銚子陣屋跡
先日千葉県銚子の飯沼観音から街中の方へ少し歩いていたら「旧陣屋跡」という碑を見つけた。

調べたらここ銚子は江戸時代は上州高崎藩に組み入れられ、ここに陣屋が置かれていたそうだ。

ここは陣屋町で陣屋公園となっていた。
その一角にこの石碑と隣に熊野神社と青年館がある。

公園はそれ程大きくはないが、ここの陣屋跡を何とか残そうとしたようだ。

ここの銚子陣屋(飯沼陣屋)の由来はヤマサ醤油の重役「常世田忠蔵」の撰文が書きしるされている。
<飯沼陣屋由来記>
銚子の地は享保二年(1717)髙崎藩主松平右京太夫輝貞の支配に属しその髙十七ヶ村合せて五千十石
想うに寛永十二年(1635)利根水運江戸に通じてより日本海及東北各藩の物産多く銚子を中継地として江戸に運送するに至りその関門を扼する重要なる地点たるに及びて幕府は直系髙崎藩をしてその統治に當らせたるものならむ
爾来明治五年(1872)髙崎県支庁の廃さるゝまで十代百五十余年の間此所に陣屋を置き郡奉行一名代官二名その他により藩政を執行せしめたり
本碑の位置は當時の東辺中央に位し旧図に示す熊野大権現は隣地の社址なりという
この辺曽(かつ)て郭町(くるわちょう)と称し後に西町と改め現在陣屋町と称(い)う
飯沼陣屋廃されて八十餘年漸くその址虚しからんとするときこれを記念せんとする町民の熱意相凝って茲にその由来を記しこの碑を建つ
昭和三十四年四月十日 撰文 常世田忠蔵
飯沼陣屋址記念碑建立会長 名雪雲平
(皇太子と美智子さまのご成婚記念)


陣屋町という名は、昭和8年(1933)に、銚子市制が施行されたとき、市域の行政区画の改正が行われ、当時西町、郭町と呼ばれていた旧字から変わった新しい町名である。昭和20年(1945)に受けた戦災で、陣屋町地域はすっかり焼き尽くされてしまい、また戦後に行われた銚子市都市計画事業復興土地区画整備事業による幹線道路などの拡幅整備に伴い、かっての郭町(くるわちょう)のおもかげは、跡形もなく消え去ってしまった。「高崎藩銚子陣屋」が現在の陣屋町のどのあたりに所在していたか調査を行った。・・・・・・・・・・

調べたらここ銚子は江戸時代は上州高崎藩に組み入れられ、ここに陣屋が置かれていたそうだ。

ここは陣屋町で陣屋公園となっていた。
その一角にこの石碑と隣に熊野神社と青年館がある。

公園はそれ程大きくはないが、ここの陣屋跡を何とか残そうとしたようだ。

ここの銚子陣屋(飯沼陣屋)の由来はヤマサ醤油の重役「常世田忠蔵」の撰文が書きしるされている。
<飯沼陣屋由来記>
銚子の地は享保二年(1717)髙崎藩主松平右京太夫輝貞の支配に属しその髙十七ヶ村合せて五千十石
想うに寛永十二年(1635)利根水運江戸に通じてより日本海及東北各藩の物産多く銚子を中継地として江戸に運送するに至りその関門を扼する重要なる地点たるに及びて幕府は直系髙崎藩をしてその統治に當らせたるものならむ
爾来明治五年(1872)髙崎県支庁の廃さるゝまで十代百五十余年の間此所に陣屋を置き郡奉行一名代官二名その他により藩政を執行せしめたり
本碑の位置は當時の東辺中央に位し旧図に示す熊野大権現は隣地の社址なりという
この辺曽(かつ)て郭町(くるわちょう)と称し後に西町と改め現在陣屋町と称(い)う
飯沼陣屋廃されて八十餘年漸くその址虚しからんとするときこれを記念せんとする町民の熱意相凝って茲にその由来を記しこの碑を建つ
昭和三十四年四月十日 撰文 常世田忠蔵
飯沼陣屋址記念碑建立会長 名雪雲平
(皇太子と美智子さまのご成婚記念)


陣屋町という名は、昭和8年(1933)に、銚子市制が施行されたとき、市域の行政区画の改正が行われ、当時西町、郭町と呼ばれていた旧字から変わった新しい町名である。昭和20年(1945)に受けた戦災で、陣屋町地域はすっかり焼き尽くされてしまい、また戦後に行われた銚子市都市計画事業復興土地区画整備事業による幹線道路などの拡幅整備に伴い、かっての郭町(くるわちょう)のおもかげは、跡形もなく消え去ってしまった。「高崎藩銚子陣屋」が現在の陣屋町のどのあたりに所在していたか調査を行った。・・・・・・・・・・
銚子陣屋町
昨日の銚子陣屋跡から少し銚子港寄りに県道244号線が走っており、その陣屋町の中心に歩道橋がある。
この辺りは昔郭町(くるわまち)と呼ばれた所らしい。

歩道橋の上から西側を眺めた。
この先にヤマサ醤油の工場があり、その先が銚子駅だ。

反対の東側は少しカーブして「馬場町」信号がありその左手が飯沼観音で、右手にその寺の本坊(円福寺)がある。

そして歩道橋近くに「東性院観音」がある。
この東性院はもう少し西側のヤマサ醤油工場近くにある寺のようで真言宗智山派の寺らしいが、あまり説明されたものが無い。

この辺りは太平洋戦争でかなり焼かれてしまったという。
ここだけが残ったのか?


観音堂の彫刻が面白そうなのでUPします。
龍の彫り物の上の波の模様などは江戸時代にはやったもののようだ。




東側に「手焼きせんべい福屋」という和風の造りのお店があった。
美味しそうなお店で、人気もあるようだ。
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この辺りは昔郭町(くるわまち)と呼ばれた所らしい。

歩道橋の上から西側を眺めた。
この先にヤマサ醤油の工場があり、その先が銚子駅だ。

反対の東側は少しカーブして「馬場町」信号がありその左手が飯沼観音で、右手にその寺の本坊(円福寺)がある。

そして歩道橋近くに「東性院観音」がある。
この東性院はもう少し西側のヤマサ醤油工場近くにある寺のようで真言宗智山派の寺らしいが、あまり説明されたものが無い。

この辺りは太平洋戦争でかなり焼かれてしまったという。
ここだけが残ったのか?


観音堂の彫刻が面白そうなのでUPします。
龍の彫り物の上の波の模様などは江戸時代にはやったもののようだ。




東側に「手焼きせんべい福屋」という和風の造りのお店があった。
美味しそうなお店で、人気もあるようだ。


水準原標石
銚子の飯沼観音は坂東33観音の27番札所である。
これは前に紹介した。(こちら)
ここに明治初期に置かれた水準原標石があると言うことで先日立寄った。

この最近できた立派な五重の塔のすぐ裏側にあった。

明治5年に造られたものだと言う。

利根川下流河川事務所のHPに書かれた説明では
(水準原標とは、水準測量(高さを測る測量)行う時の原点となる点のことです。利根川、江戸川の水準測量を開始するときにリンドは、千葉県銚子市にある飯沼観音内に設置し、これを基準に飯沼水位尺(量水標)の基本水平面を(J.P.)日本水位尺と名付けました。、ここから、利根川、江戸川の基本水平面(Y.P. 0.0m)の高さや荒川の基本水平面(A.P. 0.0m)の高さが決まり、現在のそれらの河川における河川計画の基準高となっています。)
この当時、明治政府は、利根川、江戸川、荒川や信濃川や淀川等の河川を治水(河川の氾濫から町を守ること)や利水(舟運のための運河の建設や農業・工業用水や上水の確保)等の河川改修のためにデレーケやムルデルに代表されるたくさんのオランダ人技師を招きました。
と書かれていました。

この石の水平面高さを零点高として、利根川の水位高さの基準として日本の河川の基準高さの基になったようです。
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これは前に紹介した。(こちら)
ここに明治初期に置かれた水準原標石があると言うことで先日立寄った。

この最近できた立派な五重の塔のすぐ裏側にあった。

明治5年に造られたものだと言う。

利根川下流河川事務所のHPに書かれた説明では
(水準原標とは、水準測量(高さを測る測量)行う時の原点となる点のことです。利根川、江戸川の水準測量を開始するときにリンドは、千葉県銚子市にある飯沼観音内に設置し、これを基準に飯沼水位尺(量水標)の基本水平面を(J.P.)日本水位尺と名付けました。、ここから、利根川、江戸川の基本水平面(Y.P. 0.0m)の高さや荒川の基本水平面(A.P. 0.0m)の高さが決まり、現在のそれらの河川における河川計画の基準高となっています。)
この当時、明治政府は、利根川、江戸川、荒川や信濃川や淀川等の河川を治水(河川の氾濫から町を守ること)や利水(舟運のための運河の建設や農業・工業用水や上水の確保)等の河川改修のためにデレーケやムルデルに代表されるたくさんのオランダ人技師を招きました。
と書かれていました。

この石の水平面高さを零点高として、利根川の水位高さの基準として日本の河川の基準高さの基になったようです。


飯沼観音の仁王
今日は土浦の花火大会がある。
なかなか最近はわざわざ出かけることもない。
昔は車で出かけて渋滞で車の中から見たことや、細い脇道を進んで花火が終わるまで車を出せなくなったり・・・
色々な思い出があるがやはり電車で土浦駅まで行き桜川土手の上で見るのが一番良い。
昨日は仕事で銚子に行っていました。
途中の道を少し変えて北浦の方を散策してきました。
気温が高くなり、またあまり人の行かないような寺に立寄ったらツクツク法師が夏に戻ったと思ったのかさかんに鳴いていました。
平地ではコスモスが咲き乱れ、赤とんぼも飛んでいますが、セミはもう鳴いていません。
少し山に入るとこのようにうるさいくらい鳴いていたりします。
さてブログの方は昨日の続きです。
坂東33観音円福寺(飯沼観音)はやはり銚子の中心の寺であるようだ。
伝承では弘法大師(空海)の開祖とも伝えられる。
しかしこの地域は太平洋戦争末期の昭和20年の空襲で多くが焼かれてしまったという。
今の建物の多くはその後に再建されたもの。

入口の仁王門。

新しいのかもしれないがこの仁王像はとても力強い。



本尊の十一面観音像は少し離れた場所の観音堂に安置されているそうだ。
こちらは明日にでも紹介します。
なかなか最近はわざわざ出かけることもない。
昔は車で出かけて渋滞で車の中から見たことや、細い脇道を進んで花火が終わるまで車を出せなくなったり・・・
色々な思い出があるがやはり電車で土浦駅まで行き桜川土手の上で見るのが一番良い。
昨日は仕事で銚子に行っていました。
途中の道を少し変えて北浦の方を散策してきました。
気温が高くなり、またあまり人の行かないような寺に立寄ったらツクツク法師が夏に戻ったと思ったのかさかんに鳴いていました。
平地ではコスモスが咲き乱れ、赤とんぼも飛んでいますが、セミはもう鳴いていません。
少し山に入るとこのようにうるさいくらい鳴いていたりします。
さてブログの方は昨日の続きです。
坂東33観音円福寺(飯沼観音)はやはり銚子の中心の寺であるようだ。
伝承では弘法大師(空海)の開祖とも伝えられる。
しかしこの地域は太平洋戦争末期の昭和20年の空襲で多くが焼かれてしまったという。
今の建物の多くはその後に再建されたもの。

入口の仁王門。

新しいのかもしれないがこの仁王像はとても力強い。



本尊の十一面観音像は少し離れた場所の観音堂に安置されているそうだ。
こちらは明日にでも紹介します。
円福寺(飯沼観音)
坂東33観音の27番札所である飯沼山円福寺は五重の塔や仁王門のある場所と本坊が約150m程離れていた。
最初はこのことに気がつかず、仁王門のある方だけだと思っていた。
その後少し歩きまわっているうちにこの本坊の方を発見した。こちらに立派な社務所もある。

五重塔のある方には「観音堂」(本尊の秘仏十一面観音が納められている?)、大仏、二十三夜満願堂、五重塔などがある。
そしてこちらには、

本坊(下の写真)。 寺の本堂はもう一カ所の薬師堂を指すようだ。

この本坊の左手には立派な建物があり社務所だと言うが、この日は葬儀が行われていて写真は遠慮した。



こちらが本坊の右側にある「涅槃殿」
造りは正倉院の校倉造りを模した物となっている。
この涅槃仏は相当大きくて1669年製作されたものだそうで、毎年2月15日の釈迦の入滅の日(陰暦)に開帳されるという。

龍神堂。(下の写真)
海の守り神も龍神のようです。

この龍神堂の前に句碑が置かれていました。
・ ほととぎす 銚子は国の とっぱすれ 古帳庵
江戸小網町の豪商古帳庵が天保12年に銚子を訪れた時に詠んだ句だそうです。
確かに国のとっぱづれにありますね。歌のテンポが面白いのかもしれません。

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最初はこのことに気がつかず、仁王門のある方だけだと思っていた。
その後少し歩きまわっているうちにこの本坊の方を発見した。こちらに立派な社務所もある。

五重塔のある方には「観音堂」(本尊の秘仏十一面観音が納められている?)、大仏、二十三夜満願堂、五重塔などがある。
そしてこちらには、

本坊(下の写真)。 寺の本堂はもう一カ所の薬師堂を指すようだ。

この本坊の左手には立派な建物があり社務所だと言うが、この日は葬儀が行われていて写真は遠慮した。



こちらが本坊の右側にある「涅槃殿」
造りは正倉院の校倉造りを模した物となっている。
この涅槃仏は相当大きくて1669年製作されたものだそうで、毎年2月15日の釈迦の入滅の日(陰暦)に開帳されるという。

龍神堂。(下の写真)
海の守り神も龍神のようです。

この龍神堂の前に句碑が置かれていました。
・ ほととぎす 銚子は国の とっぱすれ 古帳庵
江戸小網町の豪商古帳庵が天保12年に銚子を訪れた時に詠んだ句だそうです。
確かに国のとっぱづれにありますね。歌のテンポが面白いのかもしれません。



銚子散策
前回銚子に行った時に街中を少し散策しました。
まずは銚子港。

現在銚子港の魚の荷さばき場の工事(水産流通基盤整備)中です。
去年末くらいから始まっているようですがまだ完成していません。

漁港から少し観音駅の方に進むと「国木田独歩生誕の地」の碑があります。

その看板の裏に大正時代の地図が印刷されていました。

この独歩の説明板の通りの反対側に石碑が新たに建てられていました。

これは、ここ門前町の街並みつくりが平成21年度の銚子賞を受賞した記念に、街中の20カ所以上にこのような石碑を建てたようです。

そしてこの碑の港側の面に「花如人人如花」と彫られています。
意味は良く分かりませんが、中国ではすてきな女性に人如花などと花のように美しいと使うようです。

そして銚子駅方面に進むと「ヤマサ醤油の本社工場」がありました。

脇に廻ってみるとありました あの赤レンガ塀が・・・。
やはり美しいですね。
石岡も昔はこんな塀があちこちにあったのでしょうね。
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まずは銚子港。

現在銚子港の魚の荷さばき場の工事(水産流通基盤整備)中です。
去年末くらいから始まっているようですがまだ完成していません。

漁港から少し観音駅の方に進むと「国木田独歩生誕の地」の碑があります。

その看板の裏に大正時代の地図が印刷されていました。

この独歩の説明板の通りの反対側に石碑が新たに建てられていました。

これは、ここ門前町の街並みつくりが平成21年度の銚子賞を受賞した記念に、街中の20カ所以上にこのような石碑を建てたようです。

そしてこの碑の港側の面に「花如人人如花」と彫られています。
意味は良く分かりませんが、中国ではすてきな女性に人如花などと花のように美しいと使うようです。

そして銚子駅方面に進むと「ヤマサ醤油の本社工場」がありました。

脇に廻ってみるとありました あの赤レンガ塀が・・・。
やはり美しいですね。
石岡も昔はこんな塀があちこちにあったのでしょうね。


鹿行大橋
昨日が十三夜で明日が皆既月食だとかいってテレビなどでも騒いでおりますが、昨日の台風明けの月は少しいびつであまり美しいとは思いませんでした。
まあ旧暦8月の十五夜に対して旧暦9月の十三夜を愛でてきたのもわからない訳でもありませんが、こちらはやはり花より団子です。
昨日買ったお月見団子を今日のほぼ真丸な凛としたような空気の中に見る月を眺めながら食べることにします。
明日の夜7時半頃から見られる月食も今日のような月だったら良いですね。
ただ6時過ぎくらいから時々雲に隠れたり出たりしていますが、5時半頃はハッとするような月でした。
さて、今日は先日出掛けたついでに廻り道をして北浦方面に行ったので紹介します。
今まで霞ヶ浦の北浦方面に行く機会があまりなかったのです。
鹿島の周辺ということで塚原卜伝の墓や大生神社などには行ったのだが・・・。
今回は玉造から354号線で旧大洋村の方に向かった。

この道が北浦を渡る橋が鹿行(ろっこう)大橋だ。
もちろん鹿島と行方の頭文字をとって付けられた名前だが、天気予報などでも鹿行(ろっこう)地方と呼ばれることも多い。

上の写真は大橋側から北側鉾田方面を眺めたもの。
水戸から江戸の水上交通ルートに昔は使われたのだろう。
徳川崩壊後、徳川慶喜が江戸から水戸に移された時もここを通ったのだろうか。
少なくとも水戸街道などではなく船が使われたものと思われる。
この橋が狭くて、相互通行ができないような橋であったため掛け替えるための工事が2002年から行われてきていたのだが、その時に東日本大震災の大地震が起こった。
全国的には大きく取り上げられていないが、この橋が崩壊し、通行していた車数台が湖に落ちて、1人が死亡した。
もう少し早く完成していればこんなことにはならなかった。
今回の大地震で橋が崩壊して人が犠牲になったのはおそらくここだけだったように思う。

その隣に造られていたこの大橋は事故後に完成を急いで1年後の2012年4月に完成した。
事故後崩落した旧大橋は今年の1月にやっと撤去された。

北浦には3本の橋がかかっているが、ここが一番北の橋になる。
上の写真の方向は南の潮来方向を眺めたもの。

この新しい橋の手前に真中あたりが崩壊した旧大橋があったという。
今の新しい橋は立派な橋である。
まあ旧暦8月の十五夜に対して旧暦9月の十三夜を愛でてきたのもわからない訳でもありませんが、こちらはやはり花より団子です。
昨日買ったお月見団子を今日のほぼ真丸な凛としたような空気の中に見る月を眺めながら食べることにします。
明日の夜7時半頃から見られる月食も今日のような月だったら良いですね。
ただ6時過ぎくらいから時々雲に隠れたり出たりしていますが、5時半頃はハッとするような月でした。
さて、今日は先日出掛けたついでに廻り道をして北浦方面に行ったので紹介します。
今まで霞ヶ浦の北浦方面に行く機会があまりなかったのです。
鹿島の周辺ということで塚原卜伝の墓や大生神社などには行ったのだが・・・。
今回は玉造から354号線で旧大洋村の方に向かった。

この道が北浦を渡る橋が鹿行(ろっこう)大橋だ。
もちろん鹿島と行方の頭文字をとって付けられた名前だが、天気予報などでも鹿行(ろっこう)地方と呼ばれることも多い。

上の写真は大橋側から北側鉾田方面を眺めたもの。
水戸から江戸の水上交通ルートに昔は使われたのだろう。
徳川崩壊後、徳川慶喜が江戸から水戸に移された時もここを通ったのだろうか。
少なくとも水戸街道などではなく船が使われたものと思われる。
この橋が狭くて、相互通行ができないような橋であったため掛け替えるための工事が2002年から行われてきていたのだが、その時に東日本大震災の大地震が起こった。
全国的には大きく取り上げられていないが、この橋が崩壊し、通行していた車数台が湖に落ちて、1人が死亡した。
もう少し早く完成していればこんなことにはならなかった。
今回の大地震で橋が崩壊して人が犠牲になったのはおそらくここだけだったように思う。

その隣に造られていたこの大橋は事故後に完成を急いで1年後の2012年4月に完成した。
事故後崩落した旧大橋は今年の1月にやっと撤去された。

北浦には3本の橋がかかっているが、ここが一番北の橋になる。
上の写真の方向は南の潮来方向を眺めたもの。

この新しい橋の手前に真中あたりが崩壊した旧大橋があったという。
今の新しい橋は立派な橋である。
北浦大橋
今日は皆既月食というので先ほどまで時々月を見ていたが、確かに欠けて行くのだが影が覆っていくだけなのであまり感動するほどではなかった。
それより5時半過ぎに東の空にオレンジ色の真丸の月が一切雲もなく上がって来ている様はまさに感動ものであった。
こうして時々月を見るのも悪くないなと思った。
さて、今日は昨日紹介した鹿行大橋から潮来方面に進んだ北浦の中間くらいに架かる「北浦大橋」を紹介します。
鹿行大橋よりこちらの方が大分長いです。

長さは1295.8m(約1.3km)あります。1995年2月に完成。
淡水湖に架かる橋としては滋賀県の琵琶湖大橋についで日本第2位の長さがあります。

橋の名前の愛称を募集して「サン・ブリッジ」と決まったようですが、あまり聞いたことが無いのでまだ一般的ではないのでしょうか。

県道186号線が通っています。この橋もまだ渡ったことがありません。
橋が完成した時の東側は大野町でしたが、この年の秋に鹿島市に合併されました。
なかなか橋をかけるのも費用がかかり大変ですね。この橋は103億円かかったそうです。

湖岸から北の方を眺めました。
鹿行大橋が小さく見えます。
この北浦の先端が鉾田の町です。メロンが美味しいところですね。
それより5時半過ぎに東の空にオレンジ色の真丸の月が一切雲もなく上がって来ている様はまさに感動ものであった。
こうして時々月を見るのも悪くないなと思った。
さて、今日は昨日紹介した鹿行大橋から潮来方面に進んだ北浦の中間くらいに架かる「北浦大橋」を紹介します。
鹿行大橋よりこちらの方が大分長いです。

長さは1295.8m(約1.3km)あります。1995年2月に完成。
淡水湖に架かる橋としては滋賀県の琵琶湖大橋についで日本第2位の長さがあります。

橋の名前の愛称を募集して「サン・ブリッジ」と決まったようですが、あまり聞いたことが無いのでまだ一般的ではないのでしょうか。

県道186号線が通っています。この橋もまだ渡ったことがありません。
橋が完成した時の東側は大野町でしたが、この年の秋に鹿島市に合併されました。
なかなか橋をかけるのも費用がかかり大変ですね。この橋は103億円かかったそうです。

湖岸から北の方を眺めました。
鹿行大橋が小さく見えます。
この北浦の先端が鉾田の町です。メロンが美味しいところですね。
唐臼神社
霞ヶ浦の北浦沿岸は見所もこれといってないし、関係のある人もいないのであまり行くこともない場所だが、行かなければどんな所かわからない。
そんな気持ちで寄り道をしてみたが、港町でも無く確かにめぼしいものを感じることは無かった。
でもこれも表面的に通っただけだから何もわかっていないと言ってよいだろう。
常陸国風土記にはこちらの方に「白鳥の里」と呼ばれるところが書かれている。
場所は特定されていないが大洋村の内陸側であろう。
角折などという地名も出てくるがこれは今も地名で残っている。

鹿行大橋を渡って、北浦の東岸にそって道路沿いを車で走ったが、北浦大橋の少し手前に少しまとまった部落があった。
この辺りには少し古い神社があるだろうと気にしてみていたら、少し横道に入ったところの山の上に神社があることに気がついた。

小山の下の入口はには「村社唐臼神社」とあった。

山を巻くように登り道がつけられている。

少し登ったところに神社と二の鳥居があった。

この辺りの神社としては比較的整備され、大事にされているように感じた。

この「唐臼(からうす)」という神社の名前だが、全国に何社かあるようだ。
テコ棒を足で踏んで、臼の中の籾米をついて玄米にする農機具を言うようだがこれを祀っているとは少し考えにくい。
もう少し違った意味があったのではないかと思うが確かめようもない。
愛知県津島市に唐臼という地名があるし、この近くには小野妹子の墓ともいわれる唐臼山古墳もある。

このような場所も気にかけていると別な角度から新しい発見もありそうな気がする。
本殿は廻りを覆われていて良く見ることはできません。

山から元の入口に戻った通りの向こう側に「大野高齢者センター」という建物がありました。
そんな気持ちで寄り道をしてみたが、港町でも無く確かにめぼしいものを感じることは無かった。
でもこれも表面的に通っただけだから何もわかっていないと言ってよいだろう。
常陸国風土記にはこちらの方に「白鳥の里」と呼ばれるところが書かれている。
場所は特定されていないが大洋村の内陸側であろう。
角折などという地名も出てくるがこれは今も地名で残っている。

鹿行大橋を渡って、北浦の東岸にそって道路沿いを車で走ったが、北浦大橋の少し手前に少しまとまった部落があった。
この辺りには少し古い神社があるだろうと気にしてみていたら、少し横道に入ったところの山の上に神社があることに気がついた。

小山の下の入口はには「村社唐臼神社」とあった。

山を巻くように登り道がつけられている。

少し登ったところに神社と二の鳥居があった。

この辺りの神社としては比較的整備され、大事にされているように感じた。

この「唐臼(からうす)」という神社の名前だが、全国に何社かあるようだ。
テコ棒を足で踏んで、臼の中の籾米をついて玄米にする農機具を言うようだがこれを祀っているとは少し考えにくい。
もう少し違った意味があったのではないかと思うが確かめようもない。
愛知県津島市に唐臼という地名があるし、この近くには小野妹子の墓ともいわれる唐臼山古墳もある。

このような場所も気にかけていると別な角度から新しい発見もありそうな気がする。
本殿は廻りを覆われていて良く見ることはできません。

山から元の入口に戻った通りの向こう側に「大野高齢者センター」という建物がありました。
正岡子規の句碑
本日、石岡市内にある金刀比羅神社で正岡子規の句碑の除幕式があった。
金刀比羅さんは霞ヶ浦の水運が盛んであった頃は笠間の稲荷と並ぶほどの参拝者があったという。
水戸街道もこの神社の前を通っていたし、陸前浜街道とも呼ばれていた。


正岡子規が学生であった頃に水戸の学友を訪ねて水戸街道を水戸まで徒歩で歩いた。
江戸を出て藤代に泊まるが雨も降って4月ではあったが寒さもありこの時の無理がたたって病に倒れたともいわれている。

旅の初日の宿は気持ちもよくなく、2日目には土浦を過ぎてようやく雨も上がり石岡まで足を延ばして「万屋」という宿屋に泊まった。
この宿のもてなしが気に行って「万屋は石岡一等の宿」だと「水戸紀行」に記している。

その時に石岡周辺では2つの句を詠んでいる。
「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」(今回の句碑)
「白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體」(こちらに記事)

土浦では霞ヶ浦が見たいと街道筋では見えなかったので高台にあった真鍋公園に登り、そこからの眺めに大いに喜んだ。
これは以前ブログに書いた。
「消えた真鍋公園と正岡子規」(こちら)

石岡に子規の句碑を建てるべきだと言って来て四年が経つ。
まあようやく完成したので遅かったが良しとしましょう。

写真の正面奥にうっすらと筑波山が見えます。天気が良ければくっきりと見えるでしょう。

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金刀比羅さんは霞ヶ浦の水運が盛んであった頃は笠間の稲荷と並ぶほどの参拝者があったという。
水戸街道もこの神社の前を通っていたし、陸前浜街道とも呼ばれていた。


正岡子規が学生であった頃に水戸の学友を訪ねて水戸街道を水戸まで徒歩で歩いた。
江戸を出て藤代に泊まるが雨も降って4月ではあったが寒さもありこの時の無理がたたって病に倒れたともいわれている。

旅の初日の宿は気持ちもよくなく、2日目には土浦を過ぎてようやく雨も上がり石岡まで足を延ばして「万屋」という宿屋に泊まった。
この宿のもてなしが気に行って「万屋は石岡一等の宿」だと「水戸紀行」に記している。

その時に石岡周辺では2つの句を詠んでいる。
「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」(今回の句碑)
「白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體」(こちらに記事)

土浦では霞ヶ浦が見たいと街道筋では見えなかったので高台にあった真鍋公園に登り、そこからの眺めに大いに喜んだ。
これは以前ブログに書いた。
「消えた真鍋公園と正岡子規」(こちら)

石岡に子規の句碑を建てるべきだと言って来て四年が経つ。
まあようやく完成したので遅かったが良しとしましょう。

写真の正面奥にうっすらと筑波山が見えます。天気が良ければくっきりと見えるでしょう。


