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御岩神社(2)

 常陸国風土記の久慈郡のところに

「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」(口訳・常陸国風土記より)

御岩神社11

仁王門を入るとたくさんの石塔などが並んでいます。
ほとんどがどうやら無縁仏などを祀っているようです。

この神社を含め裏山全体を「かびれ」と称していたもので、神がこの峰に登ってすんだという。
一体どういうことなのか?

ふもとの村には昔からの縄文人などが住んでいた場所で、それを従えた大和民族の武人が祭られたのか?
それとも昔からここに住んでいた人びとの信仰の場所であったのか・・・。

江戸時代も水戸藩の祈願所として信仰を集めたそうで、この裏山に奥の院のような「かびれ神宮」があるそうで、ここが水戸光圀の大日本史筆初之儀処だと書かれています。

御岩神社18

一周が30分程だと言うのですが、今回は御岩(おいわ)神社だけで引き返してきました。
やはりもう少し足を延ばして一周すればよかったとも思いますが、山道を登ることになりそうでしたのでまたの機会にしました。

訪れていた多くの若者たちもあまり奥に行く人は少なそうでした。

確かに神社まででもこの神域の雰囲気は感じることができます。

御岩神社12

少し進んだ参道の分かれ道あたりから仁王門を振り返りました。

御岩神社14

この分かれ道の左手に

御岩神社13

「百観音堂跡」(五間半 五間 二層建)
「常念仏堂跡」(六間半 六間 小羽葺)

これらは神仏習合の時のものなのだろう。

御岩神社15

江戸時代にはたくさんの建物があったようです。明治になり寺の関係は全て壊した。
何と言うことでしょう。
江戸時代の全域の絵図(下の写真)がありましたので載せておきます。
クリックすれば大きな写真となります。

御岩神社19


御岩神社16

俳誌「かびれ」孤悠句碑。

大竹孤悠が日立で創刊した俳句誌「かびれ」が、創刊50年の昭和56年に亡き孤悠の句を弟子たちがここに残したもの。

  「残り業の人のけはひに散りかかる」

御岩神社17

 「月の夜の石に還へりし道祖神」

孤悠亡きあと「かびれ」を主宰した小松崎爽青の句碑

御岩神社20


御岩神社21

神社拝殿などもう少し明日に紹介します。

日立・十王 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/26 14:27
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