銚子と河童(3)
銚子は港町で海の魚がほとんどだが、利根川の河口にできた町でもある。
そこに親子カッパの話があり、その話の元になった回船問屋「モリゴン」さんの家柄から奥さんをもらった大新旅館の大内さんが、新婚旅行で買ったカッパの土産から全国の河童の置物や絵画などいろいろなものを数千点集めたという。
河童は海にすむ生き物とではないだろうし、どちらかというと山側の川や池、沼などに棲むと考えられている。
茨城県牛久生まれの画家小川芋銭(うせん)はこんな河童の絵をかいて河童の芋銭といわれている。
牛久沼の近くに記念館があり、茨城に住んでいる私のところには、この芋銭が牛久以外にあまり地方に出かけた話は聞こえてこない。
しかし、月に数度訪れている銚子に来ると銚子生まれの国木田独歩などと並んで小川芋銭も有名人のようだ。

銚子市海鹿島(あしかじま)の海岸に立つ大きな天然岩に芋銭の句が大きく彫り込まれている。

小川芋銭の句である。
「銚子灘朝暾(ちょうとん)
大海を 飛びいづる如と 初日の出 」
小川芋銭がこの近くの篠目氏が所有していた別荘に何度か滞在した。
最初に来たのは大正12年3月から数か月滞在したという。
それは芋銭の画家としての才能にほれ込んだ高浜(石岡市)の豪商(回船問屋)篠目八郎兵衛氏が自身が所有していた海鹿島にある別荘を提供したのである。
芋銭はこの別荘が気に入り、翌年の大正13年にもここを訪れ、この別荘を「潮光庵」と名づけた。
その後も昭和4年、5年、7年とやってきて、8年に来ていたときの年末に皇太子の誕生のニュースが流れた。
そして翌年正月?にこの句が詠まれたという。

この岩は海岸沿いにある小山にセリ立つように聳えている。
岩の近くに寄ることはできるが、眼下には岩に飛び散る波の飛沫を感じるので、高所恐怖症の方は遠慮した方が良いかもしれない。
結構迫力があります。




銚子もこうして石岡や牛久ともつながっていると思うと愉快になります。
銚子の奇岩や文学碑散歩なども楽しいことでしょう。
そこに親子カッパの話があり、その話の元になった回船問屋「モリゴン」さんの家柄から奥さんをもらった大新旅館の大内さんが、新婚旅行で買ったカッパの土産から全国の河童の置物や絵画などいろいろなものを数千点集めたという。
河童は海にすむ生き物とではないだろうし、どちらかというと山側の川や池、沼などに棲むと考えられている。
茨城県牛久生まれの画家小川芋銭(うせん)はこんな河童の絵をかいて河童の芋銭といわれている。
牛久沼の近くに記念館があり、茨城に住んでいる私のところには、この芋銭が牛久以外にあまり地方に出かけた話は聞こえてこない。
しかし、月に数度訪れている銚子に来ると銚子生まれの国木田独歩などと並んで小川芋銭も有名人のようだ。

銚子市海鹿島(あしかじま)の海岸に立つ大きな天然岩に芋銭の句が大きく彫り込まれている。

小川芋銭の句である。
「銚子灘朝暾(ちょうとん)
大海を 飛びいづる如と 初日の出 」
小川芋銭がこの近くの篠目氏が所有していた別荘に何度か滞在した。
最初に来たのは大正12年3月から数か月滞在したという。
それは芋銭の画家としての才能にほれ込んだ高浜(石岡市)の豪商(回船問屋)篠目八郎兵衛氏が自身が所有していた海鹿島にある別荘を提供したのである。
芋銭はこの別荘が気に入り、翌年の大正13年にもここを訪れ、この別荘を「潮光庵」と名づけた。
その後も昭和4年、5年、7年とやってきて、8年に来ていたときの年末に皇太子の誕生のニュースが流れた。
そして翌年正月?にこの句が詠まれたという。

この岩は海岸沿いにある小山にセリ立つように聳えている。
岩の近くに寄ることはできるが、眼下には岩に飛び散る波の飛沫を感じるので、高所恐怖症の方は遠慮した方が良いかもしれない。
結構迫力があります。




銚子もこうして石岡や牛久ともつながっていると思うと愉快になります。
銚子の奇岩や文学碑散歩なども楽しいことでしょう。
空也がいた。
日曜日に「旅-ぶら」という企画に初参加させていただいた。
昔は旅-Cafeとして活動されていたそうだ。
それがこの企画をされているYさんが私のところに来られてFBのお友達となった。
どうもこのブログを時々読んでいてくれたようだ。
私も面白そうな企画が多いのでその報告などを読んで楽しんでいたのだが、今回かすみがうら市の旧出島地区の空也堂を取り上げた企画が私の心をつかんでしまったのだ。
もう5年ほど前にこの出島地区を30~40回にわたって出島散歩としてまとめたことがある。
この地区に興味を持たれる方は実は少ない。
私が歩き回って書いた記事もその後ほとんど見向きもされない。
明治になり鉄道が走るようになって都市部から見るこのあたりのイメージがきっと変わってしまったのだろう。
霞ケ浦にたくさんの高瀬舟が浮かんでいたとき、またそのもっと前の時代にこのあたりはきっと豊かな場所だったに違いない。
映画「米」などではまずしい地区として描かれているが、今回の旅を通じてそれは間違いだということに気が付いた。
ここに暮らす人たちはみな心も皆驚くほど優しく豊かであった。
私がこのブログを書くきっかけになったのは、石岡が常陸国国府で、古代の東海道がこのあたりも通っていたかもしれないとその痕跡を探し始めたことでもあった。
いくらそのようなことを書いても自己満足にしかならないかもしれないのだが・・・・。
それが私の脳裏には、今回の旅で美浦村から出島に渡った牛の話と宍倉にあるこの空也堂がつながってきた。
空也上人などという人は名前は聞いたことがあるが、痕跡は会津と京都だけであまり伝わっていないのでまったくと言って知識がない。
阿弥陀聖だとか念仏踊りだとか、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるだとか・・・・話には時々聴くがほとんど実態は理解していない。
法然は室町時代から鎌倉時代にかけての思想だし、親鸞も法然を師として教えを受けていた。
さて、こ空也上人はそれより150年ほど前。将門の時代と重なる。
念仏を唱え浄土教の祖とも言われるという。
それが空也の残したものとして有名な京都六波羅蜜寺と会津の八葉寺と並んで日本三空也といわれるものがこんなひっそりとして隠されたようにここかすみがうら市宍倉にある「空也堂」であり、空也の墓もあるとも・・・。
何故?
旅-ぶらの当日いただいた資料にかなり詳しく書かれていたがやはり私には理解できなかった。
でも普段公開されることがない空也堂の空也像が今回みられるという。
もうこれだけで今回の企画に参加する価値がある。
ここには5年ほど前に一人できて、周辺を歩き回った。
「空也堂」「堂山千手観音堂(公民館)」「福蔵寺」「宍倉城跡」など。
その時にこの地に不思議な空気が流れていることを感じていた。
通り沿いにポツンとあり周りに塀もない「福蔵寺」にはたくさんの四国八十八カ所の石塔が置かれていた。
(その時の記事は ⇒ こちら)
そしてこの地区で、毎年1月17日にお寺にある「大般若経」を持って各家庭を周り、お札を配り、お礼にお米を奉納したという話を書いた(今はお米ではなく現金)。
どこかこの部落全体が信仰心が強いという気がしたのである。
さて、今回この空也堂を開けて見せていただけることになった。

これが空也像。
東日本大震災で空也上人の口からでていた阿弥陀三尊像が取れてしまったという。

この阿弥陀三尊像が口のところについていたのだという。
六波羅蜜寺の空也像は写真で見たことはあるが、南無阿弥陀仏と唱えていたということで6体の像が口から飛び出す象で知られます。
こちらは阿弥陀の三尊です。
阿弥陀経が浄土宗や浄土真宗にならずに浄土教としてここでは空也が祀られて1000年以上も続いてきたのでしょうか?

この空也像は片目をつむっているように見えます。
また上を向いたその様子は六波羅蜜寺のものと似ています。
近寄ってそのお顔を見るとなんともやさいいお顔です。

右手の杖も折れてしまったのでしょうか?
鹿の角がついていたのでしょうか?


阿弥陀三尊の絵も残されています。


また古いいわれを書いた巻物も・・・。

空也上人縁起

鹿の角も一対。
これは空也上人の杖に鹿の角をつけていたということでしょうか。
ここの地名である「宍倉(ししくら)」もかなり古い地名で新治郡宍倉邑がシシクラの名前のルーツとなり千葉県などにたくさん広がったようです。
この地に伝わる名前の由来は鹿を埋葬した塚を鹿蔵(ししくら)と言っていたものが宍倉となったのだという。
そしてこの地に小田氏の重要家臣菅谷(すがのや)氏が住み着いて浄土教を信仰したということのように思います。

宍倉城の城主だった菅谷氏は中世に一大勢力を誇った小田氏の重要家臣の一人で、この宍倉に入ったのは1451年?ころのようです。
小田氏は鎌倉幕府の御家人として力を発揮していましたが、たしか善光寺を信仰していたと思っていました。
新善光寺の小田氏にかかわる寺などがたくさんあります。
でも律宗の僧「忍性」が小田氏のもとで筑波山 宝篋山の麓に極楽寺という大きな寺を建てたといわれ、これが13世紀末頃でしょうか。
でもこの地ではこの空也が信仰されてきたのでしょう。
古代の東海道がこのあたりを通っていたとしても何の不思議もありません。
この空也堂の真南が牛渡になります。
そしてここから小舟に乗って菱木川を上り、笄崎あたりまで舟で行って、三村の方から恋瀬川を渡って国府石岡に向かっていたというルートが見えてきます。
石岡は鹿の子遺跡から水戸の台渡里までの古道も八幡太郎の伝説と重なって伝えられています。

美浦村に伝わる八幡太郎の伝説はやはり長者の屋敷に火をつけて燃やしてしまう話でした。
これはこの台渡里長者の話とそっくりです。
同じような話があちこちにあるのはどうしてなのでしょうね。
鎌倉時代の「いざ鎌倉」の昔読んだ歴史絵本が思い浮かぶのもまたどうしてなのか。
今回かすみがうら歴史博物館で、伊藤幾久造の絵の展示会が開かれていた。
これまた素晴らしかった。
昔の歴史絵本などの表紙絵などもたくさん手がけていたようだ。
懐かしかった。
しかし日本が、美人画などはこれまた素晴らしい。
こちらがもう少し評価されても良いと感じた。
また少しずつ調べていきたい。

私がまとめた本ももう少し調べて書き換えることも必要かもしれない。
昔は旅-Cafeとして活動されていたそうだ。
それがこの企画をされているYさんが私のところに来られてFBのお友達となった。
どうもこのブログを時々読んでいてくれたようだ。
私も面白そうな企画が多いのでその報告などを読んで楽しんでいたのだが、今回かすみがうら市の旧出島地区の空也堂を取り上げた企画が私の心をつかんでしまったのだ。
もう5年ほど前にこの出島地区を30~40回にわたって出島散歩としてまとめたことがある。
この地区に興味を持たれる方は実は少ない。
私が歩き回って書いた記事もその後ほとんど見向きもされない。
明治になり鉄道が走るようになって都市部から見るこのあたりのイメージがきっと変わってしまったのだろう。
霞ケ浦にたくさんの高瀬舟が浮かんでいたとき、またそのもっと前の時代にこのあたりはきっと豊かな場所だったに違いない。
映画「米」などではまずしい地区として描かれているが、今回の旅を通じてそれは間違いだということに気が付いた。
ここに暮らす人たちはみな心も皆驚くほど優しく豊かであった。
私がこのブログを書くきっかけになったのは、石岡が常陸国国府で、古代の東海道がこのあたりも通っていたかもしれないとその痕跡を探し始めたことでもあった。
いくらそのようなことを書いても自己満足にしかならないかもしれないのだが・・・・。
それが私の脳裏には、今回の旅で美浦村から出島に渡った牛の話と宍倉にあるこの空也堂がつながってきた。
空也上人などという人は名前は聞いたことがあるが、痕跡は会津と京都だけであまり伝わっていないのでまったくと言って知識がない。
阿弥陀聖だとか念仏踊りだとか、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるだとか・・・・話には時々聴くがほとんど実態は理解していない。
法然は室町時代から鎌倉時代にかけての思想だし、親鸞も法然を師として教えを受けていた。
さて、こ空也上人はそれより150年ほど前。将門の時代と重なる。
念仏を唱え浄土教の祖とも言われるという。
それが空也の残したものとして有名な京都六波羅蜜寺と会津の八葉寺と並んで日本三空也といわれるものがこんなひっそりとして隠されたようにここかすみがうら市宍倉にある「空也堂」であり、空也の墓もあるとも・・・。
何故?
旅-ぶらの当日いただいた資料にかなり詳しく書かれていたがやはり私には理解できなかった。
でも普段公開されることがない空也堂の空也像が今回みられるという。
もうこれだけで今回の企画に参加する価値がある。
ここには5年ほど前に一人できて、周辺を歩き回った。
「空也堂」「堂山千手観音堂(公民館)」「福蔵寺」「宍倉城跡」など。
その時にこの地に不思議な空気が流れていることを感じていた。
通り沿いにポツンとあり周りに塀もない「福蔵寺」にはたくさんの四国八十八カ所の石塔が置かれていた。
(その時の記事は ⇒ こちら)
そしてこの地区で、毎年1月17日にお寺にある「大般若経」を持って各家庭を周り、お札を配り、お礼にお米を奉納したという話を書いた(今はお米ではなく現金)。
どこかこの部落全体が信仰心が強いという気がしたのである。
さて、今回この空也堂を開けて見せていただけることになった。

これが空也像。
東日本大震災で空也上人の口からでていた阿弥陀三尊像が取れてしまったという。

この阿弥陀三尊像が口のところについていたのだという。
六波羅蜜寺の空也像は写真で見たことはあるが、南無阿弥陀仏と唱えていたということで6体の像が口から飛び出す象で知られます。
こちらは阿弥陀の三尊です。
阿弥陀経が浄土宗や浄土真宗にならずに浄土教としてここでは空也が祀られて1000年以上も続いてきたのでしょうか?

この空也像は片目をつむっているように見えます。
また上を向いたその様子は六波羅蜜寺のものと似ています。
近寄ってそのお顔を見るとなんともやさいいお顔です。

右手の杖も折れてしまったのでしょうか?
鹿の角がついていたのでしょうか?


阿弥陀三尊の絵も残されています。


また古いいわれを書いた巻物も・・・。

空也上人縁起

鹿の角も一対。
これは空也上人の杖に鹿の角をつけていたということでしょうか。
ここの地名である「宍倉(ししくら)」もかなり古い地名で新治郡宍倉邑がシシクラの名前のルーツとなり千葉県などにたくさん広がったようです。
この地に伝わる名前の由来は鹿を埋葬した塚を鹿蔵(ししくら)と言っていたものが宍倉となったのだという。
そしてこの地に小田氏の重要家臣菅谷(すがのや)氏が住み着いて浄土教を信仰したということのように思います。

宍倉城の城主だった菅谷氏は中世に一大勢力を誇った小田氏の重要家臣の一人で、この宍倉に入ったのは1451年?ころのようです。
小田氏は鎌倉幕府の御家人として力を発揮していましたが、たしか善光寺を信仰していたと思っていました。
新善光寺の小田氏にかかわる寺などがたくさんあります。
でも律宗の僧「忍性」が小田氏のもとで筑波山 宝篋山の麓に極楽寺という大きな寺を建てたといわれ、これが13世紀末頃でしょうか。
でもこの地ではこの空也が信仰されてきたのでしょう。
古代の東海道がこのあたりを通っていたとしても何の不思議もありません。
この空也堂の真南が牛渡になります。
そしてここから小舟に乗って菱木川を上り、笄崎あたりまで舟で行って、三村の方から恋瀬川を渡って国府石岡に向かっていたというルートが見えてきます。
石岡は鹿の子遺跡から水戸の台渡里までの古道も八幡太郎の伝説と重なって伝えられています。

美浦村に伝わる八幡太郎の伝説はやはり長者の屋敷に火をつけて燃やしてしまう話でした。
これはこの台渡里長者の話とそっくりです。
同じような話があちこちにあるのはどうしてなのでしょうね。
鎌倉時代の「いざ鎌倉」の昔読んだ歴史絵本が思い浮かぶのもまたどうしてなのか。
今回かすみがうら歴史博物館で、伊藤幾久造の絵の展示会が開かれていた。
これまた素晴らしかった。
昔の歴史絵本などの表紙絵などもたくさん手がけていたようだ。
懐かしかった。
しかし日本が、美人画などはこれまた素晴らしい。
こちらがもう少し評価されても良いと感じた。
また少しずつ調べていきたい。

私がまとめた本ももう少し調べて書き換えることも必要かもしれない。
六所神社(銚子市諸持町)
毎日ブログを更新していたのが途切れるとやはりブログを書く手が進まなくなる。
今は週に2回くらいの更新ペースに落ちてしまった。
しかしブログ以外にFBだけでの情報発信もしているので毎日とはいかないがそれでも2日に1回くらいの更新ペースは維持していると思う。
このブログのほかにグルメ記事などの別冊もあるのでやはりまだまだ忙しく書いていることになろう。
来月(8月)でブログ開設して7年になる。
どこまで続けられるかはわからないがまだまだ知らないことがたくさんある。
今日はもう1か月くらい前に銚子に出かけたとき途中で立ち寄った神社を紹介しましょう。
もう数年前から香取から銚子のほうまでかなり回り、いろいろ調べてきたが、どうも見落としていることがまだだいぶありそうだ。
今回は佐原の町から利根川に沿って利根水郷ラインで銚子の町に向かうと、途中で東庄町(とうのしょうまち)を通る。
小見川町が佐原と合併して香取市になったが、この東庄町は比較的小さいが香取市にも銚子市にも入らずに単独で残った。
私はただ途中の通過地点としかとらえておらず、通り沿いにある「わが町には相撲がある」とか「天保水滸伝」の看板や旗につられて笹川繁蔵の旧跡や諏訪大神などを見物してこの街を知った気になっていた。
しかしどうもこれだけではないようだ。
もう少し調べてみなければならない気がしているのだ。
私は常陸国の旧国府・石岡に住んでいるので、大昔に都からどこを通って常陸や陸奥国に人々は向ったのだろうかという思いが、どこを見学しても脳裏から離れない。
そして本州の太平洋側の黒潮にのって船で九十九里浜あたりに上陸して栗山川をさかのぼり、多古町を通り、そこから鹿島のほうにわたるにはきっとこの東庄町を通ったに違いないと考えるようになった。
常陸国にいてはこんな考え方はできない。
下総国にわたってみて初めてのその考えが浮かんでくる。
東庄(とうのしょう)という名前だけで、昔荘園があったのでこの名前となったのだろうと漠然と考えていたが、東氏(とうし)の存在をどうも小さく見すぎていたようだ。
この東氏が鎌倉幕府設立時に活躍した千葉常胤の六男である胤頼(たねより)がこの地に住んで、この地にある東大社(とうたいしゃ)の宮司を兼ねて東氏(とうし)を名乗ったことからこの地が栄えたようだ。
そしてこの東氏が勢力を拡大し、美濃にも領地を得ていたことは今まで知らなかった。
先日この美濃の郡上八幡との交流会の方からブログにコメントを頂き、初めて気が付いた。
たしかに今までも、須賀山城も見学したし、ふもとの寺も見た。
また東大社も見学したが、郡上八幡との関係には気が付かなかったのだ。
また藤原定家に和歌を学び、美濃東氏にも歌人としても引き継がれ、文武両方で活躍しているという。
これはきっとどこかで読んで目にはしていたと思うが、ただ単に目にしていただけでその関係には思いが至らなかったせいだと思う。
これはもう少し調べたほうがよさそうに思う。
また機会があったら書いてみたいと思うが、今日はもう少し小さな、それも現在は銚子市に組み込まれた「諸持町」という少し高台にある「六所神社」を紹介しておきたい。
諸持町は今や銚子市ながら東庄町にかなり関係が深そうに感じた。

今回は利根水郷ライン(国道356)を東庄町(笹川)を過ぎて銚子市に入るすぐ手前に成田線「下総橘駅」を少し過ぎたところから右に入平行に走る旧道を通ってみました。
この道を通ったのは、次の下総豊里駅前の食堂(平兵衛屋 ) に立ち寄るためだったのだが・・・・。
するとこの道の途中から右の山のほうに上っていく道の入口に気になる看板が目に入った。
「東大社参道」「みゆき坂」と彫られた石標です。

何故こんなところに隣町の東大社の参道が?
地図を確認してみるとここは前に紹介した桜井公園の脇にあった利根川に面して建てられた鳥居のところと繋がっているようです。
(前の記事「桜井浜鳥居」記事は ⇒ こちら)
この時に書いた「東大社も含め三つの神社の間で20年に1度の銚子大神幸祭が行われており、900年以上続く祭りとされていて、20年に1度は銚子の外川まで巡行する」という記事がつながっているようです。
するとこの道が東大社につががっているのだと思い、少し車で走ってみることにしました。

道は坂道を上りだいぶ高度を上げていきます。
そして上に出ると広い畑が広がって、その中を道は進みます。
車ですからそれほど急坂には感じませんでしたが、眺めが良いのでかなり高度を稼いだことがわかります。
でもこの先は一般道などとも交わってくるようで、東大社まではまだ結構距離があるようでした。
ということでこのあたりで引き返そうとしたときに、この神社を発見しました。

神社の隣には「銚子市諸持町農村共同館」という建物が建っています。
街の高台に昔から建つ神社のようですが社務所などはなく常駐する宮司などはいないようです。
六所神社ですから総社的な要素を持つ神社だと思いますが、詳しいことはわかりません。
地元では「六所大神」と書いているようです。

この近くでは今までに菅原大神(記事:こちら)、諏訪大神(小堀:記事は こちら)などを見てきましたが、すべて利根河沿いの比較的低地に建っているところばかりでした。

歴史的にどのような流れがあったのかはよくわかりませんが、記事も残す価値があると考えてとりあえずUPしておきましょう。





今は週に2回くらいの更新ペースに落ちてしまった。
しかしブログ以外にFBだけでの情報発信もしているので毎日とはいかないがそれでも2日に1回くらいの更新ペースは維持していると思う。
このブログのほかにグルメ記事などの別冊もあるのでやはりまだまだ忙しく書いていることになろう。
来月(8月)でブログ開設して7年になる。
どこまで続けられるかはわからないがまだまだ知らないことがたくさんある。
今日はもう1か月くらい前に銚子に出かけたとき途中で立ち寄った神社を紹介しましょう。
もう数年前から香取から銚子のほうまでかなり回り、いろいろ調べてきたが、どうも見落としていることがまだだいぶありそうだ。
今回は佐原の町から利根川に沿って利根水郷ラインで銚子の町に向かうと、途中で東庄町(とうのしょうまち)を通る。
小見川町が佐原と合併して香取市になったが、この東庄町は比較的小さいが香取市にも銚子市にも入らずに単独で残った。
私はただ途中の通過地点としかとらえておらず、通り沿いにある「わが町には相撲がある」とか「天保水滸伝」の看板や旗につられて笹川繁蔵の旧跡や諏訪大神などを見物してこの街を知った気になっていた。
しかしどうもこれだけではないようだ。
もう少し調べてみなければならない気がしているのだ。
私は常陸国の旧国府・石岡に住んでいるので、大昔に都からどこを通って常陸や陸奥国に人々は向ったのだろうかという思いが、どこを見学しても脳裏から離れない。
そして本州の太平洋側の黒潮にのって船で九十九里浜あたりに上陸して栗山川をさかのぼり、多古町を通り、そこから鹿島のほうにわたるにはきっとこの東庄町を通ったに違いないと考えるようになった。
常陸国にいてはこんな考え方はできない。
下総国にわたってみて初めてのその考えが浮かんでくる。
東庄(とうのしょう)という名前だけで、昔荘園があったのでこの名前となったのだろうと漠然と考えていたが、東氏(とうし)の存在をどうも小さく見すぎていたようだ。
この東氏が鎌倉幕府設立時に活躍した千葉常胤の六男である胤頼(たねより)がこの地に住んで、この地にある東大社(とうたいしゃ)の宮司を兼ねて東氏(とうし)を名乗ったことからこの地が栄えたようだ。
そしてこの東氏が勢力を拡大し、美濃にも領地を得ていたことは今まで知らなかった。
先日この美濃の郡上八幡との交流会の方からブログにコメントを頂き、初めて気が付いた。
たしかに今までも、須賀山城も見学したし、ふもとの寺も見た。
また東大社も見学したが、郡上八幡との関係には気が付かなかったのだ。
また藤原定家に和歌を学び、美濃東氏にも歌人としても引き継がれ、文武両方で活躍しているという。
これはきっとどこかで読んで目にはしていたと思うが、ただ単に目にしていただけでその関係には思いが至らなかったせいだと思う。
これはもう少し調べたほうがよさそうに思う。
また機会があったら書いてみたいと思うが、今日はもう少し小さな、それも現在は銚子市に組み込まれた「諸持町」という少し高台にある「六所神社」を紹介しておきたい。
諸持町は今や銚子市ながら東庄町にかなり関係が深そうに感じた。

今回は利根水郷ライン(国道356)を東庄町(笹川)を過ぎて銚子市に入るすぐ手前に成田線「下総橘駅」を少し過ぎたところから右に入平行に走る旧道を通ってみました。
この道を通ったのは、次の下総豊里駅前の食堂(平兵衛屋 ) に立ち寄るためだったのだが・・・・。
するとこの道の途中から右の山のほうに上っていく道の入口に気になる看板が目に入った。
「東大社参道」「みゆき坂」と彫られた石標です。

何故こんなところに隣町の東大社の参道が?
地図を確認してみるとここは前に紹介した桜井公園の脇にあった利根川に面して建てられた鳥居のところと繋がっているようです。
(前の記事「桜井浜鳥居」記事は ⇒ こちら)
この時に書いた「東大社も含め三つの神社の間で20年に1度の銚子大神幸祭が行われており、900年以上続く祭りとされていて、20年に1度は銚子の外川まで巡行する」という記事がつながっているようです。
するとこの道が東大社につががっているのだと思い、少し車で走ってみることにしました。

道は坂道を上りだいぶ高度を上げていきます。
そして上に出ると広い畑が広がって、その中を道は進みます。
車ですからそれほど急坂には感じませんでしたが、眺めが良いのでかなり高度を稼いだことがわかります。
でもこの先は一般道などとも交わってくるようで、東大社まではまだ結構距離があるようでした。
ということでこのあたりで引き返そうとしたときに、この神社を発見しました。

神社の隣には「銚子市諸持町農村共同館」という建物が建っています。
街の高台に昔から建つ神社のようですが社務所などはなく常駐する宮司などはいないようです。
六所神社ですから総社的な要素を持つ神社だと思いますが、詳しいことはわかりません。
地元では「六所大神」と書いているようです。

この近くでは今までに菅原大神(記事:こちら)、諏訪大神(小堀:記事は こちら)などを見てきましたが、すべて利根河沿いの比較的低地に建っているところばかりでした。

歴史的にどのような流れがあったのかはよくわかりませんが、記事も残す価値があると考えてとりあえずUPしておきましょう。





潮来前川沿いに古墳
潮来の街もあやめ祭りが終わりすっかり観光客も減ったようだ。
前川あやめ園のあやめ(菖蒲?)も皆摘み取られ、刈られていた。
6月の下旬に前川沿いを少し上流に進んで辻(津知)の少し先にこんもりとした古墳が突然現れた。
こんな川沿いの街中に古墳があるのが不思議であった。

天王原古墳という前方後円墳だという。
古墳周りには紫陽花の花がきれいに咲いていた。

近くには天王原遺跡(古墳時代から平安時代)が存在しているらしい。

天王原という名前はどこから来るのか?
牛頭天王社でもこのあたりにあったのか?
前に潮来の祇園祭が行われている「素鵞熊野神社」を見学したときに現地の説明看板に次のように書かれていた。
「素鵞神社は天安2年(857~858)潮来町地先浪逆浦より出現。
始め辻村天王原に奉祀す。
その後文治4年(1185)6月に至り潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り板久牛頭天王と称し4丁目以西の鎮守となす。」
やはりこちらの方に昔はあったらしい。

ここは潮来の前川を廻る観光船がこのあたりで引き返す場所にあたる。
霞ケ浦の水運が発達していたころはこの前川も北浦から常陸利根川や利根川方面に荷物を運ぶ船でにぎわっていたのだろう。
前川あやめ園のあやめ(菖蒲?)も皆摘み取られ、刈られていた。
6月の下旬に前川沿いを少し上流に進んで辻(津知)の少し先にこんもりとした古墳が突然現れた。
こんな川沿いの街中に古墳があるのが不思議であった。

天王原古墳という前方後円墳だという。
古墳周りには紫陽花の花がきれいに咲いていた。

近くには天王原遺跡(古墳時代から平安時代)が存在しているらしい。

天王原という名前はどこから来るのか?
牛頭天王社でもこのあたりにあったのか?
前に潮来の祇園祭が行われている「素鵞熊野神社」を見学したときに現地の説明看板に次のように書かれていた。
「素鵞神社は天安2年(857~858)潮来町地先浪逆浦より出現。
始め辻村天王原に奉祀す。
その後文治4年(1185)6月に至り潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り板久牛頭天王と称し4丁目以西の鎮守となす。」
やはりこちらの方に昔はあったらしい。

ここは潮来の前川を廻る観光船がこのあたりで引き返す場所にあたる。
霞ケ浦の水運が発達していたころはこの前川も北浦から常陸利根川や利根川方面に荷物を運ぶ船でにぎわっていたのだろう。
多田朝日森稲荷の狐さん
佐原の街から香取神宮の脇を抜けて進むと通り沿いにたくさんの赤い鳥居が並んだ神社に出ます。
多田朝日森稲荷神社といいます。
先日銚子に行く途中でこの稲荷神社の狐さんをまたみてみたくて立ち寄ることにしました。

ここにあるたくさんの鳥居は皆初午に法のされたもののようです。
地域は成田、佐原、潮来、銚子などとかなり広くからやってきています。

そしてお稲荷さんですのでたくさんのキツネ像が置かれています。



これだけの狐が並ぶと圧巻です。

そして神社の拝殿前には大きさ日本一の狐です。

境内社として「一言稲荷神社」があります。


神社の奥には天神様があります。


古い鳥居も残されており時代としては戦後すぐの昭和20年代のものからありました。



多田朝日森稲荷神社といいます。
先日銚子に行く途中でこの稲荷神社の狐さんをまたみてみたくて立ち寄ることにしました。

ここにあるたくさんの鳥居は皆初午に法のされたもののようです。
地域は成田、佐原、潮来、銚子などとかなり広くからやってきています。

そしてお稲荷さんですのでたくさんのキツネ像が置かれています。



これだけの狐が並ぶと圧巻です。

そして神社の拝殿前には大きさ日本一の狐です。

境内社として「一言稲荷神社」があります。


神社の奥には天神様があります。


古い鳥居も残されており時代としては戦後すぐの昭和20年代のものからありました。



刑部岬(ぎょうぶみさき)
銚子の飯岡海岸が見下ろせる刑部岬(ぎょうぶみさき)にやってきました。
天気も良く暑い日差しが照りつけていましたが、やはり岬の先端は風が通り抜けて気持ちが良かったです。

飯岡港が見下ろせます。
東日本大震災ではここも多くの被害を受けました。


この岬の下は屏風ケ浦から続く崖が続いています。

岬には灯台と展望台があります。
昼のランチに近くにある海辺里(つべり)に行ってみようと思っていましたが先客が多そうなのでパスしてしまいました。
何時も時間がありませんのでのんびりランチとはいきません。
天気も良く暑い日差しが照りつけていましたが、やはり岬の先端は風が通り抜けて気持ちが良かったです。

飯岡港が見下ろせます。
東日本大震災ではここも多くの被害を受けました。


この岬の下は屏風ケ浦から続く崖が続いています。

岬には灯台と展望台があります。
昼のランチに近くにある海辺里(つべり)に行ってみようと思っていましたが先客が多そうなのでパスしてしまいました。
何時も時間がありませんのでのんびりランチとはいきません。
(常陸)小川の旧町並みと天妃尊
百里基地、茨城空港のおひざ元 小美玉市の旧小川町の旧道には、今も昔ながらの面影が残されています。
今は横を県道が走り、私もこちらの通りはほとんど通ることはありません。
江戸時代には水戸藩の医学郷校があり、霞ケ浦につながる水運の重要基地として多くの物資や人の流れがあったはずです。
鹿島鉄道が引かれる時も、水運業者の反対もあり常陸小川駅も隣の玉里村に作られました。
その鉄道も今はありません。

どこか懐かしくなるような建物が残されています。

たしかに昔はどんな街にも中心地にはこのような建物が続いていたように思います。
でも今残されているものは少なくなりました。



その町並みの途中に「天聖寺」という今は本堂がなく墓地だけの寺があります。

階段を上るとそこには禅寺にある「不許葷酒入山門」という結界石が置かれています。
石段の両側にはびっしりと古い石板(墓碑?)や地蔵尊などが置かれています。

階段を上った先は寺も大きな墓地(墓石を見ると多くが神道式?)が広がりますが、その手前に石蔵があり海洋の女神「天妃尊像」の写真と説明文が置かれています。


この天聖寺はかなり大きな寺でした。
江戸時代に水戸藩の領地となっていたこの小川の町を水戸藩は非常に重要な拠点として大切にしてきました。
特に水戸黄門(義公 光圀)は水戸祇園寺に自ら祇園寺の三世として招いた名僧嵐山(大日本史編纂にも携わった)の余生を送るための場所としてこの寺を与え、施設や庭を整備しました。

この天妃尊は中国の民間信仰の女神で、水戸光圀(義公)が中国より招き、祇園寺の開祖となった僧「心超禅師」が中国より持参した像を模して三体造り、その一つを祇園寺三世嵐山がこちらに持ってきたものと言われています。
残りの2体は、北茨城の弟橘神社、大洗の弟橘比売神社(天妃神社)に祀られているようです。
弟橘姫はご存じのヤマトタケルの妃ですから日本の神様ですが、天妃という中国の妃も寺に祀られたが、明治の初期におそらく禁止され、神社として弟橘姫を祀るようになったものと思われます。
この寺も天狗党の乱ですべて焼失し、今は廃寺となってしまいました。(墓地は管理されているようです)
芭蕉の医師で友人だった潮来の本間家もこの小川医学郷校が進んだ医療をしていたためにこちらに移ってきており、この墓所に墓があります。
またこの寺の本尊は信州善光寺の本尊を模して800年以上前に作られた全国に48体しかないものうちの一つということですが、いまのこされているかどうかはよくわかりません。
恐らく天狗党がこの寺に集まっていたために、火をつけられすべて燃えてしまったのかもしれません。
今は横を県道が走り、私もこちらの通りはほとんど通ることはありません。
江戸時代には水戸藩の医学郷校があり、霞ケ浦につながる水運の重要基地として多くの物資や人の流れがあったはずです。
鹿島鉄道が引かれる時も、水運業者の反対もあり常陸小川駅も隣の玉里村に作られました。
その鉄道も今はありません。

どこか懐かしくなるような建物が残されています。

たしかに昔はどんな街にも中心地にはこのような建物が続いていたように思います。
でも今残されているものは少なくなりました。



その町並みの途中に「天聖寺」という今は本堂がなく墓地だけの寺があります。

階段を上るとそこには禅寺にある「不許葷酒入山門」という結界石が置かれています。
石段の両側にはびっしりと古い石板(墓碑?)や地蔵尊などが置かれています。

階段を上った先は寺も大きな墓地(墓石を見ると多くが神道式?)が広がりますが、その手前に石蔵があり海洋の女神「天妃尊像」の写真と説明文が置かれています。


この天聖寺はかなり大きな寺でした。
江戸時代に水戸藩の領地となっていたこの小川の町を水戸藩は非常に重要な拠点として大切にしてきました。
特に水戸黄門(義公 光圀)は水戸祇園寺に自ら祇園寺の三世として招いた名僧嵐山(大日本史編纂にも携わった)の余生を送るための場所としてこの寺を与え、施設や庭を整備しました。

この天妃尊は中国の民間信仰の女神で、水戸光圀(義公)が中国より招き、祇園寺の開祖となった僧「心超禅師」が中国より持参した像を模して三体造り、その一つを祇園寺三世嵐山がこちらに持ってきたものと言われています。
残りの2体は、北茨城の弟橘神社、大洗の弟橘比売神社(天妃神社)に祀られているようです。
弟橘姫はご存じのヤマトタケルの妃ですから日本の神様ですが、天妃という中国の妃も寺に祀られたが、明治の初期におそらく禁止され、神社として弟橘姫を祀るようになったものと思われます。
この寺も天狗党の乱ですべて焼失し、今は廃寺となってしまいました。(墓地は管理されているようです)
芭蕉の医師で友人だった潮来の本間家もこの小川医学郷校が進んだ医療をしていたためにこちらに移ってきており、この墓所に墓があります。
またこの寺の本尊は信州善光寺の本尊を模して800年以上前に作られた全国に48体しかないものうちの一つということですが、いまのこされているかどうかはよくわかりません。
恐らく天狗党がこの寺に集まっていたために、火をつけられすべて燃えてしまったのかもしれません。
古都石岡への誘い <石岡ロマン紀行>
古都石岡への誘い <石岡ロマン紀行>
石岡市は茨城県のほぼ中央に位置し、人口は約7万5千人ほどの街です。
ここにはかつて旧常陸国の国府がおかれていた。
西暦646年大化の改新で国府の置かれた現茨城県石岡市は常陸国の中心として栄えてきました。
大和朝廷はここを日出る東の最も重要な国であり、また東北(陸奥)地方につながる拠点の国とみなしていました。
また旧石器時代からの遺跡や古墳も数多く残っており、奈良・飛鳥と同じ古き良き香りが漂っている街です。
奈良に都が置かれたのは710年ですから、その60年ほど前(今から1300年以上前に)東の都として位置づけられてきました。
一度のんびりとした日を利用して是非訪れてみてみませんか?きっと、しっとりとした想いがこみ上げてくることでしょう。

「潮の寄せる丘」石岡は茨城県からただ1箇所「歴史の里」指定をうけています。古代の常陸国中心の都市として栄えてきました。
しかし、平氏の将「平将門」に国衙を焼かれ、平氏同士の争いの後に桓武平氏の名門「大掾(だいじょう)氏」がここを居城として
戦国時代末期まで約300年間栄えてきました。しかし、清和源氏の直系「佐竹氏」に馬場城(水戸城)を追われ、最後は名古城
といわれた石岡(府中)の城、街を焼かれ平氏(大掾氏)は滅んだのです。
いまだにこの街には、その悲しみが残されているようです。

筑波山に太陽が沈む頃、ほのかに灯るあかりに浮かぶ昭和ロマン漂う街並みをゆったりとした気分で眺めてみて下さい。
街はきっとなんともいえない「懐かしさ」で貴方を包み込んでくれるに違いありません。
昭和初期へタイムスリップしたようなロマンあふれる街の路地を入るとそこはもう八百万の神々が待つ1300年の歴史をもつ神社仏閣の世界が待っています。貴方も”古代からのお誘い”を受けてみませんか?

さあ、”自分探しの旅”の始まりです。
スライド ⇒ こちらをクリック
http://www.rekishinosato.com/slide6.htm
石岡市は茨城県のほぼ中央に位置し、人口は約7万5千人ほどの街です。
ここにはかつて旧常陸国の国府がおかれていた。
西暦646年大化の改新で国府の置かれた現茨城県石岡市は常陸国の中心として栄えてきました。
大和朝廷はここを日出る東の最も重要な国であり、また東北(陸奥)地方につながる拠点の国とみなしていました。
また旧石器時代からの遺跡や古墳も数多く残っており、奈良・飛鳥と同じ古き良き香りが漂っている街です。
奈良に都が置かれたのは710年ですから、その60年ほど前(今から1300年以上前に)東の都として位置づけられてきました。
一度のんびりとした日を利用して是非訪れてみてみませんか?きっと、しっとりとした想いがこみ上げてくることでしょう。

「潮の寄せる丘」石岡は茨城県からただ1箇所「歴史の里」指定をうけています。古代の常陸国中心の都市として栄えてきました。
しかし、平氏の将「平将門」に国衙を焼かれ、平氏同士の争いの後に桓武平氏の名門「大掾(だいじょう)氏」がここを居城として
戦国時代末期まで約300年間栄えてきました。しかし、清和源氏の直系「佐竹氏」に馬場城(水戸城)を追われ、最後は名古城
といわれた石岡(府中)の城、街を焼かれ平氏(大掾氏)は滅んだのです。
いまだにこの街には、その悲しみが残されているようです。

筑波山に太陽が沈む頃、ほのかに灯るあかりに浮かぶ昭和ロマン漂う街並みをゆったりとした気分で眺めてみて下さい。
街はきっとなんともいえない「懐かしさ」で貴方を包み込んでくれるに違いありません。
昭和初期へタイムスリップしたようなロマンあふれる街の路地を入るとそこはもう八百万の神々が待つ1300年の歴史をもつ神社仏閣の世界が待っています。貴方も”古代からのお誘い”を受けてみませんか?

さあ、”自分探しの旅”の始まりです。
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天狗が連れて行ってくれた祇園祭り
7月になると京都をはじめ各地で「祇園祭」が行われる。
この祇園祭は京都の八坂神社を中心として全国各地の「八坂神社」や「素鵞神社」などで行われる祭りで、庶民の中心的な祭りと言ってよいだろう。
しかし愛宕山の天狗の話を調べていくと、当時に祭りで最大の祭りはどうも「津島の祇園祭」だと書かれていて、これが素晴らしいので一生に一度はみてみたいという願いをかなえるために年老いた母親や子供たちを天狗が目隠しさせ、背中にのせて空を飛んでこの祭りを見に連れていく。
いったいどんな祭りなのだろうか。
石岡の貉内にある寺につたわる愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺の話では、
「ある夏のこと、暑かった日も暮れた6月14日の晩に年老いた母は息子に聞しかけた。
「わしも、お前がよくしてくれるので何の苦労もない、このままいつお迎えがあっても憾みはないが、まあ一つだけ願いが叶うとすれば明日行なわれるという日本一の祇園と評判の津島の祇園を一度見物したいものだ。しかし、津島というところはとても遠いというし、この足ではとても行くことはできないね。まあ諦めるほかはないね」
と言って笑った。
するとこの若者はしばらく考えていたが、
「お母さん、津島に行くことはできますよ。そう遠くはないので、今から出かければ夜の明ける頃までには着くことができるので行って来ましょう」
と言って、若者は白い行衣を着て老母を背負い目がまわると困るからといって老母に手拭で目かくしをして出かけた。
老母は息子が自分を慰めようと、何処か近くに連れていくのだと考えて、息子の背にしがみついているうちに眠ってしまった。
「さあ着いた」と若者がいうので、目をさました老母は眼の前の光景に目を見張った。
今まで話にはきいても見たことがない広い広い海、その浜辺に集まっている何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと。
老母にはまったく夢心地であった。」
と出てくる。
この津島の祇園は全国の天王社の総本山といわれる尾張津島にある天王社の祭りだ。
これをWikipediaでしらべてみると、歌川広重が江戸時代末期に全国の名所を浮世絵で表した「六十余州名所図会」の中の1枚「津嶋 天王祭り」である。

今でもこの天王祭は行われていて、天王川に津島五車のまきわら船を浮かべ、提灯に灯がともされると、宵祭の始まる。
地元のプロモーションビデオがあるので紹介します。
今年も昨夜(7/22夜)に行われた。
またユネスコ登録を祝って花火も9000発も打ち上げられたという。
さてこの祭りがおこなわれる「津島神社」は、元々は津島牛頭天王社」といい、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である牛頭天王を祀る寺であり神社ではなかった。
Wikipediaによれば明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社としたという。
これと共に全国にあった天王社は建速須佐之男命(スサノオ)を祭神とした八坂神社や素鵞神社などに名前を変更している。
祇園神、牛頭天王、スサノオ・・・などの朝鮮半島から対馬経由で日本に入ってきた経緯や、日本の神道、祇園祭などの関係はどのようになっているのかもう少し調べて理解をする必要がありそうだ。
天王社は神仏習合で全く問題なく祀られていたようだが・・・・
そうしなければきっと仙道寅吉に向き合った平田篤胤の仙境異聞なども理解できそうにない。
これはまたの機会に譲ろう。
また水戸祇園寺の末寺であると小川天聖寺や茨城町の慈雲寺 などのあの独特の不思議空間がどうもよく理解できていない。
ここにはやはり天狗と対馬の祇園祭が出てくる。
水戸光圀の時代にはどのような意味合いがあったのか。
この祇園祭は京都の八坂神社を中心として全国各地の「八坂神社」や「素鵞神社」などで行われる祭りで、庶民の中心的な祭りと言ってよいだろう。
しかし愛宕山の天狗の話を調べていくと、当時に祭りで最大の祭りはどうも「津島の祇園祭」だと書かれていて、これが素晴らしいので一生に一度はみてみたいという願いをかなえるために年老いた母親や子供たちを天狗が目隠しさせ、背中にのせて空を飛んでこの祭りを見に連れていく。
いったいどんな祭りなのだろうか。
石岡の貉内にある寺につたわる愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺の話では、
「ある夏のこと、暑かった日も暮れた6月14日の晩に年老いた母は息子に聞しかけた。
「わしも、お前がよくしてくれるので何の苦労もない、このままいつお迎えがあっても憾みはないが、まあ一つだけ願いが叶うとすれば明日行なわれるという日本一の祇園と評判の津島の祇園を一度見物したいものだ。しかし、津島というところはとても遠いというし、この足ではとても行くことはできないね。まあ諦めるほかはないね」
と言って笑った。
するとこの若者はしばらく考えていたが、
「お母さん、津島に行くことはできますよ。そう遠くはないので、今から出かければ夜の明ける頃までには着くことができるので行って来ましょう」
と言って、若者は白い行衣を着て老母を背負い目がまわると困るからといって老母に手拭で目かくしをして出かけた。
老母は息子が自分を慰めようと、何処か近くに連れていくのだと考えて、息子の背にしがみついているうちに眠ってしまった。
「さあ着いた」と若者がいうので、目をさました老母は眼の前の光景に目を見張った。
今まで話にはきいても見たことがない広い広い海、その浜辺に集まっている何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと。
老母にはまったく夢心地であった。」
と出てくる。
この津島の祇園は全国の天王社の総本山といわれる尾張津島にある天王社の祭りだ。
これをWikipediaでしらべてみると、歌川広重が江戸時代末期に全国の名所を浮世絵で表した「六十余州名所図会」の中の1枚「津嶋 天王祭り」である。

今でもこの天王祭は行われていて、天王川に津島五車のまきわら船を浮かべ、提灯に灯がともされると、宵祭の始まる。
地元のプロモーションビデオがあるので紹介します。
今年も昨夜(7/22夜)に行われた。
またユネスコ登録を祝って花火も9000発も打ち上げられたという。
さてこの祭りがおこなわれる「津島神社」は、元々は津島牛頭天王社」といい、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である牛頭天王を祀る寺であり神社ではなかった。
Wikipediaによれば明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社としたという。
これと共に全国にあった天王社は建速須佐之男命(スサノオ)を祭神とした八坂神社や素鵞神社などに名前を変更している。
祇園神、牛頭天王、スサノオ・・・などの朝鮮半島から対馬経由で日本に入ってきた経緯や、日本の神道、祇園祭などの関係はどのようになっているのかもう少し調べて理解をする必要がありそうだ。
天王社は神仏習合で全く問題なく祀られていたようだが・・・・
そうしなければきっと仙道寅吉に向き合った平田篤胤の仙境異聞なども理解できそうにない。
これはまたの機会に譲ろう。
また水戸祇園寺の末寺であると小川天聖寺や茨城町の慈雲寺 などのあの独特の不思議空間がどうもよく理解できていない。
ここにはやはり天狗と対馬の祇園祭が出てくる。
水戸光圀の時代にはどのような意味合いがあったのか。
平田篤胤が江戸で見ていた常陸の天狗世界
江戸時代後期の本居宣長の後を継ぐ国学者として知られる「平田篤胤」は、神や異界の世界に独自の思想を大成し、復古神道を集大成した。
この平田篤胤が異界の世界に大変興味を抱いていた文政3年(1820年)、江戸の浅草観音堂の前に少年寅吉があらわれます。
寅吉は幼い7歳のころに山人(天狗)に連れ去られ,7年間を山人(天狗)のもとで生活・修行していたというので、江戸の町はこの話でもちきりになりました。
この話を聞きつけた篤胤先生はこの異界からの帰還者の少年の話を聞くために自分の家に住まわせたりして、その天狗の世界の話を聞き取りました。
そして寅吉少年が師匠「杉山僧正」(13天狗の首領)の元に帰る際には手紙を書いて寅吉に預けているのです。
そしてこの時の話をまとめたのが「仙境異聞」(全5巻)という本です。
その中の一部を現代語に訳して下記に示します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平田篤胤先生が江戸の町で「天狗にさらわれて帰ってきたと評判になった寅吉少年」に訪ねた。
「岩間山というのは常陸国の何郡に在る山か」
寅吉少年が答えて、
「筑波山より北方へ四里ばかりいったところで、山の上に愛宕宮があります。
足尾山、加波山、吾国山などが連なっていて、笠間の近所です。
また竜神山という山もあって、この山は私の師匠が雨を降らせるために祈る場所です。
岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗がいると言います。
岩間山の天狗は、最初は十二天狗だったが、4~50年ほど前に筑波山の麓にある狢打村の長楽寺といふ真言僧がいて、空に向かって、常に仏道を思いはからっていた。
そしてある日釈迦如来があらわれて、これに導かれて岩間山にやってきた。
しかしこの釈迦如来は岩間山の天狗が化けたものであった。
それからこの長楽寺も愛宕山の天狗に加えて十三天狗となったものです。
私の天狗の師匠は杉山僧正といいます。」

(石岡の八郷地区はこの天狗が修業していたという筑波山から愛宕山などの山並みに囲まれています)
愛宕山(昔は岩間山)には12天狗がいて、最後に狢内の長楽寺という真言僧が加わって13天狗になったと。
仙境異聞から読み解くと、この長楽寺が加わったのは1750~60年頃ということになります。
津島の祇園祭は600年ほどの歴史があるということのようですのでその頃にも盛大に行われていたのでしょう。

(石岡市龍明(狢内)の古刹長楽寺)

岩間山(愛宕山)飯綱神社の十三天狗の6角形の本殿

本殿を囲う十三天狗の祠
この平田篤胤が異界の世界に大変興味を抱いていた文政3年(1820年)、江戸の浅草観音堂の前に少年寅吉があらわれます。
寅吉は幼い7歳のころに山人(天狗)に連れ去られ,7年間を山人(天狗)のもとで生活・修行していたというので、江戸の町はこの話でもちきりになりました。
この話を聞きつけた篤胤先生はこの異界からの帰還者の少年の話を聞くために自分の家に住まわせたりして、その天狗の世界の話を聞き取りました。
そして寅吉少年が師匠「杉山僧正」(13天狗の首領)の元に帰る際には手紙を書いて寅吉に預けているのです。
そしてこの時の話をまとめたのが「仙境異聞」(全5巻)という本です。
その中の一部を現代語に訳して下記に示します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平田篤胤先生が江戸の町で「天狗にさらわれて帰ってきたと評判になった寅吉少年」に訪ねた。
「岩間山というのは常陸国の何郡に在る山か」
寅吉少年が答えて、
「筑波山より北方へ四里ばかりいったところで、山の上に愛宕宮があります。
足尾山、加波山、吾国山などが連なっていて、笠間の近所です。
また竜神山という山もあって、この山は私の師匠が雨を降らせるために祈る場所です。
岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗がいると言います。
岩間山の天狗は、最初は十二天狗だったが、4~50年ほど前に筑波山の麓にある狢打村の長楽寺といふ真言僧がいて、空に向かって、常に仏道を思いはからっていた。
そしてある日釈迦如来があらわれて、これに導かれて岩間山にやってきた。
しかしこの釈迦如来は岩間山の天狗が化けたものであった。
それからこの長楽寺も愛宕山の天狗に加えて十三天狗となったものです。
私の天狗の師匠は杉山僧正といいます。」

(石岡の八郷地区はこの天狗が修業していたという筑波山から愛宕山などの山並みに囲まれています)
愛宕山(昔は岩間山)には12天狗がいて、最後に狢内の長楽寺という真言僧が加わって13天狗になったと。
仙境異聞から読み解くと、この長楽寺が加わったのは1750~60年頃ということになります。
津島の祇園祭は600年ほどの歴史があるということのようですのでその頃にも盛大に行われていたのでしょう。

(石岡市龍明(狢内)の古刹長楽寺)

岩間山(愛宕山)飯綱神社の十三天狗の6角形の本殿

本殿を囲う十三天狗の祠