ふるさと風の会と「風の声」
今年の風の会展、風のことば絵展、おとめ(御留)川展が11月4日から8日まで「石岡まちかど情報センター」で開催されています。
今回は何の準備もなく始めてしまいましたし、私も時間が取れずに参加があまりできていません。
今まで作った本などを展示させていただいていますが、これも今回新たに追加したものはありません。しかし今までたくさん本を作らせていただきこれを皆展示しました。
・地域に眠る歴史シリーズ1~24巻
・石岡地方のふるさと昔話、茨城のちょっと面白い昔話 各1冊
・石岡歴史の散歩道(全5巻)
と全部で31冊にもなっています。
もしご興味がおありになれば会場にお越しください。
昨日は午後から会場にいたのですが、宣伝もあまりしていないのでお越しいただいた方も少なめでした。
そんな中、白井先生に今までのたくさんお恋歌からいくつかを朗読していただきました。
とくにTabiぶらで土曜日朝に石岡市瓦会の山側にある「鳴滝」に行った記事に触発されて、白井先生は「鳴滝(なるたき)」「馬滝(うまたき)」で詠んだ恋の舞歌2編を選択されました。
この滝の存在もあまり知られていませんが、石岡地方から発信している常世の国の恋物語100にも選ばれています(これもまだ半分にも達していないのですが)。
またとちゅうでお越しいただいたお客様のために最後に「寒蝉(かんせん)」を朗読されました。
寒蝉はヒグラシとも読まれるようですが、もう夏も終わりメスのセミもいなくなった秋に鳴く雄の蝉です。すこし哀れですね。
この詩を聞いて私が昔先生から贈っていただいた詩を思い出しました。
私がブログで地域掘り起こしのような記事や写真を毎日投稿していた最初のころに戴いたものです。
『風のこえ』
何時も呼んでいるのに
なぜ聞こえないふりをするのですか。
あなたがきっとわかる様にと
私の言葉を文字にも書いて風に声しているのに
あなたは何時も聞こえないふりをしてしまう。
それは私の事を嫌いだという事ですか。
かまいませんよ。
あなたに嫌われても私はあなたを呼び続けます。
そして、
私の呼ぶ声を風に運んでもらいますから
(ひろぢ)

今回は何の準備もなく始めてしまいましたし、私も時間が取れずに参加があまりできていません。
今まで作った本などを展示させていただいていますが、これも今回新たに追加したものはありません。しかし今までたくさん本を作らせていただきこれを皆展示しました。
・地域に眠る歴史シリーズ1~24巻
・石岡地方のふるさと昔話、茨城のちょっと面白い昔話 各1冊
・石岡歴史の散歩道(全5巻)
と全部で31冊にもなっています。
もしご興味がおありになれば会場にお越しください。
昨日は午後から会場にいたのですが、宣伝もあまりしていないのでお越しいただいた方も少なめでした。
そんな中、白井先生に今までのたくさんお恋歌からいくつかを朗読していただきました。
とくにTabiぶらで土曜日朝に石岡市瓦会の山側にある「鳴滝」に行った記事に触発されて、白井先生は「鳴滝(なるたき)」「馬滝(うまたき)」で詠んだ恋の舞歌2編を選択されました。
この滝の存在もあまり知られていませんが、石岡地方から発信している常世の国の恋物語100にも選ばれています(これもまだ半分にも達していないのですが)。
またとちゅうでお越しいただいたお客様のために最後に「寒蝉(かんせん)」を朗読されました。
寒蝉はヒグラシとも読まれるようですが、もう夏も終わりメスのセミもいなくなった秋に鳴く雄の蝉です。すこし哀れですね。
この詩を聞いて私が昔先生から贈っていただいた詩を思い出しました。
私がブログで地域掘り起こしのような記事や写真を毎日投稿していた最初のころに戴いたものです。
『風のこえ』
何時も呼んでいるのに
なぜ聞こえないふりをするのですか。
あなたがきっとわかる様にと
私の言葉を文字にも書いて風に声しているのに
あなたは何時も聞こえないふりをしてしまう。
それは私の事を嫌いだという事ですか。
かまいませんよ。
あなたに嫌われても私はあなたを呼び続けます。
そして、
私の呼ぶ声を風に運んでもらいますから
(ひろぢ)

なんだかんだと結構忙しい。ブログも少し休止します。
このブログも6年半ほどは毎日休みなく記事を書いてきましたが、このところ少し記事が途絶えてきました。
まあ自然体でやりたいと思い始めたこともあり1年ほど前からペースを落としてきていました。
今見直してみたら最近は1週間に1回くらいのペースに・・・・・・・・
このままでいいのかななどと自問していても先は見えません。
昨日は銚子まで仕事で往復200km、その後夜に帰ってから東京の母の具合が悪いとの知らせで小金井の病院に往復で200km
合計400kmほど車で走行しました。
さすがに少し疲れ気味です。
また土曜は旧会社の同僚たちとライブ参加と終わって会食。
日曜は旧会社の所属部署のOB会で飲食(昼間)
と連ちゃんで胃腸の具合もバテ気味でした。
ブログ記事もいくつか書きたいことは溜まってきているのですが、最近別なところの記事を書き始めて当ブログが少しおざなりとなっています。
昨夜の母の見舞いは予断を許さないのあまり詳しくはかけませんが、病院に電話して夜遅くの面会を許可してもらい、妻とともに家を夜8時過ぎに出かけました。
一時酸素も取れて流動食も始めたばかりだったのですが、また急に具合が悪くなりました。
病院では短い時間でしたが手を取り少し会話もできました。
目を見詰め合って・・・・
こちらからは「もう少しがんばって元気になって。春にはイギリスから二人のひ孫が来るからね。」と。
冷たい雨が降る中でしたが夜、車を飛ばして会いにいけたことは良かったです。
またブログも更新が少し途絶えますが、落ち着いたら再開します。

(いわきの白水阿弥陀堂にて 2016年5月)
まあ自然体でやりたいと思い始めたこともあり1年ほど前からペースを落としてきていました。
今見直してみたら最近は1週間に1回くらいのペースに・・・・・・・・
このままでいいのかななどと自問していても先は見えません。
昨日は銚子まで仕事で往復200km、その後夜に帰ってから東京の母の具合が悪いとの知らせで小金井の病院に往復で200km
合計400kmほど車で走行しました。
さすがに少し疲れ気味です。
また土曜は旧会社の同僚たちとライブ参加と終わって会食。
日曜は旧会社の所属部署のOB会で飲食(昼間)
と連ちゃんで胃腸の具合もバテ気味でした。
ブログ記事もいくつか書きたいことは溜まってきているのですが、最近別なところの記事を書き始めて当ブログが少しおざなりとなっています。
昨夜の母の見舞いは予断を許さないのあまり詳しくはかけませんが、病院に電話して夜遅くの面会を許可してもらい、妻とともに家を夜8時過ぎに出かけました。
一時酸素も取れて流動食も始めたばかりだったのですが、また急に具合が悪くなりました。
病院では短い時間でしたが手を取り少し会話もできました。
目を見詰め合って・・・・
こちらからは「もう少しがんばって元気になって。春にはイギリスから二人のひ孫が来るからね。」と。
冷たい雨が降る中でしたが夜、車を飛ばして会いにいけたことは良かったです。
またブログも更新が少し途絶えますが、落ち着いたら再開します。

(いわきの白水阿弥陀堂にて 2016年5月)
秋も深まりもう冬かな?
ブロブも再開します。
まあ時々書かないと読んでいただいている方には失礼ですね。
東京の母の具合は少し改善しているので、今は少し安定してきました。
昨日石岡の街中を歩いていて気になった個所を写真に収めてみました。

泉町の石蔵です。
通りから少し入っているので気が付かなかったですが大きな大谷石の蔵です。
今の時期はこのように蔦(つた)が壁に這ってきれいです。

こちらは国府2丁目あたり。
柿の赤い残り実と蔦が少し気になった。

ブロック塀をつたう蔦もなかなか面白い。
まあ時々書かないと読んでいただいている方には失礼ですね。
東京の母の具合は少し改善しているので、今は少し安定してきました。
昨日石岡の街中を歩いていて気になった個所を写真に収めてみました。

泉町の石蔵です。
通りから少し入っているので気が付かなかったですが大きな大谷石の蔵です。
今の時期はこのように蔦(つた)が壁に這ってきれいです。

こちらは国府2丁目あたり。
柿の赤い残り実と蔦が少し気になった。

ブロック塀をつたう蔦もなかなか面白い。
最近はトント記事が書けなくなっています。
このブログも始めて7年以上経過しました。
毎日欠かさず続けたブログも最近はカレンダーのマークがさびしくなりました。
地域に眠る埋もれた歴史、民俗などの記事はある程度のところまで来ましたが、まだいっていない近郊の地域などは手つかずでそのままです。
でも記事を書かないとどんどん寂しくなっていきますので適当な記事にもよろしかったらお付き合いください。

我が家の庭のドウダンツツジ? もすっかり赤く染まりました。
また先日出かけた銚子行きは雨でどこも立ち寄れず、少しうろついた程度です。

銚子大橋手前の波崎にある「手子后神社」(てごさきじんじゃ)へ立ち寄ってみたけど、写真のように誰もいない雨の神社もさびしいですね。
昔、この神社を特集して茨城県にある「手子后神社」を廻ったあの元気は今もうないのかな?
(手子后神社の記事は ⇒ こちら(童子女の松原伝説))
銚子は「日本の東のとっぱずれ」ということで、東の海を眺めてきました。
場所は「海鹿島(あしかじま)」の少し手前。
少し雨が降っていた寒い海もさびしいですね。

いくつか記事もあるのだけれど少し今はセーブします。
母の方は少し快方に向かってくれています。
元気になって春にはまた遠いところのひ孫にも会えるかな。
毎日欠かさず続けたブログも最近はカレンダーのマークがさびしくなりました。
地域に眠る埋もれた歴史、民俗などの記事はある程度のところまで来ましたが、まだいっていない近郊の地域などは手つかずでそのままです。
でも記事を書かないとどんどん寂しくなっていきますので適当な記事にもよろしかったらお付き合いください。

我が家の庭のドウダンツツジ? もすっかり赤く染まりました。
また先日出かけた銚子行きは雨でどこも立ち寄れず、少しうろついた程度です。

銚子大橋手前の波崎にある「手子后神社」(てごさきじんじゃ)へ立ち寄ってみたけど、写真のように誰もいない雨の神社もさびしいですね。
昔、この神社を特集して茨城県にある「手子后神社」を廻ったあの元気は今もうないのかな?
(手子后神社の記事は ⇒ こちら(童子女の松原伝説))
銚子は「日本の東のとっぱずれ」ということで、東の海を眺めてきました。
場所は「海鹿島(あしかじま)」の少し手前。
少し雨が降っていた寒い海もさびしいですね。

いくつか記事もあるのだけれど少し今はセーブします。
母の方は少し快方に向かってくれています。
元気になって春にはまた遠いところのひ孫にも会えるかな。
石岡駅の扁額(徳富蘇峰)に思う
会社を辞めてから駅を利用する回数がぐっと減った。
東京へ行くときも高速バスの方が便利だ。
これは休みの日に利用することが多いので首都高の渋滞にあまり影響されないせいもあるし、バス停まで歩いていけることもある。
先日久しぶりに電車に乗った。
駅の改札の手前の上に掲げてある古びた木版の扁額をながめてきた。
少し見落としやすいが、看板も急に明るいところに掲げられて恥ずかしそうに見えた。

この扁額が「徳富蘇峰」の書から起こされたものであることは知っていたし、前にも何度か書いたことがある。

今回はこの扁額の説明が、改札口通路の壁にステンレス板(?)に書かれて飾られていた。
この書かれた内容を読んで、かなりすっきりした。
石岡の歴史などというものを何度も書いたり、読んだりしてきているが、あまりこのようなことが書かれたものを見たことがない。
いやあったかもしれないが、最近こちらも見方が変わっているせいかもしれない。
各地域の神社などに書かれていたり、観光課などが説明書きを書いていたりする内容に間違ったものが良く散見される。
歴史とは事実を書いた記録だと思うのだが、街中を歩いていて看板を見かけると、どうもそこに書いた人の願望や確認されていない他の記事の「いいとこ取り」をしていて事実とは明らかにおかしなことが書かれていたりする。
でもこの説明はおそらく事実なのではないかと思う。
淡々と事柄がのべられていて残しておきたくなったのでとりあえずブログに掲載しておきたい。

「石岡駅改札上部にある木製の駅名標は、駅舎橋上化工事に合わせて、旧駅舎より移設した。
これは、徳富蘇峰が書したものを彫刻したものである。1951年(昭和26年)、当時の石岡駅長(笹谷和三郎)や石岡市の窪田婦久の要望により、蘇峰が89歳の時に書した。彫刻は、蘇峰の秘書、塩崎彦市が行った。当時、駅長から蘇峰に送った手紙が、神奈川県にある徳富蘇峰記念館で確認できる。
徳富蘇峰は、1863年3月熊本県に生まれ、ジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家として活躍し、1957年11月に94歳でその生涯を閉じた。
なお、茨城県内に蘇峰が書した駅名標は、水郡線常陸太田駅にも掲示されている。これは1948年(昭和23年)、蘇峰が85歳の時に書したものである。この時の常陸太田駅長も笹谷和三郎であり、駅長の要望から当時の衆議院議員山崎猛の尽力により実現した。原書は、常陸太田市郷土資料館に保存されている。」
そのまま原文を書き出してみました。
さて、このブログはここでは終われないのです。
この常陸太田駅の駅名標を探してみました。

さて、どうですか? やはりこうして2つを見比べてみなければこの話も進展しませんね。
でもどうしてつくられたのが古い常陸太田駅の方が左から右の現代式で、石岡の方が逆向きなのでしょうか?
疑問や興味があればさらに調べなければいけないですよね。
これがこのブログの良さですから・・・・時間が足りないですね。
でも簡単に調べてみました。
そもそも日本語は縦書きと決まっていたのを横書きが始まった時にはどうも方向は決まっていなかったようです。
切符が左から右、出札口の表示が右から左、寝台車などの表記は左から右、汽車の行先表示は右から左などとかなりバラバラだったようです。
大正時代や昭和の初め頃の街中の看板表示なども多くが左から右の横書き(現代式)の方が多かったようです。
これが右から左に書くように変わったのは戦争中だというのです。
1942年(昭和17年)に文部省の指導では左から右の横書き(現代式)への統一指導が始まったようです。
でも戦争中であり欧米に合わせることに反対の意見が多くあり、これは浸透しなかったそうです。
かえって右から左の横書き(逆向き)が多くなった傾向にありそうです。
まあ野球の言葉もかなりへんてこな言葉がありますからね。
例えば「ストライク」は「よし」なんて言っていたそうですから。
新聞社では讀賣新聞社の「讀賣報知」が終戦後の1946年(昭和21年)1月1日から横書きを左から右の現在の様式に完全統一しています。
面白いものですね。戦前は皆右から左の横書きだったとばかり思っていましたが、調べてみることは大切なんですね。
東京へ行くときも高速バスの方が便利だ。
これは休みの日に利用することが多いので首都高の渋滞にあまり影響されないせいもあるし、バス停まで歩いていけることもある。
先日久しぶりに電車に乗った。
駅の改札の手前の上に掲げてある古びた木版の扁額をながめてきた。
少し見落としやすいが、看板も急に明るいところに掲げられて恥ずかしそうに見えた。

この扁額が「徳富蘇峰」の書から起こされたものであることは知っていたし、前にも何度か書いたことがある。

今回はこの扁額の説明が、改札口通路の壁にステンレス板(?)に書かれて飾られていた。
この書かれた内容を読んで、かなりすっきりした。
石岡の歴史などというものを何度も書いたり、読んだりしてきているが、あまりこのようなことが書かれたものを見たことがない。
いやあったかもしれないが、最近こちらも見方が変わっているせいかもしれない。
各地域の神社などに書かれていたり、観光課などが説明書きを書いていたりする内容に間違ったものが良く散見される。
歴史とは事実を書いた記録だと思うのだが、街中を歩いていて看板を見かけると、どうもそこに書いた人の願望や確認されていない他の記事の「いいとこ取り」をしていて事実とは明らかにおかしなことが書かれていたりする。
でもこの説明はおそらく事実なのではないかと思う。
淡々と事柄がのべられていて残しておきたくなったのでとりあえずブログに掲載しておきたい。

「石岡駅改札上部にある木製の駅名標は、駅舎橋上化工事に合わせて、旧駅舎より移設した。
これは、徳富蘇峰が書したものを彫刻したものである。1951年(昭和26年)、当時の石岡駅長(笹谷和三郎)や石岡市の窪田婦久の要望により、蘇峰が89歳の時に書した。彫刻は、蘇峰の秘書、塩崎彦市が行った。当時、駅長から蘇峰に送った手紙が、神奈川県にある徳富蘇峰記念館で確認できる。
徳富蘇峰は、1863年3月熊本県に生まれ、ジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家として活躍し、1957年11月に94歳でその生涯を閉じた。
なお、茨城県内に蘇峰が書した駅名標は、水郡線常陸太田駅にも掲示されている。これは1948年(昭和23年)、蘇峰が85歳の時に書したものである。この時の常陸太田駅長も笹谷和三郎であり、駅長の要望から当時の衆議院議員山崎猛の尽力により実現した。原書は、常陸太田市郷土資料館に保存されている。」
そのまま原文を書き出してみました。
さて、このブログはここでは終われないのです。
この常陸太田駅の駅名標を探してみました。

さて、どうですか? やはりこうして2つを見比べてみなければこの話も進展しませんね。
でもどうしてつくられたのが古い常陸太田駅の方が左から右の現代式で、石岡の方が逆向きなのでしょうか?
疑問や興味があればさらに調べなければいけないですよね。
これがこのブログの良さですから・・・・時間が足りないですね。
でも簡単に調べてみました。
そもそも日本語は縦書きと決まっていたのを横書きが始まった時にはどうも方向は決まっていなかったようです。
切符が左から右、出札口の表示が右から左、寝台車などの表記は左から右、汽車の行先表示は右から左などとかなりバラバラだったようです。
大正時代や昭和の初め頃の街中の看板表示なども多くが左から右の横書き(現代式)の方が多かったようです。
これが右から左に書くように変わったのは戦争中だというのです。
1942年(昭和17年)に文部省の指導では左から右の横書き(現代式)への統一指導が始まったようです。
でも戦争中であり欧米に合わせることに反対の意見が多くあり、これは浸透しなかったそうです。
かえって右から左の横書き(逆向き)が多くなった傾向にありそうです。
まあ野球の言葉もかなりへんてこな言葉がありますからね。
例えば「ストライク」は「よし」なんて言っていたそうですから。
新聞社では讀賣新聞社の「讀賣報知」が終戦後の1946年(昭和21年)1月1日から横書きを左から右の現在の様式に完全統一しています。
面白いものですね。戦前は皆右から左の横書きだったとばかり思っていましたが、調べてみることは大切なんですね。
穴寺
国道354号線を鹿行大橋で北浦を渡り、そのまま東に進んで昔の飯沼街道と呼ばれる県道242号線との交差点「大蔵」信号手前に通称「穴寺」と呼ばれる福泉寺という臨済宗の寺がある。
もう1か月ほど前になりますが、立ち寄りました。
前にも紹介していますが、今回はこの寺が旧飯沼街道に近いことが気になり再度訪れてみたのです。
この寺は穴寺というように通り沿いにある寺の門をくぐると道は一気に谷底に下るように急降下します。
車も下まで通れますが、入口に置いて歩いて下りました。
なぜこの寺を取り上げるのかというと、この寺のご本尊「釈迦如来像」が国の重要文化財に指定され、鎌倉時代に作られた清凉寺式仏像の顕著な作品だと知ったからなのです。
まあこの仏像はコンクリート製の保管庫に保管されていて年に1度しか公開されませんので、拝観するにはその4月の公開日を待つしかありません。


これがその清凉寺式釈迦如来立像です。
鉾田市のHPに載っている説明には
「福泉寺の釈迦如来立像は、鎌倉時代末期に春日仏師が製作したといわれています。槍材の特色を生かして金箔や漆を塗らない素地仕上げになっています。玉眼や眉間の白毫(びゃくごう)には水晶をがはめられ、螺髪(らはつ)と呼ばれる頭髪は、縄状に渦を巻くように刻まれ、像身の半円を描くような平行線の衣紋は実に美しく、異国風を感じさせます。また、如来像を囲むような金色の光背には、左右合わせて十二体の仏が浮彫りされています。毎年4月8日、一般に開帳されます。」
と書かれています。
清凉寺式仏像の特徴は像の下半身の衣の表現方法だと思います。
2本の足がはっきり分かるように真ん中に縦にU字型に彫り込みがされています。
またこの像の光背には12体の小さな仏像が彫られています。
この説明で気になるのは「春日仏師が製作した」と書かれていることです。
春日仏師って何者?
いろいろなうわさがありますが、あまりはっきりしたことがわかりません。藤原氏の建てた奈良の春日大社との関係?
鎌倉時代に運慶や快慶などの奈良興福寺を中心に活躍した慶派仏師などとは別に奈良に仏像製作を請け負う仏師「春日仏師」とよばれる仏師または仏師集団がいたようです。
ではこの等身大の仏像がどうやってこの鉾田(北浦)地方に運ばれてきたのでしょうか?
どうもそこには「忍性(にんしょう)」などの影響がありそうなのです。
つくば市の北条の町に近い「小田城跡」が国の史跡に指定され、公園として整備されました。
公園の中をつくばりんりん道路が走っていますが、そこに小田城の歴史を紹介する展示館がオープンしました。
鎌倉時代に「忍性」がこの小田氏のところにやってきて「極楽寺」という七堂伽藍を持つ大きなお寺が作られました。
現在は宝篋山登山のコース「極楽寺コース」として名前が残っていますが、当時のものとしては大きな五輪塔が一つ残っているだけです。
現在この展示館で忍性が取り上げられて説明がされているようです。(まだ行っていませんが・・・)
この忍性がここを拠点に行方から北浦方面に仏教の普及に努めたようです。
私がこの北浦の地を廻っただけでもかなりの足跡を見ることができました。
忍性の足跡をもう少し探ってどなたか記事にしてもらえるとうれしいなと思います。

この谷底のような寺は下に恐らく昔は湧き出る泉があったのだと思います。
今も池(泉?)はあります。


もう1か月ほど前になりますが、立ち寄りました。
前にも紹介していますが、今回はこの寺が旧飯沼街道に近いことが気になり再度訪れてみたのです。
この寺は穴寺というように通り沿いにある寺の門をくぐると道は一気に谷底に下るように急降下します。
車も下まで通れますが、入口に置いて歩いて下りました。
なぜこの寺を取り上げるのかというと、この寺のご本尊「釈迦如来像」が国の重要文化財に指定され、鎌倉時代に作られた清凉寺式仏像の顕著な作品だと知ったからなのです。
まあこの仏像はコンクリート製の保管庫に保管されていて年に1度しか公開されませんので、拝観するにはその4月の公開日を待つしかありません。


これがその清凉寺式釈迦如来立像です。
鉾田市のHPに載っている説明には
「福泉寺の釈迦如来立像は、鎌倉時代末期に春日仏師が製作したといわれています。槍材の特色を生かして金箔や漆を塗らない素地仕上げになっています。玉眼や眉間の白毫(びゃくごう)には水晶をがはめられ、螺髪(らはつ)と呼ばれる頭髪は、縄状に渦を巻くように刻まれ、像身の半円を描くような平行線の衣紋は実に美しく、異国風を感じさせます。また、如来像を囲むような金色の光背には、左右合わせて十二体の仏が浮彫りされています。毎年4月8日、一般に開帳されます。」
と書かれています。
清凉寺式仏像の特徴は像の下半身の衣の表現方法だと思います。
2本の足がはっきり分かるように真ん中に縦にU字型に彫り込みがされています。
またこの像の光背には12体の小さな仏像が彫られています。
この説明で気になるのは「春日仏師が製作した」と書かれていることです。
春日仏師って何者?
いろいろなうわさがありますが、あまりはっきりしたことがわかりません。藤原氏の建てた奈良の春日大社との関係?
鎌倉時代に運慶や快慶などの奈良興福寺を中心に活躍した慶派仏師などとは別に奈良に仏像製作を請け負う仏師「春日仏師」とよばれる仏師または仏師集団がいたようです。
ではこの等身大の仏像がどうやってこの鉾田(北浦)地方に運ばれてきたのでしょうか?
どうもそこには「忍性(にんしょう)」などの影響がありそうなのです。
つくば市の北条の町に近い「小田城跡」が国の史跡に指定され、公園として整備されました。
公園の中をつくばりんりん道路が走っていますが、そこに小田城の歴史を紹介する展示館がオープンしました。
鎌倉時代に「忍性」がこの小田氏のところにやってきて「極楽寺」という七堂伽藍を持つ大きなお寺が作られました。
現在は宝篋山登山のコース「極楽寺コース」として名前が残っていますが、当時のものとしては大きな五輪塔が一つ残っているだけです。
現在この展示館で忍性が取り上げられて説明がされているようです。(まだ行っていませんが・・・)
この忍性がここを拠点に行方から北浦方面に仏教の普及に努めたようです。
私がこの北浦の地を廻っただけでもかなりの足跡を見ることができました。
忍性の足跡をもう少し探ってどなたか記事にしてもらえるとうれしいなと思います。

この谷底のような寺は下に恐らく昔は湧き出る泉があったのだと思います。
今も池(泉?)はあります。


| HOME |