FC2ブログ

沢辺橋と小町像

 土浦市の北端部に清滝観音(坂東33観音の一つ)と東城寺があるが、この中間に小野地区があり、ここは小野小町伝説が残され、「小町の里」として整備が進んでいる。

先日訪れた時にいつもとは違う道を通ったが、川に架かる橋の四隅に変わった石像が置かれていた。

さわべ橋01

小野小町が旅の途中で訪れた時をモチーフに造られた笠を被って着物姿の小町と思われる姿である。

さわべ橋02

土浦方面からこの道をくると真直ぐ小町の館へ行く。
下を流れる川はそれほど大きくはないが「天の川」の支流である。

この川はこの先の山(東城寺方面)を水源とし、もう一つかすみがうら市の雪入地区から流れてくる川と七会小学校辺りで合流し、さらに石岡市の高浜で恋瀬川に合流して霞ヶ浦に注いでいる。

この小町の橋柱4本は皆同じ姿のようだ。
橋を改修したり、新設するときに同時に行ったもののようだ。
像の台座の1つには「2000年3月」と刻まれていた。

さわべ橋03

近くでススキを通して小町の里と裏山方面を見た。
この山の上には「小野越」という地名が残っている。
小町はこの山を越えて、向こう側の石岡市仏生寺の北向観音へお参りしたとされています。

(物語はこちらに書いていますのでよろしければ参照下さい。 → 小町伝説と北向観音


恋瀬川と筑波山 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/11 19:28

年末の忙しい時に解散だって?

 今朝は予約していた近くの歯医者に行った。朝一番の予約は待たされることが無い。

仕事もあるが、こんな時は休みとして家でやりたいことをやるはずであったが、なんか天気も悪く、寒いのでこうしてパソコンに向かってブログを書いている。
また近くで地震があった。少し身構えたがすぐに落ち着いた。
まだ3年半前の悪夢が頭をよぎる。

先日からの鼻風邪がまだ抜けない。
今日は暖かくしてのんびりすることにしよう。

昨日あたりから急に衆議院の解散話が騒がれ始めた。

なってこった!

何故解散するのか? 
先日内閣の人事を更新したばかりだし、解散をする大義名分が何もない。

何か自分たちの都合ばかりを考えて首相が解散をしていたらきりがない。
また議員定数の大幅削減をここでやることでの解散ならば意味があるが、解散風で右往左往している議員たちもみな自分のことばかりだ。

なんてこった!

今朝も近くの県議会議員の事務所では人が集まり・・・・ この時だけしか顔の見えない議員さん。
やはり有権者がこのように応援している議員が当選すれば何か自分たちに都合のよいことをしてくれると思っているのだろう。

このような関係はいつまでも無くならないだろうが、さもしい、みすぼらしい と思うのは私だけだろうか?

この地域は選挙期間なるとある特定議員を中傷する怪文書が流れたりする。
何故こう言うのが無くならないのだろうか?
昔茨城に越して来た時(もう40年近くも前)に、地元選挙に現ナマが流れていたようだ。
我が家にも来て置いていった人がいた。これをその日の夜に返しに行った。
「間違って置いていかれたようですので返しに来ました」と言って・・・。

まあ悪い人ではないが地元の有志で活躍していたご老人だ。
でも返しに行ったら一言・・・
「こうして返しに来た人は初めてです」
と。

東海村原子力発電の再稼働の意思を表明している候補はほとんどいない。
何か他所事だ。

最近太陽光パネルが畑や空き地に次々と建設されている。
電力会社はこの電力買い取りに制限を設け始めた。
確かに電気代が40円/kW時もしたら産業は成り立たない。
太陽光の買い取り価格も下がっていかざるを得ない。
まあ業者も法律で買い取りが義務つけられ、申請した時の価格でしばらく買い取ってもらえるというので急に増えたとは思う。

年間8000時間稼働する1000kWの機械だと電気代だけで年間3億2千万円となってしまう。
これでは海外と競争できない。 当然10~15円/kW時程度でなければ海外製品に負けてしまう。

原発再稼働に反対を唱えるのはたやすい。私もそうしたい。
でもどのように再生可能エネルギーを確保し、国の基幹電力として発展させるのかの道筋を決めることが大切だ。

40年経った原発は廃炉とする方針をまもり、どのように全原発を止めて行くのか・・・
全く見えてこない。

数か月前のある日こんな相談を受けた。

「私の畑の隣の敷地に、突然太陽光パネルが設置されることになった。
説明は受けたが、反対しても何も聞いてくれない。
反対運動に力を貸してほしい。」

理由は
・電力の発電効率は30%くらいで残りは熱になったりするはず、周りに影響が無いのか?
・太陽光パネルにもモーターが使われていて騒音もあるという。心配だ。
・農地法では農地以外に転用するときはその敷地の隣近所の了承を得ることと書いてある。
 これに当てはめて、反対しているのに建設を止めさせられないか?

ということでした。
この話には根本的に無理があり、丁重にお断りしました。
ノンビリ畑仕事をしている里山にキラキラする金属の異物が入れば里山も台無しになるし景観が損なわれるとの思いは確かに私にもあります。
でも上の理由では反対するのもナンセンスです。
(発電効率が低いからといって周りに影響など無いでしょう。モータの音などもわずかなものです。)
農地法など昔の遺物で今にあった物に作り変えなければなりません。

色々な考えの人が多いと感じた次第です。

中華02

月曜日に銚子に行った時はイオンモールで中華屋さんに入った。
ここもたびたび利用している。中国人がやっているようだ。

中華01

白身魚のあんかけ定食(850円+税)(杏仁豆腐付き)

つらつら思うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/12 11:21

猿田神社の赤レンガ橋

(本日2本目です) 

この銚子市にある猿田神社は港に近い街中から見るとかなりの山奥という感じの場所である。

猿田彦が祀られている由緒ある神社で巫女さんもいてかなり大きい神社である。

その猿田神社の脇に鉄道が建設されたのは明治31年(1898)1月のことだ。
今では猿田駅も無人の駅で乗車人員は1日にたったの240人程度だという。

猿田神社06

この鉄道のレンガ橋は神社の長い参道の途中に造られた。

鉄道建設時の歴史は、
明治30年(1897)6月に総武鉄道が成東(現山武市)と銚子間が完成。
しかし、この猿田地区も鉄道を通してほしいと要望が出され、猿田神社の敷地を一部提供する(神社宮司)ことで合意されて建設が始まったという。

このレンガの橋(先神橋)は総武鉄道が駅用地などの提供の代わりに立派な橋を作って神社に寄付したものだという。

明治の貴重な遺産であり、歴史も知るとなお赤レンガがいとおしく感じるものである。

赤レンガ | コメント(4) | トラックバック(0) | 2014/11/12 17:40

浄妙寺(多古町)

 千葉県多古町は多古米の産地として有名になっているが、ここが縄文時代の遺跡としてとても気になっているものがある。
約5000年前頃の縄文後期の丸木舟がこの周辺でたくさん発掘されている。

先日また多古町に立寄った(遠回りだが少し見たいところがあった)。
その時に多古町で最も古いといわれている浄妙寺に行ってみた。
細い脇道をくねくねと入り、坂を下ったところに寺はあった。

浄妙寺01
法性山浄妙寺 日蓮宗の寺で、本尊は釈迦如来。

浄妙寺02

この寺の創建が古く、天平年間(757-765年)に唐から日本に来て唐招提寺を建てた鑑真(がんじん)が開創だという。
そのため、当初は律宗で「東耀寺」と言ったという。

その頃の物はしかし何もないし、感じることもなかった。

寺の入口にある山門(仁王門)と金剛力士像は宝暦12年(1762年)の建立。
門の上に掲げられている扁額「法性山」は寺の22世の1743年に書かれたものと言う。

浄妙寺03

浄妙寺04

浄妙寺05
律宗から真言宗となり鎌倉時代の終わり南北朝時代のの1346年に日祐によって日蓮宗に改宗された。

寺の本堂に行くとそこの縁側で2人の御婦人が話していた。

庭の花の手入れをしていた人と寺の奥さんだろうか。
私が近づくと寺の奥に入ってミカンを手にとってどうぞと差し出された。

御遠慮してきたが他に訪れている人はいなかったので歓迎されたのかもしれない。

徳川家康からは朱印12石の寄進があったという。

浄妙寺06

この場所は先日紹介した日本寺の近くであるが市街地からは更に奥まったところにあった。
ひっそりとはしていたが近所からは慕われているお寺なのではないだろうか。
下総板碑などや宝篋印塔なども目についた。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/13 18:36

満願寺

 銚子の犬吠埼の近くにこの満願寺がある。

坂東三十三観音の二十七番札所である飯沼観音と呼ばれる円福寺(記事はこちら1こちら2こちら3)と同じ系列の寺だという。

奥の院ともいわれるようですがここは願いがかなった(満願)を願い、また達成を祝う寺のようでした。

満願寺02

入口に大きな赤い仁王門が構えています。

満願寺01

満願寺03

かなり迫力のある仁王(金剛力士)像が置かれています。

満願寺04

関東八十八ヵ所霊場 特別霊場(7か所:88には入っていない特別な寺) 補陀洛山 満願寺 本尊は十一面観世音菩薩です。

満願寺05

なかなか立派なお寺でした。

満願寺06

満願寺07

満願寺08

こんなにたくさんの方が、四国88ヶ所+百観音(西国33、坂東33、秩父34)の観音霊場巡礼を達成(満願成就)したのでしょう。

満願寺09

満願寺10

満願寺11

満願寺12

満願寺13

銚子 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/11/14 18:33

渋谷嘉助旧宅正門(多古町)

 千葉県多古町に渋谷嘉助旧宅正門.があるとブログリンク先の「成田に吹く風」さんの紹介記事で見て立寄ることにした。

国登録有形文化財で千葉県教育委員会のHPでは
「明治43年(1910)頃の建築で、煉瓦造平屋建。和瓦葺の屋根を載せており、正面左右を倉とする長屋門風の形態をとっている。赤煉瓦の壁面は、1段ごとに交互に小口面と長手面とが現れるイギリス積みで構成。外壁はバットレス(壁の倒壊を防ぐために設ける壁から張り出した控壁)により正面を3間に区切っており、中央には半楕円形アーチの出入り口が設けられている。また、側面の上部にある2連の丸窓も特徴的であり、建築当時の進取の気風を感じ取ることができる。 」
と書かれている。

渋谷家01

この渋谷嘉助(しぶやかすけ)という人物のことは何も知らなかったので調べて見ると大変面白い。
多くの紹介きじでは、「日本で最初にダイナマイトを輸入した人物」という説明であった。
でもこれだけでは時代背景も人物像も見えてこない。もう少し詳しく見て見たい。

渋谷家02

この田舎と言っては失礼だが決して開けた場所ではないが、ここ下総中村(現千葉県多古町中村)に渋谷嘉助は幕末の嘉永2年(1849)に里の長の家に生まれた。

しかし家運は次第に衰退。
叔父(父の弟)の渋谷忠兵衞が江戸京橋で銃砲火薬商を営んでおり、そこに11歳で入り商売をおぼえた。
その後幕末維新を経験し、実父が亡くなって、叔父忠兵衞の養子になりこの江戸の鉄砲火薬店を継ぐことになった。

この鉄砲火薬商が日清戦争(明治27~28年)(1894~1895)で渋谷嘉助は実業家としての表舞台に出てきたようである。

渋谷商店は日本橋で火薬類を販売する陸軍御用達の店になっており、日清戦争で日本に割譲された台湾にいち早く社員を派遣して支店を設けた。色々何事も最初に開拓するのは大変だったようだが、やはり腹の据わった人物であったに違いない。

また鉱山用にダイナマイトを最初に日本に輸入したのもこの渋谷商店であったという。
火薬の運搬は当時大分神経を使う仕事だったであろう。
日露戦争などでも火薬やダイナマイトの入手に奔走した。

渋谷家03

東京や台湾の商店とは別に、岩手県の大船渡や赤崎でこの人物のことが良く取り上げられている。
それは渋谷商店を義弟に譲り、嘉助は明治43年(1910)に大船渡の対岸にある赤崎にある弁天山で石灰石の採掘(渋谷鉱業)を始めたのである。

それが国内の鉄鋼産業などに供給され、さらにセメント事業も着手し、いまはここに太平洋セメント大船渡工場がある。

渋谷家04

現地で名前を残したのは、大船渡村と赤崎村との間には江戸時代から続く漁場をめぐる紛争が絶えなかったという。
この中間に位置していた珊琥島を嘉助が所有しており、それを大正3年にそっくり大船渡村と赤崎村に寄付し、両者の和睦を訴えたのである。

渋谷家06



そして島に私財を投じて公園を整備し2つの村の共有財産として譲り渡したのです。
大正15年に両村は渋谷嘉助に感謝して、この公園に顕彰碑が建立されました。

今ではこの両村は同じ大船渡市として一体となっていますので、このことがなければ別々のままであったかもしれません。

渋谷家05

この頃の巨額な富を築いた財界人が今の日本の大企業や、財閥となっています。
皆調べて見ると先見の明もあり自分の事を顧みずに社会貢献を行っています。

見方を変えればそれだけ財を持てばこそできたともいえるのですが、皆苦労をしたり日本のためと懸命に振舞っていたことが見て取れます。



(多古町中村)


(大船渡市珊琥島)

珊琥島

赤レンガ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/11/15 17:34

赤レンガ塀(石岡)

 石岡の街中にも所々に赤レンガの塀や煙突が残されている。

その多くは昔ここ石岡に醸造所がいっぱい立ち並んでいた場所の名残である。

明治22年春にここを訪れた正岡子規は「水戸紀行」の中でこう記している。

「筑波へ行く道は左へ曲れと石の立ちたるを見過して筑波へは行かず草臥ながらも中貫、稻吉を經て感心にも石岡迄辿りつき萬屋に宿を定む 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす」

この醤油工場は今はほとんど消えてしまったが、酒造りは残っている。

さて今日紹介するのは国分寺の門前町の入口にある「青柳新兵衛商店」さんのレンガ塀である。

レンガ塀1

1~2年ほど前まではこのレンガ塀の前に居酒屋さんとガレージがあり、前を通ってもその存在に気がつかない人も多かっただろう。

しかし、その一角にコンビニエンスストアを開店し、この古びた赤レンガまえのガレージなどをすべて取り払った。

レンガ塀2

3年半前の東日本大震災でこの塀も被害を受け、また敷地内にあった蔵などもかなり被害にあった。

青柳新兵衛商店さんは醤油や酒などとは違って、米穀商である。
この国分寺の門前町は水戸街道、笠間街道などが交差する場所でもあり、江戸時代から市で賑わった。

この塀が何時頃作られたかはわからないが明治期の名残なのかもしれない。
どこか懐かしくなるのである。

赤レンガ | コメント(5) | トラックバック(0) | 2014/11/16 15:18

猿田神社(銚子)

 一昨日は朝起きると一面白くなっていました。霜が降りたようです。

また明日は寒くなるようですね。
体調も悪いので記事を仕入れに出かけられません。
しばらく今までの記事でつないで行きます。

 銚子の猿田神社です。ここは大分前に紹介しました(こちら1こちら2こちら3こちら4

そのため今回は神社の紹介は省きます。

もう3週間くらい前の雨の日にまた行ってきました。

猿田神社04

少し雨が降っていたこともあり、参拝客は少なかったですが、巫女さんたちは何人か詰めていました。

猿田神社03

まあ書く事もないので写真を少し載せます。
ここの本殿は素晴らしいのですが、写真は暗くなってしまいました。

猿田神社02

猿田神社01

銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/17 20:01

また長楽寺へ

 この八郷地区狢内(現石岡市龍明)にある長楽寺をまた訪れた。

何度か書いてきたし、天狗の話がのこされ、また映画撮影などに何度も使用された場所なのだが、ここの佇まいはそれぞれの四季で何度訪れても良い。

長楽寺01

この入口の苔むし、少し危なくなった石段を登る。
すぐ上に仁王門がある。


長楽寺02

そして門の先に本堂が見えるが、この寺は最初に見た者の心をすぐにつかんでしまう。


長楽寺03

寺は無住で電気も引かれていない。これが映画などの時代劇で利用される条件なのだろう。

わたしもこの寺の写真をプロフィールに使っているので使い始めて4年以上経つ。

ブログ1周年(2011年8月)で風の会の白井主宰から送られた詩が頭をよぎった。

-----------------------------------------
ブログ「まほらの風に吹く風に乗って」の添付写真を見ていてふと下記の詩が口をついて出た。

『風のこえ』

何時も呼んでいるのに

なぜ聞こえないふりをするのですか。

あなたがきっとわかる様にと

私の言葉を文字にも書いて風に声しているのに

あなたは何時も聞こえないふりをしてしまう。

それは私の事を嫌いだという事ですか。

かまいませんよ。

あなたに嫌われても私はあなたを呼び続けます。

そして、

私の呼ぶ声を風に運んでもらいますから

(ひろぢ)

-----------------------------------------

それから3年3か月。今もこうして同じように声を風に運んでもらっています。
読んでいただいている方も増えてきていますが、一言コメントなどを頂けると嬉しいですね。

明日は銚子に出かけますが、体調もまだよくないのでとんぼ帰りになりそうです。

狢内と長楽寺 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2014/11/18 20:28

横利根川

 霞ヶ浦から潮来方面に流れ出る川を北利根川とか常陸利根川という。
そしてこの北利根川と利根川とを結ぶ水路が横利根川です。

霞ヶ浦の水運はここの横利根川から利根川に入って上流に上るルートだったようだ。
今でも時々この先にある横利根閘門を開けて観光船が通ることがあるが、普段は静かな太公望のメッカとなっている。

横利根01

利根川方面。
今回は「卜杭(ぼっくい)」の地名が残っているというあたりを川沿いに通って見た。
しかしこの地名はわからなかった。

横利根04

今回は時間的にも少し遅かったので旭は大分高くなり、よい天気で太陽の光がまぶしい。

横利根02

常陸利根川方面。川の流れは静かでのどかである。

横利根03

郵便ポスト。
1日1回。
まあこれは普通だが、ここは稲敷市のはずれになり、郵便局は土浦局となっていました。


阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/19 21:33
« Prev | HOME | Next »