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玉崎神社(3)-天の石笛

 今日も真夏日というより猛暑日で真夏本番みたいでした。
ここ土日は2週にわたって何処にも出かけずに家の中でノンビリしていました。
それでも昼間は汗が噴き出してきます。
ブログの記事はすこしずつ調べながら今までのものでしばらく繋いで行きます。

最近のブログのアクセス数(ページビュー)が増えて来ていてここ1週間の平均が350件に達しました。

何処を読んでくれているのか不思議ですが、もし気にいっていただけた記事などがあれば拍手などいただけると嬉しく思います。

 さて、先日訪れた九十九里浜北端の飯岡の玉崎神社の記事の続きです。

今日はこの神社にあった天の石笛(あまのいわぶえ)についてです。

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旭市指定文化財 天の石笛
        附 霊石(子宝石)三十五個
        附 石笛        八個
 この石笛は、享保3年(西暦1718年)頃、漁師の網にかかり奉納されたもので、石質は飯岡石(凝灰質砂岩)です。
頭部に直径30㎝深さ40㎝の溝穴があり、側面にも穴があって、風が吹き込み、妙音がした。
 漁師は、この音によって出漁を占い、霊石として祭祀されています。(現地の看板)

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江戸時代の国文学者(神学者)平田篤胤が40歳くらいのある時、不思議な笛を得る夢を見たという。 そして1815年(文化12年)4月に東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)参りの旅に出た。

そしてその帰りに立寄った銚子の神社で、夢に見た笛とそっくりな石が 神社に奉納されているのを見つけた。

それは近くの海岸にあった不思議な石を神社に奉納したものであったが、それをなんとか譲り受けることが出来、その石に「天の石笛(あまのいわぶえ)」と名付けた。

それが今、渋谷の平田神社に残っている。 (篤胤の弟子が著した『天石笛之記』に書かれている)
(こちらに写真があります。でも似ていない?)

この石笛は風が吹き込むと妙なる音を発するので、この音の変化によって、当時の漁師は明神様が漁況を神示せて下さるのだと畏んだのである。

浜の漁夫たちに伝えられ、それからは、【石笛がなると海が荒れる】という漁夫たちの言い伝えとなり昔話として今に語られている。

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夜に風雨が荒れた翌朝、源助という漁師が飯岡の浜(五の浦)で海を渡ってくる風の音に混じって澄んだ笛の音を聞いた。そしてその日は海はきれいであったが途中から大荒れになり命からがら逃げかえった。
その夜に枕元に妙見様があらわれ、「笛は天の石笛といって海が荒れるのを知らせているのだ」と告げた。
これから「石笛が鳴ると海が荒れる」と言い伝えられるようになり、石笛を奉納するようになった。
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 玉﨑神社の石塁(石垣)
 この石塁は、17世紀中期の築造と推定され、飯岡石(凝灰質砂岩)で造成されている。
この石は、海中より産出されたもので、飯岡の寄石といって明神様の御利益によるものと考えられていた。
(神社HP)

平田篤胤はこの頃のこの神社とこの石の関係を「石笛の記」の中で、

「玉ヶ崎の寄り石とまをすは、此の浜に寄り集る石にて、よのつね人の一つもとれば神のとがめあり、年毎の正月十五日より二十日までの六日間のみ、別当その石を売るならひなるを、近き村々より買い取りて屋根のしずめ石にもおき、石垣にも用ふるなり。行き来見給ふべし」

と述べているが、その後に多くの石が持ち去られたようです。今ではあまり見つからないとのことです。

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旭市 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/01 17:21

玉崎神社(4)-平田篤胤

 昨日の「天の石笛」で平田篤胤の事を書きましたが、神社の境内に平田篤胤の歌碑が置かれています。
その場所が変っています。

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何処に置かれていると思いますか?

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磐楠(いわくす)に 常磐(ときわ)の松の より副(そ)ひて
   千世を契りし ことの畏(かしこ)さ

 この歌は、夫婦木と称し、楠の大樹に松の木がくっついた御神木を、文化13年(西暦1816年)5月、篤胤が当神社に参詣した際に仰ぎ見て、たいそう感激され、これは御神威によるところであると詠んだものです。

この歌碑は歌に詠まれている楠の大樹のご神木が倒れて無くなった後に門人たちが建てたと言われていますが、この神社本殿の真後ろです。
周りを飯岡石の塀が取り囲んでいますが、本殿の真後ろは後戸の神のいる場所だと思うのですが・・・・。

この神社は平田篤胤もご神体として祀っているのかもしれません。

歌碑などは境内にはよくありますが、本殿の真後ろの真ん中に置かれているのは始めて見ました。

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この神社は平田篤胤もご神体として祀っているのかもしれません。

歌碑などは境内にはよくありますが、本殿の真後ろの真ん中に置かれているのは始めて見ました。

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神社拝殿入口の石鉢も六角形です。これも神道の関係なのでしょうか。
こんなところも気になります。

この平田篤胤が天狗小僧寅吉の事を書いた「仙境異聞」に書かれた笠間市(愛宕神社裏の)飯綱神社の十三天狗の祠が守っている本殿は六角形であり、のっている台座も亀の甲羅をかたどった六角形の石の上です。
(記事はこちら

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旭市 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/02 20:15

玉崎神社(5)

 玉崎神社(千葉県旭市飯岡)の5回目です。

この神社は元々は現在の位置より数km海寄りにあり、海の安全を祈願する(日本古来の神道である)明神様として慕われてきたようです。

そして時代時代で時の支配者なども参拝、寄進などをして武運を祈ってきたりもしたようです。
それはこの地元が九十九里の漁場として栄え、人の交流が生まれ江戸との交流も盛んになって発展してきたのでしょう。

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昭和天皇のお歌が境内に置かれています。
このような歌をじっくり読むこともあまりないのですが、この場所にくると何か感じるものがあります。

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石岡のお祭り中日に常陸國総社宮にて披露された「浦安の舞」(2008年9月撮影)

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 大漁稲荷神社

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三峯神社

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八重垣神社

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竹久夢二文学碑

「九十九里にて」と題し1907年5月に讀賣新聞に連載され、当神社の「大銀杏に夕日がかかり云々」と、飯岡を訪ね、人情の厚い浜のことが書かれている。(神社HP)

竹久夢二の碑は「宵待ち草」の歌(待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな)のイメージが強く、この詩を書いたとされる銚子犬吠崎、九十九里町にも文学碑が建てられている。

また銚子の対岸にあたる茨城県波崎港近くの公園にも句碑があった。(こちら

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旭市 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/03 20:50

玉崎神社(6)-飯岡助五郎

 玉崎神社最後の記事です。少し長すぎましたね。

やはりこの旭市飯岡の地は飯岡助五郎を抜きには語れないようです。

天保水滸伝では笹川繁蔵と飯岡助五郎の縄張り争いで大利根川河原での決闘が有名で、この飯岡助五郎は悪人のような描かれ方をしていますが、実際はそんなこともないようです。

ここに来る前に東庄町の笹川にも寄ってきましたが、町おこしに「天保水滸伝」が使われ、大分活況を呈していました。
パンフレットなどもたくさん作っって天保水滸伝巡りなどの観光ツアーも組まれていました。
これも去年あたりから熱心になり始めたようです。
こちらの飯岡はそれに比べると静かです。

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「飯岡助五郎の碑」

飯岡助五郎(石渡助五郎)は現在の神奈川県横須賀に生まれた。
力自慢で友綱部屋の親方に見込まれて相撲取りになったが親方の死で1年程で力士を止めこの九十九里が地引き網漁で賑わっていたためにここ飯岡にやって来て漁師となった。

この玉崎神社の角力(相撲)でその力を発揮し、またならず者などをやっつけて名を上げた。

そしてこの辺りで縄張りを持っていた銚子の五郎蔵から縄張りを譲り受け網元としても成功して大親分になっていった。

この飯岡の復興発展にも尽力し、十手も預かる身となった。

笹川繁蔵との勢力争いについてはまた書く事もあるかもしれないが、地元では助五郎の悪い話は聞かず慕われているようだ。
また、海難事故で漁師が380人も亡くなった時に、生まれ故郷の三浦の方からたくさんの男衆を移住させこちらの漁を守ったとの話もある。
今回の東日本大震災でも7人が津波で犠牲になったと言うが、江戸時代も大量の被害が出たようだ。その時に護岸工事なども積極的にやって村の人から慕われてきたという。

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神社の力比べの石? 石って見た目よりずっと重いのですよね。
飯岡助五郎が使用人にこの石を持ち上げさせてその高さで賃金を決めたと言われているようです。(重さ225kg)

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助五郎稲荷神社?

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玉崎神社入口鳥居の前に「座頭市物語」の碑が立っていた。

子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した『座頭市物語』はこの近くの宿「鹿島屋」さんで書いたそうだ。
映画の原作というものだが、映画の方は勝新太郎のかなり個性を入れて創作されている要素が多そうだ。

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旭市 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/04 21:48

みちの駅 多古

 千葉県も銚子から旭市まで進出して見て歩いていたらどうしても匝瑳市や多古町へ足をのばしたくなりました。
茨城県の古代の歴史などを紐解いていたのですが、こちらに来るとまた見えてくる景色が大分違ってきます。

これから少しずつ調べてわかることから紹介して見たいと思います。
でも少し距離が遠くなり何度も行くこともできそうにありません。

昨日は午後から銚子で仕事があり、午前中早めに家を出て香取市から匝瑳市の方に車を走らせました。

そしてまた例によって気になった寺などを見物して多古町に出ました。

この多古町は古代に興味のある方には面白いところです。
ただ調べることも多くてなかなか理解が出来ません。

どこかで昼食もゆっくりしようと思っていたのですが、まったく時間が無くなってしまいました。
どこかコンビニにでも立ち寄ろうと思っていたら「道の駅多古」がありました。

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この多古町は北が成田空港に近いのでこの道の駅の食べ物なども成田空港にも出しているようです。

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多古町は多古米がブランド化されて知られていますが、歴史的にもとても古くから栄えたところです。

古墳なども多く、5000年から1300年前くらいの丸木舟がたくさん出土していて、日本で見つかっているほとんどがこの地域に集中しているようです。

また総国の中心ともなり、この栗山川より東が下総(しもうさ)国、西が上総(かずさ)国です。
昔の匝瑳(そうさ)郡は物部小事(もののべおごと)が坂東を平定したので褒美に朝廷からこの地をもらったものです。(6世紀前半?)
多古町も恐らく昔はこの匝瑳郡でしょう。

そして物部氏は香取郡から常陸國信太郡あたりまで進出しているようです。

常陸国を中心に見ていたので蝦夷征伐にいった坂上田村麻呂がこの栗山川をさかのぼって香取海(現利根川、霞ヶ浦)を渡ったということはあまり考えてきませんでした。

そうするとこの九十九里には舟でやってきたのでしょうか。またどこを通ってきたのでしょうか。
その前に時期には蝦夷の地には日本海周りで秋田から侵入したルートなどもあったようです。

ただ、この近くに田村麻呂が通ったとする足あとが残されているのです。またこれらも調べて見たいと思います。

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この道の駅のすぐ裏に「栗山川」が流れています。遊覧船の乗り場がありました。

多古町というのも変わった名前です。
この名前の由来については調べて見るといろいろな説があります。

1)湖が多いところという意味「多湖」、
2)古くから栄えた村が多くあったという「多古」、
3)田んぼが多い(稲作が早くから始まった)という「田子」、
4)朝鮮から渡ってきた文明の進んだ部族がすみついた場所という「多胡」
5)アイヌ語でタップコップ(多武古武)=小さく盛り上がった丸い形の意味。

私としては5)のアイヌ語説が一番ですね。海の蛸頭が丸い、昔の凧も丸かったようだし、愛宕山も丸い山に付いている名前だと考えられるし、耳にタコが出来るっていうのも皮膚が丸く盛り上がった状態からペンダコなどと同じ言葉の由来と考えると納得できる。皆さんはどのように考えますか?

これって漢字でその言葉の由来の考えると古い地名はまず失敗します。

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道の駅は大きな建物が2つあり、一つはレストランや休憩施設。
もうひとつが、特産品やお弁当などを売っている売店です。

多古米もありましたがおにぎりや弁当などの種類も多くて面白かったです。
今回は時間が無かったので簡単な昼飯をかいました。

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「山菜いなりおこわ」(365円)、「厚焼きたまご焼き」(250円)合わせて615円でした。
美味しかったですよ。
卵焼きは他にもいろいろな巻き寿司などもあってあまりおいしそうなのでシンプルな安いものを一つ買ったのです。
(味付けもシンプルでした。)



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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/05 21:00

土浦・つくば合併勉強会

 とうとう梅雨入りですね。今日はつくば市と土浦市が合併するかもしれないと言う話です。

昨年つくば市の市原市長が中核都市構想を打ち出し、土浦の中川市長に合併協議の打診がありました。
中川市長もまだ時期尚早と思ったのか積極的な反応はなかったそうですが、年末になり両者が打ち合わせを行い、合併に向けての勉強会の設置が決まりました。

すると今年2月になり、あわてたこの合併の影響を受けるかすみがうら市、石岡市、守谷市、つくばみらい市の4つの市がこの勉強会に参加の希望を表明しました。
元々守谷市やつくばみらい市などは牛久市などとこの合併に反対を唱えていたのですが、このままでは埋没してしまうとの危機感を抱いたようです。

わが石岡市はあまり聞こえてきませんが、やはり一大中核都市が出来ると、水戸側に向くのかといわれれば今は中間的な位置にいますが、これからは県南地区としてまとまった方がメリットがあるに決まっています。
すぐ近くの茨城空港などでは乗り遅れと思われるような状況ですが、やはり乗り遅れるわけにはいかないでしょう。

まず3月の第一回の合併勉強会でこれらの4つの市の参加問題が協議されました。
そして次回から市職員のオブザーバーとしての参加が認められました。

オブザーバーですので意見を言うことはできません。
しかし、勉強会の内容は非公開のようですので、オブザーバーでも参加をしておかないと動きが見えてきません。

これからの動きに注目しています。

ネットの情報では明らかに土浦市の方は反対意見が多いように思います。
もちろん石岡なども昔から住んでおられる方はあまり積極的ではないと思います。

でも全国の地方都市が埋没していく中で発展するのはこのような中核都市に期待したいと私は思っています。
難しい問題だと思いますが、先日発表された将来消滅する可能性のある市の中にしっかりと石岡市も入っておりました。
その中のレベルではまだ良い方でしたが、人口約36万人のつくば・土浦都市と数キロ遠い人口7万8千人の石岡市が埋没していくのを黙って見てはおられません。

石岡市の人口も平成の大合併後6年間で約81900人から4%以上減っています。

今回の合併に石岡市が加わらないとしても、霞ヶ浦と筑波山を一体にしたおおきな自然遺産の中核として科学技術や歴史遺産も大切にした地域の発展のためにどのような方向が必要なのかを考えていく良いチャンスと考えています。

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地域振興 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/06 18:21

栗山川ふれあいの里

 「道の駅 多古」から栗山川をさかのぼってみるとどんな景色が見えてくるのでしょうか?

千葉県内のみを流れる川で流域面積が2番目に大きな川といいますがそれ程の河川ではありません。
ただ昔の地形を予想するとこの川は玉の浦(九十九里浜)つながる内海のようなかなり広い面積を占めていたようです。

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これはFloodMapsで海面高さを+5mした地図です。
栗山川は九十九里浜にいまは屋形あたりで注いでいますが、少し前までは海岸線に沿って内側に流れがあり、大分先の方で海に注いでいたようです。

ここが注目されるのはこの川で上総と下総が分かれると言うこと、また縄文時代の遺跡も多いのですがその後の稲作文化などが早くから開けたらしい事、平家の祖である高望王が上総介としてやって来た時にこの川の河口に近い横芝光町屋形近くに政務所を置き、またその次男の良兼(国香の弟)が上総介として住んでいたらしい事などがあげられます。

しかし、この川の名前が「栗山川」なのですが、栗(くり)は「句麗」から来た名前ではないかともいわれ、早くから朝鮮からの渡来人が多く住み稲作を始め、丸木舟の漁が盛んであった跡がみられることなどに興味がわきます。

北海道夕張郡栗山町のホームページを見ると「栗山」の名前の由来はヤムニ・ウシ(栗の木・多いところ)から来ていると載っています。
こちらの栗山川も言葉の由来が似ていることも考えられます。

川沿いに食糧となる栗の木が多い場所だったのかもしれません。
そんなことをあれこれ想像するのも楽しみの一つです。
答えはきっと一つに絞ることは出来ないでしょう。でも考えて見ることが楽しいではありませんか。

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川をさかのぼると旧「栗源(くりもと)町」に「栗山川ふれあいの里」という公園があります。
栗山川の源という意味でついた名前かもしれませんが、川はここで二股に分かれます。
この公園の中を流れるのは少し細い支流の方です。

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栗源町は人口5000人くらいの比較的小さな町でした。
明治22年の町村制施行から村から町に変わっただけで月日も分裂もしてこなかった数少ない町です。

平成の大合併で佐原市、小見川町、山田町と合併して香取市になりました。

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この公園の入口から入って広場の入口に大きなモニュメントの塔が立っています。
この塔にこの町の思いが刻み込まれていたのです。

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なかなかきれいな塔だと思い近づいてみました。

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すると、何か一つ一つのセグメントに何か書かれています。いくつあるのでしょうか。
一つ一つの小さなブロックに絵や文字が書かれています。
恐らく町民が子供たちと一緒になって陶板一つ一つに思いを書き、焼いてこのモニュメントのピースとして飾ったのでしょう。
「きっとこの町を忘れない」との思いが込められているように思いました。

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ここ栗源(くりもと)町の特産は「ベニコマチ」という赤紫色のサツマイモだそうです。
サツマイモの胴体に栗の頭をしたゆるきゃら「クリちゃん」は20年ほど前から始めているそうで、全国ゆるきゃらブームの大ベテランだそうです。

この旧栗源町の少し東側に地図には「大塚古墳」と史跡名勝のマークもついています。

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地図を頼りに行ってみましたが、何も書かれたものが置かれていません。
でもこの場所でよさそうです。 円墳です。
この古墳の上に小さな祠が置かれています。
調べて見るとまだ発掘調査はされていないようです。

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麓の「大畑公会堂」と書かれた建物がありました。この建物の裏側です。
あとから建物を建てたので古墳への登り口が隠れてしまっているようです。

縄文時代から古墳時代に平安時代などの遺物が何気なく眠っていそうなエリアでした。




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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/07 20:12

小町庵

 昨日は朝から雨が降り、小降りであったり激しくなったりを繰り返して一日中雨でした。

午前中に風の会の会報の印刷をして配布のために数カ所を廻りました。
瓦会の「まんまや」さんは息子さん(クラリネット奏者)のコンサートでお店もお休みでした、そこで次に向かった土浦市の小町の里に会報を置かせてもらい、久しぶりに中にある蕎麦処「小町庵」さんに入りました。

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この小町の館は昨年末から今年春先まで新装工事をしておりとてもきれいになりました。
昼食時間としては少し時間も遅かったのですがこの日(土曜日)もお客さんの姿がほとんどありませんでした。
4~5人の方が厨房におられましたが、お客さんはただ一人。

お話を聞いてみると今日は特に少ないそうで、この外の雨がこんな具合だとお客さんも来ないですよね。

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お蕎麦は常陸秋そばを毎日石臼で挽いているそうです。
そば粉8に対して繋ぎの小麦粉2のいわゆる二八蕎麦です。

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天もりそば 870円(税込) です。 見た目より結構ボユームがありました。
美味しいそばに揚げたての野菜天ぷらとても美味しかったです。

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窓の外は雨にけぶる田んぼと筑波山から延びる尾根です。
私はこのような窓枠(間戸)から外の景色を見るのが好きです。

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この小町の里は小野小町が逗留してここで亡くなったとの伝承があります。
この山を越えたところが石岡市仏生地区で小町が訪れお参りしたと言う北向観音堂があります。
そしてこの山を越えたというので近くが「小野越」という地名がついています。

また近くに坂東三十三観音の二十六番札所「清滝寺」(こちら)があります。
二十五番は筑波山の大御堂(こちら)で次の二十七番目は銚子の飯沼観音(こちら)です。
銚子までは昔は舟なども利用して1日がかりで行ったようです。



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食事処 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/08 17:33

頭白上人塚

 佐原(香取市)の町から県道16号線(通称佐原八日市場線)を旧八日市場(匝瑳市)の方に進むと観福寺という大きなお寺があり(記事はこちら)、そのまま進むと大根という集落がある。

この少し先には香取神宮の摂社の一つである「返田神社」がある(記事はこちら)。

そしてもう一つこの大根集落には前に物部氏と出雲族の衝突した?「切手神社」があった(記事はこちら)。

このように2~3回はここを通っているのだが、この切手神社の近くに変わった物を発見した。
車で先を急いでいたのだが、通り沿いに市の史跡説明の1本のポールが立てられていて「頭白」という文字が飛び込んできた。

あわてて引き返してその看板を見ると「香取市指定史跡 頭白上人塚」とある。
あれ何でこんなところに頭白上人が・・・・?

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場所は来光というバス停の前で古墳のような(どうやら古墳らしい)小山がある。
その入口に上の説明看板がありわずかな広さの駐車場がある。
しかし、ここ駐車場はすぐ工務店さんの建物の入口になっている。

一応工務店さんもハウスギャラリーのような素敵な建物になっていて見物人も入れそうな雰囲気。

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上の説明によると。戦国時代始めに頭白上人(近くの西蔵院五世)がこの地に疫病がはやり大変苦しんだ。
この疫病や飢餓を何とか救おうと、ここに穴を掘って自らが即身仏?になった。

即身仏などというのは「相棒」などにも登場し他にも話には聞いていましたが現実問題としてその場所に遭遇したのは初めてです。

7日7夜鉦が地中から聞こえていたそうです。

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この入定塚の上に古い板碑が置かれています。

文明十八年(西暦1486年)の銘が入った大きな板碑です。(記録では入定したのはその3年前の1483年とか?)

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さて頭白上人はご存知でしょうか? 茨城県のお寺などを廻っていると時々名前を見かけることがあります。

一つは東海村の村松山虚空蔵堂。ここは弘法大師(空海)が徳一法師が作った筑波山の寺を整備して「知足院中禅寺」とした後、この地に等身座像(虚空蔵菩薩)を彫って安置したのが始まりとされています。

今では十三詣り(数え歳13歳にお詣りすると13番目に誕生したとされる虚空菩薩の知恵と福がさずかるとされる)が有名な場所です。
また虚空蔵尊は丑寅年生まれの人の守り本尊とされこれが13歳なのだとか。
でも丑虎は東北東で鬼門の方角です。

筑波山から見て村松山虚空蔵堂はまさに鬼門の方行に一致しています。
ここは屋根にまで牛と虎がいます。

この虚空蔵が戦火で焼け(1485年佐竹氏と岩城氏の戦い)、佐竹氏の信仰が厚いこの寺を1487年に頭白上人が再興したものと言われています。

上の入定して即身仏なった後にこの村松山虚空蔵堂を再建したことになりますから同じ人物なのかは疑問です。

もう一つは筑波山につながる一角(土浦市の北)で山が採石されむき出しの岩肌が大きく目立つ場所があります。
昔からこの石が貴重で業者による採石が進められています。
この採石場の東となりにある「金嶽神社」にとても大きな五輪塔が頭白上人が建てたとされるものです。(記事はこちら

この五輪塔は物凄く大きなもので頭白上人が母親の供養のために建立したもので、永正12年(西暦1516年)の銘あります。

まあ何処までが本当なのかは分かりません。

この頭白上人は生まれた時の伝説から死ぬ時、また生まれ変わりと数々の伝説が伝わっています。

もっとも有名なのが「飴を買う幽霊」の話です。

身ごもって臨月間近の女が殺された。そしてそのまま墓に埋められた(土葬)。
墓の中で赤ん坊が生まれ、女は幽霊となって冥土の駄賃六文銭を使い毎晩一文銭で飴(団子という話もある)を買いに現われた。
そしてとうとう六文を使い果たし寂しく帰っていった。
その姿を見た飴屋が後をついていき墓と赤ん坊を発見した。

その時に墓から助けられた赤ん坊がそののちに有名な高僧になった。
生まれた時から髪の毛が真っ白だったので頭白上人と呼ばれた。

この頭白上人がこの殺された母親を供養するために建てたのが上で紹介した五輪塔です。

もう一つは佐竹氏にまつわるお話です。
戦国時代に入り頭角を現してきた佐竹氏はつくば・土浦地方で勢力を持つ小田氏と勢力争いをしていた。

ある時この筑波山麓に近い石崎(この五輪塔のあるあたり)で頭白上人が説法をしていた。
そこに小田の殿さまが馬に乗って通りかかった。

そして馬に乗ったままこの説法を聞いていた。あまりの態度が無礼であったので頭白上人は小田の殿様に「こんな非礼な者は天下の愚将と言わざるを得ない」というようなことを言ったとか言わなかったとか・・・

まあ、怒った小田の家臣たちがそこに集まっていた者たちを惨殺してしまった。
頭白上人もこれに憤ってその場で自ら命を絶った。

その後小田の敵である佐竹家(佐竹義重)に嫡男の義宣が生まれた(1570年)。
生まれた時にその手にしっかりと頭白上人の形見をにぎりしめ我は頭白上人の生まれ変わりだと言ったとか言わなかったとか・・・・。
そして1590年小田氏(小田氏治)を滅ぼした。

ここの佐竹氏が頭白上人を民衆に力を持つ伝説の人と捉えこの力を利用したと考えられますが、この小田氏治も最後まで佐竹氏の常陸統一を阻止した伝説の武将です。またここでは死なず、越前に移り1602年に没しました。

まあお話は尾ヒレがつきますので何処までが信用できるかどうかは読む人の勝手でもあり、まあ時代背景を推察するには良いエピソード程度に聞きながして下さい。



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香取神宮 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/09 19:18

トリオ3Sバンド

 本日石岡市の街中のみんなの広場2Fで「トリオ3Sバンド」という3人組のバンドの演奏会を行いました。

ドラム・ベース・キーボードをFのステージに持ち上げて「なつかしの歌声を唄いましょう」と題して共に歌い若き日に戻ったようだったそうです。

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3人組のバンドは県立フラワーパークでも時々演奏しています。

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 今回は2Fになんとかドラムを持ち上げましたが、大変だったようです。
次回はまた考えなくては・・・・
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地域振興 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/10 20:22
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