大井戸湖岸公園(玉里)
梅雨であまり天気も良くなかったが、先日高浜から霞ケ浦沿いを車で旧玉里方面を走っていた。
玉里の先端まで行くと「大井戸湖岸公園」の矢印看板が出ていた。
前に来た時には無かったように思いその公園に行った。

綺麗な公園ができていた。

調べるとちょうど1年前に完成したとの記事があった。

まえに綾小路 きみまろの旅番組で紹介されたらしい。
この辺りは運動する人が少しいたが、それ以外にほとんど人の姿を見ることもない。

こうして霞ケ浦の湖岸もかなり整備が進んでいる。
堤防が穂日前週に渡って整備が終わり、湖岸周遊の道路を整備し桜の木を植えて近いうちに桜並木も見ごろを迎えるのだろう。
後はこの水質を昔に戻すこと。 砂浜を作り、泳げるまでになるのは何時のことだろうか。
昔は泳げる場所がかなりあった。
今から50年前頃までは遊泳場もたくさんあり泳げたという。
玉里の先端まで行くと「大井戸湖岸公園」の矢印看板が出ていた。
前に来た時には無かったように思いその公園に行った。

綺麗な公園ができていた。

調べるとちょうど1年前に完成したとの記事があった。

まえに綾小路 きみまろの旅番組で紹介されたらしい。
この辺りは運動する人が少しいたが、それ以外にほとんど人の姿を見ることもない。

こうして霞ケ浦の湖岸もかなり整備が進んでいる。
堤防が穂日前週に渡って整備が終わり、湖岸周遊の道路を整備し桜の木を植えて近いうちに桜並木も見ごろを迎えるのだろう。
後はこの水質を昔に戻すこと。 砂浜を作り、泳げるまでになるのは何時のことだろうか。
昔は泳げる場所がかなりあった。
今から50年前頃までは遊泳場もたくさんあり泳げたという。
こんなところに踏切
旧玉里村(現小美玉市)の湖岸沿いを車で走っていると、とある工場のような建物の入口に電車の踏切が置かれていました。
まわりはのどかなハス畑などが広がります。

これは廃止された鹿島鉄道の踏切に使われたものでしょうか?

この場所から鉄道が走っていた場所までは少し離れています。
鉄道が廃線になってから8年過ぎました。
廃線の時に車両も含め多くの機材が売り出されたようです。
このような踏切遮断機も中にはあったのでしょう。


場所は「赤坂」というバス停近くです。
バスも1日3回。それも平日だけです。
まわりはのどかなハス畑などが広がります。

これは廃止された鹿島鉄道の踏切に使われたものでしょうか?

この場所から鉄道が走っていた場所までは少し離れています。
鉄道が廃線になってから8年過ぎました。
廃線の時に車両も含め多くの機材が売り出されたようです。
このような踏切遮断機も中にはあったのでしょう。


場所は「赤坂」というバス停近くです。
バスも1日3回。それも平日だけです。
みちの駅多古(2)
千葉県多古町は「多古米」が有名で、家の近くのスーパーでもおにぎりやお弁当に多古米を使用している。
ここに「みちの駅」があるが、1年前の6月に1度訪れているのだが、先日また行ってきた。
多古町に残されている55000年前のものといわれる木舟を見ておきたいとまたこの町を訪れた。
こちらはまた明日にでも紹介したい。

銚子に行く途中での寄り道なのだが、やはり時間が足りなくなってしまった。
こちらから行くとかなり遠い。


あじさい館という名前がついており、紫陽花祭りをやっていた。

この町の中を流れる「栗山川」流域はとても歴史の古い場所だ。
縄文人がたくさん住んでいたと考えられるし、弥生人もこの川を遡って内陸に進んで行ったと考えられるように感じる。

この栗山川の名前の由来は「栗」の木が茂るという考え方も確かにあるだろう。
縄文人が栗を食べたと考えればそれもありうるのだが、どうしても「句麗」との関係を捨てきることができない。
栗山川は九十九里に注いでいるが、そこは横芝光町で「屋形」という地名である。
横芝光町というのは2006年の平成の大合併で山武郡横芝町と匝瑳郡光町が合併してできたが、このように山武郡と匝瑳郡の二つの郡が一緒になるのは珍しい。
また匝瑳郡は下総国であり、山武郡(さんぶぐん)は山辺郡(やまべぐん)と武射郡(むしゃぐん)が明治30年に合併してできたが、元々は上総国にあった。
そのため上総国と下総国が一緒になったという非常に珍しい場所だと思う。
その境界がこの栗山川なのではないか。
屋形という地名も「館」という意味だと思うが、これも平氏の祖である高望王が宇多天皇から「平氏」姓をもらって(889年)上総介としてやってきたのがこの「屋形」であり、高望王が任期を終えて帰京した時に子供の「平良兼」がこのあたりをおさめていった。
そのため全てこの辺りから関東の領地が開拓されていったことになる。
上総介というのでもっと上総国国府である「市原」辺りかと思っていたが全く離れている。
これと縄文人のかかわりなどがイメージとしてまだ湧いてこない。
もう少し調べて見たら何か分かるのかもしれないが、1年前も同じようなことを思っていたのでまったく進歩していない。
ここに「みちの駅」があるが、1年前の6月に1度訪れているのだが、先日また行ってきた。
多古町に残されている55000年前のものといわれる木舟を見ておきたいとまたこの町を訪れた。
こちらはまた明日にでも紹介したい。

銚子に行く途中での寄り道なのだが、やはり時間が足りなくなってしまった。
こちらから行くとかなり遠い。


あじさい館という名前がついており、紫陽花祭りをやっていた。

この町の中を流れる「栗山川」流域はとても歴史の古い場所だ。
縄文人がたくさん住んでいたと考えられるし、弥生人もこの川を遡って内陸に進んで行ったと考えられるように感じる。

この栗山川の名前の由来は「栗」の木が茂るという考え方も確かにあるだろう。
縄文人が栗を食べたと考えればそれもありうるのだが、どうしても「句麗」との関係を捨てきることができない。
栗山川は九十九里に注いでいるが、そこは横芝光町で「屋形」という地名である。
横芝光町というのは2006年の平成の大合併で山武郡横芝町と匝瑳郡光町が合併してできたが、このように山武郡と匝瑳郡の二つの郡が一緒になるのは珍しい。
また匝瑳郡は下総国であり、山武郡(さんぶぐん)は山辺郡(やまべぐん)と武射郡(むしゃぐん)が明治30年に合併してできたが、元々は上総国にあった。
そのため上総国と下総国が一緒になったという非常に珍しい場所だと思う。
その境界がこの栗山川なのではないか。
屋形という地名も「館」という意味だと思うが、これも平氏の祖である高望王が宇多天皇から「平氏」姓をもらって(889年)上総介としてやってきたのがこの「屋形」であり、高望王が任期を終えて帰京した時に子供の「平良兼」がこのあたりをおさめていった。
そのため全てこの辺りから関東の領地が開拓されていったことになる。
上総介というのでもっと上総国国府である「市原」辺りかと思っていたが全く離れている。
これと縄文人のかかわりなどがイメージとしてまだ湧いてこない。
もう少し調べて見たら何か分かるのかもしれないが、1年前も同じようなことを思っていたのでまったく進歩していない。
5500年前の古代丸木舟
千葉県多古町の栗山川周辺は古代丸木舟がもっともたくさん発掘されている場所です。
日本でこの古代(先史時代)の丸木舟は200例ほどあるそうだが、そのうちの半数が千葉県で発見され、中でもこの栗山川周辺から発見された物が一番多いのだとのこと。
その古代丸木舟を多古町のコミュニティプラザに展示してあるというので少し遠いが足を延ばしていってきた。

多古町コミュニティプラザは新しい建物でとても素晴らしいきれいな建物だ。
まわりのものに比べて立派なものを作りすぎたのではないかとの気がしないこともない。
入り口をはいると正面に図書のスペースがあり、左手に大きな事務スペースがある。
入っているのは生涯学習社会教育係? たくさん人がいました。
2階以上には研修室などたくさんの部屋があり、隣りに立派な文化ホールがある。
1階の生涯学習課?前のホールにガラスには行った陳列棚にこの丸木舟が置かれていました。

しかしホールの灯りは暗く、ガラスも光ってしまい中が良く見えません。
丸木舟の長さは7.45m このように室内に展示してあるとかなり大きいと感じる。

ガラスにカメラのレンズを押し当てて写真を撮って見ました。
少しイメージがわきますか?

約5500年前(紀元前3500年頃)の丸木舟の木がこんなです。

古代ハスで有名な大賀博士が復活させたハスの種は、千葉市郊外の検見川で発見された古代舟に残されたハスの実から発芽させたものですが、これも今から約2000年前のものです。
この古代の舟はそれよりも倍以上前になります。
縄文時代前期の終わりから中期始めです。

展示ホールの壁には発見された当時の写真などが飾られていました。
とても興味深いです。
この丸木舟を見ている人は他にはだれもいないようです。見学者も少ないのでしょうね。

この栗山川のすぐ近くで発見されました。

発見されたのは平成6年です。
ほとんど原形のまま発見されました。
地表から1.2m下の地中から見つかったそうです。

運び出す時に壊れるので発砲ウレタンだ全体を包み鉄パイプの枠をに載せて運んだそうです。
そして、このプラザの庭にあるプールに入れてしばらく保存していたと書かれていました。
、

でも5500年も前の木ですから結構ボロボロだったようです。

それを平成11年から14年にかけて京都の吉田生物研究所に持ち込んで復元作業を行いました。

まず高級アルコール法で水分を除去し、バラバラに分かれてしまった木片を組み立てて舟の再現をしたそうです。

吉田生物研究所での復元作業の写真。

10mを超える古代舟も数例見つかっているようですが、このような古代のものを見て昔の状況を考えて見るのも良いのではないかと思います。
いまから5~6000年くらい前には縄文海進で海面は今より数メートル高かったといわれています。
少なくても2~3mくらい高かったように思います。
そのため、この舟も海の下に沈んでいて、そこに土砂が上から覆っていったと思われます。
ロマンが広がりますね。
この辺りでこのような丸木舟を扱い何千年、何万年ものあいだ生活していた民族はどんな人々だったのでしょうか。
日本でこの古代(先史時代)の丸木舟は200例ほどあるそうだが、そのうちの半数が千葉県で発見され、中でもこの栗山川周辺から発見された物が一番多いのだとのこと。
その古代丸木舟を多古町のコミュニティプラザに展示してあるというので少し遠いが足を延ばしていってきた。

多古町コミュニティプラザは新しい建物でとても素晴らしいきれいな建物だ。
まわりのものに比べて立派なものを作りすぎたのではないかとの気がしないこともない。
入り口をはいると正面に図書のスペースがあり、左手に大きな事務スペースがある。
入っているのは生涯学習社会教育係? たくさん人がいました。
2階以上には研修室などたくさんの部屋があり、隣りに立派な文化ホールがある。
1階の生涯学習課?前のホールにガラスには行った陳列棚にこの丸木舟が置かれていました。

しかしホールの灯りは暗く、ガラスも光ってしまい中が良く見えません。
丸木舟の長さは7.45m このように室内に展示してあるとかなり大きいと感じる。

ガラスにカメラのレンズを押し当てて写真を撮って見ました。
少しイメージがわきますか?

約5500年前(紀元前3500年頃)の丸木舟の木がこんなです。

古代ハスで有名な大賀博士が復活させたハスの種は、千葉市郊外の検見川で発見された古代舟に残されたハスの実から発芽させたものですが、これも今から約2000年前のものです。
この古代の舟はそれよりも倍以上前になります。
縄文時代前期の終わりから中期始めです。

展示ホールの壁には発見された当時の写真などが飾られていました。
とても興味深いです。
この丸木舟を見ている人は他にはだれもいないようです。見学者も少ないのでしょうね。

この栗山川のすぐ近くで発見されました。

発見されたのは平成6年です。
ほとんど原形のまま発見されました。
地表から1.2m下の地中から見つかったそうです。

運び出す時に壊れるので発砲ウレタンだ全体を包み鉄パイプの枠をに載せて運んだそうです。
そして、このプラザの庭にあるプールに入れてしばらく保存していたと書かれていました。
、

でも5500年も前の木ですから結構ボロボロだったようです。

それを平成11年から14年にかけて京都の吉田生物研究所に持ち込んで復元作業を行いました。

まず高級アルコール法で水分を除去し、バラバラに分かれてしまった木片を組み立てて舟の再現をしたそうです。

吉田生物研究所での復元作業の写真。

10mを超える古代舟も数例見つかっているようですが、このような古代のものを見て昔の状況を考えて見るのも良いのではないかと思います。
いまから5~6000年くらい前には縄文海進で海面は今より数メートル高かったといわれています。
少なくても2~3mくらい高かったように思います。
そのため、この舟も海の下に沈んでいて、そこに土砂が上から覆っていったと思われます。
ロマンが広がりますね。
この辺りでこのような丸木舟を扱い何千年、何万年ものあいだ生活していた民族はどんな人々だったのでしょうか。
七ツ池(銚子)
銚子の少し手前から下総台地への登り口に地図上に史跡などの「∴」マークのある場所「七ツ池」があります。
前から気にはなっていたのですが、前に1度近くを車で通って見たのですが入口がわからずにいました。
そこで今度は地図を良く見て立ち寄ってみました。

銚子の川沿いの低地から風車などがある台地(下総台地)へ登る坂の途中から脇道に入るとそこに少しさびしく広がった池がありました。
静かに水をたたえた2つ目の池です。
こんなに町から近いのにどこか神秘的です。

そしてその下に1つ目の池があります。
台地へ登る途中にありますので池も上下にいくつかにわかれています。

ここは自然の池ではなく農業用のため池です。
しかしこの池が作られたのが江戸中期というはるか昔なのです。
説明では1711~1715年頃に干ばつで悩まされていたところ治兵衛という体は不自由だが頭の良い男がここにため池を作ることを進言したそうです。
それに賛同した村人たちが協力して1つのため池を作り上げました。
その後これだけでは足りないと2つ、3つと池は増えていき、「江戸堰」「上池」「中池」「蒜藻池」「岩堰」「塚子の森池」「新堰」という7つの池ができ七ツ池と呼ばれる池が完成したのです。

しかし、江戸堰と上池が一つになり、また塚子の森池と新堰が合体して5つになり、一部が決壊したりしたために平成になって整備して今では「上池・中池・蒜藻池」の3つだけが残ったそうです。
上に写真は最初のものが中池、その次のものが蒜藻池だと思います。上池まではいきませんでした。
この辺りは夜などは少し寂しく一人では怖いくらいな場所です。
台地にぽっかり空いたクレータのような場所です。
銚子の地形は特殊ですね。
ここに来るとこの銚子の地形がよくわかります。
日本ジオパークに認定され、世界ジオパークへの登録を盛んに推進しているのも頷けます。
こちらはまた明日にでも説明しておきたいと思います。

この池を観光にしようと戦後に池の周囲に桜の木を2000本植えて一時は花見でにぎわったようです。
でも今ではトイレと駐車場だけが残った心霊スポットのような場所です。
昔はこの池にボートを浮かべて遊んだりしたといいますが、今では若者が釣りをする姿が時々見られます。
もちろん看板には「つり禁止」となっています。
私が訪れた日も夕方に近かったのですが近所の若者5人ほどが釣りを楽しんでいました。
何が釣れるのかきいてみたところ「ブラックバスです」と明るい元気な声が返ってきました。
前から気にはなっていたのですが、前に1度近くを車で通って見たのですが入口がわからずにいました。
そこで今度は地図を良く見て立ち寄ってみました。

銚子の川沿いの低地から風車などがある台地(下総台地)へ登る坂の途中から脇道に入るとそこに少しさびしく広がった池がありました。
静かに水をたたえた2つ目の池です。
こんなに町から近いのにどこか神秘的です。

そしてその下に1つ目の池があります。
台地へ登る途中にありますので池も上下にいくつかにわかれています。

ここは自然の池ではなく農業用のため池です。
しかしこの池が作られたのが江戸中期というはるか昔なのです。
説明では1711~1715年頃に干ばつで悩まされていたところ治兵衛という体は不自由だが頭の良い男がここにため池を作ることを進言したそうです。
それに賛同した村人たちが協力して1つのため池を作り上げました。
その後これだけでは足りないと2つ、3つと池は増えていき、「江戸堰」「上池」「中池」「蒜藻池」「岩堰」「塚子の森池」「新堰」という7つの池ができ七ツ池と呼ばれる池が完成したのです。

しかし、江戸堰と上池が一つになり、また塚子の森池と新堰が合体して5つになり、一部が決壊したりしたために平成になって整備して今では「上池・中池・蒜藻池」の3つだけが残ったそうです。
上に写真は最初のものが中池、その次のものが蒜藻池だと思います。上池まではいきませんでした。
この辺りは夜などは少し寂しく一人では怖いくらいな場所です。
台地にぽっかり空いたクレータのような場所です。
銚子の地形は特殊ですね。
ここに来るとこの銚子の地形がよくわかります。
日本ジオパークに認定され、世界ジオパークへの登録を盛んに推進しているのも頷けます。
こちらはまた明日にでも説明しておきたいと思います。

この池を観光にしようと戦後に池の周囲に桜の木を2000本植えて一時は花見でにぎわったようです。
でも今ではトイレと駐車場だけが残った心霊スポットのような場所です。
昔はこの池にボートを浮かべて遊んだりしたといいますが、今では若者が釣りをする姿が時々見られます。
もちろん看板には「つり禁止」となっています。
私が訪れた日も夕方に近かったのですが近所の若者5人ほどが釣りを楽しんでいました。
何が釣れるのかきいてみたところ「ブラックバスです」と明るい元気な声が返ってきました。
円勝寺大師堂(銚子)
銚子の七ツ池からすぐ下の坂道の途中に変わった場所がありました。
地図を見てもよくわからないのですがたくさんのお大師様(弘法大師像)が祀られています。

ふしぎな空間です。
寺がある感じでもありません。
何があるのか車を脇に停めて山の方に登って見ることにしました。

これらの石像(大師像)は皆首を継いだ跡があるようです。
明治に入った時の廃仏毀釈で皆首を落とされてしまったものでしょう。

この坂道を上っていきます。

階段の両側にもたくさんの大師像が置かれています。

入り口の石像も赤い帽子に首から赤い前だれがかけられています。
これもきっと首を継いだ跡を隠しているのだと思います。

「坂大師参道入口」と書かれた案内板があります。
調べるとこの下の街中の少し離れたところに「円勝寺(圓勝寺)」という真言宗智山派の寺院があり、その寺の(弘法)大師堂だということが分かりました。


水子地蔵。


「守堂」
弘法大師1150年記念で建てたものとなっています。昭和59年(1984)でしょう。

弘法大師像は八十八体あるのでしょうか。
数えないのでわかりませんでしたがこの上の開けた場所にたくさん像が並んでいるようです。


境内に「力士高見山之碑」という碑が建てられています。
この高見山は銚子出身の明治のお相撲さん高見山酉之助(とりのすけ)で本名を吉岡酉之助と言ったそうです。
相撲の優勝者の額を掲げる規定が始まって初めての優勝者(明治42年6月 東前頭7 7勝0敗3分け) だそうです。
(最高位は関脇)
色々調べて見ると面白いですね。
でもこの大師堂がどのような経緯で建てられたものか良くわかりませんでした。
地図には「庄大門大師」とも書かれていました。
地図を見てもよくわからないのですがたくさんのお大師様(弘法大師像)が祀られています。

ふしぎな空間です。
寺がある感じでもありません。
何があるのか車を脇に停めて山の方に登って見ることにしました。

これらの石像(大師像)は皆首を継いだ跡があるようです。
明治に入った時の廃仏毀釈で皆首を落とされてしまったものでしょう。

この坂道を上っていきます。

階段の両側にもたくさんの大師像が置かれています。

入り口の石像も赤い帽子に首から赤い前だれがかけられています。
これもきっと首を継いだ跡を隠しているのだと思います。

「坂大師参道入口」と書かれた案内板があります。
調べるとこの下の街中の少し離れたところに「円勝寺(圓勝寺)」という真言宗智山派の寺院があり、その寺の(弘法)大師堂だということが分かりました。


水子地蔵。


「守堂」
弘法大師1150年記念で建てたものとなっています。昭和59年(1984)でしょう。

弘法大師像は八十八体あるのでしょうか。
数えないのでわかりませんでしたがこの上の開けた場所にたくさん像が並んでいるようです。


境内に「力士高見山之碑」という碑が建てられています。
この高見山は銚子出身の明治のお相撲さん高見山酉之助(とりのすけ)で本名を吉岡酉之助と言ったそうです。
相撲の優勝者の額を掲げる規定が始まって初めての優勝者(明治42年6月 東前頭7 7勝0敗3分け) だそうです。
(最高位は関脇)
色々調べて見ると面白いですね。
でもこの大師堂がどのような経緯で建てられたものか良くわかりませんでした。
地図には「庄大門大師」とも書かれていました。
旧筑波駅
旧筑波鉄道筑波線は昭和62年(1987)に廃線となりました。
土浦駅から筑波、真壁を通って岩瀬駅まで走っていました。
今は廃線の跡を自転車サイクリングロード(りんりんロード)となっており、春には両側に桜並木も育っています。

筑波山の入口にこの筑波駅がありました。
今はサイクリングの人の休憩所とバス停車場があります。

梅雨の合間に近くに行きましたので様子を見に行きました。



駅のあった場所はこのように筑波山が良く見える場所でした。
梅雨のために山は煙っておりました。
今日は銚子の先の芝山町まで行ってきましたので少し疲れました。
こちらの記事はまた後ほど紹介します。
芝山町も埴輪がたくさん出土されていて、とても面白い場所でした。
土浦駅から筑波、真壁を通って岩瀬駅まで走っていました。
今は廃線の跡を自転車サイクリングロード(りんりんロード)となっており、春には両側に桜並木も育っています。

筑波山の入口にこの筑波駅がありました。
今はサイクリングの人の休憩所とバス停車場があります。

梅雨の合間に近くに行きましたので様子を見に行きました。



駅のあった場所はこのように筑波山が良く見える場所でした。
梅雨のために山は煙っておりました。
今日は銚子の先の芝山町まで行ってきましたので少し疲れました。
こちらの記事はまた後ほど紹介します。
芝山町も埴輪がたくさん出土されていて、とても面白い場所でした。
石倉璃厨(RIZ)
先日石岡側から筑波山を越えて筑波の町に行き北条へ行こうとあまり通ったことのない道を車で走っていた。
見覚えのある飯名神社の脇を走って東に進むと「神郡(かんごおり)」地区には出た。
つくば道や普門院なども前には通ったこともあるし、蚕影神社なども行ったことがあるがこの神郡地区をあまり意識したことがなかった。

街の入口に「石倉RIZ」という大谷石造りの大きな立派な倉庫があった。

昭和27年(1952)に建てられたもので、戦後のわが国の食糧事情を考えて米の安定供給を図る目的で建てられたものだそうだ。
筑波山麓は米どころで北条米などは高級ブランド米として知られている。
もちろんこの倉が造られた時は食糧管理制度で米も政府の管理下でしたので、この倉庫も政府の指定倉庫となっていたようです。
大谷石の倉庫は湿気も少なく温度も一定で米の保管に適していた物のようです。
ただし、今はこの倉を町おこしのシンボルとして筑波大と連携したりして色々な活用を図っているようです。
私が行った時は少し雨も降っており何もやっていませんでした。

この通りも大きな屋敷が並び、趣のある風情を感じます。
最近きれいにしたものかもしれません。


近くに日本三蚕神社の一つである「蚕影神社」があるためでしょうか。繭玉などを展示しているようです。
誰もいませんでしたので中にも入りませんでした。
この石倉の前にパンフレットが置かれていましたので載せておきます。

(パンフレットPDFは → こちらをリックして下さい。)
今回がこのブログの2000回目の記事です。
毎日のように記事を書き続けてやっと2000回を達成です。
でも心は現在心配事もあり梅雨空と同じで湿っています。
でも記念ですから記録を残しておきましょう。
記事回数:2000件
期間:1793日(約4年11カ月)
投稿頻度:1.115回/日
拍手数:10140(5.1回/記事)
コメント数:4644件(2.3件/記事)
写真:10236枚(5.1枚/記事)
アクセス数:441300回(220回/記事)
でもこのまま毎日書き続けるか、それとも立ち止まって今までの記事の関連したところをまとめて、一部足りないところを補足して形に残す作業に時間を使おうか思案中です。
見覚えのある飯名神社の脇を走って東に進むと「神郡(かんごおり)」地区には出た。
つくば道や普門院なども前には通ったこともあるし、蚕影神社なども行ったことがあるがこの神郡地区をあまり意識したことがなかった。

街の入口に「石倉RIZ」という大谷石造りの大きな立派な倉庫があった。

昭和27年(1952)に建てられたもので、戦後のわが国の食糧事情を考えて米の安定供給を図る目的で建てられたものだそうだ。
筑波山麓は米どころで北条米などは高級ブランド米として知られている。
もちろんこの倉が造られた時は食糧管理制度で米も政府の管理下でしたので、この倉庫も政府の指定倉庫となっていたようです。
大谷石の倉庫は湿気も少なく温度も一定で米の保管に適していた物のようです。
ただし、今はこの倉を町おこしのシンボルとして筑波大と連携したりして色々な活用を図っているようです。
私が行った時は少し雨も降っており何もやっていませんでした。

この通りも大きな屋敷が並び、趣のある風情を感じます。
最近きれいにしたものかもしれません。


近くに日本三蚕神社の一つである「蚕影神社」があるためでしょうか。繭玉などを展示しているようです。
誰もいませんでしたので中にも入りませんでした。
この石倉の前にパンフレットが置かれていましたので載せておきます。

(パンフレットPDFは → こちらをリックして下さい。)
今回がこのブログの2000回目の記事です。
毎日のように記事を書き続けてやっと2000回を達成です。
でも心は現在心配事もあり梅雨空と同じで湿っています。
でも記念ですから記録を残しておきましょう。
記事回数:2000件
期間:1793日(約4年11カ月)
投稿頻度:1.115回/日
拍手数:10140(5.1回/記事)
コメント数:4644件(2.3件/記事)
写真:10236枚(5.1枚/記事)
アクセス数:441300回(220回/記事)
でもこのまま毎日書き続けるか、それとも立ち止まって今までの記事の関連したところをまとめて、一部足りないところを補足して形に残す作業に時間を使おうか思案中です。
余山貝塚
銚子市の松岸の手前の線路際(成田線)に縄文時代に貝塚がある。
1年以上前に「梅のや」というラーメン屋さんに行った時に近くを気になって散策したことがあった。
何かありそうな場所だと感じていたが線路手前に広場となった場所があるだけで説明板も何もなく頭の片隅に置いておくだけだった。
また以前「等覚寺」に行った時に近くを通ったのだが気が付かなかった。
最近整備を始めたようだ。
しかしこの貝塚は随分古くから知られたところだそうで、東京大塚の貝塚(考古学の元祖といわれる)と並び称されるほどなのだとか。

昔からの史跡の場所は線路の向こう側だそうだが、手前側もこのように今も貝塚が広がる。



この木の看板は以前来た時は無かった。
またすぐ横を流れている川の護岸工事を今やっていた。
ここも公園として整備するのかもしれない。

線路の向こう側に史跡の碑があるはずだが、最初に行った時に道がなくてわからなかった。

向こう側からは鉄鋼所の建物の陰になっていて見えないのだ。
また鉄鋼所の敷地を通って行くしか道がないようだ。

鉄鋼所の近くに車を停めさせていただき、工場の方にお断りして貝塚を見に行った。

こちらには史跡の碑が置かれていた。
この貝塚の特徴は多くの土偶が見つかっていることだという。
特に国の重要文化財に指定された縄文時代後期の「みみずく土偶」(紀元前2000~1000年)がある。
この土偶の形がとても面白い。頭が平になっていて模様が描かれているのでカッパの姿の初めではないかとも言わ手いるようだ。
しかしそれ以外にも色々な人の姿や顔などの土偶が幾つもみつかっている。
これらは国立博物館や地方の県の博物館などに保管されているという。
芝山仁王尊(観音寺)には埴輪博物館があるのでこちらも先日見に行った。
でもついでに行くには少し遠い。

1年以上前に「梅のや」というラーメン屋さんに行った時に近くを気になって散策したことがあった。
何かありそうな場所だと感じていたが線路手前に広場となった場所があるだけで説明板も何もなく頭の片隅に置いておくだけだった。
また以前「等覚寺」に行った時に近くを通ったのだが気が付かなかった。
最近整備を始めたようだ。
しかしこの貝塚は随分古くから知られたところだそうで、東京大塚の貝塚(考古学の元祖といわれる)と並び称されるほどなのだとか。

昔からの史跡の場所は線路の向こう側だそうだが、手前側もこのように今も貝塚が広がる。



この木の看板は以前来た時は無かった。
またすぐ横を流れている川の護岸工事を今やっていた。
ここも公園として整備するのかもしれない。

線路の向こう側に史跡の碑があるはずだが、最初に行った時に道がなくてわからなかった。

向こう側からは鉄鋼所の建物の陰になっていて見えないのだ。
また鉄鋼所の敷地を通って行くしか道がないようだ。

鉄鋼所の近くに車を停めさせていただき、工場の方にお断りして貝塚を見に行った。

こちらには史跡の碑が置かれていた。
この貝塚の特徴は多くの土偶が見つかっていることだという。
特に国の重要文化財に指定された縄文時代後期の「みみずく土偶」(紀元前2000~1000年)がある。
この土偶の形がとても面白い。頭が平になっていて模様が描かれているのでカッパの姿の初めではないかとも言わ手いるようだ。
しかしそれ以外にも色々な人の姿や顔などの土偶が幾つもみつかっている。
これらは国立博物館や地方の県の博物館などに保管されているという。
芝山仁王尊(観音寺)には埴輪博物館があるのでこちらも先日見に行った。
でもついでに行くには少し遠い。

ひつじの郷
石岡の八郷地区十三塚の方から筑波山の風返峠へ登る中間ほどに「ひつじの郷」というひつじ料理の店がある。
前から前を通ることはあったが入ったことがなかった。
先日八郷から北条に向かう途中で昼食を食べて見たいと思って訪れた。

やさと温泉ゆりの郷という日帰り温泉施設の横を通り過ぎてもう少し山道を登ったところにある。
山小屋ロッジ風の木のぬくもりがあたたかいお店だ。

中に入ると冬は薪ストーブが焚かれるのだろう。
室内にはジンギスカンなどの鍋が各テーブルに置かれている。

そして外にはテラス席があり、外の景色を見ながら近くの川を見下ろして食事ができる。
この日は昼の1時頃で少し雨模様であるためかお客さんは私一人。
奥さまと二人で切り盛りされているそうでしたが、この日は御主人一人だけ。

なんともこの緩やかさがいいですね。御主人も気さくな良い方でした。
こんどまたお邪魔します。

この辺りにお店を構えるのはこの自然が好きで他所からやってきてお店を構える人がほとんどなのです。
このお店もそのようです。
お父さんの代に新潟から東京に出てきて高円寺、飯能と店を開いてきて、この地で好きなお店をのんびりとやりたいと思われたようです。
この登山道は昔の石岡(府中)から湯袋峠を経て真壁から小栗へ続く昔の小栗街道と、湯袋峠から筑波山風返峠に登る登山道でもあります。
壁に「筑波山 山酔会」という張り紙が貼られていました。
登山の会だとばかり思っていましたが、聞いてみると仲間が第三水曜日に集まって食事をして集まる会だそうです。
毎回10人ほどが集まって会費1000円で夜遅くまでダベッているようです。
マスターの高橋さんも1941年生まれとか。私より7歳上です。
こちらのブログは食グルメをあまり書かず、別冊にしているので続きはそちらに書きます。
(→ こちら)
前から前を通ることはあったが入ったことがなかった。
先日八郷から北条に向かう途中で昼食を食べて見たいと思って訪れた。

やさと温泉ゆりの郷という日帰り温泉施設の横を通り過ぎてもう少し山道を登ったところにある。
山小屋ロッジ風の木のぬくもりがあたたかいお店だ。

中に入ると冬は薪ストーブが焚かれるのだろう。
室内にはジンギスカンなどの鍋が各テーブルに置かれている。

そして外にはテラス席があり、外の景色を見ながら近くの川を見下ろして食事ができる。
この日は昼の1時頃で少し雨模様であるためかお客さんは私一人。
奥さまと二人で切り盛りされているそうでしたが、この日は御主人一人だけ。

なんともこの緩やかさがいいですね。御主人も気さくな良い方でした。
こんどまたお邪魔します。

この辺りにお店を構えるのはこの自然が好きで他所からやってきてお店を構える人がほとんどなのです。
このお店もそのようです。
お父さんの代に新潟から東京に出てきて高円寺、飯能と店を開いてきて、この地で好きなお店をのんびりとやりたいと思われたようです。
この登山道は昔の石岡(府中)から湯袋峠を経て真壁から小栗へ続く昔の小栗街道と、湯袋峠から筑波山風返峠に登る登山道でもあります。
壁に「筑波山 山酔会」という張り紙が貼られていました。
登山の会だとばかり思っていましたが、聞いてみると仲間が第三水曜日に集まって食事をして集まる会だそうです。
毎回10人ほどが集まって会費1000円で夜遅くまでダベッているようです。
マスターの高橋さんも1941年生まれとか。私より7歳上です。
こちらのブログは食グルメをあまり書かず、別冊にしているので続きはそちらに書きます。
(→ こちら)