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「稲むらの火」は史実、物語、説話? ≪前半≫

 このブログも毎日更新していたのが、継続をあきらめてから徐々に間隔が開き、最近はもうすっかり忘れられてしまうくらいになってしまいました。

4月の半ばから咳や痰にのどの痛みを覚えて、少し熱も出て風邪程度に思っておりましたが、良くなったかと思うとぶり返して連休に突入し、5月1日になって病院に行ってきました。
連休の間の診療日はやはり混んでいましたね。
それでも抗生物質をもらったりして1週間、症状もほぼ収まりました。 
寝込むほどのことはなかったのですが3週間もすっきりしない日を過ごしてしまいました。

そしてブログも気が付いてみれば半月以上間隔が開いてしまいました。
また徐々に再開したいと思います。

5月5日の子供の日に、「ふるさと風の会」の会報の12周年記念号(32ページ)を印刷し、八郷地区から朝日トンネルを抜けて小町の里・北条まで会報を置きに車を走らせてきました。

連休中とあって、フラワーパークも車が一杯で、まわりの有料500円の駐車場まで結構たくさん車が入っていました。
小町の里の小町庵の蕎麦屋は午後1時過ぎでもまだ外に待っている人が一杯。

北条ではイベントが行われていて歩行者天国で地元出身の歌手の歌声が流れ、結構な賑わいでした。
でもこのようにどこも行楽地らしきところは人が一杯ですね。
日本人はどうしてこんなに人が集まるところが好きなのでしょうか?

子供を連れて行っても、人がいないと、きっとさびしい思いがするのかもしれませんね。
吉永小百合のコマーシャルで紹介された大田原市雲厳寺もたくさんの人が行ったようです。
あのコマーシャルでは「芭蕉は何故この地に長く滞在したのでしょうか?」と読者に問いを投げかけて、訪れたらその理由を感じることができそうなコマーシャルです。

でも本当に訪れたらわかるのでしょうか?

「ふるさと風の会」は地元石岡でふるさとに文化の芽を興そうと12年間休まず、毎月会報を発行してきたのです。
わたしも途中からの参加で、まだ半分くらいですが今回は「ふるさと」について少し書いてみました。

生まれ育った場所ではない石岡でふるさと興しのようなこともしているので、こんな私にとって「ふるさと=故郷」ってなんなんだろうと考えたのです。

興味がありましたか下記のホームページで今まですべての会報が読めます(PDF)

 ふるさと風の会ホームページ ⇒ こちら
 (今回の会報は ⇒ こちら

さて、最近記事もかけていないのですが、わたしが一昨年に「石岡地方のふるさと昔話」という小本を作ったときに、

「昔話」というのは文学でいえばどんな定義になるのだろうか? 

どこまで今まで書かれたり伝えられてきたことを編集したり、書き加えたりしても良いのだろうか?

との思いに悩んでもいました。

羅生門や芋粥、蜘蛛の糸などは芥川龍之介が書けば「小説」とみなされ、御伽草子に書かれているのなどは「説話」といわれるのでしょうか?

その区別はどこにあるのでしょう。

まともに文学など勉強したことはないので専門家によればきっと区別はあるのでしょうが、あまり専門的な話には興味もありません。

でもそんなことを考えながら千葉県の銚子を訪れた時にヤマサ醤油工場の近くで「濱口梧陵紀徳碑」を見つけました。


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濱口梧陵(はまぐちごりょう)といえばヤマサ醤油(濱口儀兵衛商店)の七代目で、初代郵政大臣まで務めた人物です。
今のヤマサ醤油の地位を築いたすぐれた人物と言ってよいでしょう。

小泉純一郎氏が総理大臣時代に「郵政民営化」を主張したときに、郵政の民営化を最初に主張したのはこの濱口梧陵が日本最初の郵政大臣になった時だと言っていました。
しかし時代は郵便事業は「官」の方が良いという意見が多く、濱口梧陵は短い期間で大臣を辞したといいます。

でも私たちには東関東大地震の時の津波被害でよくメディアなどでも引用された「稲むらの火」という話しのモデルだといわれていることの方が馴染みがあります。

また、この話も実際の史実とは少し違うところがあるといわれています。
どんなところが違うのでしょうか?
少し調べてみたいと思います。

今日もこれから銚子に行きます。時間がないので続きはまた後で・・・

後半は ⇒ こちら


地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/05/06 18:26

「稲むらの火」は史実、物語、説話? ≪後半≫

 昨日の記事(こちら)の続きです。

 昨日も千葉県の「とっぱずれ」銚子に仕事で出かけて帰りが遅くなってしまいました。
石岡からは片道約90kmほどあり、道は比較的すいているので約2時間~2時間半くらいで到着します。

昨日は坂東33観音の札所でもある飯沼観音にお詣りして、きれいになったトイレの神様「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」にお詣りしてきました。(まあ、御札は有料ですが、トイレは無料で使えます)

さて、「稲むらの火」という話しを知らない人のために少し話の内容と経緯を紹介しておきましょう。

まず、1854年の12月23日と24日発生した「安政大地震」(東海地震と南海地震:共にマブニチュードはM8.4規模)の時の実話がモチューフになった話です。

(実はこの翌年の1855年には江戸安政地震(M7.0前後)が発生し、江戸の町、特に下町は大混乱。水戸藩でも藩邸が倒壊し、藤田東湖らが死亡したことでも知られています)

さて、「稲むらの火」については、「ラフカディオハーン(小泉八雲)」が英文で書いて、それを和歌山県の地元の教員だった「中井常蔵」が訳して書いたものが、当時の小学生の教訓資料として、1937年から10年間にわたって、小学校の国語の教科書に載ったのです。

でもラフカディオハーンが来日したのは1890年であり、安政大地震(東南海地震)より35年以上後のことです。
実はラフカディオハーンはアメリカで新聞記者をしていました。そして来日後もいろいろな記事をアメリカなどで発表しているのです。
「稲むらの火」の元になる話は、1896年6月におきた三陸沖地震で大津波の被害の状況を知って、過去の津波のことを調べていて知ったようです。
そして和歌山県広村の津波の時に民衆を救い、地元では神様のように慕われているという人のことを1896年12月に『大西洋評論』(米国雑誌)に「A Living God」(生き神様)というタイトルで発表したのです。
(この資料は ⇒ こちら で読むことができます)

世に出るきっかけは、和歌山県の教員の「中井常蔵」がまだ師範学校の専攻科の生徒であった時に、英語教材(三省堂発行)として使われていた中に、この話を見つけて「稲むらの火」とタイトルをつけて発表したのです。

(これらの2つの資料:    は ⇒ こちら で読むことができます)

そしてそれが文部省の小学校教材に1937年から10年間使われて世に広まりました。

その教科書の内容は上のサイトで読めるのですが、ここは史実と物語、説話などの違いに興味がありますので、書き下してみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第10 稲むらの火
 
 「これはたヾ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかった。
しかし、ゆっこりとした揺れ方と、うなるような地鳴りちは老いた五兵衛に、いままで経験したことのない不気味なものであった。
 
 五兵衛は、自分の家の庭から心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝ふよひ祭りの支度に心を取られて、さつきの地震には一向気がつかないもののやうである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ち沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ。 津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。 此のままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまふ。 もう一刻の猶豫(いとま)は出来ない。
「よし。」と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(あかり)を持って飛出して来た。 そこには取入れるばかりになってゐるたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。 風にあふられて、火の手がぱっと上がった。 一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。 かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。 まるで失神したやうに、彼はそこに突立ったまま、沖のほうを眺めてゐた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。 稲むらの火は天をこがした。 山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけだした。

 高台から見下ろしてゐる五兵衛の目には、これが蟻の歩みのやうにもどかしく思われた。 やっと二十人程の若者がかけ上がって北。 彼らはすぐに火を消しにかからうとする。 五兵衛は大声に言った。
「うっちゃっておけ。 ・・・大変だ。村中の人に来てもらふんだ」
村中の人は、追々に集まってきた。 五兵衛は、後から後から上がって来る老若男女を一人ひとり数へた。 集まって来た人々はもえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを代わる代わる見くらべた。

 其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。

「見ろ。 やってきたぞ。」

 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。 遠く海の端に細い、暗い一筋の線が見えた。 其の線は見る見る太くなった。 広くなった。 非常な速さで押し寄せて来た。

「津波だ」

と誰かが叫んだ。 海水が絶壁のやうに目の前に迫ったと思ふと、山がのしかかって来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとを以て、陸にぶつかった。 人々は我を忘れて後ろへとびのいた。 雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。

 人々は、自分等の村の上を荒狂って通る白い恐ろしい海を見た。 二度三度村の上を海は進み又退いた。

 高台では、しばらく何の話し声もなかった。 一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなった村をただあきれて見下ろしてゐた。

 稲むらの火は風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりをあかるくした。 初めて我にかへった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

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もう一つ、日本昔話に収録されているお話を載せておきましょう。

「昔、和歌山の広村に儀兵衛(ぎへい)という男が住んでいました。生来の恥ずかしがり屋のため30歳すぎても独身でしたが、隣に住む綾(あや)さんが大好きでした。

ある夏の夕暮れ、その日は村祭りで、綾さんと婆さんが神社に出かけていきました。儀兵衛もワクワクしながら小ざっぱりした着物に着替えていた時、突然グラグラと長い横揺れが起こりました。儀兵衛は「長い地震の後には津波が来る」と村の古老から聞いたことを思い出し、海を見ました。

すると、海の水がものすごい勢いでどんどん沖に引き始めました。儀兵衛は大急ぎで松明(たいまつ)に火をつけ神社に走りましたが、津波の到達するまでにはとても間に合わないと思いました。そこで、稲刈り後の田にあった稲むらに火をつけて気づいてもらおうと考えました。

しかし儀兵衛は、他人の稲に火をつける事にためらいを感じ、自分の田んぼの稲むらに火をつけました。メラメラと燃え上がる稲むらからはモクモクと煙が上がり、祭りに夢中になっていた村人たちも気が付きました。火事を消そうと駆けつけた村人たちに、儀兵衛は「津波が来ているから山へ逃げろ」と声をかけ、婆さんを背負い綾さんと一緒に駆け出しました。

もう目の前に津波が迫ってきていました。村人たちは必死になって山を駆けのぼりました。儀兵衛たちが最後に山へ登りきった時と津波が村を飲み込んだのは、ほとんど同時でした。幸いにも村の中で誰一人死んだ者はなく、人々は村の惨状を眺めながら口々にお礼を言いました。

そのうち儀兵衛は村人と力を合わせ、高くて長い堤防を築きました。これには、妻となった綾さんも尽力しました。」

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どうですか?
二つを読み比べても設定が少し違っていますね。
1)五兵衛と儀兵衛 の名前が違う
2)老人と若者とで、大分年齢に差がある。また上では村の庄屋さんの設定で元々高台に住んでいる。
3)昔話には嫁さんが出てくるし、堤防を築いた話がある。

でも一見して読むと、最初の教科書の話の方が真実に近いように思いますね。
でも実際は日本昔話のほうがどちらかといえば実際のお話に近いようです。

さて、最初に書いたラフカディオハーン(小泉八雲)がこの話を知ったのは、現地ではなく数十年後の三陸沖地震のときです。また八雲は和歌山の現地には行っていません。

また、ラフカディオハーン(小泉八雲)が書いた耳なし芳一や雪女、むじなやろくろっ首などの怪談話はどんな話が元にあるのでしょうか? またジャンルの区分けはどうなるのでしょうか。

これらの怪談話も結構面白いですよね。「むじな」などは「のっぺらぼう」などのはなしですが、この話は、東京赤坂に近い「紀国坂」の話です。

むかし私が高校生の時に友達と二人で、夏休みの宿題をやりに、甲府の知り合いの旅館に泊まったことがあります。
夜に怪談話をしようということになり、これらの怪談話を少し話したのですが、友達は全く知らなかったと言って大いに面白がってくれたことが思いだされます。

さて、本題に少し戻って、お話のフィクションと実際の話のギャップを少し見ていきましょう。

お話「稲むらの火」話は和歌山県広村で起こった話として伝わっています。
そしてこのモデルになったのが千葉県銚子にあるヤマサ醤油の第七代目当主の濱口儀兵衛(梧陵)です。

濱口梧陵は和歌山県広村の出身で、濱口分家の子でしたが、12歳で銚子の本家(濱口儀兵衛)の養子になります。

その後、江戸に出て福沢諭吉などとも親しくなり、開国論者となり海外渡航をしようと試みますが、許されず、30歳で帰郷し事業を行います。

和歌山県広村には1852年に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して、教育の推進を図ります。
そして1854年にはヤマサ醤油(濱口儀兵衛商店)の七代目当主となります。
そうです。1854年の暮れにあの巨大な東南海地震(安政の大地震)が起きるのです。

地震があった時、濱口梧陵(濱口儀兵衛)は郷里の和歌山県広村におりました。
そのときの様子を手記で残しています。
(手記は ⇒ こちら で紹介されています)

この地震は2度に分かれてきています。
これによると、大地震の前の日の午前10時ころにも大きな地震(東海地震)があり、津波の襲来を予見した梧陵は村人たちを避難させ、家財を八幡神社境内に運ばせたようです。
しかし夜になると波もおとなしく通常に戻ったので人々も家に戻ったのでしょう。

ところが翌日の夕方4時ころに前よりももっと大きな大地震(南海地震)が起こりました。

そしてすぐに津波が押し寄せてきて、自身も多くの人と共に半身水につかり、押し流されて丘陵に漂着して難を逃れたのです。

そして避難所としていた八幡神社に到着して、暗くなってきたのでこの避難場所へのルートを示すために、従者に命じて道の脇に積んでいた稲わら(実際は収穫した稲ではなく、冬場ですので収穫して残された稲わらやすすきなどの草の束)に火をつけて、逃げ遅れた人々に、逃げる方向を知らせたのです。

そして梧陵はその後海岸沿いに防潮堤と防潮林を建設して、その後の災害にも役立ったといわれています。
また地元ではなくなった方もおられましたが、少ない犠牲ですみ、その後の復興にも私財を投げ出し、力を注ぎ、仕事も与え、多くの人々に慕われたといわれています。

小泉八雲が「生き神様」と表現していますが、神社に神様として祀られているわけではありません。
(日本では英雄はよく神社の神様に祀られる場合がありますが)

日本昔話の内容での「儀兵衛」という名前や年齢(30歳)は、実際の話に近いです。ただ、自分の田の収穫した稲わらに火をつけたというところは少し違い、もう脱穀は終わって道路わきに積まれた稲わらのようです。

このように史実と、昔話、またそれを伝え聞いてその時代に人々を感動させるような要素を書き加えて、読み物にする。
これはなかなか面白いですね。

芥川龍之介や小泉八雲の話はオリジナルをはるかに超えて、読む人の心に感動を与えています。

「ふるさと昔話」というジャンルは、これからどうあるべきなのでしょうか?
親が子に話して聞かせる。 祖父祖母が孫に話して聞かせる。 そこには話す人の人生観や暮らしてきた人間の生活の知恵や知りえた別な話しを組み合わせたりもしてよいのでしょう。
そうして話は代々数百年にわたって生きて伝わっていくのだと思います。

伝わっていかないとしたら、そこにすむ人々が何らそれらの意義を感じていないボンクラな人々なのでしょう。

それぞれの地域に伝わる面白そうな話を掘り起こしてそこに息吹を吹き込んでみるのも地域おこしには必要だと思います。

あまりまとまりませんが、この話はここまで。


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地域振興 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/05/16 16:20

外浪逆浦の夕日

  銚子からの帰りに潮来の手前で夕日が沈みそうでした。
そこで鰐川を渡る手前に「なかさ夕日の郷公園」というのがあるのを思い出して立ち寄ってみました。

公園への道は狭くて知らないとなかなか立ち寄ることもないのですが、こうして思い出すのも何かの縁。
丁度高浜や玉里方面からは筑波山の真上に日が沈むダイヤモンド筑波の頃です。

何時もならこのあたりはすでに日が沈んでしまっている時間なのですが、今は日が長いですね。

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小さな公園ですが、夕日の展望台があります。

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ここから「外浪逆浦」に日が沈むのを眺めることができます。

さて、この外浪逆浦って読めますか?  「そとなさかうら」と読みます。

霞ケ浦が汽水湖としてあった時、北浦から霞ケ浦に流れる「鰐川」という川は、このあたりで海水と逆流を受けて波が逆巻いていたようです。

今は利根川と常陸川の銚子側に水門があって、逆流することはほとんどありません。

万葉集には「常陸なる浪逆の海の玉藻こそ引けば絶えすれあどか絶えせむ」との歌が詠まれています。

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空ははあまり夕焼けませんでしたが、この夕日を見ていると何か昔を思い出しそうです。
湖の反対側は田んぼが広がります。

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実は1950年まで、この「外浪逆浦」ともう一つ「内浪逆浦(うちさかうら)」という浦があったそうです。
しかし、この湖のような場所は干拓されて田んぼになったそうです。
また1970年に、潮来ニュータウンが造成され、宅地化されました。

ただ、このような場所は大地震などの時に液状化が起こり、被害が大きくなりますね。

上の写真に見える赤い橋は「鰐橋」と言い、この川を「鰐川」と言います。
橋の向こう側を少し行ったところから北浦が始まります。

鰐川も何か鰐がいたような伝説もあり、波が鰐(ワニ)の様に逆巻いていたのでしょうか。



潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/05/20 19:58

トイレの神様

 「トイレの神様」なんてタイトルだとやはり、植村花菜の長い歌を想像しますよね。
でも今日はトイレに飾る神様(仏様)といわれている「烏枢沙摩(うすさま)明王」のお話です。

先日銚子に行ったときに、久しぶりに飯沼観音にお参りしてきました。

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ここも銚子の中心部で、江戸時代には上野国高崎藩の飯沼陣屋があった。
この飯沼観音も坂東三十三観音の第27番札所で、その前の26番は土浦市の小町の里に近い「清滝寺」です。

銚子の観音様といえばこの飯沼観音で本尊の十一面観音像は秘仏です。
普通は前立の観音像をお参りします。
さて、それはさておき トイレのお話です。

この飯沼観音の境内にトイレがあるのですが、古いためあまりきれいなものとはいえませんでした。

1945年にこの銚子も空襲を受けました。
そして、の寺も多くの建物(多宝塔、観音堂、鐘楼、太子堂など)が焼けてしまいました。

戦後復興整備が進み、平成21年(2009年)に五重塔が建てられました。

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そしてその後いくつかの建物が建てられたのですが、その中に「烏枢沙摩(うすさま)明王堂」という建物があります。

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まあ、これがトイレなのです。内部はよく掃除が行き届いていてとてもきれいです。

そして、ここに入った真正面に「烏枢沙摩(うすさま)明王」のお札がおかれています。(有料)
あまりきれいだし、御札の所にお金入れが置かれているので、有料トイレと思われそうですが、有料とはかかれていません。

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トイレはウォシュレットです。 
まあきれいで申し訳ないように思いますので、お気持ちを料金箱に入れてもよいのでしょう。
海外の公園のトイレなどは有料トイレも多いので、日本もこれからは清掃する人のことを考えて有料化も進んでいくように思います。

さてこの「烏枢沙摩(うすさま)明王」というのは密教の伝来に関係しているように思いますが、不浄なものを焼き尽くす神様といわれています。

この像が有名なところは、加賀百二十万石といわれた、福井県前田家の菩提寺でもある高岡市にある「瑞龍寺(ずいりゅうじ)」です。
加賀藩前田家2代目当主の前田利長(前田利家の嫡男)が何も無かった高岡の町を整備し、工業の発展に努め、前田家菩提寺である金沢の法円寺を高岡の地にももって来て、高岡での前田家の菩提寺にしていたのを、利長が死去したため、3代目の利常が、利長の菩提を弔うために寺を整備して、「瑞龍寺」と名称を変えたものです。

ここに有名な烏枢沙摩(鳥芻沙摩)明王像があるのです。
制作されたのは鎌倉時代といわれている像で、元は寺のトイレに置かれていたといいます。

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お寺まわりなどをしているとトイレにこの「烏枢沙摩明王」が書かれた説明などもたまに見かけます。
ただ今回トイレの神様としてこの明王を載せた、調べてみると、この明王は「穢積金剛」と同じだとの記述を見たからです。

穢積金剛(えしゃくこんごう)については、水戸にある「祇園寺」に「穢積金剛堂」があり、昔このお堂を見に出かけたことがあります。

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また、このお堂とそっくりなお堂が、茨城町の「慈雲寺」にあります。
このお堂の名前は「穢跡(えしゃく)金剛堂」です。慈雲寺は6号国道の涸沼川のところに架かる橋の手前「奥谷」の信号を西に入ったところにあります。

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こちらは「穢跡(えしゃく)」となっていますが、同じ金剛のようです。

いずれも汚れを取り除く神様(仏様)です。

「穢=え」という漢字も日本ではあまり使われません。

江戸時代の身分制度「士農工商」の下の位や部落問題などに使われた「エタ・非人」などという言葉の「エタ」は「穢多」と書き、汚れが多いという意味になります。









神話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/05/23 07:22

チガヤの穂が揺れて

 銚子への道は特に寄り道をしないときは霞ケ浦の北側を通って、潮来から神栖を車で走る。
この神栖は鹿島コンビナートの入り口で道路は広くだんだん良くなっている。

しかしその分殺風景で古いものを探し求めている私には面白味はない。
それでも、メイン通りから裏道へ入ると昔の道が見えてきたり、南北朝時代あたりまで面影をたどることができる。

時間に余裕が無ければ広い道を走るのだが、中心部は片側3車線の道がだいぶ広がった。

中央分離帯も幅広くつくられているが、ここに今の時期はチガヤの白い穂が車が通るたびに日を浴びてキラキラ輝いている。

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ただ車を走らせているだけでは退屈で、この白い穂の戯れを楽しんでいるのだが・・・・・

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しかし、このチガヤを邪魔者扱いにする投稿も結構あるようだ。
たしかにどこからともなく飛んできて一面白い穂が咲く。邪魔と言えば雑草で邪魔なのかもしれないし、そりも大変らしい。

でも見てもらえばわかるが、チガヤが咲いているところには他の雑草が生えない。

それほど背丈も高くならないし、横を通る車の通る風に揺れるさまは意外にも美しい。

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さて、新しく道路整備した中間の分離帯は、こんなコンクリートのようなものが上をおおっている。
どうもコンクリートではなくこれは草除けのシート張っているらしい。

これが1年もするとシートの端や継ぎ目から草が良く伸びだす。
チガヤも邪魔でないなら殺風景な風景には一服の清涼剤のように思うが、如何なのもだろう?

このチガヤ。こんなに白い穂になる前には食べられるのだそうだ。
昔は食べたと聞いた。少し甘いのだとか・・・・

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/05/26 15:12

少彦名とコロボックル

 日本神話に登場する少彦名(すくなひこな)という神様がいる。
前から不思議思っているのだが、いったい何者だろうかと・・・・

大国主がこの日本の国造りをしていたとき、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って海から(波の間から)やってきた。

この船がガガイモの実が半分われて綿毛が飛んで残ったさやの船だといわれている。
こんな船に乗っているのだから当然小人だ。

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そして言葉が通じないので異国からやってきた人物で小人と言えばどこから来たのか・・・などと考えてもわからない。

大国主と国造りを一緒に手伝って、一区切りついたところで稲穂によじ登ってその穂の弾力ではじけ飛んで「常世の国」へ行った。

温泉や、薬の知識があるのでヤマトの人々より文明の進んだ異国人かとも思うが。いかんせんよくわからない。

常世の国というのも一般には元いた世界に戻ったと解釈されているが、常陸国の那珂川あたりにやってきたのではないかと、私は考えたりしている。

少彦名は那珂川の入り口両端にある大洗磯前(いそさき)神社と酒列磯前(さかつらいそさき)神社に祀られているし、少し上流の粟地方にある「阿波山上神社」にはここに少彦名が空から降りてきたとの話が伝わってもいる。

まあ少彦名は小人なので一寸法師のモデルなどとも言われる。

さて、今日はこの少彦名と、北海道のアイヌに残るコロボックルの話が少しダブってきたので考えてみた。

アイヌのコロボックルの話は少しメルヘン調に話が脚色されて、本当の小人でどこかかわいらしいイメージができてしまっているが、実際の話はそんなに小さな小人ではない。

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(絵は講談社「コロボックル物語」特設ページより借用)

竪穴の住居にすんで、ふきの葉の屋根の下に住んでいたりする。
そしてあまり姿を見せないが、話では手の甲に刺青をしているというのもある。

この素早い動きをして、竪穴住居にすんでいるのは昔この霞ケ浦周辺に住んでいたという「佐伯」「土蜘蛛」などと言われた原住民(縄文人)によく似ている。

また刺青をしているというのは、武内宿禰(たけしうちのすくね)が東国を見て回り、都に戻って、日高見国を征服するように景行天皇に進言しますが、その時に、ここに住んでいる原住民は身体に刺青をしていると話している。

元々住んでいた縄文人がコロボックルであったのなら、アイヌは縄文人の子孫ではないのか?
いろいろ疑問が残りますね。

こんなことを考えていたら、すでにいろいろな案が出ているみたいです。

コロボックルを書いた「佐藤さとる」さんの「だれも知らない小さな国」の中で、この少彦名とコロボックルが同じ種族ではないかとの話も書かれているらしい。

「う~ん・・・」

私は昨日あたりから、ちょっと思い浮かんだだけなのだけれど・・・・




まあ「小人」という共通点があるので無理やり結び付けようとしたのがそもそも無理があるかもしれないですね。




神話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/05/26 16:54

気吹戸主

 「気吹戸主(いぶきとぬし)」という神様を御存知ですか?

私は、東国三社の一つと言われている茨城県神栖市にある「息栖(いきす)神社」で、松尾芭蕉が詠んだ句で知りました。
あまり祀られている神社は少ないようです。

   この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し  (芭蕉 : 鹿島紀行)

実は3日ほど前に「トイレの神様」である「烏枢沙摩(うすさま)明王」の紹介をしました。
そこでこの神様を思い出したのです。
少し考えたことでも残しておきたいと思います。

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(日本三霊水「忍潮井」)

「気吹戸主」というのは、この気吹=いぶき という言葉からも大体想像がつきますが、穢い(きたない)ものに息を吹きかけてきれいにしてしまうような力があるのだそうです。

神話の話では、イザナギの尊(伊邪那岐命、伊弉諾神)の尊が、黄泉の国(よみのくに)(死の国)から逃げ帰ってきたときに、筑紫日向の橋の小門(おど)で、身体を洗い、穢れ(よごれ)を洗い流しますが、この流れの中から生まれたのがこの神様だといいます。

そして住んでいるのは「根の国・底の国」です。
この国がどこにあるのかいろいろな説がありますが、私は海底にあるような気がします。

何故なら、大昔、汚いものを川に流して清めていたようです。
今、神社でのお浄めと言ってお祓いをしてもらうことがありますが、このお祓い「祓え給い、清め給え」の神様は全部で4柱あって、この「気吹戸主」もその中の1柱です。

このお浄めの行事が祭などの神事で、神輿を川や海に入って清めるなどという行事につながっています。

まあ、川に流せば海に流れていきますね。
そして何事もなかったようにきれいになる???

原発の汚染水だって、大昔の考えならとっくに海に流していそうなものです。
でもこんなことは許されませんね。

気吹戸主がいくらきれいにしようと息を吹きかけても、こんなに汚染してしまってはどうしようもないでしょう。
原発事故はこの神様をも超えてしまっていると思うと、確かに恐ろしいですね。

さて、息栖神社の祭神はこの気吹戸主ではなく、現在「岐神(くなどのかみ)」(久那戸神ともかく)を祀っています。

「岐(くなど)」というのは道案内の猿田彦などと同じような神様です。
道の分かれ道に立つ道祖神でもあります。

大和朝廷が東国に進出してきたときに、鹿島の大神(鹿島神宮)と舵を取るとされる「香取神宮」との間をさらに進むために、中間の中州の中にこの息栖神社を置いたものと理解していますが、『日本三代実録』(平安時代に書かれた歴史書)では「於岐都説神」と書かれていて、「於岐都説=おきす(せ)=沖洲」がその語源だといわれます。

でも私がこの息栖神社の元宮である「蚕霊神社」を訪れて分かったことは、この元宮が常陸国の三大養蚕神社とも言われることです。
江戸時代の滝沢馬琴もいろいろ調べていたようですが、わからなかったのかもしれません。

この三社の残りは筑波にある「蚕影神社」と日立市にある「蚕養神社」ですが、この常陸の神社は息栖神社「於岐都説」から分霊されたものだといわれています。

何故この神社が蚕の神社になっていったのかはよくわかりません。
でも面白そうですよね。
金色姫伝説などともどこで結びつくのでしょうか?

兵庫県養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が享和2年(1802)に著した養蚕全般に亘る教書である「養蚕秘録3巻」をあらわしています。 これがヨーロッパなどでも翻訳されて絹の製法が世界に広まったようです。

この金色姫伝説はこちらの書物にも出てくるようですが、これは福島県なのか?茨城県なのか?・・・・


神話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/05/27 15:36

一寸法師

 さて、神話がらみで「少彦名」(スクナヒコナ)とコロボックルの話が結びつかないかを考えていた。

でも小人といえば「一寸法師」がいると・・・・

スクナヒコナは大地の神「大国主」が大男のイメージなのに対し、スク(少)=小さい ヒコ(彦)=男をそのまま名前ににしたものだが、穀物の神(五穀豊穣)などとも言われます。

スクナヒコナのイメージが室町時代頃になって、一寸法師の話に生まれて変わったということも考えられるので、この一寸法師についても少しだけ調べてみました。

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昔子供に読んであげた童話の一寸法師の話は、

「私は、都にいって、立派な人になりたいと思います。・・・・・・・・・・・・」

とおばあさんに言って、針をもらい、それを身に着けて刀にし、お椀の舟に乗って、箸を櫂(かいにして漕ぎながら川を下って都に行きますね。

この「都にいって、立派な人になりたいと思います。」のセリフは、当時幼かった私の娘が絵本を読んで、よく口にしていました。
(まあこの娘も 今では立派な2児の母親です)

さて、この一寸法師の話は「御伽草子(おとぎぞうし)」に出てくる話で、昔からあまり変わっていないのかと思っていいました。
しかし、御伽草子の原文を調べてみると、結構違いがあります。

原文は下の方にのせておきますが、大きな違いは

おじいさんおばあさんに子供がいないため、住吉神社にお参りして子供を授かるところまでは同じですが、

いつまでも大きくならない一寸法師におじいさん・おばあさんは

「これは化け物だ。なんでこんな化け物を住吉さんからたまわってしまったのだろうか?
ああ、不憫で情けない。いっそこの子をどこぞにやってしまおうか?」

などと考えているのです。

そしてそれを察した一寸法師は、家にいることができず、自ら都に行くことをおばあさんに告げて、針、お椀・お箸 をもらって、住み慣れた難波(住吉の港)から京へ舟でいくのです。

さてさて、最も大きな違いがあるのが、京に上った一寸法師が、三条の宰相殿のところでお世話になっているときに、この家の十三になる娘に恋をしてしまいます。
そこで、悪巧みともいえる一計を案じるのです。

眠っている姫の口元に、自分が大事にしているお米(神様に供える)の数つぶをそっと塗っておきました。
そして、私の大事なお米を姫が食べたと宰相に訴え出るのです。  ⇒ 「 一寸法師って結構ずるがしこいですよね! 」

これで家を追い出されることになった姫に一寸法師はついて二人旅が始まります。

舟に乗ってやってきたのが見知らぬ島。ここで鬼が出てきて一寸法師を口に入れると、目から出てくるのです。
今読まれている話では、おなかの中を針でつつくのですが、こちらは口から入ると目から出てくるのを繰り返します。

そしてこれにまいった鬼が打ち出の小づちを置いて逃げます。

一寸法師はこの打ち出の小づちに3つのお願いをします。

1) 大きくな~れ。・・・一寸法師は立派な若者になります。

2) (おなかがすいていたので)飯よ出でよ。・・・ 美味しそうな料理がでてきます。

3) 黄金・銀 をたくさん出します。 ・・・金持ちになります。

  ⇒ ちょっと欲が深そうにも思いますね。 
花咲爺さんや、こぶとり爺さん、また舌切り雀などはみな正直者で欲がない爺さんばあさんが主人公ですね。

時代で結構話は変わりそうですね。

室町時代頃には、正義や、親孝行、親への道徳心などはあまりなかったのでしょうか?

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神話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/05/29 07:53

風の会文庫展(6/1~6/3)

 ふるさと風の会も結成12周年を迎え、毎月発行の機関誌と会員の作成した文庫などを展示します。
場所は石岡市の「まちかど情報センター」さんです。

朝10時~5時頃まで(それ以降は無人の展示のみ)

まあ特別な行事もあまり計画していませんが、日頃よりもしこの会に興味がございましたらお気楽にお越しください。

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私も足りなくなっていた本を多少増刷しました。


ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/05/31 16:19
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