朝焼けとジェット機
夜明け前の霞ケ浦上空を東に向かってオレンジ色の煙を吐いて飛んでいく物体がありました。

煙はオレンジから少し赤みがかってまるで炎を吐きながら燃えているようにも見えました。
夜明け間際のこの光景は、今までに見たこともないとても不思議な光景でした。
間もなく日の出の時刻ですから、成田空港に降り立つ飛行機のジェット噴煙に太陽の光があたり、このような色に見えたのだと思います。
太陽の光はまだ地上に届いていませんが、上空を飛ぶ飛行機には光がそそがれていたのでしょう。
雲が朝焼けとなって見えるのと同じですね。


同時刻の朝焼け

近くにあったマンホール蓋 旧「霞ケ浦町」となっている。
今は千代田町(旧千代田村)と霞ケ浦町(旧出島村)が合併して「かすみがうら市」となっている。
町の花「あじさい」と霞ケ浦の帆引船に筑波山である。
オーストリアのウィーンにいる次女夫妻が年末の30日に成田より帰国しました。
今年3月までの旦那の赴任が終われば日本に帰ってきます。
5月に日本に帰って出産する予定なので早めに帰ってくるといいと思います。
何事もなく無事に産まれてくたら良いと願っています。
私にとっては2人目の孫になります。
秋には長男の結婚式もあるので今年も色々ありそうです。
私も、まだまだ元気でいなければなりませんね。

煙はオレンジから少し赤みがかってまるで炎を吐きながら燃えているようにも見えました。
夜明け間際のこの光景は、今までに見たこともないとても不思議な光景でした。
間もなく日の出の時刻ですから、成田空港に降り立つ飛行機のジェット噴煙に太陽の光があたり、このような色に見えたのだと思います。
太陽の光はまだ地上に届いていませんが、上空を飛ぶ飛行機には光がそそがれていたのでしょう。
雲が朝焼けとなって見えるのと同じですね。


同時刻の朝焼け

近くにあったマンホール蓋 旧「霞ケ浦町」となっている。
今は千代田町(旧千代田村)と霞ケ浦町(旧出島村)が合併して「かすみがうら市」となっている。
町の花「あじさい」と霞ケ浦の帆引船に筑波山である。
オーストリアのウィーンにいる次女夫妻が年末の30日に成田より帰国しました。
今年3月までの旦那の赴任が終われば日本に帰ってきます。
5月に日本に帰って出産する予定なので早めに帰ってくるといいと思います。
何事もなく無事に産まれてくたら良いと願っています。
私にとっては2人目の孫になります。
秋には長男の結婚式もあるので今年も色々ありそうです。
私も、まだまだ元気でいなければなりませんね。
初詣
本日午後に近くの総社宮にお参りに行ってきました。
毎年正月2日か3日には東京に実家に行っていたのですが、今年は出かけませんでした。

総社へは元旦に行くことが多いのですが、今年は大分遅くなって今日行ってきました。
天気も良く気持ちはいいのですが、風は冷たかったです。

元旦は人が多いのですが、3日にもなるとこんな具合で並ぶこともありません。


拝殿も全く並ぶこともなくすぐにお参りできました。

舞台には祭りの時に使われる神輿が置かれていました。

神輿の制作時期や大きさに総重量が記載されていました。
お祭りのパンフレットなどには神様が載っている神輿を担ぐので神輿重量をあまり表示しているものが少ないのです。
ここに大神輿が1000kg、明神神輿が800kgとなっています。
明神神輿は平成9年の大神輿修理の時に一つ小型の神輿を制作したのです。

今年も良い年でありますように!
毎年正月2日か3日には東京に実家に行っていたのですが、今年は出かけませんでした。

総社へは元旦に行くことが多いのですが、今年は大分遅くなって今日行ってきました。
天気も良く気持ちはいいのですが、風は冷たかったです。

元旦は人が多いのですが、3日にもなるとこんな具合で並ぶこともありません。


拝殿も全く並ぶこともなくすぐにお参りできました。

舞台には祭りの時に使われる神輿が置かれていました。

神輿の制作時期や大きさに総重量が記載されていました。
お祭りのパンフレットなどには神様が載っている神輿を担ぐので神輿重量をあまり表示しているものが少ないのです。
ここに大神輿が1000kg、明神神輿が800kgとなっています。
明神神輿は平成9年の大神輿修理の時に一つ小型の神輿を制作したのです。

今年も良い年でありますように!
正月も終わり明日は満月
今日で正月休みも終わりです。
明日からは普通の生活に戻ります。
今日の夕刻の便でアメリカに帰る息子を妻と一緒に成田に車で送りに行ってきました。
息子ももう結婚しているのですが、まだ式を挙げていません。
今秋に海外派遣を終えて戻ってから式を予定しています。
ですからお嫁さんとも別れ分かれです。
空港に一緒に行って、優しい彼女は名古屋に戻りました。
明日からこちらも仕事があります。

(クリックで拡大します)
車で行ったのですが、途中成田山の付近では車が数珠つなぎで渋滞していました。
初詣の人の列だろうと思いますが、たくさんの人がお参りに行くのですね。
飛行機の時間には十分間に合って、チェックインがすみ、少し話して早めにわかれましたが、外に出ると少し薄暗くなっています。
そこに真ん丸の優しい月が輝いていました。
きっと良いことがありそうな気がしました。
帰りの道中も月の姿を見ながら走ってきました。
明日からは普通の生活に戻ります。
今日の夕刻の便でアメリカに帰る息子を妻と一緒に成田に車で送りに行ってきました。
息子ももう結婚しているのですが、まだ式を挙げていません。
今秋に海外派遣を終えて戻ってから式を予定しています。
ですからお嫁さんとも別れ分かれです。
空港に一緒に行って、優しい彼女は名古屋に戻りました。
明日からこちらも仕事があります。

(クリックで拡大します)
車で行ったのですが、途中成田山の付近では車が数珠つなぎで渋滞していました。
初詣の人の列だろうと思いますが、たくさんの人がお参りに行くのですね。
飛行機の時間には十分間に合って、チェックインがすみ、少し話して早めにわかれましたが、外に出ると少し薄暗くなっています。
そこに真ん丸の優しい月が輝いていました。
きっと良いことがありそうな気がしました。
帰りの道中も月の姿を見ながら走ってきました。
霞ケ浦総合公園のイルミネーション
土浦市の霞ケ浦総合公園で第3回目のイルミネーション(光がつくる“Art”水郷桜イルミネーション)が点灯しています。
成田からの帰りが遅くなったので立ち寄りました。
評判に聞いていましたがかなりきれいです。
2月末まで開催されています。

震災前まではこの近くに国民宿舎「水郷」がありましたが、隣りの温泉施設を除いて取り壊されてしまいました。

風車も実物はまたきれいですよ。




幸せの鐘だそうです。 イルミオネーションのトンネルをくぐって多くの人が鳴らしていました。

空にはほぼ満月の月が優しく輝いています。

月と釣り少年の像も絵になります。
どこか夢見る絵本の世界が広がります。
成田からの帰りが遅くなったので立ち寄りました。
評判に聞いていましたがかなりきれいです。
2月末まで開催されています。

震災前まではこの近くに国民宿舎「水郷」がありましたが、隣りの温泉施設を除いて取り壊されてしまいました。

風車も実物はまたきれいですよ。




幸せの鐘だそうです。 イルミオネーションのトンネルをくぐって多くの人が鳴らしていました。

空にはほぼ満月の月が優しく輝いています。

月と釣り少年の像も絵になります。
どこか夢見る絵本の世界が広がります。
小舟塚神社
あまり普段は通ることもない高浜から小美玉市玉里地区の先端をぐるっと回る通りを車で通って見た。
常陸風土記にはこの玉里の語源について次のように書かれている。
「郡より東十里のところに、桑原の岡がある。昔、倭武の天皇が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。」
そして昔は玉里ではなく「田余」と書いていたので「たあまり」などとも発音されていたようだ。
この玉里地区の霞ケ浦沿岸部はレンコン畑が一面に広がっており、「よくたまれる水」と言うのも頷ける感がある。
その下玉里から川中子地区に向かう途中に変わった形の小山がポコンとあった。
この県道沿いにポッコリと膨らんだような小山で、まわりはハス畑で表面の水は凍っていた。

そしてこの山の上に神社がまつられており「小舟塚神社」と書かれていた。

どうも山も人工的な感じがしたので調べて見るとやはり古墳(大井戸古墳)だという。
前方後円墳であったものが前方部を削られてなくなり、後円部の一部のみになったという。
墳丘長100m級の旧玉里村最大級の古墳だった可能性があるのだそうだが、築堤工事の土砂採取のため大きく削られてしまったという。
近くの有名な三昧塚古墳も削られかけたことがあると聞いているが、何とか貴重な埋蔵物なども見つかり切削を免れたという。
昔は霞ケ浦も良く洪水を起こしたので護岸工事のため近くの小山などが幾つも取り崩された。
この中には多くの古墳が含まれていたものと思うと残念な思いがする。

神社の祠のところまでの階段を上って見ると、結構見晴らしが良い。
下にはハス畑が広がるが、その先に霞ケ浦が見渡せる。
ところでここを通る道は、地元の人以外にはほとんど車も通らない道であるが県道194号線(宍倉玉里線)だという。
この県道は変わっていて、かすみがうら市(旧出島)の宍倉からこの玉里地区を通って355号線につながっているのだが、霞ケ浦の高浜入りのところで道路は寸断されている。
江戸時代に霞ケ浦の御留川と言われた場所がこの高浜入り部分でここに橋もないのに県道としてはつながっている名称になっている。
小美玉市のあちこちに「早期霞ケ浦二橋の実現を」などとうたっているのはここに橋を通したいからなのかもしれない。
それにしてもまわりはハス畑ばかりであり、人口も多くはなくここに橋を通しても利益を売るのはほんの一握りの住民ばかりという感がぬぐえない。
霞ケ浦二橋というのは土浦側と旧出島側に1本、そしてこの高浜入りに1本の計2本の橋をかけ、道路で土浦側と小美玉側を結ぼうというものである。
行方側に霞ケ浦大橋があるのでこの橋の計画はまだ運動中だけのようだ。
そんなことをせずに発展させたいならもっと別なことに力を入れるべきだと思う。
常陸風土記にはこの玉里の語源について次のように書かれている。
「郡より東十里のところに、桑原の岡がある。昔、倭武の天皇が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。」
そして昔は玉里ではなく「田余」と書いていたので「たあまり」などとも発音されていたようだ。
この玉里地区の霞ケ浦沿岸部はレンコン畑が一面に広がっており、「よくたまれる水」と言うのも頷ける感がある。
その下玉里から川中子地区に向かう途中に変わった形の小山がポコンとあった。
この県道沿いにポッコリと膨らんだような小山で、まわりはハス畑で表面の水は凍っていた。

そしてこの山の上に神社がまつられており「小舟塚神社」と書かれていた。

どうも山も人工的な感じがしたので調べて見るとやはり古墳(大井戸古墳)だという。
前方後円墳であったものが前方部を削られてなくなり、後円部の一部のみになったという。
墳丘長100m級の旧玉里村最大級の古墳だった可能性があるのだそうだが、築堤工事の土砂採取のため大きく削られてしまったという。
近くの有名な三昧塚古墳も削られかけたことがあると聞いているが、何とか貴重な埋蔵物なども見つかり切削を免れたという。
昔は霞ケ浦も良く洪水を起こしたので護岸工事のため近くの小山などが幾つも取り崩された。
この中には多くの古墳が含まれていたものと思うと残念な思いがする。

神社の祠のところまでの階段を上って見ると、結構見晴らしが良い。
下にはハス畑が広がるが、その先に霞ケ浦が見渡せる。
ところでここを通る道は、地元の人以外にはほとんど車も通らない道であるが県道194号線(宍倉玉里線)だという。
この県道は変わっていて、かすみがうら市(旧出島)の宍倉からこの玉里地区を通って355号線につながっているのだが、霞ケ浦の高浜入りのところで道路は寸断されている。
江戸時代に霞ケ浦の御留川と言われた場所がこの高浜入り部分でここに橋もないのに県道としてはつながっている名称になっている。
小美玉市のあちこちに「早期霞ケ浦二橋の実現を」などとうたっているのはここに橋を通したいからなのかもしれない。
それにしてもまわりはハス畑ばかりであり、人口も多くはなくここに橋を通しても利益を売るのはほんの一握りの住民ばかりという感がぬぐえない。
霞ケ浦二橋というのは土浦側と旧出島側に1本、そしてこの高浜入りに1本の計2本の橋をかけ、道路で土浦側と小美玉側を結ぼうというものである。
行方側に霞ケ浦大橋があるのでこの橋の計画はまだ運動中だけのようだ。
そんなことをせずに発展させたいならもっと別なことに力を入れるべきだと思う。
下玉里
下玉里地区(小美玉市)は旧玉里村の霞ケ浦沿いに飛びだした先端部にあり、湖岸にはハス田が広がっている。

分かれ道の大きな古木の麓には石仏などが置かれている。
このような道の辻には神様が宿ると思われてきたのでしょう。

手前がハス田でその向こうが霞ケ浦である。
レンコンはこの寒い冬が収穫期であり、9月から5月初め頃まで続く。
ポンプで勢いよく水を出して、田の底にあるレンコンを掘りだす。

この領域は江戸時代に水戸藩により御留川(おとめがわ)制度が施行された。
対岸の井関地区(現石岡市)との距離は比較的狭く、高浜入りと呼ばれていたが、この手前と向こう側の両方を水戸藩の領地(飛び地)として、この間の霞ケ浦の部分を川とみなして、ここの漁業権を全て水戸藩が握った制度である。
霞ケ浦は四十八津と言われるほどたくさんの湊があった(津=湊)。
それぞれの湊の漁師たちが集まって自分たちの漁獲量などを取り決めていたのである。
これにより乱獲を防ぐことができたが、この御留川制度はこの自主制度を全く無視してこの領域の魚などをとって、水戸へ運んだのである。
この御留川制度がどのような恩恵と負の効果をもたらしたかはよく知らない。
善悪両方があったと思う。それは地元やその先の地域などでもかなり受け止め方は違うし、漁師とそれ以外の職業の人でも考え方は違うはずだ。

湖に突き出したコンクリでまわりを囲った場所があるが、ここは舟溜りである。

湖岸の土手の上は車も通れるくらいの道幅で、サイクリング道路としてももってこいである。
そして土手沿いに桜の若木を植えてある。
数年すれば綺麗な並木となることだろう。

舟溜りの場所に数台の車が止まっていた。

車はここで釣りを楽しんでいる人々のものだ。
霞ケ浦もこのように穏やかであると大変気持ちが良い。

分かれ道の大きな古木の麓には石仏などが置かれている。
このような道の辻には神様が宿ると思われてきたのでしょう。

手前がハス田でその向こうが霞ケ浦である。
レンコンはこの寒い冬が収穫期であり、9月から5月初め頃まで続く。
ポンプで勢いよく水を出して、田の底にあるレンコンを掘りだす。

この領域は江戸時代に水戸藩により御留川(おとめがわ)制度が施行された。
対岸の井関地区(現石岡市)との距離は比較的狭く、高浜入りと呼ばれていたが、この手前と向こう側の両方を水戸藩の領地(飛び地)として、この間の霞ケ浦の部分を川とみなして、ここの漁業権を全て水戸藩が握った制度である。
霞ケ浦は四十八津と言われるほどたくさんの湊があった(津=湊)。
それぞれの湊の漁師たちが集まって自分たちの漁獲量などを取り決めていたのである。
これにより乱獲を防ぐことができたが、この御留川制度はこの自主制度を全く無視してこの領域の魚などをとって、水戸へ運んだのである。
この御留川制度がどのような恩恵と負の効果をもたらしたかはよく知らない。
善悪両方があったと思う。それは地元やその先の地域などでもかなり受け止め方は違うし、漁師とそれ以外の職業の人でも考え方は違うはずだ。

湖に突き出したコンクリでまわりを囲った場所があるが、ここは舟溜りである。

湖岸の土手の上は車も通れるくらいの道幅で、サイクリング道路としてももってこいである。
そして土手沿いに桜の若木を植えてある。
数年すれば綺麗な並木となることだろう。

舟溜りの場所に数台の車が止まっていた。

車はここで釣りを楽しんでいる人々のものだ。
霞ケ浦もこのように穏やかであると大変気持ちが良い。
赤レンガの鉄道ガード
先日銚子の方に出かけた時に、国道356号(利根水郷ライン)から、ある古い神社(等覚寺)に向かって細い道を内陸にはいって行った。
するとまず成田線を踏切で渡り、少し行ったところで総武線の下をくぐるガードがあった。
これが古い赤レンガの壁でできておりなかなか趣がある。

東京駅の近くなどにも赤レンガのガードがいくつか残されているが、このような場所も建設された時から道路の拡張などが無いためにこのように残されてきたと思う。

「総武線(52) 岡之台第2ガード
お願い
自動車等が衝突したのを見た方は、至急御連絡下さい」
と書かれています。
総武鉄道(総国と武蔵国を結ぶ)は明治27年に市川-佐倉間が開通し、明治30年に銚子まで開通したという。
そして両国橋から都心への延伸は明治33年~明治37年だそうです。
ということは都心でガドレール下などに赤レンガの壁などが残されていますが、こちらの方がそれより前に作られたようです。
明治のものがこうして残されているのも感慨深いものがあります。

するとまず成田線を踏切で渡り、少し行ったところで総武線の下をくぐるガードがあった。
これが古い赤レンガの壁でできておりなかなか趣がある。

東京駅の近くなどにも赤レンガのガードがいくつか残されているが、このような場所も建設された時から道路の拡張などが無いためにこのように残されてきたと思う。

「総武線(52) 岡之台第2ガード
お願い
自動車等が衝突したのを見た方は、至急御連絡下さい」
と書かれています。
総武鉄道(総国と武蔵国を結ぶ)は明治27年に市川-佐倉間が開通し、明治30年に銚子まで開通したという。
そして両国橋から都心への延伸は明治33年~明治37年だそうです。
ということは都心でガドレール下などに赤レンガの壁などが残されていますが、こちらの方がそれより前に作られたようです。
明治のものがこうして残されているのも感慨深いものがあります。

野仏観音
昨日紹介した総武線の赤レンガガードへ通じる道への曲り角付近の道路端に3体の古い野仏が置かれていた。・
どうもこのあたりはかなり古いようで江戸初期のものではないかと思われる。
何故こうして紹介したくなったかというと、普段見掛ける道端の石仏とは少し違っているように感じた。

石仏の一部が欠けたりしてよくわからないが、頭に宝冠をかぶっていてその姿が一般に知られたものよりはどこか違う。
この宝冠を持つ者は「観音様」ということになるようだが、野仏での観音様は少ないように思う。
寺に置かれたものがこうして道端に置かれるようになったのかもしれない。

この真中の像は頭に小さな観音様がえがかれていていわゆる十一面観音だと思う。
何かこうして長いこと風雨に耐えて、こうして何げなく道端に置かれているのを見るとこの辺りも散策して見たい気がしてくる。

まあこの石仏はこの「三嶋神社」のすぐ脇にある。
三嶋神社寛永3年(1626)の創建だそうです。
御祭神は大山祇命だそうです。
このような石仏を見つけると、これから少し気をつけて探してみたいと考えるようになります。
さてどうなりますか・・・・。
どうもこのあたりはかなり古いようで江戸初期のものではないかと思われる。
何故こうして紹介したくなったかというと、普段見掛ける道端の石仏とは少し違っているように感じた。

石仏の一部が欠けたりしてよくわからないが、頭に宝冠をかぶっていてその姿が一般に知られたものよりはどこか違う。
この宝冠を持つ者は「観音様」ということになるようだが、野仏での観音様は少ないように思う。
寺に置かれたものがこうして道端に置かれるようになったのかもしれない。

この真中の像は頭に小さな観音様がえがかれていていわゆる十一面観音だと思う。
何かこうして長いこと風雨に耐えて、こうして何げなく道端に置かれているのを見るとこの辺りも散策して見たい気がしてくる。

まあこの石仏はこの「三嶋神社」のすぐ脇にある。
三嶋神社寛永3年(1626)の創建だそうです。
御祭神は大山祇命だそうです。
このような石仏を見つけると、これから少し気をつけて探してみたいと考えるようになります。
さてどうなりますか・・・・。
野仏観音(2)
今日の午前中は「ふるさと風の会」の会報印刷でした。
昼過ぎにそれを配りに八郷地区からつくば市北条地区まで配って帰るともう3時です。
まあ途中でお蕎麦を食べたりしましたので、時間もかかりますね。
なんだかなかなか暇にならない感じです。
今年もどうなるのでしょうか。
家内は相変わらず土曜はいわきの仮設住宅数か所に行っています。
帰りが遅くなってしまいますので事故と健康だけは気をつけてほしいものです。
さて、今日も昨日の続きです。
銚子市の禅寺「等覚寺」へ行って見ようとして案内に従って近くまで行ったのですが、道が狭くてあまりうろうろもできずに知らぬ間にぐるっと回って元の道に出てしまいました。
確かに途中にこんもりとした場所があったので通り過ぎたと思い、再度挑戦し見つけました。
その曲がり角に置かれていた供養塔などを載せます。

右の上には「月山 湯殿山 羽黒山」、その下には「西国三十三供養塔」? と書かれています。
出羽三山と西国三十三観音を合わせた供養塔のようです。
真中は西国三拾三所供養塔」
左は「日光、?寺 大山 供養塔」(阿夫利信仰?)

その右にこちらも観音様のようです。
ちょっと見ただけでは子安地蔵?に庚申塔かと思ったのですが違うようです。

一番右にあった石塔は下に三猿が彫られた庚申塔のように見えたのですが、写真を撮ってからよく見ると蓮座の上に彫られた聖観音のようです。
道端にあるのはあまり見かけないように思います。
このあたりは子安講や月待ち講などよりも観音信仰が強かったのでしょうか?
この写真は昨年末に撮ったものです。
昼過ぎにそれを配りに八郷地区からつくば市北条地区まで配って帰るともう3時です。
まあ途中でお蕎麦を食べたりしましたので、時間もかかりますね。
なんだかなかなか暇にならない感じです。
今年もどうなるのでしょうか。
家内は相変わらず土曜はいわきの仮設住宅数か所に行っています。
帰りが遅くなってしまいますので事故と健康だけは気をつけてほしいものです。
さて、今日も昨日の続きです。
銚子市の禅寺「等覚寺」へ行って見ようとして案内に従って近くまで行ったのですが、道が狭くてあまりうろうろもできずに知らぬ間にぐるっと回って元の道に出てしまいました。
確かに途中にこんもりとした場所があったので通り過ぎたと思い、再度挑戦し見つけました。
その曲がり角に置かれていた供養塔などを載せます。

右の上には「月山 湯殿山 羽黒山」、その下には「西国三十三供養塔」? と書かれています。
出羽三山と西国三十三観音を合わせた供養塔のようです。
真中は西国三拾三所供養塔」
左は「日光、?寺 大山 供養塔」(阿夫利信仰?)

その右にこちらも観音様のようです。
ちょっと見ただけでは子安地蔵?に庚申塔かと思ったのですが違うようです。

一番右にあった石塔は下に三猿が彫られた庚申塔のように見えたのですが、写真を撮ってからよく見ると蓮座の上に彫られた聖観音のようです。
道端にあるのはあまり見かけないように思います。
このあたりは子安講や月待ち講などよりも観音信仰が強かったのでしょうか?
この写真は昨年末に撮ったものです。