母との別れ、そして新たな命も元気に・・・
昨年12月に母が亡くなり、今年に入って先日49日法要と納骨を済ませました。
元気な時はいつまでも元気でいるように思うものなのかもしれません。
霊園は西武園の近くにありますので、「掬水亭」の上の会の部屋で懐石料理をいただきました。

私は掬水亭にはランチでもたまにお邪魔していますが、上の階の座敷へは今回初めて入りました。

部屋からの眺めはとても良いです。
この多摩湖のまわりで中高生のときには毎年マラソン大会がありました。
中学生は5kmほどで、高校生の時は7kmほどです。
夏場の水不足の時にはよくかなり下の方まで土が見えたりしていましたが、いまは結構水はありました。

今回息子夫婦が5月に生まれた赤ん坊(女の子)を連れて来てくれました。
新しい命は最高ですね。
こんな笑顔をいつまでも忘れないでいてほしいものです。

3月半ばにはイギリスロンドンから7月に生まれた孫(女の子)がやってきてくれます。
元気な時はいつまでも元気でいるように思うものなのかもしれません。
霊園は西武園の近くにありますので、「掬水亭」の上の会の部屋で懐石料理をいただきました。

私は掬水亭にはランチでもたまにお邪魔していますが、上の階の座敷へは今回初めて入りました。

部屋からの眺めはとても良いです。
この多摩湖のまわりで中高生のときには毎年マラソン大会がありました。
中学生は5kmほどで、高校生の時は7kmほどです。
夏場の水不足の時にはよくかなり下の方まで土が見えたりしていましたが、いまは結構水はありました。

今回息子夫婦が5月に生まれた赤ん坊(女の子)を連れて来てくれました。
新しい命は最高ですね。
こんな笑顔をいつまでも忘れないでいてほしいものです。

3月半ばにはイギリスロンドンから7月に生まれた孫(女の子)がやってきてくれます。
鹿行大橋
先日銚子に行くときに、久しぶりに北浦の鹿行大橋を廻っていった。
玉造から国道354号線(北浦バイパス)を通り、北浦に架かる橋が鹿行大橋(ろっこうおおはし)という。
この名前は鹿島(かしま)と行方(なめがた)地方をつなぐ橋で、茨城県の地域区割りも「鹿行地区」となっている。

これが今の鹿行大橋だ。

北浦は霞ケ浦の一部と言ってもいいだろう。鉾田から潮来の間をつなぎ、昔は水運も発達していて、水戸方面から江戸まで物資を運んだし、蒸気船もはしった。
霞ケ浦との接点は鰐川(わにかわ)から外浪逆浦(そとなさかうら)などという流れが逆流する意味合いの名がついた浦でつながっている。
しかしこのあたりは流れがあるようにはあまり感じない。
霞ケ浦も昔はそれぞれの地域で「○○の流れ海」などと呼ばれた。

今は堤防も整備されている。

さて、この鹿行大橋は、東日本大震災で橋の真ん中が倒壊して、車が下に落ち一人が亡くなった。
当時全国的にはあまり話題にならなかったが、死者がでたのだから忘れられない事件だった。
橋の崩落した写真が上の写真。 この時現在の新しい橋を建設中で、崩落したのは旧橋の方だ。
写真の右側が橋の真ん中部分が下に落ちてしまったもの。
左側が新しく建設中だった橋で、この後完成を急ぎ現在の橋となっている。

当時の新聞記事に載った崩落部分の橋と水中を捜索している様子。

行方側(旧北浦町)の橋のたもとにあった「北浦荘」は現在も営業している。

このあたりでは珍しい源泉かけ流し温泉施設のある日帰り温泉施設。
朝は10時からだが私がこのあたりを走るのは9時半頃なのでまだやっていない。
時間があれば400円で利用できるだが、のんびりもしていられないので利用したことはない。
それにしても茨城でも、鹿島神宮は大鳥居が倒れたし、この橋の落下があり、北浦の六角堂が流されたなどの津波被害もあちこちにあった。
あれから7年だが、あれだけの大きな地震だったから10年は余震や火山の噴火などもまだおこる。
今のオリンピックでの活躍もうれしいが、2年後のオリンピックの時に何か起こらねばよいが・・・。
玉造から国道354号線(北浦バイパス)を通り、北浦に架かる橋が鹿行大橋(ろっこうおおはし)という。
この名前は鹿島(かしま)と行方(なめがた)地方をつなぐ橋で、茨城県の地域区割りも「鹿行地区」となっている。

これが今の鹿行大橋だ。

北浦は霞ケ浦の一部と言ってもいいだろう。鉾田から潮来の間をつなぎ、昔は水運も発達していて、水戸方面から江戸まで物資を運んだし、蒸気船もはしった。
霞ケ浦との接点は鰐川(わにかわ)から外浪逆浦(そとなさかうら)などという流れが逆流する意味合いの名がついた浦でつながっている。
しかしこのあたりは流れがあるようにはあまり感じない。
霞ケ浦も昔はそれぞれの地域で「○○の流れ海」などと呼ばれた。

今は堤防も整備されている。

さて、この鹿行大橋は、東日本大震災で橋の真ん中が倒壊して、車が下に落ち一人が亡くなった。
当時全国的にはあまり話題にならなかったが、死者がでたのだから忘れられない事件だった。
橋の崩落した写真が上の写真。 この時現在の新しい橋を建設中で、崩落したのは旧橋の方だ。
写真の右側が橋の真ん中部分が下に落ちてしまったもの。
左側が新しく建設中だった橋で、この後完成を急ぎ現在の橋となっている。

当時の新聞記事に載った崩落部分の橋と水中を捜索している様子。

行方側(旧北浦町)の橋のたもとにあった「北浦荘」は現在も営業している。

このあたりでは珍しい源泉かけ流し温泉施設のある日帰り温泉施設。
朝は10時からだが私がこのあたりを走るのは9時半頃なのでまだやっていない。
時間があれば400円で利用できるだが、のんびりもしていられないので利用したことはない。
それにしても茨城でも、鹿島神宮は大鳥居が倒れたし、この橋の落下があり、北浦の六角堂が流されたなどの津波被害もあちこちにあった。
あれから7年だが、あれだけの大きな地震だったから10年は余震や火山の噴火などもまだおこる。
今のオリンピックでの活躍もうれしいが、2年後のオリンピックの時に何か起こらねばよいが・・・。
河童の壺
河津桜の季節がやってきました。
静岡県の伊豆河津町の河津川沿いには早咲きの桜が4kmほどにわたって咲きます。
でも私はまだ行ったことがないのです。
今回この近くの「伊豆ならんだの里 平安仏像展示館」を調べていて面白い場所を発見しました。
河童の寺として名前が知られているという禅寺「栖足寺(せいそくじ)」という寺です。
ここには「河童の壺」という壺が残されています。
伝わる話は次のような話です。
『むかし、近くに河童が住んでいた。
この河童は時々悪さをして里人に嫌われていた。
あるとき、里人がこの河童が悪さをしたために里人により懲らしめられ、殺されそうになっていた。
これを見たこの寺の住職は河童をあわれに思って助けたのです。
その時助けられた河童は、お礼に「河童のかめ」という壷(つぼ)を置いて行ったのです。
その「かめ(甕)」が今も寺に残されています。』
たったこんな話しですが、どこにでもありそうな話ですよね。
小美玉の芹沢家に伝わる切られた手をつないでしまう薬が家宝で残されたというのもありますし、
河童の手のミイラが残されているなどというのも土浦や浅草などにあります。
ではこれはどんな甕、壺なのでしょうか?

寺のホームページにはこの話として
「このつぼに河津川のせせらぎを封じ込めました。口に耳をあてると、水の流れる音がします。水の音が聞こえたら、わたしがどこかで生きていると思ってください。和尚さまもどうぞお元気で」といって、河童は立ち去りました。」
と書かれています。
少し不思議に思いませんか? もうすこし実用的なものを置いて行ってくれたらいいのに・・・・
でもこの寺は禅寺。
川の出水を教えてくれたりもしましたが、この川のせせらぎの音を聞くと気持ちが落ち着き心が清められるのだそうです。
今の時代はきっとこれが必要なのでしょうね。
戦争をやりたいと想っている人達が聞いて世の中が平和になってくれたらいいなと心から思わずにおられません。
河津桜を見たついでにお時間がありましたらこの河童の寺や平安仏像展示館で平安時代の9世紀~10世紀の仏像たちをを拝観して平安を祈りたいものです。
静岡県の伊豆河津町の河津川沿いには早咲きの桜が4kmほどにわたって咲きます。
でも私はまだ行ったことがないのです。
今回この近くの「伊豆ならんだの里 平安仏像展示館」を調べていて面白い場所を発見しました。
河童の寺として名前が知られているという禅寺「栖足寺(せいそくじ)」という寺です。
ここには「河童の壺」という壺が残されています。
伝わる話は次のような話です。
『むかし、近くに河童が住んでいた。
この河童は時々悪さをして里人に嫌われていた。
あるとき、里人がこの河童が悪さをしたために里人により懲らしめられ、殺されそうになっていた。
これを見たこの寺の住職は河童をあわれに思って助けたのです。
その時助けられた河童は、お礼に「河童のかめ」という壷(つぼ)を置いて行ったのです。
その「かめ(甕)」が今も寺に残されています。』
たったこんな話しですが、どこにでもありそうな話ですよね。
小美玉の芹沢家に伝わる切られた手をつないでしまう薬が家宝で残されたというのもありますし、
河童の手のミイラが残されているなどというのも土浦や浅草などにあります。
ではこれはどんな甕、壺なのでしょうか?

寺のホームページにはこの話として
「このつぼに河津川のせせらぎを封じ込めました。口に耳をあてると、水の流れる音がします。水の音が聞こえたら、わたしがどこかで生きていると思ってください。和尚さまもどうぞお元気で」といって、河童は立ち去りました。」
と書かれています。
少し不思議に思いませんか? もうすこし実用的なものを置いて行ってくれたらいいのに・・・・
でもこの寺は禅寺。
川の出水を教えてくれたりもしましたが、この川のせせらぎの音を聞くと気持ちが落ち着き心が清められるのだそうです。
今の時代はきっとこれが必要なのでしょうね。
戦争をやりたいと想っている人達が聞いて世の中が平和になってくれたらいいなと心から思わずにおられません。
河津桜を見たついでにお時間がありましたらこの河童の寺や平安仏像展示館で平安時代の9世紀~10世紀の仏像たちをを拝観して平安を祈りたいものです。
横利根川閘門
霞ケ浦と利根川を横につなぐ「横利根川」にまたやってきた。
霞ケ浦先端の牛堀地区から香取(佐原)地区へ横に流れる横利根川。
昔は香取川から霞ケ浦に流れがあったようだが、今は水門もでき流れは霞ケ浦から利根川に向かって流れている。
この利根川の境界にあるのが「横利根閘門(こうもん)」という立派な水門で、大正10年に完成した。
日本はこの頃まではレンガ造りの構造物建築がかなり広く行われ、今でもその景観は美しいと思わざる負えないが、大正12年に起きた関東大震災以降は鉄筋コンクリート造りに皆かわってしまって今ではこれらは貴重な文化遺産になっている。

この横利根閘門も国の重要文化財に指定されていて、霞ケ浦の水運としての利用頻度は大幅に落ち込んではいるが今も現役で活躍しています。

この煉瓦造りの門の方は真ん中の鋼鉄製の扉が上下ではなく前後に開きます。

そして船は両側を水門で挟まれた地点で水位を調整する間待機します。
出口側の水位が同じになったら水門を開けます。

利根川側にもう一つ上下に開閉する水門があります。

現地に昔のこの待機中の船の写真などもありました。

今でも立派にメンテされ現役で活躍中の歯車機構などはかなり迫力ありますね。

霞ケ浦、利根川から江戸までの水運の流れが良くわかりますね。

霞ケ浦先端の牛堀地区から香取(佐原)地区へ横に流れる横利根川。
昔は香取川から霞ケ浦に流れがあったようだが、今は水門もでき流れは霞ケ浦から利根川に向かって流れている。
この利根川の境界にあるのが「横利根閘門(こうもん)」という立派な水門で、大正10年に完成した。
日本はこの頃まではレンガ造りの構造物建築がかなり広く行われ、今でもその景観は美しいと思わざる負えないが、大正12年に起きた関東大震災以降は鉄筋コンクリート造りに皆かわってしまって今ではこれらは貴重な文化遺産になっている。

この横利根閘門も国の重要文化財に指定されていて、霞ケ浦の水運としての利用頻度は大幅に落ち込んではいるが今も現役で活躍しています。

この煉瓦造りの門の方は真ん中の鋼鉄製の扉が上下ではなく前後に開きます。

そして船は両側を水門で挟まれた地点で水位を調整する間待機します。
出口側の水位が同じになったら水門を開けます。

利根川側にもう一つ上下に開閉する水門があります。

現地に昔のこの待機中の船の写真などもありました。

今でも立派にメンテされ現役で活躍中の歯車機構などはかなり迫力ありますね。

霞ケ浦、利根川から江戸までの水運の流れが良くわかりますね。

| HOME |