初詣
今日は東京の実家へ父の墓参りに行く予定でしたが、家内が疲れが出たのか少し寝込んだので二人で寝正月でのんびり。
こんなこともなかなかないので一日ボケっとして過ごしました。
1年分の疲れをとって来週からはまた元気に過ごしたいと思います。
昨日は初詣にちかくの総社宮に行ってきました。

まずまずの人出。
今年の家族安泰を祈願してきました。

今年はここ総社宮も手塚プロダクションとのコラボレーションなのか、御朱印帳をはじめあちこちに手塚治虫のキャラクターが目立ちました。
今までにないものが境内に多くありました。
色々な工夫が目立ちました。

日本・世界の平穏と皆さまの繁栄・安泰を心から願います。
今年が良い年になりますように・・・・・・。
私のブログが今年も無事続けられますように。
これはどうかな?
昨年初めには記事2000件超えを祈願し、2176件達成でしたから、今年末には2500件超えでしょうか?
こんなこともなかなかないので一日ボケっとして過ごしました。
1年分の疲れをとって来週からはまた元気に過ごしたいと思います。
昨日は初詣にちかくの総社宮に行ってきました。

まずまずの人出。
今年の家族安泰を祈願してきました。

今年はここ総社宮も手塚プロダクションとのコラボレーションなのか、御朱印帳をはじめあちこちに手塚治虫のキャラクターが目立ちました。
今までにないものが境内に多くありました。
色々な工夫が目立ちました。

日本・世界の平穏と皆さまの繁栄・安泰を心から願います。
今年が良い年になりますように・・・・・・。
私のブログが今年も無事続けられますように。
これはどうかな?
昨年初めには記事2000件超えを祈願し、2176件達成でしたから、今年末には2500件超えでしょうか?
恋瀬橋からの筑波山は一番美しい
正月三が日の最後の今日は春のような暖かさ。
もう春の花も咲き始めたところをちらほら見かけます。
もう咲いた??
これからどうなるのでしょう。
寝正月も今日で終わりにします。
明日からは少しずつ平常に戻していきます。
そうは言ってもそんなに仕事があるわけでもありません。
年末に残した仕事が少しあったので明日から少しかたずけです。

元日に初日の出を見た帰りに6号国道に架かる恋瀬橋から筑波山を見たくなり立ち寄りました。
ここから見る筑波山の形が一番美しいのです。

二つの頂が丁度良い形に開いていて万葉の頃にこの山が慕われてことが忍ばれますね。
正岡子規はここを旅して
・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體 (水戸紀行)
と詠んだ。
う~ん。
今は無き旅館万屋(よろずや)の場所には碑がない。
もう春の花も咲き始めたところをちらほら見かけます。
もう咲いた??
これからどうなるのでしょう。
寝正月も今日で終わりにします。
明日からは少しずつ平常に戻していきます。
そうは言ってもそんなに仕事があるわけでもありません。
年末に残した仕事が少しあったので明日から少しかたずけです。

元日に初日の出を見た帰りに6号国道に架かる恋瀬橋から筑波山を見たくなり立ち寄りました。
ここから見る筑波山の形が一番美しいのです。

二つの頂が丁度良い形に開いていて万葉の頃にこの山が慕われてことが忍ばれますね。
正岡子規はここを旅して
・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體 (水戸紀行)
と詠んだ。
う~ん。
今は無き旅館万屋(よろずや)の場所には碑がない。
高浜と筑波山
昨日は恋瀬橋からの筑波山の眺めを紹介したが、今回はやはり正月1日朝の高浜の愛郷橋からの筑波山と恋瀬川である。
ここから見る筑波山は本来は常陸国風土記に歌われたように昔は川遊びなどを楽しんだ場所であったのだろう。
この場所は恋瀬川には千代田の方を流れてきた天の川が合流した後で川幅も広くなっている。

ここが川のもっとも下流に近くすぐに霞ケ浦に注ぐ。

なかなかのどかな風情だが、高圧線の鉄塔が邪魔になる。
昔の古代東海道はどの辺りでこの川を渡ったのだろうか?
「かいつづみ」と言われるのはどの辺りだろうか?
「かいつづみ」は八幡太郎などの軍勢がこの湿地帯で歩行困難となった時に付近に群生する茅を刈り取って集めそれを踏みしめて何とか無事に進むことができたため「茅堤」と言う名が付いたという伝承が残る場所です。
ここから見る筑波山は本来は常陸国風土記に歌われたように昔は川遊びなどを楽しんだ場所であったのだろう。
この場所は恋瀬川には千代田の方を流れてきた天の川が合流した後で川幅も広くなっている。

ここが川のもっとも下流に近くすぐに霞ケ浦に注ぐ。

なかなかのどかな風情だが、高圧線の鉄塔が邪魔になる。
昔の古代東海道はどの辺りでこの川を渡ったのだろうか?
「かいつづみ」と言われるのはどの辺りだろうか?
「かいつづみ」は八幡太郎などの軍勢がこの湿地帯で歩行困難となった時に付近に群生する茅を刈り取って集めそれを踏みしめて何とか無事に進むことができたため「茅堤」と言う名が付いたという伝承が残る場所です。
五輪堂橋と筑波山(夕景)
恋瀬川に架かる橋は高浜から上流にかけて「愛郷橋」、「常磐線鉄橋」、「平和橋」(中津川)、「恋瀬橋」(6号国道)、「府中橋」「粟田橋」、「五輪堂橋」・・・・となる。
この五輪堂橋だが1年ほど前に新しくきれいな橋が少し上流側に架け直されたが、それまでは大雨が降ると危険な状態の橋であった。
このあたりはおかしな地形で石岡市とでかすみがうら市(旧千代田町)との市境が川の中心部で分かれるのだが、この辺りだけが入り乱れている。
その原因はよくわからないが歴史的な経緯があるように思う。

本日夕方に新しい五輪堂橋にいって見た。
曇っていてどうかと思ったが夕焼けがきれいに現れた。
筑波山も見える。

今の橋は川が増水して水位が上昇しても心配がないが、昔の橋は低いところに架けられていたために増水すると危険が生じた。
まあ橋は粟田橋がもっと前にきれいになっていてこちらに迂回すればあまり不便もなかったと思う。

昔、常陸国府(府中=現石岡)から筑波山への道としてもっとも古くから知られた府中街道があったと言われている。
この街道が恐らくこの辺り(もっとも川幅が狭い)で川を渡り、権現山などを通って青柳方面へ出ていたものと考えられている。

新しい橋の上から旧橋の方を見下ろすが、今ではすでに橋は撤去されて無くなっている。
写真の木々の手前に土塁などが積まれているが、そこに旧橋があった。

万葉の頃にこんな場所を通っていたのを想像する人はほとんどいない。
「筑波嶺の峰より落つるみなの(男女)川 恋ぞつもりて淵となりける」
という有名な歌があるが、この男女川(みなのかわ)が今では筑波山から桜川に流れる川とほとんどの書物に書かれている。
でも当時の地形や情勢からしてこの恋瀬川である可能性が高いと私は考えている。
みなの川も「水無川」、「男女川」、「蜷(みな)の川」(蜷(みな):タニシのような貝が棲む濁った川)などと解釈も分かれる。
しかし当時の常陸国府から筑波山を眺め、こちらからの登山ルートがメインであった当時の姿を目に浮かべれば、恋瀬川(表川、志筑川、小泊瀬川、・・・) などがこの歌の川であるという考えをどうしても捨てきれない。
この五輪堂橋だが1年ほど前に新しくきれいな橋が少し上流側に架け直されたが、それまでは大雨が降ると危険な状態の橋であった。
このあたりはおかしな地形で石岡市とでかすみがうら市(旧千代田町)との市境が川の中心部で分かれるのだが、この辺りだけが入り乱れている。
その原因はよくわからないが歴史的な経緯があるように思う。

本日夕方に新しい五輪堂橋にいって見た。
曇っていてどうかと思ったが夕焼けがきれいに現れた。
筑波山も見える。

今の橋は川が増水して水位が上昇しても心配がないが、昔の橋は低いところに架けられていたために増水すると危険が生じた。
まあ橋は粟田橋がもっと前にきれいになっていてこちらに迂回すればあまり不便もなかったと思う。

昔、常陸国府(府中=現石岡)から筑波山への道としてもっとも古くから知られた府中街道があったと言われている。
この街道が恐らくこの辺り(もっとも川幅が狭い)で川を渡り、権現山などを通って青柳方面へ出ていたものと考えられている。

新しい橋の上から旧橋の方を見下ろすが、今ではすでに橋は撤去されて無くなっている。
写真の木々の手前に土塁などが積まれているが、そこに旧橋があった。

万葉の頃にこんな場所を通っていたのを想像する人はほとんどいない。
「筑波嶺の峰より落つるみなの(男女)川 恋ぞつもりて淵となりける」
という有名な歌があるが、この男女川(みなのかわ)が今では筑波山から桜川に流れる川とほとんどの書物に書かれている。
でも当時の地形や情勢からしてこの恋瀬川である可能性が高いと私は考えている。
みなの川も「水無川」、「男女川」、「蜷(みな)の川」(蜷(みな):タニシのような貝が棲む濁った川)などと解釈も分かれる。
しかし当時の常陸国府から筑波山を眺め、こちらからの登山ルートがメインであった当時の姿を目に浮かべれば、恋瀬川(表川、志筑川、小泊瀬川、・・・) などがこの歌の川であるという考えをどうしても捨てきれない。
常陸国府の駅家(うまや)はここなのか?
奈良に都があった頃に伊賀上野から常陸国国府(現在の石岡)へ海岸寄りに通っていた(古)東海道は東京湾を海で渡っていた。
そして上総国(市原)、下総国(市川)を通ってこの常陸国の国府(石岡)に向かっていた。
そのため古東海道は石岡が終点であった。
街道には常時馬を準備しておく「駅家(うまや)」(約16km毎)が置かれていた。
しかし市川から石岡の間には大きな内海(香取の海、流れ海:現在の霞ケ浦から印旛沼などが一体となった内海)が広がっていた。
そのためかどうかはわからないがこのルートが皆目わからない。
最後の駅家であった常陸府中の駅家がどこなのかは解明されていない。
ただその有力な候補地が石岡市国府の6号国道の貝地と反対側の少し高くなった場所にある。
しかしここを通る人もほとんどなく知られてもいない。

住宅街の一角(国府4-3-16?)にこんもりと土が盛られた場所があり、「月読神」と「庚申塔」の石碑が置かれている。
古東海道は霞ケ浦を渡ってきたと思われるので、高浜方面から真っ直ぐに府中の街に入った入口に当たる位置であり、不思議な場所ではない。
私が石岡の歴史に興味を覚えた最初(今から10年ほど前)がこの古東海道であった。
このブログも5年を経過したが、また振り出しに戻って何か残された痕跡がないか探すこともやっておかねばならない。
年の初めにまた目標が一つ増えてしまった。
そして上総国(市原)、下総国(市川)を通ってこの常陸国の国府(石岡)に向かっていた。
そのため古東海道は石岡が終点であった。
街道には常時馬を準備しておく「駅家(うまや)」(約16km毎)が置かれていた。
しかし市川から石岡の間には大きな内海(香取の海、流れ海:現在の霞ケ浦から印旛沼などが一体となった内海)が広がっていた。
そのためかどうかはわからないがこのルートが皆目わからない。
最後の駅家であった常陸府中の駅家がどこなのかは解明されていない。
ただその有力な候補地が石岡市国府の6号国道の貝地と反対側の少し高くなった場所にある。
しかしここを通る人もほとんどなく知られてもいない。

住宅街の一角(国府4-3-16?)にこんもりと土が盛られた場所があり、「月読神」と「庚申塔」の石碑が置かれている。
古東海道は霞ケ浦を渡ってきたと思われるので、高浜方面から真っ直ぐに府中の街に入った入口に当たる位置であり、不思議な場所ではない。
私が石岡の歴史に興味を覚えた最初(今から10年ほど前)がこの古東海道であった。
このブログも5年を経過したが、また振り出しに戻って何か残された痕跡がないか探すこともやっておかねばならない。
年の初めにまた目標が一つ増えてしまった。
東日本第二の規模を誇る舟塚山古墳からまほらの里を眺める(1)-夕日
今日は朝まだ真夜中のうちに起きてしまって、少しプログラミングなどを検討していて朝になってしまった。
うまく行ったともったが、走らせてみたら思わぬところで不具合があり、無駄になってしまった。
夕方まで雑用仕事(内職?)で頑張ったので疲れた。
まあ気晴らしもあり午後3時半頃に舟塚山古墳(東日本で2番目に大きな前方後円墳、国指定史跡)の上から夕日が見たくて出かけてきた。
古墳の上はきれいに芝生で整備され、古墳の上に立つとちっぽけなことは忘れそうな広々した景色が広がった。
辺りには人はほとんどいない。 古墳の上で1時間近く立ったり座ったり、186mの前から後ろまで歩きまわったりしたが誰もいない。
雲が空に広がっているが太陽も見え、筑波山もきれいに見えた。

しばらく待っていると雲に隠れていた太陽が顔を出し、陽の光が暖かく差し込んできた。
そしてまた地平線の雲の下に隠れ、夕焼けが現れた。

夕焼けとしてはもう少しきれいな時にまた来たいと思うが、それにしても年明けのこの台地に太陽が差すと、太陽のありがたみが伝わってくる。

後円墳側から前方墳側を眺めて見た。
実に堂々とした古墳である。
何回も見てきたのだが今回が一番よく見たように思う。
茨城国造(いばらきのくにのみやつこ)である筑紫刀禰の墓ではないかといわれるがはっきりとした確証は無い。
1時間も古墳の上に一人でいるとは物好きかもしれないな。
でも気持ちがよかった。
麓の方からも十分上にいる人は見えるだろうけど。それにしても畑にも通りにも人の姿がない。
時々高浜駅を通る列車が見え、音も良く聞こえる。
6号国道のバイパスが近くを通る計画で工事が進んでいる。
完成して騒がしくならねばよいが・・・・。
うまく行ったともったが、走らせてみたら思わぬところで不具合があり、無駄になってしまった。
夕方まで雑用仕事(内職?)で頑張ったので疲れた。
まあ気晴らしもあり午後3時半頃に舟塚山古墳(東日本で2番目に大きな前方後円墳、国指定史跡)の上から夕日が見たくて出かけてきた。
古墳の上はきれいに芝生で整備され、古墳の上に立つとちっぽけなことは忘れそうな広々した景色が広がった。
辺りには人はほとんどいない。 古墳の上で1時間近く立ったり座ったり、186mの前から後ろまで歩きまわったりしたが誰もいない。
雲が空に広がっているが太陽も見え、筑波山もきれいに見えた。

しばらく待っていると雲に隠れていた太陽が顔を出し、陽の光が暖かく差し込んできた。
そしてまた地平線の雲の下に隠れ、夕焼けが現れた。

夕焼けとしてはもう少しきれいな時にまた来たいと思うが、それにしても年明けのこの台地に太陽が差すと、太陽のありがたみが伝わってくる。

後円墳側から前方墳側を眺めて見た。
実に堂々とした古墳である。
何回も見てきたのだが今回が一番よく見たように思う。
茨城国造(いばらきのくにのみやつこ)である筑紫刀禰の墓ではないかといわれるがはっきりとした確証は無い。
1時間も古墳の上に一人でいるとは物好きかもしれないな。
でも気持ちがよかった。
麓の方からも十分上にいる人は見えるだろうけど。それにしても畑にも通りにも人の姿がない。
時々高浜駅を通る列車が見え、音も良く聞こえる。
6号国道のバイパスが近くを通る計画で工事が進んでいる。
完成して騒がしくならねばよいが・・・・。
東日本第二の規模を誇る舟塚山古墳からまほらの里を眺める(2)-筑波山
舟塚山古墳の上に立つとかそれほど高くは無いがさえぎるものがあまりなく、かなり広範囲に見渡せる。
霞ケ浦に漕ぎだす舟のようなので入船と呼ばれたその霞ケ浦は残念ながら見ることができない。
しかし遠く筑波山から加波山の山並み、また吾国山、難台山などの山並みもかなりはっきり見ることができる。

舟塚山古墳後円側から眺めた筑波山

古墳と一緒に撮るとこんな感じだ。この冬の時期は太陽はこの写真の左手の辺りに沈む。
筑波山に方向に沈むのは5月始め頃だろうか?

望遠で拡大して見たが、霞んでいるようだ。

古墳の反対側(東側)に常磐線の電車がやってきて高浜駅に停まった。 駅のホームは見えないが駅まで以外に近い。
特急列車がこの後通過していった。

この古墳はかなり雄大だ。
古墳に眠っていたお宝は今はどこに?
何処かのお屋敷に眠っているのかもしれない。
歴史的な価値のある物は日の目を見なければ何の価値もない。
茨城の名前の発祥の地などと言っているようでは石岡の歴史の何もわかっていないことになる。

雲に隠れていた太陽が現れて、古墳を照らし出した。

筑波山も夕暮れが近づき、麓から霞がかかったようになる。

古墳の上に自分の影が大きく映し出された。
霞ケ浦に漕ぎだす舟のようなので入船と呼ばれたその霞ケ浦は残念ながら見ることができない。
しかし遠く筑波山から加波山の山並み、また吾国山、難台山などの山並みもかなりはっきり見ることができる。

舟塚山古墳後円側から眺めた筑波山

古墳と一緒に撮るとこんな感じだ。この冬の時期は太陽はこの写真の左手の辺りに沈む。
筑波山に方向に沈むのは5月始め頃だろうか?

望遠で拡大して見たが、霞んでいるようだ。

古墳の反対側(東側)に常磐線の電車がやってきて高浜駅に停まった。 駅のホームは見えないが駅まで以外に近い。
特急列車がこの後通過していった。

この古墳はかなり雄大だ。
古墳に眠っていたお宝は今はどこに?
何処かのお屋敷に眠っているのかもしれない。
歴史的な価値のある物は日の目を見なければ何の価値もない。
茨城の名前の発祥の地などと言っているようでは石岡の歴史の何もわかっていないことになる。

雲に隠れていた太陽が現れて、古墳を照らし出した。

筑波山も夕暮れが近づき、麓から霞がかかったようになる。

古墳の上に自分の影が大きく映し出された。
天皇陛下が陸軍軍事演習の統括に立った御野立所は眺めの良い山の上だった。
昭和4年の3月14日の風の強い日に石岡市内で起こった火災は瞬く間に市街地の半分近くを焼きつくす記録的大火となった。
まだ今の6号国道は通っていない時であり、現在の街中を走る355号線が水戸街道のメイン通りであったが、この通り沿いの商家が出荷して北西側からの強風にあおられて多くの家が灰となった。
商都でもあった石岡の町は復興も早かったが、同じ年の11月に四万騎ヶ原から広がる草原などで陸軍の大演習を行うこととなり、そこを統括するために昭和天皇が来ることになった。
石岡の街はまだ焼け野原でてんやわんやであったが、石岡駅前通りは前年から用地買収などで道路拡張が決まっていたため、この天皇が大火見舞いと合わせて石岡にやってくるということで、約1か月前の10月に広い大通り(八間通り)の舗装が完成した。
そして名前も「御幸通り」と呼ばれるようになった。
焼け跡などは大急ぎで布で覆ったりしてあまり見せないようにしたらしい。
この時に昭和天皇が陸軍の演習の見た場所が今回紹介する「御野立所跡」である。

場所は石岡市とかすみがうら市との市境の小さな山で雪入りの山から続いて尾根の先端部で「権現山」である。
標高は99.5mと100mにも満たない。
しかし、登って見ると実に見晴らしが良い。
こんなに町が見えるとは思ってもいなかった。

今はここに御野立所の石碑が立つ。
なかなかこの場所に来る機会がなかったが麓の果樹園近くに車を停めて登った。
運動していないのですぐに息が切れてしまった。
まったくだらしない・・・・ でも思っていた以上に見晴らしがよくて驚いた。

この場所は御野立所の碑があるだけかと思っていたが意外に面白かった。
もう少し記事を明日に続けます。
今日はふるさと風の会会報の今年初めての印刷日で、今回で116号になった。
毎月1回発行していて、今年5月で120号=10年となる。
10年を記念して何かやろうとしているが、そうなればまた誰かに原稿をお願いしなければならない。
まだ今の6号国道は通っていない時であり、現在の街中を走る355号線が水戸街道のメイン通りであったが、この通り沿いの商家が出荷して北西側からの強風にあおられて多くの家が灰となった。
商都でもあった石岡の町は復興も早かったが、同じ年の11月に四万騎ヶ原から広がる草原などで陸軍の大演習を行うこととなり、そこを統括するために昭和天皇が来ることになった。
石岡の街はまだ焼け野原でてんやわんやであったが、石岡駅前通りは前年から用地買収などで道路拡張が決まっていたため、この天皇が大火見舞いと合わせて石岡にやってくるということで、約1か月前の10月に広い大通り(八間通り)の舗装が完成した。
そして名前も「御幸通り」と呼ばれるようになった。
焼け跡などは大急ぎで布で覆ったりしてあまり見せないようにしたらしい。
この時に昭和天皇が陸軍の演習の見た場所が今回紹介する「御野立所跡」である。

場所は石岡市とかすみがうら市との市境の小さな山で雪入りの山から続いて尾根の先端部で「権現山」である。
標高は99.5mと100mにも満たない。
しかし、登って見ると実に見晴らしが良い。
こんなに町が見えるとは思ってもいなかった。

今はここに御野立所の石碑が立つ。
なかなかこの場所に来る機会がなかったが麓の果樹園近くに車を停めて登った。
運動していないのですぐに息が切れてしまった。
まったくだらしない・・・・ でも思っていた以上に見晴らしがよくて驚いた。

この場所は御野立所の碑があるだけかと思っていたが意外に面白かった。
もう少し記事を明日に続けます。
今日はふるさと風の会会報の今年初めての印刷日で、今回で116号になった。
毎月1回発行していて、今年5月で120号=10年となる。
10年を記念して何かやろうとしているが、そうなればまた誰かに原稿をお願いしなければならない。
御野立所のある権現山には中世の城跡があった
昨日紹介した御野立所は初めて訪れたが、眺めの良い事と共に土塁が残され中世の城があった遺構が残されていた。
場所は志筑から百体磨崖仏のある閑居山(標高220m)の尾根続きの一番先端部(五輪堂側)で、山というより山の入口の少し鞍端と言った場所だ。
わざわざ山の名前をつけるまでもない三角点であるが、ここには名前の基となった権現様(熊野権現?)が祀られている。

御野立所の石碑の隣りに権現様の祠が置かれている。

この高台の見晴らし所(御野立所)からいったん下がってその先が山の頂点のようだ。

そこには明らかに城の土塁の跡と思われる人工的な遺構が残されていた。

こんなところにも城があったのかと今更ながら感心したり・・・・。
志筑城は志筑小学校が数年前まであった場所にあったが、この山の城は今まで聞いたことがなかった。
説明によれば鎌倉時代の茨城南部地頭であった益田氏が作った砦という説と、小田氏一門であった志筑左近が據った山城であるとの説があるという。
どちらにしてもかなり古そうだがこれだけ土塁の跡がまだ残っているのにも驚きである。


そしてこちら側の山の上にも「大元帥陛下御統監聖蹟」と彫られていた。

こちらは御野立所に続く登り道。(写真の右側が果樹研究所)

山の入口には果樹研究所の敷地が広がる。
場所は志筑から百体磨崖仏のある閑居山(標高220m)の尾根続きの一番先端部(五輪堂側)で、山というより山の入口の少し鞍端と言った場所だ。
わざわざ山の名前をつけるまでもない三角点であるが、ここには名前の基となった権現様(熊野権現?)が祀られている。

御野立所の石碑の隣りに権現様の祠が置かれている。

この高台の見晴らし所(御野立所)からいったん下がってその先が山の頂点のようだ。

そこには明らかに城の土塁の跡と思われる人工的な遺構が残されていた。

こんなところにも城があったのかと今更ながら感心したり・・・・。
志筑城は志筑小学校が数年前まであった場所にあったが、この山の城は今まで聞いたことがなかった。
説明によれば鎌倉時代の茨城南部地頭であった益田氏が作った砦という説と、小田氏一門であった志筑左近が據った山城であるとの説があるという。
どちらにしてもかなり古そうだがこれだけ土塁の跡がまだ残っているのにも驚きである。


そしてこちら側の山の上にも「大元帥陛下御統監聖蹟」と彫られていた。

こちらは御野立所に続く登り道。(写真の右側が果樹研究所)

山の入口には果樹研究所の敷地が広がる。