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「稲むらの火」は史実、物語、説話? ≪後半≫

 昨日の記事(こちら)の続きです。

 昨日も千葉県の「とっぱずれ」銚子に仕事で出かけて帰りが遅くなってしまいました。
石岡からは片道約90kmほどあり、道は比較的すいているので約2時間~2時間半くらいで到着します。

昨日は坂東33観音の札所でもある飯沼観音にお詣りして、きれいになったトイレの神様「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」にお詣りしてきました。(まあ、御札は有料ですが、トイレは無料で使えます)

さて、「稲むらの火」という話しを知らない人のために少し話の内容と経緯を紹介しておきましょう。

まず、1854年の12月23日と24日発生した「安政大地震」(東海地震と南海地震:共にマブニチュードはM8.4規模)の時の実話がモチューフになった話です。

(実はこの翌年の1855年には江戸安政地震(M7.0前後)が発生し、江戸の町、特に下町は大混乱。水戸藩でも藩邸が倒壊し、藤田東湖らが死亡したことでも知られています)

さて、「稲むらの火」については、「ラフカディオハーン(小泉八雲)」が英文で書いて、それを和歌山県の地元の教員だった「中井常蔵」が訳して書いたものが、当時の小学生の教訓資料として、1937年から10年間にわたって、小学校の国語の教科書に載ったのです。

でもラフカディオハーンが来日したのは1890年であり、安政大地震(東南海地震)より35年以上後のことです。
実はラフカディオハーンはアメリカで新聞記者をしていました。そして来日後もいろいろな記事をアメリカなどで発表しているのです。
「稲むらの火」の元になる話は、1896年6月におきた三陸沖地震で大津波の被害の状況を知って、過去の津波のことを調べていて知ったようです。
そして和歌山県広村の津波の時に民衆を救い、地元では神様のように慕われているという人のことを1896年12月に『大西洋評論』(米国雑誌)に「A Living God」(生き神様)というタイトルで発表したのです。
(この資料は ⇒ こちら で読むことができます)

世に出るきっかけは、和歌山県の教員の「中井常蔵」がまだ師範学校の専攻科の生徒であった時に、英語教材(三省堂発行)として使われていた中に、この話を見つけて「稲むらの火」とタイトルをつけて発表したのです。

(これらの2つの資料:    は ⇒ こちら で読むことができます)

そしてそれが文部省の小学校教材に1937年から10年間使われて世に広まりました。

その教科書の内容は上のサイトで読めるのですが、ここは史実と物語、説話などの違いに興味がありますので、書き下してみましょう。

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第10 稲むらの火
 
 「これはたヾ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかった。
しかし、ゆっこりとした揺れ方と、うなるような地鳴りちは老いた五兵衛に、いままで経験したことのない不気味なものであった。
 
 五兵衛は、自分の家の庭から心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝ふよひ祭りの支度に心を取られて、さつきの地震には一向気がつかないもののやうである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ち沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ。 津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。 此のままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまふ。 もう一刻の猶豫(いとま)は出来ない。
「よし。」と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(あかり)を持って飛出して来た。 そこには取入れるばかりになってゐるたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。 風にあふられて、火の手がぱっと上がった。 一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。 かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。 まるで失神したやうに、彼はそこに突立ったまま、沖のほうを眺めてゐた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。 稲むらの火は天をこがした。 山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけだした。

 高台から見下ろしてゐる五兵衛の目には、これが蟻の歩みのやうにもどかしく思われた。 やっと二十人程の若者がかけ上がって北。 彼らはすぐに火を消しにかからうとする。 五兵衛は大声に言った。
「うっちゃっておけ。 ・・・大変だ。村中の人に来てもらふんだ」
村中の人は、追々に集まってきた。 五兵衛は、後から後から上がって来る老若男女を一人ひとり数へた。 集まって来た人々はもえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを代わる代わる見くらべた。

 其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。

「見ろ。 やってきたぞ。」

 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。 遠く海の端に細い、暗い一筋の線が見えた。 其の線は見る見る太くなった。 広くなった。 非常な速さで押し寄せて来た。

「津波だ」

と誰かが叫んだ。 海水が絶壁のやうに目の前に迫ったと思ふと、山がのしかかって来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとを以て、陸にぶつかった。 人々は我を忘れて後ろへとびのいた。 雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。

 人々は、自分等の村の上を荒狂って通る白い恐ろしい海を見た。 二度三度村の上を海は進み又退いた。

 高台では、しばらく何の話し声もなかった。 一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなった村をただあきれて見下ろしてゐた。

 稲むらの火は風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりをあかるくした。 初めて我にかへった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

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もう一つ、日本昔話に収録されているお話を載せておきましょう。

「昔、和歌山の広村に儀兵衛(ぎへい)という男が住んでいました。生来の恥ずかしがり屋のため30歳すぎても独身でしたが、隣に住む綾(あや)さんが大好きでした。

ある夏の夕暮れ、その日は村祭りで、綾さんと婆さんが神社に出かけていきました。儀兵衛もワクワクしながら小ざっぱりした着物に着替えていた時、突然グラグラと長い横揺れが起こりました。儀兵衛は「長い地震の後には津波が来る」と村の古老から聞いたことを思い出し、海を見ました。

すると、海の水がものすごい勢いでどんどん沖に引き始めました。儀兵衛は大急ぎで松明(たいまつ)に火をつけ神社に走りましたが、津波の到達するまでにはとても間に合わないと思いました。そこで、稲刈り後の田にあった稲むらに火をつけて気づいてもらおうと考えました。

しかし儀兵衛は、他人の稲に火をつける事にためらいを感じ、自分の田んぼの稲むらに火をつけました。メラメラと燃え上がる稲むらからはモクモクと煙が上がり、祭りに夢中になっていた村人たちも気が付きました。火事を消そうと駆けつけた村人たちに、儀兵衛は「津波が来ているから山へ逃げろ」と声をかけ、婆さんを背負い綾さんと一緒に駆け出しました。

もう目の前に津波が迫ってきていました。村人たちは必死になって山を駆けのぼりました。儀兵衛たちが最後に山へ登りきった時と津波が村を飲み込んだのは、ほとんど同時でした。幸いにも村の中で誰一人死んだ者はなく、人々は村の惨状を眺めながら口々にお礼を言いました。

そのうち儀兵衛は村人と力を合わせ、高くて長い堤防を築きました。これには、妻となった綾さんも尽力しました。」

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どうですか?
二つを読み比べても設定が少し違っていますね。
1)五兵衛と儀兵衛 の名前が違う
2)老人と若者とで、大分年齢に差がある。また上では村の庄屋さんの設定で元々高台に住んでいる。
3)昔話には嫁さんが出てくるし、堤防を築いた話がある。

でも一見して読むと、最初の教科書の話の方が真実に近いように思いますね。
でも実際は日本昔話のほうがどちらかといえば実際のお話に近いようです。

さて、最初に書いたラフカディオハーン(小泉八雲)がこの話を知ったのは、現地ではなく数十年後の三陸沖地震のときです。また八雲は和歌山の現地には行っていません。

また、ラフカディオハーン(小泉八雲)が書いた耳なし芳一や雪女、むじなやろくろっ首などの怪談話はどんな話が元にあるのでしょうか? またジャンルの区分けはどうなるのでしょうか。

これらの怪談話も結構面白いですよね。「むじな」などは「のっぺらぼう」などのはなしですが、この話は、東京赤坂に近い「紀国坂」の話です。

むかし私が高校生の時に友達と二人で、夏休みの宿題をやりに、甲府の知り合いの旅館に泊まったことがあります。
夜に怪談話をしようということになり、これらの怪談話を少し話したのですが、友達は全く知らなかったと言って大いに面白がってくれたことが思いだされます。

さて、本題に少し戻って、お話のフィクションと実際の話のギャップを少し見ていきましょう。

お話「稲むらの火」話は和歌山県広村で起こった話として伝わっています。
そしてこのモデルになったのが千葉県銚子にあるヤマサ醤油の第七代目当主の濱口儀兵衛(梧陵)です。

濱口梧陵は和歌山県広村の出身で、濱口分家の子でしたが、12歳で銚子の本家(濱口儀兵衛)の養子になります。

その後、江戸に出て福沢諭吉などとも親しくなり、開国論者となり海外渡航をしようと試みますが、許されず、30歳で帰郷し事業を行います。

和歌山県広村には1852年に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して、教育の推進を図ります。
そして1854年にはヤマサ醤油(濱口儀兵衛商店)の七代目当主となります。
そうです。1854年の暮れにあの巨大な東南海地震(安政の大地震)が起きるのです。

地震があった時、濱口梧陵(濱口儀兵衛)は郷里の和歌山県広村におりました。
そのときの様子を手記で残しています。
(手記は ⇒ こちら で紹介されています)

この地震は2度に分かれてきています。
これによると、大地震の前の日の午前10時ころにも大きな地震(東海地震)があり、津波の襲来を予見した梧陵は村人たちを避難させ、家財を八幡神社境内に運ばせたようです。
しかし夜になると波もおとなしく通常に戻ったので人々も家に戻ったのでしょう。

ところが翌日の夕方4時ころに前よりももっと大きな大地震(南海地震)が起こりました。

そしてすぐに津波が押し寄せてきて、自身も多くの人と共に半身水につかり、押し流されて丘陵に漂着して難を逃れたのです。

そして避難所としていた八幡神社に到着して、暗くなってきたのでこの避難場所へのルートを示すために、従者に命じて道の脇に積んでいた稲わら(実際は収穫した稲ではなく、冬場ですので収穫して残された稲わらやすすきなどの草の束)に火をつけて、逃げ遅れた人々に、逃げる方向を知らせたのです。

そして梧陵はその後海岸沿いに防潮堤と防潮林を建設して、その後の災害にも役立ったといわれています。
また地元ではなくなった方もおられましたが、少ない犠牲ですみ、その後の復興にも私財を投げ出し、力を注ぎ、仕事も与え、多くの人々に慕われたといわれています。

小泉八雲が「生き神様」と表現していますが、神社に神様として祀られているわけではありません。
(日本では英雄はよく神社の神様に祀られる場合がありますが)

日本昔話の内容での「儀兵衛」という名前や年齢(30歳)は、実際の話に近いです。ただ、自分の田の収穫した稲わらに火をつけたというところは少し違い、もう脱穀は終わって道路わきに積まれた稲わらのようです。

このように史実と、昔話、またそれを伝え聞いてその時代に人々を感動させるような要素を書き加えて、読み物にする。
これはなかなか面白いですね。

芥川龍之介や小泉八雲の話はオリジナルをはるかに超えて、読む人の心に感動を与えています。

「ふるさと昔話」というジャンルは、これからどうあるべきなのでしょうか?
親が子に話して聞かせる。 祖父祖母が孫に話して聞かせる。 そこには話す人の人生観や暮らしてきた人間の生活の知恵や知りえた別な話しを組み合わせたりもしてよいのでしょう。
そうして話は代々数百年にわたって生きて伝わっていくのだと思います。

伝わっていかないとしたら、そこにすむ人々が何らそれらの意義を感じていないボンクラな人々なのでしょう。

それぞれの地域に伝わる面白そうな話を掘り起こしてそこに息吹を吹き込んでみるのも地域おこしには必要だと思います。

あまりまとまりませんが、この話はここまで。


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地域振興 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/05/16 16:20
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