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牛久助郷一揆道標

 土浦方面から阿見の陸上自衛隊朝日分屯地のフェンスに沿って県道48号線をと牛久方面に進むと「阿見一区南」の信号脇に「牛久助郷一揆の道標と供養碑」が置かれている。

 牛久助郷一揆は別名女化(おなばけ)騒動ともいわれ、江戸時代の文化元年(1804)に女化原周辺の村を中心におきた農民の一揆であった。

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助郷というのはその当時の街道に設けられた宿場には常に人足や馬などを常に置いておかねばならず、その宿場だけではそれらの人馬などを賄うのが困難である時に、それを周辺の村々に割り当て負担を強いたも制度である。

特に参勤交代などで多くの負担が強いられ、貧しい村にも強制的に割り当てられ相当に農民の不満がたまっていたのである。
ここは水戸街道の宿場町牛久宿と荒川沖宿あたりの人馬の負担があったのようだ。

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前にかすみがうら市の助六一揆の話を書いたことがあるが(こちら1こちら2)、発生した年代は1778年12月であり、こちらは26年後である。

ともに助郷制度の負担が重く直訴に及んだり、打ち壊し騒動になったものである。

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調べて見るとこの辺りの村が一つの藩でまとまらず、ばらばらでありまた旗本領だったりしている。
これをさかのぼると少し面白いことが見えてくる。

戦国時代に江戸崎にやってきたのは芦名氏であるが、元々は会津にいて、常陸の佐竹氏が弟を送りこんで支配していた。
しかし伊達正宗に攻め込まれてここに逃げて来た。
佐竹氏は常陸国を統一するが、家康から秋田に転封させられて、この地を去り、芦名氏も龍ヶ崎にも領地を持っていたが、秋田に移動した。

空いた龍ヶ崎は仙台の伊達正宗の領地になった。龍ヶ崎に陣屋が置かれていた。

そしてこの周辺は土浦藩、牛久藩、谷田部藩、佐原藩などに囲まれ、小さな村々がそれぞれあまりそれらの藩に縛られない地域であったようだ。

この助郷一揆の説明によると、水戸街道の往来も増えて、宿場の人馬を今までの宿場町と助郷にあたっていた小さな村々だけでは負担が厳しくなった。

そこで、1804年の10月に牛久宿の助郷の範囲を増やすことを幕府に願い出ます。
そしてこれを説明するために牛久問屋の麻屋治左衛門がこの対象となる村々に話しを持って行ったようです。

そこで、小池村(現阿見町小池)の勇七が中心となって助郷にくわえられ信太郡・河内郡の55村の農民を10月18日に女化原に集め意見を集約しようとします。

しかし、これらの村々はこれ以上農民の負担を増やすなど、俺たちを殺す気かといきり立ち、暴動に発展します。

これを聞いた牛久宿では幕府に農民が騒いでいるとの情報が入り、土浦藩と佐原藩から取り締まりに人が出立します。

その間に暴徒化した農民1500人ほどで、麻屋治左衛門宅とその他2宅を次々に襲い取壊してしまいました。

しかし、これも取り締まりの手が来ることを知り、また名代などに諭されて騒ぎは収まったようです。

この騒動で主犯とされた勇七とその他2名に死罪や遠島などの処罰が下りますが、3人共に江戸の牢屋で拷問により死亡したそうです。

その3人を供養するために、打ち壊しにあった麻屋治左衛門がこの道標に名前を刻んでここに建立したものだそうです。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/01 19:12

おなばけ通り

 昨日書いた牛久助郷一揆は「女化原(おなばけはら)」一体の一揆であった。
この女化(おなばけ)には女化神社(こちら)があり、この神社敷地が牛久市の中で龍ヶ崎市の飛び地(馴馬町)となっている。

ここから龍ヶ崎の市街に通じる道(県道48号線)に「おなばけ通り」と書かれた道路標識や看板がいくつもあった。

そこで龍ヶ崎市のHPで調べて見るとやはり通りにいろいろと名前をつけているそうだ。(龍ヶ崎市ときめきストリート)

下の地図を参照下さい。

前に石岡の通りも名前をつけた方が良いと何度かこのブログに書きましたが、仙台のように愛称や文学者などの名前をつけることはその街に親しみがわくはずです。

外国では通りの名前が住所になっているところもあり、覚えやすいし、そこに歴史や土地のシンボルの名前をつければ自然と名前に関することが頭に入ります。

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さて、女化とはなんとも物騒な感じの名前でもありますが、これも歴史として謂れを知りたいと思いますね。

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この龍ヶ崎市の地図に古水戸街道の大まかなルートを載せました。

戦国末期には龍ヶ崎は佐竹氏身内の芦名氏の領地であり、我孫子から成田線沿いに布佐まで来て、ここで川を渡っていました。

最初は佐竹街道でしたが、江戸時代になり水戸街道も最初はこちらを渡っていました。

そののち今の6号国道に近い何本かのルート(牛久沼周りは良く洪水でルートが変っています)や布施街道ができ、こちらのルートは通らなくなっていきました。

今の佐貫駅の少し東側に「若柴宿」という宿場があったのですが、陣屋もおかれず手前の藤代宿や次の牛久宿に対する補完的な宿場であったようです。

でも今度この辺りもあるいて見たいと思っています。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/02 20:10

多宝塔(来迎院)

 以前このブログで筑波山の裏側から連なる三重塔などの紹介をしました。(こちら

その中で、ただ1カ所訪れていなかった龍ヶ崎市の来迎院にある国の重要文化財に指定されている「多宝塔」を見に行った。

多宝塔

ここは古水戸街道に若柴宿に近く、寺そのものは大きくは無いがこの多宝塔だけが異彩を放っている。
なかなか見事なものだ。

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製作年代は室町時代後期のもので、1556年にあったことは確かなようだが、正確な年代はわからない。
雨引山の多宝塔は1684年なのでそれよりはだいぶ古い。

前に調べた時は県指定の重要文化財となっていたが、年代がさらにさかのぼることが判明し平成19年に国の指定に指定されたようだ。

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こちらは来迎院の本堂。

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上の説明にあるようにここは江戸崎の土岐氏の支配地だったようです。
土岐氏は美濃が中心のようですが、常陸国では江戸崎と龍ヶ崎に分かれ、その後、江戸崎土岐氏が統一していた。

1556年のころは江戸崎土岐氏の支配下にはいっていたものと思われます。

しかしここも天正18年(1590年)に佐竹氏勢に江戸崎城、龍ヶ崎城が陥落し、会津の佐竹氏派の芦名氏が入っています。


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山門

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塔の裏側にはお釈迦様の涅槃(ねはん)像が置かれていました。



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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/09/03 20:21

古東海道常陸ルートの一つの考え

 このブロクは、常陸国府としての石岡が古代の東海道の終点であったことから連想される風景、風習などを考えて進めてきました。
でも一向に下総から常陸のルートが見えてきません。
時代により大きくそのルートが変更されたためと思われます。
ですからどんなルートを考えても一部はきっと正解になるのかもしれません。

ここは専門の情報誌でもないので、ここに適当な思いや思いついたことを書いても特に影響もないでしょう。
またこれを信じられても困ります。
その点はご了解のうえ、こんなルートも考えられるという程度にとどめておいてください。
(専門家の方からは多分一笑にふされるかもしれません)


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(FloodMapsを使って海面高さを+7mした時の地図にルートを書きこんでいます)

 横須賀走水より東京湾を舟で千葉県富津岬近辺に渡り、上総国国府(五井駅近く市川市市役所付近)にやってきます。
ここから下総に行くのですが、上総介などの動向などを見て行くともっと九十九里の方に住んだりしているように思います。

東海道の国司のルートは国道16号、14号と進めば今の道とは当然異なると思うが、下総国国府(市川市国府台付近)にたどりつく事ができる。

さて、そこから先のルートが決まらない。
この原因は、昔は霞ヶ浦、印旛沼、今の利根川などが一体となった大きな内海(香取の海、○○の流れ海などと呼ばれた)となっていて、牛久沼も洪水などで道が変更となり、さらに土浦あたりは古代の東京と同じようにまだ湿地帯となっていたことが挙げられます。

しかし最も大きな要素は、徳川幕府が進めた利根川の東遷工事の影響が大きかったようです。

それまで豊かに稲作や漁業で邑が発達していたところが、洪水が頻繁に起こり、川の上流の土砂が大量に流れてきて地形が大きく変わってしまったことではないかと思います。

そのため、今の街並みなどを見ても昔の流れが見えてきません。

それなら思いきって大胆に推察してみたのが上の地図です。

その考え方のポイントとなったのは「榎浦の津」と場所と「鎌倉街道」および「根本」「牛込・牛渡」「押戸」などの地名です。
市川から北上するルートは松戸、柏、我孫子などを通って布佐へ行くルートを考えるのが一般的です。
戦国時代頃から江戸時代の初めころまではこの布佐から利根町へ渡っていたのはほぼ確実で、そこから北上していたものと考えられています。

牛久沼も時々洪水でこの先のルートもいくつか変更になっています。
しかし、もっと昔の霞ヶ浦を舟で渡ったルートがあったはずなので、このルートを考察する必要があります。

この先は少し考えながらまた2~3回に分けて書いてみたいと思います。

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古東海道 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2014/09/04 20:48

古東海道常陸ルートの一つの考え(2)

 今から1300年前頃の東海道(古東海道)は畿内から海沿いの国を通って終点は常陸国国府(現石岡)であった。

その頃はまだ湿地帯も多く霞ヶ浦も大きな内海で道もそれ程しっかりしたものではなかったと思われる。

その後、唐にならって各国府をできるだけ直線的に結ぶ広い街道が造られた?
でも恐らく山あり谷あり川ありの地形ではこれを完成どころか一部しかできなかったのではないかと思われる。

900年代初頭に作成された延喜式にはこれらの街道に置かれた駅家(うまや)の名前が載っている。
しかし、この頃の下総から常陸間にあったとされる駅家(茜津・於賦・榛谷・曾弥)のルートはどうみても霞ヶ浦を舟で渡るルートではなく土浦側を通っていたものと考えられる。

今の考えでは茜津:柏市藤心、於賦:利根町布川、榛谷:龍ヶ崎市半田、曾弥:土浦市下高津 当たりではないかと見られているが、これも色々な考え方がある。

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昔の地形に近い状況の地図で考えないとルートはわからない。
このため上の地図はFloodMapsをつかって海面高さを+7mとして表したものだ。

現在の霞ケ浦周辺を考えるよりももう少し海面を上昇させて考えないとどうも地形が見えてこない。

これはやはり利根川の東遷が大きいのだろう。何回も洪水がおき多量の土砂が上流からながれてきて昔内海であった場所を埋めて行ってしまったということがあったように思う。

さて、今から1100年ほど前には一部陸地も増えて、今の陸側を通れるようになっていたようだ。

それでも下総国府(市川)から柏、我孫子を通り、今の成田線の布佐あたりから布川に舟で渡り、そこから北上したルートであったと考えても良いだろう。(地図の③ルートに近い)
これは少し道は異なるが、後の佐竹街道、初期の水戸街道のルートに近いと考えられる。

また武蔵国(現在の東京)が東山道から東海道の国に組みかえられたのは宝亀2年(771年)の奏上によるので、この組み換え後には武蔵国と下総国府をつなぎルートや柏、松戸あたりから武蔵国に向かうルートなども整備され、どんどん内陸側にルートを変えて行ったものと思われる。

ここではそれより前の8世紀初頭の頃に聖武天皇が各地に律令制を敷き、国分寺を建設させ、都から国司を派遣していた初期の頃の古東海道のルートを考えている。

私の考えているルートは上の地図の黒い波線(①)を想定して考えて見た。

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利根町の文間地区には水戸街道とは別にもっと古い道が残されている。
地元では鎌倉海道の一部と言われているが、恐らくこれがその頃の古東海道の一部と考えてよいのではないかと思う。

この道は現在近くまで大型団地が接近しているが、幸い新しい道路建設などが発展するには不便なところで、昔の面影が消えてしまうことが無かったのかもしれない。

この道は何時頃の事かはわからないが、「押戸」に船着き場があり、ここから舟に乗ったことが伝えられている。
(舟を押しだした場所)

右手の山側は文間地区の高台で、昔はこの下の道や田んぼの場所はすべて内海の下になっていたはずである。

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押戸の麓のバス停である。
恐らく後の家の1階屋根高さくらいまで水が来ていたものと思われます。

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押戸の麓のバス停のあたりから対岸の龍ヶ崎市の方を眺めて見た。

ここから何処へ舟で渡ったんだろう。
対岸の龍ヶ崎市側に向かったと考えるのがもっとも考えやすいのだが、そこから常陸国風土記の信太郡の所に書かれている常陸国の入口「榎浦の津」(駅家もあったそうだ)の湊に行かねばならないのだから、このまま舟で近くまで行ってしまう方が合理的だ。

もっとも「榎浦の津」の場所もはっきりしないので、こちらからではなく成田側から渡ったということも考えられるが、いままで現地に行って感じたことを大切にするので、私にはイメージし難いのである。

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(続きます)

古東海道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/09/05 19:44

古東海道常陸ルートの一つの考え(3)

 古東海道の初期の頃、もしかしたらまだ律令制が敷かれる前の道を追いかけているのだが、わからないのでとりあえずあまり書物に書かれていないルートを一つ提案しています。

ポイントは

1)水戸街道が江戸時代初期まで「布佐」から対岸の利根町布川に渡っていること。
  (布佐=総=麻)

2)芭蕉も鹿島への道はこの布佐から舟で渡っていること。

3)布川から旧文間村へ渡り、そこに鎌倉海道と言われる古道が残されており「押戸」で舟に乗っていること。

4)常陸風土記には信太郡はこの東海道の入口で「榎浦の津」に到着してここが常陸国の入口だと書かれていること。

5)榎の浦も場所が特定されていないが江戸崎が「榎の浦が崎」の名前からきていると考えることができること。

5)信太郡の郡衙が未確定で下君山説が強いが美浦村の「信太(しだ)」にその前の郡衙があったと仮定するといくつかの事象が説明しやすい事。

6)美浦村は昔、「日高見国」といわれ、黒坂命(くろさかのみこと)がここから北を目指したことがうかがえること。

7)陸平(おかだいら)貝塚があり、その近くに「牛込」という地名が残され、対岸のかすみがうら市に「牛渡(うしわた)」地名があり、ここを国司の舟が通った時に残された牛が泳いで渡り力尽きたという伝説が残されていること。

8)石岡の三村地区に「正月平」という地名があり、八幡太郎等の前九年の役でここで正月を迎えたとされること。

9)かすみがうら市の子安神社と胎安神社の間の道(地元では鎌倉街道)が常陸国分尼寺の方からきて、江後田(えごだ)を通り霞ヶ浦につながっていたと伝えられていること。

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さて、今回はもう一つルートを考えていたら共通する地名がでてきました。
それは「根本」です。
利根町押戸には「根本寺」がある。 稲敷市にも根本地区がある。 牛込付近に「根本」「根火」地名がある。
かすみがうら市に南根本、石岡側に北根本がある。ここを結ぶと一つのルートができる。

この根本と言う地名や人名は茨城などに特に多い名前で、一般には藤原秀郷の末裔の小野崎氏の一族が、美浦村の根本地区、または稲敷市の根本地区に住み根本氏となり、佐竹氏の秋田転封に伴って秋田にもひろがっていること。

なぜこれが古道と結びつくかははっきりしませんが、根本(ねもと、こんぽん)は仏教伝播、阿弥陀仏のルート、地域で中心になった場所に着いた名前ではないかと勝手に推察したものです。

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まあ、これは、他の文献などには書かれたものが無いので私的な推論に過ぎません。

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古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/06 19:19

根本寺(利根町)

 石岡のおまつりまであと1週間。
街中の各地で注連縄をはったり、提灯をつけたり、山車を引きだして準備していました。
いまは各町で「たたき初め」などといってもう祭りの格好をした若者や子供達もウキウキ気分です。

今年の年番は富田町で、やはり地元は華やかです。

でもこの年番制度は昔の小さな邑の集まりのようで邑意識は養われますが、対抗意識の養われ、どうしても排他的になります。

何時までもこれではやっていけません。まあこれを延長した所に島国根性の日本の姿があります。

安倍政権もどう見てもお友達ばかりが集まり、大臣になる順番待ち・・・・   どうも愚痴が増えます。

さて、今日は古東海道のルートとして考えた利根町(文間)の押戸にある寺の紹介です。


 利根町押戸の名前の由来は舟を押しだしたことからついたものかと思われます。
今は広い田んぼや畑が一面に広がっていて、どうしてここが船着き場だったのかと不思議に思います。

押戸のバス停のすぐ上に「根本寺(こんぽんじ)」(真言宗)という利根町で最も古いともいわれる寺があります。

案内板は無く古くからありそうな町の横道を見当をつけて車で走らせ正面に山門が見えました。

なんか驚くほどインパクトの少ないひっそりとした佇まいでした。

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寺の創建は不明で、かなり古くからある寺のようです。

本堂。最近建てなおしたものらしく比較的新しい建物だ。

今は真言宗ですが、昔は天台宗であったようです。本尊は阿弥陀如来だという。

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本堂の裏手は山になっていて竹林などがあります。
この上に昔の道があるようです。

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左側に山門があり、その入口に、利根町指定有形文化財 「木造両界大日如来坐像」(写真はこちらにあります)と書かれています。
しかし、この像はここには置いてなく歴史資料館に置いてあるとのこと。

写真奥の建物は「押戸集会所」

手前の地蔵には寛文4年(1664)の銘があるという。

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集会所の右隣に墓地の入口があります。

ここの奥が鎌倉街道といわれる道の先端で、この下へ降りたところに昔は押戸の船着き場があったのかと思います。

利根町文間地区の鎌倉街道についてはこちらを参照(こちら

石柱の近くに左右2つの石地蔵が置かれています。これも江戸初期に奉納されたもののようです。
一つは十五夜供養塔なのだそうです。十五夜供養は珍しいですね。

十九夜、二十三夜は結構多く、この墓地にも十九夜の供養塔はいくつかあるようです。



利根町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/09/07 18:44

泉光寺(1)

 利根町の文間地区にある鎌倉街道と呼ばれる道。

東京などには鎌倉街道は残っているが、この辺りの道は海や川を舟で渡っている。

地元で鎌倉街道と思われていても、その道に近いところに古東海道があってもおかしくは無と思う。

昨日紹介した根本寺(こんぽんじ)のすぐ近くにあった「泉光寺」を紹介します。

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文間地区の高台にある。なかなか古びて趣のある寺である。

円通山大慈院泉光寺 真言宗。

入口の仁王門。

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奥山の泉光寺の境内には、仁王門(嘉永3年)があり運慶派仏工の作といわれる阿吽(あうん)の仁王尊2体が祀られています。仁王尊に「わらじ」を奉納し足が丈夫で無事に旅ができるよう祈ったり、奉納された「きりすね」【機織りのとき、最後に残った木綿糸のこと)を女たちの痛んだ手に巻いて回復を願い、また目が疲れたときには「め」の字を書いた絵馬を奉納し、目の回復を祈願するなどの民間信仰がありました。
(利根町ホームページより)

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仁王門は、文化八年(1811)の建立と銘された棟札があります。
また、仁王像は正徳六年(1716)に創作されたという記録があり、作者は不明ですが運慶派仏師の作と言われています。
仁王尊は、仏法守護として寺門に安置されるだけでなく、健康の象徴ともされているため、口の中でかんだ紙片を投げつけて自分の幹部または発達を願う箇所にはりつけば、願いが叶うという俗信があります。
ここの仁王門には、「きりすね」「わらじ」「木槌」が下げられていますが、これについては次のような民間信仰があります。
「きりすね」手などが痛んだとき、きりすね(機織りのとき最後に残った糸)をもらい、患部に巻いて結んでおくとよく治ります。
また、倍返しといって、一つもらったら、二つ返すのが習わしです。

(現地立て看板)

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門のわきの地面にはたくさんの穴が開いていました。
みな、セミの穴でしょうか。

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今日は中秋の名月。あいにくの天気ですので月見は出来そうにありません。

今日は銚子の方まで行って夜帰ってきました。 向こうはシトシト小雨がパラついていました。
伊豆諸島に台風が近づいているようです。




利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/08 21:17

泉光寺(2)

 夏の初め頃(7月)から毎朝早起きしてウォーキングをしていたのですが、少し疲れがでて調子が崩れてきましたので先週末から少しお休みしています。

2~3日おかしかったのですが大分戻ってきました。
涼しくなりましたのでゆっくり眠れますね。

石岡は今週末からの祭りで街中はバタバタしています。

明日は風の会の100号記念号(臨時会報)の印刷です。 
皆さんの原稿が多くなりページも増えて大変ですが嬉しい悲鳴です。

さて、今日は昨日の泉光寺の続きです。

入口の仁王門をくぐるとイチョウの木と本堂が見えます。

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本堂は天保15年(1844)12月、 大工新右衛門の再建と棟札にあるそうです。

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創建がはっきりしない寺ですが、行基菩薩がここを通って常陸国に行ったなら奈良朝にここを通るルートがあったことになります。

行基の話は常陸国にも数々あります。

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本尊は、鎌倉時代末に作られた「木造観世音菩薩立像」であり、高僧「行基が常陸の国に行く途中、 奥山の近くを通りかかると、沼の中から光明を放つものがあり、近づくとそれは一個の浮木だった。

行基はそれを拾い、奥山に上り、観音経を唱えながら、三日三晩寝ずに仏像を彫り上げた」といわれています。

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泉光寺入口から布佐・布川方面を望みます。
ここは高台で、この右手はもえぎの台という住宅街になっています。

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利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/09 21:00

蛟蝄神社(門の宮)

 利根町の文間地区を古東海道が通っていたのではないかと思う理由の一つにこの蛟蝄(こうもう)神社の存在があります。

何しろ古い神社で良く分からないのです。
延喜式の式内社(相馬郡)ですが、その創建は今から2300年ほど前とも・・・・??

また神事も1400年続いているともいわれるのです。

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この神社は2カ所に分かれていますが、最初に建ったであろう門の宮といわれる場所に行ってみました。

主祭神は罔象女大神(みつはのめのおおかみ)という良く分からない水の女神様です。

名前の通り蛇または龍にかかわりがあるのでしょう。

この地区は昔大きな水の上にうかぶ島であったようです。

創建は紀元前288年というので、まあこの辺は年代的には実際と合わないことであるが、かなり古くからあることだけは確かである。

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なかなか興味深い場所だが、行ってみてやはりここは昔周りが海だったということはわかるが、どのような歴史的な流れがあったのかは推し量ることができなかった。

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なかなか面白そうなことが書かれているが、詳しくはクリックして画像を拡大して見て下さい。

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この神社の場所の近辺が貝塚であったようです。
縄文時代後晩期(約4500年~2800年くらい前)に縄文人が住んでいて、周りは海だったということでしょう。

明日は奥の院の方を紹介します。でも拝殿は建て直しするために壊されていました。



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利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/10 20:25
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