小原神社
きのう書いた笠間市(旧友部町)小原にある「小原神社」を訪ねました。

茨城の県名発祥の地。
なんて石岡の人が言うのもおかしいけど、やはりこちらが最初の茨城郡のはず。
茨城の県の魅力度連続最下位というので、どこが発祥の初めかなどどうでもよいけど・・・・
ちゃんと調べればわかるはず。



樹齢700年くらいの欅の木がごろごろある。
このコブは貫録がある。

茨城の県名発祥の地。
なんて石岡の人が言うのもおかしいけど、やはりこちらが最初の茨城郡のはず。
茨城の県の魅力度連続最下位というので、どこが発祥の初めかなどどうでもよいけど・・・・
ちゃんと調べればわかるはず。



樹齢700年くらいの欅の木がごろごろある。
このコブは貫録がある。
古代に夢をはせて(4)-(牛伏)舟塚古墳
有賀神社周辺の昔書いた記事を見直している。
このあたりの古代に夢をはせていたら何かが出てきそうだからである。
この大足(おおだら)地帯はダイダラボッチが住んでいたという伝説が残る。
大串貝塚はダイダラボッチが食べた貝が山となったと常陸風土記に書かれているのでこのダイダラボッチは大きな足だから「大足」に住んでいたという単純発想だが、当然大足(おおだら)はそんな意味ではないだろう。
ではどんなことが考えられるのだろうか?
ここにある「舟塚古墳」は3年ほど前に書いたがここでもう一度振り返ってみたい。
古墳の全長は約75mで6世紀頃のものと見られています。
石岡の舟塚山古墳(全長:186m)、玉里の舟塚山古墳(全長:84m)よりは小さいがかなりの規模だ。

今後、このあたりの記事をいくつか振り返ってみたい。
このあたりの古代に夢をはせていたら何かが出てきそうだからである。
この大足(おおだら)地帯はダイダラボッチが住んでいたという伝説が残る。
大串貝塚はダイダラボッチが食べた貝が山となったと常陸風土記に書かれているのでこのダイダラボッチは大きな足だから「大足」に住んでいたという単純発想だが、当然大足(おおだら)はそんな意味ではないだろう。
ではどんなことが考えられるのだろうか?
ここにある「舟塚古墳」は3年ほど前に書いたがここでもう一度振り返ってみたい。
古墳の全長は約75mで6世紀頃のものと見られています。
石岡の舟塚山古墳(全長:186m)、玉里の舟塚山古墳(全長:84m)よりは小さいがかなりの規模だ。

今後、このあたりの記事をいくつか振り返ってみたい。
古代に夢をはせて(5)-くれふしの里古墳公園
水戸の牛伏地区まわりをみながら気が付いたところをめぐっています。
これもかなり前に書いた記事を引っ張り出しています。
3年前の記事・・・・
公園内は落ち葉を燃やしていたため煙が漂っていました。
そこに日差しが・・・・。ちょっと幻想的でした。

古墳からはたくさんの埴輪なども出土しています。
この大きな前方後円墳は牛伏4号墳で、全長が72mです。6世紀後半の築造と推定されています。


味気のない4号墳などと古墳に名前がつけられているが、このあたりにいた豪族がかなりいたことを物語っている。
この古墳公園内には16基の古墳が点在している。
古墳も円墳が9基含まれる。
築造年代は4世紀末から6世紀末の約200年間と考えられている。
これは何を物語っているのだろうか?
いったいどんな人たちが生活していたのか?
公園内は落ち葉を燃やす煙が立ち込め、太陽の光も幻想的な模様を描いていました。
これもかなり前に書いた記事を引っ張り出しています。
3年前の記事・・・・
公園内は落ち葉を燃やしていたため煙が漂っていました。
そこに日差しが・・・・。ちょっと幻想的でした。

古墳からはたくさんの埴輪なども出土しています。
この大きな前方後円墳は牛伏4号墳で、全長が72mです。6世紀後半の築造と推定されています。


味気のない4号墳などと古墳に名前がつけられているが、このあたりにいた豪族がかなりいたことを物語っている。
この古墳公園内には16基の古墳が点在している。
古墳も円墳が9基含まれる。
築造年代は4世紀末から6世紀末の約200年間と考えられている。
これは何を物語っているのだろうか?
いったいどんな人たちが生活していたのか?
公園内は落ち葉を燃やす煙が立ち込め、太陽の光も幻想的な模様を描いていました。
古代に夢をはせて(5)-手子后神社
昨日書いた「くれふし古墳公園」に曲がる道を反対方向の東側に曲がってそのまま平地の道を進んで少し登り坂になった辺りの右側に手子后神社があります。(水戸市田島町)
さて、何故のこの神社を「古代に夢をはせて」に載せておきたくなったのかというと、何かこの神社を知るヒントになるのではないかと考えたのです。
手子后(てごさき)神社については前に記事にしています。
基本的には神栖市波崎の銚子大橋の入り口にある「手子后神社」がメインになる神社ですが、茨城県井次の5カ所があります。
・神栖市波崎
・石岡市中津川
・水戸市元石川町
・水戸市田島町
・城里町上圷
であり、すべて近くに古墳があります。
常陸国風土記に「童子女(うない)の松原」として出てくる話に登場する話しで
「那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女が、歌垣「嬥歌(かがい))」の集ひで二人は偶然出会い、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ語らい謳っていると、時のたつのを忘れ、気が付くと日がさしてきていた。二人は恥ずかしくなってその場で松に姿が変わってしまった。いらつこの松を奈美松、いらつめの松を古津松といふ。」
この手子后神社はこの二人「奈美松命と古津松命」を祀るのが基本なのですが、それぞれ少しづつ違っています。
これを紐解いていくと鹿島郡「香島郡(かしまのこおり)」が誕生した話に行きつくようです。
香島(鹿島)郡は大化5年(649年)に下海上国より「軽野」という土地と仲(那賀)国より「寒田(さむた)」といわれる土地をそれぞれ供出して新しい郡(こおり)が置かれたとなっています。
では最初に書いた神栖市波崎の手子后神社には、この神社は神護景雲年間(西暦767年)の創建で、祭神は手子比売命(てごひめのみこと)。鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。」と書かれています。
大神は鹿島の大神のことです。
こちらのくれふし古墳の里公園に近い手子后神社を見てみましょう。

祭神は手名椎命(てなづちのみこと)で、この神はヤマタノオロシ退治でてくる足名椎命(あしなづちのみこと)とこの手名椎命夫婦の娘がクシナダヒメのことです。
奈美松、古津松を祀ってはいません。
またこの神社だけが「宿魂石」を祀っているともいわれています。
宿魂石は大甕(おおみか)神社にありますが、この常陸の国に進出してきた建借間命(たけかしま)(那賀の初代国造になった)が退治できない強敵の「星神香香背男(ほしのかがせお)」を退治するために派遣された「建葉槌命」により大甕山でこの宿魂石で抑え込まれているということになります。
この建葉槌命は常陸国二宮である「静神社」に祀られています。
どうですか何か感じませんか?
詳しくは、前にまとめて書いた記事(こちら)を参照ください。
さて、何故のこの神社を「古代に夢をはせて」に載せておきたくなったのかというと、何かこの神社を知るヒントになるのではないかと考えたのです。
手子后(てごさき)神社については前に記事にしています。
基本的には神栖市波崎の銚子大橋の入り口にある「手子后神社」がメインになる神社ですが、茨城県井次の5カ所があります。
・神栖市波崎
・石岡市中津川
・水戸市元石川町
・水戸市田島町
・城里町上圷
であり、すべて近くに古墳があります。
常陸国風土記に「童子女(うない)の松原」として出てくる話に登場する話しで
「那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女が、歌垣「嬥歌(かがい))」の集ひで二人は偶然出会い、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ語らい謳っていると、時のたつのを忘れ、気が付くと日がさしてきていた。二人は恥ずかしくなってその場で松に姿が変わってしまった。いらつこの松を奈美松、いらつめの松を古津松といふ。」
この手子后神社はこの二人「奈美松命と古津松命」を祀るのが基本なのですが、それぞれ少しづつ違っています。
これを紐解いていくと鹿島郡「香島郡(かしまのこおり)」が誕生した話に行きつくようです。
香島(鹿島)郡は大化5年(649年)に下海上国より「軽野」という土地と仲(那賀)国より「寒田(さむた)」といわれる土地をそれぞれ供出して新しい郡(こおり)が置かれたとなっています。
では最初に書いた神栖市波崎の手子后神社には、この神社は神護景雲年間(西暦767年)の創建で、祭神は手子比売命(てごひめのみこと)。鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。」と書かれています。
大神は鹿島の大神のことです。
こちらのくれふし古墳の里公園に近い手子后神社を見てみましょう。

祭神は手名椎命(てなづちのみこと)で、この神はヤマタノオロシ退治でてくる足名椎命(あしなづちのみこと)とこの手名椎命夫婦の娘がクシナダヒメのことです。
奈美松、古津松を祀ってはいません。
またこの神社だけが「宿魂石」を祀っているともいわれています。
宿魂石は大甕(おおみか)神社にありますが、この常陸の国に進出してきた建借間命(たけかしま)(那賀の初代国造になった)が退治できない強敵の「星神香香背男(ほしのかがせお)」を退治するために派遣された「建葉槌命」により大甕山でこの宿魂石で抑え込まれているということになります。
この建葉槌命は常陸国二宮である「静神社」に祀られています。
どうですか何か感じませんか?
詳しくは、前にまとめて書いた記事(こちら)を参照ください。
古代に夢をはせて(6)-鹿の子から五万堀官道
石岡の鹿の子遺跡は常磐高速道路の工事の時に掘り返して発掘され、多くの住居跡や漆紙文書などが見つかり、地下の正倉院と呼ばれたりしています。
しかし、ここは蝦夷征伐のための武器供給の拠点でした。
見つかった文書などから奈良時代半ばから平安時代初期頃(西暦750年頃から900年頃)にここから東北に向けて多くの人も武器も送り出されたものと考えられます。
このため、現在の高速道路に沿うように広い官道(両端に溝を持つ)が真っ直ぐに水戸の台渡里(延喜式駅家では河内駅)まで続いていました。
この官道はその後廃れ、土で埋まり、一部は鎌倉時代にまた作られたりしたようです。

見つかった五万堀官道の発掘場所。
ここの場所は石岡からは石塚街道(県道52号線)で涸沼川を「仁古田」の橋を渡り、その先の十字路の信号を左折すると、常磐高速の友部サービスエリア(スマートインター併設)に出るが、この信号から南西方向に斜めに細い道が続いている。
道路の両側には側溝が掘られ、側溝中心間の幅で6~11mで、7世紀後半のものから10世紀にわたって数種類の道路が跡が見られた。幅の広い程時代が古いという。
鹿の子遺跡で見つかっている文書などから、武器工場はもっと古くできていたようなので、この官道は少し後に、いろいろな用途で作られたものなのだろう。
延喜式(927年完成)に書かれている駅家(うまや)の名前はこの先も東山道につながるように続いているので、かなりの人力を使って道を掘ったと思われます。
そののち、ここは五万堀などと呼ばれ、八幡太郎の軍勢が5万人集まったなどと話はそちらにばかり発展してしまいます。

今もたぶんこの官道が通ったであろう場所を掘れば官道跡が見つかるのではないかと思われます。
この記事ももう3年ほど前に書いたものと基本的には変わりません。
少し思い出しながら時代考証してみています。
しかし、ここは蝦夷征伐のための武器供給の拠点でした。
見つかった文書などから奈良時代半ばから平安時代初期頃(西暦750年頃から900年頃)にここから東北に向けて多くの人も武器も送り出されたものと考えられます。
このため、現在の高速道路に沿うように広い官道(両端に溝を持つ)が真っ直ぐに水戸の台渡里(延喜式駅家では河内駅)まで続いていました。
この官道はその後廃れ、土で埋まり、一部は鎌倉時代にまた作られたりしたようです。

見つかった五万堀官道の発掘場所。
ここの場所は石岡からは石塚街道(県道52号線)で涸沼川を「仁古田」の橋を渡り、その先の十字路の信号を左折すると、常磐高速の友部サービスエリア(スマートインター併設)に出るが、この信号から南西方向に斜めに細い道が続いている。
道路の両側には側溝が掘られ、側溝中心間の幅で6~11mで、7世紀後半のものから10世紀にわたって数種類の道路が跡が見られた。幅の広い程時代が古いという。
鹿の子遺跡で見つかっている文書などから、武器工場はもっと古くできていたようなので、この官道は少し後に、いろいろな用途で作られたものなのだろう。
延喜式(927年完成)に書かれている駅家(うまや)の名前はこの先も東山道につながるように続いているので、かなりの人力を使って道を掘ったと思われます。
そののち、ここは五万堀などと呼ばれ、八幡太郎の軍勢が5万人集まったなどと話はそちらにばかり発展してしまいます。

今もたぶんこの官道が通ったであろう場所を掘れば官道跡が見つかるのではないかと思われます。
この記事ももう3年ほど前に書いたものと基本的には変わりません。
少し思い出しながら時代考証してみています。
玉造城跡
戦国時代末期まで400年間行方地方で勢力を拡大した「行方四頭」(行方=小高、島崎、麻生、玉造)の四男の玉造氏の築いた城跡があると知って立ち寄った。
何度か前に来たことがある大山守をしていた「大塲家」屋敷の裏山がこの城山だった。

大塲家の脇の道を山の方に入っていくと土塁の跡などがよくわかる山になっているが、内部には入り込めない。

ぐるっと回ったところに説明看板が置かれていた。


これによればこの城が築かれたのは室町時代中期で、天正19年の南方33館が佐竹氏に一度に殺された年までの130年ほどだったようだ。
この時の玉造氏やその関連諸氏の手賀氏などが滅んだあと、この部下たちはこの時以降どうなったのか?
その一端を窺えるのがこの大塲(おおば)家の歴史である。
玉造氏が滅んだあと、ここには当然佐竹氏の支配下に置かれた。
しかし佐竹氏が秋田に転封となるとここは水戸藩の管理するところとなった。
水戸藩としては江戸への物流(水運)の拠点として、この地や小川などの霞ケ浦の港町を抑える必要があったものと思われる。
大塲家は玉造氏の家老を務めていた家柄だったようだが、水戸徳川家の支配になってからも、徳川の家臣になりこの地方の取りまとめを任されていたようだ。
大山守(水戸藩の所有する山などを管理する職、御留川守などとおなじ)としての職を任じられて、まわりの庄屋などを取りまとめて税(米など)なども一手にまとめていたようである。
このあたりはコメの石高も多かったようだ。
江戸時代は水戸藩の領地は小川、玉造地方と間に麻生藩を挟んで潮来地区などを管理していて、大山守の所轄範囲は結構広かったようである。


ところで前に来た時より大場家の前の駐車場などがかなり広くなり見学者用の設備もだいぶ良くなっていた。
調べてみると、「茨城県指定有形文化財大山守大場家郷士屋敷は平成24年3月11日、茨城県より公益 財団法人の認定を受け、公益財団法人大山守大場家保存協会が管理、運営することに なりました」と書かれていましたので、映画の撮影などにも利用されたりして、家屋の修理なども積極的にされたのでしょう。
何度か前に来たことがある大山守をしていた「大塲家」屋敷の裏山がこの城山だった。

大塲家の脇の道を山の方に入っていくと土塁の跡などがよくわかる山になっているが、内部には入り込めない。

ぐるっと回ったところに説明看板が置かれていた。


これによればこの城が築かれたのは室町時代中期で、天正19年の南方33館が佐竹氏に一度に殺された年までの130年ほどだったようだ。
この時の玉造氏やその関連諸氏の手賀氏などが滅んだあと、この部下たちはこの時以降どうなったのか?
その一端を窺えるのがこの大塲(おおば)家の歴史である。
玉造氏が滅んだあと、ここには当然佐竹氏の支配下に置かれた。
しかし佐竹氏が秋田に転封となるとここは水戸藩の管理するところとなった。
水戸藩としては江戸への物流(水運)の拠点として、この地や小川などの霞ケ浦の港町を抑える必要があったものと思われる。
大塲家は玉造氏の家老を務めていた家柄だったようだが、水戸徳川家の支配になってからも、徳川の家臣になりこの地方の取りまとめを任されていたようだ。
大山守(水戸藩の所有する山などを管理する職、御留川守などとおなじ)としての職を任じられて、まわりの庄屋などを取りまとめて税(米など)なども一手にまとめていたようである。
このあたりはコメの石高も多かったようだ。
江戸時代は水戸藩の領地は小川、玉造地方と間に麻生藩を挟んで潮来地区などを管理していて、大山守の所轄範囲は結構広かったようである。


ところで前に来た時より大場家の前の駐車場などがかなり広くなり見学者用の設備もだいぶ良くなっていた。
調べてみると、「茨城県指定有形文化財大山守大場家郷士屋敷は平成24年3月11日、茨城県より公益 財団法人の認定を受け、公益財団法人大山守大場家保存協会が管理、運営することに なりました」と書かれていましたので、映画の撮影などにも利用されたりして、家屋の修理なども積極的にされたのでしょう。
玉造郷校跡
昨日紹介した戦国時代まで玉造城があった山の一角に「玉造郷校」があったそうです。
水戸藩の郷校の中では最も遅くできたようです。
前にも潮来の延方郷校、潮来郷校、そして小川郷校などを紹介しました。

大山守をしていた「大塲家」屋敷の隣の裏山です。
屋敷の横の道を上るとすぐに右側に案内板があります。

少し奥に入るとすぐ「玉造郷校跡」の標識が置かれています。
少し空き地と隣には新しいお家もできています。

安政5年の開校というので、潮来郷校が前年(安政4年)1月の開校ですからそれよりも後です。
医学はなく教えるのは武術、砲術、講釈など。
多くが砲術の受講者だという。
ここに芹沢鴨や平間 重助もいたともいうが、潮来郷校でも名前が出てきたので良くわからない。

この場所が天狗党の玉造勢の終結場所になったようです。
そのために郷校は天狗党の乱のときに焼かれてしまいました。

この山を少し先に進むときれいな竹林があります。

そこに神社が置かれていました。
水戸藩の郷校の中では最も遅くできたようです。
前にも潮来の延方郷校、潮来郷校、そして小川郷校などを紹介しました。

大山守をしていた「大塲家」屋敷の隣の裏山です。
屋敷の横の道を上るとすぐに右側に案内板があります。

少し奥に入るとすぐ「玉造郷校跡」の標識が置かれています。
少し空き地と隣には新しいお家もできています。

安政5年の開校というので、潮来郷校が前年(安政4年)1月の開校ですからそれよりも後です。
医学はなく教えるのは武術、砲術、講釈など。
多くが砲術の受講者だという。
ここに芹沢鴨や平間 重助もいたともいうが、潮来郷校でも名前が出てきたので良くわからない。

この場所が天狗党の玉造勢の終結場所になったようです。
そのために郷校は天狗党の乱のときに焼かれてしまいました。

この山を少し先に進むときれいな竹林があります。

そこに神社が置かれていました。
鴨の宮
昨日の玉造郷校跡の見学の後に、道を間違えて北の方の細い道をくねくねと車で走っていました。
するとその通り沿いに「鴨の宮」と書かれた矢印看板を発見しました。

なにせこのあたり、ヤマトタケルの伝説も多い場所です。
近くに車を停めるスペースがないのですぐ先の広い通りに出て空いた場所に車を停めて歩いて戻ってきました。
この矢印看板から危なっかしいような階段を上って上に出ました。

上には畑とこんもりと茂った森があります。
この森の中に鴨の宮がありました。

ヤマトタケルが現原(あらはら)の丘で歩き回り、美しく連なる風景を眺めてまるで、この国を行細(なめくはし)と呼ぼうといったという行方の地名由来となった話の後に常陸国風土記では、
「この丘を下り、大益河(おほやがは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。」(口訳・常陸国風土記)
とここに「梶無川」の由来と共に「鴨野」の地名由来が書かれている。
このヤマトタケルが弓で射った鴨が地に落ちたとされる場所にお宮を建てて「鴨の宮」として祀っているのだ。

しかし、説明を読んでみると、この場所に鴨の宮ができたのは昭和50年だそうだ。
その前にあった場所は昨日紹介した玉造郷校跡から200mほど離れた山の端の方で、昭和2年に近くを鹿島鉄道が通ることになり、この敷地の山の一部が掘削されてしまい、その場所に「鴨の宮再建」という碑が立てられていたという。
今もこの碑はあるようだが、このままでは保存状態が悪いとこちらに昭和50年に移したという。
前の場所からは北に2kmくらい離れているが、ここも鴨野という地名が残る場所のようだ。

ヤマトタケルが弓で鴨を射っている姿をモニュメントとしたもの。
行方市のこの種のモニュメントは皆このような姿だが、昔のイメージを抱かせようという者とは思うが芸術的にみるともっと違った力強さがある現代的なものでもよいのではないかと思うのだが・・・・。

これが鴨の宮
ところで芹沢鴨の本名は今では「下村嗣次」であるとのいうのが定説のようである。
芹沢外記貞幹の三男の幼名を玄太であるというのは間違いのようである。
行方市では今でもこの芹沢家の旧家に「芹沢鴨誕生の地」と看板を掲げている。
この鴨の名前はこの鴨の宮にあやかったものという見方があるようだ。
まあいずれにせよこのあたりに来ていたことは確かだ。
玉造郷校から最初にあった鴨の宮は歩いてすぐ行ける場所だった。

このあたりも谷津が入り組んでいて場所がわかりずらい。
旧玉造駅側から、県道116号線を北の方に進み、玉造第一保育園の少し先を右に入ってすぐこの標識が見える。
するとその通り沿いに「鴨の宮」と書かれた矢印看板を発見しました。

なにせこのあたり、ヤマトタケルの伝説も多い場所です。
近くに車を停めるスペースがないのですぐ先の広い通りに出て空いた場所に車を停めて歩いて戻ってきました。
この矢印看板から危なっかしいような階段を上って上に出ました。

上には畑とこんもりと茂った森があります。
この森の中に鴨の宮がありました。

ヤマトタケルが現原(あらはら)の丘で歩き回り、美しく連なる風景を眺めてまるで、この国を行細(なめくはし)と呼ぼうといったという行方の地名由来となった話の後に常陸国風土記では、
「この丘を下り、大益河(おほやがは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。」(口訳・常陸国風土記)
とここに「梶無川」の由来と共に「鴨野」の地名由来が書かれている。
このヤマトタケルが弓で射った鴨が地に落ちたとされる場所にお宮を建てて「鴨の宮」として祀っているのだ。

しかし、説明を読んでみると、この場所に鴨の宮ができたのは昭和50年だそうだ。
その前にあった場所は昨日紹介した玉造郷校跡から200mほど離れた山の端の方で、昭和2年に近くを鹿島鉄道が通ることになり、この敷地の山の一部が掘削されてしまい、その場所に「鴨の宮再建」という碑が立てられていたという。
今もこの碑はあるようだが、このままでは保存状態が悪いとこちらに昭和50年に移したという。
前の場所からは北に2kmくらい離れているが、ここも鴨野という地名が残る場所のようだ。

ヤマトタケルが弓で鴨を射っている姿をモニュメントとしたもの。
行方市のこの種のモニュメントは皆このような姿だが、昔のイメージを抱かせようという者とは思うが芸術的にみるともっと違った力強さがある現代的なものでもよいのではないかと思うのだが・・・・。

これが鴨の宮
ところで芹沢鴨の本名は今では「下村嗣次」であるとのいうのが定説のようである。
芹沢外記貞幹の三男の幼名を玄太であるというのは間違いのようである。
行方市では今でもこの芹沢家の旧家に「芹沢鴨誕生の地」と看板を掲げている。
この鴨の名前はこの鴨の宮にあやかったものという見方があるようだ。
まあいずれにせよこのあたりに来ていたことは確かだ。
玉造郷校から最初にあった鴨の宮は歩いてすぐ行ける場所だった。

このあたりも谷津が入り組んでいて場所がわかりずらい。
旧玉造駅側から、県道116号線を北の方に進み、玉造第一保育園の少し先を右に入ってすぐこの標識が見える。
椎野池と夜刀神(常陸国風土記)
常陸国風土記に頭に角がある蛇が出てくるのだが、その夜刀神(やつのかみ)が祀られている場所に行ってみました。
常陸国風土記の行方郡のところに
「昔、石村(いはれ)の玉穂の宮に大八洲知ろし食しし天皇(継体天皇)の御世に、箭括(やはず)氏のまたちといふ人があって、郡家より西の谷(やつ)の葦原を開墾して、新田を治った。その時、夜刀(や つ)の神たちが群れをなして現れ出でて、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。(俗に、蛇のことを夜刀の神といふ。身の形は蛇であるが、頭に角がある。災ひを免れようとして逃げるときに、もしふり向いてその神の姿を見ようものなら、家は滅ぼされ、子孫は絶える。普段は郡家の傍らの野に群れかたまって住んでゐる。)
それを見かねたまたちは、鎧を着け矛を執り、立ち向かった。そして山の入り口の境の堀に標(しるし)の杖を立て、「ここより上の山を神の住みかとし、下の里を人の作れる田となすべく、今日から私は神司(かむづかさ)となって、子孫の代まで神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりのなきやう。」と夜刀の神に申し上げて、社を設けて、最初の祭を行った。以来またちの子孫は、今日に至るまで代々この祭を絶やすことなく引き継ぎ、新田も更に増え、十町あまりが開墾されてゐる。
後に、難波の長柄の豊崎の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、壬生連麿がこの谷を治めることになり、池の堤を築いた。そのとき、夜刀の神は、池のほとりの椎の木に登り群れて、なかなか去らなかった。麿は、声を挙げて「堤を築くのは民を活かすためでございます。天つ神か国つ神かわかり申さぬが、詔をお聞きください」といひ、さらに工事の民に、「目に見える動物、魚虫の類は、はばかり恐れることなく殺すべし」と言はうとしたときに、神蛇は逃げ隠れた。その池は、今は椎井の池と呼ばれる。池のまはりに椎の木があり、清水の出る井もあり、それを取って池の名とした。ここは香島への陸路の駅道である。」(口訳・常陸国風土記)
と書かれている椎が生い茂っている井戸のある場所で夜刀という蛇と人間の暮らす場所との境に祀られたという神社(愛宕神社)が玉造にある。
この角のある蛇を振り返ってみるとその家は滅びてしまうという。
蛇神信仰としても興味深い話である。

この湧水のある池の横に椎の木があって、ここに蛇が群がっていたのだろうか?
この場所は完全に谷津(やつ)と言って良いだろう。
谷津が夜刀(やつ)となったものだろうか?
ただ現地の看板では「夜刀神=やとのかみ」と読ませている。
イメージ的には「やと」ではなく「やつ」の方がすっきりくる。

池の横に小さなヤマトタケルの像が置かれていた。

そしてこの池の端の方で地下から絶えず水がわきだしている。
これが1500年も続いているだろうか?


さて、府中(石岡)から鹿島までの官道が近くを通っていたことがこの風土記に書かれているが、それがここより少し北側を走っている今の県道50号線(水戸神栖線)だというようなことが書かれている。
その駅家(うまや)がこの近くにあったのではないかと考えられていう。
やはり奈良時代の駅家の近くにはこのような湧水があることが必要条件だったように思う。
石岡(常陸国府)の駅家のそばにはいまは6号国道で埋められてしまったが、平景清が産湯をつかったという伝説がある「室ヶ井」があった。
びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ
というようにここも谷津に湧水があった場所で、つぶされるまでここもきれいな湧水が出ていたという。
常陸国風土記の行方郡のところに
「昔、石村(いはれ)の玉穂の宮に大八洲知ろし食しし天皇(継体天皇)の御世に、箭括(やはず)氏のまたちといふ人があって、郡家より西の谷(やつ)の葦原を開墾して、新田を治った。その時、夜刀(や つ)の神たちが群れをなして現れ出でて、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。(俗に、蛇のことを夜刀の神といふ。身の形は蛇であるが、頭に角がある。災ひを免れようとして逃げるときに、もしふり向いてその神の姿を見ようものなら、家は滅ぼされ、子孫は絶える。普段は郡家の傍らの野に群れかたまって住んでゐる。)
それを見かねたまたちは、鎧を着け矛を執り、立ち向かった。そして山の入り口の境の堀に標(しるし)の杖を立て、「ここより上の山を神の住みかとし、下の里を人の作れる田となすべく、今日から私は神司(かむづかさ)となって、子孫の代まで神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりのなきやう。」と夜刀の神に申し上げて、社を設けて、最初の祭を行った。以来またちの子孫は、今日に至るまで代々この祭を絶やすことなく引き継ぎ、新田も更に増え、十町あまりが開墾されてゐる。
後に、難波の長柄の豊崎の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、壬生連麿がこの谷を治めることになり、池の堤を築いた。そのとき、夜刀の神は、池のほとりの椎の木に登り群れて、なかなか去らなかった。麿は、声を挙げて「堤を築くのは民を活かすためでございます。天つ神か国つ神かわかり申さぬが、詔をお聞きください」といひ、さらに工事の民に、「目に見える動物、魚虫の類は、はばかり恐れることなく殺すべし」と言はうとしたときに、神蛇は逃げ隠れた。その池は、今は椎井の池と呼ばれる。池のまはりに椎の木があり、清水の出る井もあり、それを取って池の名とした。ここは香島への陸路の駅道である。」(口訳・常陸国風土記)
と書かれている椎が生い茂っている井戸のある場所で夜刀という蛇と人間の暮らす場所との境に祀られたという神社(愛宕神社)が玉造にある。
この角のある蛇を振り返ってみるとその家は滅びてしまうという。
蛇神信仰としても興味深い話である。

この湧水のある池の横に椎の木があって、ここに蛇が群がっていたのだろうか?
この場所は完全に谷津(やつ)と言って良いだろう。
谷津が夜刀(やつ)となったものだろうか?
ただ現地の看板では「夜刀神=やとのかみ」と読ませている。
イメージ的には「やと」ではなく「やつ」の方がすっきりくる。

池の横に小さなヤマトタケルの像が置かれていた。

そしてこの池の端の方で地下から絶えず水がわきだしている。
これが1500年も続いているだろうか?


さて、府中(石岡)から鹿島までの官道が近くを通っていたことがこの風土記に書かれているが、それがここより少し北側を走っている今の県道50号線(水戸神栖線)だというようなことが書かれている。
その駅家(うまや)がこの近くにあったのではないかと考えられていう。
やはり奈良時代の駅家の近くにはこのような湧水があることが必要条件だったように思う。
石岡(常陸国府)の駅家のそばにはいまは6号国道で埋められてしまったが、平景清が産湯をつかったという伝説がある「室ヶ井」があった。
びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ
というようにここも谷津に湧水があった場所で、つぶされるまでここもきれいな湧水が出ていたという。
椎野池と夜刀神 (2)
昨日書いた椎井と夜刀神の続きです。
昨日は風土記に出てくる頭に角を持つ蛇がたくさんいてこの井戸のまわりの椎の木に登っていた話をしました。
そしてここに社を建ててこの裏山は夜刀(蛇)の神の場所で、ここから南は人間たちが住む場所としたようです。
蛇神信仰はどのようなことから生まれてきたのでしょうか。
三輪山神話の話が広がっていたのでしょうが、蛇というものは日本もギリシャもユダヤ・キリスト教もそれほど変わらないのでしょうか。

この椎井池に行くには、上の地図の上(北)から道を下って池の横に駐車場がありますのでそこまで来るまでいけるのですが、私は知らないので、この地図の左側の道から進んでしまいました。

すると正面に鳥居が見えてきました。

近くには古い社が置かれ、

石地蔵が祀られ、

道祖神が置かれ、何かただならぬ場所に来たという印象。

しかし、車ではこの先に進めません。
鳥居からは山道を真っ直ぐに下っていきます。


車を停めるところがないのでだいぶ戻ってどうにか空き地に止めて歩いて戻ってきました。

真っ直ぐに下りたところに椎井の泉がありました。

池の脇から今度は神社まで上りです。
きっと車でこの池まで来て神社に登ってもきっと谷津のイメージは強く感じないかもしれません。
でもこのようにいったん下って上るとそのイメージは強く感じます。

階段を上ると上に「愛宕神社」の拝殿が見えてきます。

正面に神社の拝殿。そしてその右奥にもう一つ神社があります。

「夜刀神社」となっています。
夜刀は「やと」でもよいけど、やはり「やつ」と読む方が良いように思います。
昨日は風土記に出てくる頭に角を持つ蛇がたくさんいてこの井戸のまわりの椎の木に登っていた話をしました。
そしてここに社を建ててこの裏山は夜刀(蛇)の神の場所で、ここから南は人間たちが住む場所としたようです。
蛇神信仰はどのようなことから生まれてきたのでしょうか。
三輪山神話の話が広がっていたのでしょうが、蛇というものは日本もギリシャもユダヤ・キリスト教もそれほど変わらないのでしょうか。

この椎井池に行くには、上の地図の上(北)から道を下って池の横に駐車場がありますのでそこまで来るまでいけるのですが、私は知らないので、この地図の左側の道から進んでしまいました。

すると正面に鳥居が見えてきました。

近くには古い社が置かれ、

石地蔵が祀られ、

道祖神が置かれ、何かただならぬ場所に来たという印象。

しかし、車ではこの先に進めません。
鳥居からは山道を真っ直ぐに下っていきます。


車を停めるところがないのでだいぶ戻ってどうにか空き地に止めて歩いて戻ってきました。

真っ直ぐに下りたところに椎井の泉がありました。

池の脇から今度は神社まで上りです。
きっと車でこの池まで来て神社に登ってもきっと谷津のイメージは強く感じないかもしれません。
でもこのようにいったん下って上るとそのイメージは強く感じます。

階段を上ると上に「愛宕神社」の拝殿が見えてきます。

正面に神社の拝殿。そしてその右奥にもう一つ神社があります。

「夜刀神社」となっています。
夜刀は「やと」でもよいけど、やはり「やつ」と読む方が良いように思います。