萩の花
先日訪れた寺で咲いていた萩の花。
昔から歌にもうたわれた花ですが、私にとっても子供時代の思い出のある花です。
横浜から東京の郊外に越してきたのが小学1年の春休み。
2年生から新しい学校に転校しました。
学校まで電車で1駅でしたが、子どもたちは皆歩いて通いました。
住んだ場所が「萩山」という名前でしたからの野山には萩の花がたくさん咲いていたのでしょう。
武蔵野の林はまた楽しかった。

国木田独歩は武蔵野で次のように書いている。
☆九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌きらめく、――」 これが今の武蔵野の秋の初めである。
今でも時々思い出すことがある。
林を駆け回ると春には、野バラや草木瓜の赤い花が咲き、秋には栗の実が口を広げている。
今夜は外は嵐となりそうだ。
早く寝ることにしよう。
昔から歌にもうたわれた花ですが、私にとっても子供時代の思い出のある花です。
横浜から東京の郊外に越してきたのが小学1年の春休み。
2年生から新しい学校に転校しました。
学校まで電車で1駅でしたが、子どもたちは皆歩いて通いました。
住んだ場所が「萩山」という名前でしたからの野山には萩の花がたくさん咲いていたのでしょう。
武蔵野の林はまた楽しかった。

国木田独歩は武蔵野で次のように書いている。
☆九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌きらめく、――」 これが今の武蔵野の秋の初めである。
今でも時々思い出すことがある。
林を駆け回ると春には、野バラや草木瓜の赤い花が咲き、秋には栗の実が口を広げている。
今夜は外は嵐となりそうだ。
早く寝ることにしよう。
願入寺(如信の寺)(3)
ここ願入寺は那珂川と涸沼川が合流する地点の高台にあります。
かつてこの辺りには祝町と呼ばれ遊郭が置かれていました。
また河岸には渡し船があり、この経営権を願入寺が持っていたと言われています。
この場所は眺めもよく「水戸八景」の一つに選ばれ「巌船夕照(いわふねのゆうしょう)」と呼ばれています。
「筑波山あなたはくれて岩船に 日影ぞ残る岸のもみじ葉 」
この願入寺の裏手の広場には水戸光圀の植えたと言われる大きな銀杏の木が聳えますが、その先の林の中に2つの石碑が草に覆われたようにありました。
最初はこれが何なのかがわからずいろいろ調べておりました。
少しわかったので載せることにしました。

この石碑には「者楽亭跡」と彫られています。
この者楽亭は水戸光圀がこの那珂湊や祝町に遊郭を設置し、この場所が特に気にいって「隠居の郭(さと)」と呼んでいたようです。この者楽亭は天狗党の乱の時に焼けてしまったそうです。
昔は水戸から江戸までの荷物はこの那珂川から涸沼川を登って船で運んでいました。
(涸沼の先は陸路を鉾田や小川まで陸路、その先は北浦や霞ケ浦を船で運びます)
多くの船が行き来していたのだろうと思います。

その隣にある石碑。何と書かれているかよく読むことができない。
タイトルを良く見ると「魚山遺響」と書かれているようです。
そうであれば、水戸黄門でおなじみの助さん・格さんの直筆による書を石碑に起こしたものかもしれない。
実物の書は開基堂に展示されていると言うが、今は閉まっていて展示はお預けのようだ。

願入寺の山門を入ったところのすぐ右側にお堂がありました。
堂にはおもちゃの刀が奉納されています。
説明が書かれています。

万助堂:万助さんという人を祀ったものらしい。
地元に住んで、商いをしていた万助さんが仇討で殺されてしまった。
地元の子供たちに武術も教えていた信望も篤い人だったが、仇討状をもった相手に敵として狙われ殺されて。
その時刀を持っていなかったらしい。
そこで刀持っていればこんなみじめに殺されなかっただろうと、刀をここに奉納すれば願いがかなうと言う話が伝わった。
何故? すこし寺とは異質な気がするが・・・・・
これも「祝町」という場所がこのようなものになったものなのか。
普通なら仇討本懐をとげ立派だと相手側がほめられそうなものだが。

鉄骨のやぐらを組んだだけの大きな鐘楼「やすらぎの鐘」。
東日本で一番大きな鐘だという。(重さ12トン半、口径2.1m)
この鐘も戦時中に大砲の玉となった。それを全国行脚で集めた浄財を基に、京都「岩澤梵鐘」により復元したとのこと。
岩澤梵鐘は岩澤の梵鐘製作会社です。
一打300円だったかな・・・・。
この近くに「天妃神社」があったが立ち寄らなかった。行っておけばよかった。
今は「弟橘比賣神社」となっている。
これについては小川の天妃尊で調べたことがあった。(記事はこちら)
かつてこの辺りには祝町と呼ばれ遊郭が置かれていました。
また河岸には渡し船があり、この経営権を願入寺が持っていたと言われています。
この場所は眺めもよく「水戸八景」の一つに選ばれ「巌船夕照(いわふねのゆうしょう)」と呼ばれています。
「筑波山あなたはくれて岩船に 日影ぞ残る岸のもみじ葉 」
この願入寺の裏手の広場には水戸光圀の植えたと言われる大きな銀杏の木が聳えますが、その先の林の中に2つの石碑が草に覆われたようにありました。
最初はこれが何なのかがわからずいろいろ調べておりました。
少しわかったので載せることにしました。

この石碑には「者楽亭跡」と彫られています。
この者楽亭は水戸光圀がこの那珂湊や祝町に遊郭を設置し、この場所が特に気にいって「隠居の郭(さと)」と呼んでいたようです。この者楽亭は天狗党の乱の時に焼けてしまったそうです。
昔は水戸から江戸までの荷物はこの那珂川から涸沼川を登って船で運んでいました。
(涸沼の先は陸路を鉾田や小川まで陸路、その先は北浦や霞ケ浦を船で運びます)
多くの船が行き来していたのだろうと思います。

その隣にある石碑。何と書かれているかよく読むことができない。
タイトルを良く見ると「魚山遺響」と書かれているようです。
そうであれば、水戸黄門でおなじみの助さん・格さんの直筆による書を石碑に起こしたものかもしれない。
実物の書は開基堂に展示されていると言うが、今は閉まっていて展示はお預けのようだ。

願入寺の山門を入ったところのすぐ右側にお堂がありました。
堂にはおもちゃの刀が奉納されています。
説明が書かれています。

万助堂:万助さんという人を祀ったものらしい。
地元に住んで、商いをしていた万助さんが仇討で殺されてしまった。
地元の子供たちに武術も教えていた信望も篤い人だったが、仇討状をもった相手に敵として狙われ殺されて。
その時刀を持っていなかったらしい。
そこで刀持っていればこんなみじめに殺されなかっただろうと、刀をここに奉納すれば願いがかなうと言う話が伝わった。
何故? すこし寺とは異質な気がするが・・・・・
これも「祝町」という場所がこのようなものになったものなのか。
普通なら仇討本懐をとげ立派だと相手側がほめられそうなものだが。

鉄骨のやぐらを組んだだけの大きな鐘楼「やすらぎの鐘」。
東日本で一番大きな鐘だという。(重さ12トン半、口径2.1m)
この鐘も戦時中に大砲の玉となった。それを全国行脚で集めた浄財を基に、京都「岩澤梵鐘」により復元したとのこと。
岩澤梵鐘は岩澤の梵鐘製作会社です。
一打300円だったかな・・・・。
この近くに「天妃神社」があったが立ち寄らなかった。行っておけばよかった。
今は「弟橘比賣神社」となっている。
これについては小川の天妃尊で調べたことがあった。(記事はこちら)
第2回協働のまちづくり委員会
今日も昨日に引き続いてよい天気となった。
昼間は少し動けば汗がにじむくらい暑くなった。
風の会の113号の印刷を終えてまた八郷から小町の里や北条へ出かけてきた。
あちこちで柿の実が実り、コスモスの花が可憐に微笑んでいた。
今日夜は土浦の花火大会だそうだが、一人で見に行く気も起らず家でのんびりしていた。
先日、石岡市の「協働のまちづくり」委員会が市役所のプレハブ庁舎で開かれた。
委員会と言っても市民応募者4人、区長会2人、商工会青年部2人、ボランティアやNPO関係2人、市長推薦枠2人、市の職員2人の14人での会合だが、年3回の会合だけでできることなど決まっている。
最初に期待しただけ落胆も大きい。
でも委員長を任命されてしまったので、責任上、そうも言っていられない。
何か手を打たねば・・・・。まあ小さなことから少しでも実績を上げていくしかない。
始まったばかりなので、他所の成功例を参考にこれから探してみるつもりだ。

プレハブ市庁舎の「総務・防災館」で会議が行なわれました。(写真正面2階建)
市役所は現在すべてプレハブの「本館」「まちづくり館」「総務・防災館」「長寿いきいき館・すこやか館・安心しあわせ館」があります。

旧庁舎は解体待ちですがまだ工事は始まっていません。
このコンクリート庁舎を壊し、新しい庁舎をこの場所に建てる予定です。
2~3年以上かかりそうですね。
八郷の庁舎が立派なので簡単な機能だけあれば良いような気がします。
石岡駅の工事や駅前広場の整理などと同時にこんなにできるのでしょうか。
合併から10年で市の人口は7~8%くらい減っています。
もちろん高年齢化も進んでいます。
今日の土浦の花火大会をネットで調べたら、商工会の中に実行委員会ができてきれいなホームページが作成され、打ち上げの花火の名前などすべて表示されていた。
先日の協働まちづくりでも、昔に比べれば市のホームページも綺麗ななったが、「市の情報開示」が遅れていると指摘した。
しかし、どうもこれの反応は実に鈍かった。
先日の常総市の水害時に石岡市は全住民7万人以上に避難指示を出した。
NKHのテロップで各地の避難指示情報が盛んに流されていたがここ石岡が対象者の人数もずば抜けて多かった。
また「何十カ所の避難所が開設されている」と如何にもここが豪雨の中心地であると言わんばかりに放送され続けた。
実際は午前中に激しい雨は降ったが昼前から雨もやみ私のところは比較的高台なので危険という感覚は全くなかった。
現実には低い地域では川の氾濫もあり水浸しになったところもあったようだが、全市に避難指示を出すのはあまりにも安易すぎる。
こんなことが続けばオオカミ少年みたいになる。
また夕方5時頃にハザードマップに色つけられた低地の地区の4~5千世帯に避難指示を継続してその他は解除された。
問題はNHKの放送はその後も夜の7時過ぎまでこの情報は流されず七万人以上に避難指示が出されたままであった。
このため、我が家にも全国各地の親戚などから心配の電話が何本もかかってきた。
今回の会合でもその紹介をしたが、皆そんなことなどなかったようでキョトンとした表情であった。
これは私など他所者だけが気になったことなのか??
東日本大震災の教訓から市ではたくさんの防災無線の拡声器を設置した。
そしてテストも重ね、昼や夕方に時刻を知らせるように毎日チャイムや放送が繰り返されていた。
夏場などは窓を開けているのでうるさいくらいに聞こえてきていた。
しかしこの放送は今回しゃべっている内容が全く聞きとれなかった。
雨が降り窓を閉めて屋内にいると、チャイムの音はしても内容は全くわからなかった。
もう一度これも見直さねばならないだろう。
今回の会合で市側から同じような市の条例で活動している委員会がたくさんあることを初めて知った。
全部で42もの委員会があった。委員の数も約600人(但し、ダブって委員をしている人は多い)
同じような委員会も多いし、どんな打ち合わせや結論が得られているかが全く見えない。
これを公開できるものは全てホームページなどで簡単に検索できるようにしてできるだけ公開してほしいと要望した。
すぐには改善されないだろうがすこしでも良くなればと願っている。
まあ意思疎通もメールで簡単にできる人の範囲は限られている。これも困ったことだ。
社会で仕事をこなしてきた時も連絡は全てと言ってよいほどメールで連絡できた。
また情報の共有には積極的にかかわってきた。
手持ちの書類もすべてPDF化して全て共通サーバーに入れ検索プログラムを自作してやってきた。
書類を郵送したりして連絡するなどばかげている。
何かあるとすぐ担当課長さんにメールするが、これも最初は戸惑ったようだ。
しかしこちらのペースに少しずつ慣れていただけるだろう。
(もちろん業務がお忙しいのでできるだけ邪魔はしないように心掛けるつもであるが)
あまりこんな事を書くとすぐにクビになるかもしれない。
そうなればそれもいいな。
昼間は少し動けば汗がにじむくらい暑くなった。
風の会の113号の印刷を終えてまた八郷から小町の里や北条へ出かけてきた。
あちこちで柿の実が実り、コスモスの花が可憐に微笑んでいた。
今日夜は土浦の花火大会だそうだが、一人で見に行く気も起らず家でのんびりしていた。
先日、石岡市の「協働のまちづくり」委員会が市役所のプレハブ庁舎で開かれた。
委員会と言っても市民応募者4人、区長会2人、商工会青年部2人、ボランティアやNPO関係2人、市長推薦枠2人、市の職員2人の14人での会合だが、年3回の会合だけでできることなど決まっている。
最初に期待しただけ落胆も大きい。
でも委員長を任命されてしまったので、責任上、そうも言っていられない。
何か手を打たねば・・・・。まあ小さなことから少しでも実績を上げていくしかない。
始まったばかりなので、他所の成功例を参考にこれから探してみるつもりだ。

プレハブ市庁舎の「総務・防災館」で会議が行なわれました。(写真正面2階建)
市役所は現在すべてプレハブの「本館」「まちづくり館」「総務・防災館」「長寿いきいき館・すこやか館・安心しあわせ館」があります。

旧庁舎は解体待ちですがまだ工事は始まっていません。
このコンクリート庁舎を壊し、新しい庁舎をこの場所に建てる予定です。
2~3年以上かかりそうですね。
八郷の庁舎が立派なので簡単な機能だけあれば良いような気がします。
石岡駅の工事や駅前広場の整理などと同時にこんなにできるのでしょうか。
合併から10年で市の人口は7~8%くらい減っています。
もちろん高年齢化も進んでいます。
今日の土浦の花火大会をネットで調べたら、商工会の中に実行委員会ができてきれいなホームページが作成され、打ち上げの花火の名前などすべて表示されていた。
先日の協働まちづくりでも、昔に比べれば市のホームページも綺麗ななったが、「市の情報開示」が遅れていると指摘した。
しかし、どうもこれの反応は実に鈍かった。
先日の常総市の水害時に石岡市は全住民7万人以上に避難指示を出した。
NKHのテロップで各地の避難指示情報が盛んに流されていたがここ石岡が対象者の人数もずば抜けて多かった。
また「何十カ所の避難所が開設されている」と如何にもここが豪雨の中心地であると言わんばかりに放送され続けた。
実際は午前中に激しい雨は降ったが昼前から雨もやみ私のところは比較的高台なので危険という感覚は全くなかった。
現実には低い地域では川の氾濫もあり水浸しになったところもあったようだが、全市に避難指示を出すのはあまりにも安易すぎる。
こんなことが続けばオオカミ少年みたいになる。
また夕方5時頃にハザードマップに色つけられた低地の地区の4~5千世帯に避難指示を継続してその他は解除された。
問題はNHKの放送はその後も夜の7時過ぎまでこの情報は流されず七万人以上に避難指示が出されたままであった。
このため、我が家にも全国各地の親戚などから心配の電話が何本もかかってきた。
今回の会合でもその紹介をしたが、皆そんなことなどなかったようでキョトンとした表情であった。
これは私など他所者だけが気になったことなのか??
東日本大震災の教訓から市ではたくさんの防災無線の拡声器を設置した。
そしてテストも重ね、昼や夕方に時刻を知らせるように毎日チャイムや放送が繰り返されていた。
夏場などは窓を開けているのでうるさいくらいに聞こえてきていた。
しかしこの放送は今回しゃべっている内容が全く聞きとれなかった。
雨が降り窓を閉めて屋内にいると、チャイムの音はしても内容は全くわからなかった。
もう一度これも見直さねばならないだろう。
今回の会合で市側から同じような市の条例で活動している委員会がたくさんあることを初めて知った。
全部で42もの委員会があった。委員の数も約600人(但し、ダブって委員をしている人は多い)
同じような委員会も多いし、どんな打ち合わせや結論が得られているかが全く見えない。
これを公開できるものは全てホームページなどで簡単に検索できるようにしてできるだけ公開してほしいと要望した。
すぐには改善されないだろうがすこしでも良くなればと願っている。
まあ意思疎通もメールで簡単にできる人の範囲は限られている。これも困ったことだ。
社会で仕事をこなしてきた時も連絡は全てと言ってよいほどメールで連絡できた。
また情報の共有には積極的にかかわってきた。
手持ちの書類もすべてPDF化して全て共通サーバーに入れ検索プログラムを自作してやってきた。
書類を郵送したりして連絡するなどばかげている。
何かあるとすぐ担当課長さんにメールするが、これも最初は戸惑ったようだ。
しかしこちらのペースに少しずつ慣れていただけるだろう。
(もちろん業務がお忙しいのでできるだけ邪魔はしないように心掛けるつもであるが)
あまりこんな事を書くとすぐにクビになるかもしれない。
そうなればそれもいいな。
八豊祭(第4回)
今日もよい天気。
石岡市も八郷町と合併して今月1日で10年を迎えました。
この記念イベントが午後1時から市民会館をはじめ各地で行なわれます。
何故か11時頃になってこの式典に来てほしいと市役所の方が突然やってきました。
ごごから家の用事がありこのような公式行事には出る時間がなくお断りさせていただきました。
委員長失格ですね。
今週末にイギリスから娘夫婦が孫娘(2歳半)を連れてやってきます。
しばらく滞在するので、これから家の中の片づけもしなければ・・・・・。
息子に結婚式もあるので今月は気分的にも忙しい。
これが終わるまでブログも適当な記事になるかもしれないがご勘弁願いたい。
今日はあるイベントの紹介です。
来週日曜日(10/18)に八郷地区の朝日里山学校で第4回目となる「八豊祭(やっほうまつり)が行なわれます。
東京新宿からバスもでるという。
都会暮らしの人などが集まって各種里山体験をしたりして最後はみんなで輪になって踊る。
子供連れもたくさん参加されるらしい。

このチラシは先日の協働のまちづくり委員会のメンバーの方から頂きました。

土曜日に瓦会に「まんまや」さんでお蕎麦をいただきましたが、同じチラシがありました。
昨年はたのまれてお蕎麦を出店されたそうです。
今年は手伝い手が足りなくて御断りになられたようです。
150食分を用意したけどすぐに無くなってしまったとか。
こちらの実行委員会はフェイスブックで情報発信しています。(こちら)
またイバキラTVで石岡市を訪れた外国人の紹介がYouTubeで配信されています。
よかったら見てください。
石岡市も八郷町と合併して今月1日で10年を迎えました。
この記念イベントが午後1時から市民会館をはじめ各地で行なわれます。
何故か11時頃になってこの式典に来てほしいと市役所の方が突然やってきました。
ごごから家の用事がありこのような公式行事には出る時間がなくお断りさせていただきました。
委員長失格ですね。
今週末にイギリスから娘夫婦が孫娘(2歳半)を連れてやってきます。
しばらく滞在するので、これから家の中の片づけもしなければ・・・・・。
息子に結婚式もあるので今月は気分的にも忙しい。
これが終わるまでブログも適当な記事になるかもしれないがご勘弁願いたい。
今日はあるイベントの紹介です。
来週日曜日(10/18)に八郷地区の朝日里山学校で第4回目となる「八豊祭(やっほうまつり)が行なわれます。
東京新宿からバスもでるという。
都会暮らしの人などが集まって各種里山体験をしたりして最後はみんなで輪になって踊る。
子供連れもたくさん参加されるらしい。

このチラシは先日の協働のまちづくり委員会のメンバーの方から頂きました。

土曜日に瓦会に「まんまや」さんでお蕎麦をいただきましたが、同じチラシがありました。
昨年はたのまれてお蕎麦を出店されたそうです。
今年は手伝い手が足りなくて御断りになられたようです。
150食分を用意したけどすぐに無くなってしまったとか。
こちらの実行委員会はフェイスブックで情報発信しています。(こちら)
またイバキラTVで石岡市を訪れた外国人の紹介がYouTubeで配信されています。
よかったら見てください。
報佛寺(唯円の寺)(1)
親鸞ゆかりの寺として大洗の願入寺を紹介しましたが、もう一つ水戸市河和田にある報佛寺も紹介しないといけないと思いいってきました。

場所は赤塚駅から1.5kmほど南で、偕楽園の3kmほど西側です。
石岡の歴史に詳しい人はこの河和田(かわわだ)というと戦国時代の「河和田城」を思い浮かべるかもしれません。
この報佛寺はこの河和田城があった場所に水戸光圀が移築して整備したようです。
その前は更に南側の国道50号線辺りにあったようです。
いまでもそこには石碑が置かれているようです。
この河和田城の城主河和田城氏は北条多気の大掾(だいじょう)氏が鎌倉御家人でつくばで勢力を持っていた「小田氏」の換言により源頼朝に鎌倉に呼び付けられて失脚させられてしまいました。
その後この水戸にいた多気大掾と同じ常陸平氏一族の吉田氏(馬場に居を構えていたので馬場氏ともいう)に大掾職が引き継がれました。
この吉田大掾氏がここ水戸の水戸城と常陸府中(石岡)の役所との間を行き来して常陸国の官職を行なっていきます。
しかし、愚かなことに常陸府中で行なわれた「青屋祭」に出かけている留守をねらって「江戸氏」が水戸城を占拠してしまいました。
そのためそれからは吉田大掾氏は石岡が本拠地になりました。
この河和田氏は吉田大掾氏の家臣ですが、水戸城と共に江戸氏が支配してしまいます。
もっとも中央から水戸も含めて吉田氏から江戸氏に所有権が移されていたのですが、吉田氏が城に居座って渡さなかったのです。
ですので留守に攻め込まれるのですが、ある程度予想はできたはずです。やはり愚かと言わざるを得ないかもしれません。
この河和田城もかなり広くこの報佛寺から北は河和田小学校や天徳寺辺りまでを含むエリアだったようですので、かなり重要な家臣の一人だったのだと思います。
しかし、この後に入った江戸氏も佐竹氏に敗れ、戦国末期は佐竹氏が支配していました。

「法喜山泉渓院 法佛寺」
この山門は先の東日本大震災で倒壊してしまったようです。
それを修理して再建したものだと思います。

これは何の花でしょうか? 葵? 門の左右に木枠で彫刻された物がはめ込まれています。

山門を入った左側に親鸞像?が置かれています。

右側の小山の上に鐘楼が置かれています。
このような山門脇の小山は恐らく昔の城の遺構であると思われます。
小山を築いて見張りなどを配備したのでしょう。

親鸞象の近くの参道わきに「天牌奉安所」という石碑が置かれています。
一般には天皇の位牌が奉納されている場所をさすようです。
むやみやたらにこのような場所を戦争でも侵してはいけないという印だと思います。
この天牌が誰のものかはよく分かりません。

そのまま正面に本殿が見えますが、本殿前に大きな木が聳えています。
しだれ桜のようです。
春には綺麗に咲くので、この辺りの名物になっているようです。
額田にある真宗の「阿弥陀寺」もしだれ桜が有名でしたが、同じ真宗のこの寺もしだれ桜が有名なのだそうです。
寺や唯円については明日紹介します。

場所は赤塚駅から1.5kmほど南で、偕楽園の3kmほど西側です。
石岡の歴史に詳しい人はこの河和田(かわわだ)というと戦国時代の「河和田城」を思い浮かべるかもしれません。
この報佛寺はこの河和田城があった場所に水戸光圀が移築して整備したようです。
その前は更に南側の国道50号線辺りにあったようです。
いまでもそこには石碑が置かれているようです。
この河和田城の城主河和田城氏は北条多気の大掾(だいじょう)氏が鎌倉御家人でつくばで勢力を持っていた「小田氏」の換言により源頼朝に鎌倉に呼び付けられて失脚させられてしまいました。
その後この水戸にいた多気大掾と同じ常陸平氏一族の吉田氏(馬場に居を構えていたので馬場氏ともいう)に大掾職が引き継がれました。
この吉田大掾氏がここ水戸の水戸城と常陸府中(石岡)の役所との間を行き来して常陸国の官職を行なっていきます。
しかし、愚かなことに常陸府中で行なわれた「青屋祭」に出かけている留守をねらって「江戸氏」が水戸城を占拠してしまいました。
そのためそれからは吉田大掾氏は石岡が本拠地になりました。
この河和田氏は吉田大掾氏の家臣ですが、水戸城と共に江戸氏が支配してしまいます。
もっとも中央から水戸も含めて吉田氏から江戸氏に所有権が移されていたのですが、吉田氏が城に居座って渡さなかったのです。
ですので留守に攻め込まれるのですが、ある程度予想はできたはずです。やはり愚かと言わざるを得ないかもしれません。
この河和田城もかなり広くこの報佛寺から北は河和田小学校や天徳寺辺りまでを含むエリアだったようですので、かなり重要な家臣の一人だったのだと思います。
しかし、この後に入った江戸氏も佐竹氏に敗れ、戦国末期は佐竹氏が支配していました。

「法喜山泉渓院 法佛寺」
この山門は先の東日本大震災で倒壊してしまったようです。
それを修理して再建したものだと思います。

これは何の花でしょうか? 葵? 門の左右に木枠で彫刻された物がはめ込まれています。

山門を入った左側に親鸞像?が置かれています。

右側の小山の上に鐘楼が置かれています。
このような山門脇の小山は恐らく昔の城の遺構であると思われます。
小山を築いて見張りなどを配備したのでしょう。

親鸞象の近くの参道わきに「天牌奉安所」という石碑が置かれています。
一般には天皇の位牌が奉納されている場所をさすようです。
むやみやたらにこのような場所を戦争でも侵してはいけないという印だと思います。
この天牌が誰のものかはよく分かりません。

そのまま正面に本殿が見えますが、本殿前に大きな木が聳えています。
しだれ桜のようです。
春には綺麗に咲くので、この辺りの名物になっているようです。
額田にある真宗の「阿弥陀寺」もしだれ桜が有名でしたが、同じ真宗のこの寺もしだれ桜が有名なのだそうです。
寺や唯円については明日紹介します。
報佛寺(唯円の寺)(2)
水戸市河和田にある報佛寺は親鸞の直弟子「唯円」が建てた寺です。
唯円は「歎異抄」を書いた人物とみなされています。
『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。』
このフレーズも考え出すといろいろに解釈されそうですが、中学校の頃に反語表現の例として習った記憶があります。

本堂前にあるしだれ桜。
また春に訪れてみなければならない。

写真右側がしだれ桜で、左が本堂。

その真中に「唯円大徳開基」と書かれた石碑が置かれています。
建保6年(1218)榎本というところに ある心字池のほとりに(現在地の少し南側の国道50号近く)道場が建てられた。
その後竹ノ内に移り寺は「泉渓寺」と称した。
元禄3年(1690)に水戸光圀が現在地に移し、荒れていた寺を再建した。




本堂脇の隅に「報佛寺の十字名号」と書かれた石碑が置かれている。

この説明には、唯円が親鸞の弟子になった経緯が書かれている。
河和田の平次郎の女房は親鸞聖人に書いていただいた十字名号(帰命尽十方無礙光如来)の紙を熱心に拝んでいた。
他に男でもできたと誤解した平次郎は女房を刀で斬りつけ殺し、土に埋めてしまった。
しかし、斬られたはずの女房は元気で、十字名号が袈裟がけに斬られていた。
平次郎はその後改心して親鸞の弟子となり「唯円」の名をもらった。
この親鸞が書いたとされる「十字名号」は今もこの寺に残されており寺宝となっています。
さて、この話に似た話が石岡にもあります。
「聖跡御経塚」と市内本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。
(記事は → こちら)
唯円は「歎異抄」を書いた人物とみなされています。
『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。』
このフレーズも考え出すといろいろに解釈されそうですが、中学校の頃に反語表現の例として習った記憶があります。

本堂前にあるしだれ桜。
また春に訪れてみなければならない。

写真右側がしだれ桜で、左が本堂。

その真中に「唯円大徳開基」と書かれた石碑が置かれています。
建保6年(1218)榎本というところに ある心字池のほとりに(現在地の少し南側の国道50号近く)道場が建てられた。
その後竹ノ内に移り寺は「泉渓寺」と称した。
元禄3年(1690)に水戸光圀が現在地に移し、荒れていた寺を再建した。




本堂脇の隅に「報佛寺の十字名号」と書かれた石碑が置かれている。

この説明には、唯円が親鸞の弟子になった経緯が書かれている。
河和田の平次郎の女房は親鸞聖人に書いていただいた十字名号(帰命尽十方無礙光如来)の紙を熱心に拝んでいた。
他に男でもできたと誤解した平次郎は女房を刀で斬りつけ殺し、土に埋めてしまった。
しかし、斬られたはずの女房は元気で、十字名号が袈裟がけに斬られていた。
平次郎はその後改心して親鸞の弟子となり「唯円」の名をもらった。
この親鸞が書いたとされる「十字名号」は今もこの寺に残されており寺宝となっています。
さて、この話に似た話が石岡にもあります。
「聖跡御経塚」と市内本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。
(記事は → こちら)
北条の穀蔵でウィーンフィル
今日はまた銚子に行ってきた。
大型の台風がすこし近づいてきた影響か、大分波も高く下総台地も先端はかなり風も強かった。
夜戻る頃はすこしではあるが雨も降ってきた。
しかし石岡の方に戻ると全く風は収まって静かだ。
明日は天気は良いのかな。良いといいが。
さて、先週土曜日につくば市北条の「田村家」に風の会の会報を置かせてもらいに行き、このチラシをいただいてきた。
古民家の蔵を利用してウィーンフィルのメンバーなどを招いて時々コンサートを行なっている。
場所は北条の「宮清大蔵」
詳細は私のブログリンク先の「たかぼんのつくば市北条古民家暮らし」へ。




大型の台風がすこし近づいてきた影響か、大分波も高く下総台地も先端はかなり風も強かった。
夜戻る頃はすこしではあるが雨も降ってきた。
しかし石岡の方に戻ると全く風は収まって静かだ。
明日は天気は良いのかな。良いといいが。
さて、先週土曜日につくば市北条の「田村家」に風の会の会報を置かせてもらいに行き、このチラシをいただいてきた。
古民家の蔵を利用してウィーンフィルのメンバーなどを招いて時々コンサートを行なっている。
場所は北条の「宮清大蔵」
詳細は私のブログリンク先の「たかぼんのつくば市北条古民家暮らし」へ。




六地蔵寺(1)
6号国道から大洗方面へ国道51号線に入るとしばらくして「六地蔵寺」の案内看板が目に入った。
行きはパスして帰りに案内に従って六地蔵寺を訪れた。
六地蔵は最近あちこちの寺に増えてきたようで、今までに最初に行った時には無かったのに翌年言ったら六体の地蔵置かれていることが数か所であった。

ここ水戸市六反田にある六地蔵寺はかなり大きな寺であった。
入口に「茨城百景 六反田六地蔵尊」の石碑がある。
その後ろに聳えているのは樹齢1100年ともいわれる杉の大木。

四脚門といわれる藁葺屋根の山門。
県指定有形文化財(室町時代製作)
正面奥が地蔵堂。


地蔵堂(祈願堂)
「平成3年の修理調査により現在の御堂は三度目の建立で元禄13年(1700年)11月棟上と判明した」
と書かれている。


地蔵堂の中は六体の地蔵尊が祀られており、身丈各六尺の一木造りで行基菩薩作と伝えらる。
この辺りでは有名な安産子育て、心願成就に霊験あらたかとして参拝者が多い。
行きはパスして帰りに案内に従って六地蔵寺を訪れた。
六地蔵は最近あちこちの寺に増えてきたようで、今までに最初に行った時には無かったのに翌年言ったら六体の地蔵置かれていることが数か所であった。

ここ水戸市六反田にある六地蔵寺はかなり大きな寺であった。
入口に「茨城百景 六反田六地蔵尊」の石碑がある。
その後ろに聳えているのは樹齢1100年ともいわれる杉の大木。

四脚門といわれる藁葺屋根の山門。
県指定有形文化財(室町時代製作)
正面奥が地蔵堂。


地蔵堂(祈願堂)
「平成3年の修理調査により現在の御堂は三度目の建立で元禄13年(1700年)11月棟上と判明した」
と書かれている。


地蔵堂の中は六体の地蔵尊が祀られており、身丈各六尺の一木造りで行基菩薩作と伝えらる。
この辺りでは有名な安産子育て、心願成就に霊験あらたかとして参拝者が多い。
六地蔵寺(2)
水戸市六反田にある六地蔵寺の続きです。
六地蔵寺縁起:(現地説明文より抜粋)
名称 倶胝密山聖寶院六地蔵寺(旧称 六蔵寺)
開基 大同2年(807年)六反田古墳群の中心にあたる霊場に開山され、室町時代(永享年間)の宥覚上人を中興第一世とする。
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
本寺は大掾氏・佐竹氏・水戸徳川家と代々の領主から厚遇され、江戸時代には幕府から御朱印を与えられた。末寺二十一ヶ寺を有する本山で将軍家・水戸徳川家累代のご位牌を護持する。旧法宝蔵は光圀の建立。
本寺は檀林(僧侶の学問所)として著名な学僧を数多く輩出した。第三世恵範上人は西国の諸大寺に学び貴重な著書を現代に伝えている。又、慶長18年には徳川家康の知遇と推挙を得た第八世宥義上人が大和国
総本山長谷寺第三世に就かれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・

地蔵堂から振り返って四脚門を眺める。

地蔵堂に向かって右側に水戸光圀が寄進したと言う「法宝蔵」と並んで置かれた「観音堂」
この寺は真言宗 弘法大師の観音霊場である。
この寺には文化財も多く残されており、光圀の寄進した「法宝蔵」にかわって、地蔵堂に向かって左手奥に新しいコンクリート製の法宝蔵ができている。

地蔵堂の裏手は観音霊場として観音様と多くの地蔵石像が置かれている。


この寺が茨城百景に指定されたのはこのしだれ桜が景観とマッチして素晴らしいからという。
樹齢180年ほどの桜が満開の頃にまた訪れたい。

こちらは樹齢800年と言われる大イチョウ。

弘法大師像
六地蔵寺では桜の開花情報などをブログで発信しています。(こちら)
そこに
「あなたは、わたしの宝物
ようこそ我が家にうまれてきてくれて
ありがとう 」
とあります。
六地蔵寺縁起:(現地説明文より抜粋)
名称 倶胝密山聖寶院六地蔵寺(旧称 六蔵寺)
開基 大同2年(807年)六反田古墳群の中心にあたる霊場に開山され、室町時代(永享年間)の宥覚上人を中興第一世とする。
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本寺は大掾氏・佐竹氏・水戸徳川家と代々の領主から厚遇され、江戸時代には幕府から御朱印を与えられた。末寺二十一ヶ寺を有する本山で将軍家・水戸徳川家累代のご位牌を護持する。旧法宝蔵は光圀の建立。
本寺は檀林(僧侶の学問所)として著名な学僧を数多く輩出した。第三世恵範上人は西国の諸大寺に学び貴重な著書を現代に伝えている。又、慶長18年には徳川家康の知遇と推挙を得た第八世宥義上人が大和国
総本山長谷寺第三世に就かれた。
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地蔵堂から振り返って四脚門を眺める。

地蔵堂に向かって右側に水戸光圀が寄進したと言う「法宝蔵」と並んで置かれた「観音堂」
この寺は真言宗 弘法大師の観音霊場である。
この寺には文化財も多く残されており、光圀の寄進した「法宝蔵」にかわって、地蔵堂に向かって左手奥に新しいコンクリート製の法宝蔵ができている。

地蔵堂の裏手は観音霊場として観音様と多くの地蔵石像が置かれている。


この寺が茨城百景に指定されたのはこのしだれ桜が景観とマッチして素晴らしいからという。
樹齢180年ほどの桜が満開の頃にまた訪れたい。

こちらは樹齢800年と言われる大イチョウ。

弘法大師像
六地蔵寺では桜の開花情報などをブログで発信しています。(こちら)
そこに
「あなたは、わたしの宝物
ようこそ我が家にうまれてきてくれて
ありがとう 」
とあります。
我が家もにぎやかに。
昨日ロンドンから娘夫婦と孫娘がやってきました。
老夫婦2人の我が家はしばらくにぎやかになります。

ロンドンからの便が成田から羽田に変わってしまい、羽田の国際線へ始めて車で迎えに行きました。
羽田に行けば分かると思って高速の空港中央出口を出て空港に到着したのですが、国内線ばかりで国際線ターミナルがわかりません。
しばらく空港周りをうろうろして駐車場に車を停めて、場所を聞いたら結構離れているのですね。
30分駐車場は無料なので、また出車してトンネルをくぐって国際線ターミナルへ。
国際線の駐車場はこんな楕円形の9階建ての駐車場ビル。
成田と違って近くに格安(1日500円くらい)民間駐車場がひしめいている状況ではなく、数千台停められる駐車場も5階までほぼ満車でした。

5階のわずかな空車スペースに車を停めて外を眺めると見晴らしは良いです。
すぐ横を流れる川は「多摩川」です。

まわりはまだ工事中も多く綺麗とまでは言えません。
右手に東京モノレールと京浜急行の線路が見えます。

羽田の国際線は国内線のターミナルに比べるとまだまだこじんまりしていました。
駐車場の3Fと国際線到着ロビー(2F)が連絡通路でつながっています。
到着出口はこの1か所のみです。

娘たちも無事到着。
孫も2歳半です。
空港の動く歩道に大喜びです。

我が家にしばらく小さなお客様の御滞在です。よくいらっしゃいました。
しばらくこのちびっこギャングに我が家も掻きまわされそうです。
老夫婦2人の我が家はしばらくにぎやかになります。

ロンドンからの便が成田から羽田に変わってしまい、羽田の国際線へ始めて車で迎えに行きました。
羽田に行けば分かると思って高速の空港中央出口を出て空港に到着したのですが、国内線ばかりで国際線ターミナルがわかりません。
しばらく空港周りをうろうろして駐車場に車を停めて、場所を聞いたら結構離れているのですね。
30分駐車場は無料なので、また出車してトンネルをくぐって国際線ターミナルへ。
国際線の駐車場はこんな楕円形の9階建ての駐車場ビル。
成田と違って近くに格安(1日500円くらい)民間駐車場がひしめいている状況ではなく、数千台停められる駐車場も5階までほぼ満車でした。

5階のわずかな空車スペースに車を停めて外を眺めると見晴らしは良いです。
すぐ横を流れる川は「多摩川」です。

まわりはまだ工事中も多く綺麗とまでは言えません。
右手に東京モノレールと京浜急行の線路が見えます。

羽田の国際線は国内線のターミナルに比べるとまだまだこじんまりしていました。
駐車場の3Fと国際線到着ロビー(2F)が連絡通路でつながっています。
到着出口はこの1か所のみです。

娘たちも無事到着。
孫も2歳半です。
空港の動く歩道に大喜びです。

我が家にしばらく小さなお客様の御滞在です。よくいらっしゃいました。
しばらくこのちびっこギャングに我が家も掻きまわされそうです。