千住宿場
<行春や 鳥啼 魚の目は泪>
これは芭蕉が「奥の細道」で旅立ちの時に詠んだ句です。
(千住旅立ち:元禄2年3月27日)
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、
不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

(蕪村が書いた芭蕉旅立ちの絵)
さて芭蕉は東北への旅立ちで、まず門人たちと船で深川から隅田川をさかのぼり、千住の宿にやってきました。
千住は隅田川と荒川とにはさまれた地帯で当時の江戸では品川に次ぐ大きな宿場でした。
北への玄関口だったのです。
当時のこの宿場町には約2400軒の家屋と、人口は1万人近くもいたといわれています。
本陣が1軒、脇本陣1軒、旅籠は55軒ほどあったそうです。
その本陣跡に先月偶然行ってきました。
友達のライブ会場のすぐそばだったのです。
北千住駅から歩いてすぐです。

道路にはめ込まれた千住宿の案内タイル。

北千住駅西口から西にまっすぐ伸びる道を最初の信号の右に一つ入った路地裏に看板があります。
そして地図の緑色の場所が本陣屋敷があった場所です。
かなり広いですね。
ライブ会場はこの本陣跡地に建っていたことになります。
そして、ちずの赤丸の部分が「見番跡」となっています。
なかなか興味深いですね。
説明によると「江戸時代から千住宿は遊女を置いていい旅篭が50軒ほどありました。めいじになりこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年まで営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。」
と書かれています。
まあ岡場所なんていってもう知っている人は少なくなったでしょうね。
政府が公認で遊女を置いてよい宿場は4つあったのだそうです。
「品川宿」「板橋宿」「内藤新宿」とここ「千住宿」です。もちろんこのほかに遊郭として「吉原」がありました。
これらは政府の公認があり、その他の宿や食べ物屋などは禁止されていたのです。
そうはいってももぐりはあって「あいまいや」などというものが存在していたのでしょう。

この通りが「見番横丁」で、写真奥の左側に「見番」なる芸妓組合の事務所があったようです。
右側は本陣のあった場所です。

さてもう一つ、この見番通りと交わる通り(一方通行)は「旧日光街道」となっています。
今はいろいろなお店が並んでいます。

この先が日光や奥州へ繋がっていたようですので、芭蕉も門人「河合曾良」とここを通って行ったのでしょうか。
これは芭蕉が「奥の細道」で旅立ちの時に詠んだ句です。
(千住旅立ち:元禄2年3月27日)
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、
不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

(蕪村が書いた芭蕉旅立ちの絵)
さて芭蕉は東北への旅立ちで、まず門人たちと船で深川から隅田川をさかのぼり、千住の宿にやってきました。
千住は隅田川と荒川とにはさまれた地帯で当時の江戸では品川に次ぐ大きな宿場でした。
北への玄関口だったのです。
当時のこの宿場町には約2400軒の家屋と、人口は1万人近くもいたといわれています。
本陣が1軒、脇本陣1軒、旅籠は55軒ほどあったそうです。
その本陣跡に先月偶然行ってきました。
友達のライブ会場のすぐそばだったのです。
北千住駅から歩いてすぐです。

道路にはめ込まれた千住宿の案内タイル。

北千住駅西口から西にまっすぐ伸びる道を最初の信号の右に一つ入った路地裏に看板があります。
そして地図の緑色の場所が本陣屋敷があった場所です。
かなり広いですね。
ライブ会場はこの本陣跡地に建っていたことになります。
そして、ちずの赤丸の部分が「見番跡」となっています。
なかなか興味深いですね。
説明によると「江戸時代から千住宿は遊女を置いていい旅篭が50軒ほどありました。めいじになりこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年まで営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。」
と書かれています。
まあ岡場所なんていってもう知っている人は少なくなったでしょうね。
政府が公認で遊女を置いてよい宿場は4つあったのだそうです。
「品川宿」「板橋宿」「内藤新宿」とここ「千住宿」です。もちろんこのほかに遊郭として「吉原」がありました。
これらは政府の公認があり、その他の宿や食べ物屋などは禁止されていたのです。
そうはいってももぐりはあって「あいまいや」などというものが存在していたのでしょう。

この通りが「見番横丁」で、写真奥の左側に「見番」なる芸妓組合の事務所があったようです。
右側は本陣のあった場所です。

さてもう一つ、この見番通りと交わる通り(一方通行)は「旧日光街道」となっています。
今はいろいろなお店が並んでいます。

この先が日光や奥州へ繋がっていたようですので、芭蕉も門人「河合曾良」とここを通って行ったのでしょうか。
芭蕉の月見の寺へ再び・・・
松尾芭蕉は禅の師として親交のあった仏頂禅師の招きで鹿島詣でを兼ねて中秋の名月に鹿島地方を訪れました。
仏頂禅師は鹿島神宮に近い「根本(こんぽん)寺」の住職をしていましたが、その時は根本寺の住職は弟子に譲って、野に下っていました。
その場所が現在の鉾田市阿玉にある大儀寺(おおぎじ)です。
芭蕉の書いた鹿島紀行には
「根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此寺におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ」
と書かれていてどこだかわからない。
多くの書物が根本寺を芭蕉の訪れた寺として紹介している。
しかし、やはり当時もこの北浦をさかのぼったあたりだったのではないかと思う。

ここは俳句会の建てた句碑(自分たちの句)が竹林の中にずら~と並んでいる。

なかなか趣のある竹林で、このあたりでは珍しい。

あまり訪れる人は少ないようだが趣のある寺だ。

門は南側にあるが、車などで来ると北から入るので、昔の道がわかりずらい。

芭蕉たちは月見の前に雨が降っていてひと眠りしてから月見をしたことになっている。
まあ実際に月見ができたがどうかはわからないが、俳人にとっては月が見えなくてもきっと見た気になるのかもしれない。
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺にねてまこと顔なる月見かな 桃青

寺の境内には仏頂禅師の供養塔「仏頂塔」がある。
芭蕉が奥の細道の旅の途中に立ち寄ったところに大田原市の「黒羽(くろばね)」がある。
場所は旅の途中の逗留期間としてはこの黒羽が最も長く14日間もいた。
何故こんなに長く逗留したのかというと、この古刹の「雲巌寺」の裏山で、この仏頂禅師が修業中に草庵を作って禅の修行をしたといわれており、深川に禅の心を教えてくれた仏頂禅師の修行場所にとどまって居たくなったのかもしれないのだ。
木啄(きつつき)も 庵(いお)は破らず 夏木立
上の句は仏頂禅師の山居跡を訪ねた時に詠んだ句です。雲巌寺の境内に石碑があります。
(きつつきも和尚の徳に敬意を払って草庵も壊さずにいるな~ という程度の意味か?)
雲巌寺も数年前に行きましたが、素晴らしい寺です。
お近くに行ったら是非立ち寄っていただきたいものです。
雲巌寺に記事 ⇒ 記事(1)、記事(2)
仏頂禅師は鹿島神宮に近い「根本(こんぽん)寺」の住職をしていましたが、その時は根本寺の住職は弟子に譲って、野に下っていました。
その場所が現在の鉾田市阿玉にある大儀寺(おおぎじ)です。
芭蕉の書いた鹿島紀行には
「根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此寺におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ」
と書かれていてどこだかわからない。
多くの書物が根本寺を芭蕉の訪れた寺として紹介している。
しかし、やはり当時もこの北浦をさかのぼったあたりだったのではないかと思う。

ここは俳句会の建てた句碑(自分たちの句)が竹林の中にずら~と並んでいる。

なかなか趣のある竹林で、このあたりでは珍しい。

あまり訪れる人は少ないようだが趣のある寺だ。

門は南側にあるが、車などで来ると北から入るので、昔の道がわかりずらい。

芭蕉たちは月見の前に雨が降っていてひと眠りしてから月見をしたことになっている。
まあ実際に月見ができたがどうかはわからないが、俳人にとっては月が見えなくてもきっと見た気になるのかもしれない。
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺にねてまこと顔なる月見かな 桃青

寺の境内には仏頂禅師の供養塔「仏頂塔」がある。
芭蕉が奥の細道の旅の途中に立ち寄ったところに大田原市の「黒羽(くろばね)」がある。
場所は旅の途中の逗留期間としてはこの黒羽が最も長く14日間もいた。
何故こんなに長く逗留したのかというと、この古刹の「雲巌寺」の裏山で、この仏頂禅師が修業中に草庵を作って禅の修行をしたといわれており、深川に禅の心を教えてくれた仏頂禅師の修行場所にとどまって居たくなったのかもしれないのだ。
木啄(きつつき)も 庵(いお)は破らず 夏木立
上の句は仏頂禅師の山居跡を訪ねた時に詠んだ句です。雲巌寺の境内に石碑があります。
(きつつきも和尚の徳に敬意を払って草庵も壊さずにいるな~ という程度の意味か?)
雲巌寺も数年前に行きましたが、素晴らしい寺です。
お近くに行ったら是非立ち寄っていただきたいものです。
雲巌寺に記事 ⇒ 記事(1)、記事(2)
常陸高野の大イチョウ
葬儀も終わり、翌日銚子に出かけましたが、やはり体力的には相当疲れました。
途中のコンビニ駐車場で少し寝てしまいました。
今日はかなり回復してきました。やはり若くはないですね。
母の生まれは新潟県の山の中。
親戚も来ておりましたが、今日は吹雪で大変そうです。
こんなに雪が早い年はありませんでしたので・・・。
ニュースを見るたびに大変だなと思います。
さて、銚子に行く途中で行方市の西蓮寺に立ち寄りました。
ここの1000年大イチョウ2本の黄葉をまだ見られるかと思ったのです。
でも少し遅かったようです。

今年もこの穴をのぞいてきました。
明るい黄色の世界が見えます。

これが穴の向こう側です。

こちらの木葉少しまだ黄色の葉がありました。
黄色い絨毯が広がります。

黄色の絨毯と向こう側の竹林に陽がさして・・・・
途中のコンビニ駐車場で少し寝てしまいました。
今日はかなり回復してきました。やはり若くはないですね。
母の生まれは新潟県の山の中。
親戚も来ておりましたが、今日は吹雪で大変そうです。
こんなに雪が早い年はありませんでしたので・・・。
ニュースを見るたびに大変だなと思います。
さて、銚子に行く途中で行方市の西蓮寺に立ち寄りました。
ここの1000年大イチョウ2本の黄葉をまだ見られるかと思ったのです。
でも少し遅かったようです。

今年もこの穴をのぞいてきました。
明るい黄色の世界が見えます。

これが穴の向こう側です。

こちらの木葉少しまだ黄色の葉がありました。
黄色い絨毯が広がります。

黄色の絨毯と向こう側の竹林に陽がさして・・・・
武田の里
今日は行方市にある「武田の里」の紹介です。
山梨県韮崎にも「武田の里」がありますが、それとは違います。
こんなところ何処にあるの? と思われるかもしれません。
茨城県行方市の旧北浦町です。 鹿行大橋の少し手前です。
でも、ほとんど知られていないと思います。
石岡から奈良霞ケ浦北岸に沿って国道355線を玉造まで行って、そこから354号線で鹿行大橋方面に進みます。
土浦方面なら霞ケ浦大橋を渡ってそのまま進みます。
鹿行大橋の少し手前の右側にあります。

実はこのあたりは「武田」地区と言われています。
ここは甲斐の武田氏の一族が、上杉禅秀の乱(1416年)のころに移り住んだと伝えられています。

甲斐(山梨県)の武田信玄で有名な武田氏は源氏の血筋で、常陸国とつながりがあるといわれています。
話しは源氏の八幡太郎義家の弟の新羅三郎が兄の義家の奥州征伐(後三年の役)に応援で駆けつけ、戦いに勝利した後、都に戻ってから常陸介としてふたたび常陸国(茨城県)にやってきます。
そしてひたちなか市の武田郷(勝田の少し南)に住み、武田冠者などと呼ばれます。
この義光の長男が戦国時代に常陸国を統一した佐竹氏となります。
義光は長男をすぐ上の兄のところに養子に出してしまったので、次男を連れて常陸国で暮らしていました。
そして領地を広げて、鹿島神宮領にからんで争いが起こり、常陸国から追われて甲斐国に逃げたといわれますが、詳細はいくつか説があり詳しくはわかりません。
さて、この北浦近くの西側(行方市)に甲斐国の武田氏の一族が移り住んだといわれるのは上杉禅秀の乱(1416年)の頃だといわれています。
まあ常陸国を追われてその子孫の一部がまた舞い戻ってきたのでしょう。
甲斐武田氏の10代(甲斐源氏13代)当主(武田氏の初代は義光の孫である源清光の次男とした)である武田信満が親戚関係にもあった上杉禅秀に味方して敗れ、木賊山(後の天目山)で自害するという事件が発生しました。
天目山は後に、信長に敗れた武田勝頼が自害(1582年)したところですね。
さて、この北浦の武田氏はこの武田信満の弟である武田信久が、兄が自害した時に千葉兼胤を頼って千葉に逃れてきたのが始まりだとされているようです。
そして翌年の 応永24年(1417)にこの北浦の地に逃れ、ここに城(神明城)を築いて住み着いたと伝わっています。
1438年に西砦、1455年に小貫城、1533年に木崎城を築いています。
しかし、1590年の佐竹氏の常陸国統一時にこの城なども消滅してしまいました。
同じ源氏の仲間、しかも先祖は同じなのに佐竹氏にやられてしまったようです。
ただ、この地を選んだのも、元々のひたちなか市武田郷にいた武田氏の一部が大洋村側からこの辺り一帯に住んでいたのではないかともいわれていて詳しくはわかりません。
かなり興味深いのですが・・・・

いまはこの「ふきのとう」という地域おこしの建物といくつかの建物がありますが、あまり活発な様子は見えませんでした。
ネットで検索すれば何かイベントやこのあたりを散策するツアーのような企画をやっているようです。

でもどこも地域おこしと言っても大変ですね。

山梨県韮崎にも「武田の里」がありますが、それとは違います。
こんなところ何処にあるの? と思われるかもしれません。
茨城県行方市の旧北浦町です。 鹿行大橋の少し手前です。
でも、ほとんど知られていないと思います。
石岡から奈良霞ケ浦北岸に沿って国道355線を玉造まで行って、そこから354号線で鹿行大橋方面に進みます。
土浦方面なら霞ケ浦大橋を渡ってそのまま進みます。
鹿行大橋の少し手前の右側にあります。

実はこのあたりは「武田」地区と言われています。
ここは甲斐の武田氏の一族が、上杉禅秀の乱(1416年)のころに移り住んだと伝えられています。

甲斐(山梨県)の武田信玄で有名な武田氏は源氏の血筋で、常陸国とつながりがあるといわれています。
話しは源氏の八幡太郎義家の弟の新羅三郎が兄の義家の奥州征伐(後三年の役)に応援で駆けつけ、戦いに勝利した後、都に戻ってから常陸介としてふたたび常陸国(茨城県)にやってきます。
そしてひたちなか市の武田郷(勝田の少し南)に住み、武田冠者などと呼ばれます。
この義光の長男が戦国時代に常陸国を統一した佐竹氏となります。
義光は長男をすぐ上の兄のところに養子に出してしまったので、次男を連れて常陸国で暮らしていました。
そして領地を広げて、鹿島神宮領にからんで争いが起こり、常陸国から追われて甲斐国に逃げたといわれますが、詳細はいくつか説があり詳しくはわかりません。
さて、この北浦近くの西側(行方市)に甲斐国の武田氏の一族が移り住んだといわれるのは上杉禅秀の乱(1416年)の頃だといわれています。
まあ常陸国を追われてその子孫の一部がまた舞い戻ってきたのでしょう。
甲斐武田氏の10代(甲斐源氏13代)当主(武田氏の初代は義光の孫である源清光の次男とした)である武田信満が親戚関係にもあった上杉禅秀に味方して敗れ、木賊山(後の天目山)で自害するという事件が発生しました。
天目山は後に、信長に敗れた武田勝頼が自害(1582年)したところですね。
さて、この北浦の武田氏はこの武田信満の弟である武田信久が、兄が自害した時に千葉兼胤を頼って千葉に逃れてきたのが始まりだとされているようです。
そして翌年の 応永24年(1417)にこの北浦の地に逃れ、ここに城(神明城)を築いて住み着いたと伝わっています。
1438年に西砦、1455年に小貫城、1533年に木崎城を築いています。
しかし、1590年の佐竹氏の常陸国統一時にこの城なども消滅してしまいました。
同じ源氏の仲間、しかも先祖は同じなのに佐竹氏にやられてしまったようです。
ただ、この地を選んだのも、元々のひたちなか市武田郷にいた武田氏の一部が大洋村側からこの辺り一帯に住んでいたのではないかともいわれていて詳しくはわかりません。
かなり興味深いのですが・・・・

いまはこの「ふきのとう」という地域おこしの建物といくつかの建物がありますが、あまり活発な様子は見えませんでした。
ネットで検索すれば何かイベントやこのあたりを散策するツアーのような企画をやっているようです。

でもどこも地域おこしと言っても大変ですね。

年末の蓮田
霞ケ浦周辺はハスの一大生産地です。
ここかすみがうら北側の玉里地区(小美玉市)も霞ケ浦沿いに蓮田が広がります。
正月料理に多く使われるレンコンはこの寒い中、水の中で泥まみれになり収穫されたものです。
もう正月用の出荷はすっかり終わって、年末に近づいた田んぼも水流ポンプの音も、蓮田に飛び散る水音もしません。
もうお正月もモードになっているのでしょうか。


霞ケ浦の沿岸に出てみました。
雨が上がった日がさし始めた湖面はキラキラ輝いています。

(下玉里の大井戸公園脇にて 2017/12/25 9:30頃)
玉里は昔、「田余、田餘」と書いたようだ。 発音も「たまり」ではなく「たあまり」だったのかな・・・・
ここかすみがうら北側の玉里地区(小美玉市)も霞ケ浦沿いに蓮田が広がります。
正月料理に多く使われるレンコンはこの寒い中、水の中で泥まみれになり収穫されたものです。
もう正月用の出荷はすっかり終わって、年末に近づいた田んぼも水流ポンプの音も、蓮田に飛び散る水音もしません。
もうお正月もモードになっているのでしょうか。


霞ケ浦の沿岸に出てみました。
雨が上がった日がさし始めた湖面はキラキラ輝いています。

(下玉里の大井戸公園脇にて 2017/12/25 9:30頃)
玉里は昔、「田余、田餘」と書いたようだ。 発音も「たまり」ではなく「たあまり」だったのかな・・・・
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