坂野家住宅-国指定文化財
大生天満宮の手前に坂野家住宅という国指定重要文化財がある。
前からその存在は知っていて、パンフレットなどをいただいたこともあるが単なる昔の旧家だと思っていた。
しかしここは大分違った。
とても大きな敷地で、家の周りも緑が多く映画などの撮影としても時々利用されると言う。
百聞は一見にしかずである。

道路上に「坂野家住宅」の看板と大きめの駐車場がある。

この駐車場の位置から広い敷地内の庭へ下っていく。
説明板には「坂野家はこの土地に土着してから500年ほどになるといわれ、江戸時代には惣名主的な存在にあり、・・・・・・
「坂野家住宅」は、おおむね江戸中期に形づくられ、その後増改築を経て現在に至っています。・・・・」
と書かれています。
この住宅の外庭園も見事であり、国の指定を受けてその保存・整備にかなりの力を注いでいることがよくわかる。


美しい竹林が続きます。
こんなところでのロケもいいですね。

庭園にあった東屋~外を眺めました。

薬医門形式の表門。
この門から中は「水海道(みつかいどう)風土博物館」を兼ねており、有料施設(大人300円)になります。
ただし、私のような65歳以上の人は無料です。

では門を入って表玄関に参りましょう。
受け付けは母屋の中です。
明日に続きます。
前からその存在は知っていて、パンフレットなどをいただいたこともあるが単なる昔の旧家だと思っていた。
しかしここは大分違った。
とても大きな敷地で、家の周りも緑が多く映画などの撮影としても時々利用されると言う。
百聞は一見にしかずである。

道路上に「坂野家住宅」の看板と大きめの駐車場がある。

この駐車場の位置から広い敷地内の庭へ下っていく。
説明板には「坂野家はこの土地に土着してから500年ほどになるといわれ、江戸時代には惣名主的な存在にあり、・・・・・・
「坂野家住宅」は、おおむね江戸中期に形づくられ、その後増改築を経て現在に至っています。・・・・」
と書かれています。
この住宅の外庭園も見事であり、国の指定を受けてその保存・整備にかなりの力を注いでいることがよくわかる。


美しい竹林が続きます。
こんなところでのロケもいいですね。

庭園にあった東屋~外を眺めました。

薬医門形式の表門。
この門から中は「水海道(みつかいどう)風土博物館」を兼ねており、有料施設(大人300円)になります。
ただし、私のような65歳以上の人は無料です。

では門を入って表玄関に参りましょう。
受け付けは母屋の中です。
明日に続きます。
坂野家住宅(2)
今日は久しぶりに夏の暑さが少しだけ戻ってきました。
本格的な暑さではありませんがやはり夏ですから・・・・。
五輪エンブレムの盗用疑惑でとうとう辞退に追い込まれましたね。
ネットやメディアも何か見つけてはよろこんで攻め立てる。
いやなものですね。
エンブレムなどというのもよくわかりませんが、デザインはきっとどこか似てくるものは探せばあるでしょうね。
日本の家紋などはこれだけ種類がありなんとか区別ができるのだからたいしたものです。
デザイン性を形がどこか似ているとかいって騒ぐ人はデザインの評価はできないように思います。
似ていてもそこに違った価値観を感じさせるものであればそれでいいのではないかと思うのですが・・・。
最後まで選んだ根拠を示してそこデザインが持つ価値が違うことを主張すればよかったのではないかと思います。
あらさがしのように過去の作品を探して暴く。
確かに盗作に近いものもありましたが、今回のデザインが盗作であるとは思いません。
こんなことがこれからも続くのでしょうね。
さて、親類に不幸があり明日・明後日と出かけます。
ブログの更新を家でしかやっていないので適当な記事を予約でいれておきたいと思います。
今日は、 国の重要文化財に指定されている旧水海道にある「坂野家住宅」の続きです。

この住宅はこれだけの敷地に家屋もかなり広いです。

外庭も手入れがされて素晴らしいですが、内庭もきれいです。

母屋の表玄関は土間になっていて、入口に係りの人がおります。
料金を払う人はここで払ってすぐにビヂオで住宅の案内が流されます。
たった一人でしかも無料の人間に対しても親切のして下さいました。

土間には囲炉裏があり、屋根はこんな感じです。
当然、茅葺屋根から煙が抜けるようになっています。


靴を脱いで部屋の中に入ります。
幾つも部屋があり良くわからなくなりました。
写真が多くなったので適当に並べます。




1階の奥にトイレが2つ、風呂場が1つ。 また少し別な方角に別なトイレがあります。
この家はかなり継ぎ足して部屋を増築したように思います。
明日もう少し残りを載せます。
本格的な暑さではありませんがやはり夏ですから・・・・。
五輪エンブレムの盗用疑惑でとうとう辞退に追い込まれましたね。
ネットやメディアも何か見つけてはよろこんで攻め立てる。
いやなものですね。
エンブレムなどというのもよくわかりませんが、デザインはきっとどこか似てくるものは探せばあるでしょうね。
日本の家紋などはこれだけ種類がありなんとか区別ができるのだからたいしたものです。
デザイン性を形がどこか似ているとかいって騒ぐ人はデザインの評価はできないように思います。
似ていてもそこに違った価値観を感じさせるものであればそれでいいのではないかと思うのですが・・・。
最後まで選んだ根拠を示してそこデザインが持つ価値が違うことを主張すればよかったのではないかと思います。
あらさがしのように過去の作品を探して暴く。
確かに盗作に近いものもありましたが、今回のデザインが盗作であるとは思いません。
こんなことがこれからも続くのでしょうね。
さて、親類に不幸があり明日・明後日と出かけます。
ブログの更新を家でしかやっていないので適当な記事を予約でいれておきたいと思います。
今日は、 国の重要文化財に指定されている旧水海道にある「坂野家住宅」の続きです。

この住宅はこれだけの敷地に家屋もかなり広いです。

外庭も手入れがされて素晴らしいですが、内庭もきれいです。

母屋の表玄関は土間になっていて、入口に係りの人がおります。
料金を払う人はここで払ってすぐにビヂオで住宅の案内が流されます。
たった一人でしかも無料の人間に対しても親切のして下さいました。

土間には囲炉裏があり、屋根はこんな感じです。
当然、茅葺屋根から煙が抜けるようになっています。


靴を脱いで部屋の中に入ります。
幾つも部屋があり良くわからなくなりました。
写真が多くなったので適当に並べます。




1階の奥にトイレが2つ、風呂場が1つ。 また少し別な方角に別なトイレがあります。
この家はかなり継ぎ足して部屋を増築したように思います。
明日もう少し残りを載せます。
坂野家住宅(3)
今日は午後から出かけます。
記事を早めにUPします。
帰りは明日の夜になります。
坂野家住宅の内部の様子です。ここは水海道(みつかいどう)風土博物館を兼ねています。

一階のかなり広い土間玄関から上に上がると、広間の奥に仏間、三の間、二の間、一の間と続きます。
今は土間の方から入りますが、こちらの部屋に外から入る玄関があります。


そして三の間、二の間は玄関側と内庭の両方が解放されていて一の間まで行くと、こちらは三面が窓側ですから内廊下もありかなり風通しと採光は良いと思います。
そしてこの渡り廊下を通って奥の書院に行けます。
書院も母屋と一体になってつながっています。
昔は分かれていたのかもしれません。

所運の和室は2部屋あります。

書院の奥に便所があります。昔の方式ですがある程度近年まで改築して使っていたものかもしれません。




途中に2階に上がる階段がありますが、少し後から増設したもののように思われます。



こちらは書院2階部分で、やはり座敷は2部屋あります。




下に下りると旧納戸と思われる場所に、映画のポスターなどの資料が幾つも展示されていました。
今でも、時々映画、ドラマなどの撮影に使われているようです。
記事を早めにUPします。
帰りは明日の夜になります。
坂野家住宅の内部の様子です。ここは水海道(みつかいどう)風土博物館を兼ねています。

一階のかなり広い土間玄関から上に上がると、広間の奥に仏間、三の間、二の間、一の間と続きます。
今は土間の方から入りますが、こちらの部屋に外から入る玄関があります。


そして三の間、二の間は玄関側と内庭の両方が解放されていて一の間まで行くと、こちらは三面が窓側ですから内廊下もありかなり風通しと採光は良いと思います。
そしてこの渡り廊下を通って奥の書院に行けます。
書院も母屋と一体になってつながっています。
昔は分かれていたのかもしれません。

所運の和室は2部屋あります。

書院の奥に便所があります。昔の方式ですがある程度近年まで改築して使っていたものかもしれません。




途中に2階に上がる階段がありますが、少し後から増設したもののように思われます。



こちらは書院2階部分で、やはり座敷は2部屋あります。




下に下りると旧納戸と思われる場所に、映画のポスターなどの資料が幾つも展示されていました。
今でも、時々映画、ドラマなどの撮影に使われているようです。
津賀城跡
(予約投稿です)
鹿嶋方面から北浦に沿って北上すると北浦大橋入口を少し過ぎたあたりに「津賀」という場所に出る。
明治の合併で津賀村は大同村となり、その後昭和30年に大野村となった。
この大野村は平成の大合併で鹿嶋市に編入された。
平成の合併の時に、合併事業の一環としてこの地にあった戦国時代の城(津賀城)跡を整備し、立派な公園とした。
敷地は約8.1ha とかなり広い。

北浦沿いの道にでていた看板を目印に曲るとすぐに大きな駐車場が用意されていた。
しかし訪れる人はほとんどおらず、地元のお年寄りが麓に設けられた大きな広場(多目的グランド)でゲートボールをしている位なもの。
また大同西小学校がすぐ近くにあります。

この山の上に城跡と公園があるらしいのだが直接上に登る階段は無い。
上の台地の標高は約30~40mくらい。
綺麗なトイレの先に山を回り込むように道がつくらていた。


この城については何も知らないので、現地に置かれていた城址の説明をそのまま載せます。
「津賀城は北浦に面する台地に築かれた中世の「平山城」である。
西側台地は「城山」と呼ばれる主部がある。城山は平坦で土塁や空掘が良く残っており、二段に廻っている。東側にも土塁や空掘に囲まれた一角がある。
城主については、系図的に不明であるが、大永年間(1521~1528)に津賀大膳、天正年間(1573年~1591年)に津賀大炊介が居たことが「鹿島治乱記」に記されており、津賀大膳は大永4年(1524)、高天原で鹿島氏の宿老松本備前守尚勝と戦いこれを破ったとある。
また、「津賀津福寺過去帳」には、「大安全切居士永禄11年戌辰3月20日、津賀大膳」とある。」
そのまま載せて見たが、この須賀氏についてはあまり良くわからないようだ。
平安時代の津賀大膳と戦国時代の津賀大炊介が親子、祖父孫かどうかも何もわからない。


本丸の西側に展望台があります。

ここから北浦が良く見渡せます。
橋は北浦大橋です。
天気が良ければかなり見晴らしは良さそうだ。
夕日などもきれいに見えるかもしれない。
それにしても誰もいないのはもったいない。
鹿嶋方面から北浦に沿って北上すると北浦大橋入口を少し過ぎたあたりに「津賀」という場所に出る。
明治の合併で津賀村は大同村となり、その後昭和30年に大野村となった。
この大野村は平成の大合併で鹿嶋市に編入された。
平成の合併の時に、合併事業の一環としてこの地にあった戦国時代の城(津賀城)跡を整備し、立派な公園とした。
敷地は約8.1ha とかなり広い。

北浦沿いの道にでていた看板を目印に曲るとすぐに大きな駐車場が用意されていた。
しかし訪れる人はほとんどおらず、地元のお年寄りが麓に設けられた大きな広場(多目的グランド)でゲートボールをしている位なもの。
また大同西小学校がすぐ近くにあります。

この山の上に城跡と公園があるらしいのだが直接上に登る階段は無い。
上の台地の標高は約30~40mくらい。
綺麗なトイレの先に山を回り込むように道がつくらていた。


この城については何も知らないので、現地に置かれていた城址の説明をそのまま載せます。
「津賀城は北浦に面する台地に築かれた中世の「平山城」である。
西側台地は「城山」と呼ばれる主部がある。城山は平坦で土塁や空掘が良く残っており、二段に廻っている。東側にも土塁や空掘に囲まれた一角がある。
城主については、系図的に不明であるが、大永年間(1521~1528)に津賀大膳、天正年間(1573年~1591年)に津賀大炊介が居たことが「鹿島治乱記」に記されており、津賀大膳は大永4年(1524)、高天原で鹿島氏の宿老松本備前守尚勝と戦いこれを破ったとある。
また、「津賀津福寺過去帳」には、「大安全切居士永禄11年戌辰3月20日、津賀大膳」とある。」
そのまま載せて見たが、この須賀氏についてはあまり良くわからないようだ。
平安時代の津賀大膳と戦国時代の津賀大炊介が親子、祖父孫かどうかも何もわからない。


本丸の西側に展望台があります。

ここから北浦が良く見渡せます。
橋は北浦大橋です。
天気が良ければかなり見晴らしは良さそうだ。
夕日などもきれいに見えるかもしれない。
それにしても誰もいないのはもったいない。
秋は黄金色
もう稲もすっかり黄金に輝いています。
お米の黄金色がとてもきれいです。
つい先日までは緑が目立っていましたが、今は黄金のじゅうたんが広がっています。

今日は風の会の会報印刷日。
印刷したものを持って少し里山を走りました。
黄金色はあちらもこちらも広がっていました。
春の菜の花が一面広がったように見えるところもありました。

そして数日前から稲刈りが始まっています。
今年も美味しいお米が採れたでしょう。
上の写真に写る山は、つくばの 宝篋山(ほうきょうさん)です。
山の麓には昔、忍性が布教活動の拠点とした「極楽寺」があった場所です。
木・金と出かけていて、少し疲れました。
お米の黄金色がとてもきれいです。
つい先日までは緑が目立っていましたが、今は黄金のじゅうたんが広がっています。

今日は風の会の会報印刷日。
印刷したものを持って少し里山を走りました。
黄金色はあちらもこちらも広がっていました。
春の菜の花が一面広がったように見えるところもありました。

そして数日前から稲刈りが始まっています。
今年も美味しいお米が採れたでしょう。
上の写真に写る山は、つくばの 宝篋山(ほうきょうさん)です。
山の麓には昔、忍性が布教活動の拠点とした「極楽寺」があった場所です。
木・金と出かけていて、少し疲れました。
大福寺-平景清の娘人丸の寺
北浦大橋を渡り、その内陸部の少し南方よりの鹿嶋市棚木というところに「大福寺」という古寺がある。
市のホームページで県指定の十一面観音像があると知って探していってみました。
途中に案内もないため住所を頼りに探しました。

分かりにくい場所でしたが、こんなところにと思うような場所でしたが、ここはとても興味深い寺でした。

古びた山門をくぐると正面に観音堂が見えます。

境内には古びた石像などが置かれています。
真中は庚申塔、その右は猿田彦です。

このような場所に・・・・・ 姿の良い観音堂です。

上のここに置かれている十一面観音坐像の説明は興味深いことが書かれています。
源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背をってここにきて、霊を弔うために堂宇を建てたものだと書かれています。
これは俄かには信じられないが・・・・。



この厨子の中に十一面観音像が保存されているものと思います。

さて、この景清については石岡にも出生の話があり、府中六井の室ヶ井で産湯をつかったとの伝説も存在する。
平家一番の勇者なので各地に伝説話がある。
これも歌舞伎などで話はまとまってしまうのだがどこまでが事実かなどは良くわからない。
この人丸は景清と遊女との娘とされる。
話は能の演目「景清」にでてくる。
「源平の戦が、源氏方の勝利で終わった後のことです。平家方の武将で、勇名を馳せた悪七兵衛景清は、盲目となり、日向国へ流されていました。景清はかつて、尾張国熱田の遊女との間に一人娘、人丸をもうけました。彼女は鎌倉に住んでいたのですが、風の便りに景清が存命していることを知り、お供と共に日向国宮崎へ景清を訪ねます。
ちょうど景清が、落魄した身の上を嘆いているところに、人丸たちがやってきます。従者は「景清を知りませんか」と声をかけますが、景清は悟られまいと、盲目でそんな人は見たこともありませんと他人のふりを押し通します。
人丸はその後、里人に事情を聞き、彼の仲介でようやく対面することができました。そして景清は、人丸の求めに応じ、八島の合戦の様子を聞かせました。源氏方の三保谷四郎と錏(しころ:=兜に密着して垂らされた首を保護するもの)を引っぱって応戦した名勝負の場面です。語り終えた景清は、もう長くは生きられないだろうからと、人丸に帰って自分の跡を弔うように頼み、親子は別れていきました。」
(「the 能.com 」より転載させていただきました)
このような話ですが、各地に色々な話として残されています。
でもここの人丸は十一面観音を携えてきてこれが残されています。
またここには人丸(妙庫比丘尼)の墓も残されています。
もう少し調べて見ても面白そうです。
茨城には平重盛の墓といわれる供養塔のある「小松寺」などもあるのですから、調べてみると面白いことが見つかるかもしれません。
でもこれはまたの機会にしましょう。
九州 福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。
景清の娘が父を尋ねて京からやって来たとされています。
市のホームページで県指定の十一面観音像があると知って探していってみました。
途中に案内もないため住所を頼りに探しました。

分かりにくい場所でしたが、こんなところにと思うような場所でしたが、ここはとても興味深い寺でした。

古びた山門をくぐると正面に観音堂が見えます。

境内には古びた石像などが置かれています。
真中は庚申塔、その右は猿田彦です。

このような場所に・・・・・ 姿の良い観音堂です。

上のここに置かれている十一面観音坐像の説明は興味深いことが書かれています。
源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背をってここにきて、霊を弔うために堂宇を建てたものだと書かれています。
これは俄かには信じられないが・・・・。



この厨子の中に十一面観音像が保存されているものと思います。

さて、この景清については石岡にも出生の話があり、府中六井の室ヶ井で産湯をつかったとの伝説も存在する。
平家一番の勇者なので各地に伝説話がある。
これも歌舞伎などで話はまとまってしまうのだがどこまでが事実かなどは良くわからない。
この人丸は景清と遊女との娘とされる。
話は能の演目「景清」にでてくる。
「源平の戦が、源氏方の勝利で終わった後のことです。平家方の武将で、勇名を馳せた悪七兵衛景清は、盲目となり、日向国へ流されていました。景清はかつて、尾張国熱田の遊女との間に一人娘、人丸をもうけました。彼女は鎌倉に住んでいたのですが、風の便りに景清が存命していることを知り、お供と共に日向国宮崎へ景清を訪ねます。
ちょうど景清が、落魄した身の上を嘆いているところに、人丸たちがやってきます。従者は「景清を知りませんか」と声をかけますが、景清は悟られまいと、盲目でそんな人は見たこともありませんと他人のふりを押し通します。
人丸はその後、里人に事情を聞き、彼の仲介でようやく対面することができました。そして景清は、人丸の求めに応じ、八島の合戦の様子を聞かせました。源氏方の三保谷四郎と錏(しころ:=兜に密着して垂らされた首を保護するもの)を引っぱって応戦した名勝負の場面です。語り終えた景清は、もう長くは生きられないだろうからと、人丸に帰って自分の跡を弔うように頼み、親子は別れていきました。」
(「the 能.com 」より転載させていただきました)
このような話ですが、各地に色々な話として残されています。
でもここの人丸は十一面観音を携えてきてこれが残されています。
またここには人丸(妙庫比丘尼)の墓も残されています。
もう少し調べて見ても面白そうです。
茨城には平重盛の墓といわれる供養塔のある「小松寺」などもあるのですから、調べてみると面白いことが見つかるかもしれません。
でもこれはまたの機会にしましょう。
九州 福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。
景清の娘が父を尋ねて京からやって来たとされています。
赤い靴はいてた女の子
先週末に横浜の方にいました。
朝、時間があったので山下公園に散歩に行ってきました。

この「赤い靴はいてた女の子」の像は何時ごろ置かれたのでしょうか?
昔は無かった。
とはいっても私が横浜の本牧に住んでいたのは昭和31年まで。大昔のことだ。
氷川丸もまだこの場所には無かった。

もちろんこちらのランドマークタワーなどもなかった。
この山下公園は関東大震災の時に出た瓦礫を埋め立ててできた。
それにしてもきれいになった。

この赤い靴を履いた少女の話は実在の話というが・・・・。
野口雨情は宣教師に連れられてアメリカに渡ったと思って作ったのだろう。
独特の詩情を持つ印象深い歌だ。
この山下公園に置かれた像はあまり大きくは無い。
調べて見ると、昭和54年に建てられたという。
朝、時間があったので山下公園に散歩に行ってきました。

この「赤い靴はいてた女の子」の像は何時ごろ置かれたのでしょうか?
昔は無かった。
とはいっても私が横浜の本牧に住んでいたのは昭和31年まで。大昔のことだ。
氷川丸もまだこの場所には無かった。

もちろんこちらのランドマークタワーなどもなかった。
この山下公園は関東大震災の時に出た瓦礫を埋め立ててできた。
それにしてもきれいになった。

この赤い靴を履いた少女の話は実在の話というが・・・・。
野口雨情は宣教師に連れられてアメリカに渡ったと思って作ったのだろう。
独特の詩情を持つ印象深い歌だ。
この山下公園に置かれた像はあまり大きくは無い。
調べて見ると、昭和54年に建てられたという。
赤レンガ倉庫
横浜山下公園に来たので赤レンガ倉庫を少し眺めたくなりました。

公園の桜木町側の端から海沿いにこのような道がついています。
これは象の鼻パークに続いています。

その道から赤レンガ倉庫を見ることができます。

近くまで行くのは時間がなかったので途中から眺めるだけにしました。

最近はこの赤レンガ倉庫も人気が出ているようで、よく写真などでも見かけます。
石岡でも赤レンガ塀や煙突などを見てきましたので、これもストックとして加えておきましょう。
こちらはかなりきれいですので手入れもされたのでしょう。
調べると、この赤レンガ倉庫が完成したのが1913年(大正2年)で、関東大震災で2号館は何とか崩れなかったそうですが、1号館はかなり大きく損傷したとのこと。
その後少し小さくされたりして復興したが、戦後はアメリカGHQに接収され、これが返却されたのが昭和31年だそうです。
道理で昔この倉庫の話題がなかったわけです。
今は倉庫としての役目を終えて、国から横浜に管理が移り、綺麗にして公開されて横浜のシンボルになったそうです。
そういえば昔、桜木町駅から家に帰るの本牧元町交の近くまで市電に乗った記憶があります。
これも1970年頃に廃止となってしまいました。
今では高速道路が港側を走り、海は埋め立てられて、海岸線が遠くに行ってしまいました。
私が小学1年間だけ通った間門小学校(三渓園の西)もグランドからすぐに海に降りられました。
今は昔の海岸線を高速道路が走ります。

公園の桜木町側の端から海沿いにこのような道がついています。
これは象の鼻パークに続いています。

その道から赤レンガ倉庫を見ることができます。

近くまで行くのは時間がなかったので途中から眺めるだけにしました。

最近はこの赤レンガ倉庫も人気が出ているようで、よく写真などでも見かけます。
石岡でも赤レンガ塀や煙突などを見てきましたので、これもストックとして加えておきましょう。
こちらはかなりきれいですので手入れもされたのでしょう。
調べると、この赤レンガ倉庫が完成したのが1913年(大正2年)で、関東大震災で2号館は何とか崩れなかったそうですが、1号館はかなり大きく損傷したとのこと。
その後少し小さくされたりして復興したが、戦後はアメリカGHQに接収され、これが返却されたのが昭和31年だそうです。
道理で昔この倉庫の話題がなかったわけです。
今は倉庫としての役目を終えて、国から横浜に管理が移り、綺麗にして公開されて横浜のシンボルになったそうです。
そういえば昔、桜木町駅から家に帰るの本牧元町交の近くまで市電に乗った記憶があります。
これも1970年頃に廃止となってしまいました。
今では高速道路が港側を走り、海は埋め立てられて、海岸線が遠くに行ってしまいました。
私が小学1年間だけ通った間門小学校(三渓園の西)もグランドからすぐに海に降りられました。
今は昔の海岸線を高速道路が走ります。
大さんばし(メリケン波止場)
今日は台風の影響で朝から雨が降ったり止んだりでした。
しかしこのあたりはあまり強く降ることはなく今の時間は茨城ももっと内陸寄りで激しく降っているようです。
被害が出なければと願っております。
今日は仕事でまた銚子に行っていました。
こんな天気ですから途中より道もせず遅めに出ても時間は十分でした。
いつもは1~2時間途中で寄り道です。
雨はそれ程でもありませんでしたが、時々強く降る時間もありました。
銚子の港は思ったより波は穏やかでした。
消費税の低減税率はおかしなことを言い出しましたね。
年寄りはこんなカードなど持って買い物などに何時も行くなんてできません。
私は低減税率は食料品などは5%または0%まで戻す議論もするものとばかり思っていました。
そうでなければおかしいでしょう。
5%を8%に引き上げる時の議論で制度が間に合わないから10%導入時に行なうと決めたはず。
今頃になって2%分の還付をこんなわけのわからないカードと一緒にするなんて気持ちが悪くてたまりません。
派遣法の改正は経営者を利するだけで働く者にはほとんど使い捨て扱いでしょう。
この国の役人は何を考えているのでしょうね。
さて、今日も時間が無くなりましたのでまた山下公園からの写真です。

山下公園と赤レンガ倉庫との間に「大さんばし」があります。
昔から大型客船などがここから出港します。

今は上に駐車場などもできているようですが、最近行ったことはありません。
客船なども時々グラスバンド演奏などで歓迎・見送りなどもするようです。

私が小学1年生になったかならないくらいの頃に、ここからアメリカに渡る父の会社の社長さん(?)を父と一緒に見送りに行ったことがあります。
5色の紙テープがいっぱいで、帰る頃はかなり桟橋も汚れていました。

その頃は渡米するにも飛行機ではなく客船で行っていたんだな~と思い出していました。
伊豆大島などに行った時も大島から東京に戻る時に紙テープが使われました。
この紙テープも昔ほどは使われなくなったようです。
禁止されている港もあるようです。横浜はどうなんでしょうね。

私は船に乗る機会もあまりありませんので、今がどうなっているかも知りませんが・・・・
これも日本が始めたことのようですね。(1915年)
この横浜大さんばしの竣工は明治27年(1894年)だそうです。
美空ひばりが歌った「メリケン波止場」などと歌われた歌詞もありましたね。
♪♪窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える ♪♪
美空ひばりは横浜の魚屋の娘でしたね。
しかしこのあたりはあまり強く降ることはなく今の時間は茨城ももっと内陸寄りで激しく降っているようです。
被害が出なければと願っております。
今日は仕事でまた銚子に行っていました。
こんな天気ですから途中より道もせず遅めに出ても時間は十分でした。
いつもは1~2時間途中で寄り道です。
雨はそれ程でもありませんでしたが、時々強く降る時間もありました。
銚子の港は思ったより波は穏やかでした。
消費税の低減税率はおかしなことを言い出しましたね。
年寄りはこんなカードなど持って買い物などに何時も行くなんてできません。
私は低減税率は食料品などは5%または0%まで戻す議論もするものとばかり思っていました。
そうでなければおかしいでしょう。
5%を8%に引き上げる時の議論で制度が間に合わないから10%導入時に行なうと決めたはず。
今頃になって2%分の還付をこんなわけのわからないカードと一緒にするなんて気持ちが悪くてたまりません。
派遣法の改正は経営者を利するだけで働く者にはほとんど使い捨て扱いでしょう。
この国の役人は何を考えているのでしょうね。
さて、今日も時間が無くなりましたのでまた山下公園からの写真です。

山下公園と赤レンガ倉庫との間に「大さんばし」があります。
昔から大型客船などがここから出港します。

今は上に駐車場などもできているようですが、最近行ったことはありません。
客船なども時々グラスバンド演奏などで歓迎・見送りなどもするようです。

私が小学1年生になったかならないくらいの頃に、ここからアメリカに渡る父の会社の社長さん(?)を父と一緒に見送りに行ったことがあります。
5色の紙テープがいっぱいで、帰る頃はかなり桟橋も汚れていました。

その頃は渡米するにも飛行機ではなく客船で行っていたんだな~と思い出していました。
伊豆大島などに行った時も大島から東京に戻る時に紙テープが使われました。
この紙テープも昔ほどは使われなくなったようです。
禁止されている港もあるようです。横浜はどうなんでしょうね。

私は船に乗る機会もあまりありませんので、今がどうなっているかも知りませんが・・・・
これも日本が始めたことのようですね。(1915年)
この横浜大さんばしの竣工は明治27年(1894年)だそうです。
美空ひばりが歌った「メリケン波止場」などと歌われた歌詞もありましたね。
♪♪窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える ♪♪
美空ひばりは横浜の魚屋の娘でしたね。
知らないうちにあちこちからお見舞い。
今日は朝から雨が強くっ降っていましたが、昼ごろからはほぼ止んでいました。
しかし石岡市は早々と全市に避難勧告などを出し、夕方5時半に一部を除いて解除。
恋瀬川が一部氾濫し、片野の方などで道路も通行止めもあったようです。
しかし、私のところはいたって平穏。
先日記事を書いていた板東市や常総市では鬼怒川の堤防が決壊して大変なことになってしまいました。
先日書いていた通り川は蛇行して、昔は大きな湖のようになっていた場所です。
しかしこんな被害は初めてです。 被害にあわれたすべての方の無事をお祈りしています。
スーパー堤防などというのも必要な場所には必要なのかもしれません。
NHKのニュースなどで茨城が危険と盛んに流していただいたので、遠くからも電話がありました。
こういう時に心配して電話していただけるのもうれしいものです。
さて、横浜山下公園の一角にコンビニがありました。
普通のコンビニかと思いましたが「ハッピーローソン」という日本で1か所しかない特別なローソンだそうです。

ここは通常のコンビニにこのような子供の遊び場などお子様連れで楽しめるように出来ています。
食べ物などの販売もやっているようでしたが、まだ時間も早くこちらは営業していませんでした。

インドの水塔のすぐ近くです。

でもコンビニで食べ物を買ってここで食べることができます。
また外の港側にはテーブルなどもあって港を眺めながらのんびり過ごすこともできます。
私達もローソンでサンドイッチと飲み物を買ってここで朝食を済ませました。
このお店は主婦の方のアイデアで作られたものだそうです。
こんなお店もこれから広がっていくのでしょうか。
しかし石岡市は早々と全市に避難勧告などを出し、夕方5時半に一部を除いて解除。
恋瀬川が一部氾濫し、片野の方などで道路も通行止めもあったようです。
しかし、私のところはいたって平穏。
先日記事を書いていた板東市や常総市では鬼怒川の堤防が決壊して大変なことになってしまいました。
先日書いていた通り川は蛇行して、昔は大きな湖のようになっていた場所です。
しかしこんな被害は初めてです。 被害にあわれたすべての方の無事をお祈りしています。
スーパー堤防などというのも必要な場所には必要なのかもしれません。
NHKのニュースなどで茨城が危険と盛んに流していただいたので、遠くからも電話がありました。
こういう時に心配して電話していただけるのもうれしいものです。
さて、横浜山下公園の一角にコンビニがありました。
普通のコンビニかと思いましたが「ハッピーローソン」という日本で1か所しかない特別なローソンだそうです。

ここは通常のコンビニにこのような子供の遊び場などお子様連れで楽しめるように出来ています。
食べ物などの販売もやっているようでしたが、まだ時間も早くこちらは営業していませんでした。

インドの水塔のすぐ近くです。

でもコンビニで食べ物を買ってここで食べることができます。
また外の港側にはテーブルなどもあって港を眺めながらのんびり過ごすこともできます。
私達もローソンでサンドイッチと飲み物を買ってここで朝食を済ませました。
このお店は主婦の方のアイデアで作られたものだそうです。
こんなお店もこれから広がっていくのでしょうか。