新旧のはざまで・・・
霞ケ浦北岸の国道355線で小美玉市から行方市に入ってすぐのところに三昧塚古墳があります。
横の国道を通りながら黄色の花と白い綿毛の穂が一面に揺れていたので写真に収めてきました。

タンポポのような黄色の花は、前に記事にしたときに教えていただいた「ブタナ」でしょう。
ブタなどと言わずにきれいだと愛でてあげたいです。

奥に揺れる白い穂は「チガヤ」でしょう。
今の時期にしかこのコラボレーションはみられません。
植えたわけでは無いでしょうが、草刈りもこの周りはしているのですが、古墳のまわりは残されています。

三昧塚古墳は湖岸の工事で一時消滅の危機にありました。
たまたま通りかかった県の職員の発見により貴重な古墳であることが判明し、復元されました。
しかし、形はいかにも現代風な角ばった形をしています。
この少し人工的な姿のためか、意外にこの古墳が重要な古墳だということに気が付きにくくなっているのかもしれません。
金の王冠に周りに馬の飾りが動くたびに揺れる「金銅製馬形飾付冠」が見つかったのです。
いまは茨城県歴史博物館(水戸)にて保存され、複製されたものが歴史館で展示されています。

(金銅製馬形飾付冠:茨城県歴史館所蔵)

(茨城県立歴史館の再製レプリカ(復元品))
ここは、古の風を感じながら、少し公園風にアレンジされた古墳の上に立って、この外来種などの花が揺れるその先に霞ケ浦と筑波山が見渡せるのです。
新旧の風が交差しているのを感じることのできる場所です。
横の国道を通りながら黄色の花と白い綿毛の穂が一面に揺れていたので写真に収めてきました。

タンポポのような黄色の花は、前に記事にしたときに教えていただいた「ブタナ」でしょう。
ブタなどと言わずにきれいだと愛でてあげたいです。

奥に揺れる白い穂は「チガヤ」でしょう。
今の時期にしかこのコラボレーションはみられません。
植えたわけでは無いでしょうが、草刈りもこの周りはしているのですが、古墳のまわりは残されています。

三昧塚古墳は湖岸の工事で一時消滅の危機にありました。
たまたま通りかかった県の職員の発見により貴重な古墳であることが判明し、復元されました。
しかし、形はいかにも現代風な角ばった形をしています。
この少し人工的な姿のためか、意外にこの古墳が重要な古墳だということに気が付きにくくなっているのかもしれません。
金の王冠に周りに馬の飾りが動くたびに揺れる「金銅製馬形飾付冠」が見つかったのです。
いまは茨城県歴史博物館(水戸)にて保存され、複製されたものが歴史館で展示されています。

(金銅製馬形飾付冠:茨城県歴史館所蔵)

(茨城県立歴史館の再製レプリカ(復元品))
ここは、古の風を感じながら、少し公園風にアレンジされた古墳の上に立って、この外来種などの花が揺れるその先に霞ケ浦と筑波山が見渡せるのです。
新旧の風が交差しているのを感じることのできる場所です。
ふるさと風の会展
本日から3日間 ふるさと風の会の展示会を石岡「まちかど情報センター」で開催しています。
本日は10時に本や過去の会報などを持ち込み飾りました。
会員の兼平ちえこさんの常世の五百面相の絵を壁一面飾り、入り口部分に円柱にアレンジした葭簀の壁面にも飾っています。

風邪が入ってくると顔がゆらゆら揺れます。

部屋の中央に本日一日中いたのですが、たくさんお観客に囲まれているようでにぎやかな感じでいい気分でした。

私の本も展示させていただきました。
興味をもってお話させていただいた方や、FBのお仲間も来てくれました。
ありがとうございました。
明日、明後日(土日)もやっていますのでお近くに来れれましたらお立ち寄りください。
本日は10時に本や過去の会報などを持ち込み飾りました。
会員の兼平ちえこさんの常世の五百面相の絵を壁一面飾り、入り口部分に円柱にアレンジした葭簀の壁面にも飾っています。

風邪が入ってくると顔がゆらゆら揺れます。

部屋の中央に本日一日中いたのですが、たくさんお観客に囲まれているようでにぎやかな感じでいい気分でした。

私の本も展示させていただきました。
興味をもってお話させていただいた方や、FBのお仲間も来てくれました。
ありがとうございました。
明日、明後日(土日)もやっていますのでお近くに来れれましたらお立ち寄りください。
潮来のアヤメ
先日銚子に行く途中で潮来のアヤメ園に立ち寄りました。
5月末よりあやめ祭りが始まっていますので、平日とはいえ結構人が来ていました。
この時季にやはりのこのアヤメ(実はほとんどが花ショウブ)を見ておかねばなりませんね。

まだ始まったばかりですが、すでに花はほぼ満開でした。
いつもならこの時期はまだ早い感じだったとも思ったのですが、今が見ごろです。
あやめ娘も赤い傘をさして園内をぐるぐる回っていました。

前川あやめ園の園内にはアヤメ、カキツバタ、花ショウブの違いを説明する看板があちこちに置かれています。
でも何回も見たり聞いたりしても覚えられません。
まあ覚える気がないといった方が正直な気持ち。
私にとってはどちらでもいいのです。

前川あやめ園から前川の上流へ前川12橋めぐりの舟が出ています。

潮来の十二橋めぐりは加藤洲の方を廻る船をいいますが、こちらの川をさかのぼる船も人気です。
まあほかに楽しみも少ないからでもありますが・・・・
一度乗れば次は乗ら無いかもしれませんね。

歴史的に見ればこの前川は霞ケ浦の北浦からこちらの常陸利根川をつなぐ川で、江戸時代にはこの川沿いに東北の藩などの河岸倉庫が結構あったようです。

仙台あたりからも、江戸時代中期までは船が外洋を銚子沖を通るのは事故も多く敬遠されたのです。
このため、水戸で涸沼へ舟で入り、荷を陸に揚げ、陸路を北浦まで運んでまた北浦からこの前川沿いに並んでいた河岸の倉庫まで運び、少し大型の舟に乗せ換えて風待ちをして利根川経由で江戸まで運びました。
そんな歴史の説明は地元の観光案内にはあまり書かれていません。
潮来花嫁さんばかりではなく、そんな河岸跡を探してみても楽しいと思います。
5月末よりあやめ祭りが始まっていますので、平日とはいえ結構人が来ていました。
この時季にやはりのこのアヤメ(実はほとんどが花ショウブ)を見ておかねばなりませんね。

まだ始まったばかりですが、すでに花はほぼ満開でした。
いつもならこの時期はまだ早い感じだったとも思ったのですが、今が見ごろです。
あやめ娘も赤い傘をさして園内をぐるぐる回っていました。

前川あやめ園の園内にはアヤメ、カキツバタ、花ショウブの違いを説明する看板があちこちに置かれています。
でも何回も見たり聞いたりしても覚えられません。
まあ覚える気がないといった方が正直な気持ち。
私にとってはどちらでもいいのです。

前川あやめ園から前川の上流へ前川12橋めぐりの舟が出ています。

潮来の十二橋めぐりは加藤洲の方を廻る船をいいますが、こちらの川をさかのぼる船も人気です。
まあほかに楽しみも少ないからでもありますが・・・・
一度乗れば次は乗ら無いかもしれませんね。

歴史的に見ればこの前川は霞ケ浦の北浦からこちらの常陸利根川をつなぐ川で、江戸時代にはこの川沿いに東北の藩などの河岸倉庫が結構あったようです。

仙台あたりからも、江戸時代中期までは船が外洋を銚子沖を通るのは事故も多く敬遠されたのです。
このため、水戸で涸沼へ舟で入り、荷を陸に揚げ、陸路を北浦まで運んでまた北浦からこの前川沿いに並んでいた河岸の倉庫まで運び、少し大型の舟に乗せ換えて風待ちをして利根川経由で江戸まで運びました。
そんな歴史の説明は地元の観光案内にはあまり書かれていません。
潮来花嫁さんばかりではなく、そんな河岸跡を探してみても楽しいと思います。
潮来長勝寺の沙羅双樹の花
潮来の前川あやめ園を後に、源頼朝ゆかりの古刹「長勝寺」に立ち寄りました。
ここは桜の時期の訪れていますのでそれ以来です。
この寺に「沙羅双樹」と名札に書かれた大木が本堂手前に聳えています。
そこにこの時期に花が咲くのです。


どうですか? これが沙羅双樹の花だそうです。
「え?」 違うよ という声が聞こえてきそうですね。
そうですよね。平家物語に書かれている
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。・・・・・」
この名調子は昔結構覚えましたよ。
お釈迦様が入滅したときにシャラの木が四隅に2本ずつ双樹(沙羅双樹)となって全部で8本植えられたいたのが、その死を悲しんで沙羅双樹(しゃらそうじゅ)が一夜にして枯れて、一面に白い花が咲き鶴が降りて来たような風景となったといわれているのですが、これがどんな花なのかが私には良くわかっていないのです。
兵庫県にある鶴林寺などの名前の由来がこの伝説によるといわれています。
平家物語の表現は「盛者必衰」をあらわすものですので、平家が栄華を極めていたが、これが滅びるのはいつの時代も決まっていることだということを表現する花は? ということで今では「夏椿」を沙羅双樹と言っている記事がたくさんあります。
確かに春椿の白い花は1日で散り、翌日には次の花が咲きます。
夏椿の木の下には落ちた白い椿の花でいっぱいになります。
これがこの「「盛者必衰」のイメージに近いこともあるでしょうが、インドの沙羅双樹とはだいぶ違うのだとか言われています。
日本では温室でないとそだたないし、めったに花を見られないとか・・・・
では潮来のこの「沙羅双樹」の木は??
どなたかわかる人がいたら教えてください。
日本で唯一沙羅双樹が見られるところとして紹介されているが、草津水生植物園だそうですが、ここの花は


何かこれとも少し違っているように見えます。
ここは桜の時期の訪れていますのでそれ以来です。
この寺に「沙羅双樹」と名札に書かれた大木が本堂手前に聳えています。
そこにこの時期に花が咲くのです。


どうですか? これが沙羅双樹の花だそうです。
「え?」 違うよ という声が聞こえてきそうですね。
そうですよね。平家物語に書かれている
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。・・・・・」
この名調子は昔結構覚えましたよ。
お釈迦様が入滅したときにシャラの木が四隅に2本ずつ双樹(沙羅双樹)となって全部で8本植えられたいたのが、その死を悲しんで沙羅双樹(しゃらそうじゅ)が一夜にして枯れて、一面に白い花が咲き鶴が降りて来たような風景となったといわれているのですが、これがどんな花なのかが私には良くわかっていないのです。
兵庫県にある鶴林寺などの名前の由来がこの伝説によるといわれています。
平家物語の表現は「盛者必衰」をあらわすものですので、平家が栄華を極めていたが、これが滅びるのはいつの時代も決まっていることだということを表現する花は? ということで今では「夏椿」を沙羅双樹と言っている記事がたくさんあります。
確かに春椿の白い花は1日で散り、翌日には次の花が咲きます。
夏椿の木の下には落ちた白い椿の花でいっぱいになります。
これがこの「「盛者必衰」のイメージに近いこともあるでしょうが、インドの沙羅双樹とはだいぶ違うのだとか言われています。
日本では温室でないとそだたないし、めったに花を見られないとか・・・・
では潮来のこの「沙羅双樹」の木は??
どなたかわかる人がいたら教えてください。
日本で唯一沙羅双樹が見られるところとして紹介されているが、草津水生植物園だそうですが、ここの花は


何かこれとも少し違っているように見えます。
潮来長勝寺の阿弥陀如来三尊
アヤマ祭りの期間中に長勝寺を訪れると、本堂の扉が開かれています。
そして、中央にご本尊の阿弥陀如来坐像が安置されています。
阿弥陀如来坐像及両脇侍像(県指定文化財):
鎌倉時代前期~中期に製作されたヒノキ材を使った定朝様(じょうちょうよう)の寄木造りです。
眼は玉眼(水晶)がはめ込まれています。

像高は阿弥陀如来89.4cm、観音菩薩(向かって右)107.5cm、勢至菩薩(向かって左)106.3cmです。
この阿弥陀如来三尊像はそれほど大きいものではありませんので、鎌倉あたりで製作されたものかもしれません。
仏師名はわかりませんが「運慶」という伝承もあるようです。
ただ顔の表情などはよく見えないので、その力強さは感じられませんでした。
身体の肉付きはよくどっしりとしていて、鎌倉時代の特徴をあらわしています。
鎌倉と言えば鎌倉の大仏様、これも阿弥陀如来像です。 同じ定印を結んでいます。

中央須弥壇の手前、向かって左側には十大弟子のひとり「迦葉(かしょう)」の大(摩訶)迦葉立像が安置されています。
こちらも県指定文化財です。
これは頭部が14世紀の南北朝時代で、体部は江戸時代の1698年に製作されたものです。
水戸光圀がこの像を修復し、十大弟子の迦葉にあてたことが判明しています。
向かって右側には潮来市指定文化財の「毘沙門天立像」が安置されています。
これら本堂に安置されている仏像もこのあやめ祭りの期間はこうして扉が開いていますので拝顔することができるようです。
普段は閉まっているためにほとんど中が見えません。そのため、この時季にうかがうことも楽しみの一つです。
そして、中央にご本尊の阿弥陀如来坐像が安置されています。
阿弥陀如来坐像及両脇侍像(県指定文化財):
鎌倉時代前期~中期に製作されたヒノキ材を使った定朝様(じょうちょうよう)の寄木造りです。
眼は玉眼(水晶)がはめ込まれています。

像高は阿弥陀如来89.4cm、観音菩薩(向かって右)107.5cm、勢至菩薩(向かって左)106.3cmです。
この阿弥陀如来三尊像はそれほど大きいものではありませんので、鎌倉あたりで製作されたものかもしれません。
仏師名はわかりませんが「運慶」という伝承もあるようです。
ただ顔の表情などはよく見えないので、その力強さは感じられませんでした。
身体の肉付きはよくどっしりとしていて、鎌倉時代の特徴をあらわしています。
鎌倉と言えば鎌倉の大仏様、これも阿弥陀如来像です。 同じ定印を結んでいます。

中央須弥壇の手前、向かって左側には十大弟子のひとり「迦葉(かしょう)」の大(摩訶)迦葉立像が安置されています。
こちらも県指定文化財です。
これは頭部が14世紀の南北朝時代で、体部は江戸時代の1698年に製作されたものです。
水戸光圀がこの像を修復し、十大弟子の迦葉にあてたことが判明しています。
向かって右側には潮来市指定文化財の「毘沙門天立像」が安置されています。
これら本堂に安置されている仏像もこのあやめ祭りの期間はこうして扉が開いていますので拝顔することができるようです。
普段は閉まっているためにほとんど中が見えません。そのため、この時季にうかがうことも楽しみの一つです。
息栖神社の社殿
鹿島・香取の両神宮と共に東国三社として知られる「息栖神社(いきすじんじゃ)」。
久しぶりに立ち寄りました。

他の二つの神社と比べると、その規模は比べ物にならないほどこじんまりしたものです。

ここが江戸時代に東国三社をめぐる信仰の対象となったことも忘れられそうです。
江戸時代には関東以北の人々は伊勢神宮参拝後に「下三宮参り」としてこの三社を巡る慣習もあったようです。

どんな順番に回っていたのでしょうか?
良くわかりませんが、「鹿島発ち」などといって、鹿島神宮から廻るという考え方もあったようです。

今回拝殿前に茅の輪が置かれていました。

さて、今回問題にしたいのはこのコンクリート製の社殿です。
何とも味気ないのです。

(拝殿裏に本殿がありますが、こちらもコンクリート製です)
この社殿は、昭和35年に火災で焼失し、3年後の昭和38年に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。
それまでの社殿がどんなものであったのか? 調べると江戸時代の享保7年(1722年)に作られたもので華麗なものであったと書かれています。
ではその姿は? ネットで写真を探したけれど出てきませんので、戦前絵葉書を探してみました。
ありましたよ。潮来観光用の一種のようです。

これが社殿(拝殿)です。

こちらの門は今のものと同じですが、奥に見える社殿(拝殿)は違いますね。
神門は1847年製です。こちらは火事にあわなかったのです。
絵葉書では「楼門(ろうもん)」と書かれているようですが何故でしょうか?
基本的に楼門は2階建ての門ですね。それにお寺の門に多いと思います。
もっとも石岡にある善光寺の楼門は2階建てにするために材料を用意したけど1階だけ造ってやめたものだし、行方の西蓮寺は最初は2階建てだったけれど、途中で1階建てに改築したものです。それでも楼門と言っています。
いろいろありますね。

息栖神社の前の川にはこのような帆掛け船が・・・
「息栖神社は、天界の神舟が舞い降りる津」(津は港のこと)というイメージはわきません。
そういえば吉田松陰が水戸から銚子に行くときに、鹿島から潮来へ出て潮来から船に乗り、息栖に立ち寄って食事をとり、銚子手前の松岸へ着いたのは夜遅かった。当時松岸は遊郭があってにぎわっていた。
夜遅かったのも、帆の風待ちのためだと思うので帆かけ船だったと思う。
小林一茶が七番日記の文化14年(1817年)の5月に鹿島から潮来へ出て1泊し、潮来から船で卯上刻(朝5時~6時)に出発しています。 一茶は55歳でした。
潮来(板久)の俵屋(宿)の宿賃が150文、潮来から銚子への船賃が264文です。
銚子についたのは未下刻ですから午後2時~3時ころですね。 この船賃264文は現在では8000円くらいのようです。
結構時間がかかっていますので、松陰と同じように、この息栖あたりで降りてのんびりと食事でもしたのではないでしょうか?

こうしてネットで探してみるといろいろなものがわかるものですね。
潮来や息栖、それに銚子あたりのことを調べているとこの一茶の7番日記も時々出てくるのですが、私にとってはその前に立ち寄っているところも気になりますね。
・5月22日(晴)竜ヶ崎から女化原を通って土浦へ 稲市村近江屋弥五右衛門宅で1泊
・5月23日(晴)高浜で本間松江に会い、小川の今出屋惣八宅に1泊
・5月24日(晴)小川の本間家(医師)のところに1泊
・5月25日(晴)小川から4里離れた(北浦近くにある)化蘇沼稲荷神社に馬で送ってもらう。帆津倉(行方市三和、北浦)に1泊
・5月26日(晴)川(北浦)を越え、札村の普門寺へ。そこから鹿島詣でをして 大船津から舟で潮来側へ。
この札村は昔の常陸国鹿島郡にその名前がある。北浦沿いの東側。阿玉の少し南側だ。旧大洋村のようだ。
あっ! そうかこれは常陸国風土記に出てくる白鳥の説話の舞台の一つ白鳥山普門寺(鉾田市札)のことだ。
ここは無人の荒れ果てている寺でまだ行ったことがない。今度行ってみよう。
調べていると面白いことが次々出てきてきりがない。
今日も別にやっておかなければならないことがたくさんあるので、これ以上調べるのは後にしよう。
一茶日記に出てくる地名や人名もわからないものがたくさんある。
調べてみたいが・・・まあきりがないかな。
さて、東国三社(鹿島、香取、息栖)が二等辺直角三角形に並んでいることはよく知られていますが、これも西暦806年にこのような位置関係になるように、息栖神社を今の位置に移したために成立したものです。
平安時代の初期にこんなことが行われていたのですから、当時の測量の技術もかなりあったもののようです。
久しぶりに立ち寄りました。

他の二つの神社と比べると、その規模は比べ物にならないほどこじんまりしたものです。

ここが江戸時代に東国三社をめぐる信仰の対象となったことも忘れられそうです。
江戸時代には関東以北の人々は伊勢神宮参拝後に「下三宮参り」としてこの三社を巡る慣習もあったようです。

どんな順番に回っていたのでしょうか?
良くわかりませんが、「鹿島発ち」などといって、鹿島神宮から廻るという考え方もあったようです。

今回拝殿前に茅の輪が置かれていました。

さて、今回問題にしたいのはこのコンクリート製の社殿です。
何とも味気ないのです。

(拝殿裏に本殿がありますが、こちらもコンクリート製です)
この社殿は、昭和35年に火災で焼失し、3年後の昭和38年に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。
それまでの社殿がどんなものであったのか? 調べると江戸時代の享保7年(1722年)に作られたもので華麗なものであったと書かれています。
ではその姿は? ネットで写真を探したけれど出てきませんので、戦前絵葉書を探してみました。
ありましたよ。潮来観光用の一種のようです。

これが社殿(拝殿)です。

こちらの門は今のものと同じですが、奥に見える社殿(拝殿)は違いますね。
神門は1847年製です。こちらは火事にあわなかったのです。
絵葉書では「楼門(ろうもん)」と書かれているようですが何故でしょうか?
基本的に楼門は2階建ての門ですね。それにお寺の門に多いと思います。
もっとも石岡にある善光寺の楼門は2階建てにするために材料を用意したけど1階だけ造ってやめたものだし、行方の西蓮寺は最初は2階建てだったけれど、途中で1階建てに改築したものです。それでも楼門と言っています。
いろいろありますね。

息栖神社の前の川にはこのような帆掛け船が・・・
「息栖神社は、天界の神舟が舞い降りる津」(津は港のこと)というイメージはわきません。
そういえば吉田松陰が水戸から銚子に行くときに、鹿島から潮来へ出て潮来から船に乗り、息栖に立ち寄って食事をとり、銚子手前の松岸へ着いたのは夜遅かった。当時松岸は遊郭があってにぎわっていた。
夜遅かったのも、帆の風待ちのためだと思うので帆かけ船だったと思う。
小林一茶が七番日記の文化14年(1817年)の5月に鹿島から潮来へ出て1泊し、潮来から船で卯上刻(朝5時~6時)に出発しています。 一茶は55歳でした。
潮来(板久)の俵屋(宿)の宿賃が150文、潮来から銚子への船賃が264文です。
銚子についたのは未下刻ですから午後2時~3時ころですね。 この船賃264文は現在では8000円くらいのようです。
結構時間がかかっていますので、松陰と同じように、この息栖あたりで降りてのんびりと食事でもしたのではないでしょうか?

こうしてネットで探してみるといろいろなものがわかるものですね。
潮来や息栖、それに銚子あたりのことを調べているとこの一茶の7番日記も時々出てくるのですが、私にとってはその前に立ち寄っているところも気になりますね。
・5月22日(晴)竜ヶ崎から女化原を通って土浦へ 稲市村近江屋弥五右衛門宅で1泊
・5月23日(晴)高浜で本間松江に会い、小川の今出屋惣八宅に1泊
・5月24日(晴)小川の本間家(医師)のところに1泊
・5月25日(晴)小川から4里離れた(北浦近くにある)化蘇沼稲荷神社に馬で送ってもらう。帆津倉(行方市三和、北浦)に1泊
・5月26日(晴)川(北浦)を越え、札村の普門寺へ。そこから鹿島詣でをして 大船津から舟で潮来側へ。
この札村は昔の常陸国鹿島郡にその名前がある。北浦沿いの東側。阿玉の少し南側だ。旧大洋村のようだ。
あっ! そうかこれは常陸国風土記に出てくる白鳥の説話の舞台の一つ白鳥山普門寺(鉾田市札)のことだ。
ここは無人の荒れ果てている寺でまだ行ったことがない。今度行ってみよう。
調べていると面白いことが次々出てきてきりがない。
今日も別にやっておかなければならないことがたくさんあるので、これ以上調べるのは後にしよう。
一茶日記に出てくる地名や人名もわからないものがたくさんある。
調べてみたいが・・・まあきりがないかな。
さて、東国三社(鹿島、香取、息栖)が二等辺直角三角形に並んでいることはよく知られていますが、これも西暦806年にこのような位置関係になるように、息栖神社を今の位置に移したために成立したものです。
平安時代の初期にこんなことが行われていたのですから、当時の測量の技術もかなりあったもののようです。
紫陽花も静かに
昨日の大阪での地震はニュースで見るだけですが、被害にあわれた方にはお見舞い申し上げます。
小学校のプールの壁が倒れたなどこちらは人災ですね。
学校の耐震化にはかなり気を使っていてもこの構造などはまさにずさんでした。
日本全国で見直しが必要なところがありそうです。
こちらでは揺れなかったのですが、東日本の時を思い出しました。
日曜日に風土記の丘(公園)に立ち寄り紫陽花を見てきました。

こちらの紫陽花はきれいなブルーです。
酸性土壌なのでしょうね。

この時期はスカシユリも咲くのですが、今回は入り口付近で紫陽花を眺めるだけです。
日曜日でもあまり人出はありません。静かですね。

まあブログの記事がないときに前は時々こちらに写真を撮りに来ていましたが、最近はブログも飛び飛びなのでこちらに来るのも桜の時以来です。

入口の高台に藤棚があります。
5月の連休頃に藤色と白の2種類の藤の花が咲きます。
今は種が垂れ下がり・・・・

藤棚から静かな公園の風情を眺めるのは比較的すきです。
会津から移築した藁ぶき屋根の民家、竜神山の姿に・・・ また筑波山も眺められます。

小学校のプールの壁が倒れたなどこちらは人災ですね。
学校の耐震化にはかなり気を使っていてもこの構造などはまさにずさんでした。
日本全国で見直しが必要なところがありそうです。
こちらでは揺れなかったのですが、東日本の時を思い出しました。
日曜日に風土記の丘(公園)に立ち寄り紫陽花を見てきました。

こちらの紫陽花はきれいなブルーです。
酸性土壌なのでしょうね。

この時期はスカシユリも咲くのですが、今回は入り口付近で紫陽花を眺めるだけです。
日曜日でもあまり人出はありません。静かですね。

まあブログの記事がないときに前は時々こちらに写真を撮りに来ていましたが、最近はブログも飛び飛びなのでこちらに来るのも桜の時以来です。

入口の高台に藤棚があります。
5月の連休頃に藤色と白の2種類の藤の花が咲きます。
今は種が垂れ下がり・・・・

藤棚から静かな公園の風情を眺めるのは比較的すきです。
会津から移築した藁ぶき屋根の民家、竜神山の姿に・・・ また筑波山も眺められます。

湛慶(運慶の長男)の子犬と子供の顔
最近仏像に少し興味があります。 先日フェースブックに投稿していたのだが、こちらにもコピーを残しておきます。
調べて記事にしたりもしていますが、鎌倉のリアリズムを代表する運慶の長男「湛慶(たんけい)」の作品に見るべきものを発見。
先日の運慶展にも出品された京都高山寺の狗児(子犬)の像。 なかなかかわいい。これとそっくりな子供の仏像が高知県桂浜に近い雪渓寺にある。
湛慶が1225年頃50才代の円熟していたころの作品。
毘沙門天像の左の善膩師童子(ぜんにしどうじ)の顔がそっくり。

(京都高山寺 狗児(子犬)の像 湛慶作)

(高知雪渓寺 善膩師童子の顔 湛慶作)

(高知雪渓寺 毘沙門天像と善膩師童子(向かって左)・吉祥天(右) 湛慶作)

(吉祥天の顔)
右側の像は吉祥天で毘沙門天の妻、善膩師童子はこの2人の子供(5人兄弟の末っ子)。なかなか仏像も奥が深そうだ。
調べて記事にしたりもしていますが、鎌倉のリアリズムを代表する運慶の長男「湛慶(たんけい)」の作品に見るべきものを発見。
先日の運慶展にも出品された京都高山寺の狗児(子犬)の像。 なかなかかわいい。これとそっくりな子供の仏像が高知県桂浜に近い雪渓寺にある。
湛慶が1225年頃50才代の円熟していたころの作品。
毘沙門天像の左の善膩師童子(ぜんにしどうじ)の顔がそっくり。

(京都高山寺 狗児(子犬)の像 湛慶作)

(高知雪渓寺 善膩師童子の顔 湛慶作)

(高知雪渓寺 毘沙門天像と善膩師童子(向かって左)・吉祥天(右) 湛慶作)

(吉祥天の顔)
右側の像は吉祥天で毘沙門天の妻、善膩師童子はこの2人の子供(5人兄弟の末っ子)。なかなか仏像も奥が深そうだ。
茨城の難読地名(その1)-随分附(笠間市)
本ブログでも時々、気になる地名などがあると、それを考察したりして書いてきましたが、少しまとめておきたくなりました。
今回新たにカテゴリに「茨城の難読地名」を追加して時々書いていきたいと思います。
更新の頻度はまだ未定ですが、これを完成するのはかなり大変そうですのでのんびりいきましょう。
まず、第1回目は「随分附」です。
随分附 【なむさんづけ】 笠間市(旧友部町)
この漢字はなかなか読めないですね。
いったいどんなところから名前がつかられているのでしょうか?
これがさっぱり判らないという代表的な地名かもしれません。
<角川日本地名大辞典>
地名の由来については、目下の者に自分の身分に随って、そのつとめを果たすように申し付けるという意味で、「なふさつ」が転訛したもの(新編常陸国誌)
と説明にはあり、これが現在の正式な見解のようです。
新編常陸国誌というのは、江戸時代の初めに徳川光圀(黄門さん)がまとめた『古今類聚常陸国誌』をもとにして、これを補うために江戸時代の後期の国学者「中山信名(なかやま・のぶな)」がまとめた歴史書ですが、中山信名の死後に、土浦の学者「色川三中(いろかわみなか)」などが追加や訂正などをして完成しています。
しかし、笠間市でもこの説明だけではよく理解できず、「アイヌ語説」「仏教語説」などもあるという言い方をしています。
「随分」とは「ずいぶん」と読みますよね。
この現在使われている意味は「はなはだ」「非常に」など限度を超えていることの表現に使われます。
しかし、本来の意味は「分(ぶん)に随う(したがう)」という意味で、身分相応という意味でしたが、これが、「身分や自分の出来る範囲で十分に」などの意味となって、現在の意味になったと考えられています。
この意味がわかると、新編常陸国誌などに書かれた意味もなんとなくわかってきます。
でもまだスッキリしませんね。それはこの身分に応じてというけれど、「何故この場所にそんなことばが発生したのか?」ということがまったく説明に無いためです。
でも、江戸時代の学者先生もたぶんわかっていれば書いていたでしょうから、きっとよくわからないでいたのでしょう。
では、私がこれを判るかといえば、これはとてもわかりません。
ただ「随分」が現在の意味に成ったのは鎌倉時代頃のようですので、それ以前の奈良、室町時代の頃、またはその前から使われていた地名なのでしょう。
その時代にこの地にどのような身分の人が住んでいたかがわかれば、きっとこの意味も理解できるような気がします。
少し視点を変えて、まわりの地形やその他の地名などに何かヒントは無いでしょうか?
「随分附」の場所を地図で眺めてみました。場所は常磐高速道と北関東道とが交差する「友部ジャンクション」の少し北側です。
近くを涸沼川(ひぬまがわ)の支流である「枝折川」が流れており、この川沿いの低地が広がる肥沃そうな場所一帯が「随分附」と呼ばれている地域です。
この「枝折川」は一級河川で「しおりがわ」と読みます。
Webの辞書では「えだおれがわ」と呼び名が書かれていますが、これはおかしいと思われます。
昔、道の別れ道などに折った枝を置いて、帰るときの道しるべなどにしていました。
これが「枝折」で、本にはさむ「しおり(栞)」の語源と成っています。
新潟の只見湖ちかくにある「枝折峠」は「しおりとうげ」と読みます。
その他にも「枝折山」などの名前も各地にあり、ほとんどが「しおり」と読ませています。
さて、じっくりと地図を見ていると気になる地名が近くにたくさん散見されます。
この涸沼川と枝折川」が合流するあたりに「長菟路(ながとろ)」「仁古田(にこだ)」「土師(はじ)」「安居(あご)」「押辺(おしのべ)」などです。
この「安居(あご)」には古代の官道の駅家(うまや)が置かれていました。
石岡(常陸国府)の鹿の子(かのこ)遺跡の場所から、水戸市の那珂川沿いにある「渡里(わたり)、長者山(ちょうじゃやま)」まで古代の官道がまっすぐにつながっていました。この途中にある馬を常時置いていた駅家(うまや)が恐らく涸沼川の川近くにあったと考えられています。
また水戸から筑波山への参拝街道として「瀬戸井街道」が知られていますが、この道は現在の県道30号線(岩間街道)のルートとほぼ同じ処を通っており、この随分附にも宿場がありました。
この随分附と岩間との間に「土師(はじ)」という地名があるのですが、これが何か「随分附(なむさんづけ)」にかかわっているような気がします。
「土師器(はじき)」ということばがあるように、これは昔の素焼きの土器で、この土器を焼く人たちのことを一般に「土師」と表記していたと考えられます。
でも「土師」は元を辿れば、古代豪族の名前で、古墳時代(4世紀末~6世紀始め頃)に古墳を築造したり、この古墳に入れる装飾品をつくる身分の氏族に与えられた名前です。
また、この土師器が作られていたのは、古墳時代から鎌倉時代の前、すなわち平安時代頃までだったようです。
これは「随分(なふさ:なむさん)」が「身分に随って」というような意味に使われていた時代に近いように思います。
古墳時代には近くに「ナムサン付遺跡」があります。
さて、近くの地名の「仁古田(にこだ)」ですが、参考になるのが、東京の西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」という地名です。
「えごだ」という響きが古臭いので、駅名は「えこだ」に変えたものと思いますが、この名前は、おそらく川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所についた名前だと感じています。
かすみがうら市の神立には「江後田(えごた)」という地名もあり、ここは霞ヶ浦に注ぐ「菱木川」の最上流の場所です。
また、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名ですが、土浦の高津貝塚遺跡で説明を受けた時に頂いた「古代の道」という冊子では、この「長菟路」は、この古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論されていましたが、こちらは、「長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・」などと漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんあり、私としては、この名前は、川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈しています。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべますが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っています。
また「押辺(おしのべ)」だが、これは「押戸」などと同じで川に舟を押し出す場所という意味ではないかと考えています。
これもあくまで私の推論を含めた参考にしか過ぎません。
(関連地名)
・長菟路(ながとろ)
・仁古田(にこだ)
・安居(あご)
・土師(はじ)
・押辺(おしのべ)
今回新たにカテゴリに「茨城の難読地名」を追加して時々書いていきたいと思います。
更新の頻度はまだ未定ですが、これを完成するのはかなり大変そうですのでのんびりいきましょう。
まず、第1回目は「随分附」です。
随分附 【なむさんづけ】 笠間市(旧友部町)
この漢字はなかなか読めないですね。
いったいどんなところから名前がつかられているのでしょうか?
これがさっぱり判らないという代表的な地名かもしれません。
<角川日本地名大辞典>
地名の由来については、目下の者に自分の身分に随って、そのつとめを果たすように申し付けるという意味で、「なふさつ」が転訛したもの(新編常陸国誌)
と説明にはあり、これが現在の正式な見解のようです。
新編常陸国誌というのは、江戸時代の初めに徳川光圀(黄門さん)がまとめた『古今類聚常陸国誌』をもとにして、これを補うために江戸時代の後期の国学者「中山信名(なかやま・のぶな)」がまとめた歴史書ですが、中山信名の死後に、土浦の学者「色川三中(いろかわみなか)」などが追加や訂正などをして完成しています。
しかし、笠間市でもこの説明だけではよく理解できず、「アイヌ語説」「仏教語説」などもあるという言い方をしています。
「随分」とは「ずいぶん」と読みますよね。
この現在使われている意味は「はなはだ」「非常に」など限度を超えていることの表現に使われます。
しかし、本来の意味は「分(ぶん)に随う(したがう)」という意味で、身分相応という意味でしたが、これが、「身分や自分の出来る範囲で十分に」などの意味となって、現在の意味になったと考えられています。
この意味がわかると、新編常陸国誌などに書かれた意味もなんとなくわかってきます。
でもまだスッキリしませんね。それはこの身分に応じてというけれど、「何故この場所にそんなことばが発生したのか?」ということがまったく説明に無いためです。
でも、江戸時代の学者先生もたぶんわかっていれば書いていたでしょうから、きっとよくわからないでいたのでしょう。
では、私がこれを判るかといえば、これはとてもわかりません。
ただ「随分」が現在の意味に成ったのは鎌倉時代頃のようですので、それ以前の奈良、室町時代の頃、またはその前から使われていた地名なのでしょう。
その時代にこの地にどのような身分の人が住んでいたかがわかれば、きっとこの意味も理解できるような気がします。
少し視点を変えて、まわりの地形やその他の地名などに何かヒントは無いでしょうか?
「随分附」の場所を地図で眺めてみました。場所は常磐高速道と北関東道とが交差する「友部ジャンクション」の少し北側です。
近くを涸沼川(ひぬまがわ)の支流である「枝折川」が流れており、この川沿いの低地が広がる肥沃そうな場所一帯が「随分附」と呼ばれている地域です。
この「枝折川」は一級河川で「しおりがわ」と読みます。
Webの辞書では「えだおれがわ」と呼び名が書かれていますが、これはおかしいと思われます。
昔、道の別れ道などに折った枝を置いて、帰るときの道しるべなどにしていました。
これが「枝折」で、本にはさむ「しおり(栞)」の語源と成っています。
新潟の只見湖ちかくにある「枝折峠」は「しおりとうげ」と読みます。
その他にも「枝折山」などの名前も各地にあり、ほとんどが「しおり」と読ませています。
さて、じっくりと地図を見ていると気になる地名が近くにたくさん散見されます。
この涸沼川と枝折川」が合流するあたりに「長菟路(ながとろ)」「仁古田(にこだ)」「土師(はじ)」「安居(あご)」「押辺(おしのべ)」などです。
この「安居(あご)」には古代の官道の駅家(うまや)が置かれていました。
石岡(常陸国府)の鹿の子(かのこ)遺跡の場所から、水戸市の那珂川沿いにある「渡里(わたり)、長者山(ちょうじゃやま)」まで古代の官道がまっすぐにつながっていました。この途中にある馬を常時置いていた駅家(うまや)が恐らく涸沼川の川近くにあったと考えられています。
また水戸から筑波山への参拝街道として「瀬戸井街道」が知られていますが、この道は現在の県道30号線(岩間街道)のルートとほぼ同じ処を通っており、この随分附にも宿場がありました。
この随分附と岩間との間に「土師(はじ)」という地名があるのですが、これが何か「随分附(なむさんづけ)」にかかわっているような気がします。
「土師器(はじき)」ということばがあるように、これは昔の素焼きの土器で、この土器を焼く人たちのことを一般に「土師」と表記していたと考えられます。
でも「土師」は元を辿れば、古代豪族の名前で、古墳時代(4世紀末~6世紀始め頃)に古墳を築造したり、この古墳に入れる装飾品をつくる身分の氏族に与えられた名前です。
また、この土師器が作られていたのは、古墳時代から鎌倉時代の前、すなわち平安時代頃までだったようです。
これは「随分(なふさ:なむさん)」が「身分に随って」というような意味に使われていた時代に近いように思います。
古墳時代には近くに「ナムサン付遺跡」があります。
さて、近くの地名の「仁古田(にこだ)」ですが、参考になるのが、東京の西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」という地名です。
「えごだ」という響きが古臭いので、駅名は「えこだ」に変えたものと思いますが、この名前は、おそらく川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所についた名前だと感じています。
かすみがうら市の神立には「江後田(えごた)」という地名もあり、ここは霞ヶ浦に注ぐ「菱木川」の最上流の場所です。
また、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名ですが、土浦の高津貝塚遺跡で説明を受けた時に頂いた「古代の道」という冊子では、この「長菟路」は、この古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論されていましたが、こちらは、「長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・」などと漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんあり、私としては、この名前は、川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈しています。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべますが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っています。
また「押辺(おしのべ)」だが、これは「押戸」などと同じで川に舟を押し出す場所という意味ではないかと考えています。
これもあくまで私の推論を含めた参考にしか過ぎません。
(関連地名)
・長菟路(ながとろ)
・仁古田(にこだ)
・安居(あご)
・土師(はじ)
・押辺(おしのべ)
茨城の難読地名(その2)-木葉下(水戸市)

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
木葉下 【あぼっけ】 水戸市
「木葉下」は茨城の難読地名で最も有名なものの1つです。
「あぼっけ」と読むのですが、この謂れについてはかなりいろいろな説があります。
1、「角川日本地名大辞典」(茨城県)によるといくつかの説を列挙している。
(1)鎮守香取神社を下総国香取神宮から勧請(かんじょう)して遷座する際に榊葉の裏に御影を顕したということによるという説
(2)山肌の崩れた所を「ばっけ」、赤土が露出した崖地を「あかばっけ」などといいそれが転訛したという説。(新編常陸国誌)
また、木葉下の字は当地に大樹の美蔭があったことによるという説。
を挙げています。また縄文時代の小鍋遺跡、古墳時代の大鍋遺跡がある。 と書かれています。
2、「今昔 水戸の地名」(堀口友一著)には、「慶長三年(1598)の検地帳(佐竹氏が行った検地)にはアホツケ村とある。高田与清氏によれば、ホケはハケまたはカケで、山の岨(そま)などの土のかけやすいことから起こった語であるという。木葉下とはそのような場所の大樹の陰の意味であるといわれる。西端に水戸市で最も高い朝房山がある。この朝房の下にあることからアボ下の地名が起こったとも考えられる。」
と書かれています。これは上の(2)とほぼ同じです。
3、「常陸国風土記と古代地名」(鈴木健著)には、「この山(朝房山)の直下に水戸市大字木葉下(アボッケ)という珍しい地名があり、そこに朝房下という小字がある。もし他にアサ○○のサが脱落してア○○となるような類例があれば、朝房下は、アサボウイシタ⇒アボウシタ⇒アボウケ⇒アボッケとなり得る。・・・・・・・・
また「もしこの山が人が寝ているように見えたとすると、[a-ア・一般称。人にあたる言葉]、{hotke ほッケ・寝る} アイヌ語ではp・t・kが隣にあった場合、前のものが後のものに同化するので、hotke は hokke となるからアホッケ。古くからこの山をアボッケ(ヤマ)=人が寝ている(山)と呼んでいたことはなかっただろうか。やがてそこから、朝寝坊という連想が生まれ、アボッケのアボと朝寝坊が重なり、アサボウ山と呼ばれ、アボッケの方はケが下ということで、山下の地の名前に変わったのではないだろうかと考えてみたこともあった。・・・・・
これはアボッケを朝房山や朝寝坊伝説と関連づけた話しであり、地形から見ると、[pokぽク・下]・{pa-keぱケ・出崎の突端の崖}=下の崖ふち がある。その発音に木葉下(ボク・バ・ケ)が当てられ、山茶花(サン・サ・カ)の発音が(サザンカ)と逆転したようにハバッケとなった。あるいは、そのpakeの転と思われrが、関東で崖をカケとかバッケと言うので、崖下をハケシタとかバッケシタと言ったことが考えられる。・・・・・などと書いています。
鈴木健さんはアイヌ語というより「縄文語」を研究されている方です。
確かに東京小金井市の駅の南側の一段下がった崖(国分寺崖線)の下に続く道は「はけの道」と呼ばれています。
ここでは「ハケ=崖下」の意味に使われていますね。
その他四国の「大歩危(オオボケ)・小歩危(コボケ)」などのボケもおなじような崖地を表す言葉かもしれません。
でもこの木葉下(アボッケ)を私は何度も訪れているのですが、どうもこの崖下というイメージがわいてこないのです。
水戸の市内から来ると確かに山間の薄暗い場所で起伏もあります。また近くにたくさん古墳があり、大きな古墳公園もあります。
しかし、アボッケが崖地についた名前でしたら、他にも候補は山ほどあり、わざわざこんな場所にはつけないのではないかと思うのです。
昔の地形はよくわかりませんが、今から想像すると「崖」というのは少しイメージが違います。
そこでもう一つ別な解釈をネットで探してみました。
4、アボッケは古朝鮮語で「焼き物を焼く里」で、粘土などの意味もある・・・ということを書いている人がいました。
根拠があいまいなのですが、この説明があっているとすればイメージ的にはとてもよく合います。
この近く(木葉下三ケ野地区)には奈良時代の須恵器を焼いた窯跡があり、約40基の登り窯があったことが確認されていて、「木葉下遺跡」と呼ばれています。
ここから出土した瓦は、いわゆる台渡里廃寺「徳輪寺」の後期の造営に用いられたものということがわかっています。
何かこちらの関係が強いのではないかと私には思われます。
(関連地名)
・大足 【おおだら】
・全隈 【またくま、またぐま】