神社は「素鷲(そが)神社」

この神社の横には古い石像や平たい石板がゴロゴロしています。
この辺りも舟塚山古墳群の一角なのでしょう。古墳の石棺などの一部もありそうです。

この三猿が彫られた庚申塔などもなかなか珍しいですね。クリックすると写真は拡大します。


地図には神社の名前が見えませんが真ん中の神社が「手子后神社」です。「てごさきじんじゃ」ではなく「てごめじんじゃ」というようです。
この神社の祭神は童子女の松原に出てくる男女の霊(奈美松(なみまつ)例と古津松(こつまつ)霊)です。

この辺りに松林はありませんが、舟塚山古墳も昔は古墳の上は松林だったと聞いたことがあります。
今では古墳の上は木は全て伐採してきれいな芝生になっています。

一番左側は小さな社にとたんの屋根覆いをかぶせています。
梨ノ木稲荷神社です。

入口にはキツネ像が置かれています。お稲荷さんです。梨ノ木という名前も少し変わっていますね。
昔の梨は結構堅い実がついたようですのでどのような意味合いがあるのでしょうか。




神社のある場所は石岡市中津川字上ノ宮というようです。宮とはどういう意味でしょうか。
今日はまた銚子に行ったりして遅く帰ってきました。
調べる時間もないのでそのうちに何かわかったら書きたすかもわかりません。
← よろしければクリックお願いします。
この話を調べて見ると私の住む石岡市にも手子后神社があることがわかりました。
この神社は国の史跡にも登録されている東日本で2番目の大きさを持つ舟塚山古墳のある台地(中津川)と同じ所に建っていました。
現在6号国道のバイパス工事が行われているすぐ近くです。

神社は3つ並んで建っていますが、YAHOOの地図などでは真ん中のの手子后神社は名前が表示されていません。
場所は中津川の高台側の先端部分です。

右側のこの神社は「素鷲(そが)神社」

この神社の横には古い石像や平たい石板がゴロゴロしています。
この辺りも舟塚山古墳群の一角なのでしょう。古墳の石棺などの一部もありそうです。

この三猿が彫られた庚申塔などもなかなか珍しいですね。クリックすると写真は拡大します。


地図には神社の名前が見えませんが真ん中の神社が「手子后神社」です。「てごさきじんじゃ」ではなく「てごめじんじゃ」というようです。
この神社の祭神は童子女の松原に出てくる男女の霊(奈美松(なみまつ)例と古津松(こつまつ)霊)です。

この辺りに松林はありませんが、舟塚山古墳も昔は古墳の上は松林だったと聞いたことがあります。
今では古墳の上は木は全て伐採してきれいな芝生になっています。

一番左側は小さな社にとたんの屋根覆いをかぶせています。
梨ノ木稲荷神社です。

入口にはキツネ像が置かれています。お稲荷さんです。梨ノ木という名前も少し変わっていますね。
昔の梨は結構堅い実がついたようですのでどのような意味合いがあるのでしょうか。




神社のある場所は石岡市中津川字上ノ宮というようです。宮とはどういう意味でしょうか。
今日はまた銚子に行ったりして遅く帰ってきました。
調べる時間もないのでそのうちに何かわかったら書きたすかもわかりません。


手子后神社(石岡)と中津川(2)
石岡市の中津川は高浜と石岡市内のちょうど中間部分に当たる。
古代の地形を考えると流れ海(現霞ヶ浦)を通って常陸国府(現石岡)に来ようとした時に舟でこのあたりに上陸したのかもしれない。
しかし、舟塚山古墳、愛宕山古墳などは結構高台にあり、この流れ海にの水面まで崖が続いているような地形である。
いままでこの崖下の道は車で何度も通ったが、この中津川の上の台地を散策した事が無かった。

思っていたよりも住宅が広がっている落ち着いた場所で、大きな家が多い。

庭に植えられたボケの花が美しいのでおもわず写真におさめさせてもらった。
もっとも野に咲く木瓜はもっと小さく地を這うように咲く。
子供の頃に過ごした武蔵野の林などではたくさん咲いていた。

白モクレンの花も品があって美しい。
でも少しすると花はだらしない姿となって地に落ちる。

高台から少し下った道沿いに中津川公民館がある。

この公民館に瓦屋根を持つ小屋風の建物が3つならんでいた。
一番左が「子安神社」真ん中は「???観音堂」、一番右は「花蔵院」と書かれていた。
これらは、この辺りにあったものをここに集約したのだろう。

今この近くを6号国道のバイパスが通ろうとしている。
通りにぶつかる家はほとんど壊されている。何処に移ったのだろうか?

うっそうとした谷部分に道路建設の開発が進む。
この地区は確かに古墳地帯で何処まで調査が終わっているのだろうか。
上の通り沿いには古代官道の跡が見つかり道路に架かる部分は発掘調査が実施された。
ただこれらの家の土台の下などは何も調査された跡はない。
神栖市の手子后(てごさき)神社とこちらの神社との関連はわからないが、茨城県に残された手子后神社はどうも古墳時代の民俗的な何かのつながりがありそうに思う。
この舟塚山古墳はだれの墓なのか? 茨城国造?
今後、時間を見てあと3か所を廻って見なければならないだろう。
← よろしければクリックお願いします。
古代の地形を考えると流れ海(現霞ヶ浦)を通って常陸国府(現石岡)に来ようとした時に舟でこのあたりに上陸したのかもしれない。
しかし、舟塚山古墳、愛宕山古墳などは結構高台にあり、この流れ海にの水面まで崖が続いているような地形である。
いままでこの崖下の道は車で何度も通ったが、この中津川の上の台地を散策した事が無かった。

思っていたよりも住宅が広がっている落ち着いた場所で、大きな家が多い。

庭に植えられたボケの花が美しいのでおもわず写真におさめさせてもらった。
もっとも野に咲く木瓜はもっと小さく地を這うように咲く。
子供の頃に過ごした武蔵野の林などではたくさん咲いていた。

白モクレンの花も品があって美しい。
でも少しすると花はだらしない姿となって地に落ちる。

高台から少し下った道沿いに中津川公民館がある。

この公民館に瓦屋根を持つ小屋風の建物が3つならんでいた。
一番左が「子安神社」真ん中は「???観音堂」、一番右は「花蔵院」と書かれていた。
これらは、この辺りにあったものをここに集約したのだろう。

今この近くを6号国道のバイパスが通ろうとしている。
通りにぶつかる家はほとんど壊されている。何処に移ったのだろうか?

うっそうとした谷部分に道路建設の開発が進む。
この地区は確かに古墳地帯で何処まで調査が終わっているのだろうか。
上の通り沿いには古代官道の跡が見つかり道路に架かる部分は発掘調査が実施された。
ただこれらの家の土台の下などは何も調査された跡はない。
神栖市の手子后(てごさき)神社とこちらの神社との関連はわからないが、茨城県に残された手子后神社はどうも古墳時代の民俗的な何かのつながりがありそうに思う。
この舟塚山古墳はだれの墓なのか? 茨城国造?
今後、時間を見てあと3か所を廻って見なければならないだろう。

