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潮来と延方(8)-潮来郷校跡

 潮来市延方にあったという郷校の跡を追いかけてみたのですが、やはりあまりその姿は見えてきませんでした。
先日郷校跡の碑がある内田山(現在の潮来高校のあるところ)を見ました(こちら)。
しかし別なところを歩きまわっているうちにもう一つ郷校跡と書かれた場所がありました。

場所は潮来市役所の少し手前の潮来第一中学入口近くです。

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中学校は高台の上にありその隣りには潮来の祭りで知られた素鷲熊野神社があります。
その中学校への上り坂の途中に建てられていました。

「潮来郷校跡 潮来天王台下」と書かれています。
延方ではなく潮来郷校となっています。

また潮来天王台下とありますが、これはこの写真左手から階段があり素鷲熊野神社境内に続いています。
明治10年に二つの神社が合併するまで素鷲神社と熊野神社と別々の神社であり、素鷲神社は牛頭天王を祀る天王社(天王宮)であったためだと思います。


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「安政4年(1857)1月 武館開館 安政4年9月 文館開館」と書かれています。
恐らくこの場所に武館と文館が建てられたのでしょう。
呼び名もの潮来郷校と呼ばれ、延方郷校とは違った扱いのようです。

延方郷校(医学館)が始まったのが1807年です。そしてその内田山に現在二十三夜尊のあるところに移された「孔子聖堂」が造られたのが1820年ですので、 この潮来郷校は幕末に近い頃です。

このあと、天狗党事件でこの場所も潮来勢の集まる場所になったのでしょうか。

水戸藩の郷校を調べてみると下記の記述がありました。
(水戸弘道館の教育を広めるために各地に建設された。弘道館には文館・武館・医学館・天文館などがあった。)

・ 稽医館(小川郷校):文化1 茨城郡小川村
・ 延方学校(延方郷校): 文化3 行方郡延方村
・ 敬業館(湊郷校):天保6 那珂郡湊村
・ 益習館(太田郷校):天保8 久慈郡太田村
・ 暇修館(大久保郷校): 天保10 多賀郡大久保村
・ 時雍館(野口郷校) 嘉永3 那珂郡野口村
・ 大子郷校 安政2~4 久慈郡大子村
・ 小管郷校 安政2~4 久慈郡小管村
・ 小宮郷校 安政2~4 那珂郡大宮村
・ 町田郷校 安政2~4 久慈郡町田村
・ 秋葉郷校 安政2~4 茨城郡秋葉村
・ 鳥羽田郷校 安政2~4 茨城郡鳥羽田村
・ 玉造郷校 安政2~4 行方郡玉造村
・ 潮来郷校 安政2~4 行方郡潮来村
・ 馬頭郷校 安政2~4 下野国那須郡馬頭村

またこの潮来郷校に関係する人物を調べていたら下記の人物が出てきました。

林五郎三郎(正徳) 1832-1864 幕末の武士。
天保3年生まれ。常陸水戸藩士。弘道館舎長、潮来郷校掛などをつとめる。
天狗党の乱に呼応し、潮来勢をひきいて松平頼徳軍を支援、元治元年9月19日戦死した。33歳。

この郷校などを追いかけると必ず天狗党に行きあたる。
そして悲惨な最期を遂げた話を思い出しこれ以上話は進めなくなる。
茨城県が県別魅力度ランキングが最下位だといつも言われるが、これは県の魅力がないというのではなくこの事件により明治政府からは茨城県の有力者を排除させられたり、ほとんどが処刑されたり・・・というようなことで表舞台から消されてしまったことが大きく影響していると感じている。

茨城などという名前もこの大昔の話からとってつけたように県名したのも仕組まれたものと感じる。
県名発祥の地などという看板も石岡駅前にあるが・・・・。

この潮来郷校跡のすぐ近くの国道51号線沿いに「恵雲寺」(えうんじ)という日蓮宗の寺がある。

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寛政9年(1797)鋳造の鐘銘によれば、元禄年間、潮来の北部に小さな庵があって、人々はこれを談義所とよんでいた。
談義所に恵雲と名のる僧がどこからかやってきて滞在し、近在の人々に説教をはじめた。この談義所は藩の政策によって処分の対象となったが、妙光寺の日具上人の努力によって同寺の付属仏舎となって破却から免れた。
この庵は後日、藩主光圀の命により寺院となり日具上人の号である、徳大と僧恵雲の名をつけ徳大山恵雲寺と呼ぶようになった。
恵雲寺は元禄10年(1697)除地4石1斗8升を得て栄えたが、元文2年(1737)火災にあい撞鐘楼はかすべてを焼失した。
しかし60年後の寛政9年(1797)に建物の一部が再興された

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恵雲寺本堂。

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この本堂裏手の奥まったところに七面堂というお堂があります。

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このお堂は内田山にあった延方郷校の最初に建てられた孔子聖堂のようです。
現在二十三夜尊堂として使われている孔子聖堂が建てられた時(1820年)にその前にあった仮聖堂がこの寺に移されたと書かれていた記事がありました。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/01 22:10

潮来と延方(9)-潮来陣屋跡

国道51号線を潮来方面に進み稲荷山の公園を過ぎて「土木事務所入口」という信号がある。
この信号を右に曲れば潮来の水郷地帯中心部に出るが、反対側の左手に入る狭い道がある。

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そして正面にはこんもりとした小山がある。
ここが潮来陣屋跡のある弁天山だという。
残念ながらこの通りの左右はゴミの集積場、処分場となりあまり景観としては良くない。
山の麓も捨てられたようなゴミが積み重ねられていた。

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この山の中腹に弁財天が祀られていて、そこに登る登り口がある。
あまり多くの人が訪れていないようで、道は石段で整備されているが寂しい山道だ。

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その道の入口付近に碑は建てられている。
「潮来鎮台(陣屋)跡 天狗党潮来勢集結の地 潮来弁天山」と書かれている。

その隣りには
「幕府の命により武田耕雲斉指揮のもと、治安沈静を目的に創建されたが、元治甲子の争乱で天狗党の拠点になり、幕府掃討軍によって焼き討ちされた。」と書かれている。

武田耕雲斉は水戸藩の三田(戸田忠太夫、藤田東湖、武田耕雲斉)と称される重鎮で、斉昭死後に水戸藩内の意見対立が激しくなり、藤田小四郎などが天狗党を旗揚げした時にはこれを諌め、早まった行動を鎮めようとしていました。
しかし、水戸藩にとって情勢が日々悪くなり、小四朗などから天狗党の党首を懇請されこれを引きうけてしまいます。
従って、この潮来陣屋も治安が目的でできたのですが次第に天狗党の人達の集結場に変わっていったのでしょう。

耕雲斉は最後は駿河で小四郎とともに降伏して斬首されましたが、悲惨なのはその家族です。
妻、妾、長男とその家族(11歳の娘もいた)、次男、六男(9歳)、七男(3歳)などことごとく斬首となりました。
時代の流れとはいえあまりにもむごいことです。
この多くが靖国神社に合祀されています。

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この陣屋は延方郷校や潮来郷校などの水戸学問所には幕末に尊王攘夷をかかげる急進派の天狗党が集結するようになりました。
これが筑波勢と行動を共にした潮来勢となりました。
そしてそこには多くの農民も加わっていました。

これを鎮圧するためにこの弁天山に幕府は陣屋を置いたようです。
しかし逆にこの陣屋は潮来勢の集結する場に変わってしまい、最後は新政府軍による掃討作戦で焼き払われてしまったようです。

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山道を登るとそこに小さな小屋が置かれています。これが弁財天のようです。

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「芸達者 商売繁盛」と書かれた木札が印象的です。

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潮来の街の方を見ることもできますが、木々に覆われて少し見通しは悪いです。
更に山道が続いていたので進んでみました。

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少し開けたところに「南無妙法蓮華経」の石碑が立てられていました。
天狗党の霊を鎮めるために置かれたものでしょうか。

でもいまでもこの天狗党は悲惨でどこかに亡霊が潜んでいる気がしています。

以前玉造でも大宮神社に「天狗党忠魂碑」がありました。(記事はこちら
こちらは玉造勢でした。
小川、玉造、延方(潮来)はそれぞれ水戸藩南領の領域で郷校が置かれていました。
小川の天聖寺跡(記事はこちら)などでも天狗党が棲みかとしていて焼き討ちされたことを書いていました。

この話はこれくらいでやめておきましょう。
暗くなるばかりです。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/02 18:06

たんぽぽの綿毛に誘われて

 世の中ゴールデンウィークの真っただ中のようですが、まったくその感覚が無くなりました。
おかしなものですね。
暇がない時は暇を欲しがり、暇になれば何かやることを探してしまう。

今日も5月の初めとしては暑い日だったようです、比較的カラットして吹く風も気持ちが良かったです。
日曜日と言うのに少し仕事をやり街中もあるいてきました。


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すると何時の間にやらすっかりたんぽぽが綿毛になっています。
数日前はまだ黄色の花が目立っていたように思うのですが今ではほとんどが綿毛になってしまいました。

また朝方は一面に綿毛のまわるい輪が広がっていたのですが、夕方になるとかなり飛び散っていました。


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通りを歩いていてもこの綿毛が風に吹かれて舞っています。
いろいろな路地を歩きまわっているのですがまるで道案内をしてくれるように先導して飛んでくれます。

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もうすぐ子供の日ですね。
キャサリン妃は女の子でしたね。
生まれて数時間で皆の前に出てくるのはイギリスならではでしょうね。
日本人とは体質が違うとも言われているようです。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/03 19:04

五月晴れ

 テレビでは各行楽地の混雑振りが映し出されていますが、こちらは家でのんびり。
五月晴れとは昔と今では違っているがゴールデンウィークもすがすがしい天気となっている。

沖縄ではもうすぐ梅雨入りかもしれないとか・・・

午後から近くの公園(常陸風土記の丘)の藤が見たくて行ってみました。

白と紫の藤が見られるので毎年来ていますが、もう少し大きくならないとあまり関心を持つ方も少ないようです。

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園内では無料のお茶がふるまわれていました。

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ボタン桜も終わり、次はスカシユリですが6月下旬でしょうか? それまですくすく育ちます。

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風土記の丘近辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/04 20:44

潮来と延方(10)-素鷲熊野神社1

 潮来には佐原と同様に江戸と水運でつながり、それによりもたらされたと思われる山車や囃子による祭りがある。
潮来祇園祭(8月初めの金土日の3日間)に14台の山車がでる。

また潮来節の発祥の地でもある。

潮来の祇園祭はこの素鷲熊野神社(そがくまのじんじゃ)の祭りで天王祭(津島神社の系統)だ。

この神社は素鷲神社と熊野神社が一体となっているが、祀られているのは別々のようだ。

素鷲神社の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。
熊野神社の祭神は伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉册命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)である。
いずれも日本神話の神様。

素鷲神社はこの神社の場所が天王山と呼ばれているので、これは元は天王社(牛頭天王)であろう。
牛頭天王は院殿神様であるが江戸時代は各地にたくさんあり、愛知県の津島神社が総本山であるが、元々は神社ではなく寺院とされていた。

神仏分離により仏教的なものが排除されて神社となり、全国の多くの天王社が素鷲神社や八坂神社に名前を変えた。
石岡の中町にも中心に天王社があったが八坂神社となり常陸国総社宮に合祀された。

この全国の天王社はもともと祇園祭が行なわれていて、八坂神社の祭りと同じであったことも名称変更に抵抗が無かったようだ。
そして祭神もほとんどのところがスサノオとクシイナダヒメに変わった。

スサノオは朝鮮半島から対馬を経由して出雲国にやってきた。今の津島神社はこのスサノオの荒魂が出雲にあり和魂が紀元前245年にいったん対馬に鎮まった後に西暦540年に愛知県の津島にやってきたとされている。
このあたりはどう解釈したらよいかわからないが面白い。

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この潮来素鷲熊野神社の現地に書かれた由緒によると、
「素鷲神社は天安2年(857~858)潮来町地先浪逆浦より出現。
 始め辻村天王原に奉祀す。 
その後文治4年(1185)6月に至り潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り板久牛頭天王と称し4丁目以西の鎮守となす。
元禄5年水戸義公封ない巡視の折町内に在りては火災の憂いあると以て、今の地に遷すべしとの命により別当職佐竹祐宜新たに宮を造営元禄9年(1696)遷宮す。

熊野神社は天正年中(1573~1586)村人紀州熊野三社を信仰同行の者其の霊験を尊び御分霊を迎え来りて5丁目地内に宮を建て奉斎熊野三社大権現と称し5丁目以東の鎮守として尊崇祭祀せり。
元禄5年水戸義公の命により今の地に遷すこととなり、新たに宮を建てて元禄9年素鷲神社と同時に遷宮す。
両者共に天保15年(1843)水戸藩内一律に神仏分離の令により牛頭天王を素鷲神社と改称。 
熊野三社大権現を熊野神社と改称。 
明治10年(1877)に至り素鷲熊野神社と合名し明治12年4月郷社に昇格せり。」

とかかれています。長々と書かれていますが注釈を加えずにそのまま載せました。

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入口鳥居のすぐ脇にとても大きな欅の木が聳えています。
「茨城県指定文化財 天然記念物 潮来大欅」とかかれています。

樹齢は不明となっていますが推定で500年以上とか800年以上とか書かれている物もありました。
かなり見事な巨木である。

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山の上にある神社の登り口まで鳥居が4つ?
途中に古びた石灯篭に狛犬が置かれています。

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口を閉じた吽型。

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口を開けた阿型。表情が面白いですね。

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こちらは階段を少し上ったところにある鳥居のところに置かれている威嚇したような狛犬です。

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階段を登ったところにある神社は明日紹介します。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/05 20:37

潮来と延方(11)-素鷲熊野神社2

 潮来の祇園祭の祭神となっている天王山に鎮座する素鷲熊野神社の紹介の続きです。
小山の上にありますので階段を上ります。

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上には拝殿とその右側に社務所、左側に額殿や境内社が並んでいます。

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階段を登ったところに鳥居がありこちらにも狛犬が置かれています。
また拝殿前にもいます。

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このように置かれている場所で狛犬も表情が違いますので面白いですね。
奥に見えるのが社務所です。

その更に向こう側は中学校が見えます。
右手にはもう一つにの参道がありそちらが前に紹介した潮来郷校の跡に出ます。



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素鷲熊野神社(そがくまのじんじゃ)の拝殿です。
御鎮座八百年と書かれています。

熊野神社はまだ500年程ですから、素鷲神社が文治4年(1185)6月に潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り、板久牛頭天王と称した時からの年数でしょうか。

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「額殿」 昔からの奉納扁額などが飾られているようです。
中に昔の「牛頭天王」と書かれた額も残されています。

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境内社としては神明神社、第六天神社、松尾神社、 淡島神社、金比羅神社、八子神社、疱瘡神社、稲荷神社等が祀られている。

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?霊殿・・・

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この潮来の祇園祭はこの神社の2神(天王さまと熊野さま)を神輿で山を下りて御仮屋に2日間移して御まつりします。
各町内からの14台の山車が町を練り歩きます。

山車のは佐原と同じで上は回転しませんので長い棒で回転させます。
これをのの字回しと呼ぶのは佐原と同じです。

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この石柱や雰囲気は熊野神社の感じがします。

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神社本殿。中は覆われていて見えません。

天王さんと熊野権現が祀られているのか?

スサノオが祀られているのですがここの祭りでは天王さんが神輿で街に下りるというので、スサノオも牛頭天王も区別はなさそうです。

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この天王山も昔は鬱蒼とした山だったのでしょう。
今はこの神社の隣りに「潮来第一中学校」があります。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/06 19:46

石岡の路地(1)

 私の住んでいる茨城県石岡市内はやたらと狭い路地が多い。
街中に寺院も多く古い町で表面上は廃れたイメージを払しょくできないでいるが、これもこれらの車も通れないような狭い路地があちこちに点在していることもその原因の一つに違いない。

もう大分昔だが、石岡の景観を守るのに何を残したいかというようなアンケート調査があった。

その時に市内から他所の町に出ている方に石岡の魅力となる点を上げてもらった。

すると意外な答えが返ってきて驚いたことがあった。

それが「路地」であった。
私も石岡の住民となって10年、ようやく同じような心境になったのかもしれない。

写真ブログではないが時々記事の合間にその姿を残していこうと思う。

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お寺の裏に細く続く路地。
花は黄色のモッコウバラでしょう。綺麗ですね。

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この裏は常光院の墓地です。
この墓地には農機具「万能」を発明した鈴木万能の墓があります。

そういえばこの寺も歴史は古く1000年ほど経つといわれる。
昭和4年の大火で焼失して再建された。
寺の入口は寿金丸通り側にあるがやはり入口は路地である。

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常光院の入口。この路地を行った先にお寺がある(天台宗)。


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国府5丁目 常光院裏通り横道 矢車菊

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三色すみれ

春の日差しを浴びて道端につつましく咲いていました。


石岡の路地 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/07 19:00

石岡の路地(2)

 石岡駅の正面通りは通称八間道路と呼ぶ比較的広い道路である。
この通りは昭和4年2月に石岡市内で起こった大火の後、同じ年の秋に昭和天皇が陸軍演習に来られた時に合わせてできた通りで御幸通りと名称がついている。

この大火はかなり大きな大火災で、当時の石岡は商都としての意地もあり急ピッチで復興も行なわれた。
まあ、それでも当然焼け跡はまだ残っていて天皇陛下が通る道筋の目立つところは全て布で覆ったりして見た目を取りつくろったようだ。
石岡を訪れたのはこの火事の見舞いもあったのだろうからあまりとりつくろわなくてもとも思うが、それが当時の人達の意地でもあったと思う。

さて、路地の記事の2回目だが、この御幸通りの一つ東京側に平行して走る通りがある。通称金丸通りという。
この通りも昔はにぎわったが今はどうしても地元の人以外は通る人も少ない。
お店なども並ぶのだが地元で愛されるお店や問屋として成り立っているお店などもあるが歯が抜けたように空き地も目立つ。

この通りに沿ったところに「鈴の宮神社」がある。

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この鈴の宮の名前の由来は国府であった常陸府中(石岡)には当然駅家(うまや)が置かれていた。
都(奈良、京都)との間で馬で色々なものが運ばれたり伝令も定期的に行なわれていた。
この駅家で使われた時の合図の鈴をこの神社に祀ったことが始まりだと伝えられている。

この神社の隣りの駐車場となっている空地の辺りは、江戸時代には新地八軒と呼ばれ、8軒の遊郭などの家があった。
天狗党の中心となった藤田小四郎(藤田東湖の四男)達はこの遊郭に寝泊まりして同士の結集を図り、尊皇攘夷思想を論じていた。

そして仲間とこの鈴の宮に集結して戦勝を祈願して筑波山に登り天狗党の旗揚げをした。
この鈴の宮に集結したのは江戸から山田一郎など10人ほど、潮来から岩谷敬一郎など17・8人、小川からは竹内百太郎など10人ほど、水戸からは小四郎など20人ほどで総勢60人ほどになったという。

遊郭(旅宿)の一つ紀州屋が小四郎の定宿で、ここの女将「いく」は天狗党に「おふくろ」と慕われていた。
「いく」の墓は市内の本浄寺にあるという。(前に探したがわからなかった)

新地八軒の名前は紀州屋、三好屋、井関屋、山本、大和屋、金升屋、近江屋、松屋だという。
このような狭い空間に軒を連ねていたのだろう。

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この鈴の宮神社の脇から駅前通り(御幸通り)に続く狭い路地がある。

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写真のように狭い道で自転車でもやっと通れるくらいだ。

昔の新地八軒と言うのも通りを挟んで4軒づつ並んでいたようなので、もしかしたらこの路地が昔の遊郭の間の通りだったのかもしれない。

まあそんなことを思ってここを通る人も今ではほとんどいないだろう。

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この道が何処に出るかと言うと「川口ミシン商会」という店の脇である。
鈴の宮神社を探してなかなか見つからないという人もいるが、駅前通りを来てこのミシン商会の特徴のあるレトロな建物の脇を入れば神社に出る。


石岡の路地 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/05/08 19:32

潮来と延方(12)-愛染院1

 潮来周辺の紹介が途中となっておりましたのでもう少し続けたいと思います。
天狗党や水戸藩郷校などはもう置いておいて、少し気になる場所を何箇所かまわりました。

延方(のぶかた)から北浦に沿って北上するとこの通り沿いに「愛染院」というお寺が立っています。

場所は北浦の入り江のようになった場所で「根本」と言う地名がついています。
まえに仏教伝来で、その地域の最初の中心地が根本(ねもと、こんぽん)ではないかと考えて、地名を追いかけたことがありました。

この寺は「東雲山愛染院根本寺」(真言宗)と言うのが正式名称ですが、地元では水原の観音様と親しまれています。
水原はこのあたりの地名です。



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北浦がすぐ近くで、寺やすぐ裏山が聳えています。

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入口に立派な楼門があります。

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この楼門は鐘楼となっていて上部には釣鐘があります。この鐘楼門は潮来市指定文化財です。
享保年間(1716~1735)の建立。

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愛染院と呼ばれる寺院は全国にたくさんあり、ほとんどは愛染明王を祀っています。
ここも愛染明王と観音様が祀られています。

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てらの由緒などは上記記載の通りで、

「天喜5年(1057)年陸奥征伐(前九年の役)に出陣の途中、八幡太郎義家がこの地で難風に遭い、やむなく滞在したが、その夜、不思議な仏夢により深く感ずるところがあって、後冷泉天皇から賜った守護仏、如意輪観世音菩薩を安置し、武運を祈願したところ、難風がおさまったという。 このため、衆生済度の根本の地として円通閣主を招き草庵を建立した。その後本堂を建立し、義家公の守護仏を胎内仏として如意輪観世音菩薩を安置している。
 元禄7年(1694)から堂宇の再建が行なわれ、宥範(ゆうはん)和尚を中興開山として迎えた。
宝永元年(1704)には、麻生藩主新庄直隆公から再建記念として愛染明王像が寄進され、以後麻生藩主新庄家の祈願所となった。」

とされる。

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宝物収蔵庫? この寺には数多くの文化財がありようだ。
この宝物館もお願いすれば見せてもらえるそうです。

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正面に立派な観音堂があります。潮来市指定文化財。
享保4年(1719)の建立とされる。

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源義家(八幡太郎)の守護仏を胎内仏とした如意輪観世音菩薩像は県指定文化財と言う。
見てみたいですね。

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時間が無くなりました。明日もう少し書きます。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/09 21:48

潮来と延方(13)-愛染院2

 茨城県潮来市の北浦沿いにある真言宗の古刹「愛染院」(根本寺)の紹介をしています。

北浦沿いにこのような寺があることを知らなかったので最初に緒訪れた時に少し驚いた。
四国の霊場と同じように山にへばりついたような寺ではあるが入口の門が3つにわかれているようだ。
3つの要素の寺院が一つになったものかもしれない。

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正面に観音堂がありその前庭に空海(弘法大師)?像が置かれ、北浦の方を眺めている。
北浦は写真にあるようにすぐそこにある。

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空海の像の下には足形が置かれていて、きっとこの下の石や砂は四国霊場88か所から持って来たものだろう。
この足型に乗って「南無大師遍照金剛」を唱えれば四国霊場の御利益もいただけるのだろうか。

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足型には「佛足跡」となっていました。
この足型にのるとあたまの上に弘法大師さんが立っていることになります。
やはり恐れ多くてこの上には乗れません。

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正面(写真左側)が観音堂、右側に「金蘭?」と扁額のかかった建物があります。
そして通りに沿ったところにはこちらの門も別にあります。

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七福神が彫られた石像がおかれています。
その隣りにこの寺の由来が彫られています。
「本寺は真言宗豊山派東雲山愛染院根本寺と称し、本尊は大聖如意輪観世音菩薩で本堂(観音堂)に祀られ、金剛愛染明王は金堂に祀られている。
寺伝によれば本尊如意輪観世音菩薩(高さ5.4cm)は歴代の天皇の守護佛であり、平安後期天喜2年(1054)に後冷泉天王より源氏八幡太郎義家公に武運の守護佛として賜り、義家公兜の八幡座に奉持され、坂東武士一軍を率いて、奥州の安倍氏征伐に向かい、この水原の郷に来りしも、鹿島の郷に渡るとき難風にあい北浦を渡れず、やむなく数日滞陣され、里人の食糧などの持て成しをうけ、将軍その忠勤奇特を思い召された。ある夜不思議な霊夢により衆生済度の根本の地であることを感ずることあり、守護佛に深く帰依し、一軍の武運長久を祈り、草庵を建て観音菩薩を祀られたのが当寺の開基とされる。・・・・・・・・・・」
少し長いのでカットします。

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そしてその隣りに観音堂の脇から裏山に続く真っ直ぐな急な登り階段があります。
この正面入り口の門には金毘羅大権現とあります。
ここが北浦の漁が盛んな場所であったのでしょう。金毘羅さんは漁の関係者の鎮守で、どこも海を見下ろせる場所に建っていることが多いようです。

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やはりこれだけ長い階段を登るとなると少し勇気が必要です。
やはり歳には勝てませんね。

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少し息が切れましたがやっと登りました。

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上には小さな赤い鳥居。

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こちらは八幡様です。

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こちらの堂宇が金毘羅宮のようです。

上からは木々が邪魔して遠くを見はらすことはできません。

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それでは来た階段を下ります。

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向かって一番左側に「弘法大師堂」の建物がありました。
こちらにもまた入口の門が別にあるようです。

潮来 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/10 17:40
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