「歴史の里いしおかめぐり」展が開催されています。
石岡市のまちかど情報センター内のギャラリー会場で
◆兼平ちえこのふるさと散歩
「歴史の里いしおかめぐり」展
が開催されています。
期間: 11月1日(土)~9日(日)
兼平さんは風の会の会員で舞台などでも背景画を担当していただいています。
ふるさと風の会で発行した(兼平ちえこのふるさと散歩)「歴史の里いしおかめぐり」の本に挿絵として使用されている原画 約65枚 を展示しています。
お近くにこられましたら是非お立ち寄りください。

少し絵の写真を数枚UPさせていただきます。



◆兼平ちえこのふるさと散歩
「歴史の里いしおかめぐり」展
が開催されています。
期間: 11月1日(土)~9日(日)
兼平さんは風の会の会員で舞台などでも背景画を担当していただいています。
ふるさと風の会で発行した(兼平ちえこのふるさと散歩)「歴史の里いしおかめぐり」の本に挿絵として使用されている原画 約65枚 を展示しています。
お近くにこられましたら是非お立ち寄りください。

少し絵の写真を数枚UPさせていただきます。



安食駅
さて、成田方面に向かって行ったのは成田山新勝寺ではなく、安食(あじき)です。
何で? なんて思われそうですが、ここの龍角寺を見ておきたかったのです。
今まで古東海道が下総国の国府(市川)から常陸国の国府(石岡)に渡るにはどのようにしてきたのかと考えてきました。
時代でかなり変わってきたのですが、この龍角寺方面から成田や鹿島は近いのですが、昔の流れ海を渡って常陸国に来るにはこの辺りからやってきたとの考えも捨てきれません。
ここは安食(あじき)という地名ですが、かすみがうら市の旧出島地区には安食と書いて「あんじき」と読む地名があります。
全国にもこの両方の読みがたくさん混在しています。どのような意味があるのでしょうか。

成田線の安食駅に行ってみました。
特に何もありません。
我孫子から成田まで走っている成田線(成田から先に銚子までも続いています)。
この線の駅名は皆面白いのです。それぞれ古臭い感じはしますがとても歴史を感じます。
「布佐」 は(ふさ)=総と同じで総国ですので麻です。
「木下」は(きおろし)=材木を川に下ろした場所又はその反対? それとも。「き(処)・おろし(崖)」で崖地?
「小林」は(こばやし) 「ふる(降る)・はやし(早し)」の転訛で浸水しやすい崖地という意味か。または川の流れの早い所?
「安食」は(あじき)は「あし(崖)・き(処)」で崖地という意味とか。
「下総松崎」は(しもうさまんざき) 読みは難しいが「松崎」は戦国時代頃からの名前らしい。

昔成田から海外に出張で出かけた時に我孫子からこの成田線に乗った。
まあのんびりした電車という感じで単線であった。
電車のすれ違いに駅で少し待たされたりしたし、空港に行く大きな荷物を持って乗っているのがどこか場違いのような感じだった。
その後バス路線ができて空港にもバスでいくか車でも近くのパーキングもそれほど高くは無いので旅行などの時は利用した。
最近は迎え専門だから車で行って空港の駐車場に止めることが多い。

この安食の駅前も閑散としている。
近くに都会への通勤の団地もたくさんできたのだがこの電車が不便だというのでほとんどが車での通勤が多いという。

ここは栄町という。東は成田市、西は印西市に挟まれている。
北は利根川に接し、南は印旛沼があります。
この町には龍角寺があり、この台地に地名として広い範囲で使われているので「龍のまち」と書かれた看板がありました。

いろいろ見所が書かれているが今回は時間が無いので龍角寺だけを目指してきたのだが、すぐわかると思ったのが間違いで少し脇道をうろうろしてしまいました。
まあこれはいつものことですので・・・・。
でも山道などがだんだん細くなってきたりして引き返す場所が無いなんてこともしばしばです。
今回もそうでした。(笑)
途中寄り道した所なども含めて次回から数回に分けて紹介します。
何で? なんて思われそうですが、ここの龍角寺を見ておきたかったのです。
今まで古東海道が下総国の国府(市川)から常陸国の国府(石岡)に渡るにはどのようにしてきたのかと考えてきました。
時代でかなり変わってきたのですが、この龍角寺方面から成田や鹿島は近いのですが、昔の流れ海を渡って常陸国に来るにはこの辺りからやってきたとの考えも捨てきれません。
ここは安食(あじき)という地名ですが、かすみがうら市の旧出島地区には安食と書いて「あんじき」と読む地名があります。
全国にもこの両方の読みがたくさん混在しています。どのような意味があるのでしょうか。

成田線の安食駅に行ってみました。
特に何もありません。
我孫子から成田まで走っている成田線(成田から先に銚子までも続いています)。
この線の駅名は皆面白いのです。それぞれ古臭い感じはしますがとても歴史を感じます。
「布佐」 は(ふさ)=総と同じで総国ですので麻です。
「木下」は(きおろし)=材木を川に下ろした場所又はその反対? それとも。「き(処)・おろし(崖)」で崖地?
「小林」は(こばやし) 「ふる(降る)・はやし(早し)」の転訛で浸水しやすい崖地という意味か。または川の流れの早い所?
「安食」は(あじき)は「あし(崖)・き(処)」で崖地という意味とか。
「下総松崎」は(しもうさまんざき) 読みは難しいが「松崎」は戦国時代頃からの名前らしい。

昔成田から海外に出張で出かけた時に我孫子からこの成田線に乗った。
まあのんびりした電車という感じで単線であった。
電車のすれ違いに駅で少し待たされたりしたし、空港に行く大きな荷物を持って乗っているのがどこか場違いのような感じだった。
その後バス路線ができて空港にもバスでいくか車でも近くのパーキングもそれほど高くは無いので旅行などの時は利用した。
最近は迎え専門だから車で行って空港の駐車場に止めることが多い。

この安食の駅前も閑散としている。
近くに都会への通勤の団地もたくさんできたのだがこの電車が不便だというのでほとんどが車での通勤が多いという。

ここは栄町という。東は成田市、西は印西市に挟まれている。
北は利根川に接し、南は印旛沼があります。
この町には龍角寺があり、この台地に地名として広い範囲で使われているので「龍のまち」と書かれた看板がありました。

いろいろ見所が書かれているが今回は時間が無いので龍角寺だけを目指してきたのだが、すぐわかると思ったのが間違いで少し脇道をうろうろしてしまいました。
まあこれはいつものことですので・・・・。
でも山道などがだんだん細くなってきたりして引き返す場所が無いなんてこともしばしばです。
今回もそうでした。(笑)
途中寄り道した所なども含めて次回から数回に分けて紹介します。
高浜虚子碑と長門川
安食手前に通りから脇道方面に「高浜虚子碑」と案内板があった。
道は狭そうだが折角来たのだから見ておかないといけません。
少しくねくねと狭い道を進みました。
すると開けた川岸に何やら石碑がありました。
風光明美なところなのでしょう。

利根川と印旛沼をつなぐ川がこの長門川ですが、やはり流れはほとんどないくらい穏やかです。
もっとも大昔は利根川も印旛沼も一体で大きな流れ海の一部であったはずです。

後に見えるのは「長門橋」です。
ここも国道356号(利根水郷ライン)が通っているのですが、この橋はきっと重量制限がありそうです。
私が最初に通っていたところも356号線でしたがここもまた356号線のようです。
私はこの橋は渡っていません。

「水温む利根の堤や吹くは北」
大正6年4月26日、子息としを氏を初め日日国民両新聞記者等20余名の同門を引き連れ、高浜虚子先生春の大利根に来る。これを迎えんとして参加する者、千葉・茨城の俳人160余名、丹波の泊雲氏醸造の銘酒「小鼓」を打ちながら安食の長門橋より高瀬舟に乗る。小鼓に酔春の歓喜交々唄ふ。ことに大漁節の合唱は對岸の人々を驚かしめ、灯ともる頃矢口川岸に上陸、それより龍路をたどり橋本旅館に泊り盛大な句会を催せり。為めに此の辺りの俳筵大いに興るを当時の国民新聞は報じ、又鈴木三羊もその模様をかく描写してゐる。
(現地石碑)

すぐ上の横道脇に置かれた地蔵と青面金剛。
この辺りの地形を見るにはやはり昔の姿を思い浮かべるしかありません。
それにはこのFloodMapsが便利です。
これは海面高さを+6mとした時のものです。
印旛沼と利根川がつながりました。
そして陸地の境界線を成田線が走っていることがわかります。

道は狭そうだが折角来たのだから見ておかないといけません。
少しくねくねと狭い道を進みました。
すると開けた川岸に何やら石碑がありました。
風光明美なところなのでしょう。

利根川と印旛沼をつなぐ川がこの長門川ですが、やはり流れはほとんどないくらい穏やかです。
もっとも大昔は利根川も印旛沼も一体で大きな流れ海の一部であったはずです。

後に見えるのは「長門橋」です。
ここも国道356号(利根水郷ライン)が通っているのですが、この橋はきっと重量制限がありそうです。
私が最初に通っていたところも356号線でしたがここもまた356号線のようです。
私はこの橋は渡っていません。

「水温む利根の堤や吹くは北」
大正6年4月26日、子息としを氏を初め日日国民両新聞記者等20余名の同門を引き連れ、高浜虚子先生春の大利根に来る。これを迎えんとして参加する者、千葉・茨城の俳人160余名、丹波の泊雲氏醸造の銘酒「小鼓」を打ちながら安食の長門橋より高瀬舟に乗る。小鼓に酔春の歓喜交々唄ふ。ことに大漁節の合唱は對岸の人々を驚かしめ、灯ともる頃矢口川岸に上陸、それより龍路をたどり橋本旅館に泊り盛大な句会を催せり。為めに此の辺りの俳筵大いに興るを当時の国民新聞は報じ、又鈴木三羊もその模様をかく描写してゐる。
(現地石碑)

すぐ上の横道脇に置かれた地蔵と青面金剛。
この辺りの地形を見るにはやはり昔の姿を思い浮かべるしかありません。
それにはこのFloodMapsが便利です。
これは海面高さを+6mとした時のものです。
印旛沼と利根川がつながりました。
そして陸地の境界線を成田線が走っていることがわかります。

龍角寺(1)
千葉県印旛沼周辺に伝わる有名な龍の伝説がある。
-------------------------------------------------------------
昔々のことです。
印旛沼に沼の主である龍がいました。
この龍はとても人が好きで、時々青年に姿を変えて村人の所に現われて村人と一緒に交流を楽しんでおりました。
村人もこの青年の首にうろこがあることに気が付き、龍であることを知っていたのです。
ある年のこと、 村には毎日毎日激しい日照りが続き、農作物は枯れ、村人たちは日増しに生活は苦しくなっていきました。
その姿を見て胸を痛めたこの龍の青年は、村人への恩返しのため自分の命も惜しまず雨を降らせることを決意しました。
龍はありったけの力で、印旛沼の残りすくなくなった水面から天に向かって昇って行きました。
天に向かって登って行った龍は天をするどく睨みつけました。
すると、たちまち黒雲がたちこめ、あたり一面に雨が降り始めました。
雨はしばらく降り続け、あたりの乾いた地面に潤いをもたらし、やがて轟音と閃光が走りました。
すると天から黒い塊が3つ飛び散り、雨は止みました。
この恵の雨に歓喜している村人のもとへ、どこからか現れた老人が告げました。
「龍は大竜王から雨を降らせることを禁じられていたのだ。しかしその掟をやぶった印旛沼の竜の彼はこの大竜王の怒りに触れ、体を引き裂かれてしまったのだ。」
村人たちは大変悲しみ、龍の亡骸を探し出し、それぞれの体が落ちていた場所に寺を建て、龍の供養をしたのです。
龍の頭(角)が落ちたところには龍角寺、龍の体が落ちたところには龍腹寺、そして龍の尾が落ちたところには龍尾寺となり今に伝わっています。
-----------------------------------------------------------
龍尾寺は少し離れた東側の匝瑳市大寺にあり、先日紹介しました。(こちら)
佐倉風土記には「和銅2年(709年)の龍女がここに金の薬師如来を祀ったのが始まりだと伝えられる。
その後天平3年(731年)にこの地方が干ばつに見舞われ、印旛沼の竜が天に昇って雨をふらせたが、龍はからだが3つに分かれて別々な場所に落ちたと言われている。
今回は龍角寺を紹介するのですが、この栄町は「龍のまち」ともいうようにこの龍角寺が大きなウェイトを占めている。
龍角寺台などという地名も残されている。
そのため、近くに行けばすぐにわかると思ったが、例によってウロウロしてしまった。
案内も目立たないものであり、道もせまく意外な感じであった。

天竺山寂光院 天台宗の古刹である。 本尊は薬師如来。
龍伝説でもわかる通りこの寺は関東でも屈指の古い寺の一つといわれている。
そして発掘調査の結果もっと古い寺であった可能性も出てきているという。

しかし寺の正面に見える拝殿も、粗末なもので拍子抜け。
この拝殿の裏に収納庫があります。
この寺には国の重要文化財に指定されている白鳳期の銅製薬師如来座像があり、709年の制作と考えられています。
(一部胴体は後に改鋳)
これは許可を事前に得てからでないと見ることは出来ないという。

入口の拝殿前には大きなイチョウの木がありました。
近所の御夫婦でしょうか、一生懸命に銀杏拾いをしていました。
まあこのままにしていてもにおいが臭いだけですから、中の硬い実を取り出すだけでも大変です。

寺の拝殿裏に回って見たらそこには太古の昔にあったとされる寺の伽藍の跡が広がる場所でした。
正面の少し高くなった場所が金堂跡で、礎石なども置かれています。


正面の少し高くなったところが金堂跡。 その先の建物が校倉造りの資料館です。
法隆寺式の七堂伽藍があった割には敷地はせまい。

ここ龍角寺も8世紀初めに創建されたといわれていますが中世には衰退して、承久2年(1220年)に上総介平常秀が再興し、1591年には家康から20石が与えられているそうですが、昔をしのぶ建物は今はありません。
(明日に続く)
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昔々のことです。
印旛沼に沼の主である龍がいました。
この龍はとても人が好きで、時々青年に姿を変えて村人の所に現われて村人と一緒に交流を楽しんでおりました。
村人もこの青年の首にうろこがあることに気が付き、龍であることを知っていたのです。
ある年のこと、 村には毎日毎日激しい日照りが続き、農作物は枯れ、村人たちは日増しに生活は苦しくなっていきました。
その姿を見て胸を痛めたこの龍の青年は、村人への恩返しのため自分の命も惜しまず雨を降らせることを決意しました。
龍はありったけの力で、印旛沼の残りすくなくなった水面から天に向かって昇って行きました。
天に向かって登って行った龍は天をするどく睨みつけました。
すると、たちまち黒雲がたちこめ、あたり一面に雨が降り始めました。
雨はしばらく降り続け、あたりの乾いた地面に潤いをもたらし、やがて轟音と閃光が走りました。
すると天から黒い塊が3つ飛び散り、雨は止みました。
この恵の雨に歓喜している村人のもとへ、どこからか現れた老人が告げました。
「龍は大竜王から雨を降らせることを禁じられていたのだ。しかしその掟をやぶった印旛沼の竜の彼はこの大竜王の怒りに触れ、体を引き裂かれてしまったのだ。」
村人たちは大変悲しみ、龍の亡骸を探し出し、それぞれの体が落ちていた場所に寺を建て、龍の供養をしたのです。
龍の頭(角)が落ちたところには龍角寺、龍の体が落ちたところには龍腹寺、そして龍の尾が落ちたところには龍尾寺となり今に伝わっています。
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龍尾寺は少し離れた東側の匝瑳市大寺にあり、先日紹介しました。(こちら)
佐倉風土記には「和銅2年(709年)の龍女がここに金の薬師如来を祀ったのが始まりだと伝えられる。
その後天平3年(731年)にこの地方が干ばつに見舞われ、印旛沼の竜が天に昇って雨をふらせたが、龍はからだが3つに分かれて別々な場所に落ちたと言われている。
今回は龍角寺を紹介するのですが、この栄町は「龍のまち」ともいうようにこの龍角寺が大きなウェイトを占めている。
龍角寺台などという地名も残されている。
そのため、近くに行けばすぐにわかると思ったが、例によってウロウロしてしまった。
案内も目立たないものであり、道もせまく意外な感じであった。

天竺山寂光院 天台宗の古刹である。 本尊は薬師如来。
龍伝説でもわかる通りこの寺は関東でも屈指の古い寺の一つといわれている。
そして発掘調査の結果もっと古い寺であった可能性も出てきているという。

しかし寺の正面に見える拝殿も、粗末なもので拍子抜け。
この拝殿の裏に収納庫があります。
この寺には国の重要文化財に指定されている白鳳期の銅製薬師如来座像があり、709年の制作と考えられています。
(一部胴体は後に改鋳)
これは許可を事前に得てからでないと見ることは出来ないという。

入口の拝殿前には大きなイチョウの木がありました。
近所の御夫婦でしょうか、一生懸命に銀杏拾いをしていました。
まあこのままにしていてもにおいが臭いだけですから、中の硬い実を取り出すだけでも大変です。

寺の拝殿裏に回って見たらそこには太古の昔にあったとされる寺の伽藍の跡が広がる場所でした。
正面の少し高くなった場所が金堂跡で、礎石なども置かれています。


正面の少し高くなったところが金堂跡。 その先の建物が校倉造りの資料館です。
法隆寺式の七堂伽藍があった割には敷地はせまい。

ここ龍角寺も8世紀初めに創建されたといわれていますが中世には衰退して、承久2年(1220年)に上総介平常秀が再興し、1591年には家康から20石が与えられているそうですが、昔をしのぶ建物は今はありません。
(明日に続く)
龍角寺(2)
龍角寺の説明は昨日したので、今日は境内に残されたものを写真で見ていただきましょう。

三重の塔(または五重塔)の礎石(花崗岩)。

この塔の礎石の凹にたまった水は不思議な事にいつも同じ高さの水面を保っており、決して干上がったりあふれたりしないという。
今でもそうなのかは確かめていませんが・・・・。

千葉県指定史跡 龍角寺古瓦保存塚。
昭和9年の調査で発掘された瓦は奈良時代前期のものといわれる。

立派な宝篋印塔がたくさんこの金堂跡の両側に建っている。
何時頃のものか。
この手の宝篋印塔は鎌倉時代以降と思われるので、承久2年(1220年)上総介平常秀が再興した後のものと思われる。
江戸時代のものかもしれない。

それにしてもかなり立派なものでこれだけ並んでいると壮観である。

校倉造り資料館。 明治初期の建造といわれる。
最初に建てられたのは宮内庁下総御料牧場(成田市三里塚)にあったが、成田空港建設でこの地に移された。

この資料館の屋根は藁葺で、その上にトタンで保護しているようである。

この資料館の周りにはたくさんの石像が置かれていました。
真中の石塔に大乗の文字が読めますので六十六部回国記念塔だと思います。


ここの本尊の国の文化財である銅製薬師如来座像は見ることができませんでした。
栄町役場に申請して拝観の許可もらって奉安殿(どこにある?)という収蔵庫を開けてもらう必要があるようです。
(事前予約)
この白鳳期の仏像としては関東では東京調布の深大寺にもあります。
こちらは昔ご開帳している時にガラス越しに見たことがあります。
なかなか素晴らしいものでした。

三重の塔(または五重塔)の礎石(花崗岩)。

この塔の礎石の凹にたまった水は不思議な事にいつも同じ高さの水面を保っており、決して干上がったりあふれたりしないという。
今でもそうなのかは確かめていませんが・・・・。

千葉県指定史跡 龍角寺古瓦保存塚。
昭和9年の調査で発掘された瓦は奈良時代前期のものといわれる。

立派な宝篋印塔がたくさんこの金堂跡の両側に建っている。
何時頃のものか。
この手の宝篋印塔は鎌倉時代以降と思われるので、承久2年(1220年)上総介平常秀が再興した後のものと思われる。
江戸時代のものかもしれない。

それにしてもかなり立派なものでこれだけ並んでいると壮観である。

校倉造り資料館。 明治初期の建造といわれる。
最初に建てられたのは宮内庁下総御料牧場(成田市三里塚)にあったが、成田空港建設でこの地に移された。

この資料館の屋根は藁葺で、その上にトタンで保護しているようである。

この資料館の周りにはたくさんの石像が置かれていました。
真中の石塔に大乗の文字が読めますので六十六部回国記念塔だと思います。


ここの本尊の国の文化財である銅製薬師如来座像は見ることができませんでした。
栄町役場に申請して拝観の許可もらって奉安殿(どこにある?)という収蔵庫を開けてもらう必要があるようです。
(事前予約)
この白鳳期の仏像としては関東では東京調布の深大寺にもあります。
こちらは昔ご開帳している時にガラス越しに見たことがあります。
なかなか素晴らしいものでした。
木曳坂
龍角寺と廻りの地形を知るためにウロウロして、手前の酒直地区の新興住宅内のはずれの道から成田線側に急な下り坂の脇を斜めに下りる道に「木曳坂」と書かれた看板が建てられていた。

これは龍角寺を上総介平常秀が再興した承久2年(1220年)の鎌倉時代のことであろう。
この下から寺の建築のための木材を曳いて通った道という伝承が残されているのだそうだ。
ということはこの坂の下に昔の内海であった香取海当時の津(湊)があったと言うことなのだろう。
地図で確かめることにした。
現在はこの坂を車で行くのは危なそうで、真直ぐに下へ降りる車道があるのでそちらを下って見た。
下りるとすぐに成田線の線路があり、踏切を渡ると線路沿いの県道に出た。この辺りは船戸というらしい。
佐原にも確か船戸という地名があった。
しかしこの佐原の船戸は利根川のすぐわきであり昔の津があったところというのは理解できるのだが、こちらはまだ川や印旛沼までは少し離れている気がする。
FloodMapsで海面水位を5~7m上昇させて昔の地形を想像した。
しかしこの辺りの海岸線は+7mも+5mもそれほど変わらない。
確かにこの線路際まで水が来ていても不思議ではないが、縄文海進時代ならともかく鎌倉時代でもこんなに水位が高かったとは考えにくい。
するとやはり江戸以降に利根川を銚子の方に東遷して、上流から大量の土砂が流れて陸地化したと考えるべきなのだろうか。
ただ香取の海の津があったというと現在の利根川側から舟で材木を運んだと思われそうだが、地図を見てどうやら佐倉市の方から印旛沼(現在より大分大きな)を通って運んできたと考える方が可能性は高いと感じた。
1220年頃にこの辺りがどのようになっていたかはやはり想像するしかないようです。


これは龍角寺を上総介平常秀が再興した承久2年(1220年)の鎌倉時代のことであろう。
この下から寺の建築のための木材を曳いて通った道という伝承が残されているのだそうだ。
ということはこの坂の下に昔の内海であった香取海当時の津(湊)があったと言うことなのだろう。
地図で確かめることにした。
現在はこの坂を車で行くのは危なそうで、真直ぐに下へ降りる車道があるのでそちらを下って見た。
下りるとすぐに成田線の線路があり、踏切を渡ると線路沿いの県道に出た。この辺りは船戸というらしい。
佐原にも確か船戸という地名があった。
しかしこの佐原の船戸は利根川のすぐわきであり昔の津があったところというのは理解できるのだが、こちらはまだ川や印旛沼までは少し離れている気がする。
FloodMapsで海面水位を5~7m上昇させて昔の地形を想像した。
しかしこの辺りの海岸線は+7mも+5mもそれほど変わらない。
確かにこの線路際まで水が来ていても不思議ではないが、縄文海進時代ならともかく鎌倉時代でもこんなに水位が高かったとは考えにくい。
するとやはり江戸以降に利根川を銚子の方に東遷して、上流から大量の土砂が流れて陸地化したと考えるべきなのだろうか。
ただ香取の海の津があったというと現在の利根川側から舟で材木を運んだと思われそうだが、地図を見てどうやら佐倉市の方から印旛沼(現在より大分大きな)を通って運んできたと考える方が可能性は高いと感じた。
1220年頃にこの辺りがどのようになっていたかはやはり想像するしかないようです。

今年もはや立冬です。
今日は立冬だという。
正確には今日から21日までが立冬だそうです。
今日も朝から仕事に出かけた。
途中恋瀬川の上で朝日をあびた筑波山が輝いて見えた。
少し時間があったのでパーキングに車を止めて写真を撮った。

撮っている間にも山に当たる光が変化している。

筑波山の紅葉ももう少しだろう。

仕事を終えて家路に向かおうとしたら真丸のオレンジ色の月が東の空から昇って来て、あまりの美しさに見とれていた。
空き地に車を止めてカメラを撮りだしたら、月も恥ずかしくなったのか雲間に隠れてしまった。

今年ももう少ししかなくなりましたね。
年々月日の経つのが早くなるようです。
正確には今日から21日までが立冬だそうです。
今日も朝から仕事に出かけた。
途中恋瀬川の上で朝日をあびた筑波山が輝いて見えた。
少し時間があったのでパーキングに車を止めて写真を撮った。

撮っている間にも山に当たる光が変化している。

筑波山の紅葉ももう少しだろう。

仕事を終えて家路に向かおうとしたら真丸のオレンジ色の月が東の空から昇って来て、あまりの美しさに見とれていた。
空き地に車を止めてカメラを撮りだしたら、月も恥ずかしくなったのか雲間に隠れてしまった。

今年ももう少ししかなくなりましたね。
年々月日の経つのが早くなるようです。
天気は悪くても秋色を楽しむ
今日は昨日と違って朝からどんよりと曇って寒い1日でした。
午前中に風の会の会報を印刷製本をして、昼から少し配ってきました。

昨日の筑波山と比べると全体にガスがかかっておりまた違った趣です。
ここは恋瀬川沿いですが、昨日の恋瀬川より2本上流側に架かる橋(粟田橋?)付近です。

そしてそこから小町の里(土浦市)へ。
ハングライダーに水車、そして今の時期は柿がたくさんです。
柿の実もきれいに色づきたわわに実り、葉は良い色に紅葉してきています。
たくさんの観光客も訪れていて、小町庵の蕎麦処も食事の順番待ちの状態でした。

秋色が楽しめるのももう少しですね。

明日はギター文化館で「里山と風の声」コンサートがあります。
お時間がありましたら是非お越しください。

午前中に風の会の会報を印刷製本をして、昼から少し配ってきました。

昨日の筑波山と比べると全体にガスがかかっておりまた違った趣です。
ここは恋瀬川沿いですが、昨日の恋瀬川より2本上流側に架かる橋(粟田橋?)付近です。

そしてそこから小町の里(土浦市)へ。
ハングライダーに水車、そして今の時期は柿がたくさんです。
柿の実もきれいに色づきたわわに実り、葉は良い色に紅葉してきています。
たくさんの観光客も訪れていて、小町庵の蕎麦処も食事の順番待ちの状態でした。

秋色が楽しめるのももう少しですね。

明日はギター文化館で「里山と風の声」コンサートがあります。
お時間がありましたら是非お越しください。

里山と風の声コンサート
本日クラシックギターの殿堂「ギター文化館」で「里山と風の声」コンサートが行われた。
今回は里山の朗読に北海道の若手ギタリスト亀岡三典さんのクラシックギターの伴奏が入りました。


亀岡さんとは「ことば座」の朗読舞を札幌で春に行った時に一緒になり、今回の話が決まったとのことです。
説明書きによれば・・・
「クラシックギターを平野勇、薮田健吾両氏に師事。マリアエステルグズマン、福田進一、大萩康司各氏のマスタークラス受講。2010年第37回日本ギターコンクール本選賞(全体4位)受賞。同年札幌市民芸術祭奨励賞受賞。11年大阪国際音楽コンクール弦楽部門AGE-G(年齢制限なし)入選、ファイナリスト。現在レストラン、バー、カフェなどで演奏活動中。ギター教室を主宰し、後進の指導にもあたる。」
とのことです。

里山に声すれど・・・・

亀岡さんのギターは大変優しい音色です。
うっとりと聴き入っておりましたが、音楽に詳しくないのでわかりません。
曲目は「ジュリアーノの「大序曲」、ブローウェルの「11月のある日」、アルベニスの「アストゥリアス」などタンゴ曲が中心でした。

「北海の貴公子」と呼ぶにふさわしいです。
流れるような指さばき・・・



ギター文化館のドーム型の天井は大変音響がいいです。ギターにはもってこいなのでしょう。
クラシックギター界では世界にその名が知られているそうです。

この里山もこの日はどんより曇って寒い1日でした。
今日はこのギター館長さんの義母さんのお葬式でした。94歳だそうです。
御冥福をお祈り申し上げます。
今回は里山の朗読に北海道の若手ギタリスト亀岡三典さんのクラシックギターの伴奏が入りました。


亀岡さんとは「ことば座」の朗読舞を札幌で春に行った時に一緒になり、今回の話が決まったとのことです。
説明書きによれば・・・
「クラシックギターを平野勇、薮田健吾両氏に師事。マリアエステルグズマン、福田進一、大萩康司各氏のマスタークラス受講。2010年第37回日本ギターコンクール本選賞(全体4位)受賞。同年札幌市民芸術祭奨励賞受賞。11年大阪国際音楽コンクール弦楽部門AGE-G(年齢制限なし)入選、ファイナリスト。現在レストラン、バー、カフェなどで演奏活動中。ギター教室を主宰し、後進の指導にもあたる。」
とのことです。

里山に声すれど・・・・

亀岡さんのギターは大変優しい音色です。
うっとりと聴き入っておりましたが、音楽に詳しくないのでわかりません。
曲目は「ジュリアーノの「大序曲」、ブローウェルの「11月のある日」、アルベニスの「アストゥリアス」などタンゴ曲が中心でした。

「北海の貴公子」と呼ぶにふさわしいです。
流れるような指さばき・・・



ギター文化館のドーム型の天井は大変音響がいいです。ギターにはもってこいなのでしょう。
クラシックギター界では世界にその名が知られているそうです。

この里山もこの日はどんより曇って寒い1日でした。
今日はこのギター館長さんの義母さんのお葬式でした。94歳だそうです。
御冥福をお祈り申し上げます。
卜杭
今日は暑いくらいでした。
朝から銚子の方に行って今帰ってきました。
まだ鼻風邪が続いていますが、このように気温が毎日変わると身体もついていきません。
今日少し前に書いていた記事をUPします。
安食(あじき)の龍角寺に行って成田線の駅名も気になりましたが、もう一つ気になる地名がありました。
「卜杭」です。これで「ぼっくい」と読みます。
「卜」はカタカナのトではありません。卜う(占う)という字です。塚原卜伝(鹿島の剣豪)のボクです。
ボックイというと前に「大棒杭(おおぼっくい)」という名前について書いたことがありました。(こちら)
その時も書いたのですが「焼けボックイに火がついた」という時に使われるボックイ=棒杭(木杭)です。
この印旛沼から安食周辺の地形の変化を考えるのにとても大切な地名だと思います。

「卜杭」という地名は地図では「安食卜杭」と「酒直卜杭」と出てきますが、どちらも現在は印西市で、安食や酒直は共に栄町になります。
この間を流れる長門川で市境(町境)となります。
今ではこの「卜杭」地には田んぼが広がるいわゆる干拓地だと思います。
昔、この地が沼地となっていた時に川の境に木杭を並べて打って土を運び入れて田を作ったのでしょう。

(FloodMaps : 水面高さを今の+5mとした)
北側は将監川で、東が長門川に挟まれています。
石岡などでも八木干拓などは政府の農地を増やせの号令のもとに霞ヶ浦にたくさんの木杭を打ち込んで農地を作りました。
しかし木杭がどこまでも沼地だと安定せずに流されてしまいました。
この辺りの地形は流れがほとんどなく木杭を打ち込めば干拓もうまくいったのではないかと思います。
少し歴史的にいつ頃なのかを見て見ました。
Wikipediaで安食卜杭(アジキボックイ)を引いてみます。
「江戸期は安食卜杭新田であり、下総印旛郡のうち。
寛文年間安食村卜杭野を開発して成立。
はじめ幕府領、元禄11年から佐倉藩領、享保8年から幕府領。
村高は「元禄郷帳」294石余、享保13年の見取場検地により252石余が改増、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに561石余。
小林新田・酒直卜杭新田、および笠神埜原(十四ヶ)新田を含めた地域は、枝利根川(将監川)と印旛沼に接しており、水害が多発したため早くから普請組合を結成している。」
と書かれています。
江戸時代の初期にすでに「安食村卜杭野」と呼ばれていたことがわかります。
江戸時代の初期からここで米作りが行われ、石高も増やされていますがたびたび水害が発生した事がわかります。
また「卜杭野」と呼ばれていたことから干拓のために棒杭を打ち込んだというよりも更に古くからこの卜杭という名前が使われていたようです。
「卜」(うらない)という字が使われていますのですこし違った意味合いがあった可能性もありますが、もともと「棒」という字も「木を奉じる」と書くように手で捧げられるほどの長さの木片を指す言葉ですから、これが「卜」と同じような意味合いを持っていたとも考えられます。
この「卜杭」という地名はここ以外にもう1カ所あるようです。
それは稲敷市の東端の横利根川沿いです。
ここも恐らく江戸初期またはもう少し前に田の耕地を確保するために川沿いに木杭を打ち込んだ場所だったのかもしれません。
朝から銚子の方に行って今帰ってきました。
まだ鼻風邪が続いていますが、このように気温が毎日変わると身体もついていきません。
今日少し前に書いていた記事をUPします。
安食(あじき)の龍角寺に行って成田線の駅名も気になりましたが、もう一つ気になる地名がありました。
「卜杭」です。これで「ぼっくい」と読みます。
「卜」はカタカナのトではありません。卜う(占う)という字です。塚原卜伝(鹿島の剣豪)のボクです。
ボックイというと前に「大棒杭(おおぼっくい)」という名前について書いたことがありました。(こちら)
その時も書いたのですが「焼けボックイに火がついた」という時に使われるボックイ=棒杭(木杭)です。
この印旛沼から安食周辺の地形の変化を考えるのにとても大切な地名だと思います。

「卜杭」という地名は地図では「安食卜杭」と「酒直卜杭」と出てきますが、どちらも現在は印西市で、安食や酒直は共に栄町になります。
この間を流れる長門川で市境(町境)となります。
今ではこの「卜杭」地には田んぼが広がるいわゆる干拓地だと思います。
昔、この地が沼地となっていた時に川の境に木杭を並べて打って土を運び入れて田を作ったのでしょう。

(FloodMaps : 水面高さを今の+5mとした)
北側は将監川で、東が長門川に挟まれています。
石岡などでも八木干拓などは政府の農地を増やせの号令のもとに霞ヶ浦にたくさんの木杭を打ち込んで農地を作りました。
しかし木杭がどこまでも沼地だと安定せずに流されてしまいました。
この辺りの地形は流れがほとんどなく木杭を打ち込めば干拓もうまくいったのではないかと思います。
少し歴史的にいつ頃なのかを見て見ました。
Wikipediaで安食卜杭(アジキボックイ)を引いてみます。
「江戸期は安食卜杭新田であり、下総印旛郡のうち。
寛文年間安食村卜杭野を開発して成立。
はじめ幕府領、元禄11年から佐倉藩領、享保8年から幕府領。
村高は「元禄郷帳」294石余、享保13年の見取場検地により252石余が改増、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに561石余。
小林新田・酒直卜杭新田、および笠神埜原(十四ヶ)新田を含めた地域は、枝利根川(将監川)と印旛沼に接しており、水害が多発したため早くから普請組合を結成している。」
と書かれています。
江戸時代の初期にすでに「安食村卜杭野」と呼ばれていたことがわかります。
江戸時代の初期からここで米作りが行われ、石高も増やされていますがたびたび水害が発生した事がわかります。
また「卜杭野」と呼ばれていたことから干拓のために棒杭を打ち込んだというよりも更に古くからこの卜杭という名前が使われていたようです。
「卜」(うらない)という字が使われていますのですこし違った意味合いがあった可能性もありますが、もともと「棒」という字も「木を奉じる」と書くように手で捧げられるほどの長さの木片を指す言葉ですから、これが「卜」と同じような意味合いを持っていたとも考えられます。
この「卜杭」という地名はここ以外にもう1カ所あるようです。
それは稲敷市の東端の横利根川沿いです。
ここも恐らく江戸初期またはもう少し前に田の耕地を確保するために川沿いに木杭を打ち込んだ場所だったのかもしれません。