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深い悲しみと憤り

 今日は悲しいニュースに接し言葉もありません。

シリア向けの仕事も1年ほど昔やりました。

現地に行ったことは無いのですが砂漠と山ばかりのように思います。

中東というとあまり寒くないような印象ですが、夜などは結構気温が低かったと思います。

後藤さんの御冥福をお祈りします。

このような方が犠牲になることに深い悲しみと共にどうしようもない憤りを覚えます。

しかし、心やさしい後藤さんの意思を受けついで、間違っても日本を戦争のできる国に向けていってはなりません。
きっとそんなことは望んでもいないことだと思います。

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(行方市両宿 円長寺 聖観世音)


今日は地元の神社のお札(火防)を配って歩きました。
(若宮八幡宮の境内社である磯部稲荷神社)

朝から祭礼があり午前中いっぱいかかって30~40軒程の家を訪れました。

色々な方がおられますからこれも経験ですが、あまり積極的にはなれません。

地元で昔から地区ごとに持ち回りで係りがまわってきます。
でも大きな地区なので18年に1度くらいのようです。

まあこれも近所付き合いと言えばそうです。

次に回ってくるときはきっとこのような行事は無くなっているのではないかと思います。

夕方からの直会は用事もあり欠席させていただきました。

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(2015.1.3 撮影)

近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/02/01 20:21

円長寺(行方市両宿)

 玉造から国道354号線で北浦に向かう。

この道は途中から武田川にそって走る、そして両宿という地区で道路は旧道をバイパスしている。
このバイパスの地域が地名としては両宿、内宿という宿場を思わせる地名が残されているが街並みにはあまりその雰囲気を感じさせるものはあまりない。

県道184号線と両宿北という信号で交差するが、ここを左(北)に曲がると「武田」の郷で「化蘇沼稲荷神社」に行き、右(南)に曲れば、昨日まで紹介した「観音寺」に行く。

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国道354号線の北浦バイパスだけを走ると昔の地形がわからないので平行して走る旧道を通った。

この通りもあまりこれと言った建物などは無いが、「円長寺」という看板が目にとまった。

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天台宗の寺らしい。禅寺か。

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こちらが寺の本堂。
この裏山に地図では神社があるがこちらからは登れない。

神社は後から回って見たので明日にでも紹介します。

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大きな聖観世音菩薩像が立っている。

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寺の境内に少し変わった堂が置かれていた。

「破闇」(はあん)と書かれていた。

破闇満願(はあんまんがん)として使われる言葉だそうだが、「闇(やみ)を破って願いを満たす」ということで、阿弥陀仏の救いを表した教えだという。
南無阿弥陀仏

闇(やみ)というのは、仏を信じていない心ということだそうです。

ただ単に言葉だけの意味ではないと思います。
そこに悟りの境地があるように思います。

聖書などでは「GLOSA グローサ」などというのと似ているのかもしれません。

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玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/02 20:01

東宮神社(両宿)

 今日は銚子に仕事に出かけていて先ほど戻りました。
途中でいろいろ見て歩く楽しみもあるのですが、片道90km~100kmあるのでやはり疲れます。
また来週も行きます。

今日は節分で家に帰ってから恵方巻にかぶりついて、イワシを食べ無病息災を・・・・
最近は豆まきをしなくなったようです。
子供も家にいないとやる気力も起きません。

インフルエンザが流行っているようです。気をつけましょう。

帰りは真ん丸の月に送られながら帰ってきました。

満月は明日の朝だそうです。


 昨日紹介した円長寺の裏山という位置に神社があります。
YAHOOの地図では「東宮愛宕神社」と書かれていますが、神社案内などでは東宮神社と表記されています。

神社の由緒等がよくわかりませんが、「つくば周辺伝統行事カレンダー」によれば、この両宿地区の祭礼として「両宿の祭頭(さいどう)」という素朴な提灯行列および子供たちのひょっとこ踊りが2月15日の夜に行なわれるようです。

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円長寺の西側から鳥居をくぐって山に登る階段がある。

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現地にも説明板もなく、詳細は全く不明だが、愛宕神社とも書かれているので火防の神様であろうか。

円長寺はこの神社の神宮寺だったのかも知れない。
歴史もある物でもやはりわからなくなってしまうものだ。

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神社拝殿もこのような質素なもの。

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裏にはしっかり本殿が置かれていた。

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神社の敷地周りには竹の木が植えられ、寺の方に下りる道は無いようだ。
上の写真は今登ってきた神社の入口。 

よくわからないが今では地元の鎮守様なのだろう。

玉造 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/02/03 20:14

小幡鹿島神社

 行方市は茨城県でも鹿行地区としてくくられる地区で、鹿島神宮のある鹿嶋市とも隣り同士である。

しかし、鹿島神社となると神社庁のデータベースで調べて見ても3か所しかない。
香取神社が11社あるのにである。どういうことなのか・・・・

茨城県は鹿島神社は山ほどある。後で検証して見よう。
それに行方市の鹿島神社(三社)は先日紹介した小幡観音寺の周辺に集中している。

小幡鹿島神社、高岡鹿島神社、繁昌鹿島神社の三社です。
少し興味がわいてきたので立ち寄って見ることにしました。

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県道183号線(玉造山田線)は行方市のほぼ中央部を通る道路であるが、あまり交通量も多くはなく道幅もところどころ狭くなっていて走りずらい。

あまりこの道を通ることはなかったが、観音寺などを見ようとしなければきっと行くこともなかったかもしれない。

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要小学校の少し玉造寄りの通り沿いに小幡鹿島神社の入口がありました。

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長い参道を進むと奥に社殿が見えてきます。参道の両側は木々が深く茂っています。

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こちらが本殿です。

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少し変わった模様です。

今は歴史とかもよくわかりませんが、行方市の領域も鹿島神社や香取神社を調べ、香取の神の子の神社といわれる側高神社などを見ていくと何か共通するものがありそうに思います。

なぜこの玉造と北浦を結ぶ地域に鹿島神社があるのか。

今日は調べる時間もありませんので写真を紹介するだけにします。

今日は立春ですね。
これからは「春を待つ」という気分が日に日に高まるようです。

三寒四温というにはまだ寒い日も多そうですが、あっという間に梅の花も咲くでしょう。

明日は雪が降らなければいいのですが・・・。

この地に暮らしていると冬用のタイヤも不要と思っています。
まあ雪が降れば車は乗らないと決めています。
きっと雪国の人はうらやましいですよね。

玉造 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/02/04 21:21

繁昌鹿島神社(行方市)

 鹿島神宮の隣りである行方(なめがた)市はヤマトタケル伝説などが色濃く残る場所だ。
常陸風土記にもこのあたりの地名について書かれた個所が多い。

そんな中、茨城県にたくさんある鹿島神社が意外に少ないことが気になった。
これは鹿島神宮が近いせいかも知れない。
明日にでも少し地図で検討して見たい。

まずは3か所の鹿島神社を探して行って見ることにした。

昨日紹介した小幡鹿島神社を過ぎて県道183号線(玉造山田線)を北浦の山田方向に進んだ。
途中の高岡地区の北側の山奥の方に北高岡鹿島神社が地図に載っているが、入り込む道が狭くて進むのが心配になり行くのをあきらめた。

続いて北浦から麻生の方に南下した繁昌(はんじょう)地区にかなり由緒のある鹿島神社があると知り、そちらに向かった。

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通りから少し細い道を西に入ったところに大きな神社があった。
手前に古木があり、右手に観音堂のような建物があった。

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鹿島神社の鳥居は比較的新しく建て替えられたのだろう。

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神社庁のホームページにこの神社の説明があった。

【御祭神】 武甕槌命,天照皇大御神、誉田別命、天児屋根命、経津主命
【御神徳】 生活の安寧、平和をもたらす。
武道、競技、政治などの必勝成就の信仰があります。
旅行安全、五穀豊穣、殖産、安産の信仰、事業の創業、新規開拓、開運の神でもあります。
御鎮座地名が繁昌(はんじょう)ゆえに特に商売繁盛の信仰があります。

創立は大同元年勅使左大臣室貞郷関東下向の砌、当地に於いて五神を奉齋し五社明神と称し敬仰した。

  慶安元年2月遷宮

 明治31年2月28日社殿焼失
 明治31年3月14日仮遷宮
 明治39年10月26日本社再建
 大正2年4月18日拝殿新築
 大正元年大宮猿田彦神社を合併

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境内にこの猿田彦が祭られている。かなり大きなものだ。 この神社の性格を表しているのだろうか。

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本殿。

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神社の鳥居の前に建つ「観音堂」

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観音堂の隣りに公民館のような建物が立っており「観世音籠堂」と額が架かっている。
鹿島神社の隣りに観世音堂などがある例をあまり知らない。

よくわからないので今は記録に留めておくだけとする。

玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/05 20:57

行方市の鹿島神社

 古代の鹿島神宮と香取神宮の広がり方が気になった。

全国に鹿島神社という名前の付く神社が約600社、香取神社は約400社程あるそうだ。

鹿島神社は茨城県の入口にある鹿島神宮から北西に広がっているようで、一方香取神社は利根川入口の千葉県にある香取神宮から西の方向に川に沿って多くが点在している。

これを検証するのには時間がかかるがまずは行方市(霞ケ浦と北浦に挟まれた領域でヤマトタケル伝説などが多く存在する地域)で調べた。

鹿島神社(行方)2

上の地図は行方市の鹿島神社と香取神社の分布を調べて書き込んだもの。

鹿島神社は昨日まで紹介した小幡、北高岡、繁昌の三か所で中央部に集中している。

香取神社は地図に茶色の「」で示した11社が存在した。

香取神社がここでは優勢であった。

また地図に多氏が住んだとされる元鹿嶋ともいわれる「大生神社」と香取の神の子社ともいわれる「側高(そばたか)神社」を載せた。
また関係がありそうな「大麻神社」(麻生)も載せて見た。

検証はこれから時間をかけて少しずつ進めて見たい。

鹿島神宮の祭神「武甕槌(たけみかづち)命」を祀った神社は鹿島神社だけではなく、玉造の大宮神社などもある。
また香取神宮の祭神「経津主(ふつぬし)神」を祀るのも香取神社だけではないが、とりあえず調べるのが大変なのでこの鹿島、香取で傾向を調べて見たい。

また鹿島神社といっても武甕槌命と経津主神の両方を祭神としている神社も結構存在するようだ。

でも最近、もっと暇になってもよさそうなのだが逆に時間がなくなってきた気がする。
まあこの年になっても頼られたり、やることがあるのは歓迎しなくてはならないが・・・・。

玉造 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/02/06 20:50

春はそこまで!

 最近時間に追われているようになって少し落ち着かない。

今日は午前中「ふるさと風の会」の会報を印刷製本して午後から八郷、小町の里、北条とまわったら2時間くらいかかってしまった。

学会の論文を書くという友人と一緒に昼食をとり、帰ってからこちらもパソコンプログラム作りを夕方6時ころまでやった。
やはりくたびれる。


立春を過ぎたせいか八郷から朝日トンネルを抜けるあたりはもう木々がうっすらと芽吹き始めたような気配が感じられる。
このどこか春めいてくる感じは好きだ。

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小町の里(土浦市)ではパラグライダーがたくさん飛んでいた。
いかにも気持ちよさそうだ。

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まだ風は冷たいがもう春はそこまで来ている。
山々の姿が違ってきている。

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ブログを書く時間が段々なくなってきてしまった。
来週火曜日にまた銚子に出かける予定だ。

あと2週間くらいすると花粉が飛び始める。
すると2カ月くらい出かけるのもおっくうになる。
何とかならないものだろうか・・・。

ネタが切れたら少し休みます。

里山の風情 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/07 20:10

冬の北条市(つくば市北条)

 昨日は風の会の会報を北条の街中にある「北条ふれあい館」(田村家)に持っていった。
毎月印刷した会報を数部置かせてもらっている。

地方を元気にしたいと頑張っているのはどこも同じ。

この北条は筑波詣での門前町として栄えたことがとりあげられるが、石岡の大掾氏(だいじょうし)の元はここにいたのである。

多気大掾(平氏)はここの山「多気山」に城をかまえていた。

鎌倉幕府が始まり、常陸大掾職をねらった八田氏(小田氏)の換言で潰されてしまった。
その後水戸の平氏一門の吉田氏(馬場氏)が大掾職を継いで石岡に城をかまえた。

非常に関係の深い地だと考えている。

そのうちに風穴があくのかもしれない。

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昨日土曜日に北条の町を訪れたら市が開かれていた。

冬の北条市だという。 午後3時頃で終わりだというが、訪れたのは2時過ぎ。
もう終わりかけていたようだ。

つくば市というだけあって、筑波の若者たちも来ていたように思う。

このふれあい館にいつも会報を置かせていただいている。
田村さんは元は呉服屋さんだ。 
このように今は「ふれあい館」として開放して、お客さんに接している。

週末しか開けていないのは残念だが、お客さんが少ないのでやむを得ないかもしれない。
この日はたくさんの人が来ていたようだ。

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ひな人形を飾っていた。
ここの奥さんは確か真壁の方だったように思う。
真壁も近いが、真壁では雛まつりが始まったという。

石岡も毎年雛巡りというのをやっている。
期間は2週間の開催なので2月半ばから。

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筑波の地酒に北条米アイス。

北条米はコメのブランドとして有名だ。
このアイスは米の味がする。かなりこってりした感じだ。

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塩豆大福に人が集まっていた。

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見ると「京菓子お取り寄せ 本日限定 230円」となっていた。
京都では有名なのかな?

ふれあい館前ではギターの弾き語りや、スタンプラリーの抽選会、もちつき大会などがあったようだがすでに終了した後だったようです。

皆さんお疲れさまでした。

近況 | コメント(7) | トラックバック(0) | 2015/02/08 17:30

茨城県の鹿島・香取神社

 行方市の北浦周辺から玉造への道を散策して、この地の鹿島神社が気になったのだが、検証するために神社庁のリストから茨城県内の各市町村ごとに鹿島・香取の名前の付く神社を数えてみた。

鹿島香取

このリストは茨城県神社庁が公開しているリストから拾ったもので、全ての神社が網羅されているわけではないようだが、神社の傾向を見ることができる。


最初に思っていたよりもはっきりとした傾向がでてきた。

県南部の千葉県境(利根川)沿いの地域で特に西部は香取神社が圧倒していた。
県中央部の水戸までは鹿島香取が拮抗している。

水戸の北部からは香取社はほとんどなく、たくさんの鹿島社が点在している。

県の中央部には鹿島香取神社などと両方の神社の名前が合わさっている社がいくつか存在している。

石岡市やかすみがうら市の神社などを見て回る機会も多いが、昔香取神社であったが、途中で色々な社と合祀をして名前を変えている所がかなりありそうだ。
たとえば石岡の金刀比羅神社も香取神社を合祀している。
また胎安神社・子安神社なども元は香取神社であったようだ。

今回はあまりこれから以降の解釈は色々ありそうなのでデータをまとめておくだけとしたい。


無題3

茨城県の地図を見ると、千葉県との県境は利根川が流れています。
江戸時代の水運はこの利根川を遡り、境町と五霞町との境にある関宿で江戸川に入って行ったのです。

この利根川沿いの西部の都市「守谷市」「坂東市」「境町」「五霞町」には鹿島神社は0で、香取神社が62社もあります。

逆に水戸より北の那珂市、城里町に県北地区の6市町村は香取神社は0で、鹿島神社だけで68社あります。

玉造 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/09 19:24

大麻神社(麻生)

 行方市の麻生の街中に近いところに「大麻(おおあさ)神社」があります。

大麻は「たいま」とは読ませないようで「おおあさ」と読ませています。
麻は総(ふさ)と同じで千葉県東部からこの地域に徳島(阿波=粟)からやってきた種族(忌部氏)などが麻を広めていったと思われます。

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通りに面して入口の鳥居があります。
この隣りは行方警察署(旧麻生警察署)です。

入口に神社の説明が書かれています。

大麻神社(おおあさじんじゃ)

「常陸国風土記」に「麻生の里、古昔、麻、渚沐(なぎさ)の涯(きし)に生ひき。
囲み、大きなる竹の如く、長さ一丈に余れり」とある。
これが即ち麻生の地名のいわれで、また、本社社名の由来と伝えられる。
御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)の二柱の神の他に五柱の神々を祀る。
十月の第三、土・日・月の三日間、祭典が行なわれる。
付近にある大宮貝塚は、猪・鹿・狸・鯨の骨・人骨などが、貝殻と共に出土する縄文時代の集落跡である。」

ここでも鹿島と香取の祭神がともに重要な神としてまつられている。

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通りから鳥居をくぐって階段を登る。
両脇には古木がこの神社の古さを感じさせる。

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伊勢神宮(皇大神宮(内宮))のお札を一般に「大麻(たいま)」というようですが、これもお祓いの時に使われる大麻(おおぬさ)の名前から来ているそうです。
きっといろいろなところでつながっているのでしょう。

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行方市のHPでのこの神社の由緒などでは
「この神社は地元では「大宮様」と称され、創祀は大同元年(806)と伝えられ、祭神は武甕槌経津主命、手力男命、大宮姫命、倉稲魂命、市杵島姫命、水速女命の七柱です。
当時、蝦夷遠征の戦勝祈願のために征夷大将軍坂上田村麻呂が北関東に神社を寄進しており、近くには武甕槌命を祀る鹿島神宮や経津主命を祀る香取神宮が鎮座していたため、麻生の里にも武勇の神を祀ったものと考えられます。」
と書かれています。

あまりしっくりしませんが大同元年・二年頃にはたくさんの神社が全国に広まりました。
そして蝦夷征伐の軍神の象徴として鹿島の神を祀る神社が増えました。

また「仏教が地方へ伝播されると地域の人々の依り代である神社と結びつき神仏習合の信仰が広がりました。
麻生地方の郷社であった大麻神社の別当として神宮寺、後の東光寺(現在の医王山蓮城院)が誕生し中世まで続きました。
又、大麻神社と神宮寺は、中世当地方を支配した常陸大掾庶流麻生氏の居城である羽黒山麻生城の北東鬼門に位置し、麻生氏一族への災いを防ぐ信仰の地となっていたのでした。
江戸時代に近江国から外様の麻生藩新庄氏が入部すると、麻生地方の人々の心の拠所で郷社であった大麻神社を庇護するとともに、氏神として諏訪神社を勧請しました。また、麻生陣屋の南西裏鬼門には八坂神社を勧請して、馬の産地の特性を活かし疫病除けの馬出し祭を興し、今日まで伝統行事として受け継がれてきたのでした。」と書かれています。

常陸国風土記でも「行方の馬」としてこの地方を馬の産地として紹介しています。

「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
 飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)

そういえば香取神宮の北東にある側高神社に伝わる話として「茨城の馬を集めて(盗んで)、連れて来た時に潮の満ち引きを利用して馬を連れてきたため、追手は渡って追いかけることができなくなった」という話があったのを思い出した。
(これは浮島の話だと思ったが少し違うのかもしれない)

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麻生 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/10 19:36
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