入梅いわしの天丼(銚子)
昨日は仕事で銚子に行ってきました。
昼飯に少し時間が無かったのですが、このブログ読者から勧めていただいた犬吠崎近くのホテルまでランチを食べに行ってきました。

今は入梅時期で銚子もイワシ(鰯)祭りをしているようです。
鰯天丼(800円+税)。イワシのつみれ汁付きです。
これはとても美味しいです。
イワシは小骨があって少し敬遠していたのですがまったく気にもならないしほとんどありません。
それにこの時期のイワシは脂が乗っていて本当においしいです。


ここは銚子犬吠崎のホテル「ぎょうけい館」です。
ホテルのフロントに行ってランチはやっていますかと聞くと、フロントで電話して大丈夫ですと確認をして案内してくれました。
立派なホテルの中を案内され素敵な部屋に案内されました。

ここは「潮騒」というレストランで、宿泊者と一般の人も空いていれば入れてくれるようです。
この日は宿泊客が1組3名、私1名、後からカップルが1組だけでした。
テーブルは7~8セット(4人かけ)くらいありました。

元々日本間で座って食べる方式だったようですが、最近テーブルと椅子を窓側に並べてそとの景色を見ながら腰かけて食べられるようにしたようです。

窓からの眺めはこのような犬吠崎の岩場と波。素晴らしい景色です。
比較的天気が良くて良かったです。

こちらがホテル「暁鶏(ぎょうけい)館」です。レストランは1階の真ん中あたりの窓側です。

教えていただかなければここに来ることは無かったと思います。感謝です。
ただ時間が足りなかったので急いで食べて戻ってしまいました。
もう少し海を見ながらのんびりできればよかったのですが、午後から打ち合わせなので残念でした。
昼飯に少し時間が無かったのですが、このブログ読者から勧めていただいた犬吠崎近くのホテルまでランチを食べに行ってきました。

今は入梅時期で銚子もイワシ(鰯)祭りをしているようです。
鰯天丼(800円+税)。イワシのつみれ汁付きです。
これはとても美味しいです。
イワシは小骨があって少し敬遠していたのですがまったく気にもならないしほとんどありません。
それにこの時期のイワシは脂が乗っていて本当においしいです。


ここは銚子犬吠崎のホテル「ぎょうけい館」です。
ホテルのフロントに行ってランチはやっていますかと聞くと、フロントで電話して大丈夫ですと確認をして案内してくれました。
立派なホテルの中を案内され素敵な部屋に案内されました。

ここは「潮騒」というレストランで、宿泊者と一般の人も空いていれば入れてくれるようです。
この日は宿泊客が1組3名、私1名、後からカップルが1組だけでした。
テーブルは7~8セット(4人かけ)くらいありました。

元々日本間で座って食べる方式だったようですが、最近テーブルと椅子を窓側に並べてそとの景色を見ながら腰かけて食べられるようにしたようです。

窓からの眺めはこのような犬吠崎の岩場と波。素晴らしい景色です。
比較的天気が良くて良かったです。

こちらがホテル「暁鶏(ぎょうけい)館」です。レストランは1階の真ん中あたりの窓側です。

教えていただかなければここに来ることは無かったと思います。感謝です。
ただ時間が足りなかったので急いで食べて戻ってしまいました。
もう少し海を見ながらのんびりできればよかったのですが、午後から打ち合わせなので残念でした。
飯高壇林跡(1)
この飯高寺(はんこうじ)(飯高壇林(いいだかだんりん)跡)は千葉県のブログ読者の方から勧めていただいたところです。
ここを訪れたのは6月の初めですからもう1カ月近く経ってしまいました。
少し他の記事が入ってしまい、まとめる時間がとれなくてついつい遅くなってしまいました。
麓の入口には「日本最古の大学」との大きな看板が出ています。
私がここを訪れ、そしてその近くの寺も廻って見てまず感じるのは日蓮宗のお寺が非常に多い事です。
当然千葉氏にまつわる妙見(みょうけん)神社・寺などもたくさんあり、茨城とは明らかに違います。
この飯高壇林も日蓮宗の修行者の学問所でした。
そしてそれが現在の「立正大学」に発展しました。
立正大学の設立は1924年(大正13年)ですが、その基になったのがこの飯高壇林で1580年(天正8年)だったのです。
この寺の広い敷地は緑が非常に多く、静かで落ち着いた雰囲気に満ちていました。
素晴らしいところです。お近くに行かれましたら立寄られたらいいと思います。
私に勧めて下さった読書の方にも感謝します。

飯高寺は山道を少し登ったところにありますが、麓に大きな駐車場がありそこから歩いて登りました。
案内板にしたがって登り、寺の敷地に沿って回り込むと飯高寺の大きな山門が緑の木々の間に現われました。

総門です。延宝8年(1680)に建立され、現在の門は天明2年(1782)に建て変えられたものです。

飯高壇林の説明は上の看板を読んでください。
ただ歴史的にはこの壇林が作られて発展するのにも色々な歴史もあったようです。
「おまんの方」などの庇護もあり関東八大壇林として発展してきたようです。
もう少し周りを見ながら歴史的なものは考えて見たいと思います。

少し進むと右手に「空堀跡」という立て札がありました。
この寺は1573年に匝瑳市飯塚の光福寺に学問所を要行院日統が開き、土地の有力者平山刑部が自分の城の近く「妙福寺」に学問所を移し、翌年にこの城の敷地内に(現在の地)に学問所を移したとあります。
この妙福寺は大きな下の駐車場近くにありましたのでまた後で紹介します。
やはりここには山城があったので当時の堀が残されているのでしょう。

「廟所」という立て札がありますが、木々の茂静かな林で、特にお墓などは目につきませんでしたが、奥に入っていけばあるのかもしれません。


一切経蔵(いっさいきょうぞう)。お経などをしまっておく蔵。
寛文12年(1672)に建てられ、天明2年(1782年)建て変えられた。古びたまま残っている。

立正大学発祥の碑

この後すばらしい講堂に目を奪われました。記事は明日に続きます。
← よろしければクリックお願いします。
ここを訪れたのは6月の初めですからもう1カ月近く経ってしまいました。
少し他の記事が入ってしまい、まとめる時間がとれなくてついつい遅くなってしまいました。
麓の入口には「日本最古の大学」との大きな看板が出ています。
私がここを訪れ、そしてその近くの寺も廻って見てまず感じるのは日蓮宗のお寺が非常に多い事です。
当然千葉氏にまつわる妙見(みょうけん)神社・寺などもたくさんあり、茨城とは明らかに違います。
この飯高壇林も日蓮宗の修行者の学問所でした。
そしてそれが現在の「立正大学」に発展しました。
立正大学の設立は1924年(大正13年)ですが、その基になったのがこの飯高壇林で1580年(天正8年)だったのです。
この寺の広い敷地は緑が非常に多く、静かで落ち着いた雰囲気に満ちていました。
素晴らしいところです。お近くに行かれましたら立寄られたらいいと思います。
私に勧めて下さった読書の方にも感謝します。

飯高寺は山道を少し登ったところにありますが、麓に大きな駐車場がありそこから歩いて登りました。
案内板にしたがって登り、寺の敷地に沿って回り込むと飯高寺の大きな山門が緑の木々の間に現われました。

総門です。延宝8年(1680)に建立され、現在の門は天明2年(1782)に建て変えられたものです。

飯高壇林の説明は上の看板を読んでください。
ただ歴史的にはこの壇林が作られて発展するのにも色々な歴史もあったようです。
「おまんの方」などの庇護もあり関東八大壇林として発展してきたようです。
もう少し周りを見ながら歴史的なものは考えて見たいと思います。

少し進むと右手に「空堀跡」という立て札がありました。
この寺は1573年に匝瑳市飯塚の光福寺に学問所を要行院日統が開き、土地の有力者平山刑部が自分の城の近く「妙福寺」に学問所を移し、翌年にこの城の敷地内に(現在の地)に学問所を移したとあります。
この妙福寺は大きな下の駐車場近くにありましたのでまた後で紹介します。
やはりここには山城があったので当時の堀が残されているのでしょう。

「廟所」という立て札がありますが、木々の茂静かな林で、特にお墓などは目につきませんでしたが、奥に入っていけばあるのかもしれません。


一切経蔵(いっさいきょうぞう)。お経などをしまっておく蔵。
寛文12年(1672)に建てられ、天明2年(1782年)建て変えられた。古びたまま残っている。

立正大学発祥の碑

この後すばらしい講堂に目を奪われました。記事は明日に続きます。


ブログ姉妹編「まほらの風にふかれて」
本ブログも休まず書き続けてあと1カ月で4年です。
カテゴリも増えてきましたので整理を始めたのですが、煩雑になってきました。
そこで本ブログはメインテーマは今まで通り埋もれた歴史などの掘り起こしを主体とし、その他の事柄をもう一つ別なブログで書いていくことにしました。
ブログタイトルはこちらとあまり変わらず「まほらの風に吹かれて」としました。
美しい風景、グルメ、イベント、言いたい放題など雑多な記事はそちら書いていきたいと思います。
ブログ(姉妹編)「まほらの風に吹かれて」もこれからよろしくお願いします。
カテゴリも増えてきましたので整理を始めたのですが、煩雑になってきました。
そこで本ブログはメインテーマは今まで通り埋もれた歴史などの掘り起こしを主体とし、その他の事柄をもう一つ別なブログで書いていくことにしました。
ブログタイトルはこちらとあまり変わらず「まほらの風に吹かれて」としました。
美しい風景、グルメ、イベント、言いたい放題など雑多な記事はそちら書いていきたいと思います。
ブログ(姉妹編)「まほらの風に吹かれて」もこれからよろしくお願いします。
飯高壇林跡(2)
日本最古の大学と書かれている千葉県匝瑳市にある飯高壇林跡。
今日は昨日の続きです。

題目堂。学問の昇級(新談義)試験に合格するように祈願したとされる場所。
18世紀頃の建築


鼓楼。学徒の招集をかける時に打ち鳴らした。
享保5年(1720年)建立。

講堂。国の重要文化財。
火災にあい、慶安4年(1651年)再建。
この方丈式の大講堂は実に立派です。これほど大きく存在感のある建物はめったにない。

講堂の入口にはスリッパも置かれていますので廊下には上る事が出来ます。
丁度見学者が2人来られていましたが、ここに座ると実に心地の良良い風が吹く気抜けます。
目の前の緑の木樹や鐘楼・鼓楼などを眺めながらゆっくりとした時を過ごしてみたい。
そんな思いでしたが時間も限られていましたのでしばし休憩してここを後にしました。

鐘楼。国指定重要文化財。
慶安4年(1651)頃建立?、寛文年間(1661年~1672)再建
鐘は寛永16年(1639)寄進されたもので江戸神田の鋳物師山田和泉掾吉貞の銘がある。


この飯高壇林には最盛期で600~800人の学僧が集まり、多くの名僧を輩出したと言われています。
この講堂に数百人も集まっていたのでしょうか。




とても気持ちの良い時を過ごすことが出来ました。また今度機会があれば期待と思います。
続いて下の妙福寺などを見に行きましたので飯高壇林の関連としてまとめます。
明日へ続く。
← よろしければクリックお願いします。
今日は昨日の続きです。

題目堂。学問の昇級(新談義)試験に合格するように祈願したとされる場所。
18世紀頃の建築


鼓楼。学徒の招集をかける時に打ち鳴らした。
享保5年(1720年)建立。

講堂。国の重要文化財。
火災にあい、慶安4年(1651年)再建。
この方丈式の大講堂は実に立派です。これほど大きく存在感のある建物はめったにない。

講堂の入口にはスリッパも置かれていますので廊下には上る事が出来ます。
丁度見学者が2人来られていましたが、ここに座ると実に心地の良良い風が吹く気抜けます。
目の前の緑の木樹や鐘楼・鼓楼などを眺めながらゆっくりとした時を過ごしてみたい。
そんな思いでしたが時間も限られていましたのでしばし休憩してここを後にしました。

鐘楼。国指定重要文化財。
慶安4年(1651)頃建立?、寛文年間(1661年~1672)再建
鐘は寛永16年(1639)寄進されたもので江戸神田の鋳物師山田和泉掾吉貞の銘がある。


この飯高壇林には最盛期で600~800人の学僧が集まり、多くの名僧を輩出したと言われています。
この講堂に数百人も集まっていたのでしょうか。




とても気持ちの良い時を過ごすことが出来ました。また今度機会があれば期待と思います。
続いて下の妙福寺などを見に行きましたので飯高壇林の関連としてまとめます。
明日へ続く。


飯高壇林跡(3)-妙福寺
立派な飯高壇林をみて、その歴史を調べて行くと少し気になるものがあった。
天正元年(1573)要行院日統(ようぎょういんにっとう)が光福寺(匝瑳市飯塚)に学室を開いた。
天正8年(1580)平山常時が寺域を寄進し、法輪寺を建立する。
天正8年(1580)京都妙泉寺(現涌泉寺)・教蔵院日生(きょうぞういんにっしょう)を迎え、光福寺の壇林を妙福寺に移す。
天正8年(1580)法輪寺・日尊は妙福寺の壇林を法輪寺に移す。
天正19年(1591)法輪寺を飯高寺と改称する。(家康から朱印30石を与えられる)
慶長元年(1596)飯高寺・日尊が飯高檀林を開檀する。
(Wikipedia等による)
どうも良く分からない。もう少し見て行こう。
教蔵院日生は元々は京都の天台宗の僧侶であったが東国から日蓮宗がもたらされ、日蓮宗に改宗した?
そして、京都洛北の松ヶ崎地区に日蓮宗派のため松ヶ崎檀林本涌寺を日生が1574年に設立した。
この松ヶ崎地区には歓喜寺という寺があったが、鎌倉時代末に日像が京都布教をおこないこの地区に広がった。
そしてその歓喜寺住職であった実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺とした。
(現在は妙泉寺と本涌寺が一体となって「涌泉寺」となっている)
飯高壇林の前身としても学問所は1573年に要行院日統が始めた。
教蔵院日生が洛北の松ヶ崎壇林を始めたのは1574年。ほぼ同一時期。
京はやはり学問の中心地であり、そこから教蔵院日生を千葉に迎えて光福寺の学問所を妙福寺に移し、飯高壇林が始まった。
そして同じ年に現在の平山氏の広大な場所に移された。まだよく分からないがまた少しずつ紐解けばよいだろう。
わずかな期間だがこの寺に学問所が置かれたのだろう。
最初にあったという光福寺というのはここより2~3km程東の飯塚地区です。

飯高寺(はんこうじ)は山の中腹にあるが、この(妙見山)妙福寺は麓の低い場所にあるが、裏手はスタジイなどの木々で覆われている場所です。

妙福寺は延慶3年(1310)に進藤太縦空が守護神として妙見尊を祀り建立したものです。
いまは日蓮宗です。

この寺もかなりの古刹で水戸光圀が訪れ、梅の木をお手植えになったが、その梅の木が枯れ水戸偕楽園から梅の木が贈られた。
境内に文和5年銘(1356年)の板碑が残っている。
正面のお堂が「妙見堂」です。

お堂の扁額は何と書いてあるのか?「北辰?」北極星? でしょうか。妙見堂とは書かれていない。





寺の手前は田が広がり、写真の右側の森はこの妙福寺の山門があるところで、その先の山の方に飯高寺(飯高壇林跡)があります。
この妙福寺の裏手の山(写真の反対側)の上に飯高神社があります。明日はそちらを紹介します。
← よろしければクリックお願いします。
天正元年(1573)要行院日統(ようぎょういんにっとう)が光福寺(匝瑳市飯塚)に学室を開いた。
天正8年(1580)平山常時が寺域を寄進し、法輪寺を建立する。
天正8年(1580)京都妙泉寺(現涌泉寺)・教蔵院日生(きょうぞういんにっしょう)を迎え、光福寺の壇林を妙福寺に移す。
天正8年(1580)法輪寺・日尊は妙福寺の壇林を法輪寺に移す。
天正19年(1591)法輪寺を飯高寺と改称する。(家康から朱印30石を与えられる)
慶長元年(1596)飯高寺・日尊が飯高檀林を開檀する。
(Wikipedia等による)
どうも良く分からない。もう少し見て行こう。
教蔵院日生は元々は京都の天台宗の僧侶であったが東国から日蓮宗がもたらされ、日蓮宗に改宗した?
そして、京都洛北の松ヶ崎地区に日蓮宗派のため松ヶ崎檀林本涌寺を日生が1574年に設立した。
この松ヶ崎地区には歓喜寺という寺があったが、鎌倉時代末に日像が京都布教をおこないこの地区に広がった。
そしてその歓喜寺住職であった実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺とした。
(現在は妙泉寺と本涌寺が一体となって「涌泉寺」となっている)
飯高壇林の前身としても学問所は1573年に要行院日統が始めた。
教蔵院日生が洛北の松ヶ崎壇林を始めたのは1574年。ほぼ同一時期。
京はやはり学問の中心地であり、そこから教蔵院日生を千葉に迎えて光福寺の学問所を妙福寺に移し、飯高壇林が始まった。
そして同じ年に現在の平山氏の広大な場所に移された。まだよく分からないがまた少しずつ紐解けばよいだろう。
わずかな期間だがこの寺に学問所が置かれたのだろう。
最初にあったという光福寺というのはここより2~3km程東の飯塚地区です。

飯高寺(はんこうじ)は山の中腹にあるが、この(妙見山)妙福寺は麓の低い場所にあるが、裏手はスタジイなどの木々で覆われている場所です。

妙福寺は延慶3年(1310)に進藤太縦空が守護神として妙見尊を祀り建立したものです。
いまは日蓮宗です。

この寺もかなりの古刹で水戸光圀が訪れ、梅の木をお手植えになったが、その梅の木が枯れ水戸偕楽園から梅の木が贈られた。
境内に文和5年銘(1356年)の板碑が残っている。
正面のお堂が「妙見堂」です。

お堂の扁額は何と書いてあるのか?「北辰?」北極星? でしょうか。妙見堂とは書かれていない。





寺の手前は田が広がり、写真の右側の森はこの妙福寺の山門があるところで、その先の山の方に飯高寺(飯高壇林跡)があります。
この妙福寺の裏手の山(写真の反対側)の上に飯高神社があります。明日はそちらを紹介します。


飯高壇林跡(4)-飯高神社(1/2)
飯高(いいだか)壇林跡、飯高寺(はんこうじ)とその麓に佇む妙福寺とみてきました。
そして千葉県に広がる妙見(みょうけん)信仰がここにも強く表れていました。
その妙福寺の裏手の山の上に「飯高神社」があるというので行ってみました。

長い苔むした階段を登ります。

かなり登ります。

山の上に神社の拝殿が見えました。建物は倒壊防止の支え棒が置かれています。

妙見の文字が・・・ この神社は下の妙福寺と密接な関係がありそうです。
神仏分離で建てられたものかもしれません。


手水石に妙見宮寶前と彫られています。

この拝殿は江戸時代後期の建物らしいと書かれています。
それよりは、この奥にある本殿が変っています。
こちらの本殿は見に行く価値が十分あります。

この神社全域で、NHKテレビ小説「ゲゲゲの女房」のロケ地になったそうです。
本殿については明日書きます。
ブログを2カ所に分けてしまったら結構大変です。
← よろしければクリックお願いします。
そして千葉県に広がる妙見(みょうけん)信仰がここにも強く表れていました。
その妙福寺の裏手の山の上に「飯高神社」があるというので行ってみました。

長い苔むした階段を登ります。

かなり登ります。

山の上に神社の拝殿が見えました。建物は倒壊防止の支え棒が置かれています。

妙見の文字が・・・ この神社は下の妙福寺と密接な関係がありそうです。
神仏分離で建てられたものかもしれません。


手水石に妙見宮寶前と彫られています。

この拝殿は江戸時代後期の建物らしいと書かれています。
それよりは、この奥にある本殿が変っています。
こちらの本殿は見に行く価値が十分あります。

この神社全域で、NHKテレビ小説「ゲゲゲの女房」のロケ地になったそうです。
本殿については明日書きます。
ブログを2カ所に分けてしまったら結構大変です。


飯高壇林跡(5)-飯高神社(2/2)
飯高神社の拝殿から本殿の方に回って見ました。そこには驚く光景が・・・。

拝殿裏の本殿には一般には外からは入れなくなっているのですが、こちらは脇から立派な彫刻を施した唐門がありました。

反対側にも門があります。片側しか開けていませんでしたが両側から本殿に参拝できます。

そして変わった狛犬が。

本殿にはたくさんの彫り物が描かれ、前面のかべもとても特徴のある模様が描かれています。

この本殿が造られたのは江戸中期の18世紀半ば。

本殿の周りもまた周りに囲まれた玉垣も多くの彫刻が施されています。
日本一多くの仙人に会える神社だと言うのです。

この彫刻類は一見の価値があります。
こんなところにこんな素晴らしい彫刻があったのかと目を見張ってしまいました。

これらの彫刻の内容はわからなかったのですが、中国の親孝行である「二十四考」が描かれているようです。

でも二十四考(にじゅうしこう)を調べて見ると手本にすべき24人の孝行の話は今から見るとおかしなものがたくさんあります。

「二十四孝」の仙人を彫刻してあるのは千葉では成田山新勝寺とここ飯高神社のみだそうです。
前に悪路王の面があると書いた城里町の鹿島神社の彫刻を思い出しました。
やはり二十四考が徳として伝えられた頃にこのような彫刻を施す神社が出来たのでしょう。
少し調べて見たい気もします。
(少しばかばかしい一部の話をのせます)
・呉猛(ごもう)(8歳):家は貧しく、蚊帳を買う金もなかった。呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。それを毎日続けると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺すことはなくなった。
・王祥(おうしょう):実母が冬の極寒の際に魚が食べたいと言うので河に行った。しかし、河は氷に覆われていた。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。
← よろしければクリックお願いします。

拝殿裏の本殿には一般には外からは入れなくなっているのですが、こちらは脇から立派な彫刻を施した唐門がありました。

反対側にも門があります。片側しか開けていませんでしたが両側から本殿に参拝できます。

そして変わった狛犬が。

本殿にはたくさんの彫り物が描かれ、前面のかべもとても特徴のある模様が描かれています。

この本殿が造られたのは江戸中期の18世紀半ば。

本殿の周りもまた周りに囲まれた玉垣も多くの彫刻が施されています。
日本一多くの仙人に会える神社だと言うのです。

この彫刻類は一見の価値があります。
こんなところにこんな素晴らしい彫刻があったのかと目を見張ってしまいました。

これらの彫刻の内容はわからなかったのですが、中国の親孝行である「二十四考」が描かれているようです。

でも二十四考(にじゅうしこう)を調べて見ると手本にすべき24人の孝行の話は今から見るとおかしなものがたくさんあります。

「二十四孝」の仙人を彫刻してあるのは千葉では成田山新勝寺とここ飯高神社のみだそうです。
前に悪路王の面があると書いた城里町の鹿島神社の彫刻を思い出しました。
やはり二十四考が徳として伝えられた頃にこのような彫刻を施す神社が出来たのでしょう。
少し調べて見たい気もします。
(少しばかばかしい一部の話をのせます)
・呉猛(ごもう)(8歳):家は貧しく、蚊帳を買う金もなかった。呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。それを毎日続けると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺すことはなくなった。
・王祥(おうしょう):実母が冬の極寒の際に魚が食べたいと言うので河に行った。しかし、河は氷に覆われていた。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。


地磁気観測所(石岡市柿岡)
明治16年(1883)に東京赤坂の中央気象台に地磁気の観測所が設置されました。
それから、地球規模の地磁気の変動を観測し太陽の爆発などの影響による磁気嵐や、磁場の方向観測などが絶えず行われるようになりました。そして火山活動の予測などにもこの観測が必要になっています。
しかし東京は次第に市電などが走るようになると、その電車の直流などの影響が地磁気観測を狂わせてしまうようになってきました。
そこで観測するには周りに邪魔なものが無く地磁気も安定して測れる場所を探し、大正2年(1913)に石岡市(旧八郷町)柿岡の通称富士山と呼ばれる小山の麓にこの地磁気観測所が移されたのです。
それから100年戦時中も休むことなく地磁気の観測が続けられ、データは世界中に毎日発信し続けられています。
私も凡その場所は知っていたのですが、見学にも訪れたことが無く、先日いつもと違う道を車で走っていて看板を見つけて中に入ってみました。

この地磁気観測所があるために常磐線はこちらまで直流電車を走らせることが出来ずに、交流直流両用列車を取手の少し先で交流に切り替えています。
これが取手まで走っている電車を土浦などへ伸ばせない最大の原因と言われています。
昔藤代付近で走っている電車が突然暗くなり驚いたものです。
今はバッテリーでその切り替え時間に合わせて車内灯を制御しているようです。

この観測所が無ければ・・・・などとよく考えたものですが、ここの観測データは世界規模で必要とされていておいそれとやめるわけには行かないようです。


もう建物は結構古く、敷地内には職員用と思われる住宅もいくつかあるのですが、近代的とは言えない建物でした。

年に1度10月頃に設備の見学会があるようです。
昨年は台風で中止になったそうですが、今年は行われるでしょう。
この地磁気の記事を調べていて面白い事が書かれていました。
----------------------------------------
「地球の磁場の歴史の中では、いつも磁石のN極が北極方面を指していたわけではありませんでした。磁極が入れ替わる地球磁場の逆転が最近360万年の間に11回もあったことがわかっています。最も新しい逆転がおこったのは、78万年前です。」
「東京で磁石の針が示す方向(地磁気の偏角)は、現在は北から7度西ですが、伊能忠敬が地図を作製した200年前はほぼ北を向いていました。350年ほど前に来朝したオランダ船の記録は、約8度東だったことを示しています。このことから日本付近の偏角は、この350年で東から西へ15度ほどずれてきたことがわかります。このような地磁気が数十年から数百年という長い間に変化することは世界中でよく知られており、これを地磁気の永年変化とよんでいます。永年変化は場所によりその変化の様子は様々ですが、これは地磁気の地球規模での空間パターンが変化していることを示しています。」
-----------------------------------------------
ふ~ん。結構面白い。
気象庁のHPは → こちら
見学のしおり(pdf)は → こちら
ブログが2か所になったので記事を両方書くのは大変です。
これは見やすいように分冊したので、これからは交互に記事を書くようにしたいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
それから、地球規模の地磁気の変動を観測し太陽の爆発などの影響による磁気嵐や、磁場の方向観測などが絶えず行われるようになりました。そして火山活動の予測などにもこの観測が必要になっています。
しかし東京は次第に市電などが走るようになると、その電車の直流などの影響が地磁気観測を狂わせてしまうようになってきました。
そこで観測するには周りに邪魔なものが無く地磁気も安定して測れる場所を探し、大正2年(1913)に石岡市(旧八郷町)柿岡の通称富士山と呼ばれる小山の麓にこの地磁気観測所が移されたのです。
それから100年戦時中も休むことなく地磁気の観測が続けられ、データは世界中に毎日発信し続けられています。
私も凡その場所は知っていたのですが、見学にも訪れたことが無く、先日いつもと違う道を車で走っていて看板を見つけて中に入ってみました。

この地磁気観測所があるために常磐線はこちらまで直流電車を走らせることが出来ずに、交流直流両用列車を取手の少し先で交流に切り替えています。
これが取手まで走っている電車を土浦などへ伸ばせない最大の原因と言われています。
昔藤代付近で走っている電車が突然暗くなり驚いたものです。
今はバッテリーでその切り替え時間に合わせて車内灯を制御しているようです。

この観測所が無ければ・・・・などとよく考えたものですが、ここの観測データは世界規模で必要とされていておいそれとやめるわけには行かないようです。


もう建物は結構古く、敷地内には職員用と思われる住宅もいくつかあるのですが、近代的とは言えない建物でした。

年に1度10月頃に設備の見学会があるようです。
昨年は台風で中止になったそうですが、今年は行われるでしょう。
この地磁気の記事を調べていて面白い事が書かれていました。
----------------------------------------
「地球の磁場の歴史の中では、いつも磁石のN極が北極方面を指していたわけではありませんでした。磁極が入れ替わる地球磁場の逆転が最近360万年の間に11回もあったことがわかっています。最も新しい逆転がおこったのは、78万年前です。」
「東京で磁石の針が示す方向(地磁気の偏角)は、現在は北から7度西ですが、伊能忠敬が地図を作製した200年前はほぼ北を向いていました。350年ほど前に来朝したオランダ船の記録は、約8度東だったことを示しています。このことから日本付近の偏角は、この350年で東から西へ15度ほどずれてきたことがわかります。このような地磁気が数十年から数百年という長い間に変化することは世界中でよく知られており、これを地磁気の永年変化とよんでいます。永年変化は場所によりその変化の様子は様々ですが、これは地磁気の地球規模での空間パターンが変化していることを示しています。」
-----------------------------------------------
ふ~ん。結構面白い。
気象庁のHPは → こちら
見学のしおり(pdf)は → こちら
ブログが2か所になったので記事を両方書くのは大変です。
これは見やすいように分冊したので、これからは交互に記事を書くようにしたいと思います。


西蓮寺と山百合まつり
今日は台風が近づいてきていますが、朝から仕事でまた銚子に行っていました。
途中で行方市西蓮寺の裏山で毎年実施されている「井上山百合まつり」のことを思い出して立寄りました。
雨も降らずまだ風も穏やかでした。

ここ西蓮寺は前に何度も紹介していますので寺の紹介は省きます。(寺は→こちら、大イチョウは→こちら 記事参照)

紫陽花もきれいです。

雨が降った後で少し道が悪かったのですが、歩きにくいことはありませんでした。
寺の横から下に降りると広い田んぼが広がっています。
この里山風情がいいですね。山百合の会場はこの向こうの山です。

きれいな小川もあります。

山百合祭りはこの山一帯に自然に生えた山百合を鑑賞します。
入山料として300円を山の保護資金として徴収します。
期間中はジャガイモのゆでたものなどがふるまわれています。
今年の祭りは13日(日)から行うそうです。土曜日は台風を心配したようです。
いま準備中でした。
勝手に山に入れませんでしたのでお話をうかがうだけで帰ってきました。
以前の山百合まつり記事は→こちら 参照下さい。

ゆりは咲きだしているのですが今年は大きなゆりが盗堀にあって少なくなってしまったと嘆いておられました。
このようなところから盗んで持って行く人がいるのですね。許せませんね。
19日(土)、20日(日)はオカリナ演奏もあります。
左のリンク先にある「オカリナ便り(野口喜広さん)」の野口・矢野ご夫妻が演奏します。
是非お出かけください。
昨日ブログを1日休んだら不評でした。休んだと言うよりもう一つ別なブログに記事を書いているのですがもう4年近く毎日続けているのでダメですね。
出来るだけこちらに記事を書きます。
別冊の方は時々更新することにします。
← よろしければクリックお願いします。
途中で行方市西蓮寺の裏山で毎年実施されている「井上山百合まつり」のことを思い出して立寄りました。
雨も降らずまだ風も穏やかでした。

ここ西蓮寺は前に何度も紹介していますので寺の紹介は省きます。(寺は→こちら、大イチョウは→こちら 記事参照)

紫陽花もきれいです。

雨が降った後で少し道が悪かったのですが、歩きにくいことはありませんでした。
寺の横から下に降りると広い田んぼが広がっています。
この里山風情がいいですね。山百合の会場はこの向こうの山です。

きれいな小川もあります。

山百合祭りはこの山一帯に自然に生えた山百合を鑑賞します。
入山料として300円を山の保護資金として徴収します。
期間中はジャガイモのゆでたものなどがふるまわれています。
今年の祭りは13日(日)から行うそうです。土曜日は台風を心配したようです。
いま準備中でした。
勝手に山に入れませんでしたのでお話をうかがうだけで帰ってきました。
以前の山百合まつり記事は→こちら 参照下さい。

ゆりは咲きだしているのですが今年は大きなゆりが盗堀にあって少なくなってしまったと嘆いておられました。
このようなところから盗んで持って行く人がいるのですね。許せませんね。
19日(土)、20日(日)はオカリナ演奏もあります。
左のリンク先にある「オカリナ便り(野口喜広さん)」の野口・矢野ご夫妻が演奏します。
是非お出かけください。
昨日ブログを1日休んだら不評でした。休んだと言うよりもう一つ別なブログに記事を書いているのですがもう4年近く毎日続けているのでダメですね。
出来るだけこちらに記事を書きます。
別冊の方は時々更新することにします。


柏原池の朝
台風はこの辺りは何の被害も無く通り過ぎ、じめじめした暑さがやってきました。
この夏はエルニーニョが発生し、東北などでは冷夏となるなどと騒ぎましたが空振りのようです。
エルニーニョは秋に延期なんて・・・
年取るとこの暑さはたまりません。
朝起きると台風が近いはずなのに静かで雨もやんでいました。

まだこれから降るかも知らないので今のうちにと近くの柏原池公園に歩きに行ってきました。

ここ数日前から朝少し歩くようにしました。
この日は何時降りだしてもおかしくなかったので公園まで車で行き、池の周りを歩きました。

歩き出したのは5時少しすぎですが、結構歩いている人がいいます。
そして歩きはじめはこの蓮の花はまだつぼみでした。
それが一周廻るごとにつぼみが膨らんできてきれいな咲き始めます。

最初はこれよりもつぼみは目立ちません。
一周廻るのに約速足で7分かかります。
それを8周したので 1時間近く歩きました。(約5km)

開きかけのつぼみを上から見ると卵の黄身のようです。

この蓮の種類は良く分かりません。でも朝咲くので羊草ではないと思います。

心配無い、心配無い、保険などに入らなくても・・・・。 色が黒いと悪ものですね。

アフラ・・・。こちらは正義の味方?

何言ってんだか・・・。今までここで首をうずめて寝ていたんですよ。
大分明るくなったので活動開始です。

公園の主の子猫です。数匹が何時もいます。誰か飼い主が捨ててしまったのでしょうか。


朝散歩のイヌとも仲良しです。
毎朝、餌をもらっています。
さて明日は東京の実家です。 夜には戻ります。
← よろしければクリックお願いします。
この夏はエルニーニョが発生し、東北などでは冷夏となるなどと騒ぎましたが空振りのようです。
エルニーニョは秋に延期なんて・・・
年取るとこの暑さはたまりません。
朝起きると台風が近いはずなのに静かで雨もやんでいました。

まだこれから降るかも知らないので今のうちにと近くの柏原池公園に歩きに行ってきました。

ここ数日前から朝少し歩くようにしました。
この日は何時降りだしてもおかしくなかったので公園まで車で行き、池の周りを歩きました。

歩き出したのは5時少しすぎですが、結構歩いている人がいいます。
そして歩きはじめはこの蓮の花はまだつぼみでした。
それが一周廻るごとにつぼみが膨らんできてきれいな咲き始めます。

最初はこれよりもつぼみは目立ちません。
一周廻るのに約速足で7分かかります。
それを8周したので 1時間近く歩きました。(約5km)

開きかけのつぼみを上から見ると卵の黄身のようです。

この蓮の種類は良く分かりません。でも朝咲くので羊草ではないと思います。

心配無い、心配無い、保険などに入らなくても・・・・。 色が黒いと悪ものですね。

アフラ・・・。こちらは正義の味方?

何言ってんだか・・・。今までここで首をうずめて寝ていたんですよ。
大分明るくなったので活動開始です。

公園の主の子猫です。数匹が何時もいます。誰か飼い主が捨ててしまったのでしょうか。


朝散歩のイヌとも仲良しです。
毎朝、餌をもらっています。
さて明日は東京の実家です。 夜には戻ります。

