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石船神社の里は新緑に包まれていた。

 今回城里町に行く気になったのは、午前中にひと仕事を終わらせ、3~4時間くらい時間があったので大きな石を信仰している延喜式式内社でもある「石船神社」の今の姿が急に見たくなったからだ。

場所は旧桂村の大山(阿波山上神社)から西に少し入った岩船地区の奥に鎮座している。

岩船(いわふね)地区にあるのだから石船も「いわふね」読むと思うのだが、どこにも「いしふね」と書かれている。

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あまり訪れる人は少ないが、なかなか新緑や紅葉時期は訪れる価値がある。

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小さな石の鳥居をくぐると参道沿いに川のせせらぎが聞こえてくる。

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そして大きな石にはしめ縄が巻かれたり、石の作で囲ってあったりする。
この石は八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」といわれている。

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そして川(岩船川)の向こう側に神社の建物が見えてくる。

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神社にはこの石の太鼓橋は、渡る人が少ないのか緑の苔で覆われていた。

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神社の拝殿の中には大きな鏡が置かれている。
御神鏡である。

この神社の祭神は「天鳥船命」である。
そのため船や航空関係の方の参拝が多いという。

天鳥船命(アメノトリフネノミコト)が祀られているところ(神社)は比較的に少ない。


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この石は船の形をしているので特別にあがめられているようだ。

でもこの神社の一番の特徴は神社のご神体がとても大きな石ということだろう。

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本殿はこの石を覆い隠しているのだが、大きすぎて隠しきれない。
石の名前は「兜石」という。

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前に2~3回訪れているがその時はこの石の上にたくさんの杉の葉や落ち葉、枯れ枝などが積まれて石は見えなかったが。今回訪れて覗いてみたらはっきり見えましたよ。

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この神社はあまり注目されませんが、私は好きな神社の一つです。
巨岩信仰は山ばかりとは限らないようです。

筑波山では麓に「飯名神社」があります。
また鉾田市大和田の「主石神社」は成長する石がご神体です。

こういうのも興味深い。
でもやはり新緑の頃はいいですね。
ここに来る途中も目を奪われる光景があちこちにみられました。


城里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/01 22:23

懐かしの壁面観音様にご挨拶

 城里町の石船神社を訪れた足でそのちかくにある「壁面観世音」を見ておくことにしました。
ここを訪れるのはもう5年ぶりくらいでしょうか?

徳一法師が一夜のうちに壁に彫ったという観音様。
しかし夜明けまでと願かけしたが、目を入れる前に一番鳥が鳴いてしまったために目がないという。

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場所は大山寺の前の道を真っ直ぐ西へ。
途中岩船神社への道が右に分かれるがそのまま直進。
突き当りで少し戸惑うが、車の矢印は左に「笠間」の案内があるが、ここは狭い右側に進む。
その先の崖の壁にこの観音様が彫られていいる。
車は適当に少し空いたところに停めて草の中を少し歩く。

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ボタン桜と新緑がきれいだ。
その先にお堂が見えてくる。
このお堂の裏のえぐられた穴の中に観音様が彫り込まれている。

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前に来た時に比べてお堂の建物は新しくなっているようだ。
また前には観音様の前にこの堂が建てられ、脇からは入れないように柵がしてあったが、今回はこの柵が無くなっていた。

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観音様を拝むには、このお堂の中から拝むのがルールらしい。
しかし今回はお堂と壁との隙間が十分ありこの間に入って正面から拝むことができた。


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これが徳一法師が彫ったという目が未完の観音様だ。
一番鳥が鳴いたのが悪いということで、このあたりでは鳥を飼わないといわれているようだが、いまもそうかな?

何しろこのあたり一帯は結構鳥が買われている。
もう少し北へ行った緒川は養鶏所が多いし、奥久慈卵でよく知られるようになった。

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平安時代からこの観音様が彫られていたのだろうか。
徳一法師は筑波山に中禅寺を建て、その後たくさんお寺を建てた。
会津に行く前にこのあたりにも来たのだろう。

あまり知られていないところだが、この時期はやはり美しい。
奈良の室生寺あたりに行かなくても気軽に楽しめる場所はたくさんある。
人が誰もいないのだからなおさらよい。

城里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/03 23:21

鹿島神社(城里町高久)と悪路王

 このブログも毎日更新していたのをやめて、比較的自由に書こうとしていたら、徐々に更新間隔が長くなってしまった。
1日おきくらいには書きたいと昨日も途中まで記事を書いていたが、書いていた記事が途中で消えてしまい書く気をなくしてしまいました。

それでも記事にアクセスしていただいている方が多くおられるので、記事を書き直してUPします。

今日で世の中はゴールデンウィークが終わるようで、また明日から街中もお年寄りばかりが目立つ静かな日々に戻ることでしょう。

今日は城里町高久にある鹿島神社を紹介します。
地図にも神社マークはあるものの、神社名も記されていない地図も多いあまり目立つ神社でもありません。

石岡と城里町石塚を結ぶ通称「石塚街道」(県道52号線)は石岡の鹿の子から水戸の台渡里を結んでいたと思われる古代官道(五万掘古道?)の近くを通る道でもある。

この道は石塚で終点だがそのまま進むと那珂川に沿った低地へ急激に下り、旧桂村の粟地方を通り、御前山方面に行く。

さて鹿島神社のある場所は、この崖下(圷:あくつ)へ降りてから左(西)へ行っても良いが、城里町役場手前から左に曲がる県道246号(錫高野石塚線)を進むとなだらかに下って、この神社の前に出る。

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鹿島神社の本殿彫刻は目を見張るものがある。
もう5年近く来ていなかったせいか、前に来たときは色が鮮やかであったが、今はだいぶ薄れてしまった。

それでもこの中国式の彫刻はひときわ目立つ。

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現地看板「 鹿島神社の創建は光仁天皇の御代、天応元年社殿を造り休塚明神と称す。本殿彫刻は、廃寺となった吉祥院のものといわれ、中国の故事が巧みに表現されており、その精巧さは近隣では極めて珍しい。作者は不明である。昭和50年5月日光の名工によって塗りかえられた」

この吉祥院がどこにあったものかよく知らない。

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鹿島神社が注目されるのはここに「悪路王」の首の彫刻が置かれていることである。
蝦夷の首領であったアテルイが悪路王と呼ばれていて同一人物と言われているのだが、この悪路王の彫刻は鹿島神宮(常陸国一宮)とこの高久鹿島神社の2か所である。

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鹿島神宮は宝物館に展示されており、首を酒に漬けこんで運んだとされる首桶と一緒に展示されている。
宝物館の説明には「坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(阿弖流為‐アテルイ)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの」とある。

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鹿島神宮の宝物館に比べればこちらの扱いはこの説明紙切れだけである。

また看板には「当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(782~806年)坂上田村麻呂が北征のおり、陸奥達谷窟でアテルイ(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。最初はミイラであったがこれを模型化したものといわれる。高さが50cmほどで形相物凄く優れた彫刻である。」と書かれている。
(残念ながら彫刻の現物はまだ見ていない)

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まあ歴史的には、現在は坂上田村麻呂が蝦夷を打ち破った時に投降した蝦夷の首領の「アテルイ」と「モレ」という2人の人物を都に連れて帰ったといわれている。
そして京都でこの2人は処刑され、清水寺にその碑が立てられている。

東北で打ち取られたこの首は誰のものだったのか?
悪路王とはアテルイだけではなくほかにもいたのか?

前に私がHPで京都で処刑されたアテルイの首は将門と同じように空を飛んで東北目指したがこの地に力尽きて落ちたのかもしれないと書いたが、解釈は好きにやっても良いだろう。

このような話が伝わることは、やはりこの道が昔の蝦夷征伐に通ったルートに近いのだろうという気がしている。

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城里 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/05/07 06:44

平重盛ゆかりの小松寺は新緑につつまれて

 平重盛の墓があるとされる城里町の小松寺を訪ねました。
ここも入口に大きなしだれ桜の木があり、数年前にも桜の時期に訪れました。

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重盛は平清盛の長子であったが、父清盛よりも先に死んでしまった。
そして高野山に葬られたという。

京都六波羅の小松に屋敷があり内大臣まで登りつめたので小松内大臣と呼ばれた。
源平合戦で都落ちとなった平家が九州を目指したが、これに反対した重盛の腹心「平貞能(さだよし)」は高野山に登り、重盛の遺骨を掘り出して土は加茂川に流し、その痕跡を消して、重盛夫人を伴って関東に逃れてきた。

史実はこのあたりでよくわからなくなるが、この小松寺にはこの重盛、貞能、夫人で尼となった得律禅尼の3名の墓がある。
(益子や仙台にも別な話が伝わっており、いくつかの説が残っています)

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紫の花はオオアラセイトウ(花ダイコン、ムラサキハナナ、諸葛菜)です。
何時ごろから咲きだしたのでしょうか。

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石楠花の花が咲いて・・・・

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建久5年(1194)に建立されたという観音堂。堂々としたきれいな建物です。

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この写真の奥の階段を上ると上の山の中腹に重盛公の墓があります。
今回は前に来ているし、時間もないので上るのはやめておきました。

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城里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/08 23:06

清音寺(古内茶発祥の地)

 城里町の錫高野に行った時にその奥(西側)の下古内地区にある古刹「清音禅寺」へ行ってみることにしました。
比較的近いと思っていましたが少し遠回りになってしまいました。

しかし古くから茶葉(古内茶)の栽培がおこなわれているこの地区も新緑場美しい山間にありました。

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寺の参道入り口に車を停めて歩いて中に入りました。
太古山 清音禅寺 と書かれています。

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案内板を読んでみると、
「禅宗」臨済宗南禅寺派の別格地。
前半は仁明帝の勅願寺、後半は復庵大光禅師の古禅林護国の海印座禅道場である。
<前半>
 草創、大同4年(809)弘法大師が草庵を構え、承和4年(837)真雅僧正が伽藍を建立して浄光寺と号し、仁明帝より東夷鎮護山の勅願を賜り壮大な寺構えであった。
その後、鎌倉幕府の源頼義、実朝が厚く崇敬したが、嘉禎3年(1237)罹災した。
<後半>
 創建、文和元年(1252)に常陸領主の佐竹義敦が父、貞義の追善の為に名僧、復庵大光禅師を招き開山とし、大伽藍を建立して宗を臨済宗に改め、独立本山として表題の山、寺号となり、関東屈指の林下修業道場となった。
・・・・・・・・・・・・・・
元禄の初め水戸光圀が当山の禅境を愛し徹伝、大忠両禅師と詩友として再度来山され名吟等を残し加護され、公の上申にて京都五山の上、南禅寺派に属した。
・・・・・・・・・・・・・・

かなり歴史的に面白いのだが、このような看板内容もやはり内容をもっと調べてみないとよくわかりません。
最近はこの先を調べるのにパワー不足を感じるこの頃です。

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少し長い参道を進むと、周囲の木々の緑がきれいです。

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参道は左に昔の山門が残されています。

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この山門が禅道場の入り口のようです。
これは中門でこの先に旧仁王門の礎石が残されていました。

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山門をくぐると正面に本堂と手前に茶畑が見えます。
本堂(方丈)の手前に昔は仏殿(法燈)があったようです。
禅僧の道場は本堂向かって右手にあったようです。

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本堂の左手に佐竹氏の墓所とこの建物(開山堂)がありますが、このあたりのも佐竹氏ゆかりのお堂や庵があったようです。

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この裏手の山側に少し入ったところに佐竹氏の宝篋印塔があります。
形から南北朝時代のものと考えられており、向かって右から佐竹貞義、復庵禅師、佐竹義敦の墳墓と言われています。

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本堂手前は茶畑と梅の木が植えられています。

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石楠花もきれいに咲いていました。

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江戸時代から茶を栽培してきたこの古内地方は古内茶の産地として有名なところだそうですが、徳川光圀がこの茶を愛でて詩を詠んだといわれていますが、その当時はこの清音寺の境内だけで栽培がされていたそうです。
「清音寺開山の復庵禅師が、中国から茶の実を持ち帰り、境内に蒔いた」と伝わっています。

今ではこの下古内地区で広く茶の栽培がおこなわれています。

佐竹氏の家系図を見てみると8代佐竹貞義の後は9代佐竹義篤(山入氏の兄)の名前が見えます。
この義篤がきっと義敦のことだと思います。
この佐竹義篤は、南北朝の争乱が勃発すると足利尊氏に味方し、常陸守護に任じられたとあります。


城里 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/05/11 09:54

銚子電鉄観音駅

 千葉県銚子駅から外川駅までの短い区間のローカル線(銚子鉄道)も一時経営不振で廃止寸前までいった。
これを救ったのが「ぬれ煎餅」の販売だったと昔新聞記事に書かれていたが・・・・

今回銚子に出かけて銚子駅の2つ先の「観音駅」の横を車で通った。

あまり駅舎がかわいいので車を停めて写真を撮ってきた。

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この駅舎も含めて、客を呼び込もうといろいろな施策が行われている。
駅名もネイミング(ネーミングライツ)を募集して広告収入につなげている。
これらの駅名はかなりユニークである。

例えば、
1)仲ノ町駅:パールショップともえ 仲ノ町駅
2)本銚子駅:ヒゲタ400年 玄蕃の里 本銚子駅
3)笠上黒生駅:髪毛黒生 笠上黒生駅
4)西海鹿島駅:三ツ星お米マイスター根本商店 西海鹿島駅
5)海鹿島駅:とっぱずれ 海鹿島駅
6)君ヶ浜駅:ロズウェル 君ヶ浜駅
7)犬吠駅:OTS犬吠埼温泉 犬吠駅
8)外川駅:ありがとう 外川駅

駅名の直接スポンサー名を入れていないものもそれぞれ応援のスポンサーがある。
日本のとっぱずれである銚子が話題になることも少ないのでこんな取り組みも紹介しておいてよいだろう。

観音駅は飯沼観音があることで知られるが、この駅名は変わっていない。(仲ノ町駅と本銚子駅の間にある駅)

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駅舎もかなりユニークでお伽の国の建物のようだ。

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この駅には40年前から駅舎入口で「たい焼き」を作って売られていた。
しかし施設が老朽化したということでたい焼き店は今年3月末で閉店となった。
(犬吠駅で今度は始めるらしい)

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銚子電鉄は全長で6.4kmしかないが駅は10カ所ある。
全部乗っても時間は20分ほどしかかからない。
見るところはたくさんあるし、温泉もあり、魚料理もうまいがなかなか見ていると人集めは大変そうだ。
私のように毎月数回訪れているがまだ知らないことは多い。

銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/14 13:20

香澄の里-天王崎

 行方市の旧麻生地区に天王崎という霞ケ浦に少し突き出した岬がある。

今は白帆の湯という温泉施設もあり、昔から市民に慕われた場所であった。
また昔は海水浴もできた。
麻生の街もそれなりに発達し、行方市の中心ではあるが、交通アクセスという点では、車でないとなかなか不便である。

この天王崎は今までにも何度も訪れており、夕日の美しさでは絶景ポイントだと思っている。

常陸風土記に書かれている香澄の里がどのあたりかと考えてみたが、やはりこの周辺なのであろうか。


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常陸国風土記の行方郡の章に次のように書かれている。
「郡家より南へ二十里のところに、香澄(かすみ)の里がある。
古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(い なみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」と侍臣におっしゃった。
この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。
里の東の山にある社には、榎、槻、椿、椎、竹、箭、やますげが多く繁る。
里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波(を つくは)の山が見えることから、名付けられた。
 香澄の里より南十里のところに、板来(いたく)の村がある。
近くの海辺の渡し場に駅家が置かれ、板来の駅家といふ。
その西は榎の林になってゐる。
飛鳥の浄御原の天皇(天武天皇)の御世に、麻績(をみ)の王(おほぎみ)が、都を追はれて住んだ場所である。
海には塩を焼く藻、海松、うば貝、辛螺、蛤などが多く住む。」
(口訳・常陸国風土記より)

常陸国風土記が編纂されたのは8世紀前半であるが、この景行天皇(ヤマトタケルの父)がこちらに来たのが何時ごろのこととかははっきりしないが、古墳の時期などからしても4世紀頃と考えるのが一般的だと思う。
でもこの頃は霞ケ浦も印旛沼も一体の大きな内海であったといわれている。

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まず風土記に書かれていることからこの香澄の里を想像してみたい。

行方郡の郡家は白雉4年(653年)に、茨城郡の8里と那珂郡の7里を割き、700戸を合わせて別けて行方とし、郡家は風土記には男高(小高)まで7里と書かれているので、現在の玉造街の夜刀神などのある場所に近いと考えられますがいまだはっきりしていません。
しかし男高まで7里、香澄の里まで20里ですから小高から13里、またそこから板来(潮来)まで10里ですから自然に場所は特定されてきます。

小高から潮来の中間より少し潮来よりとなると麻生というよりももう少し南東の永山あたり(牛堀の少し西)でしょうか。
現在この近くの山側に「かすみの郷公園」があります。

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しかし現在のイメージからするとこの霞ケ浦に突き出した「天王崎」あたりが北に筑波山を望む香澄の里という感覚に近いと思います。
この霞ケ浦も砂浜を復元しようと防砂ブロックを置いて、砂を敷き、涙ぐましい努力をしています。
霞ケ浦で海水浴ができたころはこの湖岸に水の中に滑り込む滑り台まであったようです。
上の写真で湖に飛び出すように白い土嚢のようなものを積んでいますが、これが防砂提です。
でも風の強い日はこのあたりもかなり波が高くなります。

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この岬のそばに「八坂神社」が建っています。
この神社も元々は牛頭天王を祀る「天王社」(寺院)でした。
天王崎の名前もおそらくこの天王社からつけられたものなのだと思います。

こちらの神社については前に書いた記事を参照ください。
「水郷麻生(茨城百景)」:記事は⇒ こちら

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さて、最初に引用した常陸風土記には「景行天皇が、下総の国の印波(い なみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られた」とあり、ここから香澄の里を眺めたとあります。
この鳥見(とりみ)の丘がどこかについてもいくつかの候補が上がっています。
一般的には北総線印旛日本医大駅の北側1kmほどにある「鳥見(とみ)神社」の丘であろう言われていますが、印西市小林の「鳥見(とみ)神社」も風土記の記述からすると可能性は高いようにも思えますし、少し東寄りの安食駅近くの栄町あたりも候補地です。

この頃はやはり香取の海(または「○○の流れ海」と呼ばれるおおきな内海で現在の霞ケ浦も利根川も印旛沼も皆つながっていましたので想像するのも大変そうです。
その手助けとなるのが海面を上昇させた地図で「FloodMaps」が良いと思います。

麻生 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/05/20 10:17

三味線で鴫を立たせる潮来かな

 潮来の浄土真宗の西円寺は遊女を弔った墓があることで知られますが、昔の歓楽街としての面影も少し残されています。
西円寺は長勝寺にも近いのですが訪れる人は少ないようです。

ここに面白い石碑が置かれています。

大きな石碑の上側に夏目漱石が書いた一茶の句が彫られています。

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「 三味線で鴫(しぎ)を立たせる潮来かな 漱石 」 (小林一茶の句)

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この句を絵に描いたのが小川芋銭で、それを石に彫った。

絵と書はこちらのサイトに載っています。 ⇒ こちら (芋銭研究)

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小林一茶も鹿島から潮来に来て船で銚子に行っている。
小川芋銭も銚子・海鹿島にある石岡・高浜の笹目氏の別荘に逗留していて、潮来とも縁は深そうだ。

では漱石は?

調べてみると、漱石は「潮来天地青」という書を書いており、その自分の書の額が小石川の内田百閒の家に飾られていたと書いている。
やはり潮来にも来ているようである。







潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/21 17:45

銚子ジオパーク展示場

 日本には日本ジオパークに認定された箇所が43か所あり、そのうちユネスコ世界ジオパークに認定されているところが8カ所あります。
ジオパークとは直訳すれば「地球地質遺産の公園」ということでしょうか。
筑波山地域が昨年日本ジオパークに登録され、その先輩でもある銚子のジオパークを少し調べていました。

銚子駅前通りにある「まちの駅銚子セレクト市場」内にこのジオパークを紹介するブースがあり、時々覗いたりしているのですがあまり中は見学者の姿も少ないようです。

ブースの半分が「銚子ジオパークビジターセンター 」という一般的な銚子のジオパークのパンフレットなどによる広報室、もう半分が千葉科学大学が運営?している「エクステンションセンター」という主に学生向けの説明場所となっています。

もう一つが2012年秋に青少年文化会館内を改装してオープンさせたジオパーク展示室です。
こちらでは毎週土曜日に講習会などが開かれているようです。

今回はこの展示室の見学をしてきました。

場所は飯沼観音の通りを南に進んだ前宿町の運動場・野球場などがある場所の一角です。

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これが青少年文化会館で、市民会館、児童文化センター、青年の家などの総合滴施設として建てられた。

ジオパークの展示室はこの正面の入り口を入ってすぐの場所にあります。

この建物の奥にはプラネタリウムまであるが、団体向け以外は、この星座の投影は土日しかやっていないようだ。
なかなか立派であるが、あまり活用されていないように見えた。
何かイベント(運動競技、コンサートなど)がある時以外は利用者はそれほど多きないのかもしれない。
もっともこの場所も地域の総合施設を集約したような役割を持たせたもので、外部から来た人間に積極的に開放している施設ではないようだ。


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青少年文化会館の中に入ると、左手に事務室とその奥にジオパーク推進室のような部屋があり、正面にこのジオパーク展示室があった。


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展示の内容は銚子の地層・地質の説明展示と、各地層で採取した岩石の展示、またその地層で見つかった化石類がたくさん展示してあった。
建物内部は少し薄暗かったが、このエリアは結構明るい照明であった。
ただ説明者は常時いるわけではなく、「質問があれば事務所に声をかけてください」というスタンスであった。
オープンスペースなので通路側などは人が結構通っているが、この展示場を見学している人は私だけだった。


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ここを訪れたかったのはこの大きなコハクが展示していると聞いてきたのですが、見てみると私には「こんなものなのか?」という程度であった。
やはりもっと理解を深めなければこの価値がわからないのかもしれない。

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まあ細かな説明は省きます。
銚子に東側の犬吠埼周辺はかなりいろいろな地層が表面に出てきています。

もっとも古いとされているのが「地球の丸く見える丘展望館」のある愛宕山周辺で、ジュラ紀(約2億年~1.5億年)のものと言われています。

また海岸沿いの「犬岩」や「千騎ケ岩」もジュラ期と推定されています。


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銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/25 12:51

残されていた赤レンガ塀(銚子市高田町)

 戦前の赤レンガの塀や建物、構造物などは今となっては懐かしい歴史遺産と知っても良いと思う。
このブログでもいくつか紹介しているが、今回は先日車で通りを走っていて見かけた赤レンガ塀を紹介します。

場所は利根川沿いの国道356号(利根水郷ライン)の利根かもめ大橋の少し銚子市街よりの旧道沿いです。

銚子に行くときは神栖市波崎から銚子大橋を渡ることが最近は多いのですが、今回は利根川と常陸利根川のところにある水門にかかる常陸川大橋、利根川大橋を渡って国道356号線を東に向かいました。

またもう一つ東にある利根かもめ大橋もありますが、こちらは有料なのでほとんど通りません。
またいつもはこの利根かもめ大橋のところで川沿いの堤防沿いの道があってこちらを通ることが多いので旧道はほとんど通りません。

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車で通り過ぎてから引き返して写真を撮影しました。
当然このような建物は醤油などの醸造工場があったのではないかと調べてみました。

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現在こちらの建物はあまり使われていないようですが、隣の敷地と繋がっているようです。

地図で見ると隣の敷地は「富士正食品」の本社工場となっているようです。

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そこでこの富士正食品を調べてみます。
明治44年に個人(宮崎氏)で醤油味噌醸造として創業し、昭和17年に宮崎醤油(株)として会社設立。
その後昭和39年に「ピーナツミソ」の開発に成功して、社名も「富士正(ふじしょう)食品(株)」に変えて現在もこの自然派食品としてピーナツミソや佃煮、ゼリー製品を中心に多古町にも工場(成田工場)を建てて大きく発展しているようです。

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レンガ塀の脇には「昭和丗三年八月」(昭和33年8月)となっていました。
しかしこのレンガ造りは関東大震災前だと思いますので大正時代のものではないかと思います。

赤レンガ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/28 11:13
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